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平成23年1月28日
神田雑学大学定例講座N0541





目次
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司会千代田図書館森田さんより
1.はじめに
2.「内務省委託本」の来歴
3.関東大震災と内務省・東京市立図書館
4.「内・寄」本の謎
5.「内務省委託本」受け入れの経緯
6.警保局図書課関連資料
7.「内務省委託本」に残る検閲の痕
7−1.「厳密に言えば差し止め違反になるも、軽微なるにつき不問可然哉」
7−2.「外務省情報部の注意により…」
7−3.「検閲上の参考となる」事例
7−4.『ハーリウッド映画王国の解剖』
7−5.『女性美の研究』(シュトラッツ/安田徳太郎訳)
8.まとめ



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プロフィール

  講師紹介
1970年2月生まれ。
國學院大學博士後期課程単位取得満期退学
国文学研究資料館COE研究員
国際日本文化研究センター技術補佐員など
 

 
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司会千代田図書館森田さんより

 この講演会は現在館内で展示中の、戦前の出版検閲を語る資料展「浮かび上がる検閲の実態」の関連講演会になっています。今回の展示は千代田図書館が所蔵する内務省委託本の他、国立国会図書館、そして江東区立深川図書館のご協力を仰ぎまして、昭和初期の出版検閲の実態を物語る貴重な資料を展示しております。
 展示に当たりましては中京大学の浅岡邦雄先生、そして国際日本文化研究センター共同研究員の安野一之先生より貴重なアドバイスを頂いております。そして展示関連講演会として本日1月28日に安野一之先生、2月18日に元国立国会図書館副館長の大滝則忠先生、3月11日に浅岡邦雄先生に、それぞれのお立場からの研究成果を発表していただきます。
 本日は「いつ・だれが・どのように検閲したのか」というタイトルで安野一之先生に講演をお願いいたします。安野先生は2009年度より千代田図書館の内務省委託本の調査に携われていますが、それ以前の2007年から千代田図書館以外の図書館にも存在する内務省委託本の調査も行ってこられました。本日はそれらの調査で明らかになった内務省検閲の実態についてお話しいただけると思います。では安野先生、よろしくお願いいたします。
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1.はじめに

 ご紹介いただきました安野一之です。
 先程司会者の方から今回の展示に関連して3月までに3回の講演が計画されていると言う話がありました。今回一回目を私が担当させて頂くのですが、第2回目は2月18日に大滝先生が、3月には浅岡先生が講演をなされます。
 全体の見取り図としては、浅岡先生が出版法制史にからむ検閲制度についてお話をされ、大滝先生は国会図書館に所蔵されている検閲本の話と、アメリカの議会図書館に移った検閲本のお話をなさいます。私はもう少し川下といいますか、あまり大きな枠組みの話は出来ませんので、より具体的な検閲の実態について話したいと思っています。

 千代田図書館では2008年にも「内務省委託本」に関する展示会を行っていますが、その時はまだ千代田図書館に「内務省委託本」というものが存在するという資料紹介が主な内容でした。
 今回の展示はそれから3年経っているわけですが、その間に我々が行ったことは、当時千代田図書館でしか確認されていなかった「内務省委託本」でしたが、中央区立京橋図書館、それに江東区立深川図書館の協力を得まして、そちらの方の戦前図書2〜3万冊全てを調査し、千代田、京橋、深川でどの程度の冊数があるかということを確認することが出来ました。
 また今回の展示では、それに加えて国立国会図書館からも協力も頂きまして、貴重な発禁本原本を何冊かお借りすることが出来ました。今このホール内の展示ケースに展示してありますので、ぜひ皆さんご覧になってお帰りいただきたいと思います。
 それをお借りする過程で、今日も来ていらっしゃいます蔵原清人さんにお世話になりました。 今回の調査の結果、どのようなことが分かるかという一例になるになるとおもいますので、ここでちょっとご紹介いたします。
 蔵原さんは戦前のプロレアリタ文学の作家「中本たか子」さんの息子さんで、著作権者でいらっしゃいます。今回の展示に入っています中本たか子著『白衣作業』と言う作品なのですが、これは昭和13年の12月に刊行された本で、昭和14年の3月に発禁削除処分を受けています。
中本たか子著『白衣作業』と『いのち燃えつつ』

その検閲原本が国会図書館にあり今回お借りして展示しているのですが、千代田図書館には、同じ中本たか子さんの作品で昭和16年に出された『いのち燃えつつ』という本があります。 
 これは検閲をパスした本なのですが、中には多くの赤線が引かれています。この二つの本を対照させて行くことによって、どういうところが検閲に引っ掛かるのかがまず判ってきました。 
 更に調べているうちに気が付いたことがあります。この中本たか子著『白衣作業』は、作者が収監されていた時の体験を書いた作品なのですが、初出は昭和12年9月の、改造社の『文芸』という雑誌に出ています。そのあと、先程発禁削除処分を受けたと言いました昭和13年の12月に刊行された初版本があり、さらにその後に、削除部分を削って「普及版」という本が昭和15年2月に出されています。
 これらの中本たか子さんの本で昭和12年から昭和16年にかけて、足かけ4年の4冊のテキストを比べることが出来ました。そこで面白かったのは、検閲側が削除の線を引いたところはその後で出版されるものではもちろん削除されていますが、それ以外のテキスト部分もかなり改稿されていることが分かりました。つまり検閲官が指摘したから削除したと言うだけではなく、作家自身も自主的に検閲をして変えて行った過程が読みとることが出来る貴重な資料でした。
 話は戻りますが、今回3年に渡る調査を終えたことで「内務省委託本」の全体像が浮かび上がってきました。また、昨年春から千代田図書館の「内務省委託本」も再調査を行い、より精度の高い情報を得ることが出来ました。
 今回の講演ではこれらの知見を踏まえ、「内務省委託本」を通して検閲の実態に迫りたいたいと思います。
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2.「内務省委託本」の来歴

 まずはじめに、内務省の検閲原本がどのような経緯で千代田図書館に収められるようになったのかを簡単に整理すると以下のようになります。
昭和12年までは、下図に示したように内務省に納本された2冊の本は、1冊は内務省が保管(正本)、もう1冊は帝国図書館(現在の国会図書館)に交付されていました。ただし、検閲で発売頒布禁止処分を受けたものは帝国図書館に交付されることなく、内務省が正本・副本ともに保管していました。出版社からは内務省に本の発行日の3日前、より具体的には内務省の業務日を3日挟んでその前の日に納入しなければいけないことになっていました。

昭和12年までの流れ
出版社→内務省(正・副2冊)→検閲Pass→正本(内務省保管)
                  →副本(帝国図書館に交付)
              →検閲NG→正本・副本(内務省保管)

それが昭和12年以降、帝国図書館側からの要望によって検閲で処分を受けた本の副本も帝国図書館に交付されることとなります。これは震災や火事などから資料を守るため、分散して保管した方が良いという考えに基づいたものでした。勿論、これらの本は一般の閲覧に供されることはなく、帝国図書館内で厳重に保管されました。これらの本は現在、「特500」という文庫になっています。
ちなみに発売頒布禁止処分を受けた本の検閲原本(正本)は戦後になってGHQに接収され、単行本はアメリカ議会図書館などに収められていましたが、昭和50年頃に日本側の要望により、その一部が国会図書館に返還されました。この返還の経緯は次回講演される大滝先生が中心となってやられたものですので、詳しくは次回講演をお楽しみにして下さい。

昭和12年からの流れ
出版社→内務省(正・副2冊)→検閲Pass→正本(内務省保管)⇒東京市立図書館に委託=(内務省委託本
                  →副本(帝国図書館に交付)

              →検閲NG→正本(内務省保管)⇒特501
                    副本(帝国図書館に移管)⇒特500

以上が内務省と帝国図書館(国会図書館)の間の本の流れですが、時を同じくして昭和12年から、それまで内務省が保管していた検閲で発売頒布禁止処分を受けなかった本(正本)を東京市立図書館に「委託」するという動きが出てきます。
これに関しては後ほど詳しく触れたいと思います。
講座風景

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3.関東大震災と内務省・東京市立図書館

 内務省が所蔵していた本が、分散していった背景には、先ほども述べたとおり関東大震災による資料の焼失が挙げられます。ここでは関東大震災が内務省および東京市立図書館にどのような影を落としたのかを簡単に整理してみたいと思います。
 関東大震災以前、内務省には明治26年以来納本された書籍が、一説には100万冊あったとも言われていました。「図書月報」大正8年12月号P.153には、内務省警保局図書課長赤木の談話として下記のようなことが書かれています。

「検閲した書物は明治8年以来,大正6年まで単行本がおよそ百万部ある。これはことごとく6個の倉庫中にギツシリ詰め込んであるので,現在では虫が喰っているか破れているか、又明治初年のものはどうなっているか私にもわからない。一昨年内務省ではこれを一般公開の目的でその方法を研究したことがあったが,その時分の計量としては四階建ての洋館新築費として六十五万円,整理費として二万六千円雑費三万円職員手当一万七千円その他印刷製本料十二万円総計八十四万円前後を要するのであった。これを予算会議に提出した所すぐに除外されてしまった」

 語り口から言っても、この100万という数字の信憑性は高くありませんが、それでも相当量の本が所蔵されていたことは間違いありません。この時期、このような内務省独自の図書館を作るという計画は何度も浮上しては消えていきました。
 例えば大正9年5月9日の読売新聞は下記のように報じています。

「内務省図書館誤伝 内務省図書課にて図書館を新設公開すとの説あるも右は全く誤伝にして同省官吏にのみ閲読の便宜を計る計画はあるしも之も予算の関係上目下沙汰止みの状態にあり」

 またその3年後の大正12年3月5日の読売新聞には
「内務省の物置にある十一万冊の本を活用するために府立図書館を建設せよ」
という記事が出ています。

 このような計画は実行されぬまま、結果として内務省所蔵の本は関東大震災によって全て焼失してしまいます。従って、関東大震災以前の検閲に関しては資料がほとんどなく、実態を探るのは非常に難しいと言わざるを得ません。

焼失前の内務省と焼失後の内務省跡

 内務省は本省が焼失した後、焼け残った内務大臣官邸を拠点に業務を再開し、その後、各所に分散することになります。新庁舎が出来る昭和8年までの期間に関しては資料が少なく、本の保管方法などは不明です。

 一方、東京市立図書館も甚大な被害を受けました。当時は、日比谷は別格ですが、駿河台、深川、京橋の図書館は東京市の3代図書館といわれていました。
 以下の表に整理しましたが、震災以前は1万〜16000冊程度の蔵書を誇っていた図書館も関東大震災直後には500冊から1000冊程度まで落ち込んでしまいます。昭和12年度末、つまり震災から半年程度で蔵書数が5000冊程度まで回復しているのは各方面から寄せられた寄贈図書のお陰です。京橋図書館には今でも満鉄や「大震災復興図書」からの寄贈印が残る本が多数残っています。残念ながら昭和4年から11年までの統計が残っていないのですが、4年近くかかって元の水準に戻ったことが分かります。

残存図書冊数推移
残存図書冊数推移

 関東大震災で焼失したこれらの図書館は仮設図書館として再スタートすることになります。この仮設図書館の時期は震災翌年から昭和3,4年頃まで続きます。
 この表を見ますと、震災で被害がなかった日比谷は除き、東京市の三大図書館は大きな被害を受けたすぐ後で5000冊、6000冊レベルまではすぐ盛り返していることが伺えます。バンバン予算がついて本が買えたとは考えられませんし、当時の記録を見ると日本各地から色々な形で本が寄贈されていたことが分かります。京橋図書館には奥付けに満鉄の図書館だとか、関東大震災復興図書といった捺印が押されたものが残っています。
 震災後復興で後回しにされてきた図書館が再興するのは深川図書館(昭和3年6月19日竣工)、京橋図書館(昭和4年9月30日竣工)、一橋改め駿河台図書館(昭和4年12月29日竣工)になります。仮設図書館の様子を下に写真で掲げます。

(画像をクリックすると大きな図が出ます)

関東大震災後の仮設図書館
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4.「内・寄」本の謎

奥付に「内務省委託本」の印のあるものを「内務省委託本」と呼んでいますが、これ以外にも内務省から来た本があります。それが「内・寄」という印が押された本で、かなりの冊数に上ります。

(画像をクリックすると大きな図が出ます)

「内・寄」本に見られる印影  便宜上、これらも「内務省委託本」と呼んでいますが、その実態については不明な点も多く、さらなる調査が必要です。と言いますのも、千代田図書館の「内・寄」本は図書館側が押した受入日印に「受贈」となっています。一方「内務省委託本」は「受託」になっています。
これから考えると「内・寄」は「内務省・寄贈」の略のように思われるのですが、京橋図書館・深川図書館には「受贈」あるいは「寄贈」といった印は一切押されていません。また、この時期、冊数は少ないのですが「内務省ヨリ寄贈」と明記された本も存在することから「内・寄」が「内務省・寄贈」なのか「内務省・寄託」なのかますます分からなくなってしまいます。
 ただ間違いなく言えることは「内・寄」も検閲原本だと言うことです。何故なら「内・寄」本の中には「内務省正本」の印が押されている本も多数含まれています。
「内・寄」の本は、後の「内務省委託本」と比べると総じて淡泊なものが多く、コメントや傍線はほとんど見受けられません。
以下は推論ですが、「内・寄」本は検閲原本であったことは間違いないが、「永久保存」の印が無いことから、「一年保存」の本であった可能性が高いと考えられます(浅岡先生談)。ただし、「永久保存」と「一年保存」という区分けがいつ頃から始まったのか、どのような基準で分別していたのかなどはまだ分かっていません。
 私たちは昭和5年の2月21日、つまり市立図書館が復興して再スタートする時に、内務省の方から、「内・寄」の「一年保存」の本が大量に寄贈されたのではないかと推論をしています。
 ここら辺を統計的に現在の千代田図書館の前身であった駿河台図書館と、京橋図書館について調べたデータがあるのですが、駿河台図書館では昭和5年の5月21日「内・寄」印の押された本をまとめて197冊受け入れています。それに対して京橋図書館の方は昭和5年の3月5日に846冊の「内・寄」印の押された本が受け入れられています。深川の方はまだ数字をきちんと出していませんが、1000冊以上の「内・寄」印の押された本が残っています。ただ深川図書館には受け入れの記録が残っていませんでした。
 たぶんこの「内・寄」印の押された本の受け入れが震災後の市立図書館の蔵書不足を補うために行われた「内務省委託本」の最初の姿だったのではないかと思われます。その受け入れ記録データの最初の一部を下に掲げます。

駿河台図書館と、京橋図書館の内務省からの受け入れ本冊数推移
駿河台図書館と、京橋図書館の内務省からの受け入れ本冊数推移

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5.「内務省委託本」受入の経緯

 さて上の表からも明らかなように、昭和12年に内務省委託本印のある図書が京橋にも駿河台にも大量に現れます。既にお話ししたように、内務省で発売頒布禁止処分を受けた本の副本が帝国図書館に移管した経緯は、第3代帝国図書館長・岡田温の回想によると、先代の館長である松本喜一が焼失のリスクを分散させるため内務省に強く働きかけた結果であり、その際取り交わした書類も残されています。
  「内務省委託本」が同時期に始まったのも同じような理由からと想像されますが、残念ながら事実関係を裏付ける書類はまだ見つかっていません。
 ただ1937年4月号の「市立図書館と其事業」(70号)には以下のような記事が載っており、これによると「内務省寄託図書配当表」という文書が昭和12年1月に作られ、それに基づいて日比谷、駿河台、京橋、深川に割り当てられたことが分かります。
1937年4月号の「市立図書館と其事業」(70号)記事

 この記事を見て気付くのは、図書館ごとに受け入れる本の種類が異なっていることです。繰り返しになりますが、戦前、駿河台・京橋・深川は蔵書数・閲覧者数も多く、三大図書館と言われていました。それに加えて、当時の市立図書館はその蔵書も立地条件からそれぞれ特徴を持たせたものとなっていました。

 『東京市の教育』(東京市役所:昭和12年7月31日発行)によると、下記のような事が書かれています。
駿河台図書館は、「学生街中心点に位する同館は、これら学生の勉学のため、法制経済並医学書それに次いで、数学、語学等に関する図書を主として収集し、その他一般参考書、辞書類等も広く集める等、学生図書館としての経営方針を取り、閲覧者の便宜を図っている」とあり、 京橋図書館は実業図書館と位置づけられ、近隣に新聞社などが多かったことから、実業図書を集めた実業図書室と当時の図書館としては珍しい開架書架がありました。
深川図書館は「江東工場街を形成する帝都の生産地帯として」、「工業従事者の為に知識の淵叢となり、その慰安に奉仕することになる。同館の当事者はこの点に力を用いている」とあります。

 この配当表の背景にはこのような方針がありました。
 また内務省委託本がどのように、制度上ではなく、日常業務として受け入れられていたかを物語る資料に深川図書館の月報に収められた次の記事があります。

「この図書館(※深川図書館のこと)は、江東区工業地帯に所在するということで、蔵書構成は工業関係に力を入れていた。当時内務省図書課は、出版法により納本された図書を、日比谷、京橋、駿河台(※現在の千代田図書館)、深川の各館へ主題を分けて寄託していた。深川には工業関係書が寄託されることになっていたので私はよくリュックをかついで本をもらいに行った。図書課には赤鉛筆を持った検閲官がいて、納本されてくる本にいちいち目を通し「愛」とか「社会」という箇所に傍線を引いて、最後に表題紙に「支障ナシ」と記入し、検閲担当者のハンコを押した。「支障ナシ」の本を私どもは貰いうけてきたのである。」

 ここに書かれているように、図書館員はリュックを背負って多い時で月4回程度出向いていたことが分かります。本の厚さにもよりますが、上記の表を見る限りではだいたい1回に10冊程度受け取ってきたようです。10冊×4回×12ヶ月=480冊。これが基本的な数字で、たまにまとまってトラックなどで運ばれる時もあったと考える方が自然なように思われます。

 こういう形で東京市以外の図書館にも内務省から本が行っていたのではないかという可能性はあるのですが、今のところ確認出来ているのは大正13年5月に大阪府立図書館の館長が大阪府の知事に対して出した申請書があるのみです。それによると関東大震災で貴重な資料が燃えてしまってことを受け、東京への集中を避け、危険分散のためにも納本を3部にして、増えた一冊を大阪の方に回して貰うよう内務大臣に知事から働きかけて欲しいとなっています。
これに関しては論文もあるのですが、その後内務省委託本が大阪の図書館に入ったという事実は無いようなので、おそらく申請だけで終わったものと思われます。
そのほかに昭和7年2月25日の読売新聞朝刊に「検閲納本を凶作地児童へ」という記事があり、東北・北海道の水害困窮地域に「一年保存」の本を送ることにしたと書かれていますが、具体的にどこに何冊送ったという記録は残っておらず、今となっては探しようもありません。
話は前後しますが、日比谷図書館は第二次大戦末期に全焼してしまい、僅かに残った蔵書に内務省委託本が入っている可能性は非常に低いと言わざるを得ません。他の東京市立図書館に委託されたという記録もなく、従って今のところ存在が確認されるのは京橋、深川、千代田の三館だけと考えられます。

 今回の調査で現在三館に残っている「内務省委託本」(「内・寄」本含む)の内訳一覧を作りました。下記を参照ください。

現存する内務省委託本の図書分類別一覧
現存する内務省委託本の図書分類別一覧
2011.1月現在(暫定版);カッコ内の数字は「その他」を併せたもの。

 簡単に見ていきますと、深川図書館は蔵書数こそ最も多いですが、「内・寄」本の比率が高く、情報量としてはそれほど多くありません。一方、千代田は「内務省委託本」が多く、コメント・傍線の入っている本は他二館よりずっと多く所蔵しています。
深川図書館の5門(技術・工学)が多いのは先述の通りで、委託本の傾向がそのまま現れています。4門(自然科学)のうち、医学関係の本は千代田に多く、それ以外は深川に多く残っています。4門は京橋の少なさが目立ちます。反面、京橋には音楽関係の本がまとまって入っており、7門(芸術・美術)は一番多く所蔵しています。
 当時も今も刊行数が多かった9門(文学)がそれほど残っていないのは、委託本が少なかったというよりは損耗し廃棄された本が多かったと考える方が自然なようです。
 これらの図書館はごく最近まで内務省委託本も通常の本と同じように貸し出されていましたから、こうした損耗による廃棄は避けられず、相当数が無くなっているものと思われます。

 さて、上記の表は現存する本のことであり、内務省から、どのような本がどの程度委託されたのか詳細は不明でした。今回、紹介する新資料は、深川図書館で作成された「内務省寄託図書簿」(昭和16年9月26日〜19年8月19日まで)というものです。
深川図書館で作成された「内務省寄託図書簿」

この図書簿の内容についてはまだ精査されていませんが、内務省委託本が具体的にどのように委託されたかを知ることのできる非常に重要な資料であります。以下にアウトラインとして受入日と冊数を整理した表を挙げます。
内務省委託本の受入日と冊数を整理した表

 この表には、昭和16年9月26日から始まって昭和19年の8月19日までの寄託された冊数が記載してありますが、昭和16年の寄託が136冊、昭和17年の寄託が371冊、昭和18年の寄託が299冊、昭和19年の寄託が169冊、総計で975冊になっています。このうち昭和16年と19年の数字は通年の記録ではありませんので、実際にはもっと多かったと思われますが、大体ざっくり中央値で見ると年間400冊弱くらいは入って来たのかなという印象を持ちました。
 先に挙げた京橋・駿河台図書館受入日・冊数比較表と、この深川図書館「内務省寄託図書簿」を対照させると、内務省委託本の全体像がおぼろげながら浮かび上がってきます。
 この表で通年の冊数が分かるのは昭和17年と18年です。千代田図書館には昭和18年受入の「内務省委託本」は残っていないので、昭和17年で比較すると深川図書館の委託実数が371冊なのに対して、千代田に現存する本は104冊。図書館間の委託数にそれほどばらつきがないという仮定の下で両者を比較すると約3.5倍になります。つまり想像をたくましくすれば現在の3.5倍程度の本が委託されたと考えられるのです。稀にまとまった冊数が委託されることもあったようですから、その分を加味して考える必要もあります。
 今日、千代田図書館の新谷館長から、『千代田図書館八十年史』を書かれた鈴木理生さんが今回の展示を知って館長に宛てた手紙を見せて頂いたのですが、その手紙によると、昭和43年頃の駿河台図書館蔵書8万冊の30パーセント程度が「内務省委託本」だったと記憶しているとあります。それだと24000冊程度になってしまいます。「内務省委託本」(「内・寄」も含めて)の期間は昭和5年〜昭和20年までですので、平均して1年に1600冊程度の委託本があったことになってしまいます。勿論鈴木さんのご記憶がどうのこうの言う訳ではないのですが、私が調べた範囲ではこの数字は若干多いかなと思っています。

 以上「内務省委託本」がどのような経緯で京橋図書館・深川図書館・千代田図書館の三館に委託されるようになったかという話でした。
 今回千代田図書館には、昨年の3月から再調査と言う形で入らせて頂きまして、かなり細かいデータを取ることが出来ました。前回は見返しにコメントがあるかどうかという程度の資料調査でしたが、今回は検閲官の印鑑が押されているかいないか、あるいは本文の中に書き込みがあるかないか、棒線があるかどうか、全部一冊一冊全頁確認したリストを作りました。そして確認した検閲の痕跡については全て写真を撮りました。これは今後近い将来、資料集およびデータベースという形で順次公開される予定と伺っています。
今後京橋図書館と深川図書館もデータを引き続き整理して行って、表に出せるようになればなと願っているのですが、こちらはまだいつということは出来ない段階です。
 次に内務省の検閲官の話をしたいと思います。
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6.警保局図書課関連資料

「内務省委託本」には検閲官のコメント・傍線の他に検閲官の印鑑も押されています。これまで検閲は検閲された側の証言は多く残されたものの、検閲した側の資料は非常に乏しく、大雑把なイメージで語られることがほとんどでした。内務省関係者の聞き取り調査でもキャリア官僚であった警保局長や図書課長のものは残っていても、検閲実務を担っていた属官の証言や資料はほとんど残されていません。
そんな中、「内務省委託本」に残された検閲官の印はコメントや傍線とあわせて、実際の検閲業務の実態を垣間見せてくれる貴重な資料と言えます。
下に提示する資料は昭和8年1月末現在の警保局図書課の人員一覧とその業務内容を書いたものです(「昭和8年4月10日 内務大臣請議内務省官制改正ノ件」)。
残念ながらこうした資料は断片的にしか残っておらず、時系列に沿った分析は出来ませんが、昭和8年の新庁舎が出来る前の様子を端的に伝えてくれます。幸い、「内務省委託本」には丁度この時期に刊行された本が多数あるので、そこに残された検閲官印と対照させて見ることが出来ます。
 
          昭和8年1月末現在での図書課の人員。

(画像をクリックすると大きな図が出ます)

昭和8年1月末現在の警保局図書課の人員一覧とその業務内容 図書課長 1名(中里喜一)

《検閲係》
事務官 1名(生悦住求馬)
属官 15名(次表参照)
嘱託 2名(次表参照)
雇 3名(次表参照)
《庶務》
事務官 1名(小林尋次)
属官 3名
嘱託 1名
雇 5名
《受付》
事務官(兼) 1名(小林尋次)
属官 2名(内兼1)
雇 11名 《保管係》 事務官(兼) 1名(小林尋次)
属官 2名(内兼1)
雇 2名
《調査係》
事務官(兼) 1名(小林尋次)
属官 4名(次表参照)
嘱託 4名
雇 2名

総計57名でした。

ちなみに警保局全体では196名(昭和7年9月現在)。書記室(局長室:11名)、警務課(31名)、フィルム(24名)、保安課(67名)、図書課(54名)、高等課(9名)。警保局内では保安課が一番大きく、図書課はそれに次ぐ人数でした。

次表は実際に検閲に関わった検閲係と調査係の一覧です。
実際に検閲に関わった検閲係と調査係の一覧
「昭和8年4月10日 内務大臣請議内務省官制改正ノ件」に補筆

◎・○・△はこの時期の「内務省委託本」で印影が認められた人物の出現頻度。厳密にカウントしていないので、大雑把な印象に基づいています。
「内務省委託本」は検閲をパスした本なので、通常、局長まで上げられることはなく、課長止まりです。従って局長は△としました。

 この中で一番古株は「内山鐵之吉」。大正末から名前を見ることが出来、その後、図書課が情報局になっても残りますから叩き上げの大ベテランと言うことになります。
この内山氏と共に良く目にするのが「米良貫一郎」。
この資料では風俗・安寧と担当が分けられていますが、見返しに残された印影を見る限りでは、必ずしも厳密な区分けがされていたわけではなかったのではないかと考えています。
 と言いますのも、昭和8年以降の本のかなりの冊数に検閲官の印鑑が2か所押されるようになるのですが、その印鑑を見て行きますと、風俗の内山と安寧の米良がペアになって検閲をしている本が多く見つかります。内容的に見ても安寧にも風俗に偏ってもいない本も検閲しており、忙しい時は担当にこだわらず検閲したのかなと感じました。もっともこの点に関してはあくまでも私の印象であり、今後精査する必要があると思います。

図書課の人員の増減に関しては「検閲本のゆくえ―千代田図書館蔵「内務省委託本」をめぐって―」(浅岡邦雄;中京大学図書館学紀要;(29) 2008)に整理されているのを転載します。

  大正13年 25名     昭和4年  58名    昭和8年  70名
  大正14年 22名     昭和5年  55名    昭和10年 107名
  昭和2年  24名     昭和6年  53名    昭和11年 102名
  昭和3年  61名     昭和7年  57名    昭和12年 105名
-------各年12月末現在、『内務省警察統計報告』(日本図書センター、1993-1994年)に拠る。

こうしてみると人数が急激に増える年があります。昭和3年は3.15事件、社会主義者・共産主義者への弾圧のあった年です。
昭和8年の増員は、新庁舎完成にともなう増床並びに、「麻薬取締ニ関スル中央機関設置ニ伴フ増員」(上述「昭和8年4月10日 内務大臣請議内務省官制改正ノ件」)などが認められたことによるものだと推察されます。
 もう一つ、昭和8年1月段階では単行本検閲係と新聞雑誌の検閲係は厳密に分かれていないようです。昭和11年の資料では分かれているということなので(浅岡先生談)、新庁舎移転後、人数が増えると同時に業務分担か変わったのかも知れません。
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7.「内務省委託本」に残る検閲の痕

 以上で警保局図書課の人員に関する話は終わります。
これまで「検閲当局」という漠としたイメージで語られてきた検閲官たちですが、固有名詞で語られた途端、ぐっと身近で血の通った存在として立ち上がってきます。これで彼ら、あるいはご遺族から話を聞ければ尚良いのですが、今のところそうしたチャンスは訪れていません。

 続いては「内務省委託本」に具体的にどのような痕跡が残されているのか、写真資料を中心に紹介していきたいと思います。
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7−1.「厳密に言えば差し止め違反になるも、軽微なるにつき不問可然哉」

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検閲の痕跡『水のながれ』桑野桃華;聯合演芸通信社;1934.6.28  さっそく内山さんの印鑑です。
本書(『水のながれ』桑野桃華;聯合演芸通信社;1934.6.28)は回顧録ですが、師団長の異動に関する記述があったため厳密には発売頒布禁止になるところでした。
 末尾の「不問可也哉」という文言は検閲官のコメントにしばしば見ることが出来ます。

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7−2.「外務省情報部の注意により…」

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「参考」印の痕跡  これも内山さんと関さんの印鑑があるものです。
外務省情報部との連絡がうかがわれるコメントが書いてあります。
 「参考」という印は、この本が参考図書とされたことを意味しています。これ以降検閲する時に、これを参考に供するために、検閲室の近くの図書室に置かれていたものと思います。千代田図書館にも「参考」の捺印がある委託本がかなり散見されます。
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7−3.「検閲上の参考となる」事例(『箒のあと下巻』高橋義雄;秋豊園出版部;1936.7.15)

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「参考」印の痕跡  ここでは「天皇の御宸翰」、つまり手紙が臣下に下されることは極めて稀であることが「検閲上参考トナル」とされています。
 検閲官が具体的に何が「参考」になると考えていたのかが分かる珍しい書き込みです。

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7−4.『ハーリウッド映画王国の解剖』(青山雪雄;博文堂出版部;1929.5.15)

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「参考」印の痕跡  この本では読者の落書きに注目したいと思います。
 「誰がレッドサイドラインをひいたか?其位のシーンが何故感心に値するか?世間知らずの貴様を物語るに十分だ。リーダー、オフ、アクター…判読不能」

「内務省委託本」は一般に貸し出される本だったため、このような落書きや切り取りも発生しました。
これなどは検閲官に喧嘩を売っているため落書きだとすぐに判断できますが、落書きによっては非常に紛らわしい場合もあります。
検閲官は基本的に赤鉛筆で書き込んでいきます。二人で検閲する場合は紛らわしくないように青鉛筆(まれにブルーブラックの万年筆)で書き込みをします。
従って、それ以外の書き込みは基本的に落書きと見なしますが、ご丁寧に印鑑まで押してある場合もあり判断に迷うこともあります。
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7−5.『女性美の研究』(シュトラッツ/安田徳太郎訳;アルス4;大正13年5月15日)

 安田徳太郎はこの本の訳序と末尾の「読者へ」で当時の検閲について詳しく述べています。
少し長くなりますが大事なところなので引用します。

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「参考」印の痕跡

「ここに一言読者にお詫びを申さなくてはならない。
実は上梓にあたって、万一を慮って、私たちは再度内務省で本書の再検閲を求めたところ、既に美しく印刷の出来上がっていた写真10枚に突然不許可を命じられた。《中略》原本の裸の写真は嬌態ではない。一枚一枚に科学的な説明が付されている。どこが非難すべきかと考えた。
検閲官は妊婦の写真にくると、とても駄目だという顔をした。『私たちはこんな写真ぐらいには平気ですが。医学的の本としたら許可になるはずだが』と言うと検閲官は苦笑いして『そりゃ、君は専門家だ。勿論私でも平気だ。しかし書物は十七,八の人を基準にして』。
私は日本の文化が十七,八歳の青年で代表されては堪らぬと思った。《中略》私は一内務属官と争う暇にもっと重要な仕事が出来ると思う」云々。
 ここで安田は、検閲の主体が「一内務属官」であることをはっきりと書いています。誰がどのように検閲したのかということを考える時、実務を担った属官たちの実態に迫らなくては何も見えてこないことを端的に物語っています。
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8.まとめ

 今回、京橋・深川・千代田の三館の調査を終えて、ようやく「内務省委託本」の全体像が見えてきました。
「内務省委託本」は関東大震災以降、第二次大戦末期までの約20年間の検閲の実態を探る一級資料です。発売頒布禁止処分を受けなかったとはいえ、数多くの傍線やコメントが残され、総量も国会図書館に残る特501、特500を圧倒しています。
今回、千代田図書館の「内務省委託本」を精査し、必要箇所を写真撮影することで資料集刊行やデータベース構築など、これまでの資料紹介の段階から、本格的な研究へと進むための準備が整いました。
  大事なのはこの貴重なアーカイブが、開かれた公立図書館に存在すると言うことであり、開かれた場で多くの人に研究されていくことが期待されます。
千代田図書館は皆さんご存じのとおり、非常に先進的な図書館でありまして、こういう風な資料を用いてどんどん研究をして、表に出していきたいという意思が非常に強い図書館ですが、そのお陰をもちまして、我々も万全のバックアップ体制のもとで調査をさせて頂くことが出来ました。出来れば今回のようなデータベースを踏まえて、多くの研究者が千代田図書館に集って、共同研究みたいなものが出来たら、素晴らしいことだと思っています。
  最後に「内務省委託本」の再発見者であり、私財を投じながらここまでの道筋を切り開き、後進を導いて下さる浅岡邦雄先生に最大の感謝を。そして暗く寒い書庫で埃まみれになりながら一緒に作業をした慶応大学大学院の尾崎名津子さん、村山龍さん、新井正人さんに賛辞を送りたいと思います。彼らがいなければこれほど短期間にこれだけ大量の調査を終えることは出来ませんでした。
また、調査に全面的に協力して下さった京橋図書館の菅原さん。深川図書館の西村さん、中川さん、千葉さん。千代田図書館の河合さん、幸田さん、森田さん。そして館長の新谷さんに御礼申しあげます。
ご静聴ありがとうございました。(拍手)    


文責:臼井良雄・安野一之
会場写真撮影:臼井良雄
HTML制作:臼井良雄


本文はここまでです



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