ページの先頭です
現在位置: ホーム(1)講義録一覧 2010-12 >芭蕉の誤解と子規の早とちり
WEBアクセシビリティ対応

ページの先頭です

ページの先頭です

2011年5月20日 神田雑学大学定例講座No.550

芭蕉の誤解と子規の早とちり 講師 川口順啓



メニューの先頭です 目次

アクセント画鋲
はじめに
連歌とは
俳諧連歌の発生と大流行
俳諧連歌とは
俳句とは
参考資料


はじめに

川口順啓講師の写真  本日の演題は芭蕉の誤解と子規の早とちりとなっておりますが、「芭蕉の誤解」は俳句の名人と誤解されていること、また「子規の早とちり」は正岡子規が芭蕉の俳諧を、最初よく理解していなかったという意味です。

 日本の定型詩の流れのなかで、上代というのは飛鳥時代・奈良時代に相当します。中古が平安時代、中世が鎌倉・室町時代、近世が江戸時代、続いて明治、大正・昭和、現在に至っています。このなかで短歌(いわゆる五七五 七七)の形式というのは一貫して続いています。

 しかし上代は必ずしも短歌ばかりでなくて、万葉集には約4500首の歌が収められていますが、そのうち9割強が短歌形式でそれ以外に長歌,旋頭歌(せどうか)のようなものが入っています。
 長歌は五七・五七・五七と続く形式ですが、どれだけ続けるかは作る人次第で、最後に止めの七をつけて終わります。五七七・五七七という形式が旋頭歌です。
 (続くのではなく、この38文字で終りです)

 短歌には、千数百年の歴史がありますが、どの時代も盛んだったわけではありません。
上代は盛んでしたが平安時代に入ると、少し様子が変わります。
 平安初期は漢詩が盛んでした。当時中国文化をどんどん取り入れて宮廷を中心とする貴族層すなわち文字が読める人たちは漢詩を勉強して一生懸命作ったのです。
 当時天皇や上皇の命令で「集」すなわち勅撰集がよく作られました。平安初期に短歌の勅撰集はつくられておらず漢詩の勅撰集が三つ作られています。

 平安時代も中期になると漢詩一辺倒の状況でなくなり、遣唐使も廃止の時機になって、また短歌の勢力が強くなり「古今和歌集」が作られます。これが最初の「勅撰和歌集」(10世紀はじめ)です。
 なお万葉集は「勅撰集」ではありません。奈良時代末期に勅撰になりかけたのですが編集者の大友家持が、ある疑獄事件に巻き込まれたために勅撰にならなかったといわれています。

 中世(鎌倉・室町)になりますと短歌より連歌がもてはやされ、江戸時代のはじめまで盛んに作られました。

メニューに戻る(M)

連歌とは

 和歌から派生して中世に大流行した詩歌の一体です。短歌の上の句にあたる五・七・五の長句と、下の句にあたる七・七の短句を、それぞれ別人が詠み合わせる合作文藝です。
 長・短句を二人が応答唱和する二句形式の「短連歌」と数人またが単独で長・短句をかさねていく句数不定の「長連歌(鎖連歌)」とがあります。
 長連歌は百韻(百句)を基本としますが、ほかに五十韻・歌仙(三十六句)・世吉(四十四句)・千句・万句などがあります。

 第一句を発句、第二句を脇、第三句を第三、最終句を挙句と呼びそれ以外の句は平句といいますが、発句は季節を詠み込み「切れ字」を用いることが決まりです。
 脇は発句を補うように詠んで、一場面を作り、第三でまた場面の転換をはかり、以下同様にして付け進んで挙句に至ります。
 連歌の一巻は一貫したストーリーはなく、変化の妙だけが求められます。
 平安時代の中期までは短連歌が行われていましたが、院政期になると長連歌が現れ、鎌倉時代には基本形式として五十韻・百韻が固まりました。しかし、このころまではまだ歌会の余興として行われる遊戯的連歌が主で、和歌と並ぶ本格文藝として完成するのは南北朝時代以降で、室町時代にはその最盛期を迎えました。

メニューに戻る(M)

俳諧連歌の発生と大流行

 室町時代の後半ごろから連歌の分派活動が起こります。それは連歌があまりにも貴族的すぎる、もっと庶民的なおもしろおかしいものを作ろうという機運が芽生えたのです。
 それが俳諧です。俳諧は室町末期ごろから江戸時代に盛んになって明治のはじめまで続きます。江戸時代初期には松永貞徳とか西山宗因などの俳人もいたのですが、この人達は、どちらかといえば「ことばあそび」で奇抜性を重んずるような風がありました。
 その後、俳諧の芸術性を高めたのが松尾芭蕉だといえます。

 江戸時代の文芸のトップジャンルは短歌よりも俳諧だったと言えます。現代のトップジャンルはやはり俳句でしょう。
 明治の中ごろ、俳句が俳諧から独立しました。この俳諧の革新運動を正岡子規がはじめたのです。すなわち俳諧の最初の句だけ取り出して、これを俳句と名付けると言ったのです。現在の俳句人口は数百万人いるのだそうです。

メニューに戻る(M)

俳諧連歌とは

講演会場風景

 俳諧の連歌ともいいますが、連歌の一種です。典雅ではあるものの制約の多い純正連歌(有心連歌)に対して、砕けた俗語・漢語も用いるなどして、連歌本来の俳諧性を重んじる連歌を純正連歌と区別して呼んだものです。
 室町中期から作られはじめられましたが、末期に入ると山崎宗鑑・荒木田守武らが出て次第に発展し、江戸初期に至っては、松永貞徳が連歌から離れた独自の文芸として確立し、以後は単に「俳諧」と称するようになりました。その後西山宗因を中心とする談林俳諧を経て、松尾芭蕉が幽玄・閑寂を旨とする芭蕉風俳諧を確立し、ここに俳諧の芸術的完成をみたのです。
 (現在では「俳諧」とよばず「連句」と呼ぶのが一般的になっています)

 まず連歌のサンプルとして「水無瀬三吟(百韻)抄 長享二年正月二十二日」をあげます。
 雪ながら山本かすむ夕べかな  宗祇  (発句)五七五
 行く水とほく梅にほふさと   肖柏  (脇) 七七
 川風に一むら柳春みえて    宗長  (第三)五七五
 舟棹す音もしるき明けがた   祇
 月や猶霧わたる夜に残るらん  柏
 霜おく野はら秋は暮れけり   長
 なく蟲の心ともなく草枯れて  祇
 かきねを訪へばあらはなるみち 柏
  (中略)
 けぶり長閑に見ゆる仮り庵   柏
 いやしきも身ををさむるは有りつべし 祇
 人におしなべ道ぞただしき   長   (挙句)


 次に俳諧のサンプルをご紹介します。
 これはは元禄二年の秋、翁をおくりて 山中温泉に遊ぶ三両吟」です。奥の細道の旅で芭蕉と同行人曾良を山中温泉に案内したのが金沢の俳人立花北枝ですが、この3人で制作した作品で、当時の標準であった歌仙(36句)の形式になっています。「翁」とは芭蕉のことです。
 馬かりて燕追行くわかれかな  北枝 (発句)
 花野みだるる山の曲りめ    曾良 (脇)
 月よしと相撲に袴踏ぬぎて   翁  (第三)
 鞘ばしりしをやがてとめけり  北枝
 青淵にうその飛込水の音    曾良
 紫かりこかす峰の笹道     翁


 連歌と俳諧の同じ点、違う点を述べますと、先ず五七五 七七 五七五 七七 すなわち奇数番目の句が五七五、偶数番目の句が七七であることは、連歌も俳諧も同じです。

 違う点はいろいろあります。まず連歌というのは貴族が中心で室町以降は上級の武士とか僧侶、富裕な庶民も連歌をたしなんだわけですが、基本理念はみやび(雅)です。
 それに対して俳諧の基本理念は俗っぽい滑稽さ、面白さなのです。ですから取り扱う題材が違うのです。また連歌には使うことばの制限があります。すなわちやまとことばに限るのです。たとえば豆腐は中国からの外来語です。成功,計算なども外来語ですから連歌には使えません。

 そして、やまとことばであっても俗っぽいことばは使っていけないのです。
 俳諧のほうは漢語でも俗語でも、わかる言葉ならなんでも使っていいという自由さがあります。また連歌のほうは、かなり複雑な決まりごと、ルールを覚えなければなりません。
 俳諧にも一応ルールはありますが連歌ほど煩わしいものはありません。
 先ほどの俳諧の例のなかでも五句目の青淵も本来やまとことばでありませんから連歌ならば使えません。ほかに遊女四五人というのがありますが連歌の世界に遊女などという卑俗な題材は絶対登場しません。俳諧だから可能です。

松尾芭蕉の肖像  このような連歌、俳諧、俳句の違いは、ふつう高校の授業では教えません。教科書にも出てきません。高校生にこの違いを説明するには時間がかかって厄介だからです。それで芭蕉は本当は俳諧師だったのに、多くの人に誤解されているわけです。
 「芭蕉は俳句の名人」としばしばいわれますが、江戸時代に俳句ということばは使われていなかった筈で、芭蕉はきわめてすぐれた俳諧師ではあっても俳句師ではありませんでした。芭蕉は五七五の句だけでなく七七の句もたくさん作っているのです。
メニューに戻る(M)

俳句とは

 まず、「発句」について説明しますと、これは連歌・俳諧の第一番目の五・七・五の句のことです。脇(第二句)以下の句に対して、発句は一句としての完結性が特に必要とされ、そこから「切れ字」や「季語」を用いるとされました。このように、独立句となり得る発句は、室町中期の連歌の時代から単独にも詠まれるようになり、この傾向は俳諧にいたってますます強まり、発句集が編まれることともなりました。
 明治に入ると発句は「俳句」と命名され、独立した文藝形式となりました。
 そのいきさつについてくわしくお話をします。

正岡子規の肖像  江戸時代には俳句ということばは使われませんでした。  何時、世間に俳句ということばを広めたのかというと、明治時代に正岡子規がやったのです。
 正岡子規は明治20年代半ばから亡くなるまで、日本新聞社の社員でした。「日本」という新聞に連載記事をたくさん書いていました。そのなかの「芭蕉雑談(ぞうだん)」という文章で次のように書いています。
「余は劈頭に一断案を下さんとす。曰く、芭蕉の俳句は過半悪句駄句を以て埋められ、上乗と称すべき者は其何十分の一たる少数に過ぎず。」

 「ある人曰く俳諧の正味は俳諧連歌に在り、発句は即ち其の一小部分のみ。故に芭蕉を論ずるは発句に於てせずして連俳に於てせざるべからず。芭蕉も亦自ら発句を以て誇らず連俳を以て誇りしに非ずやと。
 答えて曰く発句は文学なり、連俳は文学に非ず、故に論ぜざるのみ。連俳固より文学の分子有せざるに非ずといいへども文学以外の分子をも併有するなり。而して其の文学の分子のみを論ぜんには発句を以て足れリとなす。」

 「ある人又曰く文学以外の分子とは何ぞ。
 答えて曰く連俳に尊ぶ所は変化なり。変化は即ち文学以外の分子なり。蓋し此変化なる者は終始一貫せる秩序と統一との間に変化する者に非ずして全く前後相串聯せざる急遽倏忽(しゅっこつ)の変化なればなり。例えば歌仙行は三十六首の俳諧歌を並べたる異ならずして唯両首の間に同一の上半句若しくは下半句を有するのみ。」

 俳諧は芭蕉以後、江戸中期、末期になって与謝蕪村など、ときどき優れた俳諧師はでたのですが、全体の傾向としては、だんだんマンネリズムに陥っていったのです。
   子規がこのようなことを言い出したのは明治26年末からですが、明治27年は,たまたま芭蕉の死後200年にあたっていました。いわば芭蕉回顧の動きがでていた時に子規が冷や水をぶっかけたわけです。
 革新運動の常として、いささか大袈裟に切り捨てています。
 ここで芭蕉の句は殆んど駄作で、いい句はほんの僅かだと言いきっています。
 また、俳諧は文学に非ずと言いきっています。

 子規の主張したことの基礎には、当時さかんに輸入された欧米の文学理論があったと思われます。
当時欧米の文学は小説であれ、なんであれ作者の個性を尊重するものが文学だといわれました。俳諧というのは日本独特のものです。子規は複数の人がひとつのものを作りあげるという個性を発揮しない構造のものは、はたしてこれが文学かという疑問をぶっつけたのです。子規は、発句のみに文学性を認め、「俳句」と名付けました。
 文学性の論争は発句だけでいいでないかというのが子規の主張でした。

 このように明治26,27年に子規は芭蕉の句をばっさりやってみたものの、後になって、よく読むと芭蕉の連句、俳諧のなかに素晴らしいものがたくさんあることに気がつきます。次の文章を読むと良くわかります。

 雑誌「ホトトギス」第3巻第3号掲載「俳諧三佳書序」(明治32年)、「自分は連句といふ者あまり好まねば古俳書をみても連句を読みし事無く又自ら作りし例も稀である。然るに此等の集にある連句をやればいたく興に入りて感に堪ふるので、終には、これほど面白い者ならば自分も連句をやってみたいといふ念が起こってくる。」

 そこで子規が高浜虚子と一緒に作った連句について明治31年の作品の一例をあげてみます。最初のほうだけ御紹介しますと
  萩ふくや崩れ初めたる雲の峰   子規 (発句)
    かげたる月の出づる川上   虚子 (脇句)
  うそ寒み里はとざさぬ家もなし   規 (第三)
    籠かき二人銭借りにくる    子
  洗足の湯をながしたる夜の雪    規
    残りすくなに風呂吹の味噌   子
ゥ 開山忌三百年を取り越して     規
   (後略)
 この七句目の先に小さく ゥとありますが、これは裏のことです。紙の表に最初の6句を記し、次の12句を裏に記しますので読み手の順序が交代します。
 前半は表6句、裏12句で、最後の6句が名残の裏となります。

 江戸時代の俳諧は、芭蕉でも蕪村でも一茶もすぐれた俳諧師ですが、現代人にとって分り易いとはいえない。歌仙のなかでも読んで分る句と分らない句があります。
当時と現代では、ことばが違う、生活環境が違う、習慣が違うなどで当時は分ったものがいまでは分りにくくなっています。

 子規と虚子が作った連句は、明治が現代に近いのでわりと分りやすいのです。それでも全部はわかるとは限りません。たとえば 駕籠かきといっても現代の人にはなんとなくわかりますが 「公事の長びく畠荒れたり」という句は現代の人にはわかりません。
 公事(くじ)とは公の事という意味が中世以降意味がずれてきて訴訟・裁判沙汰のことをいうばあいが多くなりました。この句では「訴訟のため不在がちで畠が荒れている」という意味になります。

高浜虚子の写真  子規の没後に、弟子の高浜虚子は俳諧の再興に踏み切ったのですが「俳諧」とよばずに「連句」と呼ぶことを提唱しました。従って現在の呼称は連句です。
 私どもは、この日本独特の「連句」を十分理解したいものです。

メニューに戻る(M)


参考資料

講演中の講師  最後に参考資料として室町時代から明治時代に至る主な作者と作品(発句・俳句)をあげてみました。

1.室町時代
 山崎宗鑑(生没年未詳)
  うづき来てねぶとに鳴くや時鳥(久流留)
 荒木田守武(1473〜1549)
  落花枝にかへると見れば胡蝶かな(菊のちり)

2.江戸時代
 松永貞徳(1571〜1653)
  しをるるは何か杏の花の色(犬子集)
 西山宗因(1605〜1682)
  やがて見よ棒くらはせん蕎麦の花(梅翁宗因発句集)
 井原西鶴(1642〜1693)
  長持ちへ春ぞ暮れ行く更衣(落花集)
 松尾芭蕉(1644〜1694)
  古池や蛙飛び込む水の音  芭蕉(春の日)
    (脇句)芦のわか葉にかかる蜘蛛の巣  其角
  五月雨を集めて涼し最上川 芭蕉(おくのほそ道)
    (脇句)岸にほたるを繋ぐ舟坑  一栄
  むざんなや甲の下のきりぎりす 芭蕉(おくのほそ道)
    (脇句)ちからも枯れし霜の秋草 享子
  夏草や兵どもが夢の跡(〃)
  閑かさや岩にしみ入る蝉の声(〃)
  草臥れて宿借るころや藤の花(笈の小文)
  初時雨猿も小蓑をほしげなり(猿蓑)
  旅に病んで夢は枯野をかけ廻る(笈日記)
 向井去来(1651〜1704)
  応々と言へどたたくや雪の門(旬兄弟)
 与謝蕪村(1716〜1783)
  菜の花や月は東に日は西に 蕪村(蕪村句集)
     (脇句)山もと遠く鷺かすみ行く 樗良
  春の海 終日のたりのたりかな (〃)
  さみだれや大河を前に家二軒(〃)
  白梅に明くる夜ばかりとなりにけり(から檜葉)
 小林一茶(1763〜1827)
  悠然として山を見る蛙かな(おらが春)
  我と来て遊べや親のない雀(〃)
  是がまあつひの栖か雪五尺(七番日記)

3.明治時代

 正岡子規(1867〜1902)
  柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺(寒山落木四)
  雪残る頂一つ国境(俳句稿)
  いくたびも雪の深さをたづねけり(寒山落木四)
  鶏頭の十四五本もありぬべし(俳句稿)
  痰一斗糸瓜の水も間に合わず(俳句稿以後)
 河東碧梧桐(1873〜1937)
  赤い椿白い椿と落ちにけり(新俳句)
  大根を煮た夕飯の子供達の中にをる(碧梧桐全句集)
  蔭に女性あり延び延びのこと枯柳(日本俳句鈔)
 高浜虚子(1874〜1959)
  桐一葉日当たりながら落ちにけり(五百句)
  遠山に日の当たりたる枯野かな(〃)
  流れ行く大根の葉の早さかな(〃)
  去年今年貫く棒のごときもの(六百五十句)
メニューに戻る(M)


文責:得猪 外明
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:大野 令治

本文はここまでです


このページの先頭へ(0)

現在位置: ホーム(1) 講義録一覧 2010-12 >芭蕉の誤解と子規の早とちり

個人情報保護方針アクセシビリティ・ポリシィ著作権、掲載情報等の転載、リンクについて連絡先

Copyright (c) 1999-2010 kandazatsugaku Organization. All rights reserved.