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神田雑学大学 平成20年8月1日 講座


「戦前内務省における出版検閲【PART-2】:禁止処分のいろいろ、講師 浅岡 邦雄(中京大学)

目次

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はじめに
1.戦前の出版法制の概要
2.内務省の検閲事務の組織
3.禁止処分・処置の諸相
4.禁止処分後の処置



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講師 浅岡邦雄氏 神田雑学大学・千代田図書館共催
演題 千代田図書館トークイベント
 「戦前内務省における出版検閲【PART-2】
 :禁止処分のいろいろ」
場所:九段生涯学習館第一学習室

講師:浅岡邦雄氏(中京大学)

はじめに

 今年の2月に、千代田図書館に所蔵されているいわゆる内務省委託本の展示会があり、その際に内務省の検閲についてお話しました。検閲というと「発禁」というイメージがありますが、正式には「発売頒布禁止」といいます。その処分は結構複雑なものですが、本日はその概略についてお話したいと思います。

 内務省の出版検閲に関して、明治、大正のころどうなっていたかということは殆どわかっておりません。なぜなら関東大震災で一次資料の殆どが焼失してしまったからです。6つか7つあったと言われている内務省の倉庫に、検閲済みの資料が保存されていたようですが、それらはすべて灰になってしまいました。ですから本日の話は、大正末から昭和にかけてが対象となります。昭和も戦時中はいろいろな時代状況により複雑なことになっていますので、日中戦争前あたりまでを中心にお話します。

 戦前の検閲がどのような組織でどのようなプロセスで行われていたのか、ということの概略をお話ししながら、今日は実際に発売頒布禁止やその他の資料を持ってきましたので、それらを見ながら解説していきます。
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1.戦前の出版法制の概要

 戦前の出版物は、明治の初めから敗戦に至るまで出版法規が定められ、それに規制されていました。その法律は、書籍については「出版法」(その前は「出版条例」)、新聞・雑誌は基本的に「新聞紙法」(その前は「新聞紙条例」)、この2つの法律によって規制を受けてきました。
 新聞・雑誌については“基本的に”と申しましたが、「雑誌のうち一部のものについては出版法によって出版することができる」とも定められていたからです。一部のものというのは、学術・技芸・統計等を掲載するものを指します。

 出版法と新聞紙法の中から、検閲に関わる部分を抜粋して配布資料に挙げておきました。出版法と新聞紙法は、明治26年に議会で審議され、出版法は明治26年公布されたのにたいし、新聞紙法の審議はなかなか進まず、公布は明治42年と遅れました。

◎出版法について 「出版法」(明治26年4月13日公布・法律第15号)について、その概要を述べます。

<第1条>およそ機械舎蜜其の他何等の方法を以てするを問わず、文書図画を印刷して之を発売し,又は領布するを出版と云い、其の文書を著述し又は編纂し若は図画を作為する者を著作者と云い、発売領布を担当する者を発行者と云い、印刷を担当する者を印刷者と云う。

 これは、概念規定をしている箇所です。「何等の方法を以てするを問わず」つまり、印刷のことを指していますがかなり幅が広いものです。ただし、手で書き写す、いわゆる写本は印刷に含みません。いわゆる「ガリ版刷り」は印刷に含まれます。大正期には、「カーボン複写が印刷かどうか」ということが裁判になりましたが、大審院で「印刷に含まず」と判断されました。つまり、この第一条で規定されているのは、活版・木版・石版・銅版・ガリ版、までという解釈がされています。
 次に、発売と頒布、よく似た言葉が並んでいます。発売というのは「有償をもってモノを広く流通させること」、頒布というのは「有償であれ無償であれ、広く流通させること」を指します。非売品でも出版物であるということです。

<第3条>文書図画を出版するときは、発行の日より到達すべき日数を除き、三日前に製本二部を添え内務省に届出べし。

 「製本2部を添え」というところがわかりにくいのですが、これは、「出版届(1部)に製本2部を添えて」という意味です。明治26年から出版届を1部というのはずっと続き、昭和9年の出版法の一部改正の際に、出版届が2部に変更になります。それ以降は昭和20年9月にこの法律の効力がなくなるまで、出版届2部に製本2部の提出が義務付けられています。

<第9条>書簡、通信、報告、社則、塾則、引札、諸芸の番付、諸種の用紙証書の類、及写真は第三条第六条第七条第八条に拠るを要せず(以下略)。

 要するに、「書簡、通信、報告、社則、塾則、引札、諸芸の番付、諸種の用紙証書の類及写真」は出版届・納本が必要ないと定められています。ただし、「報告、引札(宣伝用のビラ)」は届が必要ないけれど、広告用ではない、例えば、ストライキ・労働運動・左翼運動のビラや報告などがだんだん増えてくる状況になると、内務省はこれも届け出の対象にしたいと考え、裁判を起こします。しかし、大審院は第9条を認めて、訴えられた側が無罪となりました。その後内務省は、司法省と協議を重ね「報告、引札」も納本の対象とすることとなりました。そのようなこともあり、統計では昭和に入ると納本の件数が増えていきます。

<第19条>安寧秩序を妨害し、又は風俗を壊乱するものと認むる文書図画を出版したるときは、内務大臣に於いてその発売領布を禁じ、其の刻版及印本を差押ふることを得。

 これが、検閲により発売頒布を禁止する際の一番中心になる条項で、内務大臣の専権事項です。あとで、権限の委譲の話がでてきますが、基本的には発売頒布の禁止は内務大臣名で出されます。

◎新聞紙法(明治42年5月6日公布・法律第41号)について
新聞紙法の場合は、またちょっと違います。

<第1条>本法に於いて新聞紙と称するは、一定の題号を用ゐ時期を定め、又は六箇月以内の期間に於て時期を定めずして発行する著作物、及定時期以外に本著作物と同一題号を用ゐて臨時発行する著作物を謂う(以下略)。

 新聞紙の概念規定の部分です。「一定の題号を用ゐ時期を定め、又は六箇月以内の期間に於て時期を定めずして発行する著作物」とありますので、必ずしも新聞だけが対象ではありません。この新聞紙法では、一般にいう雑誌も、新聞紙の概念に当てはまります。

<第11条>新聞紙は発行と同時に内務省に二部、管轄地方官庁、地方裁判所検事局及区裁判所検事局に各一部を納むべし。

 出版法による図書の場合は2部でしたが、新聞紙法による新聞紙・雑誌の場合は5部の提出が求められています。「発行と同時に」となっている点が図書と異なります。

<第23号>内務大臣は、新聞紙掲載の事項にして安寧秩序を紊し、又は風俗を害するものと認むるときは,其の発売領布を禁止し、必要の場合に於ては之を差押ふることを得。 前項の場合に於て、内務大臣は同一主旨の事項の掲載を差止むることを得。

 ここは、出版法の第19条とほぼ重なるところです。

講演会場風景

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2.内務省の検閲事務の組織

◎事務部局
 続いて、内務省の検閲事務の組織についてお話します。明治8年から、検閲業務は内務省の所管になります。いろいろ部局が変わりますが、明治26年から昭和15年12月までは、内務省警保局図書課が検閲を担当しています。そして、昭和15年12月から、内務省図書課を検閲課と改称しました。戦時体制になっている時期です。同時に、情報の一元化を目指して、陸軍省、海軍省、外務省、逓信省それぞれの情報部局、および内務省検閲課から出向するという形で、情報局が設立されました。情報局に最初は部が5部作られ、その中の第4部第1課が検閲にあたるという形でした、実質的には内務省検閲課の職員が出向していますから内実はほぼ同じでした。

◎処分・差押さえ権限の委譲
 このように内務省の図書課が検閲に関わり、基本的には発売頒布の禁止などを内務大臣の権限で行っていましたが、その権限の一部が地方の警察部に委譲されています。その対象は、「1春画、2陰部を露出せる人物画及び写真、3淫本、4一見明らかに前各号の広告又は紹介と認められる印刷本」(大正7年、内務省訓令、2年後に4番目がなくなる)でした。これら春画・春本については、「各管内の警察が見つけ次第、処分と差し押さえをしてよろしい」という権限の委譲をしています。
 これは、地方の警察部が見つけて、いちいち内務省に届けて・・・という時間的なタイムラグをなくすためです。

 ここで、ちょっと余談ですが特高の話をします。悪名高い「特別高等警察」は、検閲とも関わりがあります。
 明治43年に起きた大逆事件を背景にして、明治44年に警視庁に特別高等警察課が設置されました。その後、大阪や名古屋などの主要都市にも特高課が作られ、昭和3年の三・一五事件のあとに全国府県の警察部の中に特高課が作られます。これら全国の特高課の総元締めを担当していたのが内務省警保局保安課でした。昭和7年、警視庁特高課が特高部へ格上げになり、その中にある検閲係も検閲課に格上げされました。先に紹介した新聞紙法第11条で5部の提出先として挙げられている「管轄地方官庁」が、東京ではこの部署にあたります。

   ここでは各地方で出される出版物のチェックをしますが処分や差し押さえの権限はありませんから、なにか検閲上問題になったものが出てきた場合には、各警察部と内務省の直通の電報(のちに電話)を使い内務省図書課に連絡して指示を仰いでいました。これが地方の特高の仕事の一つでもありましたし、内務省図書課だけが検閲をしていたわけではなく、出版物のチェックが何層かにわたっていたというのはこういうことです。

 また、出版物以外の放送(ラジオ)は逓信省電務局、演劇は各府県警察部(東京の場合は、警視庁保安課)が担当していました。昭和になって問題となったのが、この演劇の検閲です。芝居を行うときには事前に台本を提出するのですが、例えば東京公演の時に警視庁の許可を得られ上演できても、同じ芝居を大阪で興行しようとする際に、また大阪の警察部に台本を提出する必要がでてきます。これを一本化してほしいと、文芸協会等から請願がしばしば行われていましたが、結局昭和20年まで変わることはありませんでした。

 参考資料として、戦前、実際に警視庁保安課で演劇の検閲を担当していた氏田氏の回顧談を紹介します、大変興味深いものです。
氏田勝恵「戦前・戦中の検閲制度について聞く」(悲劇喜劇、No.278、p.70-80、1973.11)

◎警保局図書課の人員配置の変遷
 内務省の図書課に実際どのくらいの人員が配置されていたのか、お話しましょう。配布資料の数字は、2月に行った講演のときと出典が異なるため、少々異なります。今回は『内務省警察統計報告』より作成しました。大正13年以前のデータは不明です。
 書記官は課長、事務官は係長、理事官(昭和9年から設置)は事務官の補佐、その下に属官、ここまでが正規の内務省職員で、そのほか嘱託や雇員という非常勤職があります。大正13年から昭和2年までは24名を超えることはありませんでしたが、昭和3年に61名、昭和10年には100名を超える人員が配置されます。昭和3年には、警保局に臨時予算が付いたため、人員数を増加したようです。

講演会場風景  配布資料の中に、当時の新聞の切り抜きがあります。「内務省図書課、目の廻るようなその検閲ぶり」【読売新聞 1925(大正14)年9月16日 朝刊(4面)】の記事の中に、「危なさうなものから先に手をつける・・・題名と書出を調べてペラペラとやって大体の経過を・・・」と書かれ、納本されたものを順番に目をとおしたわけではなく、まずマークしているものから優先的にチェックしていた様子が読み取れます。「内閲は・・・出来るだけお断りして居ります」とあり、一切していませんと書かれているわけではない、つまり、大正期には内閲が行われていたことが読み取れます。このあたりは後で、分割還付のところでも触れます。

 また、「閲覧地獄に検閲係の悲鳴」【読売新聞 1928(昭和3)年4月16日 夕刊(11面)】の記事の中に、「一人一日二百余種の検閲に図書課員何れも神経病」とあります。一人一日二百余種というのは、物理的にほとんど無理です。
内務省図書課がほとんどパンク状態であることが読み取れます。「恐らく獣医にでも診て貰う程頑健な身体の人でなければ勤まりません」と書かれています(笑)。昭和3年12月末に61名へと人員増される以前の状況です。「平凡なのものは実際の所見て居ません。盲判です。」ここでも、優先順位をつけて検閲していたことが読み取れます。

◎検閲の基準
 検閲をする上では、一定の基準がありました。一般に広く知られていたわけではなく、内部資料として関係者だけが知っていた基準です。「安寧」と「風俗」の2本柱について、それぞれ一般的標準と特殊的標準がありました。ここでは、昭和5年の安寧のものを紹介します。(典拠:『昭和5年中に於ける出版警察概観』)
◇一般的標準
1.皇室の尊厳を冒涜する事項
2.君主制を否認する事項
3.共産主義、無政府主義等の理論乃至戦略、戦術を宣伝し、若は其の運動実行を扇動し、
  又は此の種の革命団体を支持する事項
4.法律裁判所等権力作用の階級性を高調し、其の他甚だしく之を曲説する事項
5.テロ、直接行動、大衆暴動等を扇動する事項
6.植民地の独立運動を扇動する事項
7.非合法的に議会制度を否認する事項
8.国軍存立の基礎を動揺せしむる事項
9.外国の君主、大統領、又は帝國に派遣せられたる外国使節の名誉を毀損し、之が為め
  国交上重大なる支障を来す事項
10.軍事外交上重大なる支障を来す可き機密事項
11.犯罪を扇動、若は曲庇し、又は犯罪人、若は刑事被告人を賞恤救護する事項
12.重大犯人の捜査上甚大なる支障を生じ其の不検挙により社会の不安を惹起するが如き
  事項(特に日本共産党残党員検挙に此の例あり)
13.財産を攪乱し、其の他著しく社会の不安を惹起する事項)

◇特殊的標準
1.出版物の目的
2.読者の範囲
3.出版物の発行部数及社会的勢力
4.発行当時の社会情勢
5.領布地域
6.不穏箇所の分量

 係官(属官)が、執務内規に従い検閲事務をおこない、必要があればコメントを付して上司の事務官(係長)にあげ、事務官が概ね処置を決定していました。千代田図書館が所蔵する「内務省委託本」にも、その経過を見ることができるものがあります。
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3.禁止処分・処置の諸相

◎発売領布禁止 発売頒布禁止スタンプ
 出版法第19条、新聞紙法第23条により発売領布を禁止したもので、安寧秩序妨害と風俗壊乱が主要条件ですが、きわめて広範囲に適用が可能な条項です。実際に発売頒布禁止処分になった本(検閲原本)は国会図書館にありますが、持ってくることができませんので、その複写物を回覧します。これは、禁止処分になっていますので、局長の印もあります。処分の根拠となった部分の本文には赤線が引かれています。この処分となった本は、当然差し押さえになります。

 配布資料の出版警察関係資料に掲載されている発禁処分の件数をごらんください。安寧と風俗に分けて件数が書かれていますが、風俗の下の方に「委任による禁止」という項目があります。

 これが先ほどお話した、内務省図書課が各地方の警察部に権限を委譲して禁止となったところ(春画・春本)です。大正末には、ここの数値が大きくなっています。
 発売頒布禁止の以外にもいくつか処分がありました。

◎削除処分
 不穏箇所または不良とみとめられる箇所の分量が比較的僅少で、削減すれば社会的に問題なしと判断されたものは、当該箇所を削除して頒布させました。これは現物をたくさんもってきましたので、後でご覧ください。こちらも配布資料に掲載されている削除処分の件数を入れてあります。

◎分割還付
 これは出版法に定められていた処分ではなく、それまで便宜運用として行われていた内閲を廃止したことによる見返りの運用措置です。昭和2年9月以降に刊行されたものが対象とされました。発売頒布禁止処分が下ると発行された出版物はすべて差し押さえられ、警察を通して押収されます。このときに、出版社が「問題となった箇所だけを削除するから、還付してほしい」という願いを内務省に提出し、認められた場合に限り、該当部分を削除して還付されるものです。

 例えば、雑誌などは印刷後に発売頒布禁止処分を受けると、多大な損害がでますから、「これは危なそうだ」という部分を事前にチェックしてもらう内閲(内検閲)という便宜運用がありましたが、この作業量が増えてきて内務省でも対応しきれず廃止するかわりに行われた処置です。

 次の話は、内閲廃止に直接関係があるかどうかわかりませんが・・・。内閲は便宜で行っていたので、正式なものではありませんから、内閲でパスしたものが、本来の検閲で引っ掛かり発売頒布禁止処分が出てしまったことがあり、その出版社が裁判を起こすということがありました。内務省としては、厚意として内閲しているのに裁判にするのはけしからんという思いもあったのかもしれません。

 配布資料、奈良正路著『座談会の研究』分割還付の願書(国立国会図書館所蔵)の複写をご覧ください。この願は却下されています。「分割還付に該当するものではないので却下」との検閲官の記入が見られます。このように、分割還付の願が出されそれが認められれば、削除された押収物が還付されるという運用が行われていました。

◎次版改定(次版削除)
 不穏・不良の程度が比較的軽微なものは、とりあえずその版は発売領布を認めるが、次に増刷する場合は、指摘された箇所を訂正(削除)しなければならないとする処分です。

   こういういくつかの処分のほかにも、新聞では「記事差し止め」、そのほか「注意処分」などの処分があります。「注意処分」はなかなか表にでてきませんが、図書課ないしは警視庁の検閲係から「今回は目をつぶるけれど、続けてこのようなことをすると処分する」という警告がなされることもありました。
 いわゆる伏せ字の種類もいろいろあります。ほとんど空白でごく一部活字がある、というものも見られます。これらは、実物を持ってきましたので、あとで見てみてください。伏せ字は、出版する側の自主規制もありますし、先ほどお話した内閲で指定された箇所を伏せ字にしたというケースもあります。
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4.禁止処分後の処置

 禁止処分が出た後はどうなるか、についてお話します。
 内務省は納本されたものを検閲し、処分を決定する部署です。処分が決定した出版物については、全国の警察部、東京では警視庁が、当該の出版物を押収します。発売頒布禁止処分となった出版物について、実際にどのくらいを押収できるものなのかは、刊行物によってだいぶ違いがあります。配布資料、『出版警察報』から引用した「警視庁に於ける出版物取締の現状」をご覧ください。

 『憲法の歴史的研究』という本で見てみますと、発行部数が1,200点、そのうち管内(ここでは東京)で700点、そのうちの差し押さえ部数が252点ですから、半分以下となります。『レーニン主義諸問題』は、発行部数200点(管内で180点)のうち差し押さえ部数61点ですから、三分の一。『マルクス主義哲学』は6,200点発行のうち、6,200点が差し押さえられ、100%です。『性教典』も100%差し押さえられています。

検閲を受けたレーニンの本  『マルクス主義哲学』や『性教典』は、取次や一般の小売書店に行く前の段階、つまり発行所や印刷所にモノがあるうちに差し押さえができたというケースです。ところが、流通に流れてしまうとこの数字がガクッと下がります。例えば『婦人公論』7月号は、発行部数221,000点、差し押さえ部数7,279点とわずか3%、『中央公論』8月号は1割弱の差し押さえとなっています。出版物にどの段階で禁止命令がでたかによって、差し押さえの執行状況は大きく変わってくるのです。

 この『出版警察報第』58号では、『今後(の差し押さえ)は古本市での流通にも注目するべき」と記載されています。実際、ある程度流通に流れてしまうと、禁止処分がでても差し押さえの部数がなかなか上がらないため、差し押さえを行う警視庁や警察部ではこれをどうするか、というのがかなり問題になっていたようです。  削除処分が出た場合、出版社側が総動員で取次・書店の当該出版物を削除、または遠隔地の書店には削除依頼を通報しました。それに加えて、その地域の警察官が各書店にいって、その箇所を警官が削除するということが行われました。

 またちょっと余談ですが、上林暁という私小説で有名な作家がいますが、彼は作家になる前に改造社で編集者をしていました。彼の『伏字』という作品の中で、雑誌「改造」が削除処分を受けた時のことを描いた部分があります。おそらく自分が経験したことなのでしょう。全集の中にも入っていますので、興味があったら読んでみてください。

 配布資料をごらんください。改造社が出している『文芸』という雑誌に掲載された、太宰治「花火」という作品が削除処分を受けました。そのとき改造社から、日本出版配給(取次)の各営業所へ向けた削除(切り取り)依頼の文書と、全国の書店に向けて発送した切り取り依頼のハガキの複写で、珍しい資料です。

 あと、今日持ってきた資料をいくつか紹介します。あとで、実際に見てみてください。
 この『出版物行政処分名簿』は愛知県知多郡にある伊藤書店というところで記録していた手書きのものです。いちばん下にある判子は警察官のものです。各種処分がでますと、愛知県の各警察署を通して管轄の書店に連絡が行き、削除したり押収したりしていました。書店に出向き処分を伝えた警察官の印であり、その処分を記録していた台帳と思われます。

 この『昭和15年9月10日現在 左翼出版物治警処分台帳』、これは警視庁特高部の検閲課が出したものです。すでに戦時体制になっている時期ですが、以前に出版された左翼系の出版物で流通に流れているものについて、この段階で改めて発売禁止の処分にしています。「治警処分」というのは、治安警察法という法律における処分です、治安維持法という悪名高い法律がありますが、あれとは別です。治安警察法は明治33年に公布されたものですが、その中の第16条に「街頭其の他、公衆の自由に交通することを得る場所に於て、文書、図画、詩歌ノ掲示、頒布、朗読若は放吟又は言語形容其の他の作為を為し、其の状況安寧秩序を紊し、若は風俗を害するの虞ありと認むるときは、警察官に於て禁止を命することを得」とあります。昭和15年の段階では、この第16条を拡大解釈して、既に流通に流れている出版物について書店・古書店からおそらく押収し、図書館の資料を閲覧禁止にしてほしいと連絡するための台帳です。

 本日お話しましたように、一言に検閲といいましても、時代によってかなりいろいろな局面がありました。1920年代後半から1930年代の頭くらいまでは、比較的ゆるやかでした。昭和2年に、当時の警保局長であった山岡という人が「第一次世界大戦のあたりは大変厳しかった。が、現在は最も変遷の著しきものあるを認めざるを得ず。」と。つまり、左翼系の出版物でも理論の紹介であれば不問に付していたと内部の会議で発言しています。ところが、戦時体制になりますと、これまであまり問題にされていないようなことが、しばしば「軍事機密に触れる」ということで処分を受けるようになります。

検閲資料を見る人々  では、最後に、『出版警察報』第63号(昭和8年12月)から、一つたいへん興味深い部分を紹介いたします。その中に『聊斎志異』の翻訳が風俗で発売頒布禁止になったときのことが触れられています。 「本書は、在来の『聊斎志異』の訳書を圧するごとき名訳で、忠実に原文の美しさを伝えようと苦心したあとの歴然と看取されるものであった。そのため、在来の訳文でぼかしてあった風俗上おもしろからざる部分を平易に克明に訳し出し、結果において禁止処分にせざるを得ないようなことに立ち至ったことは、検閲者の立場として惜しい気がする。文学あるいは芸術の一つの力作・傑作と称せられるものを検閲する場合の大きな悩みは、常にこの種の問題において古来より繰り返されている。あるときは検閲者の没常識が罵倒され、当局の頑迷が攻撃されている。」   この本です。付箋をいれておきましたので、あとでご覧ください(笑)。

 戦前の検閲は、大枠として、まず「出版法」「新聞紙法」の二つの法律があり、それを補完する形で権限の委譲など重層的な形で行われていたのでした。

 以上です。それでは、持ってきた実物の資料を順にご覧ください。



文責:河合 郁子
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:大野 令治

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