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平成23年7月15日 神田雑学大学定例講座N0559


マチュピチとアンコールワット  -遺跡を通してペルーとカンボジアを考えるー     講師 臼井 良雄


目次
イラスト画像の画像
メニューの先頭です 講師プロフィール
はじめに
1 私の世界旅のノウハウ
2 事前学習で分かったこと
3 ペルー、マチュピチへの旅
4 マチュピチの発見
5 マチュピチの風景
6 マチュピチは何だったのか。
7 ペルーの問題点 現地ガイドさんの話
8 ペルーと日本人
9 インカ帝国はなんでスペインの植民地になってしまったのか?
10 クメール人たちの国カンボジア訪問
11 クメール人の興亡
12 アンコール遺跡群の再発見
13 アンコール・ワット訪問
14 遺跡群のデバダー像
15 遺跡群にはないが土中に素晴らしい仏像
16 カンボジアの今 石澤先生と現地ガイドコンさんの話
17 私のカンボジアへの感想



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講師プロフィール

臼井講師神田雑学大学会員
1941年福島で生まれ、蒙彊へ両親と行き敗戦
引き上げ後小学校4年まで長野県麻績村で過ごし、その後東京都世田谷区在住 
1965年東京理科大学理学部化学科卒
元東洋インキ製造株式会社勤務 2005年退社退社
現在綜研化学株式会社非常勤顧問、インデックスフォント研究会会長、東大原小学校同窓会理事

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はじめに

 昨年から今年にかけて、インディオの作った国、南米のペルーに行き、またクメール人の作った国カンボジアに行きました。
なんでこの3つの国に行きたかったのかを最初に話します。

今までいろいろな本を読むとこの2つの国は日本人、それも古代日本の縄文人とつながりがあるように思えたのです。
エクアドルから縄文土器が出たという話はかなり話題になっていますし、インディオの人たちと縄文系の日本人の関係が細胞レベル的にも深いという研究の話も出ています。
カンボジアを建国したクメール人は黒潮に乗って日本に来ていたという説も戦前からあります。
神武東征の時の直衛部隊であった久米一族はクメール人たちが日本で住んでいた球磨地域から出て、大伴氏、ひいては天皇家に従ったという説です。
新嘗祭に行われる久米舞とか久米の犬吠えといわれるワークライなどが今の宮中の儀式に残っているというのも興味を持ちました。
そんなことで、ここら辺の関係を少し事前学習して、これらの2つの国へ行くことにしました。

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1 私の世界旅のノウハウ

 神田雑学大学では芳野さんという方の「私の世界旅」というシリーズ講演が何回も行われ、私も楽しく聴かせていただきましたが、その中に「私の旅のノウハウ」という話がありとても参考になりました。単眼鏡を必ず持参するとかいう話です。
わたしも旅をより楽しくするためのノウハウが若干あります。

ひとつは事前学習です。その国についての歴史、日本との関係、その国の美術などを本やネットであらかじめ調べ、まとめてみるのです。
これでわくわく感がかなり高まってきますし、現地に行っても見どころを見逃すことが少なくなります。 絵葉書裏にメモしたガイドさんの話と、入力用ポメラ
もうひとつは、現地に入って、旅行中に、バスの中の現地ガイドさんの話を現地で買った絵葉書の裏にメモし、かつそれをその夜のうちにテキストデータにしておくことです。
私はこのためにキング事務機のポメラというパームトップワープロを買って愛用しています。
そして帰ってきてから写真交換会などで集まる時に、自分なりの旅行記録をまとめ仲間に読んでもらっています。

今回の事前学習では下記のような本を読みました。
‐ 「海の古代史」 古田武彦 原書房
– 「縄文人遥かなる旅の謎」 前田良一 毎日新聞社
– イカ線刻石の真実 H.K.ダルケア 浅川嘉富監修
– インカ帝国 大貫良太 創元社 他
– アンコール・王たちの物語 石澤良昭
– アンコールの歴史と美術 岩宮武二・石澤良昭
– アンコール史跡考 エロスと蛇神 宗谷真爾
– 王道 アンドレ・マルロー
– ポル・ポト革命史 山田寛

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2 事前学習で分かったこと

(1) 土器とカヌーの世界最初の使用物であった縄文人は世界中に足跡を残しているということ。
 鹿児島の加世田遺跡からは1万1000年前の丸木舟を作るための道具「丸ノミ型石斧」が出土しており、これら「丸ノミ型石斧」と土器は6500年前の喜界カルデラの爆発で埋もれてしまった下の地層の住居遺跡から何例も発掘されています。
他にも厚く積もった火山灰の下からは、上野原遺跡をはじめ従来の縄文史観を覆す1万年以上前の集落遺跡がいくつも発見されています。
九州半分が火山灰に厚く覆われてこれらカヌーと土器を使いこなした縄文の海人たちはこの爆発を契機に大移動したという説がNHKでも放映されましした。
カヌーの起源は縄文人からという説もあります。八丈島では今でも舟のことをカノウと言うとのこと。
西洋にカヌーを紹介したのはコロンブスで現地人はその舟をカヌーと呼んでいたからだそうです。
 6000年くらい前に出現し、タヒチやトンガ、ハワイを」またにかけて航海したポリネシア人の由来は謎とされていますが、縄文人との関係も考えられて、すごいロマンを感じます。

世界を舟で渡っていた縄文人

(2) 魏志倭人伝にある倭奴とは倭の奴の国と読むのではなくて、匈奴と対比した倭奴という言葉で、東の海上王国全般をさす言葉で、倭奴の中には「東南航行1年にして至る黒歯国」があるがこれは南米西海岸のエクアドルという説。
下記のエバンス博士の縄文土器の話と話もあって、面白い説だと感じました。
(3) エクアドル バルディビア遺跡の縄文土器 をスミソニアン研究所エバンス博士夫妻 が発見という事実。
 これは写真を見ましたが、それが本当に縄文土器なのかどうか、私にはわかりません。しかし南米で他に類例のない土器であったのは事実でしょう。
(4) アウラージョ博士(ブラジル)たちの研究でペルー発掘のミイラ(3500、年前のもの)の便化石の中の寄生虫化石の研究。
 この寄生虫は摂氏11度以下では生きられない寄生虫でアジア特に日本に多い寄生虫。したがってこの寄生虫の最初を持ってアメリカ大陸に来た人が寒いベーリング海峡を徒歩横断してきたとは考えられないという話です。
シベリアからベーリング海峡、アラスカには、これ等アジアからの人々が渡った考古学的痕跡は残っていないとのことで、舟で海を渡ったという話も、頭から否定できないと感じました。
(5) 田島和雄博士によるHTLV一型ウィルスが、沖縄、鹿児島、足摺、和歌山、北海道沿岸、南米のインディオに共通。中国や韓国にはないという話。
 日本の中でも縄文人のDNAを強く残している人々がいますが、南米の奥地に住む純血を保っているインディオにその人たちと同じHTLV一型ウィルスが存在するという話は、両者のつながりを無視できない証拠の一つと感じます。
(6) 堀江青年や古代太平洋の文化と研究プロジェクトによる野生号などの太平洋横断実験 は、従来縄文人が舟で危険な太平洋を横断できるわけがないという学者の考えを覆してくれました。

 こんな本を読んで、もしかしたら我々とルーツが一緒かもしれないペルーの原住民たちに親近感と興味を持ってこの旅に出かけることになりました。

 そしてカンボジアに行く前の事前学習では、カンボジアは建国以来クメール民族の国家であること。その王朝は日本と違い、世襲制度がなく、血はつながっていてもいろいろな関係者が戦いの結果次の王座につくという世界であったこと、そのために興亡が激しく、タイやベトナムとは歴史的な憎悪があり、それが近年のポル・ポトの大虐殺にまでつながっていること、そして古代日本とも密接な関係があった可能性が高いということもわかりました。
講座風景
 柳田国男は、沖縄から日本本土の海岸にかけて久米という地名が多く点在していることに注目し、久米という氏族が海上の道を通って南から北へ稲作技術を持って移動したと考えました。
この人たちは九州の球磨地方に勢力をはり、周囲とは違った言葉、風習をもち、勇猛果敢で、神武東征の時に大伴氏につき従い神武天皇の直衛部隊を構成したことは有名で、今でも宮中には久米舞とか久米歌が儀式として残っているといいます。
熊祖とか隼人と言われた海人たちはどこから来たのか、南から来たことは確実と言われていますがクメール人が来てもおかしくはないと思いました。

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3 ペルー、マチュピチへの旅

 さてペルーに行った話です。事前学習によると、1500年当時アメリカ大陸に到達していたスペイン人は、パナマの一地方首長の息子から「南方に黄金の豊かな偉大な国がある」と聞き黄金を求めて探検を開始します。
 フランシスコ・ピサロは12人の部下とともに1527年、インカ帝国と遭遇、帝国の内部に入り込み皇帝を確保、身代金に金を大量に取ったうえで、殺害します。
少数だが狡猾で武力に優れるスペイン人達はその後のインカ帝国の内紛に乗じて、インカ帝国に浸透し、1572年には完全に征服します。
インカ帝国の人々は、国家を守ろうという意識を持たずスペイン人の力を利用して自らが権力の座に就こうと画策しあい、馬、白い肌、鉄砲、キリスト教によって、気がつけば奴隷のような存在にされてしまう。
クスコなどはインカの石積みの上にスペイン風の建物が建てられ、世界遺産になっているように、完膚なきまでに征服されてしまいますが、マチュピチ遺跡は1913年迄の400年間、スペイン人に知られること無く残されて来ました。
インカ人達の無言の抵抗だったとも言われています。

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4 マチュピチの発見

 1911年7月24日イエール大学の歴史家ハイラム・ビンガムはインディオの少年ガイドの案内で山の上に草木に覆われた遺跡を発見し、その報告は1913年のナショナル・ジオグラフィック4月号に大きくとりあげられました。
これはその時のビンガム、そして発見時のマチュピチです。いずれもインカ帝国 大貫良太 創元社に載っていたものです。

マチュピチを発見した男と発見当時の写真

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5 マチュピチの風景

 私が撮ったマチュピチの写真です。
小さな棚田が続いていることがわかります。石造りの建屋には屋根がありませんが、昔は上に萱のような草を載せて屋根を造っていたようです。

(画像をクリックすると大きな図が出ます)

マチュピチ写真ー1 マチュピチ写真ー2


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6 マチュピチは何だったのか。

 マチュピチが何のための施設だったのかには諸説があってまだ定説はないようです。
 有力なのがインカ帝国の聖地で、神に仕える聖なる女性が住んでいたという説です。
ここでの発掘遺体173体人骨中女性が160体 であったことで、この説が支持されています。
スペイン人はこの週の聖なる女性たちには目がなかったそうですから、住人はその情報が入って恐れて身を隠したのかも知れません。
 もう一つ有力な説が実験農場だったという説です。
ここは元来岩盤でできた土地で、土がありません。 土は数百m下の川から持ち上げて盛っているのです。そして小さな棚田が整然と上から下へ並んでいます。
 上と下では地温が4度も違います。したがって育つ作物も違ってくるのです。
 こういう実験農場でインカ帝国はいろいろな高さで育つ品種を育て、帝国内の各地に分け与えていたという説で、これもわかるような気がします。
 そして最後の説がこれは インカ帝国時代以前のものではないかという説です。
マチュピチの建物には窓のようなものはありますが、実際には窓でなく飾窓です。それがことごとくが西を向いているのです。
インカの死者は太陽の光を浴びて再生するので普通クスコなどの遺跡の飾り窓は東を向いています。
したがってこれはプレ・インカ時代のもので、インカ帝国時代にはすでに遺跡になっていたものだという説です。

 私が周りを歩いた感じでは、インカ道といわれる道がマチュピチにも通っていて、ビンガムもここを通って到達しましたし、私たちも歩きました。
ビンガムが発見した時も棚田は現地の農民に耕作されていたそうです。
ですからインカ帝国時代にこの遺跡が知られていなかったとは考えられず、棚田は品種改良の目的などに使われていたものと思われます。その立派な石造りの建物は、第3の説がいうようにプレ・インカのものである可能性はあると思います。
ともかく誰もが直感的に感ずる聖なる空間です。かなり昔から聖なる場所だったのではないでしょうか。
そこにインカ時代聖なる女性達が住んで品種改良をやっていたのかも知れません。

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7 ペルーの問題点 現地ガイドさんの話

臼井講師  ペルーは「金の台座に座る乞食」と言われるそうです。
アマゾンには石油・ガス田,アンデス山脈には金銀その他の鉱物資源が豊富で、国家財政も豊か、建築ブームだが、相続税制度がないこともあり貧富の差は大きい。 
 フジモリは大統領は貧困層の生活向上に力を入れ,新任以来毎月一校学校を作ることを公約して、10年で6000の学校を作ったそうです。日本をはじめとする支援金は今も動いており、学校は増え続けています。
 イギリス人が集まると社交クラブを作り、日本人が来ると学校を作ると言う評価はペルーでも生きたとガイドは笑って言っていました。
 征服当初ペルーではスペイン人の男は争って月の神殿に住むインディオの美女と交わったので今ではインディオとスペイン人の混血が多いそうで、一部の純血スペイン人が今でも大金持ちで、次にこれ等スペイン人の混血が活躍しているそうです。
 純血を保つインディオは、当初鉱山などで使役されたが病気になったり逃亡したりで奥地や高地に住んでいて、貧しい人が多いのです。
その人たちの悲しみをあたったのが有名な曲が「コンドル・パソ」でありサイモンとガーファンクルに見いだされて世界的なヒット曲になりました。
その原曲を現地の楽器で演奏しているCDを買ってきましたので聴いてもらいましょう。
そして激減したインディオに代わる労働力として輸入されたのがアフリカの黒人の奴隷です。
黒人達はその後奴隷解放令により解放されますが相変わらず低賃金労働者としてまとまって海岸沿いの平地に住み、人口は増えていますが貧しいのです。
この人たちの悲しみを歌うアフロプレナガードという黒人の歌がペルーでは流行っています。
ペルーの美空ひばりとガイドが話していましたが、国民的歌手 スザナ・バカ の歌も一緒に聴いていただきたいと思います。

   ここでCD演奏 2曲
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8 ペルーと日本人

 ひいお爺さんがペルーに入植したという日系4世のガイドさんの日本人の苦労話は、感情がこもって打て、ぜひ聴いていただきたいと思って必死にメモしてきました。
 1853年のペルー黒人奴隷解放令までは労働力はインディオと黒人のみでしたが、解放後農園労働者が減り、大農園主は困り中国人労働者を移入させました。
実態はマカオでだまされ、奴隷として売買されペルーに運ばれた人々でした。
 1872年日本で起きたマリアルース事件でペルー船から中国人が大量に逃げ出し、国際問題化し中国移民法は廃止されます。
それでペルーは新たなる労働力を探したのです。
 日本は明治になり人口が増大し農地が限界になり移民を奨励しますが、1880年代にマリア・ルース事件で関係が出来たペルーとの間で利害が一致、4年契約で800万円というキャッチフレーズで移民を佐倉丸で送りこみます。
 日本人移民の聖地と言われるセルロールと云う港を持つカゲーテという町に入港した790人の日本人は眼前に拡がる砂漠と砂丘、はげ山を見て呆然となったといいます。
月給25円4年間で800万円ということだったのですが、現実は奴隷生活で、1年目で160名の人間しか残らなかったそうです。
残った人たちは日本人村を作り、結束して助け合い、多くの人が床屋を経営します。
そうやって小金をため成功する者も出ましたが、第二次大戦で日本人は全ての財産を没収され、迫害を受けてしまいます。

 戦後日系の二世、三世、四世の人達は生き方を変え、日本人同士の連携も意識して距離を置き、ペルーに同化するという道を選びます。
また高い教育を受けた彼らは農業や産業に出るよりも、物ではない知識を糧とする教職や医師などの専門職をめざしたそうです。
それがフジモリ大統領に至った経緯だそうです。
 物的財産は事あれば無くなるが知識はなにがあっても無くならないということで子供に教育を施した二世、三世の努力の結果だったとガイドさんは感無量の面持ちで話していました。
車窓から見えたイカの町はいま緑のアスパラガス畑が拡がる世界第二のアスパラ産地。フジモリ大統領が世界中の学者を集め研究させ、イスラエルの点滴農法とこの地の温度、湿度、日照時間がマッチして大成功した例とのことです。

 ペルーではもう一人有名な日本人がいます。「アキラ」です。ペルーの女子バレーを世界一に育てた男、日系人の評価を高め、フジモリ大統領の選挙にも影響があったと言われる男です。
加 藤明は往年の名選手で生まれは昭和8年、神奈川県。慶應義塾大学のバレーボール部で活躍し、同30年卒業。実業団の八幡製鉄(現・新日本製鉄)のバレーボール部に入り、5年間の選手時代には日本代表にも選ばれました。
 35年に現役引退後、母校・慶応大バレーボール部の監督に就任。指導者として、さらに輝かしい戦績を積み重ねます。
 請われて、ペルーの女子ナショナルチームの監督に就任(昭和40年5月4日、リマ着)。貧しい海岸地区の黒人宅を訪問し、選手を発掘、まったくの無名チームを鍛え育て、同43年の五輪メキシコ大会ではペルーの女子代表を3位に導きました。同54年に監督を引退してその後もリマに住みました。
1982(昭和57)年3月20日、リマ市内の病院で死亡。享年48歳でした。
 彼の死後、ペルーで初めて行われた女子バレーボール世界選手権(1982年)で、ペルーは決勝において日本を下し、念願の初優勝を飾ったのです。
この瞬間をテレビで見た世代は「アキラを生涯忘れない」と口々に語る。ペルーではもはや伝説の人物です。
 80年代は、ペルーの女子バレーの黄金時代であり、「アキラの時代」と讃えられているそうです。ペルーでもっとも尊敬される日本人は、いまも野口英世博士と加藤明です。

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9 インカ帝国はなんでスペインの植民地になってしまったのか?

 インカ帝国は一見黄金時代を迎えているように見えるが、国家としての実態、支配者や国民に国家という外国を意識した、守らなくてはならない大事な存在という意識が無かったのではないでしょうか。
ス ペイン人に殺された皇帝亡きあと、その後継をめぐって、皇帝の関係者、もともとインカ帝国の支配に不満を持っていた地域の指導者たちは内乱を起こし、それぞれがスペイン人の武力を利用しようと画策したのです。
 日本で言えば、有史以前のニギハヤヒの大和征服や神武天皇の近畿征服の時代の国家意識だったのような気がします。
外国の勢力が恐ろしいという概念もないままに自分の勢力をのばすためにその力を利用しようとした、その結果がかえって利用され、植民地化されるという結果をもたらしたのです。
死んでも外国人に国を取られないという気概があれば、200人に満たないスペイン人に何100万人いたインカの人々が征服されるるわけがないではありませんか。
 その意味で日本を振り返ると、幕末にフランスと組んで幕府の延命を図ろうとする小栗上野介をはじめとする一派と、イギリスと組んで幕府を倒そうとする薩長が、長い内戦をしていたらどんなことになっていたか、勝海舟や西郷隆盛が偉人といわれるゆえんでしょう。

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10 クメール人たちの国カンボジア訪問

 平成22年12月末から1月の初めにかけてのこの旅には、カンボジア美術復興を支援なさっている上智大学石澤昭学長が案内人として同行していただけました。
先生の話はカンボジアに優しく、学問的にも深く、かちとてもわかりやすく、わたしも必死でメモを取りました。
カンボジアの子どたちと石澤先生

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11 クメール人の興亡

 カンボジアはペルーと違ってクメール人がほとんどを占める単一民族国家で、万世1系といわれる王様を抱いているところも日本と似ています。
しかし違うところは日本のような話し合いによって後継ぎが血筋の濃いほうから決まる世襲制ではなく、後継ぎ候補が血で血を洗う内戦をして、王位を獲得するという歴史です。
そして新たな王は新しく寺と宮殿を建設し移るという歴史でした。
これでは財政的にも破綻し民衆の疲弊も進まざるを得なかったのだろうと感じました。
毛沢東主義をもっとも純粋に推し進めたポル・ポト改革が出てきたのも、こういう過去の歴史と関係があると感じました。
その興亡を列挙してみました。

-1世紀から5世紀 扶南というクメール人の国があると中国の史書に記載あり
-5世紀から扶南の属国だった真臘が勃興 と中国の史書に記載あり
– 657年ジャヤバルマン1世が国内統一  石碑碑文による記録
– 内部分裂による王位継承抗争とジャワ勢力侵攻
– 802年ジャヤバルマン2世によるプノン・クーレンの丘での即位と再統一と征服戦争、ロリオス 遺跡の建設(アンコール朝の幕開け) 石碑による碑文
– 1113年スールヤヴァルマン2世のアンコールワットの建設と東隣国チャンパの征服、ベトナム への侵攻
– 1200年ジャヤヴァルマン7世の再統一とアンコールトムの建設
– その後シャム(タイ)、ベトナムとの抗争が激化、この3カ国で激烈な領土の奪い合いで3カ国と も疲弊するがカンボジアは最も疲弊(タイにアンコールの地    を奪われる)
– 1863年フランスの保護領になる フランスはベトナム人を使ってカンボジアを支配
– 1941年日本軍によるフランス勢力の追放とシアヌーク擁立による独立
– 1945クメール・イサクラ(解放クメール)が各地で抗仏運動、ベトミンの支援を受ける
– 1952シアヌークによるクーデター、1953年にはフランスから独立
– 1963年フランス帰りのポル・ポト秘密共産党大会でNo-1の書記長になる
– 1865年ポル・ポトはハノイに6カ月、中国、北朝鮮に4カ月滞在、文化革命の思考とノウハウ  を学習する(大躍進、人民公社、土着革命論、中国式情報活    動と粛清)
– 1970ベトナム戦争でカンボジアのベトナム援助申しのためCIAによる右派ロン・ノル クーデター
– 5年に渡るロン・ノル打倒統一戦線(共産党と中国滞在のシアヌークの共闘)との内戦
– 1975年ロン・ノル政府運の幸福とポル・ポト政権の始まり:宗教弾圧、教育芙蓉、自主自立、 通貨と市場の廃止、肉体労働の重視、集団所有、集団労働、    家族の切り話、とそれまで のカンボジア人のよりどころ「家族、仏教、土地」をすべて否定
– 1877年カンボジアはベトナムと国交断絶 ベトナムの手先を徹底粛清(国民全体の20%が死 亡、うち中国人は50%、チャム族は35%、ベトナム人は      100%)
– 1979年ベトナム軍のプノンペン攻略 ポル・ポト派はゲリラ化(タイ、中国が支援)
– カンボジア第2次内戦  これは1989年ベルリンの壁が崩壊し、ベトナム、中国が民主化路線 になるまで続く
– 1998年 ポル・ポト死去とゲリラの内部崩壊

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12 アンコール遺跡群の再発見

 1300年前後から、シャムやベトナムの外敵との戦いに加えカンボジア王朝独特の王位継承の争いが長く続き、都も南のプノン・ペンに移され、アンコールの大寺院が クメール民族の文化遺産であることは忘れられ、18世紀からはシャム領になってしまっていました。
但しアンコールワットだけは仏教寺院として近隣の極く少数の人々によって護持され祭られてきたので傷みがすくないのです。
 西洋にアンコール遺跡群がしられたのは1850年でブゥイュヴォ神父は旅行記に「奇異な建造物」が密林のなかにあると書いています。
1860年にがフランス人博物学者アンリ・ムオーがアンコールに到達、その文化的価値を見抜き、ヨーロッパに紹介大評判になります。
千代田図書館の「内田嘉吉文庫」には発見の3年後に出版された素晴らしいアンコール・ワットやアンコール・トムのスケッチがカラーで印刷された豪華本があります。

(画像をクリックすると大きな図が出ます)

発見当初のアンコールワットスケッチ
 
1900年にはフランス極東学院がハノイに創設され、アンコール遺跡群の本格的研究が始まります。
その後第2次大戦や2度にわたるカンボジア内戦の影響でアンコール遺跡は再び荒れはてますが、その後国連の介入援助で、文化の復興活動も再開され、日本、中国、ドイツ、フランスなどが、担当を決めて、遺跡の復旧を行っています。
特に日本は以前からカンボジア人によるカンボジア文化の修復ということを主張し、修復技術の支援と教育を行ってきた上智大学の石澤教授の力で、いまでは数多くの文化財修復の専門家を育て、カンボジア文化修復の中心になっています。
石澤教授の情熱に賛同するイオンなどの日本の企業も博物館を造るなど積極的な民間支援が先生を中心に行われていて、たいへん誇らしいことだと感じました。

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13 アンコール・ワット訪問

 以下写真を貼ります。

(画像をクリックすると大きな図が出ます)

アンコールワットの夜明けと夕暮


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14 遺跡群のデバダー像

 アンコール遺跡群には数多くのデバダー像と呼ばれる舞姫の浮き彫りがある。
その表情は千差万別で愛らしいものから妖艶なものまで、自分の理想の女性像が必ずあると言われ、これ等のデバダー像を中心に写真を取っている観光客は多い。
これを首狩りというのだそうだが、私も実は300枚くらいのデバダー像の写真を今回は撮った。少しを紹介する。

(画像をクリックすると大きな図が出ます)

アンコール遺跡群のデバダー達アンコール遺跡群のデバダー達


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15 遺跡群にはないが土中に素晴らしい仏像

 バンティアン・クデイ遺跡は上智大学が現地で修復を習う人たちを実地教育しながら修復、発掘を担当している遺跡だが、都の東にあった僧院で、ここには僧侶やそれに関わる農民、職人などが集まり静かな生活が営まれていたようです。畑や衣服を作る工房の跡、漢方薬の製造所跡などもわかっているそうです。
ここから発掘された仏たちは長く土中に埋められていたこともあって保存が良く、ちょっと類をみない美しさと言っても過言ではありません。
 カンボジア王朝は世襲ではありませんから、仏教を保護したジャヤバルマン7世の後でヒンズー教を国教にした王が出て仏像を破壊する命令を出したのでしょう。
各寺院は命令を受け、仏をなるべく傷つけないように注意深く破壊し、それを掘った穴の中にきちんと埋葬しています
。たぶん信仰深い人々が行ったことを忍ばせるように顔は布でくるまれ、穴の中にも投げ入れた形跡の破片一つないそうです。
壊す時も注意深く2つに割っているようで、多分布を巻いた上からたたいている。
仏たちはアジア的なやさしさと慈悲を表現する静謐な美しさにあふれ、たくましいナーガの上に座っており、仏師の敬虔な信仰心が感じられるものです。
これらは日本の会社イオンの全額出費で立てられたシアヌーク・イオン博物館に収めらており、カンボジアに行かれたぜひ見てくることをお勧めいたします。

(画像をクリックすると大きな図が出ます)

土中から発掘された石で出来た仏像


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16 カンボジアの今 石澤先生と現地ガイドコンさんの話

 ガイドさんの話や石澤先生の話で印象に残った話をいくつか書きます。

●カンボジアの風景
 日本の援助によって造られた幅広い国道6号線を走っているのは、自転車、バイク、リヤカー付きバイク、牛にひかれたリアカーなどでみな遠慮なく道の真ん中を通っており、クラクションを鳴らさないとどかないので、追い越す際には必ずクラクションを鳴らす。
途中日本語が壁にかかれた日本建設の小学校もみた。公的な建物は赤い屋根で黄色い壁で、公衆トイレを含めみな立派。

●生活ぶり
 一般の住宅は、ほとんどは高床式の木造造り、手造りで出来るような簡単なもの。屋根を棕櫚の葉など植物でふいたものもあり、13世紀頃の風景と変わっていないという。
国道を離れると、もう電線もなく、甕に水を溜め、家の周りにバナナを植え、自家用の牛を飼い、後背に水田を持つ家が道沿いに点在する。町に居並ぶ小さな個人商店にはタイとコリアの商品が多い。 講座風景
韓国が古着を大量に援助し、それからカンボジアの女も上着を着るようになった。
それまでは衣服は貴重品で女は腰巻きひとつでおっぱいを出していたが、観光客が珍しがって写真を撮るので上着を着るようになったという。男は半ズボンかスカーフを巻いた格好。
携帯電話は大流行でノキアのものが250ドルで売られているが、中国製のノキアそっくり品が25ドルで売られており、それが人気。長時間話すと耳が痛くなる大音量でひそひそ話が出来ない携帯電話とのこと。
 肉類の店はクメール人は仏教なのであまりやらない。
ポークは中国系の華僑、ビーフはイスラム教とのチャンパ民族が店を出している。
チャンパはベトナム地域に古代栄えた王朝だったが1700年にベトナムのグエン王朝に滅ぼされ、チャンパ民族は流浪の民となり、カンボジアにも少数民族として国民の一部になっている。
 そんなことでクメール民族はあまり商売をしていない。現金収入が一日1ドル以下の人も多い。しかしそれはお金を使っていないだけで、あまり貧乏とか貧困だとかいう意識はない。
米を作って野菜や果物を作って、近所の川や沼から魚を捕って、たまに食べる肉以外は自給自足と近所との物々交換で食べていける世界。魚はほとんど子供が採ってきて、残れば塩からや干物にして保存する。

●社会主義
カ ンボジアは現在社会主義だが、選挙によって政治家は選ばれるので国民の人気を得ることが重要になっている。
土地は国のものと個人のものとあるが地主と小作の関係はない。
土地税もなくいま大きな土地を持って農業をしている人はお金持ち。政府は土地台帳を現在作成中でいまに土地税はできるだろう。

●カンボジアは女系で末子相続
 子供が多くいても末の女の子が家を継ぎ、婿を取って両親を養い、家を継ぐ。
田を起こすのも最初のすき入れこそ父親がするが。大勢の手がいる田植えや収穫は母親の友人ネットワークで人を集め行う。血縁より地縁、友人関係が重視されている。
なぜならカンボジアでは相続でもめることが多いから。
 末子女子相続は昔からの伝統で続いているが、法的には現在相続は兄弟姉妹平等だから揉める。といって先祖代々の土地を細切れにはできないので色々相続はもめる。
 また離婚も多い。おもに両親に気に入られなかった婿がいびり出されることになる。
両親の家を継げないほかの子供たちは密林を開墾して自分の土地を造る。
カンボジアでは昔からの慣習法で自分が切り開いた土地は自分のものになるので、今急速に森が無くなってきている。
子供は7人から8人は産む。そのため若年層の人口が増大中で、フン・セン首相は村から養成があればすぐ学校を造る。フンセン学校といわれ、これが人民党の人気を支えている。

●石澤先生が終りに
 カンボジアの人は輪廻転生を信じ、極楽があると信じている。極楽には次の3つの快楽があるとされる。
1.おいしい食べもの
2.涼しい風
3.かしづく美女
 カンボジアの人達の究極の欲望欲求がこの3つに現れている。
仏教に帰依し、お金は無くても、自給自足し、電気が無くても太陽と共に寝起きし、子供を沢山産んで、一汁一菜で溌剌と生き、死んでも生まれ変わる来世を信じている。
物質的欲求に本来の人間性が抑圧された近代国家にはない豊かな精神的幸福感のある人々。
子供達ははだしで衣服は粗末だけれど笑顔は底抜けに明るい。石澤先生はそんなカンボジアが大好きという。
 しかし一方には国連の援助が入り、経済的価値を高めることが幸せになると言う考え方が急速に広まっており、どんどんホテルが出来工場が出来テレビが入り自動車が入って、人々はお金を求めて農業から離れて行くようだ。
これはカンボジアが迎えている近代化、文明化ではあるが、長い目で見た時それは皆の幸福に繋がるのだろうかという疑問を感じる。

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17 私のカンボジアへの感想

 カンボジアの人々は穏やかそうに見えるが、本質は戦闘的なのではないのでしょうか。
今回の旅で感じたのは、カンボジアは平地も多く、水もあり、稲作が昔から盛んな豊かな農業国家でした。
生きて行くのが大変な砂漠や寒地とは全く違う楽土がここにはあります。
しかし歴史を見ると、日本の平安時代とか江戸時代のように何百年も都が変わらず平和が続いた時代がありません。
1世紀のころから、各地の豪族が乱立し、勢力争いが起こり、657年でのジャヤバルマン一世の国内統一まではクメール人同士で戦いの連続です。
 その後も世襲制という概念が無いのか王様が変わるたびに、戦争があり変わった王様は自分の権威を誇示するための新しい場所に王城、寺院を建てる。これが15世紀まで続くのだから、カンボジアの民衆はその労役や税金、戦争への狩りだしに疲れ果てたと思われます。
日本は平城京が出来るまでは同じような形だったが、平城京以後は平安京、京都と定まって、人民の負荷はカンボジアに比べると少なかったのではないでしょうか。
万世一系といわれる世襲制の代表のような天皇制が、うまく機能したというべきなのかもしれません。
 アンコール朝が15世紀に滅びた後もプノン・ペンなどに王朝は継続したようですが、国家としての国力が疲弊したカンボジアはその後タイ(シャム)とベトナムとの抗争で侵食され、フランスの介入がなければチャンパ王国と同じ運命になったかもしれません。
ベトナムやタイに対する敵対的国民感情は今でも強く残っていると感じました。
 特に1863年カンボジアを保護国としたフランスはクメール人を支配するためにベトナム人を使ったと言われ、殆どの役人層がベトナム人だったと言います。
この100年の歴史が、クメール人のベトナム憎しの感情を育て、またベトナム人と結託するクメール人を憎む風土も育ったようです。
このような感情の中に、共産主義国家クメール・ルージュが生まれ、ポル・ポト派は独走し、もっとも純粋な毛沢東思想による原始共産制国家を短期間で作りあげようとしました。
この間殺害されて人は何百万人と言われていますが、多くはベトナム人、ベトナムの手先と言われた人たちだと言われます。

 その後、国連UNTACが介入し、日本の明石代表が精力的に動き、日本や中国、フランスなどが協力したカンボジア復興は30年たって、平和なカンボジアを取り戻したように見えます。
外から見ると原始共産制に近い平和国家カンボジアが、2000年以上かかった大変な産みの苦しみのあと生れたのかもしれません。
幸いなことに民族はみなクメール人。宗教は仏教一色。土地は肥え気候は温暖。子供も増えている。アンコールワット群と言う誇り高い記念碑もある。 この国が近代経済資本主義に飲み込まれないで、最大多数の最大幸福を目標にする国家になってほしいと、心から思いました。


文責:臼井良雄
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:臼井良雄


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