現在位置: ホーム(1)講義録一覧(2) >将軍や姫君の愛した華やかな和菓子の話
WEBアクセシビリティ対応

ページの先頭です

ページの先頭です

2010年4月2日 神田雑学大学定例講座No500


将軍や姫君の愛した華やかな
和菓子の話

ほんまんじゅう、たつたがわ、べにまんじゅうを一枚の画像に

講師:中島 久枝




メニューの先頭です 目次

アクセント画鋲
講師プロフィール
和菓子は五感の芸術
和菓子の歴史
江戸時代――将軍と姫君の愛した和菓子
特別な日のお菓子





メニューに戻る(M)
粋な着物姿、笑顔で話しをする中嶋久枝講師

講師プロフィール

みなさま、こんばんは。私は料理やお菓子について、新聞や雑誌に原稿を書いているものです。料理家の先生のところにうかがって、料理のレシピをまとめたり、レストランやパティスリーの記事を書いております。中心となっているのは和菓子で、記事を書くだけでなく、自宅近くで和菓子を教えたり、レシピ本にまとめるということもしています。

今日は、私の大好きな和菓子について、少しお話をしたいと思います。


レシピ本、3つの生地でつくる和菓子のおやつ


メニューに戻る(M)

和菓子は五感の芸術


さて、和菓子は五感の芸術といわれます。
(1)食べて味わう――味覚
(2)色や形――視覚
(3)ほのかな香り――嗅覚
(4)やわらかさなど――触角
(5)菓銘を聴く――聴覚
なかでも注目していただきたいのが、五番目の聴覚。これはケーキなどにはない、和菓子ならではの楽しみなのです。たとえば「イチゴのショートケーキ」というのがありますね。これは、こういう材料を使って、こういう味がしますよという説明です。「レモン風味のマドレーヌ」、「紅茶のパウンドケーキ」。どれも味や素材、製法を説明するものです。

ところが和菓子の菓銘は少し違います。千代の糸、桃の花、織り姫。など、響きのいい言葉が選ばれます。菓銘を耳で楽しむことが意識されています。
菓銘を聴く楽しみについて、もう少し詳しく見ていきたいと思います。

風薫る1.季節を感じる

「風薫る」というお菓子は、錦玉、つまり寒天ですだれを象り、餡をはさんでいます。現代ではあまり見られなくなりましたが、かつてはどこの家でも、初夏になると日差しをさえぎるため、すだれを窓辺にかけたものです。青竹を割った新しいすだれを窓辺にかける。季節は五月で、気持ちの良い風が吹いている。そんな情景が浮かんでくる。和菓子の菓銘には、季語など季節を表す言葉がたくさん使われています。

たつたがわ2.物語を語る、イメージを広げる
「竜田川」は、紅葉を表したお菓子です。平安時代の貴族で歌人であった在原業平の和歌に 「ちはやぶる神代もきかず竜田川 からくれないに 水くくるとは」というものがあります。『古今和歌集』に納められているものですから、みなさんもご存じと思います。

竜田川は紅葉の名所として知られています。和歌にちなんだ菓銘は、その和歌が描いた世界を思い出させます。物語があり、イメージが広がってきます。

3.謎かけになっている


厄払い、かきつばた
「厄払」という菓銘のお菓子は、節分の豆をまく枡を象ったものです。鬼は外と豆をまいて追い払う。だから、厄払いという訳です。日本人はそのものズバリの言い方を嫌います。婉曲に表す。この菓銘もワンクッションおいています。もう少し高度な、知識、教養を求められる菓銘もあります。

「唐衣」というお菓子です。これは、かきつばた(杜若)という花の姿をしています。先程出てまいりました在原業平の和歌に、「唐衣着つゝなれにしつまれば はるばるきぬる旅をしぞおもふ」というものがあります。「かきつばた」の言葉を入れて当意即妙に詠んだものと伝えられています。お客様をお招きして、お菓子をさしあげます。これは「唐衣」というお菓子ですと説明をします。

どうして、このお菓子が唐衣なのか?お客様は考えます。そこで、はたと閃く。在原業平の和歌を思い浮かべる訳です。これは一種の謎をかけ、主人もお客様も、業平の和歌を熟知しているからこそ成り立つ遊びです。こうなりますと、お菓子はひとつのコミュニケーション・ツールの役割を果たしています。

こんな風に和菓子が「五感の芸術」になったのは、江戸・元禄時代だといわれています。戦乱の世が終わって世の中が平和になり、経済も非常に良くなりました。この頃、僧侶、公家、将軍、大名、裕福な商人などが集まって、サロンを作りました。茶の湯を楽しみ、和歌、文学など王朝文化に親しんだそうです。

和菓子も、それまでにない華やかな色、美しい形のものが工夫されるようになりました。当時の菓子を描いたものが残っていますが、大胆な色合わせ、現代にも通じるようなモダンなデザインなどがたくさんあります。現在に伝わっているものもあります。ここで少し、和菓子の歴史をひもといてみましょう。

メニューに戻る(M)

和菓子の歴史

1.奈良時代以前
菓子は果子とも書きます。奈良時代より前のお菓子は木の実や果物などでした。水菓子という言葉が、その名残です。

2.奈良・平安時代――唐菓子の伝来
遣唐使が中国から唐菓子(とうがし・からくだもの)と呼ばれる物を伝え、日本に本格的なお菓子が生まれました。遣唐使とは、630〜894年の264年間に、十数回にわたって遣わされたもので、中国の制度や文物をもたらしました。唐菓子も、異国のめずらしいもののひとつでした。

唐菓子は小麦粉や米の粉の生地で、さまざまな形をつくり、焼いたり、油で揚げたりしたものです。あまづらという、つたの樹液を煮詰めた甘味、塩、丁子、肉桂などの香料で味をつけています。

平安時代の辞書『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』や鎌倉時代の料理所『厨事類記(ちゅうじるいき)』によると、主なものとして「八種(やくさ)の唐菓子」がありました。唐菓子は神様や仏様へのお供え物、貴族たちのおやつなどのほか、だんごなどの素朴なものは市場で売られ、庶民も食べていたそうです。

「八種の唐菓子」には、桂心(けいしん)(肉桂〈ニッキ〉の皮の粉末をつけた餅)団喜(だんき)(歓喜団ともいう。小麦粉をこねて、餡を包み、油で揚げたもの)、(ぶと)(ウサギが伏せた形に似ている。油で揚げた餅餅)
などがあります。煎餅、粽(ちまき)、(くさもちい)(草餅)、椿餅なども、唐菓子のひとつといわれています。

唐菓子の姿をしのぶものが、現代に伝わっています。京都の水田玉雲堂の「唐板」、亀屋清永の「清浄歓喜団」、奈良の萬々堂通則の「ぶと饅頭」などです。 

中嶋講師さて、ここでクイズです。
唐菓子が日本各地に伝わり、私たちに大変なじみの深い食べ物になったといわれています。それは、以下のどれでしょうか。
A.お好み焼き
B.うどん、ほうとうなど麺類
C.たくわん

ヒントは小麦粉を使ったものです。
正解は Bの「うどん、ほうとうなどの麺類」です。
唐菓子のひとつに、小麦粉製の(はくたく)というものがありました。これが、うどん、山梨県に伝わるほうとうなどになったといわれています。

3.鎌倉・室町時代――羊羹と饅頭のはじまり  
鎌倉時代になりますと、多くの禅僧が中国へ留学し、中国人僧侶も来日しました。鎌倉初期(1191年)に栄西(えいさい)禅師が宋からお茶を持ち帰りました。栄西は、お茶の効用、製法などについて著した『喫茶養生記(きっさようじょうき)』(1214年)を書き上げました。

お茶とともに、点心も伝えられました。点心というのは、空腹をいやすため、食事の間に食べるお菓子や軽食のことです。現在、点心は飲茶の店などで食べられます。ワゴンにのせて、小さなセイロで蒸したシュウマイや小籠包(ショウロンポウ)など運ばれてきます。スープや肉や魚介の小皿料理、杏仁豆腐などもあります。800年前の点心も、甘、辛、スープなど、さまざまな種類がありました。点心のひとつとして、羊羹が伝わってきたといわれています。

羊羹さて、また、クイズです。
当時の羊羹は、現在のものとはかなり違います。
それは、以下のどれでしょうか。
A.スープ
B.デザート
C.野菜炒め


ヒントは羊羹という字をよく考えてみてください。

正解はAの「スープ」です。
羊羹の「羹」という字は、あつもの(吸い物・スープ)の意味です。
「羹(あつもの)に懲りて、なますを吹く」ということわざがあります。度の過ぎた用心をするたとえです。

羊羹について
羊羹というのは、本来、羊のスープであったらしい。ところが、禅僧は肉食を嫌いますから、羊肉の代わりに野菜、豆などを使うようになり、さらにスープも省略されてしまった。 室町時代に書かれた『點心喰様』に、羊羹の作り方があります。まず小豆を煮て皮を取り、水でさらして布でこし、残ったもの三合に対し、葛粉一合を加え、砂糖を加えてもむ。こしき(蒸篭)に敷いた布に小豆の粉を敷き、上に葛の粉を薄くのせ、布をかけて蒸す。

小豆を煮て皮を取ることや、葛粉を加えることなど、現在の蒸し羊羹と共通する点もうかがえます。当時の点心には、羊羹のほかに鼈羹、猪羹、白魚羹など羹の字のつくものが四十八種類ありました。『庖丁聞書き』(ほうちょうききがき)という本には、「惣じて羹は、四十八わんの拵へ様ありといへども、多くはその形により名ありと言へり」とありますので、形が違うだけだったようです。

また、『食物服用之巻』(1504奥書)には、「鼈羹はあし。手、尾、くびをのこし。甲よりくふ也」とあります。鼈羹は亀の形をしているもので、足、手などを残し、甲羅の方から食べなさいという説明です。かなり、はっきりと亀の形をしていたのだと想像されます。

饅頭のルーツは2説あり

饅頭もこの頃伝わったといわれています。饅頭のルーツは2節あります。ひとつは、虎屋、もうひとつは塩瀬総本家にかかわるものです。
(1)酒饅頭の伝来
まず、虎屋にかかわる説から。
仁治二年(1241)、宋から帰国した聖一国師(しょういちこくし・1212〜80)が托鉢の道すがら、福岡近郊の茶店に立ち寄りました。そこで店の主人の栗波吉右衛門の温かいもてなしに感激し、酒饅頭の製法を伝えた。のちに、吉右衛門は『虎屋』と名乗り、饅頭屋を開きました。

酒饅頭というのは、小麦粉などに酒麹を加えた皮で餡を包み、蒸したもので、ふっくらとして甘酒のような香りがします。聖一国師が揮毫し、吉右衛門に与えたという「御饅頭所」の看板は、福岡県の記念館を経て、現在虎屋に保管されています。現在の虎屋饅頭は、この酒饅頭の流れをくむものといわれていますが、詳細が伝わっていないので現在の虎屋との関連はよく分かっていません。

(2)小麦粉饅頭のはじまり
百年ほど時代が下った貞和五年(1349)、京都建仁寺の三十五代住職、龍山徳見禅僧が元から帰国しました。龍山徳見禅僧のお世話をするため、林浄因(りんじょういん)という若者が来日しました。林浄因は、北宗の詩人林和靖(りんせい)(林通)の遠縁です。

当時、点心として伝わっていた饅頭は、中に肉や野菜を詰めたものでした。禅僧は肉食ができませんから、林浄因は龍山徳見禅僧のために、小豆を甘く煮て餡を作り、小麦粉をねかせて自然発酵させた皮で包んで蒸しました。これが小麦粉饅頭のはじまりといわれています。

小麦粉饅頭というのは、すぐ固くなります。そこで、林浄因の三代あとの紹絆(しょうはん)が中国に渡り、宮廷料理の薯蕷饅頭の製法を学んで日本に伝えました。薯藷饅頭といのは、すりおろした山芋を加えた皮で餡を包んだもので、ほのかな山芋の香りがあり、つやよく、ふっくらとしています。薯藷饅頭は、京都で大評判となりました。林浄因を初代とし、現在34代を数えるのが東京の塩瀬総本家です。

4.室町時代後期・安土桃山時代――南蛮菓子と侘び茶
(1)南蛮菓子の伝来
天文12年(1543)にポルトガル人が種子島に漂着して、鉄砲が伝えられました。これ以降、日本人にはヨーロッパ文化が急速に入ってきます。
ポルトガル人・スペイン人等は南蛮人と呼ばれたので、彼らが伝えたお菓子は南蛮菓子と呼ばれました。カステラ、鶏卵素麺、金平糖などがそうです。

蛮菓子は砂糖がたっぷりと入っていて甘く、卵もたくさん使っていました。当時の日本では砂糖は高価な輸入品です。魚介が主で、卵はあまり食べません。まさに異文化体験。おいしいというのを超えて、衝撃ではなかったと思われます。このめずらしい南蛮菓子を宣教師は布教のツールとして、教会に来た人にふるまいました。商人は、大名や交易相手の手土産などにしました。

会場の様子、熱心に話を聞く受講生


宣教師ルイス・フロイスの書簡によると、フロイスは永禄12年 (1569) 4月16日、二条城に織田信長を訪ねた時、ろうそく数本とフラスコ入りの金平糖を贈りました。金平糖は角がたくさん出ている、小さな砂糖菓子です。海を渡ってやってきた、肌の色も服装も言葉も違う不思議な人々。金平糖は「異国」を象徴するものとして、人々の目に映ったのではないかと、思います。

私は何年か前に、ポルトガルを旅しました。長崎でカステラ修行をしたポルトガルのパティシエが日本人の奥さんとともに、リスボンでお菓子の店を営んでいます。お話をうかがうと、ポルトガルのお菓子は素朴なものが多く、日本のカステラのようにしっとりとしたものはないそうです。

日本のカステラは砂糖がたっぷりと入っていて、とても重い生地です。それを泡立てた卵の力でふっくら、しっとりと焼き上げています。これは世界に例がないお菓子で、とても高い技術が必要です。400年前、ポルトガルやスペインから伝わったお菓子は、もっと素朴なものでした。日本人の技が現在のような形にしたことを付け加えておきます。

(2)わび茶の隆盛

茶道の世界では、千利休(1522〜1591)が登場し、わび茶を完成させました。簡素な茶室で楽しむ茶の湯です。じつは、それ以前、主流だったのは貴族的で華やかな茶の湯でした。室町時代、中国から最新の文化を学んできた文化人である禅僧は、重用されました。彼らの話を聞こうと、公家や武家たちが寺院などに集まり、茶会を開きました。

室町初期に書かれた『喫茶往来』によると、はじめに酒三献、つぎに索麺茶、珍味が出て、飯、果物と続きます。その後、二階の喫茶亭で茶の勝負を行い、それが終わると歌舞管弦を楽しみながら、酒をたしなむ。中心となるのは、闘茶、茶かぶきと呼ばれる、茶の味を見分ける勝負です。これは真剣勝負です。

南北朝時代には、佐々木道誉たち無頼の徒が登場し、婆沙羅(ばさら)と呼ばれる遊びをはやらせました。彼らは奔放で、無頼。闘茶に熱中し、黄金を湯水のように浪費したともいわれます。千利休が完成したわび茶というのは、こうした室町的な茶の湯とは相対するものです。余分なものをそぎ落とした、ストイックなものです。わび茶は多くの大名たちに好まれました。千利休が茶菓子としたのは、ふの焼き、昆布、柿、栗などであったそうです。

江戸に入ると、お菓子も進化して、五感の芸術といわれるほどになったことは、以前お話したとおりです。茶の湯の裾野は公家や大名たちだけでなく、広く、一般の人々にも浸透していきました。ここで、豊臣秀吉が行った「北野大茶会」という大イベントについても、触れておきたいと思います。

北野大茶会は、天正15年(1587)、京都北野神社の境内と松原で開いた茶会のことです。各地に高札を立てて、参加者を募りました。その内容は、身分上下の別なく、茶道が好きなものは手持ちの道具を持って参加せよ、茶がないものは、米や麦を焼いて焦がした「こがし」でもいいというものです。

全国から名だたる茶人が集まり、並んだ茶屋は1500、秀吉自身が茶を立てた相手が803人。まぶしいほどに金で飾った「黄金の茶室」も披露されました。この北野大茶会では、羊羹が出されたと伝わっています。 先程、わび茶は大名たちに好まれたといいましたが、時代が下がるにつれて、庶民にも茶の湯という文化が広まっていきます。

最近、うかがった話ですが、名古屋は茶の湯文化が隆盛で、農家の方たちが農作業の合間に、野点をしてお茶を楽しむ習慣があるというのです。お茶と和菓子は切り離せないものです。茶の湯の隆盛は、和菓子の世界を豊かにしてくれました。

メニューに戻る(M)

江戸時代――将軍と姫君の愛した和菓子

江戸に入ると、和菓子はどのように変わっていったのでしょうか。
将軍や姫君の愛した和菓子を通して、たずねてみましょう

本饅頭1.徳川家康
徳川家康(1542〜1616)ゆかりの饅頭といわれるのが、塩瀬総本家に伝わる「本饅頭」です。本饅頭は大粒の大納言小豆を加えたこし餡を、ごく薄い皮で包んだものです。塩瀬7代目の林宗二が考えました。戦国時代・天正3年(1575)、織田信長、徳川家康連合軍3万8千は武田勝頼軍1万5千と長篠城をめぐり戦いました。これが、長篠の戦いです。信長は最新式の武器であった鉄砲3千丁を用い、三段撃ちという新戦法で、武田騎馬軍団を完膚なきまでに打ち負かしたと伝えられています。

塩瀬は出陣を控えた家康に本饅頭を献上しました。家康は中国の故事にならい饅頭を軍神に備えようとしましたが、陣中で器もないので、兜に盛って戦勝を祈願したそうです。この故事というのは、中国の歴史書『三国志』にある物語です。軍師・諸葛孔明の一行が濾水という川に着きましたが、川が荒れて渡れない。土地の人間は、蛮神の怒りだから、四十九人の人間の首を切って捧げなければならないと言う。困った孔明が、首の代わりに、小麦粉をこね、中に牛と羊の肉を入れ、人間の頭をかたどって蒸した饅頭を、川の神に捧げたという話です。

2.8代将軍 吉宗
吉宗(1684〜1751)は享保の改革をして財政を立て直したことで知られています。贅沢をいましめ、武芸を奨励し、自ら一日二食、一汁三菜を実行しました。また、作物栽培などの殖産興業に努め、米価の安定に力を注ぎました。吉宗は当時、白糖は輸入品でした。そこで白砂糖の国産化を目指して、サトウキビの苗を江戸城内で栽培します。これがうまくいったので、諸藩に配りました。

和菓子こうしてできあがった砂糖のひとつが、和三盆糖です。四国の徳島、香川県で江戸時代の製法で作られています。和三盆糖は独特の風雅な味わいがあり、現在も、高級な和菓子の素材として用いられています。
隅田川沿い、飛鳥山公園などに桜を植えさせて、花見の習慣をつくったのも吉宗です。隅田川の花見の名物といえば、向島・長命寺の桜餅。小麦粉の薄い生地で餡を巻き、桜の葉で包んだものです。

この桜餅を考えたのは、長命寺の門番をしていた人です。大量に落ちる桜の葉を掃除していて、これを何かに利用できないかと考えたことが、ヒントになりました。長命寺の桜餅は大人気となり、文政7年(1824)には、年間38 万個以上が作られたそうです。

それにしても、ずいぶんたくさんの桜餅が食べられたと思いませんか。砂糖が高価な輸入品のままだったら、これほど多くは作られなかったでしょう。庶民でも気軽に買える値段だったから、江戸のヒット商品になったのです。白砂糖の国産化をすすめた吉宗は和菓子の大恩人でもあるのです。

吉宗は紀州藩の生まれです。和歌山の総本家駿河屋の「本ノ字饅頭」はゆかりのものといわれています。また、日本橋長門の「松風」という味噌味のあっさりした煎餅も伝わっています。また、南町奉行を勤めた根岸鎮衛(ねぎしやすもり)の随筆『耳袋』によると、吉宗は駿河安倍川の名物・安倍川餅が好物だったということです。安倍川餅はきな粉をふりかけた餅です。質実剛健な吉宗らしいお好みだと思います。

3.11代将軍家斉

11代将軍家斉(1773〜1841)の時代は、長く続いた平和に政治が乱れ、賄賂が横行していました。老中の松平定信は寛政の改革を行いましたが、あまりに急激な変革でしたので、人々の反発を買い、失脚。その反動のように、華やかな文化・文政期を迎えます。

その一方で、幕府の財政はますます窮乏します。天明の大飢饉のために世の中が乱れ、各地で百姓一揆や打毀(うちこわ)しが多発しました。しかも、家斉は多数の側室を持ち、子供が55人もいました。大奥の経費が、苦しい幕府の財政をますます圧迫していました。

べにまんじゅうさて、この家斉のお好み伝えられるのが「紅梅餅」です。白砂糖を本紅(紅花の赤)で染めた華やかな色彩のお菓子です。豊かな色彩で花や木々を描いた落雁なども、記録に残っています。この思い切った、派手な赤は、女性たちが妍を競う大奥にふさわしい色だという気がします。家斉だけでなく、大奥の女性たちもお菓子を楽しんだことでしょう。

江戸初期は、高級なお菓子はすべて京都の菓子屋が作ったものでした。「下りもの」と呼ばれた「京都生まれ」のお菓子が人気でした。ところが、江戸中期を過ぎると、江戸生まれの菓子屋が力をつけてきます。江戸風の菓子が生まれます。すぐれた技術で、江戸ならではの色彩、意匠のお菓子を作るようになりました。 
写真は塩瀬総本家に伝わる「菓子見本帳」です。

菓子見本帳

紅梅餅の絵も描かれています。菓子見本帳は一種のカタログで、これを見てお菓子を選んだりします。

4.13代家定
徳川家定(1824〜1858)は天璋院篤姫と結婚して2年ほどで亡くなってしまいました。一説には、料理が趣味で、饅頭やカステラを自分で作っていたそうです。当時のカステラの製法は、岐阜県恵那市岩村の「松浦軒本店」に伝わっています。石臼で卵と砂糖を白っぽくなるまでかき混ぜ、型に流し、オーブンで焼くもので、やや硬めの、しっかりとした食感のカステラになります。

江戸城内で家定が趣味の手作りしたのならば、オーブンなどという大掛かりなものではなく、鍋を使ったのではないでしょうか。江戸時代のカステラの作り方に、鍋に生地を流し、ふたをして火にかけ、ふたの上にも炭をおいて、上下から熱する方法が紹介されています。

また、電動ミキサーなどというものもないので、卵と砂糖を泡立てるのは手作業です。石臼やすり鉢ですると、かなり時間がかかります。すり鉢をかかえて、すりこぎをコリコリ回している図というのは、あまり将軍らしくない。想像すると、なんだか、ほほえましい感じもいたします。

5.篤姫と和宮

14代家茂(1846〜1866)は、孝明天皇の妹・和宮を奥方に迎え、公武合体による幕府権力の立て直しをはかります。家茂が長州攻めのために大坂城にいたとき、和宮と天璋院は何度か菓子を贈りました。和宮からは色とりどりの落雁、天璋院からは紅色の羊羹である猩々羹(しょうじょうかん)などが記録に残っています。

和宮は17歳で婚儀をあげました。京都の御所にいらした時、召しあがったのではないかと思われるのが、京都の「川端道喜」の粽です。このお店は室町時代の創業で、季節ごとの粽を御所に納めています。また、『明治天皇紀』には、和宮は京都で月見の宴をしたと記録があります。その折、虎屋が納めたのが、中心に穴をあけて紅をさした月見まんぢうでした。

6.15代将軍慶喜

桃山最後の将軍となったのは、徳川慶喜(1837〜1913)です。大政奉還を決意し、三百年続いた徳川政権に幕を引きました。『聞き書き徳川慶喜残照』によると、慶喜が好んだのは「ももじ」だったそうです。ももじとは、大奥の言葉で桃山です。

桃山は白餡に卵黄を加えた種を蒸し上げたものです。ごくやわらかく、口の中でほろほろとくずれ、卵の風味が広がります。中は白餡のことが多いのですが、慶喜の好みは黄身餡でした。濃厚な味付けが好みだったようです。

メニューに戻る(M)

特別な日のお菓子

1.幸福を願う「百味菓子」

今でも、お誕生、婚礼、あるいは会社の創業祝いなど、お菓子を配りますが、江戸時代、公家や武士の人たちも、さまざまな機会にお菓子を配りました。そのひとつに、「百味菓子」というものがあります。当時、古代中国の陰陽五行説から発展した陰陽道というのが、広く信じられていました。陰陽道では、人生には12年周期の波があって、幸運が続く「有掛」(うけ)が7年、その後の5年間は不運な「無掛」(むけ)になります。

天皇や上皇、公家などが、その節目の年にお祝いをして、お菓子を配りました。これが、百味菓子です。文字通り、100種類のお菓子です。1812年光格天皇に虎屋が納めた「百味菓子」は、干菓子50個、生菓子23個、棹菓子22個、これに梅干や鯛を加えて100個。富士や菊など、めでたいデザインも多く、それぞれの菓子は、とても大きい。現在のものの3倍ぐらいの大きさがあります。これを五段重ねの「百味箱」に詰めました。

2.口伝の紅白梅糖

紅白梅糖、通箱

こちらは、尾張徳川家のお菓子御用をつとめていた両口屋是清に伝わる「紅白梅糖」です。紅梅糖を10個、中央に長生梅糖10個、左に白梅糖を10個入れるのが習いで、大きさは現代のお菓子の2倍くらいあります。ひとりで味わうのではなく、家臣たちに振る舞われたと思われます。

葵の御紋が入った五段重ねの重箱は、大名家にお菓子を届けるときに使っていた「通筥(かよいはこ)」です。宮中、将軍、大名などにお菓子を届けるときには、こういう特別にあつらえた、美しい箱を使います。古いお菓子屋さんにいくと、通筥とか、行器(ほかい)と呼ばれる箱が飾られています。青貝がはめこまれていたり、家紋がデザインされたり、どれもとても贅沢な作りです。
先日テレビで、日本橋の老舗の和菓子屋さんが紹介されていました。そのお店にも通筥がありまして、若旦那が「火事になったら、まず、これを持って逃げる」と応えていました。お出入りを許されるということは、とても名誉なことで、通筥はその証。大切なものなのです。

嘉祥の義

江戸時代、武家や庶民の間で盛んに行われたのが、6月16日の嘉祥の儀です。起源は定かではありませんが、江戸時代、武家・庶民を問わず盛んに行われました。幕府では江戸城の大広間に約2万個の菓子を並べ、将軍から大名・旗本に与えたと記録に残っています。将軍からいただいた菓子は、大切に持ち帰り、家臣にもお裾分けされたことでしょう。菓子は絆を強めるものでもありました。

現在、6月16日は、全国和菓子協会によって「和菓子の日」とされています。もうじき、この和菓子の日がやってまいります。和菓子屋を買って、家族や親しい方と楽しんでいられたら、いかがでしょうか。今日は長い時間、ありがとうございました。


 ●参考
  「和菓子」〈美・職・技〉(グラフィック社)
  「とらや」ウェブサイト

 ●写真は「和菓子」より
  厄払―鶴屋八幡
  風薫る、竜田川、紅白梅糖、通筥―両口屋是清
  唐衣―末富
  小城羊羹 特製切り羊羹―村岡総本舗
  本饅頭、紅梅餅、ももじ、菓子見本帳―塩瀬総本家
  ほかに、和三盆糖―三谷製糖





文責:中嶋久枝 
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:和田節子


本文はここまでです


このページの先頭へ(0)

現在位置: ホーム(1) 講義録一覧(2) >将軍や姫君の愛した華やかな和菓子の話

個人情報保護方針アクセシビリティ・ポリシィ著作権、掲載情報等の転載、リンクについて連絡先

Copyright (c) 1999-2010 kandazatsugaku Organization. All rights reserved.