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平成22年2月12日(金) 神田雑学大学講演抄録

  
講義名 エコロジー社会だった「江戸」


講師名 川口順啓

 

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1.江戸の地域構造

2.江戸のインフラ

3.江戸のエネルギー使用

4.江戸の衣食住の特色

5.再生利用にかかわる職業

6.ごみ処理の実態

7.農産物の循環

8.江戸の住民のエコ意識は?




川口順啓さんの顔

1.江戸の地域構造

江戸の範囲と武家地、町人地、寺社地 まず当時の江戸がどのような地域であったかご説明しておく必要があります。 お手元の「旧江戸朱引内図 文政元年(1818)」によりますと、外側の朱筆線で囲まれた部分が江戸御府内といわれますが、 時代によって若干変化していまして初期は隅田川の東側は江戸とは認識されていませんでした。

しかし中期以降は本所、深川あたりも江戸の範囲内に入りました。  内側の黒い線(朱引線の中)は江戸の町奉行所の支配する領域です。町奉行所は警察権その他行政権をもっていたわけですが、 その外辺は人家もあまり多くない農村部でり勘定奉行配下の代官が管理していた地域です

 一か所だけ墨引線が朱引線きを飛び出した地域があるのは、恐らくそこに目黒不動尊があったためて 繁盛した盛り場があったので町奉行所が統括していたものと想像されます。

江戸の地図


 江戸時代の江戸というまちは当時パリ、ロンドンをしのぐ世界一の大都市でした。 17,8世紀のパリ、ロンドンの人口は恐らく50万人ぐらいだったと思われますが江戸は100万人を超えていました。  江戸といいますと八百八町といわれますが、それは初期の頃のことで後期はその倍くらいの町の数がありました。城から東側にかけて下町、西にかけて山の手と呼ばれますが、下町の大部分はいわゆる埋立地です。

 大名屋敷や旗本、御家人の住居ががたくさん存在しているのが山の手で、大名屋敷といっても大名自身が住む上屋敷、隠居した大名や後継者が住む中屋敷、別荘として使われる下屋敷があり、これをいくつも持つ大名もいて膨大な土地を保有していました。下町の一部にも大名屋敷がありました。  大名屋敷の中は大名の住む御殿だけでなくて参勤交代でつれてきた家来や、江戸常駐の家来のために一戸建ての住居やたくさんの長屋があり、畑、庭園も存在しました。。

 一方、下町の町人の住む地域は緑が少なく建物が密集しています。武家とその家族の人口が50%の約50万人といわれていますが、面積の割合では武家地が江戸全体の70%、町人地が15%、寺社地が15%といわれています  したがって、町人地は文字どうり密集状態でした。  時代をへるにつれて寺社地を郊外に移転させる政策をとった結果、浅草、小石川、芝,三田、高輪界隈に寺の集まった地域ができていきました。

 町人も大商人は店を構えていますが,小商人の多くは店を持つことが出来ず長屋に住んで行商で生計を立てていました。  長屋にもいろいろありますが標準的には間口が九尺、奥行きが二間という狭さで風呂はないので銭湯へ行き、トイレは長屋に一か所ある共同便所を使用していました。

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2.江戸のインフラ

(河川・運河)

インフラはどういう状況だったかといいますと、水系が発達していて隅田川を中心として目黒川、石神井川などの他に掘割、運河などが多く、物資の流通は圧倒的に水上輸送で行われていたという特徴があります。  それらの殆んどは明治以後埋め立ててしまったので今では痕跡は残っていません。  人の移動も船に依存する場合が少なくなく、有名なのは隅田川下流部から吉原へ行く船などです。

(上水)

 上水の関係はどうだったかといいますと江戸には殆んどいい井戸がなかったため、初期に井の頭の池を水源とする神田上水が引かれました。善福寺池、妙正寺池などもその水源です。  これがいわゆる神田川です。目白台下の関から後楽園のほうに導水し、神田川の上に樋をかけて横断し、南に通したわけです。そして、そこから先の部分では木製や石製の樋を作って地下給水をやっていました。

 神田上水だけでは足りないので多摩川の上流の羽村というところから水を引き、玉川上水を作って四谷大木戸から地下を通して各地に給水しています。他に亀有上水、青山上水、三田上水,仙川上水などあったといわれますが、のちに廃絶したようです。

 庶民の住む長屋の脇に井戸がありますが、その井戸では上水の樋から導水した水を汲み上げていました。下町は基本的に埋立地なので地下水質は悪かったため、上水に頼らざるを得なかったのです。やがて中期以降は、掘り抜き井戸を掘る技術が発達し、 山の手では掘り抜き井戸がふえるようになりました。

(下水)

 江戸時代に地下の下水道はありませんでしたが道路の脇の排水溝の水が最終的には神田川、隅田川などに流れ込んでいました。当時の下水は家庭の排水ですからそんなにひどく汚染されたものではありませんでした。糞尿の類は後でお話しますが下水とは一切関係がなく、それはそれで別のルートで処理されていました。

(道路)

 道路について幕府が力を入れたのが東海道、中山道,日光街道,甲州街道、奥州街道の5街道ですが,市街地の中は適当にという感じでした。馬車が通るヨーロッパの街と違って日本の街の道路は、それほど広くなくてもよかったわけです。  舗装もなくて、夏に照り返しがあっても打ち水をすれば結構涼しくなるという利点もありました。

 当時のパリ、ロンドンに比べると江戸は断然清潔な街であったといえます。17,8世紀のパリなどは馬車がひっきりなしに通るのでデコボコ道である上に、馬糞などが混ざるし2階3階の家から糞尿が投げ捨てられて惨憺たる有様だったようです。  パリがまともな都市になったのは1830年代地下の下水道を掘り始めてからで19世紀後半には、かなり整備されました。地上でも大規模な都市計画が実行に移され[花の都パリ]と呼ばれるようになったのです。

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3.江戸のエネルギー使用

 当時のエネルギー事情は電力は当然ないわけで太陽エネルギーと人力が主力です。 なにをするにも人手がかかり時間もかかるのですが、人はそれを当然と思っていました。燃料はもっぱら薪と木炭など植物系のものですから燃やしても変なガスがでるわけではありません。  照明は江戸の家々では、たいてい菜種油を使っていました。

蝋燭は高価だったので大名屋敷や大商人の家でしか使われませんでした。 暖房は火鉢、こたつなどで燃料は原則として木炭です。寒ければ重ね着をしてしのぐことになります。夏は、もともと住居が風通しのいいように造ってあるのですが長屋ではそうもいかず大変だったろうと思います。家のまわりに打ち水をするぐらいがせいぜいです。台所の燃料は主として薪でした。

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川口順啓さん

4.江戸の衣食住の特色

住生活 江戸の庶民の大多数は長屋住まいです。長屋と長屋の真ん中に共同井戸があって、すぐ脇に共同の洗濯場があります。  端に共同トイレがあって片隅にはゴミ置き場がありました。
衣生活 衣類は基本的に高価なものなので、庶民の衣生活は親から子へ、兄姉から弟妹に使えるだけ使い回しをして、いわゆる「おさがり」が普通のことでした。 和服は仕立て直しをして使うのが常識でした。そして古着の使用が非常に多く古着の売買がさかんに行われていました。

食生活 食生活は非常に質素で野菜のほかに、行商人が売りに来る魚などはぜいたくな食品でした。肉食は原則としてありませんでしたが、鶏、玉子は貴重な蛋白源として使用されていたようです。 例外的に「初がつお」のような初物には値段が高くても無理に買うような風潮もありました。

その他 江戸の生活の特徴はいろいろありますが江戸時代になって大きく変ったことのひとつは、 印刷、出版が非常に盛んになったことです。 木版印刷が発達して書物や浮世絵などがいろいろ作られるようになりましたが、まだ値段が高かったので、貸本業が発達しました。貸本屋は店を持っているわけでなく背中に担いで顧客を廻りました。
 
もうひとつ特徴的なことは寺子屋が多くなったことです。庶民でも、簡単な文字を書いたり計算することが必要になり、子供を、いわゆる「読み,書き、そろばん」を教える寺子屋へ通わせる親が多くなったのです。 ほかに銭湯が発達して頻繁に風呂に入る習慣ができたことも画期的なことです。

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5.再生利用にかかわる職業



 江戸時代は基本的に大量生産の出来ない時代でしたから、僅かなものを大切に使うという習慣が徹底していました。雛物の再生利用を業としている例をあげますと

衣類、身の回り品等

・古着買い→古着屋

・布団打ち直し、布団皮の取り換え

・羅宇屋(きせるの修理)

・鏡磨き

・雪駄直し、下駄の歯入れ

・抜け毛買い→かもじ屋

台所用品等

・鋳掛屋(金属製品の修理)

・古碗買い

・瀬戸物焼接ぎ

・炭団作り

・空樽買い→酒屋・醤油屋

・樽・桶の輪替え,締直し

・灰買い

その他の生活用品

・紙屑買い、紙屑拾い→紙屑問屋(浅草紙として再生)

・古傘買い

・提灯貼り替え

・ろうそくの流れ買い

(附)資源の有効活用の例

・貸本屋の利用

・通い徳利の使用(酒・醤油等)

・献残屋の繁盛(贈答品の使い回し)

熱心に聞きいる受講生

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6.ごみ処理の実態

長屋の敷地の片隅には共同のごみ置き場がありました。そこへ専門業者がごみを集めにきます。業者はそれを船に積んで川を下って埋め立てに使いました。霊岸島、越中島などはこうして出来た島です。 広い屋敷ではごみを庭で燃やすことも可能でした。不心得な者はごみ類をたくさんある運河、川に捨てるケースもありましたが、これは物流の妨げになるという理由で奉行所は度々これを禁止するおふれをだしています。不潔や不衛生になるという理由での禁止ではありませんでした。

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7.農産物の循環

灰の利用 灰はいろいろな物を燃やして出ますが大きな比重をしめるのが藁を燃やして出るものです。米俵、草鞋、縄など膨大な藁製品が使用後に燃やされ、それが肥料として田,畑に還元されていたわけです。

屎尿の利用 江戸時代、屎尿は貴重な肥料として利用されていました。農産物を食べて生じた屎尿が、農産物の再生産に用いられたのです。 のうみんが武家屋敷や個人の十給と契約して定期的に汲み取り、対価として貨幣または大根などの農作物を納めるのが普通でした。百姓は肥桶を馬に積んで運ぶことが多かったようです。 農民のほかに汲み取り専門業者が現れ、江戸東部の農村地帯に船で運んでいました。
 
お手元の資料に、この屎尿を運搬中に水を加えて水増しし農民に売りつけていた事実が発覚し役所がこれを咎めたという記録が残っています。 屎尿の汲み取りは明治以降も昭和20年代まで続いていましたが化学肥料の使用、下水道の発達により急速になくなりました。
 
昭和10年代末期から20年代にかけて、東京で屎尿を電車で運んだことがあります。これは徴兵で人手が少なくなったのが原因で、例えば西武鉄道で所沢のほうまで運んでいました。
 
お手元の資料に「馬琴日記」の一部(天保2年7月18日戊辰)がありますが、この内容を概略しますと屎尿の汲み取り権に関する話です。 神田明神下に住んでいた滝沢馬琴の家の屎尿を引きとる条件として百姓との間に、一人あたり大根50本で6人分300本を納める約束だったものが、 百姓が250本しか納める必要がないと主張しました。 馬琴の理解では我が家は大人5人子供2人の7人家族だが子供は0.5人として6人分300個とおもっていた。
 
これは約束違反だと嫁を通じて文句をいったところ、百姓は大人5人の計算として250本と考えていたので、これは約束違反だと嫁を通じて文句をいったところ、百姓は5人分として250本のつもりだといったので論争になった話です。 このように屎尿の汲み取り権は価値があったのですが、特に大名屋敷や長屋では人数も多いので非常に高値で契約されていました。

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8.江戸の住民のエコ意識は?

 当時の江戸の庶民が、いわゆるエコ意識を持っていたのかどうかは明確にはわかりません。しかし彼らは、物というものは大切にしなければならない、と考えていました。 工場がない時代なので、機械による大量生産はできず、従って手作りのものは大切にして徹底的に使うという生活の習慣ができていて,ゴミの発生はすくない状況でした。
 
このような生活がが不幸だったのかどうか? 安政元年にアメリカとの条約が結ばれて、初めて総領事として下田に駐在したハリスが率直に書いた日記のような記録があります。これによると 「日本人というのは、よく肥え、みなりも良く幸福そうである。一見したところ富者も貧者もない。
 
これが人民の本当に幸福な姿というものだろう。私は、時として日本を開国して外国の影響を受けさせることが、はたしてこの人々の普遍的な幸福を増進するゆえんであるかどうか疑わしくなる。  私は質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも日本において見出す。
 
生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは現在の日本の顕著な姿であるように思われる。」  彼の目からみると、当時の日本人は貧乏だが、それなりにちゃんと暮らしているのであり、文明開化がほんとうにハッピイなことのかどうか疑わしいと感じられたのです。 江戸時代というのは確かに悪い面もありましたが、ある意味ではかなり幸福な社会であったのかもしれないと考えています。                   
 
(文責 得猪外明)



・写真撮影:橋本 曜 ・ HTML制作:上野 治子


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