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2010年7月16日 神田雑学大学定例講座No.514

戦後日本ファッションの変遷

日本における二度の文化革命と復古ブーム

  戦後日本ファッションの変遷 講師、佐藤嘉昭

講師 ファッション研究家 佐藤 嘉昭



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アクセント画鋲
講師紹介(神田雑学大学小倉陽子理事)
1.はじめに
2.昭和20年から34年 アメリカ、アメリカ、アメリカ
3.昭和35年から昭和39年 若者文化の挫折と再生の時代
4.昭和40年から44年 若者文化革命の時代
5.昭和45年から49年 流動化社会の時代
6.昭和50年から54年 漂流する不確実性の時代
7.昭和55年から平成8年 バブル文化の隆盛と崩壊の時代/a>
8.平成9年から平成22年 生産販売店の時代
9.質疑応答



講師紹介(神田雑学大学小倉陽子理事)

佐藤講師の写真  とても2分や5分ではご紹介しきれない沢山の活躍をなさってきた方です。学生時代から他の方々とは違った活躍をされていてそこに今日の活躍の源があったのかなんて思っています。
 昭和16年宮城に生まれ、高校に入りましたら、なんと書道部、英語部、新聞部、陸上競技の4つの部で活躍されまして、特に陸上競技では東北大会のハンマー投げで7位に入られたという、文武両道に優れた佐藤さんです。

 大学は英文科に入られ、その時に翻訳のアルバイトをしたのがファッション系の翻訳でした。その後大学在学中にファッションフォーラムを創立されてそれから延々とファッション業界でご活躍をしていらっしゃいます。
 最近は評論家、翻訳家、随筆家、教育開発指導家などと言われておられ八面六臂のご活躍ぶりです。
 面白いのは大学の卒業論文です。「アメリカ文学における精神分析学的技法」というテーマでした。大変レベルの高い色々なことを経験なさっている佐藤さんは、雑学大学の体現者なのかもしれません。

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1.はじめに

 過分なご紹介ありがとうございます。高校時代東北大会でハンマー投げが7位ですが大変悔しい思いをしました。6位までしかインターハイに出られないんです。
 それから学生時代のファッションフォーラムと言うのは、ファッション研究会でした。最初の狙いでは当時アメリカに出来ましたプレーボーイクラブというものを作りたかったんですが、ところが文連に行ったら「そんな名前の会に部室を貸すことは出来ない」ということで、それじゃファッション研究会にしようということで会を作りました。色々な部から落ちこぼれてきた学生を集め、どちらかといえば学内よりは街で勉強したいと言う考えで、当時の映画や歌や風俗について語り合っていたのでした。
 卒論はいま聞いてびっくりしましたが、私は当時「ファッションガイド」という本の翻訳の仕事をしておりました。一年以上かかって一冊の本を訳しました。色彩学とか素材学とか色々なことを学びながら、当時では大変権威がある世界のファッション憲法みたいなものを一冊訳している間に何とかファッションの修士みたいな形になってしまいました。本当はアメリカに行って、竹村健一、小田実の跡を継いで、アメリカ放浪記でも書いてみたいと、その渡航費用稼ぎに翻訳のアルバイトをやったんですが、それが縁になって、一生ファッション業界に身を置くようになりました。

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2.昭和20年から34年 アメリカ、アメリカ、アメリカ
 (戦後ルネッサンスから大衆文化時代へ)・・・ドブネズミスタイルからの再生

会場風景

 日本におけるファッション文化革命は2度あったと思うんです。一度は明治維新の文明開化です。これは上からの改革と言いますか、一般の人にはまだまだ和服が主流でした。そういう意味では一般までは浸透しなかったので、本当のファッションの文化革命と言うのには足りないものだったと言えると思います。そのいい例として、昭和7年の白木屋の火事があって、多くの女性が助かるべきなのに助からなかったという悲劇がありました。当時の女性はおこしを巻いていて、まだ下着は履いていなかったのです。それで高いところからはしごで降りるのを躊躇して多くの女性が亡くなったのです。それを契機に下着を履くようになったという、それぐらい戦前は着るものに関しては古い体質が変わらなかったのです。

 第2回目はマッカーサーが厚木に降りたってからです。軍人さんがいかり肩のスーツを着ている。女性将校や将校夫人はいかり方の洋服でひざ丈のスカートで街を闊歩する。その颯爽たる姿に日本の男性も女性も圧倒されたんです。
 戦争に負けて、学校にも行かず、仕事にも行かず、正絹の白いマフラーを首に巻き、銀座あたりを伏し目がちにあるいていた予科練帰りとか、あるいはパンパンガールと言われていた人たちがとりあえずアメリカのファッションを取り入れたのです。
当時は女性はモンペが主体で男性は復員服が主体で始まったのです。そしてドブネズミルックという背広一着が流行る、それが再スタートだったと思います。

 衣食住と言われていますが、まず衣どころか、都会の人は食べものが無くて、芋づるでも何でも食べたという時代でしたから、そんな洋服なんかには気が回らなかったのです。
 その点では、家で自分で生地を買ってきて型紙を使って作る、いわいるホームメードと言うものが最初です。私の一番上の姉が私の洋服をホームスパンで手回しミシンで縫ってくれた事、そして当時はダスターコートというのがあって、兄が着ていたそれが恰好よかったとか、いろいろを覚えています。
 私の姉たちはいち早くアメリカ文化に魅了されていました。ジェームス・ディーンが亡くなった時なんかは、私の2つ上の姉なんかは、泣いていました。私は今考えてみると兄や姉のデカダンスに影響されたようです。
 私の出身地は宮城県の北のはずれ、山を越せば岩手県と言う場所ですが、弾圧されたキリシタンたちが最後まで隠れ住んだ場所でした。最終的にはそこで数百人のキリシタンが処刑された隠れ切支丹の里と言われるところで、そういう環境もあって小さいときから多少西洋文化というものに興味を持ったように思います。

 先程三上学長からご紹介された大空出版の本、これは週刊ポストが編集したんですが、「サラリーマンの比べる仲間の大辞典」という本でございまして、電車のつるし広告にも出ていたようで、どぶ鼠ファッションの男のことを書いたものです。
 そうした時代の中、百貨店にはつるしというものが出来てきて、男性ですと注文服が中心で、女性ですと自分で生地を買ってきて型紙を自分で作って自分で縫うというものでした。

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3.昭和35年から昭和39年 若者文化の挫折と再生の時代
 (谷間の世代がファッションを発見する)・・・アイビースタイル革命

 だんだん経済復興してきますと、注文服を受けるテイラーさん達は猫の手を借りたいくらい忙しくなったのです。日本全国洋装時代の始まりです。 婦人服ですとパリの色々なデザイナー達の作品が入ってきて、ファッションが盛んになってきました。 日本で最初の男女ファッション史を、わたしはこの本で書いております。 この頃私は、石津謙介というVANを作ったり男性ファッションについて何十冊も本を書いている方、また林邦雄という婦人服のファッションに関して何十冊も書いている方、この両方の先生に殆ど息子みたいに可愛がってもらったのです。 私は何事もオーバーに表現するのが好きなものですから革命と言う言葉が好きなのです。 まずアイビー革命。これはアメリカの8大学の学生たちが着たというものです。実際には業者が考案したものです。

1960年代後半アイビー  当時は背広は胴を絞って形を作るとどうしても加工賃が高くつくのです。その点でアイビーは作業服でも作るような簡単な作り方で非常に安くできるのです。絞ったりしないでまっすぐのラインですから縫うのもまっすぐで簡単です。
 洋服の加工賃は10cm裁たれたら何円という風に価格に跳ね返ってくるのです。ですからシンプルであればあるほど安くできるのです。

 石津先生がアメリカから持ってきたアイビーというのは、ただかっこいいだけではなくて、非常に生産が合理的で工賃が安くできたんですね。
 そのころ私は大学を卒業してすぐにメンズファッションユニオンに関係し、東工大の色彩学の稲村先生とか、いろいろな分野の先生達と同列で話が出来る立場になったんです。それのベースが英語が出来て、海外の新聞や雑誌を絶えず読んでいるから海外の動向がわかると言うことだったんでしょうね。

 僕は嘉っちゃんと言われていましたが、先生方から「嘉っちゃん、フランスではどうなってるの、アメリカではどうなってるの?」と聞かれるわけです。それを「あの本ではこう書いてありました。」というような対応をしていたのです。
 そんなにファッションの事を分かっているわけではなかったのですが、多少は先程紹介いただいた「ファッションガイド」を翻訳して多少の勉強をしていたこともあり、平凡出版という今マガジンハウスという出版社の平凡パンチという雑誌で海外のファッションについての翻訳したものの記事を書いたり、あるいはVANの向こうを張ったJUNというところの嘱託をしていました。

 そのころJUNはアイビーに対抗してフランスのカルダンが紳士服を始めたんです。
 胴をしぼったかっこいい背広、その記事が載った雑誌が航空便で来まして、それを私は翻訳して「カルダンがこんな紳士服を始めた」といって急いで持って行きますと、社長も部長も飛んできて、すぐフランスに飛んで行きましたね。当時はドルの持ち出しが大変でしたから、フランスで買った何点かの見本を私服にみせるために、砂をこすりつけて汚して、日本に持ち帰ったという苦労話がありました。

 その見本を専門のカッティングの先生が分析して、直して造ったのです。
 私の仕事は翻訳が主体だったのですが、佐々木社長が「佐藤君、君はいろいろな事が出来そうだから」ということで、今で言うスタイリストの仕事をさせられたのです。宣伝文句を書いてくれと言うことで、長沢節という当時の先生に絵を書いて頂き、私が日本語と英語の混じったストーリーを書いて、VANの向こうを張る仕事をしたのです。

 VANの石津先生にはずいぶん可愛がられましたが、仕事面では私は反アイビーの急先鋒でJUNの仕事をやっていました。
 当時の日本はVANとJUNの洋服世界だけでなくて自民党と社会党とかミニとパンタロンとかミニ対ロンゲットとか、2大勢力が拮抗する時代でした。日本人は対立する党派を好むのですかね。
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4.昭和40年から44年 若者文化革命の時代
 (モダニズムが体制をゆさぶる)・・・・ヒッピーファッション革命

 ボブ・ディランが歌を歌ったのです。当時アメリカでは黒人差別に反対する運動とかヒッピー運動がありました。
 私も1969年にアメリカに行って、色々なファッション関係のリーダーと会って来たんです。日本では仕事もしないでぶらぶら新宿とか渋谷を歩くのをヒッピーと当時は言っていたのですが、アメリカでは全然違いました。普通のルートではなくて、既成のルートとは違った方法で、安い会場で自分達の描いた絵の展覧会をするグループだったり、自分たちで編集して作った新聞を街かどで売るグループとか、そういう企業などの既成勢力に依存しないで自分達のルートで仕事をし自分たちで生活をしていく、そういう人たちがヒッピーだったのです。

 ヒッピーのリーダたちは大変学問があり教養のある方たちでした。ただ服装だけは会社に行くわけではないのでネクタイもしていない、ジーパンとかでその辺の乞食みたいな恰好をしている。企業に隷属しない。一夫一婦制にも反対する。女性は男のものではない。などの主張をしていました。
 アメリカでは意外なことに男性が財布のひもを握っているんです。男性が毎日奥さんにお金を渡すんです。アメリカでは八大学を卒業して来たエリート、これがアメリカの国をそれまでリードしてきたのです。アメリカは歴史も浅く、ヨーロッパに対してコンプレックスがありますから、こういうエリート達が文化を大事にしようということで文化を引っ張って来たのです。

 ところが普通の大学も出ていない、そういうエリートでない普通の人たちが、疑問を感じたのです。ケネディの時代はアメリカンドリームの最盛期といわれたのですが、一方ニューヨークの路地には家もないホームレスや貧しい人々が溢れるという影の部分が発生していたのです。そういう矛盾するアメリカ社会をいろいろな音楽の分野、映画の分野でこういうヒッピー達が描き出したのです。
 有名なミュージカル映画ウェストサイドストーリーも根本にはアメリカ人の人種差別があるのです。シェークスピアのロミオとジュリエットを下敷きにして、当時のアメリカ人の人種差別問題をストーリー化したものです。エリートに対する反発があったのです。

 日本もそれまではファッションの世界でも、ある先生について10年くらい修行しないと一人前にみなされないと言う時代だったのです。ところが私達の時代になると、大学を出てすぐに、その会の何十年選手の大先生方と同じ席で生意気が言える時代になったのです。

1970年代前半ピーコック革命  これはファッション界だけではなくて、あるとあらゆる分野でそれが起きたのです。それまでは例えば55年に作られた映画が57年に作られた映画より後に紹介されて封切られるとか、そういう映画会社のその道何十年選手のさじ加減によって、封切りの時期なんかが牛耳られていたのです。
 アメリカやヨーロッパではリアルタイムなものが紹介されていても、日本では力のある先生のさじ加減で、紹介されたりされなかったりするということです。ところが我々当時の若者には世界の情報が雑誌や新聞で直接どんどん入ってくる。それをすぐ雑誌とか新聞に紹介する。そういう語学力のある若者のリーダーが、ありとあらゆる分野に出てくる。そうすると古い先生方は大変やりずらくなってきたのです。

 そんな中でモッズルックとかサイケデリックとか日本調のいざなぎユニセックスといって、男女に服装の区別はないというものも出てきました。私がお世話になった長沢節という先生は「男女なんかは出たもので区別をつければいいんだ、服で男女の区別をする必要なんかない」という発想の方でした。それからフォークロアというものもありました。民族調ということです。
 私が海外を含めて色々なデザイナーの方々との交流で感じるのですが、きちんとしたデザイナーは絶対にフォークロアという言葉は使いません。

 服飾史を研究していますとフォークロアといってその土地の伝統のものと思われていても、それはアラブから頂いたり、中国から扇子をいただいたり、色々な国と占領したり関わりを持って取り入れ、出来たものが西洋文化なんです。本来フォークロアと言うとフランスのふさえでもフォークロアではないかとも言えるのです。ですから教養あるデザイナーはフォークロア、民族調という言葉は使わないんです。民族調というとちょっと見下げた感じを受けますね。そういう感性をデザイナー達は嫌います。
 私がお会いしたことがあるカルダンとかデザイナーの方々は、芸術家というよりは大学の教授でそれも四六時中書斎にこもっているような方々でした。非常に物静かで、学者タイプで、浮ついたという感じはなかったです。
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5.昭和45年から49年 流動化社会の時代
 (ファッションの多様化と懐古ブーム)・・・・ジーンズ革命

 45年になりますとファッションが多様化していく時代になりました。その前のヒッピーというのは、資源を無駄遣いしないためにも、背広とかでなくジーパンとTシャツでいいではないかという考えです。
講演中の佐藤講師  1973年にオイルシックによる不況の時代がきましたが、そのころからジーンズ革命が定着してきたのです。これはおしゃれではなくて、贅沢に対する反抗心が底流にあったのです。当時の若者たちは「奇麗にするだけがおしゃれでない、汚すこともおしゃれなんだ」と主張しました。これには大先輩がいるんです。坂本竜馬がそうですね。おしゃれなんだけれども服装に無頓着、いつもよれよれの仙台袴とぼさぼさ髪ですね。その次は一高生たちのバンカラファッションです。手ぬぐいを腰に下げて下駄を履いてきたない帽子をかぶってというスタイルですね。今でもわざと擦り切れたジーパンとかあちこち穴があいているとか、よく見ますね。

 根底には大人への反抗があるのです。
 大人達は贅沢で浪費する。僕等はジーパンとTシャツだけで質素に暮らしたいという思想的なものが根底にあったようです。私の先生の石津謙介先生は服というものは、擦り切れるまで着るべきだと言っていました。イギリスの紳士は擦り切れて穴があいても、革でパッチワークして修理して使ってきた。スウェードの良い洋服なんかは、おじいさんの代から孫の代まで着ているそうです。それが現在のファッションのつぎはぎルックとかパッチワークの源流ですね。
 私は群馬県の県立女子大学の100名ぐらい英文科の生徒を前に講演したことがあるんですが、そのときに強調したのが「単なるファッションなんて男にもてるために着るとか女にもてるために着る、それがファッションではない。当時の若者は自分の服装を通して自分の主張をしたかったんだ」と言いました。

 当時、トラックに乗って北海道まで行って一週間もアルバイトをすると一か月は飯が食べれました。彼らはそうやって自分の意思を発信しながらジーンズとTシャツでプライドを持って闊達に生きていたんです。当時私はテレビなどで「これからの若者は大人を怖がらせる服装をしなければならない」なんてしゃべったりしていました。
 当時アメリカで私は姓が佐藤ですから「私は日本の佐藤栄作の息子だ」というジョークを言っていました。なんで面白いのか、佐藤栄作と言えば謹厳実直の総理大臣、ところが同じ佐藤ですが、こちらはヒッピースタイルのファッションで暮らしていますから、体制と反体制が親子と言うジョークだったのです。

 ナポレオンは常々「私はブルボン王朝の後継者ではない。私ローマ帝国の後継者である。」と言っていました。ですから奥さんのジョセフィーヌに着せたのは、ルイ王朝風の胴を絞めてガットでスカートを膨らませた貴族風俗ではなくて、ローマの貴族夫人の着た、ストーンとまっすぐな細めのシュリエットの洋服を着せました。
 ブルボン王朝を否定しようという政治的動機でファッションの常識を変えたんです。日本でも最近では省エネ問題とからめてクールビズを導入しましたね。これは始めはワイシャツの消費が増えないので困ったワイシャツ業界の知恵だったのですが、それに政治家が乗ったんです。
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6.昭和50年から54年 漂流する不確実性の時代
 (石油不況でカジュアル、ファッション産業の暗雲続く・・・・カジュアル全盛

 1975年前後になるとまた奇麗なファッションが戻ってきます。
 ファッションには「正・反・号」という言葉がありまして、オーソドックスな奇麗なファッションが流行ると、今度は反という時代に入り、それの次には両者を合わせた号の時代が来るのです。私は75年あたりはきれいなファッションが戻るんじゃないかと予測していたんですが、オイルショックが長引いて、そんな余裕がなかったのです。それで石油不況で金回りが悪くなり、ドレッシーな服がなかなか売れないとか、スーツでもいいものが売れない、苦しい時代でした。ですからこの時代はカジュアル全盛で男の服か女の服か分からないようなものが出てきました。

 それにミニスカートの出現、これも一つの革命でした。それまで女性はせいぜい膝小僧をだすくらいでつつましくスカートを履いていたのが、ひざ上10cmが当たり前になりました。ツイギーというモデルが来て有名になりましたね。これはこの頃の業界裏話です。
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7.昭和55年から平成8年 バブル文化の隆盛と崩壊の時代
 (DC商品の氾濫、アパレル産業の失速)・・・・ソフトスーツブーム

 今から30数年前、ちょうどファッションビジネスが盛んになった頃は、百貨店の担当は昨日まで電器売り場にいた担当、課長とか係長クラスの人間が、パッと洋服売り場にコンバートされました。ひと月に30冊の本を読み我々専門家と言われていた人間の話を聞きに来るとか、大変な勉強をしていました。普通ですと昼間の仕事でくたくたですから早く帰って寝たいですよね。ところが彼らは帰って本を毎日毎晩読んで勉強したんです。それくらい当時の担当者は勉強しました。

cool60's!  ファッションメーカーの物を作る企画もそうです。デザイナーと言うと恰好よいように見えますが、絶えずいろいろな雑誌とか本を読むのです。画を描く人間と言うのはびっくりするくらい本を読みますね。

 そういう点からいうと最近の百貨店で残念なのは、売り場の担当者の勉強不足ですね。今の百貨店は一種の貸店舗業といいますか、スペース貸しをしているだけです。これからお話するDC商品販売時代になりますと、それまでは百貨店が平場でもって最終価格で皆がいい商品を売ることに努力していたのに、1980年代を境にしてデザイナーに小劇場として百貨店のスペースを貸していくように変わったのです。百貨店の人間はただ場所を貸した家賃で事業をする、百貨店の人間はそこで売る物の勉強などをする必要がない。そんな風に変わってしますのです。

 日本は高度成長を続け、バブルという行きすぎの消費が最高潮にまでいった時代になるのですが、このころはインポートショップと言って、デザイナーが向こうで作った物を実際に着て、コンブレとか、ソフトスーツが流行ります。イタリアンが中心のゆったりたっぷりしたファッションが流行るのです。
 昔アメリカに有名なオレッグ・キャッシーニという超ハンサムなデザイナーがいて、それが世界中に売れたんですが、よく調べてみるとオレッグ・キャッシーニなんてはデザイナーでも何でもないんです。それは彼のキャラクターを利用して売っていたのでした。それが後でばれたんですが、キャラクターというのには色々な意味合いがあるのです。こんな時代の中、それまで三越や伊勢丹などの一流百貨店向けに忠実にいい商品作りをしてきたアパレルメーカーがばたばた潰れていったのです。

 百貨店というのは非情なもので、そういうものを止めて場所貸ししたほうが楽だ、一平方メートル幾らで収入がある。有名なデザイナーに店を貸すと、そこで客は来る。ですから特に東京にある私が顧問をしていたようなメーカーがばたばた潰れたんです。その点関西のメーカーは力強く生き延びているメーカーが結構あります。当時東京のメーカーが一流百貨店に納入することにプライドをかけて競争していたのに反し、関西のメーカーの方は悪く言えばどさまわり、日本中を駆けずりまわって物を売って行くという近江商人以来の地域重視の商売を大事にしていたのです。

 このように百貨店に可愛がられて成長し、非情に捨てられて衰退したアパレル産業の苦しい時代がありまして、私のこの時は寂しい思いをしました。
バブル文化の時代はありとあらゆる分野で音楽でも映画でも、高度成長が行きつくところまでいって、文化が栄え日本が豊かな生活を誇った時代でした。
 当時の若者は海外の有名デザイナーが作ったものを実際に着てそれを謳歌したのです。その半面、品質が良くて値段が比較的安い日本のメーカー製品が、百貨店の平場と言う売り場で売られていた商品が無くなっていったのです。
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8.平成9年から平成22年 生産販売店の時代
 (シップス・ユナイテッドアロウズ・ユニクロ・青山)・・カワイイが世界の流行語に

 いまから40年前メイドインチャイナというと安いけれども品質は悪くても当たり前と言うのが常識でした。当時晴海の中国商品展を見に行きまして万年筆を買って帰りまして、書いてみたら2,3日でペン先がポキッと折れました。いまから30年前はそんなに粗悪なものだったのです。
 ところが今では大変にいい商品が出来ています。中国人の工賃が高くなって、中国人が作っていては駄目だといって、アフリカに投資したりする動きをいち早くやっています。韓国も先々を見据えてすばやい手を打っています。

 その点日本は鈍いです。何故でしょうか?
 日本は海外援助が金額で世界一ですが、どちらかというと電気がないと動かないような機械を使うことを前提にしています。足踏みミシンでもいいんです。そういう電気インフラのない様な地域にはそういうもの送るとか、もっときめ細かく頭を遣う必要があります。
 その点中国や韓国はすばらしいです。ウクライナの農地をどんどん開拓する援助をしています。ウクライナは世界でも有数の豊かな土地なんです。そこに韓国や中国はいち早く食い込んでいます。

 そういう中国が経済的にも文化的注目されていますが、それは中国には長期的な視点に立った戦略があるからなのです。
 例えば中国工業院という日本の通産省にあたるところで、ピエール・カルダンが30数年前に顧問をやっていました。中国はそれだけ先を見て手を打っていたのです。
 毛沢東だ紅衛兵だと日本は中国躍進の将来を感じていなかった時代、実際にはトウ小平の路線で中国は先々は服飾産業が必要だと言うことで手を打っていたのです。来るべき時代への布石として洋服作りやデザインの勉強をしていたのです。

 アメリカの学者サミュエル・P・ハンティントンが文明の衝突と言う本を書きまして、世界の文明は分けると八つに分けられると言いました。その先生は日本は一国で一文明としました。
 これは非常に面白い見方だと思いますね。日本はもともと中国とか朝鮮から文化を受け入れて、そして日本ナイズして遣唐使の派遣も中止し日本独自の文化を育てましたね。戦後はアメリカファッションというものを取り入れて、アメリカのライフスタイルを取り入れてきました。
 そして文化の裏には必ずビジネスがあります。

 アパレルメーカーがどんどん潰れていった反面、ジップスとかユナイテッドアロウズとかユニクロとかの生産販売の会社が伸びてきています。今までのように問屋を通さないで生産と販売を自分たちで行う会社です。
 従来日本は世界一複雑な産業構造を持っていまして、川上、川中、川下というのですが、川上では糸を作ったり、生地を作ったりする産業です。川中といいますとそれをつぶす、洋服にする産業です。川下は消費者に一番近いところ、販売です。百貨点であり小売店であります。

ソフトスーツ・クールビズ・クラシックダークスーツ  石津謙介さん達が始めたVANやJUNなどのファッションメーカーは殆どはもともと問屋だったのです。問屋に企画部が出来たんです。
それまでは何億とか言う宣伝費をかけてファッションを流行らせる。この前の講座で東レの遠入登という天才的なマーケッティングディレクターの話をしましたね。
 有名なシャーペットトーンキャンペーンを成功させ、トニーザイラーの黒の服装をきっかけに当時見向きもされなかった黒のスキーウェアーなどを流行らせた時代がありましたが、そういう時代から、商品の企画力のない問屋は去りなさいという百貨店からの最後通牒があった時代になり、問屋にも企画という部門が出来たのです。

 それまでは経理の部長あたりが算盤片手にメーカーの持ってくる商品を揃えていたのが、消費者が必要とする商品を研究していく、企画室が出来たのです。そこには紳士服では企画マンと言いましたし婦人服ではデザイナーと言いましたが、彼らがいて、大変な勉強をし頭が痛くなるほど本を読み、雑誌を読み、四苦八苦しながら売れるものは何かを考えていたのです。

 私はよく「佐藤先生はうらやましい。売る苦しみをしないでデザイナーをやっている。」と言われていました。まあ私の場合は一種の人寄せパンダみたいなもので、百貨店の催事であるとか、あるメーカーさんの展示会で、「オッ今回は今までとは違った若者向けの商品があるな」と言うような発見をする役目を担わされていたんです。そういう点では実際に売れるものを作らなくてはならないデザイナーにとっては、時代の先端をみて奇抜なデザインをやっていた私はうらやましかったのかもしれません。
 今は問屋を通さないで直接中国などの産地に頼み生産をさせてそれを売るという、生産と販売を両方兼ねてやるという生産販売店全盛の時代です。その代表がユニクロです。始めは私の友人の奥様なんて「あんなユニクロなんて着ちゃって、一回洗ってしまうと着れないわね」などと敬遠していましたが、いまでは独り勝ちですね。

 アメリカで新しい企業を創業して成功した若い富豪たちは、いわゆる一流百貨店で買わないで量販店のスーツを買って着るという話を聞いています。洋服でステータスを表現する時代は20年も前に終っているのですね。自分の趣味であったり、主張で自分のステータスを表現する時代が始まっています。

 最近非常にいい傾向が表れていますのは「カワイイ」という言葉が世界的に話題になっていることです。日本の雑誌が中国や韓国にそのまま翻訳されて、恰好いいと受け入れられるようになってきました。カワイイというのは非常に便利な言葉で、お姫様みたいなのもカワイイですし、ジーンズにつぎはぎみたいなものを着てもカワイイですから、定義が今までと変わって、清楚であるとか豪華であるとかなどを超越して、幅広く受け入れられるのです。
日本人デザイナーも海外で通用する方が増えてきました。例えば山本耀司さんとか海外でも稼いでいます。いかんせん日本人が作るとどうしても工賃が高くなります。そうすると中国とかアフリカで作ることになるのですが、その元になる技術と企画は日本が発信し続けることが可能だと思います。

 私は、この「若者文化史」という戦後のファッション史を本に出したのですが、これからのビジネスは、ITとか、生産ではサムソンなどに追い越されて厳しい状況があるにせよ、いまだに日本の技術が素晴らしいものがありますし、日本には日本伝統の濃い文化がありその底辺には技術というものがあると思うのです。日本人の技術というものはこれを活かしたものが個性的で国際的にも生き残ると思うのです。

 なぜフランスがファッションの中心になったかという有名な話があります。
 イギリスで産業革命が起こった時、イギリスは蒸気機関を使った機械産業革命で安い製品を沢山作って輸出しました。フランスは伝統的な国ですから、それが遅れました。
 その時リシュリューという総理大臣が「もしイギリスが機械生産で安いものを作るなら、こっちは逆に手仕事でもって他の国が真似出来ないようなものを作ろう」という手工芸の見直しを叫び、それのお金をかけて奨励したのでした。実際にイタリアの馬具を作っているメーカーに靴とかカバンを作らせるとか、周辺の国から人材をフランスに集めてフランスのファッション文化を作り上げたのです。

 日本には日本の伝統ファッション分野にもありますね。京の友禅に見られるように日本の伝統的な技術は死に絶えかけているんですが、いまならまだまだ間に合うのです。
 いま60代、70代の元気な人はそういう技術を持っています。それを伝承する最後のチャンスが今だと思います。私の友人にはそういう伝統文化をなんとか残そうと頑張っている方々が沢山います。さっきのフランスのリシュリュー総理大臣の話は、日本人の感性に合うと思いませんか?

 今はユニクロという安物が中心で、ある人は「なにか安物文化の時代になっちゃった」と嘆いています。けれど日本にはまだまだ技術がありますから、もう一度見直していくことが出来ると思います。
 私の知人で一年間に背広をたった100着作っている方がいます。それで立派に商売しています。一着100万ですから商売になるんです。そのかわり大変な手間暇がかかっています。
 一種のニッチビジネス、隙間産業とでも申しましょうか、そういうものお今後のビジネスとして増えてくるんではないかと思っています。
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9.質疑応答

質問:今年の流行の色はなにですか?
応答:今年は明るい色ですね。夏はグリーンからブルーの寒色が中心です。秋になると暖色系になると言われています。色は赤にも暖色系と寒色系の赤があります。青で言いますと鉄紺などは冷たい寒色系ですが花紺といいますとちょっと紫がかって暖かい感じの青でこれは暖色と言います。今年は非常に色が奇麗です。難しい色と言うよりはさわやかな色です。複雑な色というよりは自然の草花とかそれを模したようなすっきりとした色が今年の中心です。

質問:メーカー、問屋、百貨店とありましたが、私はメーカーが流行を作り出したのだと思っていましたが、先程のJUNとかVANなどの流行は問屋さんが作ったのですか?
応答:JUNとVANは始めからメーカーだったのです。それを見習ったのが他の問屋さん達なんです。JUNの創業者は昔から糸商でしたしVANの創業者は紙商で上海で活躍した方です。 ちょうどいい質問だったのですが、ファッションの色とかデザインはデザイナーが決める、あるいは問屋が決めると思っている方がいますが、そうではなくて世界には世界流行色協会とか色々な研究団体があります。それ等が集まって三年先はこれで行きますと決めるんです。

 私も日本流行色協会の役員をしていまして、海外の団体から送られてくる色を見て「これは日本人には向かない」とか「これはいい」とかいうことをやりました。
 そんな情報が商品になって流行する前には、実際はメーカーと言うよりは、生地屋さんが生地色見本を持って、シャツメーカーなどを回るんです。
 生地メーカーが見本を持って行くとそれには、マークが売ってあって、沢山採用されているものは見たらわかるのです。点々のマークが多いのは人気があるわけですから、採用される可能性が大きく、そうやって色の流行りが決まっていくとも言えるのです。
ですからメーカーのデザイナーが色を決めて行くとか、あるいは世界的に有名なデザイナーが色を決めているということはないんです。

 ファッション産業は下部構造がしっかりしていまして組織産業なんです。1970年ファッションビジネスという言葉が経済用語として承認されました。
ファッション産業は羊毛を入手し、それを糸にして、それが生地になり、服になって、それをお化粧やアクセサリーを含めて街で着られるというひとつの文化になるまでにはものすごい産業構造があって、それに宣伝関係のビジネスが絡んでくるのです。我々はその巨大な渦の中にいて、知らずに仕事をやっていたような気がします。

質問:さきほど話があった東レの遠入さんの企画したシャーベットトーンのキャンペーンの成功は凄かったですね。
応答:遠入さんのシャーベットトーンは全国津々浦々まで浸透しましたね。デザイナーではなくて当時は東レの宣伝課長さんでした。今で言うならばマーケッティングディレクターですが、この方は合繊メーカーがファッションをリードした時代の代表ですね。合繊というのは、非常に染まりやすいのです。その点、綿であるとか羊毛であるとかは非常に難しいのですが、化繊は染めやすいので便利なんです。

(司会)そろそろ時間が来ました。この辺で終わりにしましょう。ありがとうございました。(拍手)



文責:臼井良雄
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:大野令治


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