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神田雑学大学 平成19年8月24日 講座No372


                        
紫禁城の画像に中国、国費留学生4千人とのふれあいのタイトル、五十嵐 勝講師の名前




目次

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プロフィール
1.最初のふれあい
2.生活苦からの逃避と留学生たちとの生活
3.私たちの生活が映画になった
4.破産、皆さんに助けられて
5.その後の留学生との関わり



講師の五十嵐 勝氏プロフィール

1942年生まれ。福島県会津出身。私費で来日する中国人留学生の多くは、アルバイトなどで学費や生活費をまかなわなけばならず、厳しい状況に置かれている。そんな彼等の生活を助けようと、千葉県船橋市で青果店を経営する五十嵐勝さんはこの26年間で4000人以上の中国人留学生の面倒を見、留学生から「日本のお父さん」として信頼されている。1989年には大林宣彦監督による映画「北京的西瓜」のモデルになり、1992年には中国留学生後援協会を設立している。

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1.最初のふれあい

私は1942年、昭和17年に福島県会津生まれで、その後いわきで育ち、いろいろありまして現在の千葉県船橋に来まして八百屋をはじめました。早いものでもうこんなに毛がなくなるまでになりました。

私の八百屋の近くに日中文教協会寮というのがありました。そこには中国からの国費留学生が150人くらいいまして、寮費は15000円だったと思います。皆さん朝から晩まで勉強をしていますが、船橋までいくとお金がかかるというので西船橋まで自転車で通って、それから東大に行ったり水産大学に行ったり慶大に行ったりした人たちが沢山いました。その当時彼等が国から貰うお金はたしか8万円だったと思います。その中でやりくりして一生懸命勉強するのです。

私が最初にその留学生たちにあった時は、一見普通の人たちという感じでほうれん草を買いに来たりしていましたが、驚いたのは来るたびに決まって「まけろまけろ」なんですよ。50円のものだったら30円、100円のものだったら50円というかたちで値切るのです。私も仕入れ値もありますし、そのころはがちがちの金儲け主義でしたから、「なに言っているんだ、ひとが買って来たものを散々値切って」と思い、どうしたら彼等から儲けられるようになるかを色々考えました。

それで考えたのが時間帯で値段を書き変えることです。留学生がうちの店に来るのは3時から5時の間なんですね。それでこの時間帯には80円のほうれん草は100円にしておくのです。それを値切られて「うーん」なんて言いながら80円にして売ったのですが、何日かたった後、一生懸命勉強している彼等がなにも疑いもなく「八百屋さんまけてくれてありがとう」という姿を見たとき、やっぱりこんなごまかしをしていてはいけないなと思ったのです。

まあ 私も父を早く亡くして母一人で育てられ、「勉強しろ勉強しろ」と言われながらお金がなくて、夜間の学校を出たこともあって、お金がなくて勉強している人をみると身につまされるのですね。そして80円のものは80円で売るようになおし、また値引きも出来るかぎりする様になりました。そうするとあの国特有の口コミで「やー変な面白い親父さんがいてまけてくれる」という話になってどんどん買いに来る学生が増えました。

八百屋という商売は売れ残ると困るのです。ところが留学生が残り物は全部安く買っていってくれるようになり、うちの店はきれいになって、翌日ならぶ商品の鮮度もよくなるわけです。それにあの人たちのよいところは一旦買ったら返品しないのです。西瓜を割ってみて赤くなくてピンクだったとしても絶対に返品しません。

なんとかして食べてくれます。日本人はちょっとピンクだとうまくないとか言って取替えに来ますがね。それと中国留学生は金払いはよいですね。値切るけれどきちんとお金は払ってくれる。よくちまたで中国人による色々な事件やよくない評判をききますが、私は今までお金の問題でだまされたと思うことは一度もありません。日本人には騙されますがね。

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2.生活苦からの逃避と留学生たちとの生活

中国の国費留学生との関わりは1980年くらいから始まったのですが、1983年に時の内閣総理大臣中曽根さんの10万人を日本に呼ぼうという話がありまして、1985年あたりから上海付近の日本語学校に行っていた人たちが私費学生として来始めまして、数も増えてきました。日本文化とか色々なものが分からなくて、ただ来るものですから、まわりに迷惑をかけて混乱したという時期もありました。

1987年になりまして上海の日本語学校が金儲け主義に走り、卒業証を1万円でどんどん発行したのです。その段階で中国人は日本に行けると思い、実際沢山の私費留学生が来るようになり始めました。実際は日本の入管が許可しないと日本にはいれないのです。1985年あたりから日本政府は私費学生と国費留学生を分けまして、国費留学生は4−1−6という入管番号だったのです。

私費学生は4−1−16−3でした。入管ははっきりとこのグループを分けて管理していましたが、私たちは国費学生も私費学生も留学生と言っていました。私費学生は一般の日本語学校に入っている方で、その方々の目標は日本語学校で勉強して将来日本の大学に入って、少し小遣いでも貯めて帰ろうという方が多かったような気がします。

後になると、お世話をしてあげて親しくなって帰った方々が、こんどはうちの子供を頼むということになり、私の家に名刺一枚持って子供が訪ねてくるようになりました。ひどいときは3人くらい来まして、そちらは日本語が分からない、こちらは中国語が分からない、トイレにいくのにも一騒ぎということになりました。その度に寮に行きまして寮の方々に通訳をしてもらってなんとかしのいだのです。

彼等に「何故うちに来たのか」と聞くと「お父さんにあそこに面白い八百屋がいるから行けと言われました」と言うのです。そんな人が3人も来て御覧なさい。円満な家も円満ではなくなりますよ。家内は怒るし、お金はなくなるし、商売にも影響し、もう家族との葛藤は大変なものがありました。国費留学生たちは日本語が上手なのですが、私費留学でくる人は全然駄目な人が多いので余計手間と時間がかかるのです。

彼等を見ていると日本の文化と彼等の文化がずいぶん違うことに気がつかされます。アパートはみんな安いところに入ります。チンジャーロースなんてすごい火を焚いた料理をします。大家さんがもう火事になるかと吃驚してしまって、そのたびに「五十嵐さんなんとかしてくれ」という話になるのです。


熱心に話を聞く受講生



それで「ここは日本なので注意するように」と言いますとみんな「大丈夫」と言うのです。大丈夫ではないと言うんですがね。そして無理して勉強したり学費を稼いだりする関係で身体を壊します。日本にはこういう時助けてくれるボランティアはいます。でもせいぜい病院とそこの場所を教えてあげるまでです。私は「ちょっと待ってろ」とすぐ車で行きます。お医者さんまで行って、付き添って診てもらいます。すると最後に診療費がないという話になります。しかたがないからそれを出したりするうちにどんどんお金がなくなっていきます。

人間いったん悪くなると不思議なもので、店の商売も悪くなって来るのです。今まで沢山仕入れていた市場からも少ししか仕入れられない。それも売れ残って、翌日に元気のない野菜が並ぶようになalる。すると男って言うのは面白いもので、そこから逃げるようになるんですね。そして向こうから中国の留学生が来ると、もう「ニーハオ、ニーハオ」なんて言ってね、こっちから擦寄るようになるんですよ。

あれほどお金がかかって嫌がっていたお世話の仕事を「何かない?」とか「引越しはない?」とか「だれか成田に来ない?」とか聞くようになるんです。ですからこの時期は一カ月に4,5回成田に行きましたよ。迎えに行ったり送って言ったり引越しを手伝ったり、色々なことをしました。

私は今50万円あって、「さあ市場に買出しに行こう」というとき留学生が困ったという話があると、当時はなんの考えもなく、「いいよ持っていきな」といい格好しましね。そうしているうちに市場の鑑札まで取られてしまって、市場で買出しができなくなりました。そうすると一層現実から逃げるようになります。

1987年からうちの家計はものすごくきつくなりました。自転車があれば留学生にあげてしまったり、中国の留学生がどこかの自転車を持ってきてしまってお巡りさんに呼び出された時も、「五十嵐さんから貰った」なんて言いましたから、私が今度は呼び出されるし、まあ滅茶苦茶でそれでもお世話をすることで生き甲斐をみつけている感じでしたね。

そして自分ひとりでは限界があるということで協会を作りました。中国留学生後援協会ということで会報なんかも出しましたね。これもお金がかかりまして力尽きまして1998年くらいに止める様なかたちになりました。その活動は秋には梨狩り、4月には清里へバス2台で旅行、あとは月に一度はうちの店の二階で餃子パーティをやりました。それは楽しかったですね。10坪のなかに30人くらい集まってやりました。その後片付けが大変ですがね。

私がなぜ中国の方々と仲良くなったか、いまでも仲良く付き合っているかというとお互い秘密がいっぱい共有しているからです。それを二人だけの物にしておくのです。北京に行ったりして古い友人にあっても、過去の警察に捕まった話とか2人だけの思い出を話すのが一番親密な時間になりますね。色々な問題が各人ありましたからね。

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3.私たちの生活が映画になった

砂の器とか八甲田山とかいう映画を作られた川鍋兼雄さんと言う方がいらして、そのひとは橋本忍プロダクションにいたのですね。1988年のあるとき川鍋さんが私のところに来て、あなたのことを映画化したいって言うんですね。映画化って言ったって、八百屋で毎日中国の留学生の世話ばっかりやっていて、家の中に入れば子供と奥さんに白い目で見られている自分が何でと正直驚きましたね。

橋本忍とは何者だろうと思って電話をかけて確認したりして、本当の話ではないんだろうとも疑っていましたが、川鍋さんはその後何回もいらして、話は具体化しました。最初のキャスティングは私の役が武田鉄也さん、家内の役が竹下景子さんでした。それでやろうということになりまして、中国に連絡して協力依頼をしたりしましたが、どうも中国側の対応が遅くて、なんだかんだといっているうちに武田鉄也さんから渥美清さんに主演が代わりました。

そのころ寅さんシリーズの人気が落ちてきまして、松竹もなにか新しい路線はないかと探していたようですね。それで八百屋が中国に行ってどたばたをやるような話を考えたのではないでしょうか?題名も最初は「馬鹿春北京に行く」という題名でしたね。

そんなことで紆余曲折はありましたが1989年に脚本が出来あがりました。脚本は「はぐれ刑事」をやった方で石松愛甲さんという方が書きました。そして監督が大林宣彦さんに決定し、私の役はベンガルという俳優さんに決まりました。家内の役は母袋さん、そのほか浅香光代さんとか柄本さんとか根岸さんとかで脇を固めて1989年の2月25日 八百春の近くに大林さんはセットを作りまして、撮影が始まりました。セットの方の八百屋にほうれん草を置いて撮影します。ところがセットの方のほうれん草が本物の八百屋の店頭のものより生きがいいのですよ。セットの方のほうれん草を売ってくれなんてお客さんに言われましたね。

「北京の西瓜」という題になりましたのでとにかく西瓜を沢山使いました。西瓜を沢山並べるのですね。その時期は2月でしたからハウス栽培の西瓜しかなくて、西瓜は高いんですよ。大林さんは当時3000円くらいで買ってくれました。私はなんとか安いものをやりくりしようと、市場に行って穴の空いている傷物の西瓜を1000円くらいで仕入れて来ましてね、それでも大林さんは3000円で買ってくれるのですよ。助かりました。

ですが実際に西瓜を切るシーンになって大林さんに「五十嵐さん穴のあいていない西瓜はないですかね」と言われた時にはあせりましたね。またうちの家内はエキストラで儲けましたね。大勢の地元の人を集めることもしました。ずいぶんこの撮影では我が家の家計は金銭的に助かりました。

そんなことをしながら時はたって1989年の4月25日に国内の撮影は終わりました。さあ北京に行こうとなった6月4日天安門事件が起きたのです。でもその時も中国の留学生は北京、上海から2組くらい来たんですよ。迎えに行きました。そんなタイミングで天安門事件が影響し、日本人はみんな中国が嫌いだという雰囲気が漂う中で11月18日に松竹系で封切されました。映画は散々でした。

カンヌに出すつもりで松竹は進めていたのですが、天安門事件のことがありまして、やめたのです。でもこの映画は日本ではヒットしませんでしたが、香港、台湾、シンガポール、カナダ、アメリカなどでは見る人が多く、評価されたと聞いています。日本でも客の入りとは別に作品の評価は高く、1989年の映画賞で山路文子賞とか毎日映画賞なんかを頂いた記憶があります。

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講師の五十嵐 勝氏4.破産、皆さんに助けられて

日本における中国語学習の先駆けであられた日中学院の創設者倉石武四郎先生を記念する倉石賞というのが1989年に出来ました。日中友好に寄与した人に差し上げるということで、その年の11月5日に光栄にもその第一回の倉石賞を家内と共に頂きました。お金は80万円でした。その時の日中学院の先生が挨拶で述べられたことは、「五十嵐さんにはこの賞金はさしあげませんよ。

奥様に差し上げます。」でした。そのお金は次の日市場に行って支払ったら何もなくなってしまいました。そんな苦しい生活のなか、映画でちょっと有名になりました。また人民日報がかなり大々的に書いてくれまして中国ではかなり有名になりました。当時の中国人留学生で一番人気のある日本人は中曽根首相ではなくて五十嵐勝だというのから始まって、色々私の中国留学生との関わりを書いて、最後に五十嵐さんの考えと日本政府の考えが一体となったとき真の日中友好が出来ると書いてありましたね。

映画が終わりまして2000年にかけて本当に食べるものにも事欠くような生活をしました。でも留学生は毎日毎日来ます。ですから家はさしおさへです。借金の利息を返すのがやっとという状況でした。そのうち右翼がやって来まして、「お前は右も左もなく本当に中国のことを考えている。感心だから手を貸そうか」なんていうことになりまして、私は藁をもつかむ気持ちですから一緒について行って、共同住宅ローンというのがあったのですが、右翼の人がそこの偉い人に掛け合ってくれて、差し押さえを解いてもらったことがありました。

そんなことをしているうちに、2000年朝日新聞の夕刊に「中国留学生の宿消える」という記事が出ました。そしたら今度は「五十嵐勝を助けよう」とか色々な話が巻き起こりまして、新潟のあるおばちゃんは「五十嵐勝っていうのは新潟の朱鷺みたいなもんだ。あまりいないし大切に育ててあげたい」なんて書いてきて、3000円送ってくださった人もいます。それから「五十嵐勝を助ける会」というのが出来ましてそこがどんどんカンパを集めました。そのうちにジャッキーチェンさんなんかも来まして、家内と私にホテル大谷に来いということになって、行ったんですよ。

花なんて一杯飾ってあって、うちの家内と並べされて、むこうから格好いいジャッキーチェンが来まして、私に100万円くれたのです。そして同時にユネスコから100万円頂きました。その日の夕刊ではジャッキーチェンが200万円くれたという話で出まして、それからテレビは来るはラジオは来るは凄いんです。マスコミの人たちには何を書かれるか分かりませんからね。もう来るたびに最敬礼でいい記事を書いてもらおうと大変でしたね。お金がないのに無理して果物を送ったりしました。そんなことも効いたのかあまり悪い記事は書かれずにすみました。

そんなことで、お金が2000万円ほど集まりました。日本の方々はいい人が一杯いますね。中にはやくざもいましてね。やくざはやくざの看板は出していませんが慈善団体を沢山持っているのです。自分たちが悪いことをしている自覚があるので毒消しをするのでしょうね。

それで500万のお金をくれた方がいましたが、助ける会の事務局の人がそれを使ってしまったという事件が起きました。このほかにもその人はやっていて、トータルで2000万のうちからなんだかんだ1200万くらい抜いたんです。私はお金のことはあまり分からなかったのです。その人は杉並の区会議員でしたが選挙にお金が必要だったようです。最後には国際文化交流協会の方々が埋めてくれました。

私は全国からの浄財を自分の為だけに使う気にはどうしてもなれず、そのとき中国の湖南省の方で大雨が降ってどうしょうもないという記事が出たので、2000万円のうちの1000万円を、使ってくださいと新華社に持っていったんです。そしたら新華社の人は私たちはそれは出来ませんって言って受け取らないのです。

感心しましたね。それで私はそのお金を旧満州地区の長春、瀋陽,大連、新京の吉林大学に100万円ずつ持って行きました。何かに使ってくださいと差し上げました。瀋陽には瀋陽加工学園に50万持って行きました。大連には星野浦に時計を寄付しました。そのとき大連のトップと会いました。「五十嵐さん50万の時計はこんなに大きいですよ」と言われました。そして大連理工大学に100万円寄付しました。その金利で日本帰りの留学生の懇親会が続いているらしいです。あとは北京に行きまして、帰国した留学生の大きい会があるというので私は150万持って行きましたね。

残った1000万円は八百屋の再建に使わせて頂きました。まず住宅のローンが大変でした。民間のローンの催促は右翼の人が止めてくれるのですが、住宅金融公庫は何ともなりません。金額はもともと550万なんですが、ここはお金を払わないとどこか天下り先か何かにその債権を売ってしまうのですね。それで金利が高くなって、550万の金が1100万円になってしまっているのです。それで「おまえ金が入ったんだから返せ」と催促がすごいんです。そこの人は言うんですよ。

「あなたの考え方は間違っている。普通の人は月30万円収入があったら、そのうちの10万円はローンの返済に充て、残ったお金をやり繰りして生活する。ところがおまえは30万円をすべて中国留学生のために使ってしまって、ローンも返さない。催促すると支援者がいて、ひどいひどいと会社まで抗議の電話が来たりする。困った人だ。お願いだから早く払いなさい。」

でもね、国に借りているのに550万円が1100万円になるというのはどうにも納得がいかない、「まけてくれまけてくれ」としつこく言いましてね。結局650万円で折り合い、支払いました。そして残りの350万で市場の鑑札を買い戻し、ようやく八百屋を再開するようになれました。

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5.その後の留学生との関わり

そのあたりから中国留学生も国費から私費が多くなりました。私費の方々は勉強というよりも半分ビザをとる手段で留学しますから、お金を貯める、自由を満喫するほうに比重が移りましたね。ケ小平さんの改革開放路線から中国も変ってきましたね。4つの経済特区を作って、2000年になってからは、南の方に行って「白い猫でも黒い猫でも鼠を取る猫が良い」とか言ったり、

「早く良くなる人から良くなろう」というような話が出て、それがみんなに浸透して今の中国になったんですが、私もそのケ小平理論はいいなあと思いました。中国の留学生のお手伝いをするのもいいけれど、自分がやっぱりきちんとやっていかないといけない、人様に迷惑をかけるような日中友好をやっていたんでは、

これから日中友好のボランティアをやる人たちにも良い例ではなく悪例になると思い、徐々に活動を小さくしていきまして、来る人は面倒見るが自分からは出て行かないというかたちに変えました。そして自分の専門の八百屋をまずきちんとしようということで、八百屋を一生懸命やりました。今はだいぶ八百屋の商売も展開してきて食べられるようになっています。

昔 国費留学生で来ていた人たちは今は驚くほど高い地位に出世しています。そしてお金も持っています。中国に行きますと凄い歓迎をしてくれます。中南海だとか迎賓館に泊めてもらう経験なんてなかなか日本では経験できません。胡耀邦さんにもお会いしましたね。それから周恩来の奥様、劉少奇の奥様、孫平花さんなどにもお会いしましたね。

日本から帰って偉くなって有名なのは、とうかせんさん。ぶたいいさん。おおきさんなど沢山いますね。中国では新華社の経験とか軍隊の見学とか色々信じられないような経験させてもらいました。私は自慢じゃないけれど上海外国語大学の16章に「五十嵐勝」って載っているんですよ。中国の名鑑に載ったり、上海のテレビ局に出たり、このあいだは杭州テレビが来て撮って行きましたね。日本のテレビにもずいぶん出ましたね。

まは一切出ていません。昔の行動と矛盾すると嫌ですからね。
でも後の方は私費学生も多かったですから、偉いといっても色々な人たちがいますね。だいたい面倒をみた人達が丁度40から50歳になっているのですね。この人たちは今の中国共産党が一番期待をかけている年代です。彼等にはチャンスがありますしまた中国は早く幸せになったものが面倒をみる世界ですから、注目の的ですよ。

この間上海に行った時、なにか得体の知れないやつが迎えに来ていたのです。「先生―!」なんて言っているのです。見るとそいつは一番勉強しなくて、もうアルバイトばかりしていた学生で、私も頼まれてうなぎやに800円で紹介した奴でした。そしたら交通費貰って一週間でもう来ないと言うのです。それで「どうしたの」と本人に聞くと、「俺頑張って850円のアルバイト見つけた」と言うんですよ。

まいったですね。でもそうやって一生懸命お金を貯めてだいぶお金を持って1995年に帰って、上海で三つくらい物件を買ったそうです。それをローソンに貸したのを皮切りにどんどん土地を増やして、いまや10箇所くらいの物件を持って成功しているという。「おまえだいぶ儲かるだろう」というと、「うん儲かるよ、いくらでもおごるよ」とその日はご馳走になりましたが、次の日からこない。しっかりしています。上海に帰った連中はみな金を持っていますね。

大連にも、帰って大連工科大学の教授になったすごい力のある人がいますね。そんな人を頼ればずいぶん大きなことも出来るのかもしれません。でも私は悪いことが出来ないまじめ人間ですから、そういう人たちの伝手でなにか儲け仕事をするということは出来ないんですよ。よく中国人に言われます。五十嵐さんまじめすぎる、もっと悪いことしなきゃ駄目って。それでこの前電話したとき冗談で「たまには悪いことやるか」って言ったら、喜んで「やりましょう。いつ来るんですか?」ですからね。

大連の開発区の検査長の息子を3年間預かったことがあります。これが頭はいいが勉強はしない、毎日焼酎飲んで働きもしない。うちの家内が当時居酒屋をやっていたんで、そこを手伝わせたんだが、出てこない。私も家内とその子の間に立って苦労しました。それが今偉くなってしまってジャガーに乗って出迎えるんですからね。(笑い・・・・拍手)
終わり



講座企画・運営:吉田源司
文責 臼井 良雄
会場写真撮影 橋本 曜
HTML制作 和田 節子



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