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平成22年7月30日神田雑学大学講座No517

   講義名 邪馬台国は九州その理由15

講師名 大場 勝 
 

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はじめに

大手マスコミの誤報道

本の構成

邪馬台国は九州その理由15



講師の大場 勝さん

はじめに

 私が邪馬台国という道に迷い込んだいきさつをお話いたします。 私は考古学、邪馬台国にはそれほど関心は持っていませんでしたが、昭和の最後から平成にかけての頃、日本に漢字が入って来る前から「ホツマ文字」という日本特有の文字があったいうことを聞いて、半心半疑ながら、少し理解できたところもあり、優秀な民族はみな自国の文字を持っていたことから興味を持ち、その会に入って漢字の前から使われていたという「祝詞」と、外国から日本みた本を焦点に国会図書館などでたくさん読みました。

外国関連では、私の常識を大きく覆すものが二つありました。一つはインドネシアに邪馬台国があったというもの、もうひとつは古代のイギリスは日本の天皇が統治していたという奇想天外なものです。
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大手マスコミの誤報道

 最近、邪馬台国の所在地について近畿派の書類、新聞報道がたくさんでてきました。私たち九州派にとっては残念なことですが、あの報道の多くが虚偽なんです。 特に箸墓はヒミコの墓は、意識した誤報道なのです。そうはいっても、私のような弱い人間の言葉よりも、大手マスコミの報道の方を信じるのが常識だと思いますので、その原型を、アメリカの応援を得て証明いたします。

この小冊子は、日韓共催ワ−ルドカップ杯年のアメリカ・ニュヅウイーク紙日本版の日韓特集なのです。前年の天皇誕生日の記者会見で「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると「続日本紀」に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と発言したとの記事があり、次に、日韓の関係記事が挟まれた後に「日本のメデアもこの問題には消極的だ。皇室メタが好きなテレビのワイドショーは12月の天皇発言をほぼ無視し、一般紙やニュース番組も大きく取り上げなかった」と書かれていました。

そこで確認のため国会図書館にて調べましたところ、朝日新聞は重視して一面に取上げ四面に比較的おおきな解説を加えていました。読売・毎日・日経には一字も出ておりませんでした。これは公器ともいえる新聞としてまずいのではないかと思っています。
耶馬対国の国王の印鑑 耶馬対国の国王の印鑑
この報道姿勢を邪馬台国問題に移しますと、纏向遺跡の発掘報告書には卑弥呼の文字が無いにもかかわらず、新聞報道が先走るのです。そこで「箸墓はヒミコの墓」地元桜井市が一番喜ぶ筈ですが、桜井市の纏向遺跡の発掘責任者である横山主査が横浜市・千葉市の公開の場で否定しているのです。 このような話が定着しますと、予算がつきやすく一部の思い入れの強い学者が喜ぶようです。

誤報道中世

「日本には金がふんだんにあった」で名高いマルコポーロの「東方見聞録」には、元の軍隊の帰国報告書には「一旦は日本の都を占領したが最終的には負けて帰りました」とあります。) みやこというと鎌倉、京都、大宰府などが考えられますが、このいずれも占領されたという話はきいていません。この話は戦争中の日本軍の報告書にも通じると思います。

誤報道江戸時代

 ヒミコが金印を貰っているのはご存知だと思いますが、これの182年前、九州のナの国が金印を貰っているのも有名な話です。そのことをうけて5冊の本が出ているそうです。  その中で金印がどこから出たかということで、大人の腕二抱えもある石の下から出たという話に、段々尾ひれがついて最後は大きな遺跡かが出たという話になっています。

誤報道平成の現代

 私は千葉市の朝日カルチャーセンターで考古学の最高の権威者という方の話を聞いたことがあります。その方のおっしゃるには 「私は志が賀島へ行ってきました。そこは田んぼの整備中にでたところで一帯は水田といわれていますが、そうではありません。私は支石墓(韓国様の墓)だと思っています」といわれましたが、これも誤りだと思います。志賀島出身の方が書いていますが、各地をいろいろ調べたが結局のところ分からずじまいで、適当なところに碑を建てましたと書いています。
             
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本の構成

 これは私の書いた本ですが第一編の「邪馬台国の背景」は古代日本を巡る一通りの教科書的記述ですがあまり知られていない事柄を重視しています。 第二編の「(邪馬台国は九州)本文関連記事をその前に記載しています。 第三編は私の生れたところは、徳島県の祖谷といわれるところで、山また山の大変な辺境です。

東西の祖谷だけで徳島県の8%をこしていますが、むかし先祖が領主の蜂須賀氏に服しないで、7年間抵抗して蜂須賀藩の大将が戦死した歴史のある土地です。常識では考えられない事件も他にあり、その他出版当時の私の関心事の研究関連も載せてあります。

私の本は中国の「百納衣」と同じ中国には百納衣という言葉がありますが、古びたお坊さんの衣のよい部分だけを縫い合わせた(パッチ・ワーク)したように、先賢の努力のいいとこ取りをしたようなところが多く、私は著者というより編集者と感じています。 中国では、各名著にあり・「三国志百納衣」もあります。 刑事事件で確証がない場合は状況証拠をたくさん並べるのが普通ですので、この本もそこを狙っています。

 表紙地図

 奈良時代韓国製で、後漢書に会稽山(上海の南)東方にあり、制度・習慣は海南島に似ていると思われていたようで、私は今の台湾の位置だと思っています。

中国の歴史書の風土

中国は、歴史の国といわれ太古から連綿と24正史があり、その特徴は、次帝の時代に先帝の業績を書き、著者はほとんど私人であり、そのために図書館様の施設があったということです。

中国は世界の中心

 中華思想なるものがありまして他民族をそれぞれ東夷・南蛮・西戎・北荻と呼んでいたそうです。 三国志は大型本で魏・呉・蜀の3国と東北アジアの9ケ国を書いているもので、私所有の本で、(全12400行)魏6842・内倭人の条64)です。
                        
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邪馬台国は九州その理由15

邪馬台国は九州の本 1 縄文晩期近畿人口少ない。 アイヌ民族が居住していたと思われる青森市近郊の三内丸山遺跡は、およそ5千500年前の縄文時代前期中頃から、4千年前の4千年間35ヘクタールの面積で定住生活を行なっていたものです。
九州の吉野ケ里遺跡は40ヘクタールと面積は広いが、その始期は縄文時代の晩期で終期は弥生時代の終末期の700年ですので、三内丸山が断然すごいことが理解出来ると思います。
その三内丸山遺跡では、ヒスイ(新潟・北海道産)コハク(岩手産)アスファルト(秋田産)黒曜石(北海道・長野・佐渡産)と広く交易が行われ、メインストリートの道幅は、最大15メートルもあったことが明らかになっています。 特筆すべきことは、ここでは特定の支配者がいなかったようで、その間戦争をした形跡が見当らないようである。
縄文時代の人口と人口密度
別表は、現国立民族博物舘教授の小山修三先生が、昭和年代の「全国遺跡地図」を基本資料としてまとめた、縄文時代の各地方毎の人口と人口密度の表ですが、 邪馬台国時代前の縄文晩期の人口は、東北・関東・東海・九州の順で近畿は少ないとなっており。邪馬台国の後背地の勢力は少なかったことが窺えます。





対馬に大量の銅矛出土

古代対馬は倭寇の本拠でもあります。そこで私はこの本に倭寇のすべて的文章を書き、対馬は一時、韓国から毎年食糧を貰っていたなど、一般に知られていない事柄もたくさん載せていますので、後日お読みください。

武器の進化は 石器・青銅器・鉄器 (銅矛・銅戈の写真掲載)と変化してきましたが鉄時代になると、銅矛は性能が劣るので後退し武器として使用できる細巾はまだしも、大型は木材との接合部で、頭でっかちとなるので、専ら祭祀用として製造されたと考えられています。 対馬出土の大型銅矛は全国の4割超(面積は約1%)なのです。その多い理由として、貿易中シケで陸揚げして倉庫に保管されたことが考えられますが、その可能性はないようです。

僻地の対馬に格上神社多数

奈良時代の政治は普通の政治と、神様を祭ることが求められました。『延喜式神名帳』(奈良時代に成立した現代の六法全書)には、明治から終戦までの官幣大社級の主要な神社として、全国の2861座が書かれています。その内、西海道(九州)は全部だ107座、内対馬が29座、 壱岐が24です。参考までに当時は全国約3万座で、現在は約7万9千社です。

対馬は資源が全く無いにもかかわらず、特殊な権威の象徴の残骸が残っていることを考えると、私は中共政権に追れた将介石政権が一時的な手段として、台湾に避難したと同様に、大和族ならぬ倭族の政権があり、後に大和政権に変身したのではないかと思っています。

道鏡皇位事件と宇佐八幡宮

講師の大場勝さん 奈良時代に「弓削道鏡」が、宇佐神宮の宣託として天位を要望したので、称徳天皇が「和 気清麻呂」に命じて確認したところ宇佐神宮は、否定した宣託をくだした有名な事件がありました。天皇家の第一宗廟の伊勢神宮をさしおいて、片田舎の宇佐神宮が事件の舞台となることは、。九州の潜在力が窺えられます。                            

銅鏃・鉄鏃の出土数は九州六割近畿二割 

 上と同じ見解です。

九州の古墳に全国の土器出土

纏向古墳群には全国からの土器出土が有名ですが、北九州の西新町遺跡にも周辺を入れると纏向以上全国からの土器がきています。 このことは現在でいえば、福岡市に北陸の土産物が販売されているのと同じこととなり福岡市が東京と同程度の格付となり九州のウエイトが高くなると思います。                             

伊予の二名島(四国)は九州から命名

『古事記記』(奈良時代に完)に、「・・・生める子は淡道の穂の狭別島。次に伊豫の二名島を生みき。この島は身一つにして面四つあり。故、伊豫国は愛比賣と謂い、讃岐国は云々と記されています。四国の愛媛(姉姫、長女)をイメージしますと、四国は西から見ていた当時の名前が書かれたとしか思えません。

東の隣国の情報が不足

古代の畿内を守る関所は 鈴鹿関(伊勢国)不破関(美濃国)愛発関(越前国)でした。 邪馬台国が近畿にあったとしますと、西には中国、九州と勢力圏を延ばしていながら東に延ばしていないのは不自然だと思います。 聞き入っている聴講生

出雲国譲りの使者は西海岸(九州側)から上陸

天照大神は大国主に出雲を譲らせますが、その使者は西海岸の伊那佐の小浜に上陸しています。邪馬台国が近畿であれば、東側の琵琶湖西方の通過が常識だとおもいます。                      

古事記・日本書紀に、海関連記事

神武天皇の父、祖父の妻は海神でして、『古事記』『日本書紀』には海関連の記事がふんだんにありますので、後日お読みください。                       

卑弥呼が貰った鏡は三角縁神獣鏡は少ない

 鏡の最外側部分を三角にすることにより、全体の銅の量が大きく節約できることを知って開発した比較的に遅い時期の鏡なのです。 日本では500面以上出土していますが、中国では1面も出土していません。そこで中国側の学者も否定いるほどで、一時の卑弥呼の貰った鏡は三角縁神獣鏡、のブームは去りました。

大型古墳は卑弥呼時代にはなかった

前方後円墳は円墳が進化した遅い時代のもので卑弥呼時代には無かったとの見解が大勢だと思います。   魏史倭人伝には径百歩(144メートル)とありますが、卑弥呼の墓あれば、実測の278メートルを切り上げ径二百歩とした可能性があります。地元の桜井市も否定しています。  その他 天照大神・須佐之男名の三女神は北九州に祭っています。            

広島など「中国地方」は奈良と九州の間

NHK放送により知ったのですが。中部地方は東京と京都の間であり、中国地方は奈良と 九州の間とのことです。その意味で九州のウエイトが高いと思います。

北九州の地名と大和の地名とのふしぎな一致(邪馬台国の会講座資料)
 夜須町のまわりの地名と、大和郷まわりの地名地図による同一方位線上の地名の類似たくさんあります。長谷山・上山田・朝倉・三井・住吉(墨江)神社・三輪・野方・池田・田原・香山(大和は天の香山)・その他多数です。  満州国(中国東北部)へ開拓移住した人達が、郷里の地名を付近の山川につけたに似ていることを想像してみてください。 
夜須町のまわりの地名の地図大和郷まわりの地名の地図

最後に私の古代日本の原型は古事記・日本書紀の大筋は真実と理解しての話です。一部学者の間には記紀偽書説を唱える方がおられますが、世界の伝説で真実となったものもたくさんあります。中国では、「殷国」は明白で、いまではその前の龍山文化の遺跡の発見が報じられており、西歐では、トロイとギルガメシュ伝説が真実と認知されています。

終わり

(文責 大場 勝)

講座企画・運営:吉田源司
写真撮影: 橋本 曜
 HTML制作: 上野 治子
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