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平成23年7月1日 神田雑学大学定例講座NO556 

白秋余話2、講師 北原邦雄



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画鋲
1.故郷を離れ東京へ
2.北原白秋の短歌
3.北原講師のコメント
4.妻と離別
5.二度目の結婚
6.思わぬ不祥事
7.三度目の結婚
8.CD演奏(歌手 美空ひばり)
9.どの作曲家が、何曲作ったか。
10.山田耕作との出会い
11.講師北原邦雄による名詩選



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北原邦雄講師1.故郷を離れ東京へ
4 月25 日処女歌集「桐の花」を、東雲堂書店より刊行。自装で、挿絵も自分で描く。この頃、俊子と再会、5月には同居しました。

一家をあげて(前年1月、母と妹いえ、7月、弟義雄(私の父正雄も)冬、父も上京(父母とも、その後再び故郷の土を踏むことはなかった)三崎町向ケ崎の異人館に移住、白秋は俊子と二人でその離れに住みました。

父と弟鉄雄は魚類仲買業を営み、烏賊を主として三崎から日本橋の魚河岸の問屋に運んだ、約半年で事業に失敗。一家は帰京、麻布に転居。大きな家に住み、慶応の大学生相手に下宿業を始めました。

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2.北原白秋の短歌

(1) 鳥な鳴き鳴きそあかあかと外の面の草に日の入る夕
(2) かなしげに春の小鳥も啼き過ぎぬ赤きセエリーを君と鳴らさむ
(3) 仏蘭西のみやび少女がさしかざす勿忘草の空いろの花
(4) 君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ
(5) 廃れたる園に踏み入りたんぽぽのしろきを踏めば春たけにける
(6) かなしきは人間のみち牢獄みち馬車の軋みてゆく礫道
(7) 編笠をすこしかたむけよき君はなお紅き花に見入るなりけり
(8) 君と見て一期の別れする時もダリアは紅しダリアは紅し
(9) 寂しさに秋成が書読みさして庭に出でたり白菊の花
(10) しみじみと海に雨ふり澪の雨利休鼠となりてけるかも
(11) 垂乳根の父母ゆゑにうつしみの命とたのむ妻を我が離る
(12) 鞠もちて遊ぶ子供を鞠もたぬ子供恍るる山ざくら花
(13) 白南風の光葉の野薔薇過ぎにけりかはづのこゑも田にしめりつつ
(14) 行く水の目にもとどまらぬ青水沫鶺鴒の尾は触れにたりけり
(15) 眼を病めば起居をぐらし冬合歓の日ざしあたれる片枝のみ見ゆ

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3.北原講師のコメント
「北原白秋の短歌」にあります(1)は国語の教科書にのったことのある有名な歌で、「北原白秋名詩選」の「春の鳥」を合わせてご覧ください。(6)(7)(8)は未決で入獄していたときの歌です。また、「野晒」「他ト我」「巡礼」(白金之独楽)でその心境を詠んでいます。

歌(9)は、三崎の見桃寺で詠んだもの、見桃寺の歌碑として白秋生前(昭和16年11月2日)に建立した唯一のもので、除幕式に白秋は参列しています。この丁度一年後の昭和17年11月2日に死去しました。秋成の書とは上田秋成の雨月物語を指しています。
(10)は「利休鼠の雨」と同時の作品で雲母(キララ)集にのっています。
(11)は俊子と離別した時の歌「雀の卵」別離鈔にあり、その序に

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4.妻と離別
「大正3年6月、我未だ絶海の離島小笠原にあり、妻は曩に一人家に帰り、すでに父母とよろしからず。7月我更に父母の許に帰り、またわが妻とよろしからず。我は貧し、貧しけれども、我をしてかく貧しからしめしは誰ぞ。而も世を棄て名を棄て、更に三界を流浪せしめしは誰ぞ。我もとより貧しけれど天命を知る。我が性玉の如し。

我これ畢竟詩歌三昧の徒、清貧もとより足る。我は醒め、妻は未だ痴情の恋に狂ふ。我は心より畏れ、妻は心より淫る。我父母の為に泣き、妻はわが父母を譏る。行道念々、我高きにのぼらむと欲すれども妻は蒼穹の遥かなるを知らず。我深く涙垂るれども妻は地上の悲しみを知らず。我は久遠の真理をたづね、妻は現世の虚栄に奔る。
我深く妻を憫めども妻の為に道を棄て、親を棄て、己を棄つる能はず。真実二途なし。乃ち心を決して相別る」

大正3年8月、「離別状」を書き俊子と離別する。その後の彼女の足取りは、渡辺という医師の後妻に成り、のち未亡人、お茶を教えながら余生をすごしたらしい。

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5.二度目の結婚

大正5年5 月、江口章子(あきこ)と結婚、千葉県東葛飾郡真間(現市川市真間)の亀井院に寄寓しました。この章子は、白秋にとって二度目の妻で、大正9年6 月まで万余年間、苦楽をともにしました。詩人生田春月の夫人花世の紹介で知り合う。最初の結婚に破れてのち(双方ともバツイチ)平塚雷鳥を頼って上京(大分県出身)、青踏社にしばらく身をよせているうち、花世と顔見知りになり、それから、白秋に紹介されたのでした。章子はもともと文学的才能があり、詩作を通じて白秋に対する憧れを抱いていたのです。

「私が今の妻と葛飾へ移って、新鮮な田園の肥料のにおいに羽ばたく雀の声を聞くたびに、思い出されるのは、あの麻布の黄臭い紙火の煙に咽んで啼いた雀の声でした。親達の貧しい生活の有様でした。だか、葛飾の私達の生活も決して貧しくないとは云えませんでした。いや、ずっと貧しかったかも知れません。

『米櫃に米の幽かに音するは白玉のごと果敢なかりけり』
こういう歌がどうしょうもなく寂しい泣き笑いの底からできて来ます頃には、時候も日に日に晩秋の物の哀れとなって来ました。私は貧しくも堪えていました。私の妻も沁々と堪えていました。然し私達の小犬は聞き分けがありません。いつも自分のお皿はすべすべと嘗め尽して了いました。一色に枯れはてた庭にその犬の皿だけが真白に光っている寂しさと云うものはありません。古池の傍の枯れ枯れの柳の向うには矢っ張り真っ白な不二の山が見え、水田には寒々と薄い氷の張る冬の日も次第に近づいて来ますと、餓えきった小犬は雀の啼き声にでも脅かされて、不意に、風に靡く枯木の柳を見ては吠え立てたり、追っかけたりしました。

雀もです。時折には雀までがしょぼんと台所の米櫃の上に留まっていました。長い事です。然しそれが何の張り合いになりましょう。悲しいかな、その米櫃の中にも、雀の欲しがる何一つ、今はもう入っていなかったものです。白い霰の玉のような残り米を白い茶碗の底でこすって、まだ幾粒かを妻がすくっている頃はいいのです。全く無くなって了っていた時はたまりません。私は雀が可哀相でなりませんでした。私は妻が可哀相でなりませんでした。私は私自身が笑止でなりませんでした。」

その後、小岩を経て、章子の結核の療養のため、暖かい小田原に移り住んだ。大正8年8月、伝肇寺東側に、藁壁の「木兎の家」と方丈風の書斎を竹林の中に建てた。
物心ともにようやく恵まれて、翌大正9年6月には、三階建ての洋館を新築する運びになったが、その地鎮祭当日、思わぬ不祥事がもちあがりました。

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6.思わぬ不祥事
派手好みの白秋とそれに輪をかけて章子は派手好きだったので、地鎮祭と一緒に園遊会もやることになった。新橋・柳橋から芸者もくるという前評判が地元の新聞を賑わした。よしず張りの小屋や舞台がこしらえられ、みみずくの絵とローマ字をあしらった白秋考案の法被が、紺色鮮やかに染め上げられ出入りの職人に着せられた。

東京から駆けつけた弟鉄雄と義弟山本鼎は、この有様を見ると、唖然とし、かつ激怒した。采配をふるっているのが章子だと知ると、鉄雄等は章子を物陰に呼んで、その軽はずみを責めた。居たたまれなくなった章子は、誰かが帰京用に呼んだタクシーに飛び乗ったところ、新聞記者の池田某が送ってあげましょうと同乗してきた。考えた末、選んだ行く先は、谷崎潤一郎宅であった。谷崎邸にひそんだことにより、白秋は離縁状を送りつけ、谷崎、白秋の関係は一時絶交状態になってしまった。

熱心に話を聞いている受講生


地鎮祭が済んだ後、新館建築の工事は予定通りすすめられた。北原家名物の婆や(三田ひろ)が呼び寄せれて主婦代り一切を取り仕切ることになりました。そしてその数カ月後、おなじ小田原に住む美術評論家河野桐谷の夫人喜久子によって、新しい縁談がすすめられていました。当の相手佐藤菊子は、喜久子と同じ大分市の出身で幼稚園から小学校まで同級という幼馴染でありました。

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7.三度目の結婚
菊子の家は先祖代々奈良屋という屋号の時計商で、祖父の代には大阪や神戸など瀬戸内海沿岸の諸港と輸入貿易品を扱い、明治初年のころからは特に時計や宝石の商いを営むようになっていました。文明開化の新時代にはいると、いち早く自転車を輸入して、そのほうの店舗を開設するという尖端ぶりだった。大分第一高女を出ると奈良女高師に学んだ。文学的というよりはむしろ思想的宗教的傾向が強く、教育学や心理学に造詣の深い、落ち着いた性格の持ち主でありました。

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講義中の北原講師8.CD演奏(歌手 美空ひばり)
白秋の童謡・詩・民謡・各団体歌(校歌・社歌)などに、どんな作曲家が係わったを調べてみました。児童文学者で童謡研究家の藤田圭雄(タマオ)氏がその著書で「自分一人の詩に、八百にもおよぶ曲をもつ詩人は、世界中で白秋ひとりではないか・・・・・」と述べています。この方の作った一覧表を基礎に、私なりに、色々な資料から1167 の詩・童謡他に、1727 曲を数え上げました。 「からたちの花」を聴く

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9.どの作曲家が、何曲作ったか。

トップ20 を示しましょう。
【1】山田耕筰342曲
【2】中山晋平155曲
【3】成田為三(なりたためぞう) 105曲「浜辺の歌」
【4】弘田竜太郎79曲「鯉のぼり・靴が鳴る」
【5】多田武彦70曲柳川風物詩など合唱曲
【6】草川信67曲揺り篭のうた「どこかで春」
【7】藤井清水(ふじいきよみ)66曲「足柄山」
【8】町田嘉章40 曲
【9】宮原禎次30曲
【10】小松耕輔28曲
【11】団伊玖麿28曲
【12】加藤邦宏24曲
【13】平井康三郎23曲
【14】今川節23曲
【15】清瀬保二21曲
【16】藤井凡大20曲
【17】信時潔18曲
【18】本居長世18曲
【19】大中恩16曲
【20】杉浦正嘉15曲
14曲3人、12曲2人、11曲2人、10曲2人、9曲3人、8曲2人、7曲4人、6曲5人、5曲11人、4曲17人、3曲16人、2曲26人、1曲のみは140人(古関裕而さんもその一人【平右衛門】)

また、一つの詩に複数の作曲がありますが、多い順でいうと
1、落葉松【21曲】
2、紺屋のおろく【11曲】
3、かやの実【10曲】
4、海雀【9曲】
5、海の向う【8 曲】
6、お月夜【8曲】
7、片恋【8曲】
8、こんこん小山の【8曲】
9、城ケ島の雨【8曲】
10、薔薇【8曲】以上

よく知られている歌はどうでしょうか
(1) からたちの花「2」山田耕筰(芝祐久)
(2) この道「1」山田耕筰
(3) 砂山「4」中山晋平山田耕筰(成田為三・宮原禎次)
(4) ペチカ「3」山田耕筰(今川節・三善晃)
(5) まちぼうけ「1」山田耕筰
(6) あわて床屋「4」山田耕筰(石川養拙・成田為三・杵屋佐吉)
(7) アメフリ「1」中山晋平
(8) 揺籠のうた「3」草川信(中山晋平・芝祐久)
(9) ちゃきり節「2」町田嘉章(小林秀雄)
(10) 五十音「3」成田為三⇒下総皖一(佐々木すぐる)

山田耕筰との342 曲のうち、一般的でない団体歌の代表的なものは市歌では八王子市歌・岡崎市歌・福島市歌・下関市歌・水戸市歌。社歌などでは、白洋舎社歌、丸善社歌、福助足袋社歌、電通社歌、玉屋店歌、ブリストンタイヤ行進曲、伊藤万応援歌、カルピスCM ソング。

校歌では、大学は駒澤大学・大正大学・同志社大学・関西学院大学・芝浦工大。高等学校では、野田高校(千葉)、東洋英和女学院・湘南高校・身延高校。豊中高校、延岡高校学園では明星学園・宝仙学園・四天王寺学園・和光学園

応援歌では、日本大学・駒澤大学・東京大学白秋作詞、耕筰作曲の作品数の多さと、作品の「命」の長さは、白秋と耕筰の結びつけの特異さを物語っています。
耕筰が初めて親しくなった同時代の詩人は、三木露風でありました。

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北原講師10.山田耕作との出会い
明治43年、ドイツ留学中の耕筰は露風の詩集「廃園」を読み、たちまちその魅力の虜となり、「嘆」「風ぞゆく」「異国」「燕」「わがふるさと」などの一連の詩を作曲した。我が国における初めての「芸術歌曲」の誕生でした。

その後、耕筰は露風と文通して交流を深め、大正3年1月、四年ぶりにヨーロッパから帰京した時には、露風が駅頭に出迎えたほど、二人は親密になっていました。帰国の前、耕筰は、露風中心の結社「未来社」の同人ともなっています。白秋は明治39年の年頭、回覧雑誌「聚雲(じゅうん)」の会で露風とは知合っていました。

親しくなったのは、白秋が芸術雑誌「朱欒(ザンボア)」を創刊、編集していた明治44年ごろからで、翌45年6月には、白秋、露風の二人だけの「朱欒」特集号、詩集「勿忘草」を刊行しています。

したがって、耕筰は露風から白秋については聞いていたに違いないが、耕筰がじかに白秋に出会うには、帰国後もなお7,8年を要しました。耕筰の白秋追悼文「白秋を憶う」(週刊朝日、昭和18年11月)によると、白秋を耕筰に紹介したのは鈴木三重吉で、その正確な年月日は不詳である。大正10年か11 年と推測される。それ以前の二人の交流の痕跡は資料では確認できないからです。

白秋が「赤い鳥」に発表していた「りすりす小栗鼠」をはじめとする初期の創作童謡は、もっぱら東京音楽学校(現、東京芸術大学)での耕筰の後輩、成田為三によって作曲され、曲譜は「赤い鳥」に発表されています。耕筰が初めて「赤い鳥」に曲譜を発表したのは大正9年2月で、西条八十作の「山の母」でした。耕筰と白秋との結びつきは、童謡ではなく、第二詩集「思ひ出」の「柳河風俗詩」に属する「曼珠沙華」「気まぐれ」「ノスカイ」「アイヤンの歌」「かきつばた」の五つの抒情詩の作曲に始まる。

「白秋氏の詩は曲をつけない前に、自然の曲がついて居る。なまじ作曲して、かへって、その美しいリズムを壊しはしまいかと思って永い間苦しんだのです。それが今度素晴らしい感興が湧いて来て作曲したので、白秋氏の前で奏して見た処、白秋氏も特に喜んで下さったのは、作曲者としの非常な喜びです。」「童謡作家としての憾みは、真にその童謡を理解してくれる挿絵画家や作曲家のほとんどない事である。ことにすぐれた作曲家との提携が望ましい。さうした人が私に一人ぐらい来てくれないか、ほんとに私を知ってくれる人が。」大正10年7月、「芸術自由教育」でのべています。

この辛口の言で、大正8年から大正10年前半にかけて発表された成田為三作曲の白秋童謡「栗鼠栗鼠小栗鼠」「赤い鳥小鳥」「雨」などに、白秋が不満足であったのではないか。自作をもっと良く理解しうる作曲家を待望していた白秋の眼前に、「思い出」の詩五篇の曲譜を持って忽然と現れたのが耕筰でした。大正11年9月、白秋・耕筰が共に主幹をつとめる雑誌「詩と音楽」が創刊されました。これにより、白秋と耕筰の絆は揺るがず、その後、「からたちの花」「ペチカ」「かへろかへろと」「この道」など、二人の組み合わせによる多くの名歌曲、名童謡が生まれました。

従来、白秋の小田原時代後期にすぐれた創作童謡が生まれた背景として、三度目の妻菊子との結婚による温かい家庭生活や二児を得て父親の喜びを味わったことが挙げられてきました。さらに、自作詩のよき理解者、作曲家山田耕筰との出会いも、白秋の創作意欲をそそり、名童謡の誕生に寄与したといわねばなりません。

11.講師北原邦雄による名詩選
「酒の黴」郷里の酒造りの父と自分を
「紅き実」
「かるい背広」
「空に真赤な」はラッパ節の曲で「パンの会」の愛唱歌
「帰去来」柳川に立派な歌碑があります。
「片恋」
「落葉松」軽井沢星野温泉入口に詩碑があります。
「薔薇二曲」
「巡礼」山本有三「真実一路」の巻頭に
「さすらいの歌」島村抱月芸術座の「生ける屍」の劇中歌
他に「今度生まれたら」「にくいあん畜生」
翌年の「カルメン」には「煙草のめのめ」「酒場の歌」あり、
「水上」
「野晒」と「他ト我」は「桐の花事件」関連
「春の鳥」和歌のほうの一番目関連

劇中歌ならぬ作中歌をひとつ
尾崎士郎「ホーデン侍従」1949年発行
内容ペニス大公と二人のホーデン侍従が女遍歴の旅をするという「話」の作中歌。

ペニス傘もちホーデンつれて
入るぞヴァギナのふるさとへ
これに白秋が続けて
来たかヴァギナのこのふるさとへ
ペニス傘とれ夜は長い

白秋 余話 2  終わり



文責:北原邦雄
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:和田節子


本文はここまでです


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