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平成22年8月6日 神田雑学大学講演 講座No518 於九段生涯学習館

   講義名 歴史的場面に立ち会う

講師名 長谷川直樹さん
 

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1.バンコク特派員時代

2.素顔のベトナムーカンボジア

トゥール・スレン政治犯収容所

東欧の激震 東欧民主化革命をNS取材

戦争と平和



講師の長谷川直樹さん

1.バンコク特派員時代(1978,5〜1982)

1975年4月30日、ベトナム戦争が終結してから3年たち、バンコクがインドシナ3国のウォッチャ―の役割を持ち、各国メディアが支局を置いていました。 その頃のタイの政情は比較的安定していました。国民は、プミポン国王をたいへん崇拝している。  テレビ放送開始時には、冒頭国王の写真とともに国歌が斉唱されました。映画館では、上映前に観客は起立して国王と国歌を迎える。

 その頃バンコクの町を走るタクシーは全部日本車でしたが、ドアーはガタガタ、メーターは動かず、車の底に穴が開いているというポンコツ車ばかり。タクシー料金は、運転手と値段の交渉をしてから乗るわけです。 一方、乗用車や貨物車の8割は日本車だった。在留邦人も3,000人ほどでした。

 この中にもタイへ観光に行かれた方もいらっしゃると思いますが、そのバンコクが今や地下鉄やモノレールが走り、日本車のタクシーは冷房つきのメーター料金ですね。 高層ビルが立ち並ぶ近代都市に変貌しました。 在留邦人は、3万人を超えています。

 ところが、タクシン元首相を支持する赤シャツグループが、治安部隊と市街戦を繰り広げた最近のタイ情勢に驚いています。貧しいタイ東北部の農民を中心とする国民に支持されるタクシン元首相グループと、財界やミドルクラスに支持されるアシピット現首相を押す(黄色シャツグループ)との対立は簡単には解決しそうもない。

・当時はまだテレビニュースはフイルム取材でした。出発前にソニ―のムービーカメラの操作を教わり、取材の際はカメラを回す。撮影したフイルムを飛行場に持ち込み東京へ送るのが仕事でした。

・バンコクへ赴任したのは78年5月でしたが、ベトナムのボートピープルがタイの海岸に漂着し、何回か取材に行きました。その年暮の12月25日、ベトナム軍がかってポル・ポト政権のクメール・ルージュ軍の司令官だったヘンサムリンを支援して、カンボジアに侵攻しました。79年1月7日、プノンペン陥落。その頃タイ国境に戦火を逃れてカンボジア難民がぞくぞく現れました。
タイ国境のカンボジア難民 ポルポト派少年兵たち(タイ国境アランヤプラテート

・以来、バンコクの東へ300キロの国境の町アランヤプラテートまで車を飛ばして4時間、難民取材に明け暮れました。国境沿いにいくつもの難民キャンプが作られ、カオイダン難民キャンプには3万家族、14万人が収容されました。

クメール・ルージュ(ポル・ポト軍)
ベトナム戦争は1975年4月30日サイゴンが陥落し、北ベトナムが勝利して、終結しました。カンボジアでは、それより僅か2週間前の4月17日、ポルポトが率いるクメール・ルージュと呼ばれる共産党勢力が親米のロンノル政権を倒し、プノンペンを占領しました。 以後、ポル・ポト政権による狂気ともいえる暗黒の時代が始まったのです。
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2.素顔のベトナムーカンボジア 〜国道1号を2200キロ走破〜
(1980.1.9〜2.27 50日間)

中越戦争(1979.2.17〜3.16) カンボジアに侵攻したベトナムを懲罰するとして、20万を超える中国軍がベトナム 北部の五つの省を制圧しました。しかし、戦闘はベトナム戦争で実戦に富んだベトナム軍が、旧装備の中国軍を圧倒しました。
中国軍に破壊されたランソン市
(イ) 破壊されたランソン市 
ハノイから北東へ48キロ、中国の雲南省に接する要衝の地。中国軍に徹底的に破壊された。ドンダンは国境まで4キロ。



カンボジア地図をかたどった骸骨の山 (ロ)ソンミ村虐殺事件(1968年3月16日)

ハノイとホーチミン市(サイゴン)の真ん中辺りにある、ソンミ村ミライ集落がある。米陸軍のw.カリー中尉率いる小隊14人が海から上陸して襲撃し、無抵抗の村民504人(男149人、妊婦を含む女183人、乳幼児を含む子ども173人)を機関銃などの無差別乱射で虐殺しました。奇跡的に難を逃れたのは3人。69年アメリカのセイモア・ハ―シュ記者が雑誌「ニューヨ―カ―」で暴露した記事は、世界に大きな反響を与えました。

虐殺から12年「恨みの像」の前で当時12歳だったビエンさんにインタビューしました。 「子どもたちに、村民がどのようにして殺されたかを伝えていきたい。敵に対する恨みを強く持ちつづけていきたい」と、話してくれました。 カリー中尉は、1971年米軍事裁判で終身刑、部下13人は証拠不十分で無罪の判決。カリー自身もその後10年の懲役刑に減刑され、2009年8月に釈放されました。 そして、41年ぶりに村民に謝罪を表明したのであります。  
(ハ) カンボジア入り 長谷川直樹さん
・1980年1月26日朝7:30ホーチミン市を出発、陸路シンガポールに向かった。
・15:00かって100万都市といわれたプノンペンに到着。街はゴースト  タウン化していました。住民は町の中心部に住めず、郊外に10万人いるといわれた。

ポルポト政権は、農村の荒廃と食料輸入援助停止という飢餓、混乱の中で、食料増産を図るためプノンペンなど大都市住民、資本家、技術者、知識人など知識階級から一切の財産・身分を剥奪し、農村に強制移住させ農業に従事させました。

学校、病院、工場も閉鎖し、銀行どころか貨幣そのものを廃止し、宗教を禁止、一切の資材を没収した。ポル・ポト派はこれを「階級が消滅した完全な共産主義社会の建設」と称したのであります。

 移住させたれた人々は「集団農場」で働かされ、知識人階級は「反乱を起こす可能性ある」とされ殺害されました。革命が成功したことを知り、国の発展のためにと海外から帰国した学生や資本家も殺された。また、子どもは親から引き離されて集団生活をさせ、農村や工場労働や軍務を強いた。170万人が、虐殺や餓死したといわれています。
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トゥール・スレン政治犯収容所

トウールスレン収容所内に残された処刑された人の写真 ・79,1,7ベトナム軍がプノンペンを制圧した際、高校の校舎を改造した収容所を発見。膨大な処刑記録や殺害された人々の写真が残されていました。ポル・ポト政権が支配していた2年9ヶ月の間に、ベトナムのスパイやCIAのスパイだと拷問し自白を強要され、1万5000人〜2万人が処刑されました。

先月26日、カンボジアで起きたポル・ポト政権下の虐殺を裁く特別法廷は、この収容所の責任者だったカン・ケク・イウ元所長に禁固35年を言い渡しました。未決拘留期間を除くと実際は19年弱となります(二審制)。
チュンク村
映画「キリングフイールド」の舞台となった、プノンペンから南西15キロの果樹園の村。1万人以上が虐殺されました。
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東欧の激震 東欧民主化革命をNS取材(‘89,12,6〜‘90,3,3 87日)

チェコスロバキヤ〜東ドイツ〜ハンガリー〜ブルガリヤ〜ルーマニア〜(モスクワ)ポーランド)スタッフはカメラマン・音声マンと長谷川の3人。16箱のジュラルミンケースに機材を詰め込む。飛行場で出入りに苦労しました。 1985年、ソ連共産党書記長ゴルバチョフが就任、硬直化した体制の建て直し、いわゆるペレストロイカに着手。外交面でもソ連の外交政策の転換を図りました。このことが東欧諸国に大きな影響を与え、市民の民主化革命につながった。

(イ)チェコスロバキアの大統領選挙  演説するハベル大統領候補プラハ(チェコソロバキア)
チェコスロバキアといえば1968年、人間の顔をした社会主義をめざしたトプチェク書記の政策を、ソ連とワルシャワ同盟軍の戦車に押しつぶされた「プラハの春」が思い出される。

12月29日に行われる大統領選挙の取材のためプラハ入り。バーツラフ広場には、共産党に抗議して牢獄獄に入っていた作家のハベル大統領候補の演説を聞こうと何万という市民がつめかけていた。演説が終わると、聴衆が全員でVサインをしながら国歌をうたうシーンは、日本では考えられず、感動した。長く共産党の一党支配がつづいたため、市民は本当に共産党を毛嫌いしていたのが印象的でした。(12/29)バーツラフ広場からNS生中継。

ベルリンの壁に<立つ講師(中央白のコート) (ロ)ベルリンの壁に立つ 
中継終了後、東ベルリンへ向かう。ドレスデンは、1945年2月13日夜から14日にかけて米英空軍機が無差別爆撃を受け、一夜にして3万人が殺されたといわれます。市内を流れるエルベ河畔に聖母教会が焼け焦がれたままの姿で残っていました。

ヒロシマの原爆ドームと同じく、戦争の悲惨さを記憶にとどめるため、そのままにしているそうです。はっきり覚えていないが、今年?その聖母教会が改修されたというニュースを新聞で読んだ記憶があります。  大晦日にベルリンの壁を取材しました。壁のそばへ行くと皆懸命に固いコンクリートをノミで壊そうとしていました。そのコトコトという音が、裏の西ベルリンガ側からも聞こえて、ドイツの統一を呼びかけている音のようだった記憶があります。

(ハ) ルーマニア入り  厳戒体制のブカレスト市内
1月19日、ブルガリアのソフィアからルーマニアのブカレスト入り。 チャウセスク大統領夫妻が処刑されたのが、前の年の12月19日。 ポーランド、ハンガリー、シェコスロバキアでは、共産党政権から政権委譲が 比較的スム―スに行われました。これに対してルーマニアではチャウセスク大統領が政権の座に固執したため、改革を求める市民側とミリシアという治安部隊の間で衝突が起き、多数の市民が犠牲になったのでした。

(二)アウシュヴィッツ第一強制収容所  アウシュヴィッツ強制収容所の入り口 
 (働けば自由になるのスローガン)
ルーマニアに滞在中、モスクワでクーデター。ゴルバチョフ書記長が危ないとの知らせでモスクワに飛び1/27〜2/18日までモスクワに滞在しました。 ポーランドのワルシャワへ入ったのは、2月18日。モスクワと比て、春のような暖かさでした。 ワルシャワから車でアウシュヴッツへ向かう。平坦な農地が延々とつづき、ナチスの戦車隊が一挙にポーランドを侵攻したのが理解できました。

ご存知のようにアウシュヴィッツ強制収容所は、ナチスドイツが第二次世界大戦中の6年間に建てました。ヒロシマの原爆ドームと同じく、「人類が二度と繰り返してはならない20世紀の遺産」としてユネスコの世界遺産に登録され、ポーランド政府は国立平和博物館として保存されています。

ニュールン裁判は、400万人が死亡したと断定しました。しかし冷戦終了後の1995年、死者は150万人に改められました皮肉にもゲート入り口には、「働けば自由になる」と書かれたアーケードがありました。28棟の赤レンガの建物が整然と並んでいました。いくつかの棟が公開され、大量の靴の山、髪の毛、子供のオモチャなどがそのまま保存されています。 そして、高速焼却炉。背筋が寒くなる思いでした。

・そこから3キロ離れた所にアウシュヴィッツ2と呼ばれた「ビルケナウ第二強制収容所がありました。鉄条網に囲まれた広い敷地にバラックが並び、その半数はナチスが撤退するときに破壊したといわれています。
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戦争と平和

熱心に聴きいる聴講生 くしくも今日は「ヒロシマ原爆の日」です。初めてパンギムン国連事務総長やルースアメリカ大使が、慰霊祭に参列しました。アメリカではこのニュースはあまり大きく取り上げられていません。一方大使が参列したのはけしからんという声があがっているそうです。
拙い話でしたが、30年前のベトナム・カンボジア取材。20年前の東欧諸国取材を通じて、多くの人々が戦争で死んでいったのを見聞きしました。今、なおイラクやアフガン、アフリカのどこかで戦争がつづいている。 唯一日本は戦後65年間、軍隊は一度も他国と戦禍を交えず戦死者も出していない。このことは、世界に誇るべきことだと思うのであります。

(文責、長谷川直樹、得猪外明、三上卓治)  
写真撮影: 橋本 曜  HTML制作: 上野 治子
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