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神田雑学大学 平成22年10月22日 講座 No528

映画の黎明と盛衰2、映画史研究家 坂田純治




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画鋲
カラー化への進展
日本では
世界各国の動向
日本の映画興行の推移
映画の発展を阻害した二大事件
崩壊する映画界




前回は世界映画史の概略を述べました。すなわち、映画の発明、無声映画、そしてトーキーへ展開までをお話しましたが、今日は映画のカラー化(総天然色)、から第2部のスタートを切ります。今日は原稿を読むスポットライトがないので、暗い中、懐中電灯をたよりに読みながらのお話ですから、途中読み違えることもあるかと思いますが、ご容赦ください。
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坂田純治講師

カラー化への進展

映画はトーキーまで発展してきました。1930年台からハリウッドでメジャー8社が傘下の技術家を総動員して開発した総天然色化でしたが、メジャー8社では成功しませんでした。なんと、ウオルト・デズニーがアニメ映画「白雪姫と七人のこびと」を総天然色で制作したのであります。これまで、デズニーはミッキーマウスとかドナルド・ダックとかの短編アニメの制作をしていましたが、いち早くカラー化時代を見通して、傘下の技術家を総動員して制作に成功しました。昭和11年の記録ですが、カラー化に成功したということで、アカデミー賞の短編映画賞を受賞しております。

特にカラー化に最も注力していたMGM(メトロ)が、ジュディ・ガーランドのオーバー・ザ・レインボウを主題歌にして有名になった「オズの魔法使い」で、昭和14年、メジャー8社では初めてカラー化に成功しました。これはしかし、全篇カラーではなく部分カラーでした。

いよいよ、本格的な総天然色の時代がやってきます。ご存知「風とともに去りぬ」の主役スカーレット・オハラは、イギリスからやってきたビビアン・リーに決まりました。デズニーに先を越された映画製作8社は、このオールカラー映画の製作も、弱小プロダクションであるセルズニックに遅れを取りました。セルズニックは商売上手もあって、とにかく史上未曾有の大ヒットをもたらしました。(配給MGM)

撮影中の大小を問わないゴシップ。ギリギリまで決まらなかったヒロインS・オハラ役の人選など、D・セルズニックは宣伝になりそうなモノは何でも利用し、その興行収入
NO1の座は30年近く破られることとてありませんでした。
長編ベストセラーの完全映画化、興行収入大ヒット、そして史上空前の長編劇映画の完全カラー化の集大成etc・・・・・、1939年度のアカデミーは数多くの賞を贈り、賞賛を惜しみませんでした。
《風と共に去りぬ》カット上映。

風と共に去りぬ

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日本では、

戦争もあった時代でもありましたので、カラー化は随分遅れました。1939年の「風とともに・・・・」から12年も経って1951年、松竹が「カルメン故郷に帰る」のカラー化に成功します。戦後の物資の乏しい時代でしたから、制作は随分苦労しました。フィルムは映画用のカラーはコダックが先頭を切っていましたが、松竹は日本で初めて総天然色映画を作るなら、国産のものというかねてから申し入れのあった富士フィルムと相談。

富士フィルムも総力をあげて開発に取り組み、総天然色映画「カルメン故郷に帰る」を完成させたのであります。脚本・監督は写真学校出身の木下恵介、出演は高胸秀子、小林トシ子等。木下・高峰はこれが最初の縁で、その後このコンビは、数々の名作を発表して全国のファンに感動を与えました。また、カメラの楠田浩之も木下の信頼の厚い同志として息の長いチームを作りました。

幼い時に牛に頭を蹴られて以来、少々頭がパアになったキンは、家出して東京で(ゲイジツ活動)〈ストリッパー〉をしているが、久しぶりに故郷(浅間)に友人と共に帰ってくる。
そこで巻き起こす一騒動が作品のコミカルなテーマですが、美しい自然の浅間の光景、ストリッパーの派手な衣装、麓の小学校の運動会での万国旗、等々、カラーの発色への気配り息をも吐かせない。

撮影は好天の日を選んだり、レフ反射板を多用したり、慎重を重ねて行われていきました。また富士カラー・プリンの生産能力の限界(封切り本数の未達)、万一のカラー作品の失敗などへの憂慮もあって、この作品はモノクロと二通り同時進行で撮られました。結果は上々、かくて日本のカラー映画第一号は、歴史にその名を刻まれたのです。
《カルメン故郷に帰る》ワンカツト上映。
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世界各国の動向

(アメリカ)
1920年後半から今大戦が終わったある時期までは、アメリカは<メジャー8社>の名のもとに大作主義・スターシステムを看板に世界の映画界に君臨していました。しかし、1960年代後半に到ると、TVの攻勢、その他のメディア・レジャーの台頭、さらに大資本に束縛されない独立プロ(ニューシネマ)の市場への介入などの余波を蒙って、漸く没落の危機に立たされ、今日では昔日の栄光の名のみに留まり、その面影は全くありません。

単なる配給機構にのみ堕すモノ、かつての広大な敷地は、貸しスタジオとか、アミューズメント・パークになりかわり、目を覆うばかりの現状です。しかし、とって代わったプロダクション(企業・個人)は<SFX>万能の大作、ついには<3D立体>などに科学の技を発揮して、今もって世界に発信しています。では、アメリカ映画華やかなりし頃の、懐かしい作品を観ることにしましょう。
《イースターパレード》(1948年)カット上映

(イギリス)
第二次大戦前後には、A・コルダとか,A・ランクなどの大作資本が活動していた時期もありましたが、概してイギリス映画は作風が小ブリで、それも英国人好みのスリラーとか、C・ディケンズのストーリー物、あるいはホームドラマなど、地味な存在でした。加えて(イ)自国内での活動にあきたらない人、(ロ)ハリウッドからの引き抜きでアメリカに渡った人は数多く、人材は流出していきました。

戦前では、A・ヒチコック、戦後ではD・リーンの監督たち。俳優ではL・オリビエ、G・ガースン、D・カーなども引き抜かれていきました。今日でも小ブリで地味な作風は依然として変わりなく、美形の若手男優がアメリカ映画に顔を出す風潮の歴史が繰り返されています。

以下3点ワンカット上映
《逢びき》(1945年)(D・リーン)

逢びき、シリア・ジョンスン左、トレヴァー・ハワード

《心の旅路》(1942年)(G・ガースン)
《黒水仙》(1946年)(D・カー)
※ D・カーはこの映画を最後にアメリカへ渡りました。

(フランス)
言語の違いもあり、イギリスほどにはアメリカに引き抜かれる被害は受けませんでしたが、それでもナチスの暴虐を避けてアメリカに渡った例は少なくありません。監督では、J・デュヴェヴィエ、俳優ではかのJ・ギャバンとか、V・ランサン。夫々二、三作のアメリカ映画を撮っております。フランスは戦前から大手制作資本は介在せず、小プロダクションが作品ごとに監督や俳優(特に演劇畑)を集めて完成させるシステムを採ってきました。

詩的で文学的で芸術性豊かな作風は、一見享楽性ともいえるハリウッドのそれと対比して、国際的には思向が二分され、多くのファンを抱えて、国内も輸出も潤った時期にも恵まれました。<巴里の屋根の下>などのR・クレエル、<望郷>などのJ・デュヴィヴィェ、<大いなる幻影>などのJ・ルノアール、<天井桟敷>などのM・カルネなどが挙げられます。

大二次大戦後は、若手の映画人たちによる<ヌーベルバーグ>(新しい波)の活動が盛んとなり、J.Lゴダール、L・マル、F・トリュフォー等の活発な映画作りも話題になりましたが、彼の死後とともに、何時か消滅し、現在ではこれという特性も無くなったのは寂しい限りであります。

《望郷(ペペルモコ)》(1937年)(J・デユヴェヴィエ) カット上映

暴挙のジャン・ギャバンとミレーユ・バラン

(ドイツ)
第二次大戦前には<ウファ>などの大資本もあり、音楽映画、文芸映画のジャンルで活発に名作を発表し続けてきました。しかし、ナチズム(ヒトラー)の時代に入ると、次第に国策映画に強制化され、多くの映画人がアメリカなどに逃げていきました。かのM・デイトリッヒはヒトラー時代に入る直前に、アメリカに渡ったのでしたが、ヒトラーは彼女の帰国を促す。彼女がそれを拒否すると、彼女の在独時代の全作品の焼却命令を出す。いわばイタチゴッコが演じられました。

L・リューヘンシュタールは女優から監督に転じた人ですが、1936年、ベルリン・オリンピックの記録映画<民族の祭典>と<美の祭典>の両編を見事に映像化しました。
後世、C・ルルーシュ(仏)と市川昆(日)の作品と並んで、オリンピック三大作品との評価は永遠です。戦後、東西に二分された悲劇も手伝って、現在のドイツ映画は特筆すべきものは見当たりません。
《民族の祭典》(1938年)<L・リューヘンシュタイン>ワンカット上映。

(イタリア)
同じ敗戦国でも、イタリアとドイツとでは大分事情が違います。1989年に名作と評価された<ニューシネマパラダイス>の一漁村のシーンに見られるように、イタリアの国民は生来 映画大好き人間で、感性豊かな人々なのです。

戦前から、史劇などのジャンルが得意で、そのため大きな撮影所を幾つか抱えていました。戦争が終わって、荒廃の中から若き旗手たちがイタリアの映画界の復興を叫んで、全世界の映画人、大衆に衝撃を与えました。
<イタリアン・ネオリアリズモ>の台頭です。

上映中の部屋の様子

ハリウッドの大スター、I・バーグマンがその一作品<戦火のかなた>を観て、あまりの強い感動と衝撃を受け、夫も子も捨ててイタリアへ飛んだエピソードの残るR・ロッセリーニを御大として、<靴みがき><自転車泥棒>などのV・デシーカ。<苦い米>の
J.D・サンテス、<鉄道員>などのP・ジェルミ等々、多士済々。
復興イタリア映画の基盤をしっかりと固めていきました。

芸術感覚が豊かで、感性極めてシャープなイタリアの国民性は、次世代にも人を求め、<甘い生活><道>などのF・フェリニー、<ベニスに死す><山猫>など、L・ヴィスコンティ、<さすらい><情事>などのM・アントニオーニ等々、世界のトップレベル級の後継者たちが活躍していきました。

《ひまわり》(1970年)(V・デシーカ)ワンカット上映

(ソ連)
 モンタージュ理論を確立し、その実験的映画<戦艦ポチョムキン>を発表した
S・エイセイッシュティンを擁するソ連は、無声映画時代から映画製作熱は中々活発でありました。政治的なもの、広大な土地に敷設されていく鉄路開発ものなどが主流でしたが、戦後逸速く輸入公開された作品の<石の花><シベリア物語>などのカラーも見事でした。<イワン雷帝>とか、ドストエフスキー、ツルゲネーフ、チエホフなどの文芸ものも次々と作られていきましたが、中でもトルストイの<戦争と平和>は圧巻でした。

この題材は、アメリカ(パラマウント)が1955年、当時大人気のO・ヘップバーンをヒロインのナターシャに据えて、H・フォンダ、M・フェラーなどを助演にしての超大作との大宣伝で公開されました。しかし、これを見たソ連の人は納得しません。トルストイといえばわが国の生んだ大作家である。その代表作をアメリカごときに先に映画化されるとは国辱である、と文化省と国家映画委員会が柱になって、企画から撮了まで5年間がかりの歳月を要して仕上げたのが、ソ連版<戦争と平和>でありました。(1966/77公開)

中心は、制作、脚本、監督、主演、ナレーターと一人五役のS・ボタルチェク。ヒロイン、ナターシャはバレリーナ出身のL・サヴェーリーエワが13歳から20歳までを実年齢に添って演じわけました。ギネスブックには数々の記録が挙げられているが、最も長い映画項では
(1位)日本の「人間の条件>9H39M。(2位)フランス<鉄路の白バラ>。8H32M。次いで(3位)がこの<戦争と平和>8H27Mとなっています。その他、最大級のエキストラ3位。最も多いロケーションの場1位等々、記録づくめの作品でした。

なお、アメリカでは1968年4月の公開でしたが、ソ連映画としては史上初のアカデミー外国語映画賞を贈り、その労作を賞賛しました。
《戦争と平和》(1966-67年)(S・ボンタルチェク)ワンカット上映

(スエーデン)
彫りの深い北欧系の美女から二人の女優がハリウッドの大スターになりました。
一人は、グレタ・ガルボ。スエーデン時代に3作、ハリウッドに渡って25作と出演本数は少ない方ですが、その私生活がミステリアスなので、<神聖ガルボ帝国>など呼ばれました。未婚のまま、まだ花盛りの36歳で突然引退。日本の原節子と、その生きざまはよく対比されます。

続いて登場したのが、I・バーグマン。スエーデン時代に11本の作品に出演。そのみずみずしい美貌がハリウッドのD・セルズニックの目に留まり、スカウトされました。
ハリウッドを追放され、(伊)のロッセリーニとともに撮った5作を含めて36作。
<カサブランカ>の彼女は永遠の人であります。スエーデン語読みでは同音の1・ベルイマンも母国では至宝の監督であります。

《椿姫》(1937年))G・ガルボ)ワンカット上映

ダンスシーン

《カサブランカ》(1942年)(I・バーグマン)ワンカット上映

(ポーランド)
世界大戦は終焉しても、なおスターリニズムとの戦いは終わらない。
反ナチ運動、反スターリニズムをテーマにした<地下水道><灰とダイヤモンド>などは愛国心の発露 (アンジェイ・ワイダ)を見逃す訳にはいきません。

(日本)
母国の映画の盛衰についての話題(史料)は尽きない。時間(紙数)に限りあるので、本日はパート1で話残した功労者の話題に絞らせて頂きましょう。
その人の名は<帰山教正>(カエリヤマノリマサ)です。1893年(明治36)生まれ。父は府立一中(現日比谷高校)の化学の教師。本人も図抜けた秀才であったので、東京高工(現工大)の機械科に進みました。しかし、運命は彼を映画の世界に向かわせます。映画創成期に活躍し<日本映画の父>と称された牧野省三に対して<革命児>と呼ばれ<日本映画の近代化>に尽くした日本映画史上忘れてはならない功労者です。

彼の仕事は、学生時代から映画ジャーナリストとして始まります。当時、志有る仲間と貧苦をいとわず発刊していた映画評論誌は後年の<キネマ旬報>へと改良されていきます。彼の人脈は広く、演劇界では<小山内薫>、文学界では<谷崎潤一郎>など多彩でした。彼の残した功績を要約すれば、

(1) 口伝の物語を映画化するのではなく、確りしたシナリオを作る。
(2) 女形をやめて女優を使い、リアリズム演技に徹する。
(3) 弁士の声色をやめて、スポークン・タイトルを使う。等々当時の映画界の常識を
根底から覆すものばかりでした。

そして、自ら14本ほどの作品を監督していますが、その出来は兎も角として、敢えて勇気をもって<日本映画>の革命を起こした功 績は、映画史上に燦然と輝く快挙として、名を留めておきたいと願い、補足させて頂きました。さて、各国の動向をごく短絡化してお話してきましたが、因みに日本における大衆の受け入れ方はどうであったか。数値で示してみましょう。
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日本の映画興行の推移

ピーク  映画人口 1958年(昭和33年) 11億3千万人 映画館7457館
どん底  映画人口 1993年(平成5年)   1億3千万人 映画館1734館
復調   映画人口 2009年(平成21年)  1億6千万人 映画館3360館

なお、戦後50余年続いた外国映画の優位は崩れて、2008年を以って洋画40%、邦画60%に逆転しました。洋画界の低調、邦画界の健闘を裏付けるものです。

映画の発展を阻害した二大事件

(アメリカ)
マッカーシー旋風(赤狩り)
1947年10月20日<映画産業に対する共産主義の浸透>と銘打った議題が、下院の「非米活動委員会」の第一回聴聞会として開催されました。いわゆる、ソ連の脅威に対する<赤狩り>の、ヒステリックな活動の第一歩であります。想定された疑問符のる<証人>の数は324名におよび、喚問された証人は即座に共産主義者であると罪状を認めたり、あるいは仲間の名を告白したりした者は<好意的証人>として厚遇されました。

また、一方では証言を拒否したり、仲間の情報を売ることを拒んだりしたものは<非友好証人>として烙印を押され、態度が頑強な者は<議会侮辱罪>の名のもとに投獄されました。(E・ドミトリック監督ほか9名。この人たちはハリウッド・テンと称されています)。

聴聞会は数十回に及び、その人権無視の非情さに業を煮やして反対の声を挙げた良識人には、G・クーパー、H・ボガードなどがいます。リストアップされ、間もなくの身の危険を感じて、海外に逃亡した者の中には、J・ダッシン(ギリシャ)、あのC・チャップリン(スイス)などがおります。(ダッシンは、そのままギリシャで余生を送り、チャップリンは、20年ぶりでアカデミー協会の招きで帰米し、感涙しました。

<非友好的」と名指しされた人達は、それ以降ハリウッドの職場を追放されて、映画の仕事には全くつけません。マスクを余り知られていないシナリオ作家などは、匿名を使って地下活動を続けるしか生活の道はありませんでした。
(ローマの休日のシナリオのD・トランボは、I・ハンターの匿名でした)。

1951年<欲望という名の電車>のステラ役の名演でアカデミー助演女優賞に輝いたK・ハンターが久しぶりにスクリーンに出たのは、1968年の猿のマスクを付けた
<猿の惑星>の時でした。実に17年ぶりの復活です。
<欲望>とか、<革命児サパダ>などで評価を得て、進歩派の旗手と称されていたE・カザン監督は、証人喚問された折に、スラスラと自分の略歴を語ったばかりか、リストアップされた証人の名を挙げ、<友好的証人>として委員会の好感を得られました。

エデンの東、ジェームズ・ディーンその事実は直ちに、世の顰蹙を買うところとなり、<密告者><卑怯者>などの非難の的となり、次作、<波止場>や、<エデンの東>の制作に当たっては、決して良き協力者(スタッフ)には恵まれなかったようです。

この忌まわしい事件は、結局1954年からほぼ7年間尾を引きましたが(マッカーシー下院議員の名が出てくるのは1950年2月の国務省共産党事件からですが、)米ソの
<鉄のカーテン>の沈静化とともに、終わりを告げました。なお、日本においては「東宝大争議>、そして1950年のマッカーサー指令による<映画人レッドパージ>(109名)にもたらした影響とは、決して無縁ではなかったと言い切れます。

《ローマの休日》(1953年)(W・ワイラー)時間切れ上映せず。
《エデンの東》(1955年)(E・カザン)上記に同じく時間切れ上映せず。   
(本事件の経緯については、ヴィクター・S・ナヴァスキー著<ハリウッドの密告者>に詳しい)。

(日本) 

五(六)社協定(俳優は人間か商品か)
前述のアメリカの<赤狩り騒動>が漸く鎮静化の兆しを見出した頃に、日本でも映画の発展に著しく水を刺す事件が発生しました。1953年7月、当時の大映社長永田雅一の提唱に基づく五社協定(後に日活が参入して六社協定)という、全く人権を無視した悪協定が発表された。その頃の各社は俳優も、一部の監督も専属契約で縛られており、その引き抜き防止のために、互いに勝手に<貸し借り>を認めないというガンジガラメの拘束でありました。アメリカのメジャー8社にも専属制はありましたが、日本のそれよりは情状の酌量には温情味があり、自主性を尊重していました。

1958年、石原慎太郎は自作の<若い獣>を、自分の専属している東宝で映画化したいと考えます。主役には、弟裕次郎を推挙しますが、彼は日活デビュー3年目の超人気スター。どうしても日活は諾といわず、結局お流れとなります。ミス三越から新東宝に入社した池内淳子の1年後輩の前田道子は、グラマラスの肢体ゆえに、明けてもくれてもその姿態を売り物の作品ばかり。ある時、さすがに頭にきて出演拒否したら、<勝手にしろ>と代役が立てられ、そのまま干され放し。ナイトクラブなどで、軍歌を歌って自分を慰めていたところ、台湾映画界からオファーがあり、訪台、2本撮ったものの評判にもならず、そのまま消息不明です。

+1951年宝塚から鳴り物入りで東宝に入社した有馬稲子は、会社が持ち出す企画にことごとく反論、大映、東映、松竹、独立プロと巡り歩き、果ては劇団民芸と渡り演劇、にんじんクラブにも参加、<ゴテネコ>の異名を貰った。彼女の真髄を生かしきれなかった事実。この時代の悲劇の人とも言えましょう。

講義中の坂田講師このような事例は枚挙にいとまがありませんが、山本富士子の例を最後の挿話に致しましょう。ズバ抜けた美貌で、1950年度のミス日本に輝いた<山本富士子>は、各社の争奪戦の結果、大映に入社しました。演技の訓練をするとは口ばかり。唯々、お嬢様、お姫様スターとしてのみスクリーンの花として扱われました。とろが、1956年、名監督吉村公三郎は、まず<夜の河>で、続いて<夜の蝶>で、彼女を演技派女優として育てあげました。

特に、前作では、美しく芯の強い京女の役を生まれ変わったかと思わせるようなシタタカな演技で好演。大衆は驚かされました。1958年、俳優の演技の育て方の上手い後輩の吉村と、富士子の演技を熟視していた松竹の小津安二郎監督は、自分の次回作<彼岸花>の京女役にどうしても富士子を使いたい(脚本の段階から願っていたこと)と、熱い思いを大映に打ちあけました。

勿論大映は<ノウ>。みだり<貸し出す>訳にはいかない。
再三の話合いの結果、得た結論は<小津が大映で一本撮る。富士子を松竹に貸し出す>という苦肉の案でした。富士子の爽やかで芯の確りした京女の役は、大好評。この年の
<ブルーリボン女優賞>を勝ち取りました。これが契機となって大映との年間契約は
<他社出演年二作>と譲歩され、富士子は慎重に作品の選択にかかりました。契約は有利に更改されたといっても<1、1、1、2、1、1>(1958~1963年間の他社出演本数)中々実現には乏しく、ついに富士子は強硬に会社側に契約の履行を訴えます。

そこで得た答えは、<フリーになるか、専属になるか>でした。富士子はついにフリーを宣言します。そこで執った大映側の卑劣な妨害と圧力は、とても限られた時間では語りきれません。<映画>はもちろん<舞台>も、<TV>からさえも締め出されたのです。
この日本映画の発展を大いに妨げた、人間を商品としてしか扱わない劣悪な協定は、1961年の新東宝から始まって、1961年の大映の倒産に至るまでの過程で、いつしか消滅していきました。
《彼岸花》(1958年)(小津安二郎)有馬稲子、山本富士子 ワンカット上映

山本冨士子、有馬稲子、久我美子、

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崩壊する映画界

頑迷固陋のようですが、今日の映画界(特にアメリカ)を駄目にしたのは、1977年の
G・ルーカス<スターウォーズ>からだと思います。<SFX><CG>の進歩はそれ自体、科学の発展を物語ってくれて、素晴らしいことだと思うのですが、(まして今や3D時代に入っている)映画は紙芝居の昔に帰ったのではないか。つまり、心の世界を忘れてしまたのです。私たちが愛した映画とは、レトロと蔑まれながらも、
(1) 文学も美術も、その他あらゆる芸術を取り入れて<人の心>を描いて来た。
(2) 人間同士、常に<愛し合うこと>がテーマであった。
(3) 女性の存在感は希薄となり、女優が育たない。

技術の進歩に驚かされることはあっても、独創性のある斬新なストーリーを持つ映画は減る一方です。引き換えて昨今の映画は、喜劇であっても泣けることを売り物にする宣伝が目立ちます。情感が薄っぺらなのでしょう。私は、1990年代に入ってからの、特にアメリカ映画は余り観てはおりません。こういう仕事をしていて、実に恥ずかしいのですが、体質に合わないというのでしょうか。

同年代、高年齢層のファンたちも同意見が多いのです。しかし、私は、だからと言って映画に絶望してはいません。人間の英知が発展させてきた116年の歴史は、必ずや繰り返される時が訪れるであろうと、信じて疑いません。今は小休止でしょう。その日の再来を楽しみに、歴史への究明を続けたいと、存じます。
(完)

ワンカット上映作品制作会社 参考文献 出版社
M・G・M キネマ旬報
W・B 近代映画社
パラマウント  中央公論社
ハーレーカス・フィルム  河出書房
アーサー・ランク 白水社
東和商事(配給)
東和商事(配給) ーーー
松竹 ーーー




文責:坂田純治、三上卓治 
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:和田節子


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