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平成22年3月5日
神田雑学大学定例講座N0496



反町茂雄氏の思い出と古書販売


目次

メニューの先頭です 1.はじめに
2.司会八木壮一さんの基調説明
3.高野哲夫さんの話し
4.八鍬光晴さんの話し
5.中野智之さんの話し
6.反町さんの勉強会の思い出
7.反町さんの仕事についての思い出
8.反町語録の思い出



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1.はじめに

企画を実施した千代田図書館企画担当の河合郁子さん 私は千代田図書館で企画を担当しております河合です。
本日のパネル座談会は、いま千代田図書館で開催中の企画展示「古書販売目録と反町茂雄」に関連して行われるイベントになります。

ここで簡単に千代田図書館にあります古書販売目録の御紹介をいたします。
千代田図書館には古書販売目録、約7000点のコレクションがあります。古書販売業「弘文荘」の店主、反町茂雄さんが集めた目録類を中心に、東京都古書籍商業組合さんから寄贈されたものを加えた資料群です。
一般の方々には古書販売目録って何なのか、言葉を聞くのも初めてという方もいらっしゃるんじゃないかと思います。
また、古い古書販売のカタログが揃っていて、それが何の役にたつの?という疑問が出てくるかと思います。
それで今回の展示にあたり、関連するトークイベントとして昨年11月より過去2回にわたって国文学の先生方に、古書販売目録がどのように役に立つものなのか、その価値と魅力についてご講演頂きました。
どのような書物がその時点で存在していて、どのくらいの価格で取引されていたのかということを明らかにすることによって日本における和書、古典籍、洋書がどのように取引されて移動してきたのかということを辿ることが出来る資料として意義のあるコレクションだというお話でした。

本日は、この古書販売目録に生涯をかけて取り組んだ反町茂雄さんという人物について語っていただくべく、神田古書店連盟さんから4人の講師をお迎えしております。
実際に反町さんの薫陶をうけた現役の古書店主の皆さんです。
左から八木書店の八木壮一さん、筑波書店の高野哲夫さん、浅草御蔵前書房の八鍬光晴さん、中野書店の中野智之さんです。
今日は反町さんの思い出、それから古書販売についてのお話を、いろいろ伺っていきたいと思います。

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2.司会 八木壮一さんの基調説明

八木書店の八木でございます。
この中で私が一番年寄りなものですから今日の進行を務めるようにと言われまして、進めさせていただきます。

八木書店社長八木壮一さん 東京の古書業界で八木と言いますと、私の弟で古書部をやっております八木朗と、私の叔父で『日本古書通信』の編集発行を行ってまいりました八木福次郎と、池袋に八勝堂という店をやっている八木勝と私を含めて4人おります。
私の父や叔父は関西の明石の先の二見という所の出身なのです。
私の父は昭和の初めに神戸の新刊書店に勤めておりました。ちょうど岩波文庫が出始めて、こういう安い本が出るのでは、もう新刊書店の将来はないんではないかと考えたようです。
それで神戸のロゴスという古書店で、東京に一誠堂書店と言うお店があるからという紹介を受けて、そこに就職依頼の手紙を出したそうです。
その時に反町さんが一誠堂さんの番頭さんでして、大阪の市に来られた時に、父は面接を受けまして、「君、来たまえ」というんで昭和4年に一誠堂に入れさせていただいたそうです。
その当時の一誠堂の社員は反町さんから非常な薫陶を受けております。その中の一人に私の父もなったのです。

父は一生反町さんを師と仰いでおりまして、なにかというと「反町さんのところに相談してくる」と言って出かけておりました。
昭和9年に独立して「古書通信」を発刊し、六甲書房という名前の古本屋を始めるんですが、その時も、あるいは戦後上野松坂屋の古書部を経営する時ですとか、現在の八木書店古書部を作る時ですとか。
私は大学を出て外国に行こうと思ったのですが、父が反町さんのところに相談に行きましたら「日本のことも分からない人が外国に行っても仕方ないです」と言われて、私は日本に留まることになりました。

そのようなことで、私は反町さんを、小さいころから遠くからお見かけしていました。
実際に反町さんと接触するようになったのは、業界に入って2、3年くらいして、反町さんが主催していらした「文車の会」に入会してからでした。それ以来、反町さんは私にとっては大変大きな存在でございました。「文車の会」での勉強会、旅行、また私どもは出版もやっているのですが、『天理図書館善本叢書』ですとか、その後の『正倉院古文書影印集成』とかいうような本を出してきておりますが、そういう本の刊行については反町さんの色々なサジェッションをいただいてきました。

これは私が出版した『天理図書館の善本稀書』です。
私どもの月報に、反町さんが「一古書肆の思い出」という題で連載をして下さっていましたが、それが読者の間で評判でして、その連載が終わった時に、単行本にして出版しました。
この本は約12000部売れまして、読者カードが500枚くらい来て、反町さんには大変喜んでいただいたのです。
八木書店出版の『天理図書館の善本稀書』 反町さんは、「自分の著作は『待賈古書目』なんだ」とよくおっしゃっていました。「『待賈古書目』を出してもだれもその文章を褒めてくれない。それなのに『天理図書館の善本稀書』は褒めて貰った」と、喜んでいただきました。
私はこの本を出すときに「一古書肆の思い出」という題名を付けて行ったのですが、反町さんは天理図書館、特に中山正善二代真柱に対する思い入れがすごく強くて、「天理図書館の善本稀書」という名前をどうしても付けたいと言うことでした。
なにせ反町さんは言い出したら絶対に聞かない人でしたが、私にも思い入れがあって粘っていたら、反町さんの奥様が、「壮一さんがあそこまで言うんだから、少し折れてあげなさいよ」と言われて、この本の副タイトルが「一古書肆の思い出」となっております。
ご承知のように平凡社が出した『一古書肆の思い出』がありますが、これは実際は『天理図書館の善本稀書』の2巻から始まっていることになり、内容的には『天理図書館の善本稀書』の方が早くて、また反町さんの一生のことはこちらに書いてあります。
ご興味がありましたら、この本をお読みいただけたらと思います。

そんなことで、反町さんという方は、私からすると大変な「偉大な人」だったと思っています。
今日お集まりの方々は何がしか、反町さんについて関心をお持ちの方々、あるいは古書、古典籍に興味を持っておられる方だと思います。
反町さんの偉大さと言うのは、私どもが参加していた「文車の会」で『ふぐるまブレティン』という冊子をずっと出してきましたけれど、その最終号が『反町茂雄氏の人と仕事』というこの本にまとめてございます。この本の目次を皆さんのお手元にコピーしてお配りしてあります。
それをご覧いただけば反町さんの偉大さの一端がお分かりいただけるのではないかと思います。
最初に追悼文を書いていただいている方々、錚々たる学会の先生方です。あるいは大英図書館ですとか、反町メモリアルルームのあるケンブリッジ大学ですとかの方々も寄稿をされておられます。
文車の会出版の『反町茂雄氏の人と仕事』 あとは私ども業界人が書いたり、それに「反町語録」というのがあるんですが、反町さんが折に触れて色々な話をされていましたので、それをまとめたものも入っています。
今回の千代田図書館の展示では、反町さんは「伝説的な人物」となっていましたが、今回の私達の話でいくらか人間反町茂雄氏を身近に感じていただければなと思います。

反町さんの若いころを知っているのは、現在の業界では崇文荘の佐藤さん94歳、それから私の叔父で日本古書通信社顧問の八木福次郎94歳などで、ほとんど若いころの反町さんを知っている人はいなくなってしまいました。
私が知っているのは反町さんがかなりお年を召されてからの時代です。
反町さんという方は若いころは大変勘気の鋭い人というのか、ピリピリしていた人だったということですが、私が知ったころは穏やかな人で、私はいい時代に巡り合えてラッキーだったと思っています。
ここに並んでいる3人の話から、反町さんの人となりをご想像いただければと願っています。それでは年齢順ということで、高野さんからお話をいただきます。
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3.高野哲夫さんの話

(八木)高野さんにとって、反町さんを一言で表現するとどのような方ですか?
(高野)反町さんは私個人にとって、商売上の色々なことを教えていただいた恩人です。
私が商人として現在生きていられることでの恩人、ということですが、その他にも色々な意味での恩人なので一言でまとめることが出来ません。でも恩人という言葉を最初に用いたいと思っております。
(八木)ありがとうございます。高野さんの今のお仕事を皆さんにご紹介願えませんか?
(高野)私は筑波書店の高野哲夫と言います。
調布の方で家内と二人で、おじいさんとおばあさんがお茶をすすりながら、和本の目録を出して商売している、そんな古本屋をやっています。
筑波書店社長の高野哲夫さん 和本を扱いたいと思ってはいたんですが、なかなか難しくて、手近にある洋装本、雑誌だとか文庫だとかマンガだとか、時には童話だとか、そういうものを扱いました。和本を扱いたいと思っていても力が無くて、出来なかったのです。
いまは明治以前の、特に本屋さんが出版した本ではない、実際に人が書いたもの、例えば手紙だとか短冊だとか日記だとかそれから証文だとか仕事上の記録だとか、そういうものを扱っております。
(八木)高野さんは私の印象では、「文車の会」に入られた時から反町さんは高野さんには一目置くと言うのかな、この人出来る人だなと思っていらしたと私は思っています。
八鍬君もそんな印象を持っていると話してくれました。また高野さんには後に話していただくとして、次に御蔵前書房の八鍬さん、一言で言って反町さんってどんな方でしたか?
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4.八鍬光晴さんの話

(八鍬)浅草御蔵前書房の八鍬です。
おくらまえ書房という屋号も実は反町さんから付けていただいたものです。
本来ある地名のごとく「みくら」と読んでいただくのが本当でしょうが、師と共に呼んでいただく呼び名は「おくらまえ」と決めて参りました。よろしくお願いいたします。
反町さんを一言で表現せよと言う質問には、「3つのことを同時に進行なさる方」と答えたいと思います。
同時に3つとは欲張りだなという感じもいたしますが、決して強欲ことではありません。
まず「世の為になること」、それからそれが「自分の為でもあること」そして「業界の人たちの為にもなること」を同時に考えられる方でした。
商人というと、自分の利益だけを追求するものだと思いがちですが、反町さんはそういうことを同時に考えられて、皆さまに利益を配分するという意味では、商人というよりは商道を目指していたというイメージを持っています。

私は、旧蔵前国技館の傍の現在の地で、木造2階建ての店舗の2階で産婆さんの手により誕生いたしました。
父親は上野の特価本組合の方の出身です。結婚すると一時葛飾の堀切に新居を構え、卸専門の店を夢みて、2年後に蔵前に移り住みました。今の場所です。
しかしながら、私の生まれた昭和24年ごろは出版ブームにも陰りがありまして、恥ずかしい話ですが、保証人になったことが直接の原因で倒産をいたしました。しかし、お人好しの父はそのまま追い出されることなく、営業は続けることが出来ました。
浅草御蔵前書房社長の八鍬光晴さん 私の学生時代の環境は決してよくない中、受験を経験した団塊の世代。
勉強よりも、だらだらと時代を過ごしまして、大学紛争真っ盛りの時代、そのせいにするわけではないのですが、大学を滑りました。
20歳になっても家を離れずにおりました。その内に父が業界の中の市場の手伝いの仕事を頼まれ、私はアルバイト感覚で下町の方の市場の手伝いに行きました。

実際は、そこで経営員という名前を与えられました。これは古書業界の用語で、新人の店主や後継者の若い人たちが市場で下働きをする方たちの呼称です。
様子がチョット違うな?そのような曖昧な気持ちでした。なんとなく後継者と思われるように、この業界に足を染めました。
半年ばかり経ったころに反町さんの師事した下町のリーダーの鶉屋書店の飯田淳次さんが、私を明治古典会の手伝いに来ないかと誘われ、再び誘われるがまま、明治古典会の経営員になります。
そこで八木書店の八木朗さんとか、玉英堂の齋藤孝夫さんと知り合いになり、源喜堂書店の河村昇さんから「反町さんは10年くらいに一度文車の会を改組するから、会に入らないか」と誘われました。
実際に改組があり、私も入会することになりました。

その時代はまだ「浅草御蔵前書房」ではなく「株式会社晃成社」という名前で、父の下で古本屋を続けておりました。
先ほども申し上げましたが、特価本を同業、古書店に卸していましたが、私の代になって古本屋にしました。
要は掛け売りが主の卸業よりは、現金商売の古本屋の方がよいと思ったからです。

その流れの中で、私は「文車の会」の勉強会というものに非常に興味を持ちました。
日常の営業はただただ品物を右から左に売って利ざやを稼げばよいという商売をしていましたので、私は大学は出ていないので、反町さんの講義が新鮮に映ったのでした。しばらくして「文車の会」で勉強会のアンケートの用紙に私は、熱っぽく、本を売るためには勉強が必要であるというような表現でいっぱい書きましたら、反町さんから「私のところに勉強しに来ませんか」というお話がありました。
(八木)ありがとうございました。八鍬君はたぶん反町さんに一番師事してきた人だと私は思っています。
反町さんの勉強会というのは幾つかありましたけれど、八鍬君は個人レッスンを受けておりまして、この『反町茂雄氏の人と仕事』のなかにも八鍬君は書いていますが、「なにしろ自分は怒られていた。怒られるのが八鍬だと、会員の中で一番怒鳴られ叱咤激励されたのはあなただったと反町さんの奥様からも言われて、よきにつけ悪しきにつけ不名誉なお墨付きをもらっていました」とありますが、八鍬君、怒られたってなんで怒られたの?
(八鍬)しょっちゅう怒られていたものですから、叱られた内容が重要かつ大きければ大きいほど怖くて翌日玄関の呼び鈴を押したくありませんでした。
そのうちのひとつをお話いたします。明治古典会の大市の原稿締切日にも当たる日に、もうひとつの会の東京古典会の研修旅行で奈良に行くと前日に言って出掛けました。
月曜日の朝、電話口で烈火のごとく罵声。「あなたはどこに行っているのですか!」です。
私は反町さんときちんとしたお約束したつもり。明らかに誤解ですが、後の祭り。
前日まで反町さんに大市の出品物の解説を少しお手伝いいただいたのですが、私は奈良に行ってしまったのです。
ただ単なる旅行ではなく、天理図書館の所蔵品を見せていただく目的での企画。ところが運悪く、神田の天理の展示室にそのメインのものの殆どが陳列されていたのです。
「それを知っていながらあなたはわざわざ旅行するために奈良へ行ったのか!」と電話の前で怒っているのです。
これはまずいなと思い、参加した皆さんには迷惑をかけながら、奈良から急遽東京まで戻ってきまして、謝罪するためにそのまま反町さんの家の玄関まで行きました。もう夕方でした。
「君に会う必要はない」ということで玄関から追い出されました。私はこの件も含めて玄関から追い出されたことが三度ほどあります。が、いずれも翌日には必ず謝罪にでかけ許しを請いましたが。
こういう話をすると、反町茂雄ってそんなに悪いお方かという人もいらっしゃると思いますが、実はそうではなくて、「あなたは謝るということを知っているようだ」と孫ともいえる私に許す気持ちを表す方でもありました。
「それなりに今は何をやるべきか考えなさい」という意味なのです。

わたしは反町さんに家に勉強に来なさいと言われたときに、私はイエスマンで通そうと決めていましたから、朝早くに夜遅くに電話がかかってきても、月謝を払うわけでもなんでもないので、私はそれなりの行動を取りました。
反町さんは感情をかなりストレートに出されますから、並大抵の神経の持ち主では持ちません。
もちろん私も心のなかで葛藤があるときはありましたが、思い返すと厳しく育てられたと思って感謝しています。
(八木)色々な勉強会があったのですが、反町さんは晩年に「私を含めてみなさんもっと勉強しなければいけない」といわれ、私は「古典を読む会」という会を主催していました。
勉強会について語る八木壮一さん 写本、影印版ですが、一番最初に芭蕉の「奥の細道」を読みまして、それから「土佐日記」ですとか「今昔物語」とかずいぶん今から考えると色々な物を読んだもんだなーと思います。

私は幹事ですから発表は一番目です。私が読む場所は分かっていますから、私はそこを予習していけばよい。あとの人たちはその時の席に順番で決まりますから、みんな読んでいかないと間に合わないという具合でした。
しかし反町さんはいつでも全部予習されているんです。反町さんは予習をしなくてもお分かりだと思うのですが、見事なばかりに予習されてきていましたね。
例えば「奥の細道」を私が2ページくらい読みまして、反町さんがまた読まれましてその後解釈をされます。
ただはっきりしているのは「私達は学者じゃないんだ。だからそんなに詳しく分かる必要はありません」ということでとっととっとと進みまして、色々な本を読ませていただきました。

その他に「古文書を読む会」とか「近代文学研究会」とか「自筆物研究会」「日本史研究会」「経営研究会」「江戸芸術を読む会」なんてありましてね、その会に全部100%出席していたのは八鍬君なんです。
私も「古文書を読む会」に行きたかったんですが、毎週一回昼間あるんで私は息切れして行きませんでしたが、八鍬君、高野さんは「古文書を読む会」にはずっと出席されていました。また後ほどお話しいただければと思います。
では次に中野さんにお話しいただきたいと思います。
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5.中野智之さんの話

(中野)中野書店の中野です。
反町さんとの年の差は50以上ありまして、一番最初に勉強に来いって言われたとき、すでに反町さんはおじいちゃんでした。晩年の5年間、教えていただきました。
反町さん、顔立ちがうちの亡くなった祖父とちょっと似ているんです。ですから最初、オッと思ったのですが、祖父は海軍の軍人、サイレントネイビーを地でいった人でして殆どしゃべらない人でした。ところが反町さんは面白い話をいっぱいされる、ひとことで言うならファンキーなおじいちゃんでした。
恰好よかったです。僕は晩年しか存じ上げないのですが、明治の人ってああいう感じなのかなあと。
前向きで、新しいもの好きで、常に先を向いて走って行くと言うイメージ。昨年末テレビで「坂の上の雲」を見たときにも、祖父のことと共に、反町さんを想いました。

中野書店社長中野智之さん いま「古文書を読む会」の話が出ましたが、僕が入った時は「古文書を読む会」と「古典を読む会」があり、両方に参加しました。「古典を読む会」は月に1回か2回でしたね。
「古文書を読む会」は毎週木曜日の朝10時から12時でしたっけ。これは本当に勉強になりました。
大学を出てから6年くらいたって、30歳頃に入会させていただいたのですが、古本屋というのはなかなか一人前になるのに時間がかかるんです。
でも、仕事を始めてから5、6年もすると、親父がやっていることを見よう見まねでなんとなく分かったような気になるんですね。
反町さんのところに行ってから、世の中にはずいぶん難しい本があるということを知り、奥の深い、難しい仕事だということを改めて認識しました。
「古典を読む会」は影印といって写真版を読むのですが、「古文書を読む会」はすべて反町さんが所蔵されている現物なんです。
ですからアンチョコが無い。
一番最初に読まされたのが水戸光圀の手紙で、そんなに難しい文書じゃなかったんですが、一字一句読めないんです。これはやばいなーと思いました。でも何年か経つと、なんとか分かるようになってくるんですね。

私の年齢はこの中で一番下ですし、「文車の会」でも一番の下っ端だったのです。
2年後に「古文書を読む会」に高野さんが入って来て、やっと後輩ができたと喜んでいたのですが、高野さん、最初から難しい古文書をべらっと読みあげて、もう出来あがった人でした。あれは非常に悔しかった。せっかくいじめてやろうと思っていたのですが。
今でも時々高野さんには文書の読み教えていただいています。
むろん反町さんはスラスラ読めるわけですが、その勉強を50になってから始めたという話を聞いたことがあります。
戦前は古文書ってあまり出なかったらしいのですね。戦後になって華族とかが生活に苦労するようになり、その蔵の中から出て来たのが、古文書が一般に出始めたきっかけだったようです。
反町さんはその頃、ちょうと今の僕くらいの年ですが、それから勉強を始めて、あそこまでなるというのは、つくづくすごいと思います。
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6.反町さんの勉強会の思い出

(八木)ありがとうございます。
今、古文書の話が出ましたが、反町さんは一誠堂書店に入って、半年くらいで頭角を現して番頭さんになるんですが、その時分、一誠堂にあった和本類は全部市場で売り払ってしまうということで、源氏の写本なんていうものがあっても、そういうものは先生方が研究し尽くしているので、もう必要がないと考えられていたそうです。
天理の真柱さんも同じようなお考えで、二人で集めたのは雑誌のバックナンバーとか洋本ばかりだったということです。
ところが、一誠堂で九条家の売り立てなどを引き受けたときに、なかなか一誠堂が落とせなくて、それから古典籍の世界があるということを気付かれて、まさに独学で勉強されたと私は聞いております。
「待賈古書目」を見ると、たしかに戦前では古文書は扱っていないのですね。戦後やはり勉強されて、ここにありますような、立派な解説付きの目録をお出しになったのです。
高野さん、その古文書を独学で勉強なさった立場から、お話をお願いいたします。
(高野)「古文書を読む会」に出席しましたのは御蔵前書房の八鍬さんのお世話で、「どうしても来い」とすすめられ、ずいぶん私としては臆したんですが、来なさいと反町さんがおっしゃっているので、何とかしろと言われましたもんですから、おそるおそる行きました。
勉強会について語る高野哲夫さん 最初の頃はよほど緊張していたんだと思います。一生懸命皆さんについて読んでいる事を頭の中に入れようと、当人は一生懸命なんですが・・・。
ちょっと話が飛ぶんですが、数年後にあるところで、あるちょっとした武将の古文書をとてもいいなと思ったものですから仕入れました。
越後長岡の方の上杉の関係の戦いに、おまえはなかなかよく働いたのでこういう褒美をあげようという文書で、自分ではなかなかいい文書だと思いながら、家に持ち帰りました。
そんな時もしかして変なものを買っちゃったかなと、買った直後は生臭い気持ちがありますから、しばらく放り投げておくんです。1週間、1か月、2、3カ月するとかなりその商品に対して冷静になれます。
さてこれはなかなかいいものだと思いながら、自分のところにある資料をいろいろ引っ張り出してみましたところ、この書状は、「古文書を読む会」で最初の頃、皆でテキストで読んだ古文書だったのです。それが全く覚えていないんです。
後になってあの時はよっぽど緊張していたんだなーと思いましたね。

古文書の会では、普段なかなか触ることの出来ない実物に触らせていただき、この墨の色はこうだ、などと教えていただいたんですね。
それで読むときにはコピーを全部配布してくれたんですが、私は記念のためのそのコピーをずっととっておいたのです。たまたまそのコピーを眺めていると、最初の頃のコピーがその文書そのものだったのです。
私が会でいかに緊張していたかというと、もう気を失っていたようなものです。そういうことがありました。
(八木)嘘のような本当の話ですね。
八鍬君も勉強会は100%出席、旅行も全部行かれていますよね。ヨーロッパの研修旅行も反町さんと一緒に行かれていますが、その時の思い出などを話していただけますか?
(八鍬)先ほどから勉強会に全部出たというのは本当のことを言うと嘘です。
個人レッスンを2回ほどずる休みをしたことがあります。 理由は、どうしても行きたくなかったのです。
どうしてもというのは、説明のつかない感情です。そのときが反町さんと私の葛藤だったと思うのです。
それで隅田公園の桜の下で車を止めてじっとしていたのです。無論「今日は体調が悪いので」とドキドキしながら電話をいたしました。
すんなりOKなのですが、どうしても嫌というときは理屈なしに自分ではどうしようもない状態です。
高野さんは実は非常に頑固でしてね。文車に入る時もなかなかOKしないのです。
勉強会について語る八鍬光晴さん しょうがないので同業でもある高野さんのお兄さんを口説いて説得してもらったというのが本当のところです。
それから先程「古典を読む会」は全部コピーだという風に八木さんも中野さんもおっしゃいましたが、事前にコピーは配布されていますけれど、現物が出てくることが多々ありました。
奈良絵本も、実際に読むのは現物でした。相当高価なものをいとも簡単に勉強会で手にとって本物志向で勉強させていただいたのです。
その辺はちょっと訂正をさせていただきたいなと思います。
古文書については私自身が、いらいらした思い出があります。
徳川秀忠の文書です。しかも関ヶ原の戦いの関連の命令書みたいなものなのです。それを私はある公共機関に持って行きましたが、なかなか購入決定がおりない。
私自身はこの文書の出所は説明しませんし言わないわけですが、こういう理由だから100%本物に決まっていると言いますと、学芸員の方はそういうわけにはいかないのだと言って、墨色と紙質を横浜のある機関で調べて見ていただかないと購入の決定が出来ないということを言われました。
古書店は原価に影響するので調査にも限度があるわけですから、勉強会も含め、機会あるごとにじっくり本物を見ることが必要であるわけですね。

会員の中には勉強会に骨董屋さんから買った古文書のコピーを持参して読んで下さいといって、簡単に持ってくる方もいたのです。
それに対して反町さんは結構厳しかったですね。
自分自身のものにならなければ、そういうものを勉強会に持ってきてはいけない。偽物本物ということでなく、自分自身がどう見てどうやって正しいものを売るかということが分かるようになるための勉強会だとおっしゃっていましたね。
私自身はルートもありませんでしたが、むしろ反町さんが怖くてとてもそういう事は出来ませんでしたね。
そのくらい反町さんの勉強会には威圧感があるので、高野さんの話のように高野さん一人が緊張していたわけでなく、皆さんが緊張していました。
私なんか「古典を読む会」の輪読の際、読みながら2ページ一緒にめくってしまって読み進めてしまっても、隣に座った会員に指摘されるまで気がつかないことがありました。
気がつかないわけはなかったはずですが、自分は事前に予習もしていますから分かっているようなつもりだっやようです。

それから旅行については緊張感で、とてもどこに回ったというようなことは全然覚えていませんね。
せっかく反町さんに企画を立てていただいたが、海外旅行費などとても自分では全額は用意できない不安感。積立計画が提案されたときの安堵感。ありあまる文車の会からの援助金。
こうして行けた貴重な経験のヨーロッパ研修旅行でしたが、覚えているのは、反町さんからは八木壮一さんのお父さんである「八木敏夫さんのカバン持ちをしなさい」ということぐらいですね。
これは八木さんがお聞きになっているかどうか、スイスだったと思うのですがフロントで八木敏夫さんがもめているのです。
日本語で「手紙を出すのになんでこの切手では駄目なのだ」。向こうの人は日本語が分からない。私も側に行ったのですが、英語は出来ませんのでただ見ているだけ。八木さんは日本語ですが、英語に聞こえるくらいです。
どうやら日本の切手を封筒に貼って出したいと言っていた。そこに原書房さんが来て、解決していただいたというのが一番の思い出ですかね。
(八木)どうもうちの父が大変お世話になったようでありがとうございました。初めて聞きました。
「文車の会」で旅行はずいぶんしましたね。
私が一番印象に残っているのは、九州の福岡、長崎、天草、熊本を回った時ですか、その行く前に当番がありまして、皆の前で事前に行く先の情報について調べたことを発表するのです。
それから旅行先でまた発表するのです。すると観光客の方々までみんな聞きに来たものです。
旅行から帰ってきますと、『ふぐるまブレティン』に発表する文章を書くのです。
その時は大変でしたが、今になってはいい思い出になっています。
先程ご紹介した『反町茂雄氏の人と仕事』の中に中野智之さんが杜甫の詩を引用して反町さんのことを書かれています。中野さん、それを読んでくれますか?
おじいちゃんのようだった反町氏を語る中野智之さん
(中野)読むのは勘弁して下さい。
みなさんから反町さんは怖いという話を聞いていました。
僕は性格上そういうのが気にならないせいもあるし、なにしろおじいちゃんでしたから。殆ど怖いと思ったことはありませんでした。怒られたこともあまりなかったです。
もちろん僕は八鍬さんのように個人レッスンという関係ではなく、毎週1回と月に2回かな、伺って色々お話を聞くだけだったのですけれど。人が怒られたのは見ていますが個人的に怒られた記憶はないですね。
そういえば、一度だけ『ふぐるまブレティン』のことで叱られたことがあります。
これは皆が文章上手くなるために、回り持ちで編集している会誌ですが、僕にも編集の番が回ってきて、発行を遅れさせてしまったんです。
八木さんの弟さんから出先に電話があって、「おいお前、なにやっているんだ。反町さん怒っているぞ。電話かけてあやまれ」、と。「なんだあ?」と思って電話かけたんです。
そうしたら反町さん、話しているうちにだんだん激昂されてきまして、いわゆる怒られている状況になったんです。
でも僕は話を殆ど聞いていなくて。何が心配だったかというと、その時テレフォンカードが切れそうだったんです。どんどん減ってくるんです。
突然電話が切れたら、さぞ反町さん怒るだろうなと思って、ひやひやしていました。
あれが唯一怒られた記憶です。やはり年の差ってありますね。僕は反町さんの孫よりも年下だったんですから。たぶん「なんだろう、こいつ」って感じだったのだろうと思います。
私の視線からは、反町さんはいつも若々しく、仰ぎ見るという感じではなくて、恰好いいなあという印象でした。
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7.反町さんの仕事についての思い出

(八木)反町さんの一番の仕事は勿論、自分の古典籍商として「待賈古書目」を出して行くということでしたが、その他に古書の展覧会をしたり、著作活動もなさいました。古典籍の啓蒙のため、あるいは業界人のために色々書かれました。
その他の組合の行政には若いころからずいぶん取り組んでおられまして、昔の古典会の改革ですとか、戦時中は統制の中で古書業界がどうあるべきかということを組合の専務理事をして率先してリーダーシップをとられておりました。
晩年には「古書のオークションをするべきだ。外国でやられているように目録にエスティメートを付けて、お客さん達を広く呼んでくる」ということを常日頃言われていましたし、それを実行されたのが最晩年でした。
ただ古書組合も色々問題がありまして、反町さんはそのために心身疲れられたんじゃないかなーと思っています。
そのことを中野さんは杜甫の詩になぞられて、『反町茂雄氏の人と仕事』の中に書かれています。
座談会風景
色々な話が出て来ましたが、商売のやり方について、例えば市場での値段の入れ方ですとか、仕入れのことですとか、あるいは大市の時は入札目録をつくりますが、それは枕元に置いて寝なさいとか言われていましたね。
そういう商売のことで何か印象に残っていることを話して下さい。
(八鍬)大市の入札目録について皆さんはご存じだと思うのですが、大市の入札日の前、2日間は下見があります。
その初日下見のあとで必ず全員出席で目録の検討会をいたしました。
掲載品の書物を事前に調査、勉強させていただくためです。
しかし私はごく普通の古本屋ですから、入札カタログからご注文をいただくというのがメインでありまして、勉強するよりもそちらの注文金額のほうが先だなというのが本音でした。
お客様の中でも可愛がっていただいた弁護士さんが「おまえ商売放っておいてどこにいるのだ?」って言われる始末です。
「いや実は反町さんのところで勉強会に出ています」とは言えませんでした。
「ちょっと事情がございまして」なんてごまかしていました。
今みたいに携帯電話がありませんから、私がすぐ行方不明になってしまうのはこの時期でした。皆さんどう思われたか分かりませんがね。

ちょっと個人的な気持ちですが、反町さんのようにあれだけわれを忘れて怒れる人は、ちょっといないですよ。
まだ私は「文車の会」に入る前、私が25歳か26歳の時、だった頃だと思います。
たまたま郡山の方で反町さん山田孝さん斎藤孝夫さんの仕入れがありまして、荷運び程度のお手伝いに行き、後日に古書会館でその仕分けをしているときです。
そこで反町さんが「私が頼みもしないのに、誰が仕分けをしたのだ」と、そこにいた先輩のお一人を猛烈に怒って、「もうあなたには用事はない」って言って、そのまま反町さんは地下の倉庫に降りていってしまったのでした。
その事件が起こる前は静かな雰囲気でした。私がたまたま写真のカタログが好きで集めていることをご存じで、あなた好きそうだからこれらは差し上げますと言われていたのですが、本当にいただけるか微妙な雰囲気になりました。
あまりの興奮状態で怒鳴っていらしたので、私もずっと押し黙って待っていたんですが、最後は意を決し「これは本当に私にいただけるのですか」と聞きますと、ニコッとしまして、「それはあなたに差し上げます」とおっしゃったのです。
どうやら自分に怒っているわけではなさそうだなと理解出来て胸をなでおろしました。
私がこれらの本が欲しいという熱意が通じ、多分許されたのかと思います。
(高野)私が反町さんに実際にお話を聞いたり教えていただいたりしたのは多分1年ちょっとくらいの期間で、この3人の中では一番年上なので、古くからお付き合いをしているような顔をしていますが、八鍬さんにお世話いただいた時は反町さんがお亡くなりになる前の年の初めての新年会でした。
反町さんの目録に対する思いを語る高野哲夫さん 期間にして1年半、半年くらい入院なさっておられましたから、元気でおられた反町さんに接することが出来たのはだいたい1年くらいです。
ですから反町さんはこういう人だということが言えるほど私はお付き合いが出来ていないんです。
まともに顔も見れずに返事をするような感じでいたんですが、反町さんはそんな私を見て、目録商売が合っているらしいと判断されたらしく、「目録を作りなさい」ときつくアドバイスされましたですね。
「目録を出しなさい。目録を作って全国に発送しなさい」「2か月に1回くらい、目録を作って出しなさい」と。

これを作るには大変な費用だとか在庫だとか力がいるんですが、私には何にもないので、最初は何をおっしゃってるのかなと思ったものです。
現在は「筑波書店古書目録」というものを作って大学の研究室に送らせていただいているんですが、86号まで出した今日、「2か月に一回出しなさい」と言われたことの意味がようやく理解出来たような気がしています。
あのアドバイスは正解だと今頃になってやっと実感しています。
九段生涯学習センターで聞き入る聴衆
(八木)ありがとうございます。
会員は皆目録を出しなさいと言われていたんですが、中には「あの人は首に縄つけても水を飲まない」と言われていた人もいまして、高野さんは優等生だったと思います。
反町さんがそこらへんを見抜いていたと思います。私は高野さんは主みたいに思っていたので、今日、1年半だったという話を聞いてびっくりしています。
中野さんはいま幅広く仕事をなさっていまして、目録も色々な分野で出されていますが、反町さんとの関連で何か話すことはありませんか?
(中野)皆さん言われているように「目録を出しなさい」と言われました。
うちは当時もよく目録を出していました。普通の店の目録は題名と著者と出版社と値段くらいの、いわいる棒組という形の目録で、ほとんど解説らしい解説がないのが通例です。
ところが反町さんは、学術的な色々なことを解説に書いていらっしゃいます。その本の価値をどうやって知らしめるかという考えで、素晴らしい解説を書くのですね。

私もちょっと真似したことがあるんですが、反町さん、「あなたの知っているようなことは、お客様はみんな知っています」と言われたんです。その通りだなあと思っていました。
でも、だんだん年をとってくると、少し書きたくなって来る。最近も色々出しているんですが、なるべく解説を書くようにしています。僕がやっているのは必ずしも古いものばかりではなく、近代も多いのですが、余分ながら解説を付けて出しているのも、反町さんの影響かなと。今頃になって思ったりします。
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8.反町語録の思い出

(八木)中野さんの目録は大変面白い目録だと私は思っています。
いろいろな思い出を言い出すときりがないんですが、私が反町語録の中に書いていることが幾つかあるんですが、まず、「周りから攻めよ」ということです。
自分の仕事を自分の奥さん、家族に理解してもらって、それからその周辺にだんだん拡げて行かなければ、仕事と言うのは続きませんよと言われたことが印象に残っています。
もうひとつは目録の文章に関連するのですが、「高等学校を出た人に分かるような文章を書きなさい」ということです。「いろいろ知ったかぶりをして書いたらだれも読んでくれませんよ」と言われたのも印象に残っています。
この、『反町茂雄氏の人と仕事』の中に一番書いているのが八鍬君で10項目くらい書いていますが、語録について何か言うことがありませんか?
(八鍬)個人的に言われたことも語録だと言われたら、もっと山ほどあるのでしょう。
私も反町さんの指導の下でこの目録第1号を出させていただきました。
自分も若かったものでしたから、一生懸命でした。デパートの古書展などではダンボールを200、300と持ち込みしました。70過ぎの年老いた父とともに開梱して陳列し販売しました。
その頃の売上は最高で売れても200万円ちょっとでした。

ところがこの第1号のカタログを作りましたら、1000万円くらい売れたのです。
これは私にとっては驚きでした。こちらのやり方の方がよいとかなり気持ちが傾きました。
父も特価本で薄利多売の商売をしてきたものですから、こちらの方がよいと思ったのでしょう。ところが母親は現実的でしたから、そのために毎日の勉強会の出席には反対気味でした。商売にならないと言われましたね。
八鍬光晴さんが反町さんに言われて出した浅草御蔵前書房古書目録第一号 また、この目録を作る毎にその売り上げを提出しないとならない決まりでしたから、お師匠さんには報告はしましたが、嘘はつけません。 自分にも少々の面子もあり、掛け売りでもなんでもいいから売上に上げましたし売りました。
これらの目録販売のピーク時には90%、ほぼ100%売れてしまうというカタログを作ることが出来たのです。

私がカタログを途中で止めたのは、それだけ売り上げを上げると、チョット商売する側の人間にはおっかないところからご指導をいただきまして、諸事情により休刊しました。
また明治古典会の事業部長を引き受けさせてもらって、夢中になりました。忙しさを言い訳にして時間が無く、目録を出さない時期が続いたのです。
「役職が外れたらまた出します」と言ってから程なく、父が亡くなりました。それが平成3年の1月です。
その時反町さんは常日頃、「私は高齢のせいか、不幸なことは嫌いのです」といいながらも、葬儀には来ていただけたのです。
そしてまさかとの思いですがその3カ月あとのインド旅行からお帰りになった後、体調を崩されてすぐ入院なさり、その年に亡くなられてしまったのです。
私自身この目録を出そうという気が、それからピタッと止まってしまいました。18号で止まりました。
ここに発刊した目録をお持ちしました。この中に反町さんに提出した売り上げ報告の原簿もあります。
なぜ原簿を入手したかの経緯は、反町さん宅の玄関に入りますと、左手に山積みになっているのが日本各地に留まらず世界の販売目録でした。反町さんはそれらの内容や掲載品をよくご存じでした。
しかし、あまり溜まり過ぎますと処分を依頼されます。
反町さんのところに毎日通っていましたおかげで、さらにこうして反町さん自筆の書きこみがある私の目録がわたしの手元に戻って来たのです。
これを機会に目録を再刊したい気に駆られます。
(八木)今まで知らなかった話ですね。
反町さんが他界されて約20年近く経とうとしています。八鍬君は20年近く目録を出していないということなんで、是非20年を記念して期待しています。
八鍬さんの話に吃驚する八木壮一さん あれだけ目録に全部真っ赤に線が引いてあるほど売れたのは凄いですね。
本当は語録について言って貰いたいとお願いしたんですがね。
(八鍬)すみません。
語録は「暖かいご飯は食べられませんよ」という気持ちで目録のお話をさせていただきました。
自家目録を作れ、作れば必ず「温かいご飯が食べられる」。効率の良い仕事は目録販売です。
質のよい書物を入手したら、ゆっくり手に取り眺めたり、じっくり下調べしたりしてから売りに出るべきです。いま1万円が欲しくてあくせく働いてはいけない。1カ月で30万の売上を体を酷使して出すなら、冷たいご飯で我慢して1カ月後に30万の優品を売ればいいのです。その後に暖かいご飯がいただけます。
ですが、なかなか温かいご飯が食べられないのですがね。暖かいご飯を食べるためには教養がなくては駄目だという感じですね。
(八木)八鍬君が書いてある反町語録の中に「私は家族が大好きです」とありますが、これはどういう意味ですか?
(八鍬)一番仲良くしなければならないのは家族だと個人レッスン時に言われたと思います。
私自身も独身が非常に長かったものですから、反町さんは心配してくれました。
私がこういう目録をいくら作ってうまく商売していても、お父さんとお母さんと喧嘩しては決していけませんと言われましたね。仕事の最大の協力者は両親だということです。
反町さんの通常は一日中仕事の鬼の感があります。
家族のことは心中にないような感じがするのですが、たまたま勉強会の時に女の子のお孫さんが来たことがあるのですが、その時の笑顔はあの短気な反町茂雄さんの顔ではなかったのが印象に残っています。
また別の男の子のお孫さんには経験を豊にさせたい思いで、ヨーロッパに同行されました。帰国時の箱崎にお迎えにご一緒したかれのお母さん、つまり反町さんの娘さんが「なにを父にお礼をしたら良いですかね?」とわたしに聞かれたのです。「上野のうさぎやの万歳という和菓子がお好きですよ」と申し上げました。
まさにそれは家族が一番大事だということの証しだと思うのです。それを反町さんはご家庭でも実践なさっていたのだと思います。反町さんはこよなくご家族を大事にされていたということです。
(八木)ありがとうございました。
さっきから反町さんは怖い人だ、怒るっていう話ばかり出ているのですが、実はこの、『反町茂雄氏の人と仕事』の中に天理の木村三四吾先生がお書きになっているのですが、「ユーモアが沢山あった方だ」と書かれています。
西片のお宅に私は何度も伺わせていただきましたけれど、反町さんは多彩な趣味を持っていらっしゃいましたね。
例えば器、陶器なんかも色々変えてお食事されていたようにお見受けしましたし、観劇などもよく行かれていました。
もちろん旅行は大好きでしたし、健康にはすごく気をつけていらして、反町さんは朝2時かな4時かな、すごい早起きだったようですが、その時が一番仕事が出来るんだとおっしゃっていて、朝の食事をされる前に散歩をされるのです。雪の日でも傘をさしながら散歩をしているのです。
私は小石川に住んでいるものですから、会社に行くときに車の中から反町さんが雪の中を散歩しているのを見かけたことがあるんですが、朝と夕方と必ず散歩していました。
またグルメでもあり、食べ物について色々なことをご存じでした。
私は反町さんに怒られたという印象は持っていないんです。中野さんと同じようで、私は少しボーとしていたからでしょうか、色々なことを教えていただいたというのが正直な気持ちです。
私はこの頃思うのです。今古書業界もなかなか厳しいです。こういう時に反町さんがおられたら何と言われるのかなと思う時がございます。
何と言われるかは別にして、もし今、反町さんがおられたら、何をなさっていたかということを皆さんからひとことずつ伺って締めたいと思います。中野さんからどうぞ。
反町茂雄氏への熱い思いを語る4人の講師
(中野)絶対インターネットをやっていたと思います。すごく新しいもの好きでしたから。
たしか喜寿のお祝いの時でしたっけ。会員でワープロをプレゼントしたことがあります。それをとても喜ばれていました。
今、もしいらしたら、絶対ネットをやっているんじゃないかな。それもかなり派手にキンキラキンのホームページを作ったりして。良い品を、これでもかと言うくらいやっているんではないかと思います。
(八鍬)今おられたら、まず「あなた、今、何ぐずぐずしているのですか!」と叱られてしまうような気がします。
先ほど中野さんがキンキラキンとおっしゃいましたが、非常に攻撃的な性格の方でしたから、多分赤が主体の派手なホームページだと私も思います。
私が自分でコピー機なぞ持てない時代に、反町さんは「あなたのところはコピーもないのですか?便利なものですよ」と言われましたから、存命だったら何に取り組んでいるでしょう?
反町さんは理工系ではないけれど、先が見える方なので、多分大田先生や森先生と違った人たちと接触をしながらネットの世界に早く入ったと思います。
想像できないくらい違った形でインターネットを利用していたかもしれません。
(高野)私もコンピュータを反町さんのやり方で駆使されていたと思います。
ただグーグルを検索するような使い方だけではなくて、なにか先端を行くような使い方でパソコンを使われているのではないかと思います。
お亡くなりになる年の初夏の頃、お見舞いに伺った時だったと記憶しているのですが、「私にはこれからやらなければならない仕事があります」とおっしゃったのです。
「はい」と応えて何の話をなさるのかと黙って待っていましたら、「古書目録を作る事です」と。
私を厳しい射抜くような目でじっと見られてそうおっしゃるのです。90歳ですよ。「やり残した古書目録をこれから作るのです」という言葉が強烈に印象に残っています。
あのお言葉には圧倒されました。その気骨に言葉がなかったです。
今の時代におられたら、その気概でコンピュータを駆使されておられたでしょうね。
(八木)ありがとうございます。
反町さんは多くの図書館の目録とかをいっぱい持っておられました。それで「待賈古書目」の文章を書くときに、その貴重性ですとか、価値ですとかを調べておられたと思います。
いまですと昔に比べると簡単にそういう情報が入ります。しかし、それだけでは便利になるだけですから、その情報をもっと深みに持っていくことで本の価値をもっと高められたのではないかと思います。
時間も過ぎました。この辺で打ち止めにしたいと思います。
今日の私どもの話で、いくばくか反町さんの人となりに接していただけることが出来れば大変ありがたいと思います。どうも長時間ありがとうございました。
(拍手)

終わり


文責:臼井良雄
会場写真撮影:橋本 曜・河合郁子
HTML制作:臼井良雄

本文はここまでです



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