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平成22年10月15日 神田雑学大学 定例講座NO527回


航海秘話 1813年督乗丸の海難ー漂流の世界最長記録は日本人?ー
、講師:中村孝(たかし)





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画鋲
講師プロフィール
1.はじめに:最近の話題から チリと尖閣諸島について 
2.1813年 督乗丸の漂流
2−1.漂流の概要
2−2.漂流民の分類
2−3.督乗丸の484日
2−4.船長重吉の信念と統率力
2−5.村上貞助による取調べ
3.仏・メデューズ号事件 1816年
4.小説 海神丸
5.終りに




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中村たかし講師
講師プロフィール
生まれ: 1944年 東京都
学歴:上智大学外国語学部露語科卒、東京外国語大学露語科中退

職歴:旧ソ連通信社東京支局、日本電子(株)、
本田技研工業(株) 
特徴;船旅世界3周、海外駐在3カ国、懸垂10回 

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1.はじめに:最近の話題から チリと尖閣列島について
今まで6回こちらで「航海秘話」と題し話をさせていただきましたが、今日初めてお会いする方もいますので簡単に自己紹介から始めます。私は学生時代に露語を専攻。通訳のバイトで水産庁の漁業監視船に乗り、そこで海、船との出会いが出来ました。それから40年強、更にその分野での絆を強めて行きたいと考えている者です。

最近の話題としてはチリ落盤事故者の救出ですね。チリには10年ほど前に寄港する機会があり、その時、日本人初のチリ入りは誰かと考えました。記録に残る所では多分ジョン万次郎ではないかと思います。万次郎が何故チリへ。彼は1841年に14,5才で海難にあい、米の捕鯨船に助けられる。そして彼だけは米の東海岸へ連れて行かれ、仲間はハワイで下船させられたので、2組に別かれてしまったのですね。

万次郎が米で教育を受け成人になった時代は、世に言うゴールドラッシュ開始の時代でした。その時万次郎は、乱暴に言えば、ここで一旗あげるかと考えたようです。その目的はハワイで別れた仲間と一緒に日本へ帰る。帰る為にはボートが要る、その資金が必要。それで西部でひと儲け、と決心したようです。しからば陸路か海路か、その時点で彼は相当航海の経験を積んでいたので海路を選択します。

南米行きの船に水夫として乗船。それで機会を見て金採掘場所に行ったのです。マゼラン海峡は通っていませんが、ホーン岬を通過。チリの港に寄っています。他にも漂流民の寄港者がいるかも知れませんが、多分、万次郎は日本人の初期の記録に残るチリ訪問者の1人だと思います。

もうひとつの最近の話題は尖閣諸島事件ですね。堅い話は専門家に任せるとして、私の野次馬的興味は、今回の中国漁船への立入り検査です。たまたま今年の6月、私は露漁船の立入り検査で水産庁に雇われ通訳として参加しました。それで私の経験と今回の中国漁船への海上保安庁巡視船による立入り検査を比較して興味があるのです。

船の画像を説明している講師

6月の経験を簡単に申し上げます。場所は岩手県の三陸沖。そこで操業中の約4000トンの露冷凍トロール船の立入り検査をしました。露の名誉の為に言えば彼らは何も違反してはいません。即、両国の漁業条約に従って操業という訳で問題は無いのです。ただ日本政府にしてみれば、条約は条約として、実際問題彼らが約束事項を守っているか否か等、抜き打ち検査をすることがある訳です。これは私の想像ですが、ある時点で日本側から露側に検査日程につき通告がなされたはずです。それに基づき、露船も準備し、縄梯子を用意して待つという段取りですね。

ところが尖閣諸島での検査は全く違います。新聞報道によれば、まずは「警告」。「ここは日本の領海である。貴船は即座に退去されたい」というような警告です。そのあとで巡視船「みなくに」の船尾に中国の漁船が当たる。そして巡視船「みずき」の右舷に意図的にぶつかって来た。そして逃走。巡視船は追跡し「強行接舷」。6人が漁船に乗りこんだと報道されています。

私の関心はその乗りこみ状況です。「強行接舷」という4文字の裏にどんなドラマがあったのかと思います。極端に言えば、陸上の高速道路で違反車に移乗するのと同類と想像するのです。それに天候の問題がある。でも今回の事件では海況に関係なく「強行接舷」し、乗りこんだのではないでしょうか?? 前置きが長くなりました。本題の「漂流の世界最長記録は日本人ではないか?」に入ります。

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2.1813年 督乗丸の漂流 
19世紀の初め、督乗丸という1,200石、14人乗りの船が漂流します。江戸から尾張へ帰る途中で海難にあったのです。この漂流の一番の特徴は484日という長期間で、私が知る限り、多分世界一の長期漂流ではないかと思います。今日の話は作家・春名徹氏の著書『世界を見てしまった男たち』に依っています。この方は海に関する物語を多くお書きになっています。

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2−1.漂流の概要
簡単に漂流の航路を紹介します。日本から漂流を始め、ロスアンジェルスの北、サンタバーバラ沖まで漂流。ここまでが484日です。この時点で英船に助けられますが生存者は3人。そしてこの英船は彼らを乗せ北へ向かいます。

地図

1813年という年は、日本では文化文政時代、伊能忠敬、間宮林蔵が活躍し、フェートン号事件の責任をとって長崎奉行が切腹したりした時代、世界史ではナポレオンが露を攻め冬将軍に敗北、英に対し中国の清が阿片の輸入を禁止したという時代です。

当時、捕鯨事業はまだ盛んではなかったようです。この時代は露が毛皮商売でシベリアを開発し、アラスカに拠点を設けていました。シトカという都市がアラスカ州にありますがここに露米会社の拠点がありました。日本人を助けた英船もその露米会社の拠点に行く途中だったようです。ということで日本人3人を乗せた英船は北上したのです。

この英船の船長が大変親切なのです。私の想像では英としてもこの漂流民を種に日本との貿易を、ということが頭にあったと思うのですが、日本人は露船に移動させられます。露船はカムチャッカ半島へ。3人のうち1人は途次船内で病死。船は南下し択捉島へ。そして2人が約3年半ぶりで祖国へ帰れたのです。

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2−2.漂流民の分類
さて本題に入る前に「漂流」につき少し話します。これは作家の野上弥生子、春名徹両氏の対談からの引用で、漂流民は4つに分類されます。1番目は帰国出来た漂流民。2番目は帰化した人。3番目は帰りたくても鎖国令で日本が拒否し帰れなかった人。4番目が海の藻屑となって消えた人ということです。

野上さんによると、1、2、3のグループはどちらかの岸に辿り着いた人たちで、非常にラッキーな方である。ところが4番目の海の藻屑になって消えた人はどちらの岸にも辿り着けなかった人で、この方たちにこそ我々はもっと注目すべきではないかという趣旨のことを書いていらっしゃいます。今日現在、この第4グループにつき研究なさっている方もいらっしゃるそうですが、なんといっても資料が少なく、まとめにくいようです。

1番目の帰国組の代表はジョン万次郎、大黒屋光太夫になるでしょう。2番目の帰化組で著名な方では米へ帰化した通称「アメリカ彦蔵」、そして露に帰化した善六がいます。彦蔵は吉村昭さんの小説によれば、帰化の最大理由は、彼を自分の息子のように可愛がった米人が120%確実かつ安全に日本へ帰りたいなら、それは米に帰化することだという忠告を受けそれが効いたようです。

尊王攘夷の時代ですから、日本人として帰れば命を狙われ逮捕されたりすることが目に見えている、ならば帰化して米人になる方が、日本の土は安全に踏めるはずと説得されたようです。露に帰化した「善六」は大黒屋光太夫より10年程後の方ですが、露正教に改宗する方が露での生活上、給料も良く絶対好都合だという現実的な選択をした、という印象を私は持っています。

三番目の拒否されたグループは、例えば、幕府が異国船打ち払い令を出し、そのあおりを食った1837年のモリソン号の「音吉」です。音吉は最終的にはシンガポールで亡くなりますが、シンガポールでは福澤諭吉が渡欧時、音吉とも会い彼の身の上話を聞いたりしています。

拒否されたグループで印象に残るもう一人に「伝吉」がいます。伝吉も水夫ですが、帰国できずにマカオに滞在。彼は器用で英語も少しは覚え、それによって英の使節団に通訳に雇われるのです。それで日本へ。しかし英人に雇われたということで天狗になったようです。毎日馬を乗り回し態度もでかいということで、日本人から反感をくらい殺されてしまいます。今日話題にする督乗丸の船長・重吉の場合、3年以上は経過するも帰国出来ましたから第一のグループに入ります。

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2−3.督乗丸の484日
1822年に国学者・池田寛親が、督乗丸の船長(ふなおさ)の重吉と面談、詳細を聞きとり『船長日記』という本を出します。この本が残っているが故に当時の状況が分かるのです。それによると海難にあった時点で船は米を6俵積んでいたこと、大豆が大量にあったことが分かります。乗員14人でしたが当初の段階で1人が転落事故で死亡。漂流は13人です。海難にあって13日目に船長の重吉は長期の漂流を覚悟したそうです。その理由のひとつが「もう八丈島が見えない」だそうで、以後彼は大変なリーダーシップを発揮、食糧の食べ方など諸々の指示を仲間に与えます。

教室の様子、熱心に話を聞く受講生

重吉は万年暦というものを持っていて、その暦に基づいて日々の出来事を書き付けていたようです。86日目に米が尽きる。魚を釣る話も出てきますがなかなか釣れなかったようです。150日目には起き上がれない人が相当出てきた。懐血病のようで寝たきりになり起き上がれない。212日目に初の死者が出ます。ここから350日までの間に10人が立て続けに死亡。残ったのは3人でした。

350日目、この時に3人のうち2人が死体遺棄の提案をします。要は10人の死体をこのまま置いておくのは如何なものか、船を守っている神様が悪臭を放つ死体を嫌っているのではないか、しかるが故に陸に辿り着けないのではないか、船霊の怒りを鎮めるために死体は捨てるべきだ、と主張したのです。

当時「船霊」といって、右舷に3種の船霊が収められていたそうです。1つは女性の髪の毛です。この時は船主の奥さんの髪の毛。それから双六のサイコロが2つ。そして1対の紙で作ったお雛様。この3つが船霊だそうです。これに対し船長の重吉は逆に竜宮の神の怒りを心配します。つまり「死体を海に捨てるのは簡単だ。ただ捨てることで海底の海神様が怒るのではないか、それで海が荒れたら船は沈んでしまう」ということです。

悩んだ船長はおみくじに頼ります。丁か半かということで、おみくじを引くと「捨てろ」とでる。こうして3人は10人の死体を海に捨てたそうです。その時の描写にはこう書いてあります。「死体を触るとぼろぼろと崩れ落ちる。土を運ぶがごとく手にすくって、その死体を海に入れた」。「ぼろぼろと」とか「土を運ぶがごとく」という表現が印象的です。

話が前後しますが重吉は、「おみくじで棄てろというなら仕方あるまい。ただ1ヶ月待ってくれ。その間、自分の夢枕にこの死んだ者が“捨てないでくれ”と語りかけてきたら中止しよう」と言ったそうです。それで1ヶ月延期したのですが、誰も夢枕には出てこなかったということで捨てたそうです。

それ以降2ケ月強、天候が悪化、サメが出たり、今まで釣れていた魚が釣れなくなったとか、3人のうち船長を除く2人は体調不良となり、元気なのは重吉だけとなったそうです。

それから3か月あまり更に漂流が続き、重吉までもが身体が弱り、万事に悲観的になり落胆してしまう。もうおみくじを引く意欲も無くなるのですが、440日目に意を決しもう1回引きます。その時の状況は、簡単に言えばカードを3枚用意し1と3を引いたら自殺する、2を選んだらまた生きようと考えたそうです。そしで選んだのが2番だった。そこで「しからばいつ頃陸地に巡りあえるのだ」と更におみくじを引く。回答は「今から1〜2ヶ月後」。それで元気回復、頑張るわけです。

さきに概要で述べたようにその一カ月半後の484日目、サンタバーバラの沖合まで漂流した督乗丸は英船に救助され3人は露船に移乗。2人が約3年半ぶりで日本に帰った訳です。
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2−4.船長重吉の信念と統率力
今までの話に見られる重吉の統率力、グループの意欲を高める力は大変なものがありますね。例えば皆に念仏を唱えさせたという話があります。念仏を唱えない奴には食料を与えないと宣言までしています。面白いのは船内で「好きなだけバクチをやれ」となかば強制的にバクチをやらせていることです。

重吉はその時30歳を少し越したくらいの年齢でしたが、自分より若い仲間が死んでいく中、自分だけは生きて帰るという思いが特別強かったようです。それも自分の個人的な為でなく、「なんと言っても供養塔を建てる、建てるまで俺は死ねない」という堅い信念のもとで彼は生活したようです。そうした信念あればこそ生き延びられたのだと思います。

彼は実際に日本に戻って供養塔を建てます。それは現在、名古屋市熱田区のお寺に残っています。ただ建設資金には苦労したようで、資金集めに熱田神宮などで参詣人相手に見料を徴収しています。484日の漂流、プラス英・露の船での航海という世にも珍しい体験を語り、米露で集めた39品目を展示、さらには約340語の和露単語集も販売したそうです。
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2−5.村上貞助による取調べ
重吉は日本に帰る前にカムチャッカ半島から択捉島に着きます。ここには幕府の露語通訳として村上貞助がいました。彼はもともと長崎で阿蘭陀通事をしていた人です。この時代、露から大黒屋光太夫を連れラックスマンが来る、石巻の津田夫を連れレザノフが来る云々。露使節団の漂流民外交が目立った時期で、幕府は露語の人材育成を痛感していた訳です。
ということで村上は、露語学習の命を受け北海道へ。当時は露船による高田屋嘉兵衛の捕獲、その関係で露人のゴローニンが函館の牢にいたのです。その牢屋で村上は露語を学ぶ。そして択捉島に転勤し重吉に会ったという訳です。
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3.仏・メデューズ号事件 1816年
話は変わって仏の事件に移ります。これを取りあげたのは、督乗丸の海難と同時期でもあり漂流中に食人があったという大変な事件だったからです。左に引用した「メデューズ号の筏」というジェリコの絵を見たことがあるかと思います。この絵には有名な画家ドラクロアがモデルとして入っているのでも有名です。

ジェリコの「メデュース号の筏」

経緯は、ナポレオン戦争で英が仏から奪った植民地、「パリ・ダカール・ラリー」で有名なセネガルの返還に伴い、仏から軍艦が派遣されます。乗員約400人。内訳は政府の高官、役人、兵士、新天地を求める商人、売春婦など。そして途次、座礁事故が起こる。手持ちのボートは6隻。収容能力250人。そこで残りの150人への対応は、新たに筏を作りボートが曳航して岸へ、という作戦にでます。

ところが曳航用のロープが切れてしまう。その時ボート組は、悪く言えば「はいサヨナラ」と陸めがけ行ってしまったという訳です。ここで驚かされるのは、筏では漂流3日目にして早々に人の肉を食べるという事件が起こったことです。相当数の酔漢もいて食料をめぐる喧嘩頻発という状況だった由ですが、3日目という数字に「本当か?」との疑問もわきます。

ジェリコは生存者を訪ね詳細を調べ描きますが、ルーブル美術館ではその絵を引き取るも、ジェリコへは一銭も渡さず、しかも展示もせずということになったそうです。ジェリコは怒り絵を取り返し英へ。英でこの絵は好評をはくします。
そして仏の一大スキャンダルとなり、仏海軍の面子問題へと発展していきます。

このたかだか12、3日のメデューズ号の筏漂流と484日の督乗丸の漂流は一概に比較は出来ませんが、督乗丸では割と「自殺」という言葉が出てきます。督乗丸は484日の漂流中2回大晦日を迎えます。1回目はまだ皆生存していて、皆でお屠蘇の真似ごとをしたり、形なりにもお祝い事もするのです。その時は皆わんわん泣いたそうです。「何故俺達はこんなひどい目に会わにゃならんのか?」

ところが仏の場合は全く状況を異にしていますね。ある方の表現を借りると「これは民族性の違いではないか」。肉食で育った人は考え方、行動も我々と違うのではないかという視点です。ただ私はそうした面もあるかもしれないが、あまり納得は出来ないのです。次に「海神丸」の例を説明します。
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4.小説 海神丸
これは野上弥生子さんの著作で、1917年の海難事故がモデルだそうです。簡単に内容を申し上げます。船は65トン程度の小船、乗員4人。出港地は大分県の港。あと1週間で正月を迎える時期、仕事熱心な船頭が「この期間を遊ぶのはもったいない、簡単な仕事でもやって正月の小遣い稼ぎを」と言い出し、4人で船を出す。そして嵐で漂流を余儀なくされます。

そして4人が食料をめぐり対立、2対2に分かれる。一組は船長と船長の甥っ子。もう一組は20歳前後の若者2人。若者組はどうせ死ぬのだから腹いっぱい食って死にたいという者。そしてもう一人はお粥とニンジンは大嫌いだという者、これが野上さんの人物設定です。かたや船長は「あきらめるな、耐えて辛抱するのだ」と説得しますが叶わず、結局積み込んだ食料を2等分、お互い勝手に船首と船尾で生活となる。ところが若者組はどんどん食べる訳で、すぐに食料は尽き「お前ら、どこかに食料を隠している」とイチャモンをつけます。

詳細は省くとして、脂ぎった肉を食べる場面が夢に出てきたり云々。若者の精神状態は正に尋常ならず。その結果甥っ子が殺されます。小説では殺してその遺体を海に捨てる表現になっています。何故なら、殺した方も初体験でしょうから、簡単に「じゃー食おう」とはいかない。そして若者の1人は殺したことへの罪の意識がどんどん出てくるのです。狭い空間での事件、船長もすぐ気づき喧嘩になる。落ち着いて料理という状況ではないのです。これが小説の設定で、罪の意識にさいなまれつつ死体を海へ、で終わっています。

ところが50年後に新事実が出てきます。野上さんは長命でしたから、この小説を書いて50年後、一本の電話を受けます。電話の主は「私はあなたの小説を読みました。私が救助をした正に張本人です」。ということで、実際に救助した方が現れ、新事実が判明します。その中で私が一番印象に残ったのが「一人だけやけに元気な奴がいた」という救助者の発言です。

救助船は米から日本へ帰る日本の商船だったそうです。その船がたまたま海神丸をみつけ、乗りこみます。乗員3人を船に引き揚げると2人は大変な体力消耗状態。ところが1人だけやけに元気なのがいて、この男は船の中で「ペンキを塗る作業を手伝いましょうか」と申しこんで来たそうです。それを見て助けた船員同士が「ひょっとしてあいつは人肉でも食ったのとちがうか?」という冗談話をしたそうです。

これを題材にした新藤兼人さんの1962年の白黒・映画作品『人間』があります。出演は乙羽信子、船頭が殿山泰二、殺される甥っ子が確か山本学、若者が佐藤慶の4人で、佐藤慶が肉を食うシーンが数秒あります。即ち、新藤監督は映画化に当たり、食肉シーンを採用する方がより現実的と解釈したのではないでしょうか。
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5.終りに
今回私が申し上げたかったのは、人間が極度の飢餓状態になった場合、日本人も仏人も、やることに変わりは無いのではないかということです。吉村昭さんの著作『彦九郎山河』には天明の大飢饉時の描写が印象的に書かれていますが、そこには死人を埋めた場所を脅して問いただし、その死体を掘りに行く男の話が出てきます。

吉村さんのことですから、昔の文献を丹念にお調べになって、そういう事実があることをお書きになったのだと思います。 今回は「督乗丸の484日漂流」、仏・メデューズ号事件、野上弥生子著「海神丸」、新藤兼人作品『人間』、吉村昭著「彦九郎山河」を参考に、異常事態における人間の行動について考えてみました。ご静聴ありがとうございました。
(拍手)




文責:臼井良雄 
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:和田節子


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