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平成23年6月5日 神田雑学大学定例講座NO553 

詩人北原白秋 余話(1)、講師:北原邦雄




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画鋲
「我等がテナー」
出生から早稲田大学入学まで
北原家は海産物問屋
家業の没落
学業
未曽有の大火災
「北原白秋」の誕生
東京へ
「林下の黙想」
「五足の靴」
「邪宗門」刊行
第二詩集「思ひ出」
「桐の花事件」
「城ケ島の雨」



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【白秋余話(1)】前半は、CDで、白秋歌謡をいろいろの方に歌っていただきます。
「CD演奏 からたちの花」後半、白秋の縁戚ならではのお話をさしていただきます。

北原邦雄講師「我等がテナー」
一番バッターとして藤原義江に登場していただきます。
ある日の演奏会で、最初は「からたちの花」を歌っていたのに途中から突然「この道」になっているのに伴奏者が気づきなおすと、いかにも伴奏者が間違えたって表情でこちらをジロリとにらむと。その伴奏者高木東六の言葉でした。
彼に間違えずにチャント歌っていただきます。
(1)からたちの花(2)この道

つぎに山田耕筰さんに「森繁君は困るんだよね、歌を譜面どおりに歌ってくれないから」という森繁久弥に(3)ビール樽と「生ける屍」の劇中歌(4)さすらいの唄
毛色をかえ、スイス出身のテノール「エルンスト・ヘフリガー」が登場
(5)待ちぼうけ(6)ちんちん千鳥をドイツ語で歌います。

白秋生誕記念CDから高山佳子さんの(7)揺藍のうた(8)かやの木山の
コーラスグループを代表して四人時代のダークダックスが、(9)砂山を山田耕筰
(10)中山晋平で歌い比べてもらいます。
クラシック鮫島有美子さんに(11)城が島の雨、(12)ペチカ
天下のお嬢美空ひばり(13)曼珠沙花、(14)松島音頭

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出生から早稲田大学入学まで
ここでは出生から早稲田大学入学までを、和歌や詩を交えてお話します。
1885年(明治 18年)1月 25日、福岡県山門郡沖端村(現柳川市沖端)に生まれた。
本名隆吉。父は長太郎(当時 29歳)、母はしげ当時25歳)で、その長男(戸籍上は次男)。実際には熊本県玉名郡関外目村(現、南関町関外目)の母の実家で生まれ、一ヶ月後に母と柳川に帰り、出生を届け出。

北原家に「トンカ・ジョン」の誕生です。
「トンカ・ジョン」とは大きい方の坊っちゃんという意味で、良家の長男のことをこの地方ではそう言いならわしていた。チンカ・ジョンは小さい方の坊っちゃんであり、ゴンシャンはお嬢さんをさす。バンバン(乳母)、ノスカイ(遊女)、ヨカラカジョン(いい子)、バンコ(縁台)、ボーブラ(かぼちゃ)、ビードロ(ガラス製品)など、オランダ語やポルトガル語の名残りをとどめた語がこの地帯に多く残っています。

「三菱の系図」
これは岩崎家(三菱)の系図ですが、白秋(隆吉)の息子隆太郎の妹が岩崎弥太郎の曾孫と結婚した関係で、北原の系図が載っているのです。
白秋は北原長太郎の子で、私(北原邦雄)は白秋の従兄弟の子で五親等にあたります。

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北原家は海産物問屋。
「油屋」「古問屋」の屋号で九州に知られた。祖父嘉左衛門の代から酒造を兼ね、父長太郎の代ではそれが本業となりました。年間醸造高は、この地区第一の石数。船着き場近くに魚市場も経営、精米業、両替業も営みました。

父長太郎は『出ぎらひのお山の大将で、非常に我儘で癇癪もちで頑固』で「気が弱くて、よっぽど怒らなければ人に小言も言えない人であったという。そして気まぐれで好奇心が強く、趣味で一時に何百羽という鶏を飼い、鶏にあきると次はアヒル、その次には豚を飼うといったふうでありました。また、「ちゅうまえんだ」と称した広大な花畑をもち、カタログを見ては東京から珍しい苗や球根を取り寄せ、ユリ、カンナ、バラと次々に植えかえ、鉢物にも熱中し、朝顔、蘭、万年青を何百鉢と育てさせていました。

 昔は、大店の主人が資力にまかせて道楽に走ることはよくあり、しかし大抵は、いざとなると換金のきく美術品収集などでありました。父長太郎の趣味は、酒造りの日ごと夜ごとの緊張をとくためのものであったが、単なる好奇心のままダイナミックにぜいたくを楽しむその無邪気さは、まさに長太郎こそトンカジョンそのままであったかもしれない。

母親しげは、弟鉄雄によると、「朝早くから紺絣の上っ張りを着て、家事の切り回しに忙しかった。大勢の女中を指図しながら使用人たちの食事の用意や、入れ替わり立ち替わり出入りする人たちの接待、殊に食事のやかましかった父のご馳走には心を籠めねばならなかった。母は夫に対しては賢明な妻であり、子に対してはまことに優しい行き届いた慈母」「よきおっかさんであった」という。

母の里石井家は、筑後(福岡県)と肥後(熊本県)の県境にある南関(熊本県玉名郡)という町からちょっと離れた静かな山里にありました。屋敷は当時として珍しい三階建てで、城郭のようであったいう。これは、代々、大津山氏の家老職格であった。大津山氏は、約 1万 4千石の小大名並みの領主でした。

北原家の子供たちは、この山里で生まれ、母は一月ほどの静養ののち柳川に帰るのが常であり、また学校に上がるようになってからも、春、夏、冬の休みには人力車・馬車(駕籠のときもあった)に乗り、半日がかりで母の里にやってきました。柳川のいつも忙しいゴタゴタした家からこの山の家へ来ると、生活はまるで一変し、周囲は静寂そのもので、自然に親しむ格好のチャンスとなりました。子供たちは山に分け入り、昆虫を採取したり、大きなため池で泳ぎを覚えたり、馬に乗ったり、空気銃での兎狩りに連れていってもらったり、四人の若い叔父さんたちに囲まれて快活で明朗な休暇を過ごしました。

外祖父石井業隆は、幕末の思想家・横井小楠の流れをくむ学究肌の温厚な人物であったという。白秋の本名隆吉の「隆」はこの外祖父から一字をもらったものである。読書を好み、蔵書は日本古典文学をはじめ蘭書やフランス小説にまでおよび、孫にフランス国家を歌ってみせたりするハイカラな人物だったと伝えられています。

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家業の没落
明治 25年 2月の第二回衆議院議員選挙には、業隆が立憲改進党から推薦立候補している。この選挙では、日本の政治史上空前の政府による有名な「大選挙干渉」があり、全国いたるところで死傷者がでた。死者は高知 10、佐賀 8、福岡3、石川 2、熊本・新潟各 1、計 25人、負傷者 1府17県で 388人。石井家にも災厄がふりかかった。

石井家の次男貴道(たかみち)が応援演説をしていたところ保守派に斬りつけられたため、一族は救出せんと四女もり(私の祖母)を花嫁にしたて婚礼行列を装って反対陣営を突破し、柳川の北原家へ連れ帰るという物物しい事件で、選挙も次点で敗れました。トンカ・ジョンの 8歳の出来事でありました。これ以降、石井家の家産(やはり酒造業)は傾いていったといわれますが、代々にわたり近郷の信望を集めてきた家風は変わることがなかった。白秋はこのようにして南関の山里で、自然に親しむことや夢想することや読書欲を培われました。

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学業
1891年 4月(明治24年)6歳矢留尋常小学校(祖父嘉左衛門が明治 6年寄贈した)入学
1895年 3月(明治28年)10歳矢留尋常小学校卒業 4月柳河高等小学校(当時 4年制)入学
1897年 4月(明治 30年)12歳高等小学校二年修了で中学校の試験合格県立伝習館中学に入学
1898年4月(明治 31年)13歳二年に進級。第一学年の成績は 15科目平均 80点、174人中16番

1899年 3月(明治32年)14歳三年進級に際し、2番の成績をとりながら、数学一科目が 54点で 60点の及第点に満たず落第。このころから文学熱が高まる。
1900年 4月(明治 33年)15歳三年に進級、第二学年の成績は、平均 82点、86人中 5番、級長をつとめる。

このころから、島崎藤村の「若菜集」や雑誌「文庫」に親しみ、学友と短歌を作るようになったのは中学 3年のときで、1900年 4月に創刊された与謝野鉄幹主宰の「明星」をその年の冬には愛読するようになっていました。

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未曽有の大火災
ところが翌 1901年 3月 30日の午後、沖ノ端に火の手があがり家屋 62戸、船10艘を焼失するという未曽有の大火災が起こりました。北原家の酒蔵も川向うからの飛び火で類焼し、新酒古酒が道路や河溝にあふれ酒気芬芬となり、消防団も近付けず、焼き尽くされてしまう。かろうじて母屋は残ったものの大変な痛手を被り、その五月、酒造場の再建に取りかかり始めた矢先に妹チカがチフスで亡くなり、その二週間後には南関の祖父が死去しました。

この沖ノ端の大火のとき、父長太郎は四十五歳、隆吉は十六歳でした。一家に暗い兆しが見えはじめたのであるが、そのことに気づき両親を助け支えてゆく覚悟をするには、隆吉はまだ若輩である。それに叔父夫婦(私の祖父母)が家業を支えてくれており、一家の差し迫った事情よりも彼の心を占めるのは学校生活でありました。

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「北原白秋」の誕生
そのころ、隆吉は東京専門学校(早稲田大学の前身)を卒業した若い教師二人に出会っています。一人は国語担当の榊亀吉、もう一人は歴史担当の牧野義智で、新刊の書物や西欧文学などについて話してくれるので、学友を誘っては自宅に押しかけ、文学談義に聞き入るのであった。そうするうちに、同好の士が自然と寄るようになり回覧雑誌「蓬文」を発行することになった。このとき、仲間同士でおそろいの雅号をつけようということになり、「白」の下に一字をあてて、くじ引きで号を決めることにした。「北原白秋」は、友人たちとのくじ引きでここに誕生したのであります。

白雨=中島鎮夫、白蝶=由布熊次郎、白葉=藤本秀吉、白月=桜庭純三、
白川=立花親民

その中でも、中島白雨は漢詩にも、和歌にも、翻訳にも才能がすばらしかった。白雨の翻訳したものは、エドガー・アラン・ポオの自伝的恋愛短編小説「エレオノーラ」を「初恋」と題し、みごとな文語体で訳出している。洋書が入手しにくい九州の片田舎で、どのような経路でポオのこの短編に 17歳の少年が辿りついたのか、これほどの語学力をどこで培ったのか、まことに驚かされます。ちなみに、森鴎外にしてポオ作品の翻訳発表は 1910年の「うづしほ」を嚆矢としている。

 かたや、白秋は詩作に力を注ぎ「恋の絵ぶみ」「春湯雑詩」といった長詩を草し、白雨とはまた別様の新天地をきりひらいていました。中学卒業後は早稲田の英文科へ進学しようと二人で将来を語り合うものの、白秋は父から猛烈に反対されており、希望と憂欝をないまぜにした日々を送っていました。

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東京へ
1904年(明治 37年)2月 10日、日露戦争が始まりました。その三日後、突然、白雨が短刀でのどを突いて自殺する。原因は「露探」ロシアのスパイだと疑いをかけられたことと失恋かもしれない。白秋宛ての遺書に「苦しいから死ぬ。生きていられない。貴方は私の分も一緒に立派に成功してくれ」と書いてありました。白秋は 75調 6節 365行からなる「林下の黙想」を脱稿し、「亡友中島鎮夫君の墓前に献ず」としたため、白雨の遺稿とともに「文庫」に送りました。

この2カ月後、白秋は、伝習館中学に退学届をつきつけ、父親に無断で、母親、叔父敬次郎(私の祖父)夫妻、番頭の協力のもと、柳川駅を避けて、矢部川駅から夜行列車で、東京へと旅立ちました。白雨への想いは、「思い出」の中にさりげなく「たんぽぽ」(1911年 4 月初出)として収められている。「新橋」に東京初印象をかいています。

たんぽぽ
わが友は自刃したり、彼の血に
染めたる亡骸はその場所より静
かに釣台に載せられて、彼の家
へかへりぬ。附き添ふもの一両
名、痛ましき夕日のなかに、わ
れらはただたんぽぽの穂の毛を踏
みゆきぬ、友、時に年十九、名は
中島鎮夫
あかき血しほはたんぽぽの
ゆめの逕(こみち)にしたたるや、
君がかなしき釣台は
ひとり入日にゆられゆく
あかき血しほはたんぽぽの
黄なる蕾を染めてゆく、(以下省略)


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「林下の黙想」
1904年(明治37年)、上京すると、「文庫」 4月号の詩檀欄トップに「林下の黙想」がとり上げられ、6ページにわたり、一挙掲載されていた。選者の河井酔名が紙面を破格に提供したのである。11歳年長の酔名は白秋の才華をいち早く認め、こののち白秋が「文庫」から離れても変わることなく生涯にわたる交わりを続けていくが、上京間もない青年にとって酔名のような好人物との出会いは幸運の一つであったといえよう。

そして同年五月、早稲田大学高等予科文科に入学すると、クラスには若山牧水、土岐善麿、佐藤緑葉らがおり、坪内逍遥のシェイクスピアの名講義が行われていました。また翌年一月には、「早稲田学報」の懸賞詩に応募した「全都覚醒賦」(75調 282行)が一等入選となり、おおむね好調な滑り出しを見せていました。

早稲田にば一年足らずの在学でしたが、1905年(明治 38)3月からは下宿生活をうちきり一戸を借り、老女を雇って住むようになったが遊学の身分でありながら大変な贅沢な生活でした。 1906年(明治 39)になると、新詩社の与謝野寛から誘いを受ける。

新詩社とは、1899年に短歌革命の理想を掲げて寛(鉄幹)がおこした(社友の交情ありて師弟の関係なし)とする結社で、窪田空穂、相馬御風、高村光太郎、鳳晶子、山川登美子など錚々たるメンバーのつどう浪漫主義の牙城でありました。晶子の歌集「みだれ髪」は新詩社創設二年目の刊行で、日露戦争の最中に発表された晶子の「君死にたまふこと勿れ」と、次々に機関誌「明星」は詩歌壇の話題をさらっていました。

白秋は「花ちる日」(のちに「邪宗門」に収録)「紅き実」(のちに「思ひ出」に収録)などを「明星」に一気に発表しました。これ以降、主要作品は「明星」に発表するようになり、平野万里、太田正雄、石川啄木、吉井勇らと交遊を重ね、新詩社恒例の文芸旅行(新詩社の強化策)にも同行しています。

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「五足の靴」
1907年(明治 40)の旅行は、九州ということで、白秋は張り切った。旧友で大牟田在住の白仁秋津(しらにあきつ)に、旅程の相談や、各地での懇談会の手配など、計画をねりあげていった。このときの旅行が、のちにいう「五足の靴」旅行であります。 7月末に東京を出発、厳島を経て九州入り。メンバーは、与謝野寛、平野万里、吉井勇、
太田正雄(木下杢太郎)、北原白秋。

旅行の前後 4日間は、柳河の北原家に泊まり、佐賀、唐津、佐世保、平戸、長崎、天草、三角、熊本、阿蘇へと足をのばし、予定通り各地の同好諸氏との懇談会も催した。その成果は、8月7日から9月10日にかけて「東京二六新聞」掲載されました。

タイトルは「五人づれ」で文中では、与謝野寛は「K生」、平野万里は「B生」、吉井勇は「I生」、太田正雄は「M生」北原白秋は「H生」の仮名を使っています。この発表を機に、ひろく明治末から大正期の文壇に「南蛮趣味」の流行をもたらし、芥川龍之介のキリシタンをテーマにした作品群もその例です。又、幅広い層に「南蛮文化」「キリシタン」を日本の重要な文化遺産として「再発見」させる契機となったという意味で,小品ながら本作品「五足の靴」が後世に果たした役割は大きいといえる。

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「邪宗門」刊行  邪宗門(写真)
白秋は帰京すると、「角を吹け」「ただ秘めよ」などの南蛮趣味の詩を発表し、処女詩集「邪宗門」刊行へと構想をふくらませる。当時、「明星」に拮抗する短歌雑誌には、近代古典主義ともいうべき伊藤左千夫を中心とする根岸短歌会の「馬酔木(あしび)(のち「アララギ」」があり、宮中の御歌所派を継承して佐佐木信綱が率いる竹柏会の「心の花」などがありました。

それぞれが独自の理念のもとに独自の活動を行っていました。森鴎外が、それぞれを接近させるべく自宅に招待し歌会を催すことにしたのが、鴎外自宅の名前にちなんで「観潮楼歌会」。新詩社から寛・万里・白秋・勇・啄木・根岸派からは左千夫・長塚節・斎藤茂吉・古泉千樫竹柏会の信綱 。1907年から 3年ほど毎月第一土曜の夜に開かれ、白秋の名歌「春の鳥な鳴きそ鳴きそ赤々ととの面の艸に日の入る夕」はこの歌会に提出されたものです。

1908年 1月、明星にとって、予想外の大事件が起きました。寛と若手歌人の間の感情のもつれから、白秋・正雄・勇などがこぞって新詩社を脱退したのです。以降、明星の勢いは失速し、翌 11月に、満百号をもってその歴史に終止符を打つことになりました。その百号には、脱退した勇・正雄・白秋も寄稿して、寛は「わが雛はみな鳥となり飛び去りぬうつろの籠のさびしきかなや」と心情を詠んでいます。

新詩社脱退組は、1908年12月「パンの会」を始めました。PANはギリシャの牧羊神で、音楽と踊りを好むその半獣神はパニック(恐慌)の語源ともなっており、世紀末のベルリンに同名の文芸運動があったことにちなんだものです。若手の文学者と美術家が集まってヨーロッパの新しい傾向や日本の新芸術について語り合うのが目的でありました。

新詩社脱退組を中心に、美術雑誌「方寸」に拠る石井柏亭・森田恒友・山本鼎らが加わり、明治末期の文画檀に疾風を巻き起こした。例会は観潮楼歌会の日を避け、毎月第二土曜の夕刻に、まだ江戸情緒の名残をとどめる隅田川ぞいのレストランなどで開かれ、会では舶来のウィスキーやビールがふるまわれました。

講義中の北原邦雄講師

会を重ねるごとに参会者がふくらみ、荻原守衛、田中松太郎、倉田白羊、木村壮八などの芸術家、演劇界からは小山内薫、市川左団次、市川猿之助ら、さらに文学界からは大御所の上田敏、蒲原有明、与謝野寛、そして新帰朝組の高村光太郎、永井荷風が加わっています。宴たけなわになると、会歌のようにして白秋の小唄、「空に真赤な雲の色玻璃に真赤な酒の色なんでこの身が悲しかろ空に真赤な雲の色」がラッパ節のメロディにのせて合唱されました。

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第二詩集「思ひ出」
白秋の処女詩集「邪宗門」は1909年 3月の刊行でした。自らが創造した不可思議國に異国情緒を漂わせて、まさに新浪漫主義の所産というほかはないものでありました。この「邪宗門」の装丁がまた人目を引くもので、石井柏亭の手になり赤と金を基調に、本の天井には金をほどこした天金仕立てであり、ペーパーナイフで切りながら読むフランス綴じという豪華本でした。が、刊行の年の暮には生家が破産し、そのため、家族全員が郷里柳河を棄て順次上京してきた。私生活に暗い影が忍び寄ってくるさなか、第二詩集「思ひ出」が1911年6月刊行されました。

「パンの会」の仲間たちはその詩風の清新さに目をみはり、「われわれはこれを日本文壇の一大事件と目して、神田錦町のあるレストランに盛大な「思ひ出の会」を催し」でいる。この会は文壇における初めての出版記念会といわれ、京都から上京してきた上田敏はスピーチで最大級の賛辞をのべた。白秋の詩檀への輝かしいデビューは世にまれなものでした。

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「桐の花事件」
その10ケ月ほど後にその光栄も失墜するような事件が起きる。隣家の新聞記者松下長平の夫人俊子と白秋が雇っていた老女三田ひろが知合い往来しているうちに、白秋との間に恋愛感情が芽生え、1912年7月、長平から姦通罪で告訴されたからであります。前年の「文章世界」のアンケート投票の詩人の部で一位に推された人気絶頂の中での告訴であり、白秋・俊子ともども二週間未決監に拘留され、それが読売新聞に大きく報道されました。
拘留中のことは処女歌集「桐の花」に載せられているので、この事件のことを後年、「桐の花事件」と呼ばれるようになりました。
君と見て一期の別れする時もダリアは紅しダリアは紅しほか

刑法旧規定第183条(姦通)1947年削除
(1)有夫ノ婦姦通シタルトキハ2年以下ノ懲役ニ処ス其相姦シタル者、亦同シ
(2)前項ノ罪ハ本夫ノ告訴ヲ待テ之ヲ論ス 但本夫姦通ヲ従容シタルトキハ告訴ノ効ナシ

「浮気は男の甲斐性との言葉で代表される。妻だけ貞操義務を科し、夫は全く自由放題という日本の男尊女卑の伝統的道徳の中、事件は、7月6日付けの読売新聞で大きく報道され、世の烈しい非難を受け、白秋の名声はひと夜のうちに地に落ち、罪の自意識で奈落の苦しみを白秋は味わったのであります。

講義中の部屋の様子

ひとり志賀直哉は白秋に励ましのふみを送るが、多くの人は、白秋と一定の距離をおくようになりました。白秋は、同月16日東京地裁検事局により起訴が提起されるが、明治天皇重体になったとの発表が宮内省からあった同月20日、弟鉄雄の奔走によって保釈され、のち300円(鉄雄が用意)で示談が成立、告訴が取り下げられ、8月10日公判で公訴棄却 放免となりました。

そもそも、松下長平と俊子の夫婦関係は当時破綻状態にあり、ハーフの妾とも同居していた。長平ば俊子に離婚を宣告、俊子は実家に帰ることを余儀なくされるが、帰途の途中、俊子が白秋に会い、このとき初めて俊子と白秋は結ばれる。俊子と白秋の関係を知った長平は、俊子に離婚宣告したにも関わらず、法律的にまだ離婚が成立していないとの理由で、嫉妬からか、白秋の名声を利用した金銭目的から白秋を告訴したのでした。

この実相は、最近発見された白秋の未発表小説と俊子が福島俊子の名前で「中央公論」に載せた小説、自分の体験をのせたことからもこのことが明らかであります。
その後、白秋は、郷里の生家が破産、一家が白秋を頼って上京するなど苦難が重なりました。白秋は、離婚が成立しその後横浜で一人住まいしていた俊子と再会、結婚。そして一時三崎の城ケ島に移り住む。

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「城ケ島の雨」
「城ケ島の雨」はこの「桐の花事件」の傷がまだ癒えぬうち、1913年10月28日に作られました。同年10月30日、島村抱月が主宰する芸術座が日本の歌曲の質を高めようと、第一回音楽会を数寄屋橋の有楽座で開催する計画を立て、作詞を白秋に依頼し、作曲を音楽学校出で当時市立一中の教師であった梁田貞に依頼することとしたのです。

しかし、貧乏はともかく、精神状態がうつ病かパニック症候群にかかっているようでは詩作など覚束ない。締め切りがせまっていくが、一向に想いが纏まらない。ある日思いあぐねた白秋は自宅のある見桃寺から向ケ崎に出て対岸の城ケ島をそこはかとなく見ていると、木々の燻んで緑に晩秋の雨が煙って、絶妙な色合いにみえる。まさにワビ・サビの極致とも見えた。

<利休鼠みたいな色だなあ
>その途端、
<そうだ
色々考えても仕方ない、利休鼠だ
今、一番身近な城ケ島を歌にすればいいのだ
>かくして三崎の舟

歌「城ケ島の雨」は出来上がり、東京から催促にきた岩崎雅道に渡された。音楽会開催まであと二日しかない、岩崎氏から詩を渡された梁田貞は、やはり天才であった。一日にして、この名曲を作りあげ、大正2年10月30日数寄屋橋の有楽座で、梁田貞自身のテノールにより披露されました。その後、彼の札幌中の後輩奥田良三がこの「城ケ島の雨」を重要なレパートリにしました。

白秋は「休」の字を忌み字として「久」を当てています。
さて、「利休鼠」は淡い鼠色かかった利休色で、その濃い色が「濃利休鼠」。緑みを帯びた茶色が「利休茶」、緑みの壁土のような色が「利休生壁」で、他に「利休白茶」「藍利休」「錆利休」などの色名が残されている。

色彩のほか、「利休好み」として道具や植物に「利休」がついたものが多数あります。例えば、「利休下駄」、「利休箸」、「利休小紋」、「利休信楽」、「利休箪笥」、「利休蔦」、「利休梅」「利休花菱」「利休藤」「利休牡丹」、「利休髷」などなど。
第一話終わり



文責:北原邦雄
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:和田節子


本文はここまでです


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