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平成22年11月19日  神田雑学大学 講座NO.532回

千代田図書館トークイベント
共催:法政大学出版局、神田雑学大学

    講義名 旅で出逢った『染め』と『織り』

講師名 竹内淳子さん

 

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講師プロフィール

はじめに

1.木の布・草の布

1−1.おひょう、しなのき

1−2.楮(こうぞ)

1−3.葛(くず)・藤

1−4.芭 蕉

1−5.麻・苧麻(ちょま)

1−6.木綿

1−7.絹

2.草木染め

3.絣(かすり)

4.型染(かたぞめ)

5.旅が私を育ててくれたもの

6.質 問




講師プロフィール

講師の竹内淳子さん 「ものと人間の文化を研究する会」主宰
東京に生まれる。大妻女子専門学校(現・大妻女子大学)卒業。同校助手となり、 岩松マス先生(被服学)、瀬川清子先生(民俗学)に師事。日本民俗学会会員、

著書に「藍1,2」「草木布1,2」「紅花」「紫」(以上法政大学出版局)。
「民芸の旅」「現代の工房」(以上保育社)、「木綿の旅」(駸々堂)、
「織りと染めもの」(ぎょうせい)、「工芸家になるには」(ペリカン社)などがある。
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千代田図書館企画の粕谷さん

1.はじめに

 千代田図書館企画粕谷さん 私は千代田図書館で企画を担当しております粕谷と申します。
現在千代田図書館で企画展示しております「ものと人間の文化史」に関連して本日の講演を開催いたしました。 「ものと人間の文化史」シリーズは法政大学出版局で刊行されております。

それは人間が歩んできた生活の営みを<もの>や自然との関わりから掘り下げ、<文化史>として再構成しようとする試みです。本日はこの「ものと人間の文化史」シリーズでも何冊も著作をお書きになっておられます、「ものと人間の文化を研究する会」主宰の竹内淳子先生にお越し頂いております。

日本各地をフィールドワークして集められた、「染め」と「織り」について今日はお話しして頂きます。 今回の講演は、法政大学出版局およびNPO神田雑学大学の皆様にご協力いただきました。この場を借りまして御礼申し上げます。 では竹内先生宜しくお願いいたします。
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1.木の布・草の布

こんばんは、竹内淳子でございます。時間が1時間半と短いものですから早速お話に入らせて頂きます。 「木の布・草の布」というテーマを挙げましたが、東京の熱帯植物園の方が私の本を見てくださって、「木が布になるということで吃驚した、この言葉を熱帯植物園で使わせてくださいませんか」というお話があったくらいで、皆さん聞きなれない言葉で吃驚するんです。

でも考えてみれば、木綿が入る以前に私達の衣生活を充足してきたものは何かと言ったら、木や草の布だったんです。勿論絹はありましたが、庶民のものではなかったのです。今までに使われてきた代表的なものを挙げてみたいと思います。
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1−1.おひょう、しなのき

「おひょう」は北海道に産します。「しなのき」も北方の木です。 「おひょう」というのはアイヌ語では「アツニッ」と言います。「ニッ」という具合に「ニ」の後に「ッ」が小さく入るのがアイヌの発音の仕方です。「アツニッ」で織った布は「アツトウシ」と呼びます。内地の人が行くようになって「アツトウシ」は「アツシ」とよばれるようにになってしまったんです。 今「アツシ」を見ることは殆ど少ないんですが、北海道の民俗資料館などに行きますと、木の繊維で、はおるようなもの、衽(おくみ)のない着物、あれが「アツシ」なんです。

「アツシ」の原料が「おひょう」ですが、「おひょう」は深山幽谷の山の中でないと採取出来ません。 そして「おひょう」は群生しないものですから、一本の木を探すのに大変なんです。 アイヌの人達は農耕民族ではないですから、山や畑などの私有地を昔から持っていないのです。 ですから山に入って自分が探して来たものを神様から与えられたものと考えて大事にするわけです。

例えば直径30cmくらいの「おひょう」でしたら、周囲は90cmくらいになるんですが、それを全部剥ぐことはしないんです。神様から貰うのだと言って三分の一だけ剥して、貰うんです。それ以上剥ぐと、木が枯れてしまいます。 「おひょう」というのは大木ですから、出来るだけ上まで採った方がいいのです。円周の三分の一を下から剥して上に剥いで行くのです。ですから「アツニッを採るには宙に浮く」という言葉があるくらい大変な作業なんです。

そして衽のない着物なのに、一着の着物を作るのに15本分くらいの繊維がいるんです。 この「おひょう」を集めるのは大変だったのです。私達が今民俗資料館などで見る、はおるだけの着物を作るのに、3年くらいかかるのです。

私は旭川の近文とか日高の富川から入った沙流川の沿岸を40kmほど山に入ったアイヌの集落に行きまして、いろいろ歩きましたが、「おひょう」はありませんでした。私は山に生えている「おひょう」に巡り合うことは出来ませんでした。
何故でしょうか?
まずアイヌの人達が昔のように自由に山に入れない。明治になってからアイヌの人達は他人の山には入れないのです。入ると犯罪人になってしまったのです。川に登って来る鮭も漁業権がないと取れなかった時代がありました。

そんなこともあって、「おひょう」は幻の布ということになってしまったんですが、それに代わるものが「しなのき」なのです。 「しなのき」は柔らかそうに聞こえますが、実際には柔らかくもないし、しなしなするわけでもないのです。

しなのきの断面図 「しなのき」の断面は下図のようになっていて、一番外側に「外皮」その中に「内皮」があります。中心部は木質部です。木の布に使うのはこの「内皮」の部分です。円周の三分の一くらいを外皮と内皮を一緒に剥します。北海道には温泉がありますから、それを温泉に浸けて、外皮を除くのです。 そうして採れた「内皮」を繊維にするのです。これが靭皮(じんぴ)なんです。

アイヌの人達は山に入れませんから、今は営林署の人が伐採した「しなのき」の皮を業者が採って、それを繊維にするために、日高や近文に持ってくるのです。 しかし今ではアイヌコタンには殆ど織る人はいません。私は日高平取で何人かを知っています。 でも今では国道が通り、車は通過するだけですから、土産物屋にも人が行かず、さびれてしまっています。

いま「しなのき」で織っているところは、私が行ったところでは北越です。 新潟県の一番北、府屋という駅がありますが、そこから2,30km山に入るんです。朝日国立公園のふもとです。山北町と言うのですが新潟県の一番北、山形県との境にあたります。日本海から山まで細長い町です。

私が行った時は途中までバスで行き、あとは10kmくらい歩かなくてはなりませんでした。雪になるととても行けない。北越雪譜そのままの世界です。 私は雪のない時に行ったので「雪の中で機織りしているところを見たいので冬にまた来たい」と町の人に言いましたら「それは無理だ、絶対行かれない」と言われました。

それでも行きたくて、雪の季節になって出かけ、駅前にあるタクシーに頼みましたら、「嫌だ」と言うのです。「あんなに怖い所に行かれない」と言うんです。 でもどうしても行きたい。私は雪の中で実際に織っている姿を見ないと書けないのです。 それで山北町の町役場にお願いしましたら、若い役場の職員の方が、雷(いかづち)という所まで私を運んでくれました。長靴なんて通用しない所です。車の上にドサッと雪の塊が落ちてくるのです。

私は東京生まれですから雪の怖さを知りません。運転してくれた町役場の人が「ああ怖いですね」と言いました。土地の人達は雪に巻かれると言っているのです。雪崩にあったら、車でも埋まってしまうんです。それで出られなくて窒息してしまうのだそうです。 怖いもの知らずにだいぶ難しい所まで行きました。

「しなのき」は切ってもまた「ひこばえ」がまた出てくるのです。ですから「ひこばえ」が成長して12,3年経ちますとその皮を丸ごと剥げるんです。 アイヌの人は農耕民族ではないので、そういうことはしないのですが、土地さえあって「しなのき」を植えていたら、根があればいくらでも芽が出てきます。ですから北越では12,3年くらいのものを春先に切ります。そしてその「内皮」を繊維にします。
しなのきの繊維
いま回していますのは「しなのき」の繊維ですが、硬い繊維です。これを柔らかにしなくてはいけないのですから、槌で叩くのです。 私は方々にフィールドワークで行きますが、例えば中国山脈、岡山県の山の中あたりでは温泉で足踏みによる洗濯をしているのが観光化されているのを見ますが、私が思うにああしなかったら布は柔らかくならないんです。今は観光化していますが、あれは実際に必須な仕事だったのです。 そういう意味で木の繊維というのは扱いが難しい繊維なんだと思います。


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1−2.楮(こうぞ)

これは和紙に使われるのでご存じだと思います。 これを訪ねたのはそもそも、本居宣長の『玉勝間』に「阿波の国に太布(たふ)という布あり」と書いてあるのを知ったからです。私はその痕跡だけでも見たいと思って阿波の国まで行きました。 どこかといいますと剣山の東麓にある木頭村という所です。

徳島からバスが出ているんですが一日に1本か2本です。3時間半かかります。 行っても山が崩れていて、通行止めなんていうことのよくある不便なところです。 そこに行って楮から採った繊維を見てきました。 楮の繊維というのは、木綿以前には誰もが着ていたんです。実際に木頭村で着ていたおばあさんにもお会いしました。

タフ布 「タフという布はねえ、とっても温くうてねえ」とおっしゃっていたのが強く印象に残りました。木の繊維なのに「温くうて」というのが考えられなかったからです。 木頭村では7枚寒(さ)ぶ、8枚寒ぶと言って、寒い時は7枚も8枚もタフを重ね着したと言うのです。

寒さを計るのに「今日は8枚サブだねえ」という表現をするのです。 私は木の繊維が温かいと言うのは考えられないと思いまして、もう木の繊維の着物は無いのですが、お願して、同じタフで作ったものを頂きました。これに穀物を入れて水車小屋まで運んで脱穀するのに使った運搬袋なのです。

これを背負って山の細い道を行くのです。馬も通らないと言われる細い道です。木頭村の道は山の縁を周るように、片側は断崖になっています。落ちたら死ぬような所です。

私がその道を行きますと、ところどころにお地蔵様がありました。本当に手を合わせたくなるんです。落ちてしまう人がいたんですね。 そんなタフの繊維を作るために、口で咥え、両手で裂き、繊維を作っていた女の人の暮らしが実際にあったんです。 私はフィールドワークは一人で行きます。どれほどの離島であっても一人です。それで危なかったなあと思う事は沢山あります。

それと同じことなんです。馬も通れないような細い道を、赤ちゃんをおんぶして、糸を績(う)まなければならない女の人の暮らしがあったんです。 そのような経験をしたのであろう90歳のおばあさんが「タフは温くうてねえ」と言うのです。着た経験のある最後の人でしょう。 この袋でもずいぶん重いでしょう?この重い布を、寒い時は7枚も8枚も重ねて来ていた人に会えたことが本当に幸せでした。

今復元する動きもあります。年寄りの生きがい運動としてそういう人達に織り方を習って、50代60代の人が織り物をしていますが、それは生活と密着していないんです。着たことが無い人たちが織っているのです。 いかに美しく作っても、着ることのないものを見て、私は質素ですが着るものだったほうにより愛着を持ちました。

私はここには8日くらいも滞在して、木を切るところから実際にしました。村の人達と仲良くなって、色々話をするようになりました。 「まだいたの?」「ひとりでは寂しかろう?これでも食べさっしゃい」と言ってあんころ餅なんかを持ってきてくれるんです。

そして言葉使いが丁寧語なんです。普段は「食べてけろ」なんて言っているのですが、それを丁寧語で言ってくれることにまた涙が出るんです。 私はこうやってその土地の人達と仲良くなって、共感の涙が流せないと物が書けないと思っています。 行っただけで、一方的にお話を聞いて、「ああそうですか」という訳にはいかないんです。

私は新聞社や雑誌社の方と行くこともあります。テーマが決まっていて、それについて私が質問し聞くだけです。それは取材です。そういう記事も書きますが、私は自分が書く本については「ものと人間の文化史」にふさわしい、その土地の人達の心情を書きたいと思っています。心の叫びを書かなかったら、意味がないと思っています。

私はパソコンも使わず原稿は手書きです。取材の時は自慢ではないですが、原稿を書くのは凄く速いです。夜のうちに書いてしまって新聞社の方には翌朝渡してしまいます。 しかし、自分自身のフィールドワークの話は速くは書けないんです。話し手の心が乗り移らないと書けないんです。 楮の布を訪ねる旅は、土地の人とずいぶん親しくなりながら、本居宣長が『玉勝間』に書いた「タフ」というものを現実に見たときの感激、着たことのある人に会ったときの心の感銘があって、それがとても素晴らしい経験でした。
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1−3.葛(くず)・藤

葛織り 葛の布を訪ねて静岡県の掛川に行きました。小夜中山というところ、あの辺に行けば葛は幾らでもあります。 でもいくらあっても、駄目なんで、すっとまっすぐに伸びたものでないと繊維になりにくいんです。藤もそうですが、捻じれているものは、いい繊維が採れないんです。それで山の中に入って、まっすぐに伸びた葛を持ってくるんです。

昔これが大変売れた時に他の人に頼んで製品を作ってもらう事があったのです。例えば韓国でも中国にでも出せるわけです。しかし一度出してしまうと、向こうは人手も多く工賃も安いですから、日本の葛織りが駄目になってしまうのです。 もともとこの葛織りは貴族の蹴鞠の袴(はかま)に使われて来ました。

何故葛が良いのかというと、葛の繊維と言うのは光沢があるのです。袴に仕立てるには繊維に糊をつけて叩くのです。この葛で作った繊維の袴は、すっと立って形が良いのです。それで明治までは蹴鞠用に製作されていました。残りはお土産用に売れたでしょうね。

芭蕉の繊維 明治以降販路が無くなりましたから、72cm、小幅の倍、または90cmくらい、広幅の機織りを作って、ふすま紙にしたんです。芭蕉の繊維もそうですが、これは繊維が丈夫なために、需要があったのです。 ところが最近はふすまも無くなってきまして、今は草履の表、テーブルセンターなどにしか用途がなく、制作する軒数も一軒か二軒ほそぼそとやっています。

葛は各地にあります。鹿児島の薩摩半島の西の方に甑島列島があります。船で行って2時間はかかります。そこに葛の繊維がありましてかんね葛(かずら)と呼ばれています。 私がかんね葛を織るお家に行きましたら、織った布を切っているのです。「もったいないわねー」というと「いいんです。洋服の芯にするんです。」と言っていました。少し貰ってきました。

ここは蚊の多い所で、難渋した覚えがありますが、蚊帳もこのかんね葛で作っています。 大変な作業ですよね。昭和の初期ですと1200円くらいしたそうです。 そのころ文化住宅が1200円くらいで買えたのですから、それと同じくらいの価格で蚊帳を作るという作業を女の人が苦労してやっていたのです。とても奇麗なものが出来ています。そうやって衣類に使われなくなっても実用品として必要な物を作っていたのですね。
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1−4.芭蕉

芭蕉布は沖縄で良く知られていますし、平さんの名前がテレビに時々出ていますから、皆さんはもうご存知でしょう。 私はそういう良く分かっているところを訪ねて同じ話を聞かなくてもよい、むしろまだ知られていない所に行こうということで、八重山群島の石垣島に行きました。 この近くに星の砂で有名な竹富島がありますね。その脇に更に小さい小浜島という島があります。そこに藍を染めたり、織り物を織ったりする人がいると聞いて、訊ねて行きました。

小浜島ではどこの家にも芭蕉の木が植えてあって、それを切って繊維にするという暮らしがあったのです。 芭蕉布はここでは日常的な衣服でした。風の通りもいいのです。 芭蕉布が高価なのは私達がこちら側にいるからであって、小浜島では自分の家の庭の芭蕉を切って、自分で繊維にして、自分で衣服にしているのです。
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1−5.麻・苧麻(ちょま)

麻 私達は麻織物と一口にいいますが、麻と苧麻は全く違う植物です。 麻は大麻(くわ科)から採ります。これは名前どおり大きいのです。1m20cmくらい背が伸びます。 その隣に苧麻(いらくさ科)を植えますと、植物と言うのは競争しますから、苧麻も伸びるのです。 苧麻は上布(じょうふ)のもとです。

大麻はいくら繊維を裂いても、きれいに細くならないんです。ですから戦前までは麻の蚊帳がありました。重い蚊帳、これは大麻です。 苧麻は細く裂けて繊維に輝きがあります。今も福島県の昭和村で栽培していますが、ここは昔から越後上布の材料の生産地でした。ですから昔は自分のところで織ることはしなかったのです。苧麻を作れば必ず売れると言う時代が続いたからです。

それが最近、着物が売れなくなって、需要が少なくなったものですから、やむなく、自分たちでも布を作ってみようということになって、作り始めたのが「からむし織り」です。苧麻はからむしといいますから。 20年くらいかかったでしょうか、村は工芸館を作り若い人を育て、昭和村は村おこしに努力しています。

夏の衣料というのは真夏にしか着られないのです。でも昔はそれに裏を付けて他の季節も着たのです。考えてみると昔の日本人というのは慎ましい暮らしです。夏になると裏を剥し、一重にして着て、冬になると裏を付けて袷にして着ていた時代があったのです。
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1−6.木綿

木綿 木綿は農林水産省にあがって来る生産数字はゼロです。ですから日本では木綿は無くなったと思ってもいいわけです。 綿って、真っ白だと思うでしょう。 これを見てください。山陰で織っているものですが、この茶色の縞の部分に使われている木綿、これは茶綿なんです。木綿の綿には茶色の茶綿が含まれているのです。

この茶綿を取り除いて私達の手元に来るのが、真っ白な綿です。 ですからこの山陰の織を見ると、この茶色の綿を捨てずに使って、縞織りにしているという暮らしがあったのです。 ごく最近でも米子まで行けば小さな畑に作っている家があります。でもそれは趣味的なものですね。
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1−7.絹

絹には色々な種類があります。これを見てください。 皇居で皇后さまが飼っている蚕、あれは小石丸です。みなさん小石丸というと最上級と思うでしょう? 私はこの9月の初めに筑波の蚕糸試験場へ行ってきました。この蚕糸試験場があと1年半で無くなるんだそうです。政治のことは私は分かりませんが、行ってみると蚕が500種類くらいいます。

私達はリンゴが美味しい、ミカンが美味しいなんていいますが、みんなあれは品質改良で私達が美味しいと思うものを作り出しているのです。絹もそうなんです。蚕と蚕を交配させてより良い絹を生産する蚕を蚕糸試験場が作っているのです。遺伝子レベルで調査し、交配させています。 絹は糸がある程度艶があって、染まりが良くて、長く沢山採れる繭が良いのです。

繭 小石丸は繭が小さいのです。小石丸は染色にムラがある、糸に節があります。でも節があっても悪いと言う事ではありません。紬織りが、繊維に節があって風合いが出るようなものです。 小石丸は繭一つで500ないし600mの糸しか採れません。 それが改良され大きくなった繭からは、2500mまで採れるのです。こういう大事な仕事をやってきている蚕糸試験場が廃止されるというのです。NPOを作っても残せないものか、私は一晩寝ないで考えていました。

明治6年に、英照皇太后と照憲皇太后が群馬の富岡製糸場を行啓されましたが、あの頃から日本は絹の輸出国でした。今は輸入国です。絹は中国もありますが、ブラジルとベトナムから多くは輸入されています。 日本の蚕糸試験場がせっかく作りあげた蚕の卵はひっぱりだこなんだそうです。もう製糸の技術はどこにでもありますから、いい繭さえ手に入ればどこでもいい絹が採れるわけです。

こうやって日本は経済性が無いという理由で、良いものをどんどん失っていってしまうのでしょうか? 食料だけではなくて色々な伝統的なものが無くなっていく。そしてなんだか負けて行く。そんな気がして、なんとか皆様と一緒にこうした流れに掉さして頑張りたいと思っています。
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2.草木染め

草木染の本 藍・紅花・紫 草木染めについて私が書いた本は『藍』、『紅花』、そして『紫』の三冊です。 草木染めは植物染料です。植物は大抵は煮出せば色が出ます。いい色が出るかどうかが問題なんです。 数ある植物染料のなかで、昔からこの藍、紅花、紫は特に日本の大事な染料だったのです。この3つに共通しているのは熱を加えない染料だということです。

宮城県奥の栗駒山で千葉あやのさんが人間国宝になって、藍の冷やし染めなんて言っていますが、冷やしているのではないんです。夏の間気温が高くなって水の温度が25度までいけば染まるんです。熱を加える必要が無いんです。

紅花で染めた布 紅花もそうです。熱を加えてはいけないんです。ですから寒い時期に染めます。 しかも花びらで染めるという特異性があります。花びらからは奇麗な色が出ないのです。紅花は深紅ではないんです。もともとの色はピンクがかった色です。

私は子どもの頃、親が買ってくれたお雛様の三人官女の下の段に仕丁(しちょう)というのがあります。仕丁は雑役夫なんです。位の低い人です。この人形がピンクのズボンを履いているんです。なんで位の低い雑役夫がこんなに奇麗なピンクのズボンをと思いますが、これは紅花染めの棄てる寸前の色で染めた色なんです。あれは史実で正しいのです。

紫は紫草の根から採る染料です。 「紫におう」と東京都の歌にもありますが、紫は匂わないのです。花にも匂いがありません。 ここに見本をもってきましたが、このビニールの袋が染まっているのが見えますか? そのくらい染着力が強いのです。そうは言ってもこの紫の根は、全部を煮てしまっては駄目なんです。

植物染料「滅紫(めっし)」 色素があるのは根の一番表側の部分だけなんです。したがって紫を染めるには紫の根を沢山使わなくてはいけないんです。 紫はいま無くなってしまっています。根を採って染料に使ってしまうという問題もあるでしょう。 それといま自然が土地開発で無くなっていること、紫を知らない人は西洋紫を植えてしまっていることで本当の紫が無くなってしまっています。 紫の場合は温めないと根の外皮から色素が取れませんから、温めるのですが、温度は60度までで止めないといけないのです。

それ以上温度があがると、日本人は上手に言うと思うのですが、「滅紫(めっし)」という色になってしまいます。紫を滅する色です。暗紫色です。 そうやって植物染料にはそれぞれに特徴があります。 例えば藍だったら夏なら水温が高いですからいつでも染まるのです。ですから奄美大島の場合は冷房を使うのです。気温が高すぎると藍は困るので、暑い地方では藍甕の部屋は冷房にしなくてはいけません。

紫草 普通藍甕は土間に4つ埋めてありますね。なぜ4つなのか分かりますか? これは4本の甕の中央の底部に籾殻を置き火をつけて温めるようになっているのです。 4つが一坪というのはそのためなんです。一個だけの甕の家は夏だけ染めればいいわけです。

江戸時代に木綿が普及し、藍の染まりが良く、マムシに嫌われると言う話もあって、農家には重宝がられたのです。 それで夏だけ生産と言う訳にはいかなくなって、一年中染められるように温度をあげる暖房設備が入ったのです。 このように草木染めというのは種類によって温度のコントロールが非常に大切なんですね。
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弓浜絣

3.絣(かすり)

絣はかすれるから絣で、糸を括って染めるわけです。 かすりの染めでなにが難しいのでしょうか。こういう絣は簡単だと思いますか? これは弓浜絣です。これは大変だと思います。 本当に大変なのはこちらです。縦横になっている絣の方が大変なのです。 こういう複雑な絣は、呉服屋さんでは緯総と呼んでいますが、横絣です。

横絣の場合は、この種糸の商人がいるのです。売りに来ます。なかったら自分で図案を作ってやればいんですが、なぜこの種糸が必要かと言いますと、この墨を付けたところを伸ばします。模様を一反に、いくつ間に入れるかは計算による訳です。 この種糸を一本長くのばして、黒く点々が着いたところを括ればいいわけです。それで絣が出来るのです。

絣の布

ですから横絣はこういう種の糸があればどれほど難しい絵柄でも丁寧に括りさえしたら絣が出来るのです。 これも横絣です。これも計算すれば出来るわけですが、逆に言えばこの方が難しいかもしれません。 自分で絵を描いて、字が上手な人ならば寿なんていう字をこういう風に書いて出来るのです。これはおそらくお嫁入りのお布団かなんかにしたものと思います。

今私達が古い布が欲しいと思って探しますと、残っているものは衣類ではなくて、布団が多いです。布団は大事ですからしまってあったのです。 着るものは消耗してしまっています。藍染めの着物なんかは、最後は雑巾になっても大事に使っていたんです。自分が織った着物は「小豆3粒包めたら捨てるな」と言われるくらいの躾がされていたんです。

衣類が財産分けの対象になったのは、昔は衣料品が高く、作るにも人手が大変かかったからでしょう。 絣にはその他、手結いなどがあります。手結いは沖縄の絣です。 例えば水の流れがあった時、どうして表現するかといいますと、これは横糸をずらして作っていけばいいのです。 かすり糸は沖縄の芭蕉布の場合、かすり糸を、輪にしたものを括っていきます。そして織る段階で伸ばせばいいのです。 伸ばして耳のところでずらしていくと、余分な糸が出てきます。

芭蕉の糸というのは、今では入手困難なくらい高価ですが、沖縄では誰でも使っていました。ですから絣も自分流に括って自分流にずらして、ですから横絣です。耳で余分な糸が出てきます。 余分な糸が出てきても一つの絣が全部だめになるよりは、余分に出た方が経済効果があるのです。 そういうことで手結いというのは沖縄の絣のことです。

昔は買う人が来た時は、私はこういう絣でこういうものを作りたいんですと口で言っても分からないので、ひと模様織って商談が成立するというようなものでした。いまは計算出来ますからそういう時代では無くなりましたが、手結いという名残はあります。
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4.型染(かたぞめ)

それから捺染、これは刷り込みです。 沖縄には捺染があるのです。これを型紙で抜いて、上から色をつければこの模様が出来ます。 比較的簡単に出来ます。特に沖縄ですとクールという紅芋がありますので、それを使って刷り込んでいきます。

抜染(ばっせん)については、いまは染料と抜染の為のハイドロの液が非常に良くなっているものですから、藍染めは別にして、ほかの染料で染めたものを型紙を当てて色を抜きます。 型紙は必ずしも小紋だけではなくて様々な型紙があります。 私が吃驚したのは、豊橋からずっとあがって飯田まで行く線があるのですが、そこに水窪(みさくぼ)というところがあります。

ここに江戸時代から続く大きな紺屋がありまして、ここで型紙を見せて貰ったんです。 3000枚くらいありました。教育委員会の人と一緒に分類しました。分類して分かったのですが、あんな山の中でも京都からの型紙が来ているんです。 なぜ分かるかと言いますと、「お城前」と書いてあるからです。「お城前」というのは、京都のお城前、堀川通りで今でも染物の盛んなところです。

そこから型紙を背負って、紺屋を訪ねて売り歩いていたことが分かりました。商売とはいえ、こんなところまでと感心しましたが、江戸時代は地方が今ほど過疎ではない時代だったのですね。 こんな風にして私は古い織物や染物を訪ねて各地を歩いて来たのです。
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5.旅が私を育ててくれたもの

講師の竹内淳子さん 今日の講演を機会に、私はいったいどんな女の子だったのだろう、考えてみました。 私は非常に内気で、本だけ読んでいる女の子でした。 父の書斎に行きますと本はいくらでもあったんです。読む本がなかったら、百科事典まで読みました。 本が好きと言うか活字が好きと言うか、そんなでしたから、おそらく父や母はこのままいったらどうなるか心配だと思ったのでしょうね。親のたっての願いで、大妻に入りました。当時大妻は良妻賢母を育てる学校だと言われていたのです。

私がそこで出会ったのが、大妻の瀬川先生という民俗学者でした。 非常に温和な先生で、私はそこに入り込んで民俗学の本を次から次へと読みました。読んだ挙句に何を感じたかというと、ああ民俗学は私の出る番じゃあない。もう先学がみんな調べ、みんな歩いている。私はなにをしていいのか分からない。それで瀬川先生にそういう話をしました。

瀬川先生は「そういうものではないのよ。学問というものは、落ち穂を拾うように、自分に合ったものを訪ねて、そしてそれを研究していくものなのよ。とりわけ民俗学というのは、いくらでも訪ねれば落ち穂がある。だからあなたは、そういう落ち穂を拾えるように勉強したらいいんですよ。」と申されました。

私は其の時にミレーの「落ち穂拾い」の絵が頭に拡がりました。 私は自分を人間としては地味な人間と思っていますから、落ち穂拾いのあの農夫の姿を見て、なにか自分ととても重なるような気がしまして、「そうだ、私が出来ることはああいう地味なことなんだ。」と思いまして、親の期待に反してますます自分なりの世界に入り込んで行きました。

いま想いますと、私が歩いたところを地図で全部探すのは容易ではないくらい私は何箇所も行っています。おそらく、村から村へなんです。 村から村へ行くにも一泊しないと行かれないような交通の不便な所が日本には沢山あります。 それでも何が私を旅に誘ってくれたかといいますと、その土地の風土とそこにいる人の優しさでした。 私はものと人を訪ねるというよりも、人を訪ねて行くことがとても好きになりました。 行った先でそういう人の話を、昔の民話を聞くような気分で、聴いてきました。とても一時間や二時間の取材ではなく、何日もかけてお話を聴きました。

同じ所に何回も行くのが私の主義です。ですから寒い所でしたら寒い季節ばかりでなくいい季節の時もいかなくてはいけない。そうやって同じ所に何回も足を運びます。 というのは私は東京生まれで、故郷が無いために好奇心いっぱいで、いくらでも歩けたのです。 どんな山でも行きました。どんな山でも独り旅でした。 「一人旅で怖くないの」と言われますが、怖くないんです。 周りは女の一人旅は危ないと思っている。たしかに初めのころは女の一人旅と言うと旅館はあまり泊めてくれませんでした。あまりお金にならないからでしょう。 ですから泊まる所が無い時は役場にお願いして紹介して貰って行きました。

それでも大変な山の中では、どうしても一人です。お訪ねする方も、こちらが一人だからこそ優しくなり、膝と膝を交えてお話を聴くことが出来ました。 そうやって私は、旅が私を育ててくれたのではなく、その人達が優しい人であったからです。本当は大変な山の中で貴重品なのにくず餅やあんころ餅を「食べさっしゃい」と言って持ってきてくれるような人、何にもないからと言って木からもいで来た柚子をふたつ渡してくれたおばあさんもいました。私は一人一人の話をテープを録らずに、心で受け止めて本を書きました。

私は旅にはテープを持って行きません。持っていかないからこそ表情がはっきり思い出されるし、言葉もはっきりしてくるのです。 心配だからといって、テープを持って行くことをしなかったのが、どれほど良かったかを思います。いまだに私は、出会ってお話を聞いた人達の優しさや逞しさに触れて、次の旅に出る元気が出るのです。 こうしてずいぶん歩き回りました。 ついこの間も私は鹿児島に行くと言って出かけました。10月20日のあの大雨で奄美大島がどれだけ大変になったのか、私が出会った優しい人たちの住む島の惨状をテレビで見て、私は居ても立ってもいられなくなったのです。 テレビにも出ましたが北部の龍郷村(たつごうむら)というところは大島紬の

大島紬 発生の地なんです。 その島の南の瀬戸内町まで車で行きました。 この辺は賃機(ちんばた)、大島紬は賃機が多いのです。請け負って機を織って布を納めるということで織機はずいぶん置いてあるのです。

大島紬はテーチ木という木を煮出して赤銅色の染料を採るのです。 そのために6畳くらいの大きな釜で10時間から13時間もかけてテーチ木を煮るんです。 煮出しまして赤銅色の色を採り、それを田圃の脇の湧水で鉄媒染するのです。それを泥染めと言っているんですが、染めているのではないんです。そこも駄目になっていました。

大島紬と言っていますが、結城紬と違ってこちらは絹糸を使います。ですから本当は大島絹織物なんです。 紬というといつでも結城紬と対照的に言われます。 こんど結城紬はユネスコの重要無形文化財の指定になりましたが、縦と横の糸が紬糸であれば紬と言えるのです。 今はいざり機(はた)って言ってはいけないそうですが、足を投げ出してその足で輪を引きながら五体で織るのが結城紬なんです。

逆のことをみんな思っています。結城紬は機織りの機が古いから、あの織物は古いんだと言うのですが、逆なんです。縦糸も横糸も紬の糸を使うからあの機織りの機でなかったら織れないんです。 そういう言葉が先走った間違いがありますが、みなさんもこういう機会に良く覚えて後先の順序を間違えずに理解していただけたら思います。

龍郷村の話から紬に話が飛びましたが、話を戻しますと、これから先何を大事にするか、それは自分自身を見つめ直すということだと思います。 もう私には遅いですが、お若い皆様でしたら、自分自身が何に向いているかを見つめ直す事です。

最近は夢を持てば必ず実行出来るということを言いますが、私は自分が大妻という学校に入る時に、こういう世界でずっと仕事をし続けるなんて夢にも思いませんでした。 なぜこういうことになったかというと、私自身が好奇心が旺盛だったこと、自分自身が派手な人間ではないということ、があったのかもしれません。

たしかにテレビにでも出て発言した方が簡単に有名になれるのかもしれません。 でも私はカメラも嫌い、テレビも嫌いで、こつこつと自分の道を行くしかないんです。 そういう風に自分自身を見つめると、どれが駄目なのか、どれが自分にふさわしいのか、自分に苦労無くやっていかれるのかが分かってきます。 私は原稿を書くのも手書きです。それでもパソコンよりも速い様な気がします。 もうひとつは私が駆けだしのころ、先輩の人が「あなたはなんとも思わないかもしれないけれど、原稿と言うのはあなたにとって商品なのよ。」と言われたことです。

それまでは原稿料を貰ってはじめてこれが原稿料だと思っていましたが、書いている原稿が商品という頭はなかったんです。そう言われた時「そうか、商品ならば読めるようなしっかりとした字を書かなければいけない。」と思いました。ですから私の字は水茎の跡麗しくという字ではありませんが、原稿用紙の升目にきちんと収まる誰にでも読める字です。

自分自身が何がふさわしいか、何が出来ないか、それを自分自身が知って、初めて職業として成り立って行くのかもしれません。私の場合も、こうしてお話をすることは、あまり上手ではないかもしれません。それでも絹なら絹で何日も話したいという情熱は持っています。 でも今日は時間厳守ですからね。 私は自分の好奇心に触発されて、まだ書きたいものがあるんです。寿命との競争です。

私が『紫』を書いた時に、あれは取材をしながら半年で書きました。その後病気をして寝込みました。 引き受けた本が出せなくても「あの人は死んでしまったんだからしょうがない」と言う人もいるでしょうが、私はいろいろなお話を聞かせてくれた方々のことを想うと、引き受けたら書く、必ず本にするというふうに考えており、生きている間に書き終わらせなくてはいけないと常に思っています。

『紫』のときは一生懸命でした。実際には半年のうちに全部取材もし直しました。 この本を発行する時に、発行時点の今が分からなくてはいけない。さっきの木頭村でタフを着たおばあさんの話を聞いたのも本当にラッキーなんです。あれから後はそういう話が聞けないんです。 ですからあの本が出る段階で、そういう話が聴けたことが、大事なんだと思うのです。本を書くと言う事はそういうことだと思います。

『紫』を書きますと言ったのが12月の28日でした。御用納めの日に編集者の方にご返事しました。それから1月早々、お年賀とともに紫を染める人に電話して「今年は紫を染めます。」という言葉を聞き、「ああちょうどよかった。」と取材を1月15日から始めました。そして7月の初めには一冊の本にまとめました。

受講生 『ものと人間の文化史』を私はうかつにもあまり丹念には見ませんでした。これは150冊出ているんです。それぞれ派手に有名ではないけれど、この分野では知る人ぞ知る方々が執筆なさっています。この150冊の本を見た時に私は自分自身の若い日を思い出しました。

落ち穂を拾うように研究しなければいけないということをです。 この本の大事なことは「ああこういうことを研究している先生がいらっしゃる」ということが分かる事です。私自身それがどれほど力になったか分かりません。

まだこれからも私はテーマを持っていますので、いつ次の本が出るか分かりませんが、それでも自分の地味な道、自分の思う道を追いつつ、皆様とこうしてお目にかかることを楽しみに、本を書き続けて行きたいと思っております。 ありがとうございました。
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6.質問

質問:

フィールドワークでは色々な人に会って話を聞き、纏めていくのでしょうが、そのノウハウなんかはあるのですか?

答え:

私は一回お会いしただけでは、心の中からの言葉が聴けないような気がするのです。私は一つのテーマ、項目に絞って書いていますが、その中に出てくる人は何回も会っている人なんです。だからわりと深い話が聴けているのだと思っています。

旅はたしかに一期一会です。同じ条件で同じ人とは会えません。それでも何回でもお会いすることでお互いの胸を開いた話が出来るということだと思うのです。といいますのは私は新聞社や雑誌社の人と取材に行くことがあります。取材ですから相手はこちらが聞くことには答えてはくれます。しかしそれでは心の中の声は話せないと思っています。

私もそういう記事も書きますが、自分の本に関する限りは何回でも行きます。それから本当に村の人に自分がなったような気持ちでお会いします。そこを大事にしております。 私は他人の話を聴ける人になりたいと思っていました。私は人が好きなんですが、私が好きだ好きだと言っても先方が私を好きだと思ってくれなかったら駄目なんです。もし旅が私を育ててくれたとしたら、そういうことが分かる自分に育ててくれたと言う事かとおもいます。

質問:

先程の阿波のタフですがずいぶん重いですね。あれを8枚も重ねたらすごく重いと思うのですが?

答え:

重いと思います。実際に7枚重ね着したのか8枚重ね着したのかは分かりません。私は寒さの表現をするのに「7枚寒ぶ」「8枚寒ぶ」という表現をしたのだと思います。実際に8枚も重ね着したら重いと思います。何枚も重ねて着たという事はあったと思います。タフというのは太物なんです。

木綿が普及してからはなくなったのですが、太物屋がこれを売っていたのです。タフが明治のころ喜ばれたのは畳の縁に売れたんです。浴衣が一反1円40銭位の時、タフが一反1円60銭で売れたそうです。そのころ迄はタフは盛んに作られたようです。

質問:

例えば飛騨白川郷や五箇山なんかの古い集落がありますね。昔はああいうところではどういう着物を着てそういう布団に寝ていたんだか分かりますか?

答え:

分かります。白川も五箇山も何回も行っていますから。合掌村で雪の深い時に雪下ろしまでしたんです。後で気づいたんですが雪は屋根の下の溝の中に落としていたんです。あの時落ちていたら今はなかったと思うようなことをしてきました。

五箇山の一階二階までは住居です。三階は物置です。そこに麻の麻屑(おくず)がおいてあります。さっき話した麻の使わない外皮の部分です。それを貯めておいて、それを麻の布団の綿の代わりに入れていたんです。持ってみると木綿綿の布団よりどれだけ重いか。押し入れに実際入れたのかしらと思うほどの重さです。

ですから木綿綿がないところは、麻の麻屑を使っていたのです。今でも資料館にはとってあります。でも煤で真っ黒です。 今思うと暮らすことが大変だったのですね。重いものを持ち、背負い、家に帰っては重い布団を敷き主婦は大変でした。

それに重い布団をかぶっていないと温かくないというイメージもあったようです。羽毛の布団が普及してからしばらくは、私はいらない、私はあの木綿綿の布団の重さで温まっているんだというおばあさんがいましたからね。 司会:どうもありがとうございました。お時間となりましたのでこの辺で終わりにしたいと思います。(拍手)
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文責:臼井 良雄  写真撮影:橋本 曜  HTML制作:上野 治子
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