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平成23年7月2日 神田雑学大学定例講座N0557


千代田図書館トークイベント 戦前期の出版検閲と法制度


目次
イラスト画像の画像
メニューの先頭です 講師プロフィール
司会者より
はじめに
1.納本・検閲に関する出版法規
(1)異なる準拠法

(2)出版取締基本条項
(3)その他の補完法規
(4)戦時体制下の関連法規
2.検閲機構としての内務省警保局図書課
(1)検閲の事務組織及び権限の移譲

(2)警保局図書課の人員配置
(3)検閲事務の実情
3.検閲による処分及び処置
(1)販売頒布禁止
(2)分割還付
(3)削除序文
(4)次版改訂・次版削除
(5)禁止出版物の差押



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プロフィール

 
浅岡邦雄講師 1947年生まれ。東京都出身。
立教大学文学部日本文学科卒業。
現在、中京大学文学部言語表現学科准教授。近代出版史専攻。
日本出版学会理事、日本マス・コミュニケーション学会会員。
主要著書
『明治期「新式貸本屋」目録の研究』(共編著、作品社、2010年)
『〈著者〉の出版史―権利と報酬をめぐる近代』(森話社、2009年)
※第31回日本出版学会賞受賞
『日本出版関係書目 1868−1996』(共編、日本エディタースクール出版部、2003年)
※第25回日本出版学会賞特別賞受賞 

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司会者千代田図書館企画河合さんより

 本日の講演は「戦前期の出版検閲と法制度」と題して、講師に浅岡邦雄先生をお迎えしております。
浅岡先生は昭和43年に千代田区が発行した『千代田図書館80年史』を手がかりに、平成16年頃より内務省委託本に関する専門的な調査を始められて、それ以降当館の内務省委託本に関する調査や企画展示にご協力を頂いております。 司会千代田図書館企画河合さん
今回は昭和初期の出版検閲に関わる法律の制度や、検閲をおこなった内務省図書課に焦点を当てて、出版検閲の実態についてお話していただきます。

 この講演は3月11日に開催する予定で内務省委託本に関連する3回連続講演の最終回となる予定でした。大震災とそれに続く開館時間の短縮などにより延期となっていましたが、ようやく本日開催することが出来ました。
ちなみに連続講演会の第1回目は安野一之先生「いつ、誰が、どのように検閲をおこなったのか」(2011年1月)、第2回目は大滝則忠先生の「戦前期の発禁本のゆくえ」(2011年2月)でした。
では本企画の最後を飾る浅岡先生の講演を始めていただきます。浅岡先生、宜しくお願いいたします。
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はじめに

 中京大学の浅岡です。
今日お話しいたします事は、「戦前期の出版検閲と法制度」という内容ですが、その前に、現在どのくらい戦前の出版検閲について研究されているかといいますと、実はそれほど研究蓄積がたくさんあるわけではありません。
ですから「まだこんなことも分からないのか」という点が多々あろうかと思います。今日は、これまで調査研究してきて明らかになったところをお話することになります。

 お話しする内容は、関東大震災以降、昭和12年あたりまでの時期を対象といたします。
どうしてそうした時期に限定したかと言いますと、ひとつは、戦前の検閲事務を担当していた内務省が、関東大震災によって壊滅したことによります。
そのため、それまであった内務省の一次資料が全て消滅してしまっている、当時の部内事情を知るための資料が無いのです。それから終わりの方を昭和12年あたりと限定しましたのは、昭和10年以降だんだん戦時体制下になり、特に昭和13年第一次近衛内閣の時、国家総動員法というなんでもありのような法律が出来ました。これは総力戦遂行のために国家のすべての人的資源、物的資源を政府が統制・運用出来るということを規定した法律です。
当時、企画院の革新官僚といわれた人達が主導して作ったものなのですが、特に第20条で、勅令によって新聞紙その他の出版物の掲載を制限禁止する権限を政府に与える、という条項があって、実は昭和13年以降、出版、言論の規制に関わる法律がいろいろと公布されます。
つまり、それまでの検閲体制と事情が変わっていきますので、これはまた別個のテーマとして扱わないと難しいので、今日は主として、関東大震災以降、昭和12年あたりまでの話をいたします。

 それともうひとつ、出版検閲と言うことになれば、新聞、雑誌、書籍、その他のメディアがあるわけですが、こちらの千代田図書館にあります内務省委託本のほとんどが図書ですので、図書を中心として、必要に応じて新聞・雑誌にも触れるという形で進めていきます。

 話の内容は、大きく分けると三つになります。ひとつは、出版検閲に関わる基本法規について概略を話します。
その次に、検閲業務を行った担当部局、これは内務省警保局図書課ですが、そこがどういう人員配置で、どういうシステムで検閲をおこなっていたのかということを、幾つかの事例を挙げながら説明いたします。
そして三つ目に、検閲によって何らかの処分を受けるものがありますが、実際にどういう処分がおこなわれ、その後どういう処置がなされたのか、残っている資料をもとに説明していきます。

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1.納本・検閲に関する出版法規
(1)異なる準拠法

  日本における出版法制は、早い時期からいくつかの法規が作られています。
明治2年に、すでに新聞と図書に関する条例が作られていまして、その後何度か改正がおこなわれますが、明治の初期から新聞を対象にするものと図書を対象にするものと二つに分かれていたのです。
メディアを規制するこの種の法律は、昭和20年9月に効力を停止させられ、昭和24年に廃法になりますけれど、それまでの間、変わることなく二つの準拠法によってメディアは規制されてきました。実は内務省で、この二つある法律を一本化しようという動きが大正末から昭和初期にかけてあり、法案が議会で審議されたのですが、結局通過しませんでした。
そのため明治初年から昭和20年まで、異なる二つの準拠法によって規制されていたのです。

 今日お話する時期に適用されていた基本法規は、次の二つになります。

「出版法」(明治26年4月公布)・・・・書籍、その他(ビラ・パンフレット等を含む)
「新聞紙法」(明治42年5月公布)・・・新聞・雑誌(一部雑誌は出版法でも可)

 基本的に、新聞・雑誌は新聞紙法によって規制されるのですが、一部の雑誌は出版法でも刊行することができるとされました。
一部の雑誌とは、学術、技芸、統計、広告を掲載する雑誌と定められており、逆に言えば、政治、時事を論じる雑誌はそれに該当しないわけです。

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(2)出版取締基本条項

 では、それぞれの基本法規の内容をみてみましょう。
 出版法第3条に「文書図画ヲ出版スルトキハ発行ノ日ヨリ到達スヘキ日数ヲ除キ3日前ニ製本2部ヲ添ヘ内務省ニ届出ヘシ」とあります。これは納本について規定している条項です。
「到達スヘキ日数ヲ除キ3日前」というのは、発行所から内務省に届く期間を除いて、発行の3日前内務省に届くように納本しろということで、「製本2部ヲ添ヘ」とは出版届に製本2部を添えて届けるということです。
講座風景それまで、出版届1通、製本2部であったのですが、昭和9年に出版法の一部改正があって、それ以降は出版届が2通、製本2部と改まりました。

第9条、これは 「書簡、通信、報告、社則、塾則、引札、諸芸ノ番付諸種ノ用紙証書及写真ハ第3条第6条第7条第8条ニ拠ルヲ要セス但シ第16条第17条第18条第19条第21条第26条第27条ニ触ルル者ハ此ノ法律ニ依テ処分ス」ですが、ここにあがる印刷物は、納本の義務もなく、通常図書に義務付けられている奥付の印刷者、発行者の住所、氏名等も印刷しなくてよいということを定めたものです。
但し、第16条以下、例えば第19条にあるような「安寧秩序ヲ妨害シ又ハ風俗ヲ壊乱スルモノト認ムル」ものは処分されることになります。
それから第19条、これが俗に「発禁」と呼ばれる処分の根拠です。後で申し上げますが、私はなるべく「発禁」という言い方はしないようにしています。出来るだけ「発売頒布禁止」あるいは「発売禁止」「禁止処分」という言い方をいたします。

「安寧秩序ヲ妨害シ又ハ風俗ヲ壊乱スルモノト認ムル文書図画ヲ出版シタルトキハ内務大臣ニ於テ其ノ発売頒布ヲ禁シ其ノ刻版及印本ヲ差押フルコトヲ得」とあり、この禁止処分は内務大臣の専権事項でした。
あとで、一部その権限を移譲するという話をいたします。
そして第20条、これは外国から入って来る出版物、印刷物に関するもので、第19条と同じように「安寧秩序ヲ妨害シ又ハ風俗ヲ壊乱スルモノト認ムル」ものは内務大臣の権限で発売頒布禁止、差押をすることが出来るというものです。
出版法における納本・検閲に関する条項は、いまあげたものが主たるものです。

 そして新聞紙法ですが、これは出版法に比べてだいぶ遅い明治42年に公布されます。
明治20年の新聞紙条例が明治30年に大改正され、新聞・雑誌は明治30年から明治42年の間は、比較的規制が緩やかな時代だったのです。
明治42年の新聞紙法では第11条に納本を義務付けた条項があります。
「新聞紙ハ発行ト同時ニ内務省二2部、管轄地方官庁、地方裁判所検事局及区裁判所検事局ニ各1部ヲ納ムヘシ」とあり、出版法の書籍は2部納本すればよいのですが、新聞紙法ではそれぞれの官庁に全部で5部納本することになります。
それから第12条に保証金を定めている条項があります。地域によって保証金の額が異なります。新聞・雑誌に保証金を義務付けたのは、明治16年の新聞紙条例の時で、結構昔に遡ります。

1 東京市、大阪市及其ノ市外三里以内ノ地ニ於テハ二千円
2 人口七万以上ノ市又ハ区及其ノ市又ハ区外一里以内ノ地ニ於テハ千円
3 其ノ他ノ地方ニ於テハ五百円

「一箇月3回以下発行スルモノニ在リテハ其ノ半額トス」とあるように、雑誌は新聞の半額となり、政治・時事を論じない学術雑誌などは保証金を払う必要はありません。

 そして第23条、これが出版法でいう第19条に当たる「発売頒布禁止」と差し押さえを定めている条項です。
「内務大臣ハ新聞紙掲載ノ事項ニシテ安寧秩序ヲ紊シ又ハ風俗ヲ害スルモノト認ムルトキハ其ノ発売及頒布ヲ禁止シ必要ノ場合ニ於テハ之ヲ差押フルコトヲ得」とあります。熱演する講師浅岡先生
第24条も出版法の第20条と同じように、海外から日本に入って来る、新聞、雑誌についての規定です。そして最後の第43条、先程「発禁」という言葉は使わないと言いましたが、それと関わる条項です。
「第40条乃至42条ニ依リ処罰スル場合ニ於テ裁判所ハ其ノ新聞紙ノ発行ヲ禁止スルコトヲ得」とありますが、これは「発行禁止」を定めた条項です。出版法の第19条、あるいは新聞紙法の第23条の発売頒布を禁ずるというのとは違うのです。「発売禁止」と「発行禁止」というのは、法令上ではまったく別の概念なのです。
出版法の第19条、新聞紙法の第23条の発売頒布を禁ずるというのは内務大臣の命令ですから、行政処分なのですが、新聞紙法の第43条は裁判所の決定によりますから、これは司法処分になります。

 ここで定めている「発行禁止」は、それ以降一切発行してはいけないという厳しい処分で、新聞・雑誌の死刑宣告です。「発売頒布禁止」と言うのは、ある特定の号の発売頒布を禁止するのですから、その後の号は発行することは出来るのです。
ですから、「発売禁止」も「発行禁止」も略すと「発禁」となり紛らわしいこと、それから現在書かれている文献の中に、時々この辺を混乱して使用している例があります。
この第43条が適用された最後は、昭和4年8月に『無産者新聞』という新聞がこの処分にあって、それ以降はありません。
『無産者新聞』は共産党の機関紙ですが、そのあと『第二無産者新聞』を非合法で出しますが、頻繁に取締にあっています。
  
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(3)その他の補完法規

 今まで話した二つの基本法を補完する形で、いくつかの法律があります。

○「関税定率法」(明治43年4月公布)

 これはさまざまな輸入品にかかわる関税について定めた法律です。
税関の所管は大蔵省の主税局ですが、この第11条に「左ニ掲クル物品ハ輸入ヲ禁ス」とあり、その3号に「公安又ハ風俗ヲ害スヘキ書籍、図画、彫刻物其ノ他ノ物品」と定められています。

○「郵便法」(明治33年3月公布)

 これは逓信省の所管になりますが、第46条に「郵便禁制品ヲ郵便物トシテ差出シタル者ハ500円以下ノ罰金又ハ科料ニ処シ其ノ物件ヲ没収ス」とあり、「郵便規則」の中にその郵便禁制品と言うものがどういうものか定められています。
それは「公安ヲ妨害シ又ハ風俗ヲ壊乱スヘキ文書、図書其ノ他ノ物件」ということです。

○「治安警察法」(明治33年3月公布)

 これは大正末に公布された有名な「治安維持法」とはまったく別の法律です。
この中の第16条を拡大解釈して処分することもありました。
「街頭其他公衆ノ自由ニ交通スルコトヲ得ル場所ニ於テ文書、図書、詩歌ノ掲示頒布、朗読若ハ放吟又ハ言語形容其ノ他ノ作為ヲ為シ其ノ状況安寧秩序ヲ紊シ若ハ風俗ヲ害スルノ虞アリト認ムルトキハ警察官ニ於テ禁止ヲ命スルコトヲ得」というもので、この条項を適用して出版物を取締ることもあったわけです。

○「不穏文書臨時取締法」(昭和11年6月公布)

 これは公布された年月に注目してほしいのですが、昭和11年2月に2.26事件が起こっています。
その前後に様々な怪文書がたくさん出回りました。そのために新たに作られたもので、わずか全4条の法律です。
 第1条 軍秩ヲ紊乱シ、財界ヲ攪乱シ其ノ他人心ヲ惑乱スル目的ヲ以テ治安ヲ妨害スベキ事項ヲ掲載シタル文書図画ニシテ発行ノ責任者ノ氏名及住所ノ記載ヲ為サズ若ハ虚偽ノ記載ヲ為シ又ハ出版法若ハ新聞紙法ニ依ル納本ヲ為サザルモノヲ出版シタル者又ハ之ヲ頒布シタル者ハ3年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
(第2条以下略)

 このように、基本法以外にもそれを補完する法律があり、更に別の法律を拡大解釈して取締に使うということもおこなわれたのです。


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(4)戦時体制下の関連法規

 今日の話とは直接関わらないのですが、戦時体制下になってくるといろいろな法律が出てきます。
その中で主にメディアの規制に関係するものを挙げてみました。

昭和12年8月14日「軍機保護法」全面改正
昭和13年4月1日「国家総動員法」公布
昭和13年8月12日「新聞用紙供給制限令」公布
昭和14年3月25日「軍用資源秘密保護法」公布
昭和14年4月5日「映画法」公布
昭和16年1月11日「新聞紙等掲載制限令」公布
昭和16年3月7日「国防保安法」公布
昭和16年12月13日「新聞事業令」公布
昭和16年12月19日「言論出版集会結社等臨時取締法」公布
昭和18年2月18日「出版事業令」公布 

 ちなみに一つ具体例を話しますと、昭和14年3月25日公布の軍用資源秘密保護法には、気象管制を定めた条項があります。
つまり天気予報とか気象情報は軍事機密にあたるということで、報道が大きく規制されます。
昭和16年12月8日以降、それまで新聞に載っていた天気予報が一切消えます。それはこの軍用資源秘密保護法によって規制されたわけです。

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2.検閲機構としての内務省警保局図書課
(1)検閲の事務組織及び権限の移譲

 内務省がこうした検閲業務を所管するのは、明治8年からです。
明治8年から明治26年までは、担当部局が何度か変遷しますが、明治26年からは内務省警保局図書課という部署で検閲業務をおこなうようになります。
その後、昭和15年12月に図書課を検閲課と改称し、同時に情報局が作られます。情報局は、陸軍・海軍・外務省・逓信省・内務省の情報関係の担当者がここに出向して、情報の一元化を図った部局です。この情報局の第4部第1課が検閲を担当しましたが、実質は内務省の検閲課から課員が出向しておこなっています。
この情報局の成立には内務省は抵抗したようです。内務省は警察業務、検閲業務を自分のところから手放したくないという意識が強くあったのだろうと思います。

(画像をクリックすると大きな図が出ます)

大手町時代の内務省庁舎と震災で焼けた直後の風景  
 配布資料の図版を見てください。
上段の二つは内務省の庁舎です。左は大手町にあった庁舎です。
右が関東大震災で倒壊した内務省庁舎です。その後新庁舎が出来るのが昭和8年ですが、それまではいろいろな所に分散して業務を行っていたようです。
下の左が昭和8年の秋に完成した内務省の新庁舎、これは霞ケ関に造られました。

昭和8年秋竣工の内務省霞が関新庁舎と玄関ロビー風景
内務省の建物の隣に警視庁があります。右は玄関を入ったロビーです。

(画像をクリックすると大きな図が出ます)

内務省新庁舎一階平面図 それを更に詳しくみられるのが、右の内務省新庁舎の1F平面図です。マル1が玄関です。

 昭和50年10月の『日本古書通信』に、「戦前の納本・検閲」という一文が掲載されています。ちょっと読んでみます。
「私が行ったのは、内務の玄関を入って階段を数段登ってすぐ右に折れて、警視庁の方に向かって廊下を進み、突き当たった左側の図書課の一室」。
これは多分記憶違いで、図面を見ると突き当たった右側でしょう。平面図でマル2が図書課の事務室になります。
図書課長の部屋はふたつある図書課の事務室の真ん中、マル3の部屋ですね。
この平面図で、玄関を入ってまっすぐ行くと裏の入り口に当たるのですが、その手前を右に行くとマル4の検閲事務室があり、そこがおそらく納本の受付になっていたものと思われます。
新聞などは毎日発行されますから、納本の受け付けは、夜間も日曜日もおこなっています。

 さて、次に権限の委譲についてお話します。基本的には検閲は内務大臣の権限で禁止処分をおこなっていたのですが、そうした権限の一部を移譲するということが内務省の訓令によって定められています。
これは、大正7年に内務省から出された訓令で、「春画・春本の類は地方庁に禁止処分、差押の権限を委任する」というもので、対象は1から4まであって、1が春画、2が陰部ヲ露出セル人物画及写真、3が淫本、4が一見明カニ前各号ノ広告又ハ紹介ト認メラルル印刷本となっています。
これらについては一々内務大臣の許可を得ずに、地方庁が見つけ次第禁止処分とし、押収してよろしいというものです。但し1から4のうち、4は2年後には削除されますので、実質的に1から3のものが対象でした。
こうしたものはほとんど非合法で納本などをしないで出されたものですし、いちいち内務省に連絡などしていては時間ばかりかかって、取締が出来なくなるということで発令された訓令です。

 それから東京以外での各地域での新聞・雑誌ですが、先程言いましたように、新聞紙法による新聞・雑誌は内務省への納本だけでなくて、管轄地方官庁にも納本しなければならないわけです。これは東京の場合ですと警視庁ですし、大阪だとか他の府県ですとその府県の警察部に納本することになっていますので、内務省に届くよりも地元の警察の方が先に届くわけです。

 従ってこれらは警察で検閲し、問題がある場合は電話ないしは電報で本省に照会し指示を仰いでいます。禁止処分の権限は各地方長官にはありませんので、内務大臣名で禁止の命令がでるということになります。

 
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(2)警保局図書課の人員配置

  次に、実際に検閲業務をおこなった内務省警保局図書課のお話をいたします。当時の官吏は、いまも同じでしょうが、キャリア組とノンキャリア組とにはっきり分かれておりました。当時の官吏は高等官と判任官に大きく二つに分かれていて、高等官がまた二つ、勅任官と奏任官に分かれていました。高等官はキャリア、判任官以下がノンキャリアと考えていただいて結構です。

 当時の東京帝国大学法学部を卒業して、学業成績あるいは高文試験の成績によってそれぞれ省庁に採用されるわけですけど、内務省は特に優秀な卒業生を採ったと言われています。
内務省に幾つかの局がありますが、主だった局として有名なのは地方局と警保局です。

 内務省では「秀才の地方局」「人物の警保局」と言われていたそうです。
どうして警保局が「人物の警保局」かというと、警保局は全国の警察業務を所管しているわけで、キャリア組は全国の警察に行って若いうちからそれなりの役職に着くわけです。
地方の警察には、生え抜きとか叩き上げとかの年配の職員が大勢いるわけです。
そういう人達を20代のキャリアが上に立って指揮命令する、そうした人心掌握術にたけた人物という意味だと言われています。

 それから、当時のキャリア組の中で言われた言葉に「三丁目一番地」という言葉があったそうです。
これは高等官というのは1等と2等、これが勅任官です。それから高等官3等以下が奏任官です。
先程言いましたように高等官には勅任官と奏任官があり、高等官3等と言うのは奏任官のトップ、つまり勅任官になれるかどうかという手前のところです。
ここでキャリア組の中で、勅任官になれる人となれない人が分かれる、そういうことで「三丁目一番地」という言葉があったそうです。
勅任官は次官、局長クラス、地方で言うと知事、本庁の課長以下が奏任官ということになります。

 そこで図書課長ですが、私は以前、図書課長としてどのくらい在任しているのか、その期間を調べたことがあります。
大正の中頃から昭和15年くらいまでの在任期間を調べました。
長い人も短い人もいるのですが、平均しますと13カ月です。
そこで他の部署へ変わってしまう。ということは,キャリア組にとって図書課長というのは出世の階段のひとつだったのでしょう。
後で名前が出てきますが、土屋正三という人も昭和2年から4年にかけて図書課長ですが、そのあと、どこかの県知事になっています。

 属官までが正規の官吏で、その他に嘱託とか雇とかいう正規の官吏ではない職員もおりました。
これから職員の数を調べた表を説明しますが、これは嘱託とか雇をすべて含む数になります。
嘱託からスタートして、あるいは雇からスタートして後に属官になり、あるいは情報官になった人もいます。
具体的に言いますと佐伯慎一という人物、宮沢賢治を研究している方には、佐伯郁郎というペンネームの方が有名ですが、この人は早稲田の仏文を出た人で、詩集が何冊かあります。
彼は嘱託からスタートしています。
それから前の安野さんのお話しにちょっと出てきた内山鋳之吉、この人も嘱託から属官になり、後には情報官にまでなっています。

 では『内務省警察統計報告』(日本図書センター、1993-1994年)に載っている警保局図書課の人員がどのように変遷していったのかを見てください。
大正13年から昭和12年までの数字です。ただ注意していただきたいのは、ここに上がっている人数のすべてが検閲業務をしていたわけではないということです。

(各年12月現在)
大正13年・25名  大正14年・22名  大正15年・24名
昭和 2年・24名  昭和 3年・61名  昭和 4年・58名 
昭和 5年・55名  昭和 6年・53名  昭和 7年・57名
昭和 8年・70名  昭和 9年・83名  昭和10年・107名
昭和11年・102名  昭和12年・105名
(『内務省警察統計報告』(日本図書センター、1993-1994年)に拠る)

 昭和3年になってそれまでの20名台から61名というふうに職員の数が跳ね上がっていますが、これは昭和3年に警保局にかなりの予算がついたためです。それで属官をふやしたり、『出版警察報』という部内資料を発行したりしています。
そして昭和8年、先程言った新庁舎が出来た年ですが、その時に70名。そして昭和10年に100名を越えています。
しかし、昭和2年までは24名くらいでやっていたわけです。
実はその当時の記事がありまして、これは昭和3年の読売新聞の夕刊です。

「閲覧地獄に検閲係の悲鳴、一人一日200余書の検閲に図書館員いずれも神経病」という記事があります。

 ですから、昭和の初めまでは極めて少人数で検閲をしていたことが分かります。
この記事のなかに、「全てを見ているわけではない」とあって、日々入って来るすべての出版物を検閲することは物理的にとても無理だったと思います。
おそらく何らかの形でより分けてから、チェックしていたのだと思います。

 千代田図書館が所蔵する内務省委託本は基本的に検閲をパスした図書ですが、展示の時にはなるべく検閲コメントのある本を並べますが、ああいうコメントがすべてに書かれているわけではなくて、入っている方がごくわずかなんです。
大半はコメントも何もない。あるいは判も押してないというものも結構あります。
ですから目次位をちらっと見て、ほとんど中身を読まないでパスさせるということもあったと思います。
昭和になって人員はどんどん増えていきますが、これはあくまで図書課全体の人員ですから、この100何人すべてが検閲業務をしていたわけではないということをご承知おき下さい。

 私が調べました昭和11年の図書課人員の内訳という数字があります。全7係・102名の内訳です。

 課長・1名、事務官(係長)・4名、理事官・1名
 庶務係:属官・4名、嘱託・3名、雇・6名
 著作権出版権登録係:属官・4名、嘱託・1名、雇・4名
 検閲係:属官・24名、嘱託・8名、雇・4名
 レコード検閲係:属官・1名、雇・1名
 企画係:属官・6名、嘱託・2名、雇・8名
 納本係:属官・3名、雇・10名
 保管係:嘱託・1名、雇・6名

(内務大臣官房文書課編『内務省庁府県職員録』昭和11年に拠る)

 この中の検閲係というのが実際に検閲をおこなう人達です。
昭和11年の段階では36名が検閲を担当していたことが分かります。このデータと統計月の関係か人数が合わないのですが、昭和11年1月現在の検閲係の事務分担表というものもあります。
これは『出版警察報』第89号、昭和11年2月から得たデータです。ここには新聞検閲係が23名と書いてありますが、その中に庶務係というのがはいっています。
上の表では庶務係は検閲係とは別の係ですから、おそらく、新聞の記事差し止め等の仕事をする庶務係をここに入れているのでしょう。
厳密にはこの5名を引いた18名が新聞検閲係と考えていいのではないでしょうか。

〈新聞検閲係〉23名
総括(事務官1名:赤羽穣)
検閲意見ニ対スル審査(理事官1名:宮崎信善)
○安寧係(属官12名)
○風俗係(属官4名)
○庶務係:新聞記事差止ニ関スル事項ほか(属官2名、雇3名)

 それから出版検閲係が14名ですが、こちらは下記のように細かくジャンル別に分かれております。

〈出版検閲係〉14名
総括(事務官1名:久山秀雄)
検閲事務一般(属官1名)
法律関係(属官1名)
政治経済関係(属官1名)
左翼関係(属官2名)
右翼関係(属官2名)
思想・文学・哲学(属官1名)
教育・宗教(属官1名)
一般文学(属官1名)
古典文学(嘱託1名)
神書・宗教(嘱託1名)
絵画写真ポスター・性科学等(嘱託1名)

 また外字出版物検閲係は兼任を含めて10人ですから、実質検閲業務を行っているのは属官1名、嘱託5名、雇1名ですから7名ということです。嘱託や雇は主に外国語が読めるということで雇われていたようです。

〈外字出版物検閲係〉10名(兼任含む)
新聞総括(事務官1名・新聞と兼任:赤羽)
出版総括(事務官1名・出版と兼任:久山)
新聞検閲意見ニ対スル審査(理事官1名・新聞と兼任:宮崎)
検閲事務一般(属官1名、嘱託5名、雇1名)
 ※嘱託、雇の外国語は、露語、仏語・エスペラント語、独語、支那語、英語 
(『出版警察報』第89号、昭和11年2月)

 これを見ると昭和11年100何名という図書課員がいましたが、実際に検閲業務をおこなっていたのは39名くらいで、そんなに多いわけではありません。

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(3)検閲事務の実情

 検閲事務の実情については『内務省史』第1巻(大霞会、昭和46年3月)から引用しておきました。

「検閲の実務は、それぞれの係で係員によって行われ、大体係長たる事務官が決定した。
もちろん、係長は常時課長以上の上司の意見を体するために、報告や協議は行なっていたのであって、独断専行するわけではないが、事務の性質が即決を要するものが多いので、実際は係長中心に運営されていた。」
これから見ても係官(属官)が執務内規に従い検閲をおこない(昭和8年以降は属官2名でおこなうようになったが、例外もある)、事務官(係長)が処理を決定していたわけです。

  また土屋正三という昭和2年5月から昭和4年7月まで図書課長を務めていた人物の回顧談が「日本警察の歩みを語る(その2)」『警察研究』第45巻11号(昭和46年11月)に載っています。これも実情がよく分かるので引用しました。
この土屋正三の回顧談で「かなりの人数で見て」と言っていますが、これはやや誇張なのかもしれません。
ただ赤いスジや青いスジを引っぱってとあるのは本当です。
千代田図書館にもそういうものがいくつも見られます。

 また後半に、「局長は山岡さんでしょう」以下は、これだけ読むとなんということはない話なのですが、実は田中義一内閣の時に、通称「腕の喜三郎」と言われた鈴木喜三郎が内務大臣になります。
この人はもともと司法畑の人なんですが、彼が内務大臣になった時に、司法省で局長をやっていた山岡万之助を内務省の警保局長に引っ張って来るのです。
当時内務省としては、司法省に内務省が乗っ取られるのではないかと大変な騒ぎだったようです。
つまり大変異例な人事だったのですね。そういう背景を分かって読むと、ここのところはユーモラスな語り口をしていますが、多少司法省とのわだかまりを感じ取ることが出来るのではないでしょうか。

「中原(英典) 当時の検閲事務というのは、私どもにはちょっと見当がつかないんですが・・・。
土屋(正三) それは、法律から出版法と新聞紙法とに分けられましてね。そして、全部納本がくるわけですよ。
だから、警保局の図書課の中も新聞係と出版係とに分かれていた。
そして、各係の中に、安寧秩序の方を主としてやるのと、硬派の方だね、風俗壊乱の方を主としてやる両方があった。
新聞は毎日くる、十何版というのまで出るし、夕刊もある。
それから、ひとり東京のみでなく全国そうですから、地方のはみな県庁へ行くわけです。
それで朝刊は翌日の新聞ですから、夜中に出る。それを見て課長の指示を受けに来るんですよ。
だから図書課長は夜中にたたきおこされてたまったもんじゃない。
宿直がいまして、課長のところに持ってくる。普通は、課長限りで局長のところにはいきません。
 本の方は、出版物の納本があって、それをかなりの人数で見て、そして、赤いスジや青いスジを引っぱって事務官のところへ持っていくわけだ。
事務官が見て課長のところへ出す。大きな本を初めからしまいまで読むわけにはいかないから、結局スジのところだけを読むんですが、考えてみると、これはいいかげんな話だね。
私が課長になってまもなくだったが、ある日、事務官が大きな本をもってきて、発売禁止にしたいという。そして、禁止の場合は、課長が局長のところへもっていって説明した方がいいと、そういうわけなんだね。
局長は山岡さんでしょう。
おっかない顔しているんだから、君行ってくれといったら、いやそれはいけません、ということになってね。
(略)
それでおそるおそる行ったわけだ。局長が何んだというから、こういうわけでこの本を発売禁止にしたい、そこまではいいんですね。局長がどういうことが書いてあるんだと聞く、これもあたりまえだと思うんだが。それで一々第一章から読んだら大変なことになるから、私はさあ、そうですね、大変悪いことが書いてありますといったら、ああ、そうかといって、ポンと判を押した」。

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3.検閲による処分及び処置

では実際に検閲によってどういう処分がおこなわれるのでしょうか。

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(1)発売頒布禁止

 一番有名なのが、発売頒布の禁止というものです。
これは先程の出版法第19条、新聞紙法第23条による事になります。
「発売頒布を禁じ、其の刻版及び印本を差押さえることができる」とありますが、出版法には「その刻版を差し押さえる」という文言があるのですが、おそらく大正から昭和にかけては、実際には紙型を押収していたと考えられます。
なにせ明治に造られた法規なので、その頃の法律用語が残っています。
但し、新聞紙法には「刻版を差し押さえる」の文言がないので、新聞、雑誌の場合はその原本あるいは原紙の押収だけでした。

 内務大臣からの命令による「発売頒布禁止の命令書」がどこかにあるだろうと、いろいろ探していたらやっと見つかりました。
下の2枚を見てください。
左は「右出版物ハ安寧秩序ヲ紊スルモノト認メ出版法第19条ニヨリ其ノ発売頒布ヲ禁シ旦其ノ刻版及印本ヲ差押フ旨内務大臣ヨリ命令アリタリ 右相達ス」とありこれは大阪府の知事・力石雄一郎が出した発売頒布禁止の命令書です。
それから右の方は、『全国労働新聞』の第1巻第4号、これが「新聞紙法」第23条により「発売頒布ヲ禁シ旦ツ差押フ旨内務大臣ヨリ命令アリタリ」とあり、これは東京で出ていた新聞ですから警視総監・丸山鶴吉の名前で出された命令書です。
この命令書を持って、管轄の警察が押収に行ったわけです。

(画像をクリックすると大きな図が出ます)

発売頒布禁止の命令書

 それから、実際に検閲をする時には禁止基準というものがあります。
下に挙げたものは昭和8年当時の禁止基準ですが、これはそれ以前から作られています。
基本的にはあまり違いませんが、その時期によって文言が変わったり、新しい項目が付け加わったり、前にあったのが一部消えたりすることがあります。
これは安寧に関わるものと風俗に関わるものとそれぞれに作られ、「一般的標準」と「特殊的標準」とがありました。

 「一般的標準」とは出版物の内容に関わるもの、「特殊的標準」というのはその出版物の発行部数であるとか、それが流通する範囲であるとかを基準に考えるものです。安寧紊乱の場合について下に掲げて見ました。
(〈風俗壊乱〉は省略)

〈安寧紊乱〉
・一般的標準

1皇室の尊厳を冒涜する事項
2君主制を否認する事項
3共産主義、無政府主義等の理論乃至戦略、戦術を宣伝し、若しくは其の運動の実行を煽動し、又は此の種の革命団体を支持する事項
4法律、裁判等国家権力作用の階級制を高調し、其の他甚しく之を曲説する事項
5テロ、直接行動、大衆暴動等を煽動する事項
6殖民地の独立運動を煽動する事項
7非合法的に議会制度を否認する事項
8国軍存立の基礎を動揺せしむる事項
9外国の君主、大統領又は帝国に派遣せられたる外国使節の名誉を毀損し、之が為国交上重大なる支障を来す事項
10軍事外交上重大なる支障を来すべき機密事項
11犯罪を煽動若しくは曲庇し、又は犯罪人、若しくは刑事被告人を賞 救護する事項
12重大犯人の捜査上甚大なる支障を生じ其の不検挙により社会の不安を惹起するが如き事項
13財界を攪乱し其の他著しく社会の不安を惹起する事項
14戦争挑発の虞れある事項
15其の他著しく治安を妨害する事項

・特殊的標準

1出版物の目的
2読者の範囲
3出版物の発行部数及社会的勢力
4発行当時の社会的事情
5頒布区域
6不穏箇所の分量

 この中で、時代がだんだん戦時体制下になると一般的標準の方の10「軍事外交上重大なる支障を来すべき機密事項」とか14の「戦争挑発の虞れある事項」とかが厳しく検閲されることになります。
この千代田図書館の中にある委託本にも、軍がどこに進駐しているという箇所はやはりチェックされています。

(画像をクリックすると大きな図が出ます)

不二出版から復刻が出た『出版警察関係資料』の中から引用した表
 次に実際に発売頒布禁止の数量と比率がどのくらいあったのかということです。
右に不二出版から復刻が出た『出版警察関係資料』の中から引用した表を載せました。
これには新聞、雑誌は含んでいません。あくまでも出版法と不穏文書臨時取締法による禁止の取締数です。

 ざっと見て頂くと安寧と風俗の二つに大きく分けてあり、特に左側の種別のところで風俗の一番下に委任による禁止というのがあります。
これが先程言った各府県の長官に権限を委譲したもの、つまり春画、春本の類にあたります。時間も無いので大雑把に説明しますと、昭和の初めまでは安寧よりも風俗の方の禁止が多い。それが昭和の初めから逆転して、昭和3年以降安寧の方がどんどん増えて、昭和7.8年がピークになります。
特に昭和13年以降は禁止が減ったというよりも、本そのものが紙の問題で出したくても出せないという問題があるわけです。
ただこの表も下に注記があるように、一年あたりの数字が完全にそろっていない年もあり、そのあたりを考慮してご覧になってください。

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(2)分割還付

 分割還付というのはあまり馴染みのない言葉かと思いますが、これは法律で定められたものではありません。
便宜運用という形で便宜的に行われた措置です。

 昭和2年9月1日発行以降の図書及び月刊(のち週刊も)以上の雑誌に適用されたもので、発売禁止として差押えられたものでも、禁止を受けた側がその問題になった箇所を削除して戻してほしいという願を内務省に出して、それに対して内務省が宜しいという判断を下したものについては、問題の個所だけを削除してその図書なり雑誌を還付するというものです。
これは多くの制約が付いていました。不良箇所が少量で、社会・文化に貢献すると認められ、かつ差押部数が大量のもので、容易に切除できる場合、また禁止処分を受けてから一か月以内に内務省に届け出をすることなどです。
そして仮に内務省が届け出を受理し、宜しいという判断が下っても、その出版社に請書を出させるのです。何故かと言うとその出版物が禁止になったということを広告・宣伝してはいけない。
もし広告・宣伝した場合は二度とこの特典に預かれない、それを了承しますと言う意味の請書を出させられます。
それから実際に削除する場合には、所轄の官庁がやるか、あるいは代執行させる場合は立会監督の上で削除させる。
それから切った後もう一度検閲する。また、業務の必要上必要な部数を内務省から伝達されるのですが、その部数は内務省が保留して返さない。それから切り取った問題の部分は所轄で保存をしておく。
そして各監督官庁は、すべてが終わったら内務省に報告をするというふうに、さまざまな規制が伴う措置でした。

 例えば、昭和4年7月16日付けで内務省に提出された分割還付の願書を見てみると、奈良正路という人の著書で『座談会の研究』という図書、後ろに発行者小林勇とあります。
戦後岩波書店の会長を務めた小林勇が出したものです。
この人は岩波茂雄の娘婿で岩波書店の番頭格だったのですが、昭和の初めに岩波書店で争議があり、その後岩波書店を出て、新興科学社と鉄塔書院という出版社を興します。
その時に発売頒布禁止の処分を受け、それに対して出した分割還付の願書なのです。
但しこれは許可されませんでした。下の方に宮崎という判と柳沢という判があって、
分割還付に相当する条件に該当しないから還付出来ないと言うことが書かれています。

 分割還付の条件を下に掲げました。こういう条件をクリアーしたものだけが分割還付を受けることが出来たのです。

・主として学術・文芸・美術等に関する記事を掲載し、且つ社会の文化に貢献するものと認められる所謂単行本又は月刊(週刊)以上の雑誌及びその刻版に限り還付すること。
・無納本又は納本遅延の事実ありたるもの、又は発行者において差押執行の妨害を為したるものに非ざること。
・禁止の理由となった箇所が少量であって容易に検出削除し得るものなること。
・差押部数が相当多きこと。
・禁止命令ありたる日より一カ月以内に発行者より願出ること。

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(3)削除処分

 削除処分は、今残っている本を見る限りでは、形の上では分割還付と区別が付きません。
分割還付は発売頒布を禁止され、一度押収されたものです。それに対して削除処分というのは、当該部分を削除すれば発売してよろしいという処分なのです。
ですから、今残っている本で何ページかが削除されている本が、分割還付なのか削除処分なのかはその本を見るだけでは分からないということです。

 野依秀市という興味深い人物がいますが、この人の書いた本に『軍部を衝く』という本があります。
この本はかなり大量に削除されていますが、その後改訂版が出ています。
改訂版には「改訂版の序文」というのがあって、そこには自分の『軍部を衝く』と言う本が大量の削除処分になったので、内務省の図書課に行ったと書いてあります。
そしてどうしてこんなに削除処分の量が多いのか、またタイトルが『軍部を衝く』ですから軍部批判を含む内容であるため、何らかの横やりが軍部から入ったのかということを聞いてみたと。

 当時図書課の事務官は生悦住求馬(いけすみ・もとめ)という人ですけれど、彼が説明するには軍部からの横やり等は一切なかった。
そういうものとは関係なく自分達事務官のレベルで判断した結果だ。その位の事が出来ないとこうした業務は遂行出来ないんだと言ったと書いてあります。

 またこの本は3か所削除されているのですが、その1か所ごとの削除ページが多いのです。
どうしてこんなに大量の削除になったのかという問いについては、検閲の内規として削除が3か所を越えるものについては禁止処分とする、だから出来るだけ削除を3か所におさめたい。そうすると必然的に1か所の削除ページが増えてしまうのだ、と答えたと言うのです。
野依は、そうかそれなら分かった。では具体的にいかんという部分を指摘してくれと言って、それによって改訂版を出します。

 実は図書課の事務官が言ったという3か所を越えると禁止処分にするという内規が実際あったかどうか、はっきりとしません。
私のところのゼミ生でその問題を卒論のテーマとして調べている者がおります。
削除された部分が4か所ある本が実はあるのです。
これは渡辺順三の書いた『唯物史観よりみた近代短歌史』という本なのですが、その学生が数えたら4か所削除されていたのです。
この本は発売頒布禁止ではなくて、削除処分の本なのです。
ということもあるので、野依の序文に書いてあることが事実であったかどうか、一概には言えないのですが、そういう説明を受けたというのです。

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(4)次版改訂・次版削除

 これは不良の程度が比較的軽いものに認められたもので、その版の発売・頒布は認めるが、次に増刷する場合は、指摘された箇所を訂正、あるいは削除しなければならない処分です。

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(5)禁止出版物の差押

 禁止処分が出た後の処置ですが、当然差押が実行されます。発売頒布禁止の処分がくだされると、当該出版物を全国の警察部が差押さえました。

 ここで特高についてふれておきます。

(画像をクリックすると大きな図が出ます)

押収時に交付する受領書  皆さん特高という言葉はご存じでしょう、特別高等警察の略ですが、これが最初に出来たのは明治44年、警視庁に作られました。
この前年にいわゆる大逆事件が起きたことが契機です。その後主要な都市の警察部に特高課が出来て、昭和3年には全国の府県警察部に特高課が出来ます。
先程、新聞、雑誌は管轄地方庁に納本することになっていると言いましたが、大半は警察部の特高課でチェックしていました。
警視庁で言いますと、特高課の中に検閲係というのがありました。

 この検閲係と言うのは大変ややこしいのですが、実は憲兵隊にも検閲係がありますし、警視庁特高課の中にも検閲係があり、内務省は昭和15年12月以降検閲課に改称するというふうに、同じ名称の部局が軍にも警察にも内務省にもあったのです。
大正年7月に内務省の警保局長が全国の警察部に依命通知を出しているのですが、「差し押さえ処分を執行したる場合その所持者等より請求ありたる時は、任意の差押えの証として・・・・適宜勘弁なる方により所持者に対し交付相なるよう」とあり、要するに求められたら受領証をだしなさいという通知なのです。
その差押えた書店や取次に対し、押収された本の名前や部数を書いた受領書を渡す。その書式の見本が右図です。

 それでは実際に、発売頒布禁止になってどのくらい差し押さえられたのか。
昭和8年がメルクマールになる年だと思われますので、その年のデータを挙げておきます。
『出版警察報』に載っている月ごとの禁止件数と禁止されたものの発行総部数です。
その内で差押え出来た部数、最後に差押率を書きました。
『出版警察報』のデータをもとに私が作りなおした表です。
これを見て行きますと月によって差押率が高い月と低い月がありますが、平均しますと昭和8年1年間の平均押収率は45.9%で半分以下なのです。

発売頒布禁止になってどのくらい差し押さえられたのか

 ※昭和8年の年間平均差押率・・・45.9%
(『出版警察報』第65号・昭和9年2月から作成)

 それから、国立公文書館に昭和8年の『出版警察統計表』というものがありまして、その中に具体的にひとつひとつの図書なり雑誌についての差押部数、差押率が載っています。点線がありますが、その上が安寧、下が風俗になっています。

○昭和8年発売禁止出版物の差押具体例

差し押具体例
(国立公文書館蔵:警視庁検閲課「昭和8年出版警察統計表」より抜粋)

 これを見ますと、安寧では『史的唯物論教程』というのは総部数が1000部、差押部数が1000部ですから、これは100%差押さえられたわけです。
どのくらい差押が出来るかということは、その時の禁止命令の出たタイミングとかその出版物の流通形態とかによって相当変わってきます。
おそらくこの『史的唯物論教程』は印刷所か取次にある段階で押収されたので、100%になっているものと思われます。
一方、一番上の小林多喜二の全集は35%、『刑法読本』27%のように極めて差押率が低いものもあります。風俗でも10%台が並んでいます。

 また雑誌の方では、比較的名前の知られたものを並べましたが、『婦人公論』などは発行部数22万部以上で、差押率が3%と極めて低い数字が挙がっています。
こういう風に、一度流通に流れてしまうとなかなか押収することが難しいことが分かります。

(画像をクリックすると大きな図が出ます)

安寧関係出版物発行数推移

 その後、特高課長の会議で、船だとか列車だとか、図書館とか、貸本屋とかに禁止処分の出版物があった時は、その所有者に懇談して任意で提出してもらうか、閲覧させないよう指導すべきである、といった議論がされています。
ですから、禁止命令が出たとしても、そのタイミングや流通形態などによって押収率が変わってくるということが、この表を見ても分かると思います。
特に左翼系の出版物ですと、書店への流通のほか、別ルートの流通、つまり直接読者に送るという方法があったのです。
たとえ禁止処分になっても、固定読者には確実に出版物が届くようになっていました。
但しこれは合法の場合でして、先程の『第二無産者新聞』や『赤旗』(せっき)などははじめから非合法出版で納本もしませんから、特高の方も印刷の段階からマークして、どんどん押収するという形でやっていました。

 最後に、図版7を見ていただいて話を終えることにします。
これは司法省が出した資料で、『司法研究報告書』第28輯「プロレタリア文化運動に就いての研究」のなかに載っている表です。
安寧関係の出版物の発行点数をグラフにしたものです。
左翼単行本は昭和5年あたりから取り締まりを受けて激減し始め、昭和8年が左翼単行本と右翼単行本の出版点数の線が交差しています。

 また、同じ資料中に「主要左翼文献出版業者調べ(単行本行政処分回数)」という表があります。
昭和5年から13年までに、こうした左翼系の出版社が発売頒布禁止を受けた回数を表にしたものです。
たしかに左翼系の出版物がきびしい規制を受けたことは間違いないのですが、実は大正の後半から昭和の初めにかけて左翼系の出版物が日本では大量に出版されています。
その象徴的なものは、『マルクス・エンゲルス全集』です。
改造社版と、岩波書店、希望閣や叢文閣など5社が聯盟版ということで企画します。

 当時のある論者が面白いことを言っているのですが、左翼出版社と左翼的出版社というのがある、という文章を書いています。
つまり左翼出版社は、実践運動に関わる組織と密接に関わり、出版活動もしていく。
一方、左翼的出版社というのは直接実践運動には関わらないけれど、左翼的出版物や翻訳ものをたくさん刊行する。
それがこの司法省の資料に挙がっている出版社になります。

 特に昭和初期に活発な出版活動をおこなった左翼的出版社を、わたしなりに「三閣」と呼んでいるのですが、希望閣、共生閣、叢文閣の三社です。希望閣の発行人は市川義雄で、この人の兄さんが共産党の幹部市川正一です。
それから共生閣は藤岡淳吉とありますが、この人には面白い伝説があります。
昭和8年頃、それまで自分のところで出していた左翼的出版物をすべて日比谷公園で焚書にする、燃やしてしまったと言われています。
実際はそんなことはしていないのですが、出版史の中ではそんな伝説が今も残っています。
彼はその後国家主義的なものを出版し、戦後になってまた左翼系出版物に復帰します。
それから叢文閣の足助素一、この人は有島武郎と親しかった人で、有島武郎全集なども出しています。
その他に、白揚社やナウカ社、また一般によく知られている改造社、岩波書店、中央公論社なども入っています。

 今日私の話をお聴きになって、今まで自分が考えていた検閲となんとなく違うんじゃないか、とお感じになったかもしれませんが、これまで調べた限りでは、時代によって検閲の動向がかなり変わってきます。 各種資料を駆使して懇切丁寧に説明

 これは検閲ではないのですが、治安維持法の研究をされた憲法学者の奥平康弘さんは、「治安維持法という法律も、初めから同じようにのっぺらぼうで一本調子な法律ではないんだ。その時代時代でその適応が違っている。」ということを『治安維持法小史』の中に書いております。
検閲の場合は特にそういう面が強くて、その時代によって検閲のおこなわれ方が変わっており、法律に定められていない便宜的措置をおこなっていたりしているわけです。それだけ検閲する体制が十分出来ていなかった、十分機能していなかったということだと思います。

 それと、特に大正の後半から昭和の初めにかけては左翼的出版物がたくさん出版されていますし、それほど禁止になっていません。
先程出てきました、山岡万之助と言う警保局長が、会議の中で話しているものが記録として残っているのですが、大正の後半から昭和の初めにかけては、左翼的なものであっても、それを実践的に宣伝したり、国をひっくり返そうというような過激な内容でなければ、マルクス主義や社会主義的イデオロギーの解説などであれば、禁止はしていないんだと言っています。
事実、堺利彦が「共産党宣言」を雑誌に翻訳して載せているのですが、これは禁止になっていません。
そういうふうに比較的ゆるやかな時代があったかと思うと、一方戦時体制になると、先程言いましたように新聞の中に天気予報も載せてはいかんということになります。
そして出版物だけでなく、特高の監視網が社会のいたるところに張り巡らされていきます。
検閲について調べるうえで、時代の動向をあわせて考えていかなくてはいけないと痛感しています。

長くなりましたが、以上で私の話を終わりにいたします。ご静聴ありがとうございました。(拍手)



文責:臼井良雄・浅岡邦雄
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:臼井良雄


本文はここまでです



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