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平成20年4月4日
神田雑学大学定例講座NO401


宮沢賢治とイーハトーブの世界、講師、加藤ひろかず、バック画像は銀河鉄道の夜



目次
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賢治の地質学への関心と理解
賢治の色は青
童話『楢の木大学士の野宿』
賢治と岩石
賢治と化石
賢治と火山
南昌山と岩頸




講義している加藤ひろかず講師加藤 碵一(かとうひろかず)と申します。
昨年、賢治の生まれ故郷岩手県花巻市で、生誕100年を記念して作られた宮澤賢治学会の推薦で拙著「宮澤賢治の地的世界」に対し花巻市から宮澤賢治賞・奨励賞を戴きました。

「地的世界」とは「知的世界」をもじった造語ですが、これからご紹介するように宮澤賢治は地質学的な深い素養を持っており、進学した盛岡高等農林学校の地質及び土壌教室に在籍して、さらに地質学への関心と理解を深めたことに由来します。

彼の作品世界に色濃く岩石、鉱物の名前がちりばめられていることもその結果であります。例えば、鉱物と色の関わりについて、どんな色の石かを具体的に見られたら作品の理解がより一層深まり宜しいと思います。以下に示してある工作舎のホームページの「賢治と鉱物」欄に、鉱物の色ごとに詳しく紹介されております。今後連載いたしますのでぜひアクセスしてみてください。

  http://www.kousakusha.co.jp/planetalogue/kenji/kenji01.html

さて従来、ともすると宮澤賢治作品解釈は、文系の人によることが殆どでしたから、地質関係の専門的術後の解釈には我々理系の者から見るとかなり間違ったものを多々見受けます。それらを踏まえて、宮沢賢治の「地的世界」をご紹介していきたいと思います。

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賢治の地質学への関心と理解

賢治の作品は、皆さん色々お読みになっていると思いますが、生前商業出版された童話本は「注文の多い料理店」の一つだけです(他に「春と修羅」という有名な詩集がありますが、現在でいう自費出版の本であります)。出版社は岩手県盛岡市の光原社、現在は民芸と喫茶の店になっていますが、庭先に賢治のレリーフがついた石碑があります。

「注文の多い料理店」の中で賢治は、自作の広告チラシの中で触れた「イーハトーブについて、これは一つの地名である。ドリームランドとしての岩手県という意味である」と説明しています。賢治はエスペラント語も学んでいたので、イワテケンを英語読みとも、エスペラント読みともとれる異国情緒のある発音の「イーハトーブ」としたのです。

賢治は明治29年(1896)に岩手県花巻に生まれ、今年は賢治生誕112年であります。わずか38歳で亡くなりました。生まれた年に三陸地震津波があり、偶然ですが亡くなった年が、38年後の昭和8年(1933)の昭和三陸地震津波の年でした。

賢治の家は、家業はいわば質屋さん、比較的裕福な家庭で父上は町の名士でした。ですから盛岡に下宿して盛岡中学に通いました。その後、盛岡高等農林学校へ進学します。盛岡〜花巻周辺には賢治がよく訪れた岩手山、小岩井農場、なめとこ山、南昌山、イギリス海岸、早池峰山などがあり、イーハトーブを始め賢治の作品にはそれらの地名が色濃く現れております。

盛岡高等農林学校本館、小岩井農場

賢治自身は盛岡高等農林へ進み、三年のときに同級生らと進級論文を書かされるのですが、恩師の関豊太郎教授らの指導のもとに盛岡付近の地質調査を行い、翌年校内誌に報告書を載せております。その中で、「地質学とは、吾人が棲息する地球の沿革を追求し、現今における地殻の構造を解説し、又地殻に起る諸般の変動に就き其原因結果を簡明にす、即ち我家の歴史を教え其成立及進化を知らしむるを以て、苟も知能を具えたるものに興味を与ふること多大なるは辯を俟たずして明なりとす。」と実に簡潔にかつ十分に地質学に対する理解と説明をしていることは驚くほどです。

地質調査は12名の同級生が、盛岡付近を4地域に分割して調査しましたが、夏休みに入ると皆帰省してしまうので、賢治が一人残ってほとんど全域を調査したといわれるほどです。この報告文も恐らく賢治が一人で大部分を書き上げたと思われるほどです。賢治の地質に対する熱意の現われですが、すでに盛岡中学時代から、土日になると付近を歩きまわって岩石、化石の採集をしたり、ハンマーを持ってあらゆる露頭の石を叩いたりしていたので、盛岡中学時代の綽名は「石っこ賢さん」「宮澤の友達は岩手山なんだから人間の友達はいらないんだ」とまで言われたほどでした。

この時代、賢治は短歌の制作をはじめています。
「公園の 丸き岩べに 蛭石を われらひろえば ぼんやりぬくし」13歳時の短歌ですから、芸術性うんぬんよりも、蛭石に注目したいと思います。ここで公園は岩手城址のことで、その石垣は大部分人工的に積み上げたものですが、一部は花崗岩岩盤露頭を利用しています。

盛岡中学は、10年年長に石川啄木が、その1年上に野村胡堂、さらにその1年上が金田一京助という偉大な文学者を輩出した名門であります。かれらももちろんよく岩手公園を散策していました。さて、この花崗岩は顕微鏡で見ますと、石英と長石と雲母から出来ております。このうち黒雲母が変質してできた蛭石は脱水する過程でみみずのように伸びてくるので、西洋ではみみずに由来するバーミキュライト、わが国ではその様から蛭石といわれます。
足を組んで椅子に掛けている宮沢賢治今でこそガーデニングに使われるので知っている人も多いのですが、あの時代に田舎の中学生の賢治が「蛭石」を発見し、それを歌にまで読み込むとはまさに驚きで栴檀は双葉より香んばしであります。

やはり賢治13歳の頃、盛岡から北西の方向3kmあたりにある鬼越(おにこり)という山によくでかけふきんの谷川で瑪瑙(メノウ)を拾ったことがあり、歌に読み込んだりしています。
「鬼越の山の麓の谷川に瑪瑙のかけらひろひ来たりぬ」この辺りは昔の海底火山の噴出物が多いのですが、賢治はそのこともちゃんと理解していたようで、噴出物である火山岩が砂や泥の層から発見できることを、弟や友人に話しており、かなり地質学の理解があったことを窺わせているのです。

ただし、中学時代は勉強ができなくて、寄宿舎で暴れたりして全員退去となり、付近のお寺に下宿せざるを得ないこともあったようでした。蓄膿症にかかり、1年間浪人したのち盛岡高等農林学校(現座の岩手大学農学部)には首席合格を果たし、そのあと卒業まで特待生で、今でいう大学院の研究科(修士課程)まで進みました。地質及土壌教室に在籍し、5−6年間は地質学をみっちり勉強したので、非常に専門的な知識を持つようになりました。

現在、盛岡高等農林の本館は農業教育資料館になっています。大正元年の建設ですが、明治時代の洋館様式の特徴があり、国の無形文化財の指定を受けている建築物です。堂々たる校長室、実際に使われた教室の粗末な机や椅子が展示されています。他に顕微鏡や分析機械がありますが、これは当時としては一流の機器類です。非常に優れた教育環境で勉強が出来たことがわかります。

この時代には、またほとんど一人で盛岡を含む稗貫郡(ひえぬきぐん)の地質・土性図を作りました。ちなみに、国として5万分の一地質調査が始まったのは、その翌年ですから、賢治は地質調査を国の調査より1年早く、先駆けて行ったことになり、特筆に価すると思います。その点、賢治を教えた関先生の見識が非常に高かったといえます。

鉱石を100の3mm程度の厚さに切り取り、特殊な偏光顕微鏡でのぞくと、金属を含まない鉱石は光を通します。鉱石によって独特の色合いになるので、大体の組成を発見することができます。賢治はこのような分析的研究も行っていました。しかし、なんといっても賢治の真骨頂は野外調査です。その経験がいききと作品に投影されています。例えば、花巻温泉の近くに、台川(だいがわ)や釜伏(かまぶせ)の滝があります。

童話『台川』の舞台になったところです。地質の調査に野外に連れ出すことは、巡検といいます。その様子をストーリーにしたのが、童話『台川』です。「ずんずん登ってゆくカスケード」などという表現で、下から瀧を登る、体験に基づく描写をしました。

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賢治の色は青

さて、賢治の色の話をしましょう。賢治の印象を色にたとえると青だといわれます。これは一つには彼の第一詩集『春と修羅』の有名な「序」に「わたくしという現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い証明です」ということによります。吉本隆明(1970)の宮澤賢治論でも「宮澤賢治の深淵はつねに青い色を伴ってゐます あらゆるものを除き去ったときの真実の人間的な色合いと言ひませう」。 「イギリス海岸の歌」はまぎれもなくこの決定的な冷たい青色を伴って来ます 恐らくは彼の宗教的諦念の深さが無形のまま反映して来るのです」と述べ、賢治の本質に迫る色として取り上げています。

イギリス海岸と言われてる北上川ここで言及されている「イギリス海岸」というのは、花巻の北上川の川岸です。外国に行ったこともない賢治が、北上川の川岸をなぜイギリス海岸と言ったのでしょうか。実際のイギリス海岸とは地形も地質も違うのですが、これはまさに賢治の心象風景でありました。北上川の河床を構成している地層は、海の堆積物であることを理解しており、童話『イギリス海岸』の中で、「120万年前、この辺りは海だった」と書き、繰り返し海をモチーフにして童話を綴っています。

賢治はここで早坂一郎と出会っています。彼は、東北帝国大学地質学部の第一期生でありますが、大学院の途中で助手として採用されました。彼が興味をもってイギリス海岸に来たときに、賢治に案内されて化石バタぐるみなどの採集をしております。「銀河鉄道の夜」の中の七章に「イギリス海岸」を読み替えた「プリオシン海」がでてきます。そこで発掘を指揮している学者は、早坂一郎をモデルにしているといわれています。このときの経験の投影です。
「イギリス海岸」は賢治が作詞した歌でも有名です。
『イギリス海岸の歌』〔宮沢賢治作詩作曲〕
一 Tertiary the younger tertiary the younger
Tertiary the younger mud stone
あをじろ日破れ あをじろ日破れ
あをじろ日破れに おれのかげ

二 Tertiary the younger tertiary the younger
Tertiary the younger mud stone
  なみはあをざめ 支流はそそぎ
  たしかにここは 修羅のなぎさ

一目見て賢治を読み解くキーワードの一つ、「青」と「修羅」が繰り返し出てくる象徴的な歌であることに気づかされます。「Tertiary(ターシャリー)」というのは、地質学用語で第三紀という地質時代を意味しています。第三紀全体は6,500万年前〜170万年前くらいの時代ですが、賢治はここで120万年前の地層を第三紀の終わり頃の形成としています。賢治が間違っていたという訳ではなく、時代的な制約を受けていたと考えられます。

つまり現在の知見では120万年前は最も新しい地質時代である第四紀ですが、賢治の頃は第三紀と第四紀の境は百万年前に置いていました。ですからそれにしたがって第三紀の終わり頃としたのは、当時としては間違いではないからです。ついでに言えば現在では、地球の年齢は46億年くらいだろう知識を私たちは持っていますが、賢治の頃の地質学的常識では1億〜2億年と考えられていました。

さて、賢治の頃の北上川の川岸は、ダムの建設のため水没してしまいましたが、一部崖に露頭部分が残っています。下の灰色の部分が塊状泥岩で、その上に火山灰質の泥岩が重なっています。これが繰り返し互層になっています。しかもそれらがほとんど水平に近い地層ですから、大水が来るたびに軟らかい泥岩がどんどん削られて、様々な化石などが地表に現れることになります。足跡の化石は、このような地層の境にあって泥岩がまだ固まってない時代に動物が歩いた跡をすばやく火山灰がその上を覆うと化石として残るわけです。

また、賢治に案内されてこの川岸で早坂一郎が蒸し焼きになったようなバタグルミの化石を発見し、現在も発行されている地理と地質の学術雑誌である『地学雑誌』に翌年、「岩手県花巻産化石くるみについて」という論文を発表しております。これは、賢治が単に早坂をその場所に案内したのではなく、すでに十分な地質調査しておりそれらの化石が発見される可能性のある川岸に案内したと見るべきでしょう。早坂はこの論文を賢治との共著にしようと提案したのですが、賢治は固辞しましたので早坂は論文の結びの謝辞で花巻市の賢治に対する感謝の言葉を述べています。

銀河鉄道の夜

賢治の青のイメージは、有名な童話『銀河鉄道の夜』の夜空の強烈な印象からも来ています。先に述べましたがこの中に「北十字とプリオシン海岸」という章があります。早坂をモデルにした学者が、掘り出した沢山のクルミを「それは120万年前の・・・・・新しい方のクルミさ」と呟きます。化石は第三紀層の中から出てくるのですが、第三紀の中でも一番新しい時代である鮮新世は英語でPlioceneというので、プリオシン海岸と言い換えて表現しているのです。このときの印象は賢治には非常に強かったと見え、晩年(と言っても30歳台の半ば)にも同じモチーフで次のような『煙』という詩を書いています。

「川上のレンガ工場の煙突から煙が雲に続いている
あの足元に広がった青白い頁岩の盤で
尖って長いクルミの化石を探したり
古い獣の足跡を薄ら濁って 水の中・・・」

次に賢治作品にでてくる鉱物についていくつかご紹介しましょう。賢治は詩のリズム感を非常に重視しました。ですから鉱物の名を詩に入れるときは、必ずルビを振りました。当時としては珍しいテクニカルターム(術語)も導入しています。

『春の修羅』では第2集に、「函館港春夜光景」という詩のあります。賢治はすぐ下の妹トシを非常に可愛がっていたのですが、早くに亡くなってしまってその悲しみを癒すために樺太まで旅に出ました。連絡船で函館に渡ったときに詠った詩です。

この「ガスタルダイト」と「インデコライト」とは何でしょうか。ともに賢治研究家にとって長い間謎であり、「ガスタルダイトはコールタールのような灯り」という苦しまぎれの説も出ていました。しかし、これは鉱物学的に調べることで解決します。前者は角閃石に属する「ラン閃石」の一種ですが、現在では「ガスタルダイト」という語は死語です。

普通には「グロウコフェン」といいます。低温高圧下で安定な鉱物で、変成岩の一種である結晶片岩に属するラン閃石片岩の主成分鉱物でもあります。「ガスタルダイト」はフランスの鉱物学者Bartolomeo Gastaldi教授の名にちなんで命名され、当時一部では用いられていたのでしょう。後者の「インデコライト」も藍色をした藍電気石のことです。

さて、なぜ賢治は当時でもあまり用いられなかった「ガスタルダイト」や「インデコライト」をあえて用いたのでしょうか。やはり他と同様詩のリズム感を大事にし、平仄を合わせて船の灯りを表すのに転用したのでしょう。「オダル ハコダテ ガスタルダイト」を「オタル ハコダテ グロウコフェン」としては様になりません。もちろん、鉱物・化石・岩石名の語尾に良く用いられる「アイト」-iteは字義的には灯りのlightとは関係ありませんが、発音上類推されることから用いたのでしょう。

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童話『楢の木大学士の野宿』

主人公の楢の木大学士が、ある時宝石商に蛋白石の良いのをと求められて採集に赴き、野宿をした夜に夢を見ます。その夢の中に色々な鉱物や岩石や恐竜などが出てきます。擬人化されたそれらの石などが物語りを綴るというストーリーです。第二夜にある石切り場で、主人公が寝ていると花崗岩をつくっている造岩鉱物との間で会話が取り交わされる場面があります。その会話は、鉱物の名前が出てくるだけではなく、次のように非常に岩石学的に意味のある内容になっています。

(ホ)『そんなに肱を張らないでお呉れ。おれの横の腹に病気が起こるぢゃないか。』
(バ)『おや、変なことを云ふね、いったいいつ僕が肱を張ったね。』
(ホ)『そんなに張ってゐるぢゃないか、ほんとうにお前個の頃湿気を吸ったせいかひどくのさばり出して来たね』
(バ)『おやそれは私のことだらうか。お前のことぢゃなからうかね、お前もこの頃は頭でみりみり私を押しつけ様とするよ。』

(ホ)『何がひどいんだよ。お前こそこの頃はすこしばかり風を呑んだせいか、まるで人が変わったやうに意地悪になったね。』
(バ)『はてね、少しぐらゐ僕が手足をのばしたってそれをとやかうお前が云ふのかい。十万二千年昔のことを考へてごらん。』
(ホ)『十万何千年前とかがどうしたの。もっと前のことさ。十万百万千万年、千五百の万年の前のあの時をお前は忘れてしまってゐるのかい。まさか忘れはしないだらうがね。忘れなかったら今になって、僕の横腹を肱で押すなんて出来た義理かい。』

(バ)『それはたしかに、あなたは僕の先輩さ。けれどもそれがどうしたの。』
(ホ)『どうしたのぢゃないぢゃないか。僕がやっと体格と人格を完成してほっと息をついているとお前がすぐ僕の足もとでどんな声をしたと思ふね。こんな工合さ。もしホンブレンさま、ここの所で私もちっとばかり延びたいと思ひまする。どうかあなたさまのおみあしさきにでも一寸取りつかせて下さいませ。まあかう云ふお前のことばだったよ。』

ここで(ホ)と書いてあるのはホルンブレンド=角閃石、(バ)はバイオタイト=黒雲母という鉱物です。この二人(?)の会話の中で、何百万年云々の話が出てくるのですが、実は地下深くのマグマの温度が下がると固まってきて鉱物が晶出してきます。角閃石は高い温度で晶出して、そのあとに黒雲母がでてきます。つまり角閃石が先に結晶をつくり形を成し、そのあとに黒雲母が結晶すると、先に形を作った角閃石を押しのけようとすることになります。

つまりこれは鉱物の晶出順序を表しているのですが、この晶出順序の原理がアメリカの学者によって体系化されたのはこれから十年も後のことなのです。賢治がこの時点で鉱物の晶出順序の体系を理解し、童話のストーリーの背景に用いたことは驚嘆に値いします。現在に至るもこれを超える作品は現れていないと言えましょう。
次に若干賢治と岩石について触れましょう。

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賢治と岩石

岩石標本


盛岡高等農林学校には、賢治らが勉強した多くの購入鉱物岩石標本が残っていますが、賢治自身が採取した岩石の標本も残っています。ほとんどが橄欖岩や蛇紋岩です。
彼が蛇紋岩や橄欖岩に関心を示したのは、それらの中に含まれうるイリドスミンという鉱物によります。賢治は地質学を勉強しましたが、山師のような仕事をするのは嫌だといっていました。しかし、イリドスミンにイリジュウムが含まれていることを発見して、岩手県で初めてその鉱山開発を考えました。

イリジュウムとは、きわめて硬い元素で万年筆の金ペンの裏側についている白っぽい部分で、ペンが減らないようにする性能を持っています。当時、北海道の日高で採れるものしか無かったのですが、蛇紋岩のなかに含まれている筈だから岩手県でも採掘の可能性があると、具体的に調査を始めました。しかし、賢治は実現する前に亡くなりましたから企業化はしませんでした。今にして考えると実現しなくて良かったのです。

イリジュウムは溶融温度が高いので彫金師からは白金を加工する際に妨げになるため嫌われて実際には捨てられていたほど無価値なものでした。その後ヨーロッパではイリジュウムの加工技術が開発され、日本で外国の貿易商が買い集めたためにイリジュウムか価格が急騰し賢治も注目したのですが、その後オーストラリア・タスマニアで大量に発見されて日本のマーケットでも相場が大暴落したからです。

まあ、次のように賢治の作品世界に投影されています。例えば『春と修羅第二集』所載の詩「鉱染とネクタイ」では「(ここらのまつくろな蛇紋岩にはイリドスミンがはいってゐる)
ところがどうして空いちめんがイリドスミンの鉱染だ」とか、『岩手軽便鐵道 七月(ジャズ)』
で「うつうつとしてイリドスミンの鑛床などを考へようが」「さうだやっぱりイリドスミンや白金鑛区の目論見は鑛染よりは砂鑛の方でたてるのだった」などと表現されています。

さて、蛇紋岩が風化してアスベストができます。賢治作品に『ポランの広場』という童話があります。この中の記述で「まっしろな多分硬い石絨で刻まれたらしい長いすがあってそこには立派な貴婦人たちが扇を動かしたり、キラキラ笑ったりしていました」という表現があります」。石絨(せきじゅう)とは、実はアスベストのことです。賢治の時代の石絨=石綿は、安くて絶縁性が高いため優れた工業材料として色々なところに使われていました。

しかし、当時は現在のような毒性についてはあまり問題視されていませんでしたのでこういう表現がでてきたのです。このほか、賢治作品ではいくつかの岩石に関する拘りが見受けられます。例えば流紋岩(石英粗面岩、リパライト)です。これに関して歌を詠っています。

流紋石「鈍感の、ねずみ色なる、 この岩は、七月の午後の、霧を吸ひたり」
「そのむかし、なまこのごとく 水底を、這ひて流れし、石英粗面岩」
「おろかなる、灰色の岩の丘に立ち、今日もくれたり、 雲はるばると
「愚かなる 流紋岩の丘に立ち けふも暮れたり 雲はるばると」
「霜柱砕けておつる岩崖は陰気至極のLiparitic tuff」

流紋岩(石英粗面岩)のマグマは、珪酸分が多く粘り気が高いので、まさに水底を這いて流れるようになります(反対に粘り気の少ない玄武岩は流れやすいのです)。賢治が岩石のマグマの性質をよく理解して、歌を読んでいることに感心します。賢治が2年のとき、先生が学生を連れて日本の地質学発祥の地といわれる秩父へ巡検に行きます。

この地域のほとんどが変成岩の一種である結晶片岩で、賢治はここで採集したと思われます。埼玉県長瀞上流に「虎岩」があり、賢治はここで次の歌を詠んでいます。
『つくづくと「粋なもやうの博多帯」荒川岸の片岩の色』
この片岩は、結晶片岩で黒い部分が黒雲母ですが、石英の岩の中に細く伸びて模様をつくっている様子が、博多帯の模様によく似ていることをしゃれて詠んだものです。

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賢治と化石

アンモナイト 盛岡高等農林学校の教室には岩石・鉱物の標本はたくさんあったのですが、化石の標本は少なかったのです。ですから賢治の作品の中に、化石は出てくるのですが極めて標準的なもので、岩石や鉱物ほど変わった名前のものはありません。例えば、菊石(アンモナイト)です。これを詠んだのが「行けど行けど 円き菊石 をちぞらの 雲もひからず水なき河原」(大正三年四月、ただし盛岡中学卒業時で、高等農林入学前です)です。

樹脂の化石である琥珀には大いに関心を示しており、その黄色い色合いを黄味がかった明け方の空を表現するのに用いました。また日光を琥珀で表現する作品もあります。例えば、「琥珀張るつめたきそらは明ちかく、おほとかげの雲をひたせり」です。
「海百合」という棘皮動物の化石があります。前出の詩「函館港春夜光景」で「朱と蒼白のうっこんかうに、 海百合の腕を示せば、釧路地引きの親方連は、まなじり遠く酒を汲み、」という意味がわかりにくいフレーズがあります。

「うっこんかう」とは中国の古い言葉でチューリップです。海辺を歩いているときに、赤や白チューリップが並んでいる中で海百合が捨てられている情景かでしょうか。ウミユリは「生きている化石」の1つで、海底に生息しており地引網で引き上げられたのでしょうか。
また、大変短い作品である『十六日』における主人公の嘉吉と学生との会話に次の部分があります。

(嘉)『さうするとあなだは大学では何の方で』
(学)『地質です。もうからない仕事で。化石をさがしに来たんです』
(嘉)『そこの岩にありましたか』
(学)『ええ、海百合です』
「もうからない仕事」という部分で筆者を始め地質屋は思わず苦笑いしてしまうくだりです。

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賢治と火山

岩手山頂上盛岡中学時代、賢治は先生に連れられて岩手山に登って以来、三十数回登ったそうです。非常にアクセスの悪いところなので、木の下で野宿しながらの登山でした。麓の小岩井農場から岩手山を眺めるという長い詩も残されています。小岩井農場から見て、山の西側は死火山でカルデラ湖がありますが、東側は活火山です。こうした火山のつくりも良く理解していました。

『春と修羅』所載「岩手山」
「空の散乱反射のなかに 古ぼけて黒くえぐるもの 
ひかりの微塵系列の底に きたなくしろく澱むもの」
明治45年、賢治16歳時の短歌には
「風さむき岩手のやまのわれらいま 校歌をうたふ先生もうたふ」
「いただきの焼石を這ふ雲ありて われらいま立つ西火口原」
などを始め岩手山のモチーフにした多くの作品があります。

さて、賢治の恩師関豊太郎教授はたいへん気難しい先生でしたが、賢治はよく勉強したせいかずいぶん可愛がられました。童話『グスコーブドリの伝記』に次の一説があります。
「中にはさまざまの服装をした学生がぎっしりです。向こうは大きな黒い壁になっていて、そこにたくさんの白い線が引いてあり、さっきのせいの高い眼がねをかけた人(筆者注:クーボー大博士・関先生がモデル)が、大きな櫓の形の模型を、あちこちゆびさしながら、さっきのままの高い声で、みんなに説明して居りました。

ブドリはそれを一目みると、ああこれは先生の本に書いてあった歴史の歴史ということの模型だなと思いました。先生は笑いながら、1つのとってを廻しました。模型はがちっと鳴って奇体な船の様な形になりました。また、がちっととってを廻すと、模型はこんどは大きなむかでのような形に変わりました。』 ちょっと意味が取りにくい説明です。

盛岡高等農林で賢治が修学旅行で行った数ヶ月前に、箱根火山の模型を購入しました。この立体模型の側面を外すと断面図が出てきます。この断面のギザギザの形が船の形ですが、これを開くと、むかでを横から見た断面のように見えます。これも岩手大学で公開していますのでおいでになる機会があればよりよく意味が理解できると思います。また、このとき箱根で次の歌を詠みました。

「輝石たち こころせはしく さよならを言いかはすらん 函根のうすひ」
「わかれたる鉱物たちのなげくらめ はこねの山のうすれ日にして」
と、学んだことと、現地での体験が賢治の作品に色濃く残されているのです。 

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南昌山と岩頸

南昌山と岩頸火山が噴いてきた最後のマグマ(岩頚=がんけい)の部分が残っているユニークな火山の1つです。賢治は一時仏教に帰依しましたが、お経を埋むべき山の1つとして南昌山を選んでいたことがあり、大変関心が強くなんども訪れています。

賢治は「岩頸」にも深い興味をもっていて作品中にもしばしば取り扱われています。前出の「楢の木大学士の野宿」で次のように説明されています。

「諸君、手っ取り早く云ふならば、岩頸といふのは、地殻から一寸頸を出した太い岩石の棒である。その頸がすなはち一つの山である。ええ。一つの山である。

ふん。どうしてそんな変なものができたといふなら、そいつは蓋し簡単だ。ええ。ここに一つの火山がある。熔岩を流す。その熔岩は地殻の深いところから太い棒になってのぼって来る。火山がだんだん衰へて、その腹の中まで冷えてしまふ。熔岩の棒もかたまってしまふ。それから火山は永い間に空気や水のために、だんだん崩れる。たうたう削られてへらされて、しまひには上の方がすっかり無くなって、前のかたまった熔岩の棒だけが、やっと残るといふあんばいだ。この棒は大抵頸だけを出して、一つの山になってゐる。それが岩頸だ。」

ご清聴感謝、宮沢賢治と地的世界の本

この他詩や短歌にも以下のように「岩頸」がたびたびでてきます。たとえば、初期の『春と修羅』所載の「雲の信号」では「岩頸だつて岩鐘だつて みんな時間のないころの夢をみてゐるのだ」、同「風景とオルゴール」では「松倉山や五間森ごけんもり荒っぽい石英安山岩デサイトの岩頸から」とあり、『補遺詩篇2』の中には[そそり立つ江釣子森の岩頸と]があり、『春と修羅補遺』の「自由画検定委員」では「黒い三つの岩頸は もう日も暮れたのでさびしくめいめいの銹をはく」、同「駒ケ岳」では「いまその赭い岩頸に」とあり、『春と修羅第二集』所載の「157[ほほじろは鼓のかたちにひるがへるし]では「岩頸列はまだ暗い霧にひたされて」、晩年の『文語詩稿五十篇』所載の「上流」でも「暗き岩頸風の雲、 天のけはひをうかがひぬ」、『文語詩稿一百篇』所載の「開墾地落上」では「松の岩頸 春の雲、コップに小さく映るなり」と繰り返し詠われています。最初の方で述べたように、南晶山での体験からかよほど関心が深かったのでしょう。

以上に、賢治と地質学への関わりを若干述べました。ご理解を賜れば幸いです。

終わり


文責:三上卓治
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:和田節子

本文はここまでです



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