| 神田雑学大学講演抄録 第392回 平成20年2月1日 |
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1.はじめに |
2.目に余る傍若無人 |
3.後世に残すもの |
4.死後の世界はあるか |
1.はじめに
おととし「老いは心から」の話をさせていただいた2日後だったと思うのですが、父が亡くなったんです。93歳だったのですが、色々な思いがあってお話をさせていただいて、今回はその後のことをお話したかったのです。あまり時間がたったのでそれは難しくなりました。あのときにどんなに寝たきりになっても笑顔を渡すと言うことで最後に人に貢献することが出来るという話をしたと思うのですが、その後遺産相続だとか色々なことがあったときに、やっぱり若いときにしっかり自分の最後と言うことを考えておいていただきたいなと思って、この死後の世界はあるかというテーマに結びついたのです。先に結論を申し上げますと死んでしまう人は死んでしまう人なんだから、残された人達のことは残された人に任せるような姿勢でいってもらえたらいいなと思ったのです。 こういう話はここの神田雑学大学でするしかない、むしろ皆さんにお願いしたい、年配の方々に、もう僕たちは退職してしまったんだから関係ないというのではなくて、これからの日本のために、年配だからこそ出来ることが沢山あるということをもう一度再認識して世の中に広めていっていただけたらなと思ったのが今回のきっかけでございます。 メニューに戻る(M) 2.目に余る傍若無人ちょうどタイミング良くに吉田さんが天声人語の抜粋をレジメに載せていただきました。悪いことをしている子供たちのことがテレビで放映されますが、いまそういう子供ばかりなのかというとそうじゃないと言うことは皆さん分かっていると思うのです。あらゆる行動の中のパターンは2対6対2という割合だという法則があります。この法則は色々なことに使われていて、例えば自分のことを好いてくれる人というのは、何をやっても好いてくれる人が2割、なにをやっても私が嫌いと言うひとが2割なんです。6割の人はそのときの雰囲気でどちらについたら得かなといったところです。だから私のことを嫌いな2割の人になんとか好きになってもらおうと必死になってその人に合わせてしまうと、その人からは好かれるんだけれど、今度は今まで好いてくれていた人である2割から嫌われてしまうというのがこの法則です。すべての人から好かれたいと思うのは馬鹿なことで、これは神経症という病気です。2割の好きになってくれている人を大事にしようと思って接していると6割の人達が普通に付き合ってくれるというのが正解です。いま色々な教育が間違えているのですが、みんなに好かれるなんてことを平気で言うのですがそんなことは有り得なくて、「じゃあなたはみんなの事好きなの、嫌いな人いっぱいいるでしょう?」と聞きたいです。2割は嫌いな人がいますよね。
この前吉田さんとお電話したときに、吉田さんのお友達でもう80歳くらいの方が自分たちの教育が悪かった、だから今の団塊世代の親が悪くて、だからその子供がとても悪く育った、団塊の世代の子供たちが問題なのだという話を伺ったのですが、まだキチンと統計を取ったわけではないんですが、団塊の世代の責任ではない、と私は思います。しかしそういうことを言ってもいまさら始まらないので、是非おじいちゃんやおばあちゃんが孫でなくて孫の親を育てる感覚でやられていったら少しは変わるかなって思いまして、今日参りました。さて、先日親に注意されて切れる子供が世界で一番多い、とyahoo(ヤフー)ニュースに出ている記事が私の目をひきました。皆さん電車の中で親が子供を注意しているシーンを見たことがおありかと思いますが、そのときどう思われましたか? 私はそれを見ていてはらはらします。注意の仕方が完璧いじめなんですよね。言葉使いがね。親の方がうるさいくらい。子供なんてじっとしているわけではなくて、きょろきょろするのが子供なんです。にもかかわらず静かにしなさい、静かにしなさいとだんだん声が大きくなって、周りからはいじめているようにしか見えない。そういう場面の方が多いですよね。それとかね、お母さんが何かでいらいらしていて子供に当たっているのがいますよね、子供の方が賢くて、じーっと親の方を睨んでいる。お母さんはズーっと文句を並べている。ほんとにいじめですよ。ああいうことを言われ続けたら切れてもしょうがないと思ってしまいます。だからここに書いてある切れる子供が多いのは親が注意をしているのではなく、自分のストレスを子供たちに発散しているからではないかというイメージを持ってしまうのです。親が抑圧されていて、それを子供にぶつける、子供はそれをどこかにぶつけるというような部分が多いんじゃないかと思うのです。 いじめをなくすということは、いじめを圧迫することなんですよね。いじめはどこの世界でもあったんです。アメリカやヨーロッパでも小学校ではあります。しかし欧米では中学になると無くなります。中学くらいになるといじめは格好悪いという感じなんです。日本にはその感じが無いんです。男は弱いものいじめをすると格好悪いというマナーが日本には無いんです。日本では親が子供を注意するときにマナーを教えていないと思います。 静かにしなさいといっているのは何なのか?ここは公共の場だから周りに迷惑をかけないための最低限のことはしなさいということを教えないで、行動に文句ばかり言っているのです。行動には目的があるのですが、その目的に気がつかない。それが日本の叱り方です。 人間は朝起きてから寝るまで必ず目的を持って動いているのです。朝目覚ましが鳴った時、人は今起きるか起きないかという二者択一をして決めるのです。今日は大事な仕事があったり大好きな彼氏とデートだとかとなるとぱっと起きるのです。目覚ましの鳴る前に起きてしまったりする。 「何故トイレに行くんですか」と聞いたら「行きたくなったからですよ」という場合もありますが「行きたくなくてもいく」場合もあります。「これからバスに2時間乗るんだから今行きたくないけれど行っておこう」というケースがある。人間の身体の反応はそういう生理的な原因だけで動いているのではないんですね。 ここでフロイト心理学が間違えたのは、全ての行動には原因と結果があるということで、この人が悪い行動をしたら、それには原因があるといって、小さいときのお父さんの愛情が足りなかったとか原因を探していくんだけれど、これには何の証拠も無いんです。ここにコップがあってそれを落とせば割れる。落としたから割れたという因果関係が必ずあります。でも人間の行動はそう単純なものではなくそこに思考が入ります。人間は目的を持って行動します。お昼ごはんを食べるんだって、この後デートがあるからやめようとか、寝るとか食べるとかの本能的な行動ですら、自分の目的に左右されて動いています。 じゃあ日本のお母さんが子供を叱っているときの目的は何か、親の方がうるさいような人の叱り方の場合は何かというとギャラリーがいるからなんです。「私はいいお母さんよ」。ということを回りにアッピールしているのが分かるでしょう。だから腹が立つのです。「あんた自分の子供を使って他人に良く見られようと演じるんじゃないよってね」。それがみんなには見えているんです。格好良い注意をしなければ駄目です。そのお手本を皆さんが示してあげなければ駄目だと思います。 吉田さんのお友達は、「僕たちの教育が良くなかったから今の若いやつらは」とおっしゃるけれど、皆様にはもう一歩出ていただきたい。何が出来るかと。人間は死ぬまで必ず何か出来るのでそれをやっていただきたいと思うのです。 もうひとつお母さんが子供をいじめている場合は、たぶん家の中に色々な問題があって、そういうものが影響して叱ることが今の行動の目的からずれてしまっている場合があります。アドラー心理学では「感情は目的を達するために使うものだ」と言いました。目的があるのでそれを達成するために感情という手段を使うというのです。これが納得できますか?「そうじゃないよ感情が先に出るよ」と思いません? でもこんなケースもあります。例えば小学生くらいの子供がずっと遅くまで遊んでいて夕飯ぎりぎりに帰って来る。テレビを見て、お風呂に入って、さて宿題するだんになると、もう眠くなる。そこでお母さんは怒って「だからさっさと宿題をしなさい、って言ったでしょ」とかガミガミ言っているときに、電話が鳴って、お母さんが出る。電話の相手が夫の会社の上司だったりすると別人のような優しい声で「もしもし、はい、ええ、いつもお世話になりまして…」と馬鹿丁寧に話をする。そして電話を切るや否や振り向いて怒鳴り始める。いかに感情は目的を達するために使われているか、相手によって感情を使い分けているか、の分かり易い例ですね。感情を無意識に使い分けているのです。このケースではお母さんは怒りという感情を使ってその子に宿題をさせようとしている、あるいは良い生活習慣をつけさせようとしていることが分かります。 ですからお母さんはもっと良い手段を見つけたら良いんです。もっと知的な手段を。「宿題をしないということはあなたが困るんだからそれでいいのかしら」とか言えばいい。お母さんには「子供に宿題をキチンとさせない悪いお母さん」と思われたくない、いいお母さんと思われたい目的が一方にあるわけで、怒りという感情を使ってその目的を果たそうとしているのです。 目的と手段の例をお話します。以前、私が住んでいたマンションで実際にあったことですが、廊下で子供がローラースケートをやっていてうっかりドアを開けたりすると、ぶつかってしまいそうで危ないことがありました。住人の多くがそう思っていましたが、なかなか言えない、言ってもその子の親は、子供のことだから、と言って聞き入れてくれない。そこで私が注意すると、こどもは「うるせーばばあだ」というだけ。私、あるいは私たちの目的はそれを止めさせることですね。それで私は作戦を変えて自治会の理事会に「共有財産であるこの建物の廊下を痛まないように財産価値が減らないように守ろう」という提案をしました。それでローラースケートはみんなの合意で禁止になりましたね。目的がはっきりすればおのずと手段が見えてきます。個人的に注意をすると、個人攻撃をされた、自分が責められたと思ってしまう。責められたと思うと理屈を山ほどつけて反論してくる。ですから何が、どのように、困っているのか、を明確にして、何のために、どうしたら良いかを提案していくことが大事なんですね。 吉田さんが配って下さったこの天声人語にある話を読んで皆様どう思いますか?お年寄りに席を替わってあげて立っていた、替わってあげた人が降りる際に、お礼を言われて、どうぞとすすめられたその席に座った女性に、前に立っていたその席に座ろうと思っていた男の子が「このばばあ、死ねっ!おまえなんか生きているのは税金の無駄遣いだっ」と叫んだという話です。怖いですね。どう対応していいか分かりませんね。 私はこの男の子の目的、なぜ彼がここまで言わなければならない状況に追いつめられたのだろうかということを考えたのです。もしかしたらこの男の子は自分の家庭にこのような親と老人を持っているのかもしれないと思ったのです。老いた両親や舅姑を介護している人たちの苦労、というのは知らない人は知らないんですよね。中には精神に異常をきたした人も沢山いるんですね。そういう親の苦労を見ていた子供がどういう風になるのかなーということを、私はこの記事を見てふっと考えましたね。そうであるかもしれないしないかもしれません。もちろん私はこの子の言動を擁護しようとは思いませんよ。どんな育て方をされたんだと思いますが、ただなぜこんなにひどいことをこの子はいうんだろうかと不思議に思ってみる目を私たちは持たなくてはいけないと言いたいのです。 そういう見方をしていかないと今の複雑な環境の中で抑圧されている人の言葉を聴くことが出来ないと思うのです。近視眼的にまあひどい子供だとばかり、というのではなくて、広い視野で見ることを考えていかないと、ますます感情に任せて行動する人間の仲間入りになってしまいますからね。 皆さん電車の中で注意しているお母さんを見ていて、言葉使いの語彙がとても少ないと思いませんでしたか?私も最近は文章を書くと揚げ足を取る方が多いので知らず知らずに語彙の少ない無味乾燥な文章しか書けなくなっている自分に気付きます。そういう状況が全般に広がって、子供たちがそんなつもりで言っているのではないのに、誤解して怒るということもあるのかも知れません。むしろ今の若い人達はとてもかわいそうな状況に置かれているともいえると思います。 まず老人の素晴らしさを知らない、老人を大切にすることを知らない若者が増えている時代であることは事実でしょう。そういう時代だからこそ、ここに集まっている70代の方々がおじいちゃんって素晴らしいものなんだよということをアッピールしてもらえたらいいなと思って今日ここに来ているのです。年寄りが邪魔にされ遠慮して生きるような時代に、私は高齢のおじさんやおばさんにもっと堂々と生きて欲しいのです。 私が最近不安に思うのは子供もそうですが、中年のおばさんたちの公共の中の態度ですよね。満員電車の中でひとり肩肘張って抵抗しているのはたいてい中年のおばさまです。自分の目の前しか見えていない、周りへの配慮がない、ちょうど今問題になっている若者たちの母親くらいの年代ですかね。 メニューに戻る(M) 3.後世に残すもの
皆さんが今まで日本の中で美しいと感じたことを偉そうに話すのではなくて、伝えていって欲しいのです。言葉使いの中にはマンドとタクトの2通りあるんです。マンドはデマンドのマンドで要求、タクトはコンタクトのタクトでかかわりを持つということなんです。 吉田さん、日本の古くからの習慣の中で、「きょうこの部屋寒いわね」といったら、これはタクトだと思いますか、マンドだと思いますか?あっ動かなくて結構です。これはコンタクトなんですよ。単なる挨拶ですね。ところが今吉田さんはマンドだと思ってエアコンを動かそうと立ち上がりましたね。これがいい例なのですね。 私たちは子供たちに「寒いわね」といって相手を動かすような支配的な発言をしないようにしなければならないんです。これは日本語の欠点だと思います。今の若い子はここのところがすごくあやふやになっていて、コンタクトだと思って「俺そんなこと言ってねえだろう」とか言うのですが、ところがタクトだと思って動かないでいると、「おれが頼んでいるのになんだよ」となるのは親子の対話がそこのニュアンスを伝え切れていない、つまり学習出来ていないのです。昔は何故問題にならなかったかというと、昔は世界が狭かったからです。価値観が小さかったからです。親の仕事を子供も継ぐことが多かったし、先輩の言っていることをきいていればよかった。しかし今のようにコンピュータが発達し、価値観が多様化してくると、親の世代の方が世の中を知らない、ということが起きてきているのです。 昔は定年間際の人が熟練していて仕事が速かったのです。全部頭の中に入っていて尊敬されていましたが、今は検索が早い人が尊敬されるようになった。価値観がそうやって変わって来てしまっているのです。 でも昔の習慣でそれをすることが、人間のコンタクトにとても良いことを残すことになるんですからその努力は大変大事ですよね。今、定年した熟練工を再雇用して、若い人に伝えよう、という運動が起こっています。こういった事が大切で、守らなければならないこと、伝えなければならないことは、しっかり受け継がなければなりませんね。 今は雨が降ってきたときにどうぞと言って傘を差し出してくれる人は少なくなったし、若い子には嫌がられたりしますが、でもありがとうと言ってちょっと一緒に歩くというのもとても気分の良いものです。そうやって可能性がある限り私は昔の習慣を続けようと思うのです。私は色々落し物をするのですけれど、拾ってくれるのは若い人が多いのです。落としましたよといって持ってきてくれる。拾って自分のものにしてしまってもいいのに、そういういいところが日本には残っているのは捨てたものではないと思うのです。これが海外でしたら、あっと言う間に取られてしまいます。 ここでゲームをしてみたいと思います。出来ましたら女性と男性とワンペアで組んでいただきたいのです。これはNLP(神経言語プログラミング)という心理学を応用したゲームです。 座り方、相手への目線、を考えながら後ろから相手の肩をとんとんと叩いて片方が相手に何か注意をする言葉を発っしてみてください。そして注意された人は振り返ってそれに何でもいいですから反応の言葉を発してみてください。ではやってみましょう。 ![]() 小言をいうのではありませんよ。しかるわけでもありません。ただ注意をするのですよ。きちんと要求を入れて注意してみてください。 普通に対面して例えばAさん:歯を磨いて寝なさいね。といいますと、Bさん:ぼく宿題をしているからいまできない。となりますね。これは自然なことで、対面するとかならず反論したくなるのです。 ですが後ろから軽く歯を磨いて寝なさいよといえば、ああ終わったらするよと軽く答えるでしょう。人間はそこの心理をつけば同じ注意をしてもすっと入るということを体験してください。小言と注意は違うんだと言うことを意識してくださいね。いいにくい注意であればあるほど相手の目を見ないで対面型でない注意がいいと思います。並んで話すとか歩きながら話すのも同じことですね。 特に恋人に愛を告白するときなど、相手の目線を逃がれられるような座り方が良いですね。レストランなどでは、コーナーに45度に座ると良いですね。告白されたら、相手も恥ずかしいですから。対面すると「イエス」か「ノー」しか言いにくくなります。でも、目線を逃がすことができるように座れば(相手を見ないでいられる。対面だと相手を見ないと失礼な感じになる)少し考えたり、余韻を持たせたりできます。 並んで歩きながらもとても良いですね。 (実習) こういったNLPを応用すると、朝の満員電車の中で音楽を聴いている若者のイヤホンからカシャカシャ音が漏れているときに使えます。トントンと肩を叩いて、相手がこっちを見たら、手で耳を指し、次に音を下げてね、というしぐさをすれば言いのです。人ごみの中で声に出して注意されたら、その人の自尊心を傷つけます。これが逆切れの元です。このときに、「注意をする」とか「叱る」という意識ではなく、本人は気づいていないのだから「教えてあげる」とか「お願いする」という意識が必要なのです。例えば「クリーニングのタッグが付いてますよ」とか「ハンカチ落としましたよ」というような感覚ですね。怒りの感情は伝染しますから、くれぐれも怒りではなく「教えてあげる」という感覚です。そして、音を下げてくれたら、「ありがとう」というしぐさをする、これがとても大切です。私の言ったことを聞いてくれたのですから、ありがとうですよね。 メニューに戻る(M) 4.死後の世界はあるか![]() 梅原猛という哲学者の書いた「隠された十字架」という本があります。法隆寺のことが書いてあるのですが、さすが哲学者ですね。歴史学者でもない、仏教美術家でも無い、感銘を受けたのは、何でお寺が作られたのかということが書いてあるのです。あの時代は科学が発達していなかったので、聖徳太子を殺してしまったことへの怨念によって厄病が出たのではないか、怨念でもってこうなったんじゃないかという恐怖心からお寺を建てているということです。仏教の発生もそうで、死んだ人が悪さをするんではないか、それを封じ込めるためにお寺を建てたということが書いてあるんですが、納得しますよね。 いまの若い子達は迷うと宗教に頼ってしまうんですね。人生なんて、迷って迷って、試行錯誤の連続なのに、そういった意味で耐える力が脆弱なんです。生まれ変われると思ったり、あの世があると思っていじめられたら自殺する。そこへ持ってきて江原啓之さんとか、三輪明弘さんとか細木数子さんとか色々いるじゃないですか、この方達のお話が、面白い、とか、バラエティだから、と受け止めているうちは良いのですが、本気にする人もいるわけです。 自殺するくらい元気があるならばやり返せばよいではないかと思うのです。人間は今ここに生きていることだけのものでしかなくて、たとえ生まれ変わっても過去の記憶が無かったら生まれ変わったことにならないでしょうって。今目の前の出合った人とどういういい関係を作るかが大事であって、明日は分からない、でも今ここでという瞬間を生きていくということを今の若い子達に言ってもきれいごととしてしか受け入れられないのですが、年齢を重ねられた人が言えば言うほど重みがあるわけです。人生なんてそう長いものじゃない。そんな若いときは今だけだ。でも年をとってもすごく幸せに思うことがあるんだよということを皆さんが教えていって欲しいと思っています。人生のお手本になっていただくような生き方ですね。お願いいたします。 (拍手) おわり メニューに戻る(M)
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