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2010年11月12日 神田雑学大学定例講座No.531

もっと原爆を知ろう 講師 木左木輝雄



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アクセント画鋲
原爆投下の状況
広島型原爆の構造
原爆投下の理由と根拠
なぜ広島と長崎が狙われたか
現場の時間差攻撃の謎
ルメイの言葉
アインシュタインの言葉
原爆被爆体験記録(原文)



○原爆投下の状況

木左木講師の写真  私は昭和20年8月6日、午前8時15分に広島で原爆にあいました。爆心から1.8キロの校舎の中でした。
 銀行の階段に腰掛けていた女性が突然消えてしまった。お腹の腸が出ている女の人、目の玉が飛び出して眼球がぶら下がっている人などを何十人と見ました。
 演習中の兵隊などが特に被害にあったようです。しかし、このようなひとが「痛い」とか「苦しい」とは一言も言わず、ただ「水くんさい、水くんさい」と言っていたのを覚えています。
 校庭で朝礼をやっていた200人の中学生が一瞬のあいだに黒こげになったのです。泥人形のように全身にやけどを負った人があてもなく歩いているのもたくさん見ました。

人間の影
 昨年の宮中の歌会はじめで[影]という題で紹介された短歌に次のようなものがあります。
  熱線の 人がたの影 くっきりと
      生きてる僕の 影だけ動く

                   北川君作

 作者は中学校一年生の北川君です。父親と一緒に原爆資料館に行き、被爆して一瞬に蒸発して石段に影だけが残った情景をみて、改めて自分の影は動くことに実感した気持ちをうたったものです。

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○広島型原爆の構造

 広島に落とされた原爆と長崎に落とされたものは構造が違います。
広島はウラニュウム型で長崎はプルトニュウム型であるのは皆さんご存じだと思います。
 広島のは魚雷型で長さが約3.5メートル、重さが約4トンもある大きなものですが、これは放射能を防ぐため厚い鉛で覆い更に鉄を被せたものです。
広島型原爆リトルボーイ
 左右に分けて充填してあった西瓜半分ほどのU235が爆薬の力で融合して臨界に達し地上564メートルの高さで6千万度の高熱を発して爆発したのです。

 6千万度というのは太陽の中心に相当する温度です。
 直径10メートルほどの火球が、目標とした相生橋から200メートルはなれた病院の上で炸裂したのです。病院の人は全員即死でした。 。

 爆心地の屋外にいた人達は、影だけを残してすべて灰になってしまいました。
爆心地から少し離れて屋外にいた人達は、人間とは識別できないまでに焼け焦げてしまいました。太陽がいきなり地球に落下した状態が3秒続いたのです。

 この爆弾投下を命令したのはルメイという少将でしたが人道的なことは考えず、とにかく爆弾を落とせと命令したのです。東京大空襲を計画して実行したのもこのルメイ少将でした。かれは当時39歳の若さでした。

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○原爆投下の理由と根拠

現在の相生橋

 ルメイは何処を目標にして計画したかといいますと,橋です。広島はたくさん橋があるなかで、町の中心にあって重要な相生橋を狙ったのです。
 この様な残酷な爆撃を行った最大の理由は真珠湾攻撃に対する復讐です。もう一つは捕虜の虐待にたいする復讐です。フイリッピンのマニラの対岸にあるバターン半島にアメリカ軍が立てこもって抵抗しましたが結局破れマーカーサ―はオ―ストラリヤに逃れ捕虜が10万人残りました。殆んどはフイリッピン兵でアメリカ兵は約1万名です。

 日本はこの捕虜たちをサンフェルナンドまで約60キロを炎熱の中、歩かせたのです。その途中で約1万名が死にました。殆んどはマラリヤなどの病気でした。
 さらに原爆をつかった目的のひとつに生体実験があります。原爆を都市におとした場合、人体にどのような被害がでるか知りたかったのです。

 戦争中陸軍の731部隊が細菌戦のために中国の捕虜を使って生体実験をやったという話もあります。戦後731部隊の当事者は一人も戦犯扱いになっていませんが、これは実験の結果をすべてアメリカに提供することによって罪を免れたという噂があります。
 余談ですが731部隊の当事者は戦後ミドリ十字という会社を作って、朝鮮戦争でアメリカに協力したという話があります。

 原爆を投下した別の理由はロシヤに対する威嚇です。アメリカは太平洋戦争が終わったら次はロシヤと対立することがわかっていました。そのために牽制しておく必要があったわけです。
 同時に世界に対してアメリカはこんな凄い武器を持っていることを示すことで全世界に対する主導権を確保したいという気持ちがあったわけです。

長崎型原爆ファットマン  また原爆の開発に関わったマンハッタン計画には約20億ドル(当時の7300億円で当時の日本の一般会計は年間220億円)の巨費がかかりましたが,この出費が無駄でなかったことをアメリカ国民に示して理解を求めることも必要でした。
 アメリカは世論を非常に大切にする国です。
 太平洋戦争前、アメリカ国民は開戦に否定的でしたが真珠湾攻撃をきっかけに復讐の行動をあおりたてたのです。ある意味で真珠湾攻撃は逆に利用されたのです。
 アメリカ国内の厭世気分を払拭するためにも戦争を早く終わらせる必要があったのです。
 原爆を開発することによってアメリカのモルガン、ロックフェラーの2大財閥に協力したのです。広島の原爆を作ったのがロックフェラー財閥、長碕の原爆をつくったのがモルガン財閥です。
 両財閥にとって原爆の威力を知らしめる必要もあったわけです。
 原爆を投下して戦争を終結させることによってアメリカの将兵50万人の命が救われるという目論見もありました。

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○なぜ広島と長崎が狙われたか

 昭和20年5月に原爆が完成したとき、最初の攻撃目標は京都だったといわれています。
 それが広島になった理由として広島に米軍の捕虜がいなかったことがあげられます。(本当は数日前にB29が2機落とされて、その乗員23人が捕虜になっていて10人が亡くなりました。その遺族に対してアメリカは家族にたいして別の場所で戦死したと伝えたそうです)

 長碕を狙った最大の理由は、ここに旧日本海軍の魚雷の80%を製造していた三菱製鋼所の軍需工場があったからです。
もうひとつの理由は昭和20年5月にドイツが降伏した際、アメリカはすぐ戦犯を捕まえようとしたのですがローマカトリック教会の手引きで、多くの旧軍人が南米に逃亡した後だったことからローマカトリック教会の傘下にある浦上天主堂を目標にしたといわれます。
 もともと小倉を目標にしていたものが、視界が悪いので帰り道に長碕に落としたという説もありますが、私は最初から長崎を狙っていったのだと思います。

会場風景

もっと早くポツダム宣言を受諾していれば原爆投下はなかった
 これは嘘です。7月25日、トルーマンは日本への原爆投下を承認(命令)した。
 7月26日 ポツダム宣言発表。
 「天皇制の存続」は書いてななかった。「天皇制の存続」が書いてあれば、日本は降伏して、アメリカは原爆を投下することは出来なかった。
 ポツダム宣言の草案の12条には「現在の皇統のもとでの立件君主制も含むものとする」とあり天皇制の存続が含まれています。(草案はアメリカ国立公文書館にある)

 ポツダム宣言の発表から8月8日のソ連対日宣戦布告まで2週間、日本の指導者たちは無為無策の優柔不断で、貴重な時間を浪費していた。
 日本が「天皇制の存続」などにこだわらずに、7月26日から8月5日までに「ポツダム宣言を受諾する」と回答しておれば、原爆は投下されなかった筈である。アメリカはこの「黙殺」を「拒否」と解釈して、「日本がポツダム宣言を拒否したので原爆を投下した」と言っているが、実際はポツダム宣言を発表する前日に原爆を投下する命令を大統領は出しているのである。
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○現場の時間差攻撃の謎

 原爆を搭載した飛行機が基地を出発して爆弾を投下するまで6時間30分かかっています。ところが復路は5時間42分で済んでいます。この50分の差は何を意味するでしょうか。
 当日の日本の記録によれば投下の50分前に一機の爆撃機が現れて警戒警報が発令されています。しかし、この飛行機は通過して警報は解除されています。
 これは一旦住民を油断させておいて淡路島の上空から引き返して突如爆弾を投下したのです。
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○ルメイの言葉

 この原爆投下で目標を相生橋と決めたルメイはこんなことを言っています。
 「戦争は非道徳的なものである」
 「もしアメリカが戦争に負けていたら、私は戦争犯罪人として処刑されていただろう」
 このルメイに対して日本は航空自衛隊の設立に功績があったとして最高の勲章を授与しています。
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○アインシュタインの言葉

 原子力が強力な武器になることの道をひらいたアインシュタインは
 「どうのように屁理屈を並べても、戦争は人殺しである」
 「原爆が、罪なき多数の日本人を死なせてしまった」

大日本帝国憲法11条に「天皇ハ陸海軍ヲ統帥スル」と書いてあります。
大西中将は「特攻は統師の外道である」といっています。

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原爆被爆体験記録(原文のまま)

 8月6日(昭和20年)は朝から蒸し暑い日であった。
 空には一点の雲も無く屋根越しに窓から射し込む日光は、白い壁の上で焼け付く様に輝いて居た。

原文
 小生はその日は6時半頃迄寝た様に覚えてゐる。
 今日の外食(外食券使用の店)は何処で喰はうか?山ノ口町まで歩いてあそこで喰って電車に乗らうか、それとも鷹ノ橋迄電車で行って喰って学校迄歩かうかと思案に暮れながら、ノートを風呂敷(風船爆弾に使用された布の残りで作った)に包んだものである。
 丁度靴をはく頃だから7時少し過ぎてゐたらうか、予期した通り警戒警報のサイレンが不気味に響き渡った。
 ラジオの情報は「敵少数機が広島湾を北上中」と知らせる。数日前迄は警戒警報でも授業は停止してゐたのであるが、近頃は空襲警報になっても情況の逼迫する迄は授業を続行することになったゐた。
 敵機が頭上に来れば電車(市電という路面電車)は動かぬから、急いでゲートルを捲きあたふたと駅前停留所へ駆けつける。運よくその日は余り待つことも無く電車に乗れた。

 朝飯は抜いて昼2食喰ってやれと考え乍ら学校の門へ飛び込んだものである。その日は月曜であったので1時限に遅刻せずに来たものは30名余りであった。
 1時限は鈴木教授の無機製造化学である。今日は相律の話といふ訳で、教授は図面を押ピンで黒板に貼られた。
 参考までに、警戒警報は8時前に解除されてゐたものである。それから、さて講義と言うので、我々がペンを握った時である。突如、教室の静寂と沈黙を破って不快な爆音が遥かに聞こえたのである。

 「おかしいのー」と誰かが言った次の瞬間、青白き閃光は教室を襲ったのである。世にも恐るべき原子爆弾と誰がこの時思っただろうか?
 小生はこの閃光を感じながら、東京で度々経験した焼夷弾だらうと咄嗟の間に考へた。閃光は瞬間的ではなかった。ジジジ−−と言う物の焼ける様なかすかな奇妙な音とともに1秒位続いた様であった。
 不敵というか横着と言はうか、小生はそれでも腰をかけてゐたのである。それは焼夷弾なら本場で年期入れて来たから平気だ!爆弾なら落下音がすると普段考へてゐた為、無意識の間にそれが動作を鈍らしたらしい。

広島のキノコ雲  誰かが「伏せッ」とどなった次の瞬間、小生は脱兎の如く床へ伏せてゐた。
 書いてみると相当緩慢の様だが、どうしてどうして、爆音を聞いて伏せる迄恐らく2秒以上は要していると信ずる。伏せるや否や平常の訓練通り、目と鼻を押さへたのは言ふ迄もない。
 次は、轟音に続き物の崩壊する物音、窓ガラスの飛び散る音の連続である。板や机が寝中に飛びかかる。
 かう書くと、閃光と轟音の間に時間があった様に思へるが、閃光の終わらぬ内に伏せて、伏せたと同時に轟音を聞いた位であるから、爆音を聞いてから伏せる迄、ほんの一瞬と言っても過言ではあるまい。

 小生は伏せていながら、「之は確かに爆弾だ。しかも相当近距離である。或は学校の中かも知れぬ。しかし、1回しか轟音のしなかった所を見るとたった1発だな。爆音も1機らしかった。畜生め、学校をねらいやがったな」と言う事を瞬間的に考へたものである。
 やや物音の静まるのを待って、身を起さうともがいたが自由に動けぬ。おかしいぞと思ひ乍周囲を見回しても、1m位先の物がかすかに見える位で、あたりは真暗闇で赤黒い煙が渦を捲いてゐるだけである。
 誰かがその煙の中へ飛び下りた様である。自分も早く下りなくては、今にも教室が倒れ相に思はれ気がいらいらするが、何しろ下には如何なるものが在るか分らず、7m近い2階からでは唯では済むまいと思ふと飛ぶ気になれず、直ちに引き返してやっとの事で階段を下りたのである。

 庭へ出ると級友がかたまってうろうろして居る。中には防火水槽の中に飛び込んで泳いでゐるものもゐる。其時は何故水に入ったのか不思議でもあった。
 その内段々と煙も薄れて遠くが分る様になった頃、人々の叫び声に振り返れば1人が芝生に倒れてゐるのである。その級友は背中に相当の重傷を負って、白シャツからズボンまで真っ赤に染まり、声を出す事もやっとであった。同級生達はその級友をそこらに飛び散っている1枚の板に乗せて、とにかく本部付近へ運んだ。

 言ひ後れたが、自分は窓へたどりついた時、煙から毒ガスを連想して腰の手拭を抜き取って口へ当て様とした時、変に口の辺りがぬらぬらするのを感じて手拭を見ると、手拭は真っ赤に染まってゐる。頭から顔にかけて生温いものがぬらぬらと流れる。
 ふと手にふれた眼鏡の玉が1つ無い。すはこそ爆風でガラスが破れて破片が目に入ったものと勘違ひしたが、目玉はさして痛くない。ふと手を見れば、右手の甲がずるりと一皮はげている。その時は、どうしてこんな傷が出来たのだらうと不思議でならなかった。
 後で、頭の血はガラスの破片によるもので、手の甲の傷は原子爆弾による火傷と分った。

 これが原子爆弾遭難当時の模様であるが、敵機は島根地区よりエンジンを停止して引き返したと思はれる。 2日後の中部軍の発表の概要は「敵4機は曳火高性能爆弾を使用し、家屋に相当の損害あり」と言ふものである。軍当局が「相当の損害」と認めたのであるから、想像以上である。
 数日前の新聞によれば、広島は死者7万、負傷13万と言はれ、今だに続々と死亡者を生じつつあると言ふ。 8月6日迄、広島市には1回の空襲も無く、不安の気は全市に充満してゐたのである。

広島の被害範囲
 突然、軍都広島市は只1回の空襲により、只1発のウランにより、損害は東京につぎ第2位となったのである。 恐るべし原子爆弾、将来の新兵器原子爆弾!

昭和20年9月2日11時  木佐木 輝雄
 自宅(非難先鹿児島県加治木町の実家)にてB29の爆音を頭上に聞きつつ脱稿す。
 筆者は広島甲等工業高校に在学中、爆心地から1800m。治療のため立ち寄った日赤広島病院は爆心地から1500mである。
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謝辞:原爆関係の画像は主に原爆資料館より引用させて頂きました。
   厚く御礼申し上げます。


文責:得猪外明 木佐木輝雄
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:大野令治

本文はここまでです


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