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2010年1月29日 神田雑学大学定例講座No491

千代田図書館トークイベント

古書販売目録と国文学研究、講師、井上宗雄



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講師プロファイル
1.千代田図書館企画河合さんから講師紹介
2.国文学研究について
3.和歌の分野への傾倒
4.室町時代の和歌、歌論の研究へ、歌書調査へ
5.古書目録との出会い
6.古書販売目録の保存について
7.まとめ




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マイクを片手に講義中の井上講師講師プロフィール
大正15年10月10日生まれ。昭和46年立大教授。平成4年早大教授。中世文学,和歌史を専攻し,中世歌壇の動向を「中世歌壇史の研究」にまとめる。ほかに「平安後期歌人伝の研究」「鎌倉時代歌人伝の研究」「中世歌壇と歌人伝の研究」など。俳誌「寒雷(かんらい)」同人。東京出身。早大卒。
日本人名大辞典, ジャパンナレッジ (オンラインデータベース)より


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1.千代田図書館企画河合さんから講師紹介
本日は千代田図書館のトークベント「古書販売目録と国文学研究」にご参加いただきありがとうございます。本日の講演会は現在千代田図書館で開催中の企画展示「古書販売目録と反町茂雄」に関連して開催されました。

「古書販売目録って何?」という方もいらっしゃると思います。簡単にご紹介しますと、古書販売目録と言いますのは古書店の商品販売カタログに当たります。千代田図書館には明治から昭和中期にかけての古書の商品紹介のカタログが約7000点ありまして、とても特殊なコレクションであるという評価を頂いています。

河合さん古書販売目録は沢山印刷してお客様に配るものですから、一点一点が世の中に稀な資料というわけではありません。普通通信販売のカタログを手元に残しておく人はいないと思うのですね。そういう点で古い販売目録がまとまって保存されている例が全国的に見ても稀で、特殊なコレクションだということになります。

ではそんな古い商品カタログがなんの役に立つのかという疑問が出てくると思います。どのような書物が存在してどのような価格で取引されていたのかという点で、その古いカタログから日本における和書や古典籍がどのように取引されたかという事実を知る資料として意義のあるコレクションだと言われています。

本日は立教大学名誉教授の井上宗雄先生に講師に来ていただいております。井上先生が研究の中で古書販売目録を活用なさった事例を具体的に伺っていきたいと思います。
それでは井上先生よろしくお願いいたします。

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2.国文学研究について
井上でございます。「古書販売目録と国文学研究」と大層な題目でお話し申し上げることになりましたが、ちょっとどうお話しようかと戸惑っております。と申しますのも千代田図書館からお話を頂いた時、実は私の前に中野三敏さんが古書販売目録についてお話なさるということを伺いまして、中野さんは話も上手いし面白いし、ああいう人のあとで話をするのは憂鬱だなーと思いました。それで彼は面白い話をするだろうからそれなら彼に対抗して少し難しい国文学研究の話にしようと考えて、そんなテーマ名にしてしまったんです。

国文学研究というのはこのところ虐げられた学問なのです。これは私のひがみと言われるかもしれませんが、どこの大学でも国文科というのは少なくなりまして、なにか良く分からない文科学科のなかの一つになることがあるようです。これは国文学ばかりでなくどうも人文科学そのものが若干冷や飯を食わされているように私には思えるのです。理系が非常に重要視されて、特にすぐお金になるような学問が非常に大事だと言うような風潮があるように感じます。人文科学の中でも特に国文学はなんとなく古い感じがして、そう華やかなものではないという感じがあるのではないかと思います。

ところがこの国文学というのは非常に範囲が広くて、古いものでは古事記、日本書紀の時代から現在まであるのです。千何百年という長い期間が対象になるわけです。しかもその横幅で言いますと韻文の詩歌から始まって随筆、日記、紀行あるいは物語、散文に到るまで幅の広い研究分野が展開されているわけです。私も国文学研究という題を出しましたけれども、私は専門が韻文で、特に詩歌のなかでも和歌が専門です。

俳句は若いころから作っておりましてもう60年以上になるかと思います。研究より実作の方に手を染めているのですが、これはどうも才能がないということが良く分かってきて、プロ級の俳人にはとてもなれないと思っています。ただ私のお師匠さんだけは加藤楸邨(かとうしゅうそん)という非常に偉い人で、お師匠さんが偉いとなんとなく弟子も偉いような錯覚を起こすことが多いものですから、私もお師匠さんの名前を挙げています。したがって俳諧、俳句の方は自分が作っていると言う関心でもって研究の方も横眼で眺めていると言うところです。

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3.和歌の分野への傾倒
私の学生時代、昭和20年代ですけれども、よく言われたのです。「おまえ自分でやろうと思ったら、その文学ジャンルがどういう展開をしてきたか、歴史的にさかのぼって研究しなければ駄目だ。」そう言われて、私が学生時代一番関心があったのは、俳句と俳諧だったのです。それで「そう言われますとそういうものかなー」と思いまして、俳諧から連歌にさかのぼりまして、連歌から和歌にさかのぼったのです。

和歌にさかのぼっているうちに和歌に携わる人間に興味がわいてきました。
その後教員になりましてその分野を専門に調べるようになりました。和歌の文芸としての研究はそっちのけにしまして、もっぱら歌人の伝記ですとか、あるいは歌人集団の様子、つまり仲良くなったり、喧嘩をするようになったりする様子を調べました。
特に平安時代の和歌は大体貴族中心ですね。

講義中の部屋の様子

貴族と坊さんと女房とが作者層の中心であったわけです。ところがこの貴族社会というものは、我々が現在考えているような優雅な優美な上品なものではなくて、実際は政権をめぐる権力闘争という、いつの時代にもあるような渦中に巻き込まれた上流の、政権を担う貴族が非常に多かったのです。そういう世界の中から雅びな優雅な和歌を作るというのが平安時代だったと思います。

ところが和歌というものが、漢詩に対抗して日本の詩であるという自覚が非常に強く湧きおこってきて、それで和歌を専門にする人々が生まれてきたのが、大体平安時代の終りから鎌倉時代であったと思います。つまり和歌というものが宮中において一つの儀礼になっていく、そうするとその儀礼にあずかる歌人達が貴族歌人として政治と大きな関わりを持ってくる。その政治と和歌というものの結びつきが、結局歌の家、歌道家と結合して、自分たちの歌はこういう歌なんだ、他と比較するとこう違うんだというふうに、歌に対する考え方や和歌そのものの作品の特色というものが、それぞれの家で異なってくるのです。

それが結局政権と結びついて、非常に熾烈な対抗ということが行われるのが、鎌倉時代の後半だったと思います。いうなれば歌壇構成というものが非常に複雑化してきた、ということが鎌倉時代には言えると思います。和歌の歴史を調べておりますと、平安時代の末くらいから江戸時代の初めの頃までは大体一つの共通した性格で流れて来たということが分かってまいりました。つまり平安時代の歌というのは、貴族たちの平常時の雅びな生活、優雅な生活そのものが反映する歌が基本であったという風に考えてもいいんではないかと思います。

正岡子規以来なんでしょうが、よく万葉の歌というのは生活に密着した非常に力強いものだと言われていますが、平安時代の歌も、実は力強くはないけれど非常に生活に密着している、その生活は日常では優美な、優雅な、雅びな生活、それをそのまま歌にしています。『古今和歌集』、『後撰和歌集』、『拾遺和歌集』、あるいは『後拾遺和歌集』というような平安時代の勅撰集にはっきり表れているのではないかと思います。

歌人たちが専門化してきて、そこに流派と言いますか派閥と言いますか、幾つかの集団が生れてくるわけです。短詩型文学というのは、短歌も俳句もだいたいそういう中から作られると思うのです。ただなかには一人で作る天才というものがいないわけではないんですが、大体においてグループを作りやすいですね。例えば西行のような有名な歌人、ある意味では天才的な歌人だっただろうと思うような歌人でも、一人で歌を作っていたかというとそうではなくて、藤原俊成とは非常に仲が良かったし、定家の面倒を見てやったし、あの俊成、定家の家とは持ちつ持たれつのような交渉があったわけで、決して一人でああいう歌を作っていたわけではないのです。

本を片手に講義をしているところその雅びな生活の中から自ずから生れてくる和歌を、現在の研究者は「王朝和歌」と言い方をしています。まあ平安和歌と言ってもいいんでしょうが、研究者間のテクニカルワードとしては王朝和歌と言う言葉が使われます。先程申し上げましたようにそういう王朝和歌の歌人の中から俊成のような専門歌人が出てきて、色々な流派が出来て、歌の考え方、いわゆる歌論ですね、それから歌の作り方、歌風というものがそれぞれグループによって違ってくる、その先鞭をつけたのが六条家と言われています。

六条家には源氏と藤原氏と両方ありますが、この歌の家の場合は藤原氏の方で「六条藤家(ろくじょうとうけ)」という言い方をしています。六条藤家でもっとも有名なのは清輔(きよすけ)という人だったろうと思います。詞花集という勅撰集の撰者、顕輔(あきすけ)、その息子が清輔です。この清輔は、学者としての名前に圧倒されて、歌学者と言うことになっていますが、私は歌も相当上手だったと思っています。百人一首の「秋風に たなびく雲の たえまより もれいづる月の かげのさやけさ」は父顕輔の歌で、「ながらへば 又この比や 忍ばれん うしとみしよぞ 今は恋しき」というのが清輔の歌です。百人一首はご存じのとおり藤原の定家が選んでいるわけですが、定家もこの顕輔、清輔のことは歌人として認めていたわけです。

ただ清輔というひとは先程も申し上げたように非常に知識の広い人で、歌のことは何でも知っていたというんです。こんなことまではまさか知らないだろうと思って質問するとすぐ答えたというんです。「歌の方の弘才は肩を並ぶる人なし」と言われたほどで歌学者として有名です。そういう六条家に対抗して新しく登場してきたのが、先程申し上げました俊成です。平安時代のごく末の時代、俊成と清輔はライバルだったと言われています。

まあこの歌風がどう違ったかと言うのはすごく面倒な問題がありますが、どちらかと言うと非常にまともな、理知的な、伝統的な歌風が六条家の歌風で、それに対抗して、今風に言うと前衛派的な、破格な、ちょっと人の思いもつかないような感覚で歌を作っていく、それが俊成、定家などの天才肌の歌人たちの歌風であったと思われます。

平安時代の王朝和歌の時代の和歌に「社交雅語」という言葉を使う方もいます。
挨拶をする場合、あるいは手紙でやりとりをする場合、歌でもってやることが非常に多い。それはつまり生活の中が雅びの生活ですから、歌も非常に優雅な歌になる。それで社交雅語ともいう人がいるのです。その生活に密着した平安時代の和歌、百人一首で例を挙げれば、相手の人、異性を口説く場合、口説かれたときにどう答えるか、あるいは贈答的な歌などがあります

「しのぶれど 色にいでにけり わが恋は 物や思ふと 人のとふまで」や「こひすてふ わが名はまだき 立ちにけり 人しれずこそ 思ひそめしか」などは歌合の歌ですが、貴族の生活の実体験から出てきた和歌というものが王朝和歌であった言えるとおもいます。
和歌が専門歌人によって芸術化していく、それを我々は普通「中世和歌」という言い方をしています。その頂点に立つのが『新古今和歌集』だろうと思います。つまり新古今集の中心をなすような歌というものは一見生活的に見えるけれども、生活よりも美的な世界と言うものを構築しようとしているのです。

「こまとめて 袖うちはらふ かげもなし さののわたりの 雪の夕暮」という歌を考えても、そういう行動というのはたしかあり得たと思うのですよ。雪の中で駒を止めて、一人の貴族がそでを打ち払うその物陰さえもない、という「新古今集」の定家の有名な歌ですが、これはやっぱり馬に乗って歩みが止まってしまうような辛い旅ではなくて、白一色のなかで一人の貴族が馬に乗って進んでいく、言うなれば白の世界、美の世界というものを表しているわけで、生活そのものを打ち出しているわけではないわけです。新古今というのは、中心はそういうような和歌であったと思います。

だいたい歌の流れというのはこういう風になっていまして、研究者の間では、平安の末に王朝和歌から中世和歌への展開は最近非常によく調べられていると思います。
中世を鎌倉、南北朝、室町というふうに分けると鎌倉時代の末から南北朝時代までの研究はかなり進んでいます。何故かと言うと鎌倉時代の後半に政治と密接に結びついた、「京極派和歌」というものがユニークな形で立ちあがっていたわけです。

鎌倉時代後期に、皇統が大覚寺統と持明院統に分裂するのですが、この京極派和歌というのは持明院統と密接に結びつき、しかも非常に分かりやすかったのです。あまりやかましい技巧を使わないで、非常に素直に自然を写していく。そういうところがあるわけです。
まあ中世は、むしろ伝統的な、雅びな二条派の和歌というのが主流だったわけで、それに対して自然を見るままに詠んでいくとやり方というのは、どちらかと言えば異端だったわけです。

しかし近代になってから、非常に重要視されて、この京極派和歌も盛んに研究がなされてきたわけです。例えば有名な土岐善麿(ときぜんまろ)という歌人が、京極派和歌というものを非常に高く評価していました。私は土岐善麿に教わりましたから先生と言っていますが、先生は非常に近代的な人だったものですから、ああいう近代的な和歌が好きだったのでしょうね。それで『京極為兼』などという本もあるわけです。

為兼は『玉葉和歌集(ぎょくようわかしゅう)』を、その系統の光厳院が『風雅和歌集(ふうがわかしゅう)』という勅撰集を撰びます。風雅集は南北朝の初めくらいに出来あがった本です。そのころまでの研究は非常に進んできていたということが言えます。

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4.室町時代の和歌、歌論の研究へ、歌書調査へ
ところが南北朝の中ぐらいから室町時代にかけての「中世和歌」というものの研究が遅れている、というか研究をする人が非常に少なかった、ということに私は気付きました。
その理由として挙げられるのは、いわゆる中世の後半の和歌というものは、だいたい伝統に沿ったままの歌で、一首一首は変な歌ではないんですが、同じような歌が並ぶわけです。
それで近代的な立場でいうと個性が無いということで、多くの人が室町時代の和歌に関心を持たなかったんじゃないかと思います。私はどちらかといいますと、その辺が面白かったのです。何故研究が進まないのか。何故多くの人が敬遠するのか。上に述べたようなことは大体わかっていたにもかかわらず、この空白は研究的にも埋めなければならないんではないかという気がしまして、昭和30年前後からいわゆる中世和歌の歌書(かしょ)というものを探して、あちらこちら調べに行ったわけです。

歴史資料全体を眺めても、本自体を眺めても、近世江戸時代のものは非常に沢山残っています。しかし江戸時代でも幾つか段階がありまして、中期以降は実に資料が多いです。例えば「地方文書(じかたもんじょ)」なんか見ていても、殆どが江戸中期以降のもので、江戸初期のものはずいぶん少ないと思います。それが室町になるともっと少なくなるということが言えるわけです。

大きく俯瞰しますと、鎌倉時代までの和歌の本は、写本を調べましてもそう沢山出てこない。ところが室町となると結構多いのです。それに輪をかけて江戸はものすごく多い。江戸になると版木で刷る版本が発達しますから、非常に歌の本が多くなるのです。南北朝から室町期までは本は大体写本で生産されていますから、その時代を挟んで本の残りかたの差が明確なんです。

講義をしている画像私は先程も言いましたように、どっちかというと歌の中身よりも歌の周辺の問題、どういう形で歌人達が歌に関わってきたか、どういうグループを作ったか、どうそのグループ同士が対抗したり、仲良くしたりしたかという、歌壇の様相というものに関心があったわけで、そちらを出来るだけ眺めるようにしたわけです。
調べ出すと室町時代になると歌の本というものが室町以前と比べるとかなり多く残っていました。

今まで分かっていた本が写されて残っている場合と、室町時代の歌はあまり面白くないというので皆さんが放っておいたために、新しい資料と言うのが結構沢山出てくるという場合が多いのです。若気ということなのでしょうが、ともかくそういうものを全部眺めてみようと決心したのです。

和歌というのはご存じのように、昭和21年に桑原武夫から、短歌と俳句は第二芸術であるとレッテルを張られたわけです。いまそれにしてはちっとも衰えないで、短歌人口も俳句人口もますます増えていくという感じもあるわけですけれど、本当は、古典時代には何が芸術かといえば詩歌だったわけです。つまり和歌というものは、俳諧のように和歌から派生したものではなくて大本の日本の詩である。つまり言うなれば第一芸術として重要な意味を持っていると思うのです。

和歌を詠むというのは、ひとつのステータスシンボルでもあったというのが、江戸時代以前の考えであったろうと思います。今でもその名残はありますね。私は俳句が好きですから俳句を長くやっていますが、やっぱり俳句をやるよりも、短歌を作った方が上品だという人々の感覚は今でも残っていますよね。

そこでどんな歌の本が残っているか、ということを調べ始めたわけですが、内容をじっくり読むよりも、とにかく新資料発見をまず第一義に、全国的に図書館をめぐり歩いたというのが私の30代から40代でした。この近くで言えばまず宮内庁の書陵部です。書陵部って不思議な名前ですが、これは元は図書寮という本を扱う宮中の役所と、諸陵寮という天皇のお墓を管理する役所が宮内省の中にあったわけです。ところが戦後、天皇一人のために宮内省に3000人も役人がいるのはどうなのかということになって、宮内庁として縮小されたのです。それで図書寮と諸陵寮という全く違う部局が合併されて書陵部という役所が出来たんだそうです。

ここは宮中と高級な貴族たちの本がまとまって残っています。それからお堀を隔てて国立公文書館がありますね。ここのなかに内閣文庫というのがあります。これはどちらかというと幕府と明治政府関係の本が多いのです。この二つは和歌に限らず大変な宝庫です。流石に宮内庁書陵部には俗なものはあまりないのですが、雅びなものは本当に沢山あります。

この宮内庁の書陵部や内閣文庫、そこの本を片っ端からというと失礼にあたりますが、拝見にあがる。同時に地方の図書館にも出かけました。一番有名なのは天理図書館とかですが、そういう立派な本を集めている図書館が全国に沢山あります。大体都道府県立の図書館は、地方の素封家が寄贈した重要な本が結構沢山受け入れられているのです。市区町村の図書館にもあります。目録がはっきりしている図書館もあるしそうでないところもある。ですから学会等で出かけたら、学会よりもその近辺の図書館を歩くというようなことをよくいたしました。

九州の臼杵の図書館に行きますと、あそこは野上弥生子さんが出たところです。だから野上弥生子さんの展示が3階などにあるわけです。ですから臼杵の図書館に行きますと、図書館員の方に「3階に野上さんの展示がありますからどうぞご覧下さい」と言われるのです。そういう時は喜んで見ないといけない。それも10分間で降りてきてはいけません。30分か1時間はじっくり見る、乃至は見るふりをして戻ってきて、それから「ここは稲葉家の城下町ですが稲葉家の御本とか臼杵藩の御本はありますか?」と聞くと、初めて対応してくれるのです。ありますよと言われてある部屋に案内されると、本当に立派な稲葉家の文庫が市立図書館に保存されているのです。

全国で200くらいはそういう図書館周りをしたんだろうと思います。そこで資料を見て写真を撮らせてもらい、それで和歌集というものがどういう風に存在してきたか生の資料を基準にして和歌史を調べて来たわけです。

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5.古書目録との出会い
そういうプロセスの中でひとつ重要な資料がある、特に和歌資料があるということに気がついたのが、反町茂雄さんの弘文荘の目録との出会いでした。昭和30年代の初めごろだったと思いますが、『弘文荘善本目録(こうぶんそうぜんぽんもくろく)』というものを見ました。それがきっかけで古書目録というものが和歌資料研究の宝庫だと感じ、それからのめりこみました。


お手元に配布しました手書きの資料は主に弘文荘の古書目録と思文閣の古書目録を中心にそれらから発見した和歌資料が書いてあります。

和歌資料

弘文荘さんの古書目録は『弘文荘待賈古書目(こうぶんそうたいかこしょもく)』という名前でずっと出ていたわけです。昭和8年が第1号だったと思います。反町さんが亡くなるまで年に何冊かづつ出ていたのがその『弘文荘待賈古書目』で、その合間合間に『弘文荘善本目録』という名前で刊行されています。
弘文荘善本目録で昭和32年に出た目録の中に『馬内侍歌日記(うまのないしうたにっき)』というものがありまして、それが定家達の筆跡で一巻本ですが350万円という値段がついていました。

昭和32年の350万円というのは大変な額だったと思います。私はそれを何かのきっかけで見ましてね、「へー和本というのはこういうものなのか」と思いましたね。この一冊の本を買う人がいるのかしらと思いました。それからちょっと経ってから、秋葉安太郎、鈴木知太郎、岸上慎二という3人の偉い先生が「大斎院前御集(だいさいいんさきのぎょしゅう)−いはゆる馬内侍歌日記」として昭和35年に『日本大学70周年記念論文集』という本の中で紹介されたわけです。そこで私は350万円だった『馬内侍歌日記』がどこに入ったのかが分かったのです。

これは今でも日本大学にあって、時々展観されますので、私も実物を見たことがあります。このことが、私が古書販売目録というものが大変なものなんだということが分かったきっかけになったのです。古書店の販売目録に掲載された典籍には解説がついています。

弘文荘の待賈古書目

一番有名なのが弘文荘の待賈古書目で、今日は一冊、千代田図書館からお借りして持ってきました。これは戦前のもので真四角です。解説と写真版が半々になっています。これは昭和10年の第6号ですね。写真版があるというのと、それぞれの本の解説を合わせて立派な解説なのです。

この立派な解説を読み、写真版を見ますとこれで大体の本の内容が分かるのです。そしてこの古書目録をよく読んでみると和歌に限らず『日本書紀』とか『源氏物語』とか『徒然草』とか俳諧とかあらゆるジャンルの古書が網羅されていて、それぞれの値段と解説と写真版がある。これは大変貴重な資料であるということが本当によく分かりました。

その解説記事は簡単かもしれません。しかし大体の内容が把握できるということ。それから現在これがどこに買われて行ってしまったか、所在は分からないけれど、少なくとも昭和10年の12月現在までは弘文荘にあったことは事実なのです。これが非常に重要な資料的価値なのです。「弘文荘待賈古書目35号」には面白いものが幾つかあります。「大内盛見詠草(おおうちもりはるえいそう)」という本が載っていました。

大内盛見は山口県周防の戦国大名で有名な、大内氏の初期の人です。室町時代初めの人です。これは「国文学」という雑誌の昭和39年の1月号に谷林博さんという方が翻刻をされていました。これはどこに入ったかは分からないんですが、谷林さんが全文翻刻して下さったので読むことが出来、非常にありがたかったのです。そしてこの谷林さんの翻刻を利用して、私も編纂にタッチしました「私家集大成」にも使わせていただきました。

この大成は中世までの私家集、いわゆる個人の歌集を集成したものとしては非常に良いもの、というか便利なシリーズだろうと思います。重要な家の集が殆ど網羅されているのですが、私家集大成の5にはこの本が谷林さんの翻刻をもとに入っています。それから同じ「弘文荘待賈古書目35号」にですが、「等恵・道祐等三十番歌合(とうけい・どうりゅうとうさんじゅうばんうたあわせ)」 という本が載っています。

これは室町時代の歌合です。「牡丹花肖柏」という非常に有名な連歌師の自筆本とあります。肖柏は堺の人ですから、これはおそらく堺の町衆の編んだ歌合(うたあわせ)の判をしているのだろうと思います。室町の中期から終りになると、堺の町衆のようなクラスの人たちが歌合をやるということ、そういう人たちだけで歌合をやるということは、非常に注意すべき資料だと思うのです。

これは残念ながらどこに入っているか分かりません。少なくとも昭和35年の「弘文荘荘待賈古書目35号」が出たときまでは弘文荘にあったことは分かります。これは室町和歌のことを考える上では非常に大事な歌合だろうとおもいます。それから反町さん達を中心に文車(ふぐるま)の会という会があって、この会は一時期非常に熱心に古書展を神保町の古書会館などで催していました。

昭和37年5月の文車の会即売会は非常に大規模なものでした。私も目録を貰って、欲しい本が幾つかありまして、なんとか欲しいと思って、反町さんのところに恐る恐る電話をしましたら、「あれは早いもの勝ちです、取ってはおけません」と言われたのです。

某デパートの6階だか7階だかでやると言うので、前の日に練習に行きました。10時に入ってエレベーターで行くと何分かかるか、駆け足で階段を登ると何分かかるか、練習をしましてね。結果はエレベーターで行ってそれが途中で止まったりすると駄目なんです。駆け足の方が早い。ですから私は当日、駆け足にしました。そこで「伏見院廿番歌合(ふしみいんにじゅうばんうたあわせ)」と「園草(えんそう)」を手に入れました。

「伏見院廿番歌合」は私が買って報告をしましたら、宮内庁書陵部に同じ本があるということが分かりました。そういうものなんです。本というものはね。今まで気付かなかったけれど、誰かが何かアッピールすると、同じものが出てくるということがよくあります。

伏見院廿番歌合

その時駆け足で上って買った「伏見院廿番歌合」がこれです。こんな小さな枡形本で、もう活字にもしていますので何と言うこともないんですが、伊地知鐡男(いじちてつお)先生という大先生からこれはいい本だよと言われて嬉しかったです。「園草」は「飛鳥井雅俊家集」とありますから、室町時代の中頃の重要な歌人の本です。この本は依然としてこの本しかまだ見つかっていません。孤本(注:ただ1冊だけ伝わった本)です。

伏見院廿番歌合、園草

この大ぶりな闊達(かったつ)な字、これが室町時代の特徴です。これは貴重な本ですが、これも駆け上がったおかげで買えました。色々な人が見ていましたが、実は私は競技カルタの2段なのです。ですから手は速いです。すごい勢いで囲い込みましてお陰様で私のものになりました。勿論私は独占しているつもりはないのですぐ活字にして報告はいたしました。それからおなじくその即売会で出た「東山殿御時度々御会歌(ひがしやまどのたびたびのぎょかいか)」は、足利義政が東山の山荘(現在の銀閣寺)で何回か行われた歌の会を集めたものです。

これは確か早稲田の図書館に入ったと思うのですが、これはどこかで活字になっていると思うのですがどうも思いだせない。(※藤平春男編『早稲田大学蔵資料影印叢書国書篇 第7巻 中世歌書集』早稲田大学出版部、1987年)またよく覚えているのは、弘文荘さんが目録を出す他によく即売会をなさいました。弘文荘さんはたいへん権威がありましたから、日本橋の三越本店でよく即売会をなさったんです。

実はその目録にあったのですが、その目録をなくしてしまいまして、確か昭和45年か46年のどちらかだと思うのですが、『徳大寺実淳集(とくだいじさねあつしゅう)』これはどうしても欲しいと思いました。徳大寺実淳は歌人としてはそんなに有名な人ではないけれど、室町時代にたしか太政大臣まで昇った徳大寺家の先祖の一人ですが、これも珍しい歌集です。
これを見た瞬間に、やはり恐る恐る弘文荘に電話しました。弘文荘の反町茂雄さんという方は、非常に風格のある権威がある怖い方ですよね。ですから本当に恐る恐る電話しました。

そしたら「取っておきます」と言われ、ありがたいなーと思いました。これも孤本です。
これがその時の札ですが、1万円です。昭和45年か46年の一万円です。これは安かったと思います。三越に取りに来て下さいと言われて、喜び勇んで取りに行きました。そうしたら先程名前をあげた伊地知鐡男先生が反町さんとお話しているんです。私がこれを買ったと言ったら、先生は中をご覧になって「これはいい本だなー、これおまえ買ったらすぐ俺に見せろ」って言うんです。

そしてこれが一万円だと聞いたら先生吃驚仰天して、反町さんに「こんないい本を一万円なんて安く売って、あんたは目がないねー」って大きな声で言うんです。やっぱり反町さんにそんなことが言えるのは伊地知先生くらいだなーと思って私は感心したのですが、確かにこの本は当時でも一万円では安かったのではないかと思います。

そんなことが重なり、販売目録というのは非常に貴重な資料だと私は考えるようになりました。ここに挙げましたように私が入手できれば内容が全部見られるわけですが、全部見られなくても大体概略が分かればいいということが多いですから、目録の解説や写真は国文学における資料的な価値が非常に大きいと思います。

研究報告を読んでいると、その資料を本屋さんから入手したということは、別に恥ずかしくも何ともないのですが、どこから買ったということを大体あんまり書いてないんですよね。本当は書いておいてくれるといいんですけれどね。しかし藤井隆・田中登さんの『国文学古筆入門』、それから田中登さんの『古筆切の国文学的研究』、『平成新修古筆資料集』、久保木哲夫さんの『広沢切に関する二、三の問題』、久保木秀夫さんの『中古中世散佚歌集研究』、国文研の出した『古筆への誘い』また伊井春樹さん、小林強さんのお仕事などには、目録を資料としたということが出てきます。

因みに「古筆切(こひつきれ)」について例をあげますと、販売目録にはよく掲出されています。切のなかでも平安時代のものを古筆切と言っていますが、だんだんその範囲も広くなってきて、今では鎌倉時代のものも古筆切というようになりました。室町、江戸のものは古筆とは言いませんね。

切というのは元来本であったものを、分解して切ってしまうわけです。歌集なら歌の切れ目の所で切ってしまう。つまり切というのは元来本であったわけです。その切から何の本を切ったのかが分かれば、一つの新しい本の発見ということにつながるのです。意義は二つあるわけです。一つは全然切の内容が分からなかった場合。これは新資料の可能性が大きいのです。

そうでなくて分かっている本の一部である場合、つまりそれは一つの本の切れ端であるということが分かるわけです。それを現在残っている本と比べることによって、普通の本(流布本)なのか、それとも異本であるのか、色々なことが分かってくるのです。この古筆切の研究というのは現在非常に盛んです。

国文学の世界で実は私も昔から本をよく漁っていたのですが、だいたいある(古典)歌集についてもうこれで大体分かったというふうになってきた時に、私はふと思ったのです。あとは古筆切というのが更に新しい発見のためには非常に大事なものだ、ということが実感として分かったのです。

分かったと言うと偉そうですが、だからどうしたらよいかという所までは残念ながら踏み込めなかったのです。それほど切というのはあちこちに沢山散乱しているのです。ちょっとしたお上品な家に行くと床の間に掛け軸が飾ってある。よく見ると新古今集の切であったりする。室町時代のものなどは実に多いのです。そういうものを全部含めますと大変な量の切があるわけです。

ところが最近若い人を中心に切の研究が非常に盛んになってきています。重要だと考えたという点では私には先見の明があったわけですが、古筆切の研究というのは非常に難しくて実際には出来ませんでした。上に挙げた編著書が現在の古筆研究の中心をなしているものだと私は思います。

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6.古書販売目録の保存について
何回も言いますが古書販売目録というものは資料的価値が非常に高いです。これは力説しておきたいと思います。私は早稲田大学出身なものですから、早稲田の図書館にはずいぶんお世話になったのです。かつてその図書館にも例えば「弘文荘待賈古書目」は20号あたりから断続的に集められていました。私が「これどうしたの?」と聞いたら、初めのうちは宣伝物だと思ってみな処分してしまったというのでした。「最近これは資料集として価値があるのだと分かって、ようやく本として扱うようになったんだ」と言っていましたけれど、だいたいどこの図書館でもそうだったと思います。

ですから古い販売目録を調べられるということはすごく大事なのです。しかしあそこに記載があったんだ、ということを思い出して追跡しようとしても、どういう風にして追跡していいか分からない。おそらく「弘文荘待賈古書目」の第1号とか第2号などは現在殆ど蒐集不可能だと思います。私が知っている限りでは伊地知先生が全部持っておられました。それから苦労して全部集めたという人もいますよね。早稲田の先生をしていて先年亡くなられました雲英末雄さんがたしか一冊ずつ集めて、最後のものが手に入ったと言って非常に喜んでおられた姿を思い出します。

体系的に揃ったものは、そういう何人かの方やこの千代田図書館がお持ちになっているばかりで、非常に珍しく大事なものだと思います。反町茂雄さんの書いたものに「古書販売目録の資料的価値」という論文があって、実は私はこの話を受けるまでは知らなかったのです。知っていればお受けしなかったのですが、お受けした以後これを拝見しますと、やっぱり反町さんですね。スケールが大きいのです。文化史的な価値、しかも国際的な関係にも及んだ話を書かれています。

反町さんは色々本も書かれていますが、八木書店さんが出版なさった『日本の古典籍』という本の中にも入っています。反町さんの本というのは本当にいいものが多いですね。東大の法学部を出たから偉いというのではなくて、本当に見識のある立派な方だったと思います。

私も販売目録についてちょっと書いたことがあります。これはお笑いぐさですが、日本古書通信2002年2号に「古書販売目録の保存について」、それと思文閣古書資料目録の21号(2009年10月)に「古書肆の目録をめぐって」という一文を書いています。田中登さんの『古筆研究の動向』、これも古書販売目録について触れています。重要なのは、ごく簡単に言うと、古書販売目録は資料的価値が高いから出来るだけ保存しておくようにということが共通して言われているではないかと思います。

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7.まとめ
なにか雑駁な話で申し訳ありませんでしたが、最後に私なりのまとめみたいなものを申し上げておきたいと思います。まず第一番目は新資料の掲出という問題です。従来分からなかった作品が古書販売目録によって知ることが出来る。しかも作品全体が出現する場合があるということです。

例えば私が弘文荘さんの目録で見つけ即売会で手に入れた、この『徳大寺実淳集』などは現在この本しか存在しない孤本です。前に述べました「大内盛見詠草」も、その一つの例だろうと思います。古書目録によって初めて出現した新しい資料であるということです。私の室町の研究の中では、これらが新資料ということになるのです。

それから作品の一部分が残っている場合、それは冒頭の場合もあるし、真ん中の場合もあるし、末尾の場合もある。あるいは補遺なんていう場合がある。それが販売目録で現れてくることがあります。それによってその作品がどういうものであるのかということが、おぼろげながら分かりまして、今まで知られなかったことが、これによって知ることが出来たということが幾つかあるかと思います。

第二番目として、今まで分かっている作品だけれども新しく目録によって出現した本という場合があります。それをよく調べてみると従来分明の本と少し違ったところがある、いわゆる異本と称されるものがあり、その見極めが大事だろうと思います。部分的な断簡や零本(注:ひとそろいの本の、大半が欠けているもの)などが発見される場合もあります。従来不分明なものの一部分が目録で出現するというケースです。これはなかなか難しいものもあるのですが、この巻物を見てください。

巻物

『道潅及頓阿等歌合(どうかんおよびとんなうたあわせ)』というものです。昭和51年の東京古典会の入札会で入手したものです。ただし26番から30番までの残欠本です。25番まではまだ出現していません。非常に珍しいものなのです。太田道潅の歌が入っています。
『武州江戸歌合』という歌合がありますが、その兄弟分のようなものです。この本は入札会の目録には、「道潅及頓阿等歌合」とありました。

太田道潅は室町中期の人で、一方有名な頓阿という歌人は南北朝時代の人です。ですからこの題だけ見ると時代が違う人がひとつの歌合に入っている、だからこの歌合はくさい、インチキなんだろうといって皆が手を出さなかったようです。ところが頓阿という号を持った人は何人もいるんです。ですからこれは南北朝の頓阿ではなくて室町中期の頓阿だと、私がすぐ見当をつけたので、これを買うことが出来たんです。53000円でした。一誠堂の小名木さんが「安かったでしょう」とすごく自慢していました。本当に安かったです。

そういう点で目録の記載というのは非常に重要な意味を持ちますね。私はこの時は非常に得をしたのですが、場合によっては非常に損をすることもあるのです。最終的に一言で申しますと、販売目録の最大の価値は、特にこの国文学研究といった場合には、「新資料の出現」ということに結局は尽きると思います。この場合国文学というのは非常に範囲も広いですから、なにか発見した場合には自分であまり固執しないで、出来るだけ多くの人たちに見ていただいてその価値を明らかにしてもらうことが大事です。

自分で発見者の功績を独占しないで、出来るだけ広く専門家に譲るということが、すごく大事だろうと思います。色々申してきて、多くの方々に期待するのですが、販売目録は出来るだけ永く保存しておく必要があると思います。これは古書店の目録ばっかりでなく、入札会の目録も同様です。

ご清聴ありがとうございました。(拍手)



文責:臼井良雄 
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:和田節子


本文はここまでです


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