現在位置: ホーム(1)講義録一覧(2) >映画の黎明期とその盛衰 第一章

WEBアクセシビリティ対応

ページの先頭です

ページの先頭です

平成22年8月27日 神田雑学大学 定例講座NO520回


映画の黎明期とその盛衰 第一章

映画の発明、無声映画からトーキー映画、そしてカラー化までの進展〜

講師いろいろな表情


講師 坂田 純治 (映画史研究家)





メニューの先頭です 目次

画鋲
はじめに
黎明期(発明)
映画の歴史は、日本ではどうだったのか
トーキー映画の登場




メニューに戻る(M)

講義中の坂田講師

はじめに

吉祥寺から始まって神田に至る雑学大学。そしてその反響を受けた都内・近県各所において、十数年に渉り映画史の講座に努めて参りました。テーマは都度多岐にわたり、聴取される皆さんの年齢層・男女比などの事前分析をわきまえ、そのテーマに幾らかでもお役に立とうと自らを律してきたつもりです。

「監督・俳優」の足跡、個性論などから話を始め、時には「ミュージカル史」「映画を旧史から現代までを並べた世界歴史論」「アカデミー賞の歴史」近年では、「ラストシーンの素晴らしさ」・・・・・等。そのアイテムを模索しながら、持てるコレクションを縦横に駆使して参りました。

しかしながら、ここまできて私は、やぶさかならぬジレンマと反省に襲われました。この世に「映画」が誕生して、次第に進歩してゆく歴史。つまり、そのルーツについてのお話を系統だってしたことがない。発達、完成した「映画」の断片を只管語って来ただけです。脈落もなしに。

今更と感じられるかも知れませんし、いささか退屈かも知れませんが、これは私自身の反省ばかりでなく、皆さんの基礎知識としても肝要なことと思い、あえてタイトルを掲げました。よろしく、ご静聴下さるよう、お願いいまします。

初心に帰って、映画ってなんだろう、いつ、どこで、どのように始まったのかなど、皆さんとともにルーツを9月と10月の2回にわけて訪ねてみたいと思います。当初は、邦洋を問わず映画監督論、スター・俳優と関係についてお話することでスタートしました。またはミュージカルの話をしたり、映画が語る歴史の話をしたこともあります。またアカデミー賞の歴史というシリーズものにも挑戦しました。また、いい映画のラストシーン特集もやりましたね。いい映画は、ラストシーンがいいのか、ラストシーンのいい映画が、素晴らしい映画なのか、いい場面が多かったことなどを思い出します。
メニューに戻る(M)

黎明期(発明)

皆さん。
世界で、映画が誕生して何年になると思われますか?
会場から「100年」「130年」
「114年!」
いい線を言っていますね。今年で丁度115年です。

フランス人のリュミエールという兄弟が発明しました。1895年(明治28年)パリの「グランカフェ」で、シネマトグラフを有料公開しました。これが映画の原点です。それまでは、写真さえも珍ずらしかった世の人々は、その写真が人間の動作と同じく動きだすのだから、さらに驚き、世界中の大評判となります。巨大なスクリーンに動く汽車が近づいてくる映像に、観客は興奮しました。これが世界初の映画でした。はじめは「自動写真」とか、「写真舞踊」とか呼ばれていました。(活動写真の呼称は日本からと思います)

これをアメリカ人が聞くと、怒り出します。そんな馬鹿な!映画の発明は世界の発明王わが国のエジソン博士だ。このような錯覚がアメリカ人の場合非常に多いのです。これはどうしてかでしょうか。エジソンは、確かに映画らしきモノを発明しました。これは、覗きカラクリというカードの人物が歩く絵をパラパラめくると、絵が少しずつ変化して、いかにも人物が歩いているように見えるあれです。このシステムはキネトスコープと言って、エジソンの発明です。しかし、このシステムは覗き眼鏡ですから、一人しか見ることが出来ません。

今日の大勢でスクリーンを使って見る映画の発明は、フランス人リュミエールという兄弟によるものです。結果、世界各国からメカ、システムの引き合いが殺到し、この兄弟は大金持ちになりました。

映画の前に、写真というモノが発明されています。日本でも、歴史上有名な人物が写真で残されています。坂本竜馬も写真が大好きでした。一方西郷隆盛は写真が大嫌いでしたから、一枚も残っていません。ですから上野公園の西郷の銅像は、果たして真の姿なのかどうか、遺族の方からも疑問の声があったといわれております。

映画が世に出た頃は、写真が動き出したと驚いて、最初は「自動写真」「写真舞踊」など、と表現しました。すこし後になって一般化してから「活動写真」という、日本語的な表現でいうようになりました。

日本では、リュミエール兄弟の映画の発明の2年後の明治30年に、大阪でまず輸入公開されました。当時は、輸出輸入の神戸が西欧文化の窓口でした。それから3ヶ月経って東京神田の川上座で、入場料8銭で公開されました。

現在の貨幣価値で、1700円〜1800円くらいではなかったと思われます。
それでも、押すな押すなの大盛況であったと伝えられています。大阪・東京で公開された映画は、ヨーロッパ各国の王侯貴族を写したドキュメント映画した。見物のお年寄りたちの中には「もったいない。もったいない」と画面に向かって手を合わせる人もいたというエピソードも満更ウソのようなホントウの話とみて可笑しくはないでしょう。(よき時代ではありました。)

熱心に話を聞いている受講生

それから10年くらいの間に、映画の内容が実写(ドキュメント)の世界からドラマ性を帯びた所謂(フィクション)の世界に入っていき、その芸術性、娯楽性が次第に高まっていきました。

元祖フランスには、G・メリエスという魔術師がおり、明治3年、奇術とトリックで「月世界探検」という映画史上看過できない傑作を発表ました。今でいうSF映画第一号です。お月さんが天空に輝いて、笑うと目や鼻が動き出すという面白い画像を盛り込んだ映画ですが、残念ながら私のコレクションにはありません。

一方では、リュミエール兄弟がサラ・ベルナールという当時の演劇界の大スターによる舞台で「椿姫」や「クイーン エリザベス」を上演させ、それを映画に撮るという創造活動は、映画史上大きな評価に値するものです。

大正11年には、A・ガシススによる8時間32分に及ぶ超大作(後年、日本の『人間の条件』が発表されるまでは、その長さは第一位)の《鉄路の白バラ》が発表され、新進映画人のバイブルとなりました。

アメリカでは、明治36年に初めてストーリーを持った映画の嚆矢だろうといえる《消防夫の生活》という作品が公開されました。私自身、ある機会に見ることができました。ある中年の男性がホースで散水をしていると、歩いている婦人に水がかかってしまい、それが大騒動になるというシンプルな筋書の映画でした。しかし、これがアメリカのストーリーを持った映画のきっかけになりました。

それから少し経ち、アメリカの地理上、歴史上当然の題材、西部劇が次から次へと創られていくのですが、エドイン・C・ポッターという人の映画史上白眉の《大列車強盗》が発表され、アメリカ映画にとっての西部劇は、無くてはならないものとなりました。

国民の創生

大正4年になりますと、アメリカ映画の父といわれるD.W・グリフェイスという人物が現れます。この人は兎に角大作主義で、数々の名作をものにしておりますが、その超大作《国民の創生》(南北戦争もの)をもってその名を確固たるものにしました。女性弁士(沢登翠)つきで1カットをご覧戴きます。
黎明期の映画はサイレント映画でしたが、アメリカ映画は字幕がついていました。

日本には観客が字幕を読まなくても、代わりに老若男女を語り分けて、説明をするという仕組みの活動弁士という職業がありました。徳川無声、松井翠声他大勢いました。日本では、観客が活弁士の語りになじんでいましたから、その後トーキー映画が普及する際には、大変な騒ぎになりました。今ごらん頂いたアメリカ映画の説明は、現存する女性活弁士「沢登翠(さわとみどり」氏です。彼女は、日本映画を引っさげて欧米にまで出かけていくという活動力に富む弁士です。

チャーリー・チャップリン。彼は大正3年、20歳のときにロンドンからハリウッドへパントマイム一座の青年俳優としてやってきました。映画の撮影を見て興味を抱き、アメリカに残って、後にハリウッドで大成功を収めるわけですが、《成功争い》(大正3年)という映画に初登場し人気を高めていきます。このときは、まだ山高帽によれよれのフロックコートにドタ靴という扮装はしていません。

当時は、1巻ものは約9分のストーリーで、2、3巻上映して、それなりに人気を得たのですが、チャップリンはそれに飽き足らず、中篇ものに挑戦します。自分でシナリオを書き、監督をして、自分で演ずる。フイルムと一緒に自分が作曲した音楽のレコード伴奏をつける、というような多彩な活動をしました。デビューして4年目の大正7年、その作品《犬の生活》を見て頂きましょう。

犬のように寝そべっているチャップリンと、その様子を塀の上から覗き込んでる警察官

私は、チャップリンの作品を、かなり持っていますが、どれも冗長な部分がなくて面白いので、何遍見ても飽きない。「犬の生活」「キット」などを発表して次第に名を上げていきます。ご覧頂いてお分かりのように、チャップリンの面白さは、リピートにあります。

同じような場面を少しずつ変化させながら、繰り返す。この作品はトーキーではありませんが、弁士がついていません。字幕もでてきません。チャップリンはパントマイムの名手でしたから、自分の身体で表現する演技で進行させるのです。チャップリンの片鱗を観て頂きました。

今度は、ロシヤの《戦艦ポチョムキン》です。ぜひご記憶頂きたいのですが、著名なセルゲイ・エイゼンシュタイン監督の製作による名作です。黒海艦隊の旗艦戦艦ポチョムキンの、水兵の給食の豚肉に蛆が涌いていたことに端を発する反乱が起きる。水兵の一人が将校に射殺されたことから、その噂を聞いて軍港オデッサの市民が、水兵とともに大きな抗議デモ行う。オデッサの海岸という名場面。映画史上有名な「階段落ちの乳母車」のシーン。1987年製作のアメリカ映画「アンタッチャブル」でFBIがカポネを襲撃するホテル前の大階段で、同じ技法が採用されています。これはエイゼン・シュタイン監督へのオマージュとして、むしろ高く評価されました。

「戦艦ポチョムキン」ではお母さんが腹を撃たれ、赤ん坊を乗せた乳母車が階段をずり落ちてゆく。「アンタッチャブル」では、お母さんも赤ちゃんも無事だった。エイゼン・シュタイン監督は、映画の世界にモンタージュ理論をはじめて入れた方です。モンタージュとは、実は建築用語です。組み立てるという意味があります。戦前のわが国では、戦艦ポチョムキンは上映されませんでした。映画の歴史を語るに、忘れられない映画として、ごらん頂きました。

悲痛な表情のお母さん、乳母車が階段を駆け下るシーン、階段下広場、
メニューに戻る(M)

映画の歴史は、日本ではどうだったのか。

日本では、映画の初めての上映は明治30年でしたが、同31年に小西六写真フィルム会社の浅野史朗が2、3編のドキュメンタリー映画を製作したのが嚆矢こうしであるといわれていました。しかし、一方に浅野史朗は単なるカメラマンで、最初の撮影技師は柴田常吉であるという情報もあります。柴田常吉は、九代目市川団十郎と五代目尾上菊五郎が歌舞伎座で「紅葉狩」を上演した際に、病気がちの団十郎の最後の舞台になるだろうと、カメラを歌舞伎座に持ち込んで撮った。これをもって、映画撮影の嚆矢こうしとする有力な意見が固定化しました。

日本映画の父は、ご存知でしょう、「マキノ省三」という実業家がその人です。日本最初の職業的映画監督として、明治41年「本能寺合戦」、42年には「菅原天神」「碁盤忠信」などを製作し、プロデューサーとしてばマキノ雅弘、衣笠貞之助、内田吐夢などスター監督を多く育てた。

「碁盤忠信」に起用されたのは、目玉の松っちゃんこと尾上松之助。日本の映画界はマキノ雅弘と目玉の松っちゃんによって、益々隆盛しました。尾上松之助は、34才から52才の18年の映画生涯でなんと1003本の作品に出演しています。

さて、松ちゃんの死去のあと、チャンバラ映画スターが輩出する。坂東妻三郎、片岡知恵蔵、嵐寛寿郎、月形龍之介、大河内伝次郎などのスター俳優であります。これから見て頂くのは、坂東妻三郎主演の《おろち》です。当初「無頼漢」という題名でしたが、内務省から子供の教育上よろしくないと警告を受け「おろち」となったといういわくつきの映画です。

坂東妻三郎と捕り物シーン

活動弁士「松田春水」がこの映画フィルムを所有しており、かつ、弁士を努めています。音楽は和洋楽器によるチャンバラ用の合奏であります。阪妻は、殺陣があまり得意ではなかったと言われ、月形龍之介、嵐寛寿郎、市川歌右衛門あたりが評判でした。

無声映画は、活動弁士の活躍の時代でもありました。思いつくままに名前を挙げると、徳川夢声、松田春水、西村楽天、大蔵貢、生駒雷遊、國井紫香、静田錦波、谷天郎、山野一郎、牧野周一、伍東宏郎、泉詩郎、里見義郎、大辻司郎のような人気弁士も現れるようになりました。無声映画時代は、このような推移と展開でした。

映画はトーキー時代へ移行していきますと、当然のことですが、活動弁士は失職します。新宿の武蔵野館に弁士たちが集合して、「俺たちをどうしてくれるのだ!」と大騒動になりました。しかし、時流には勝てず、弁士たちは夫々役者になったり、当時台頭してきたラジオの語りに出演したり、漫談家に転進したりしたのですが、全国では数百人に上ります。

活動弁士は、わが国だけに存在する職業でした。欧米諸国においては、観客が字幕を読むという映画の見方でした。浅草観音の本堂に向かって左手に、東京で名うての活動弁士の記念碑があります。余談ですが、私は、浅草へ行くと、仲見世をぶらぶらしながら、まず記念碑にお参りした後に、本堂に向かうことにしています。
メニューに戻る(M)

トーキー映画の登場。

映画に音がつくとい時代になりますと、世界各国の映画会社は技術を競って、優れたトーキー映画を製作しました。ハリウッドという名前が生まれる前の話でしたが、これこそアメリカの出番でした。沢山ある映画会社の中で、倒産寸前だったワーナーブラザーズがトーキー映画の発表では、一番のりでした。1927年(昭和2年)トーキー映画の第一作は、アル・ジョンソンの《ジャズシンガー》でした。全編トーキーではない部分トーキーで字幕とのミックスでしたが、アル・ジョンソンが初めて映画の中で声を出して歌ったのです。ごらん下さいませ。

ジャズシンガーによって、トーキー映画は世に出たわけですが、内容は歌うこと、踊ること、演奏することの三つに絞っていたことから、アメリカ、ヨーロッパのドラマツルギー(ドラマを熱心に作っていた人たち)から猛反発が起きました。歌ったり踊ったりすることが主流になったので、映画会社はブロードウエイから演出家や役者を呼んで映画製作をするようになりました。その一方で、地方訛りのある役者、外国出身の英語が喋れない俳優や監督などが、追放される事態が起きたのです。その話を面白おかしく描いたのが、ジーン・ケーリー主演の「雨に歌えば」です。

その風潮を苦々しく思っていた人の一人、俺ならトーキーをこのように使うと名を上げたのが、フランスの巨匠ルネ・クレールでした。アメリカに遅れること3年の1930年(昭和5年)、最初のトーキー作品「パリの屋根の下」を発表しました。これは、クレールの主張した音の遠近法の実現です。女声合唱の歌声が遠くの方から聞こえ、だんだん接近しながら音も大きく聞こえるという技法です。

物語の主人公が、駅の近くでやくざにからまれて、喧嘩するシーンがあります。列車が駅のホームに入る場面、遠くの方からだんだん近づく音。汽笛の轟音。画期的な演出法でした。

それに習ってか、ドイツではヘリック・シャネル監督が「会議は踊る」で、音楽映画はこんな風に作るんだよというハリウッドへの警鐘のような、作品を発表しました。ハリウッドでも、昭和5年、これならどうだと言わんばかりのデートリッヒの「モロッコ」を発表しました。しかし、この映画の監督はJ.V.スタンバーガー。デートリーッヒがドイツから連れてきた人物ですから、厳密にいうとアメリカ人ではありません。

《パリの屋根の下》
合唱が微かに聞こえ、カメラはパリの屋根の上を俯瞰ふかん しながら、ゆっくり下がり、パリの屋根の下にと止まる。音楽のボリユムが同調して、最後に最大となる音の遠近法。

高い所から見下ろしながら撮った屋根と人々、それぞれが唄っている映像

《モロッコ》
出だし、軍隊の行進にあわせてドラムが聞こえ、近づくにつれて大きく響く。これが歴史的映画といわれるのは、スーパーインポウズ(台詞の字幕)がついた最初の映画だったからです。デートリッヒの百万ドルの脚線美。門から砂漠に向けて行進する軍隊。
遠ざかるにつれて、ドラムの音も消えていく。

デートリッヒ、門から砂漠にむけて行進する軍隊

アメリカでもチャップリンなどは、サウンドの不具合を主張して、トーキーを中々取り上げなかったが、(昭和11年「モダンタイムズ」の効果音としてのみ使用)彼がスクリーンで彼自身の声で喋ったのは、昭和15年「独裁者」からのことで、実に発明以来13年後のことでありました。

わが国においても、音に過敏な監督ほど手をつけるのが遅く、溝口健二が昭和8年「愛憎峠」から、伊藤大輔が昭和9年「月形半平太」から、小津安二郎にいたっては「なんだあれは。焼けトタンを叩いたような音」と蔑み、一向に腰を上げようとはせず、漸くトーキー映画のメガホンを手にしたのが、昭和11年「大学よいとこ」「一人息子」あたりからでした。

一方、会社側(松竹)からの強い指示で、五所平之助監督がわが国トーキー映画第一号としてメガホンを取ったのが「マダムと女房」で、ヒロイン(田中絹代)の筑前ナマリのことなど懸念されたものの、反ってその甘ったるい声とアクセントが効果的であり、興行的にも大ヒットしました。

渡辺篤と田中絹代

五所監督は飛行機の爆音、近くの家から聞こえるジャズの音色など、効果のアイデアを駆使して、アメリカでの初期の過ちを繰り替えさぬよう、気を配っていました。アメリカより遅れること4年の昭和6年でした。かくして、日本にも「トーキー時代」が開花していったのです。《マダムと女房》(昭和6年、五所平之助監督)1カット上映。
第一章終わり

参考文献
ワンカット上映作品の制作会社
W.S.社
パラマウント社
MGM社
20世紀FOX社
セルズニック社
アーサーランク社
松竹、日活




文責:坂田純治 三上卓治 
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:和田節子


本文はここまでです


このページの先頭へ(0)

現在位置: ホーム(1) 講義録一覧(2) >映画の黎明期とその盛衰 第一章


個人情報保護方針アクセシビリティ・ポリシィ著作権、掲載情報等の転載、リンクについて連絡先

Copyright (c) 1999-2010 kandazatsugaku Organization. All rights reserved.