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平成23年8月5日 神田雑学大学定例講座NO560 

課外授業:神田明神参拝ツアー


神田明神「御社殿」

講師:神田神社禰宜ねぎ  清水祥彦





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画鋲
はじめに
1.礼拝の作法
2.神田明神の祭神と由緒
境内の建築物
神田祭
ご挨拶



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清水講師はじめに
皆さん、今日は暑い中よく神田明神に来ていただきました。私は東京生まれです。國學院大學を卒業して、ご縁があって神田神社に奉職しまして禰宜ねぎ という立場でお勤めさせていただいております。

本日は 
1.礼拝の作法
2.神田明神の祭神と由緒、境内に関する解説
3.神田明神境内の建築物の解説
4.神田祭りの各種資料の拝観(資料館)
を中心に案内させていただきます。
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1.礼拝の作法
先ず鳥居をくぐって境内に入ったときから,そこは聖なる場所となります。
神社には入り口付近に必ず手水舎がありますが、ここの手水は祓い・清めのためのものであって飲むためのものではありません。まず、右手でひしゃくを持って半分ほど水をとり、左手にそそぎ清め、次に左手に持ち替えて右手にかけて清めます。

残った水で口中をすすいで清め、水を吐き出し、ひしゃくを立てて柄を洗ってもとの場所に伏せて返します。ここで清めをして始めて拝殿に赴くことができるわけです。

清水講師より参拝の作法を教わり遂行する参加者たち


お賽銭の意味
キリスト教の献金箱と同じで浄財は勿論神社の維持・運営に使われますが、本来
お賽銭は参拝者の方が、これまでに犯したり触れてきた罪や穢れの贖いとして捧げるもので金額はあくまでその人の心の問題です。
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2.神田明神の祭神と由緒
神社には必ず祭神がおられます。神田明神のご祭神は

講義中の清水ねぎ

一の宮は 
大己貴命(おおなむちのみこと)『だいこく様』は七福神の一人で家内安全、縁結びの神、幽冥界(よみの国=死後の世界)の主祭神です。

二の宮 
少彦名命(すくなひこなのみこと)『えびす様』は商売繁盛と健康の神。会社の繁盛を願って社長さんがよくお参りにこられます。神話では木の実の小舟に乗ってきて、海の彼方から優れた文化を伝えた神です。

三の宮 
平将門命(たいらのまさかどのみこと)『まさかど様』は、平将門命。将門公の首塚は今も大手町の三井物産の隣にあります。江戸城拡張のために神社は現在地に移転しましたが、三井物産では未だに塚に尻を向けないように机を配置するとか、お花と線香が絶えずパワースポットとして知られています。

神田明神参拝ツアー参加者と清水ねぎ

将門公は平安末期の関東の英雄でもありました。彼の生きざまが京の朝廷にたいする謀反・反乱と受けとられ、天皇中心の戦前の教科書では逆賊扱いでした。しかし関東の人からは、強気を挫き、弱気を助ける英雄として称えられ、特に江戸ッ子の共感を呼びました。京都の朝廷からすれば、徳川家康は官位の低い武官でした。江戸城に居する徳川将軍は、敢えて鬼門に平将門を守る神田明神を置き、江戸総鎮守とした。そこで、江戸という安定した社会の百万都市を築くことができたといわれております。

ご由緒
社伝によると、天平7年(730)にご創建とあり、約1300年の歴史を持つ江戸東京の神社の中で最も古い神社のひとつです。はじめは現在の千代田区大手町の将門塚周辺に鎮座していました。その後、延慶2年(1309)に平将門公をご祭神としてお祀りしました。

慶長8年(1603)、徳川家康公が江戸に幕府を開き、江戸城を拡張する際、当社は社地を江戸城から表鬼門の位置にあたる現在の地に遷し、幕府が御社殿を造営しました。以後、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として幕府はもちろんのこと、江戸庶民にいたるまで多くの人々の崇敬を受けました。

明治時代に入ると准勅祭社・東京府社として皇居・東京の守護神と仰がれました。明治7年(1974)茨城県・大洗磯前神社より少彦名命をお迎えしました。さらに同年、明治天皇が親しくご参拝なされました。

平将門命は明治7年に一時、摂社・将門神社に遷座されましたが、その後、神職及び氏子総代をはじめとする氏子崇敬者の懇願により、昭和59年、再び神田明神の三の宮に復座されました。
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境内の建築物
御社殿は昭和9年、神社建築として画期的な権現造の鉄骨鉄筋コンクリート・総漆朱塗りで巨額の浄財により完成。東京大空襲にも耐えたこの御社殿は、平成十五年に国の登録文化財に登録されました。隋神門は、総檜造り入母屋造りで左右に隋神像を奉安し、昭和51年に建立。御屋根の両端に鳳凰をあしらった鳳凰殿は、神札授与所・昇殿参拝受付および控室・休憩所兼ねた建物で、平成17年に建立されました。

朱塗りの建物1

朱塗りの建物2「随神門」

境内には石造では日本一の大きさを誇るだいこく様尊像、波間よりイルカやカメといった海の仲間たちに守られていらっしゃる姿をした少彦名命(えびす様)尊像をはじめ銭形平次の碑や文化財指定の獅子山などがあります。資料館には神田明神・神田祭りの歴史や江戸東京文化を伝える貴重な資料の数々が展示されています。

だいこく様、えびす様、銭形平次の碑


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神田祭
「祭り」とはなんでしょうか?祭りは非日常的な社会劇であり、そこには潜在的な神話的な世界が再現され、喜びと安堵の実感を人々が共有する時間である」ことを先ずもてご理解頂きたいと思います。とかくお祭りというと、馬鹿騒ぎをしたり、お酒の乱痴気騒ぎや乱暴狼藉をしたりするイメージがありますが、私達はひとつの社会劇として、祖先から継承してき た神話的な文化・世界観を現代の社会に再現することが、祭りの本質的な意味であることを皆様に知っていただきたいのです。

神田祭は天下祭と呼ばれ、日本三大祭、江戸三大祭のひとつとしても有名です。江戸の昔から徳川幕府・江戸ッ子の厚い崇敬を受けたことから天下祭・御用祭と称えられ、神田・日本橋を中心とする町々より三十六番四十本前後の勇壮な山車が出され、それに加え、曳き物・仮装行列などの附祭(つけまつり)や御雇祭(おやといまつり)も出され、江戸城内に入り徳川将軍が上覧した由緒ある祭礼でした。

今日の神田祭は、二年に一度、鳳輦・神輿をはじめとする賑やかな大祭礼行列が神田・日本橋・秋葉原・大手・丸の内の広大な氏子108町会を一日掛りで巡する「神幸祭(しんこうさい)と、各氏子の町神輿約200基が町で担がれ、神社へ迫力ある宮入をする
「神輿宮(みこしやいり)」入など賑やかに行われています。

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ご挨拶 
神田・日本橋の絆を語り継ぐ宮司 大鳥居信史
3月11日に起きた東日本大震災の直後には、近隣ビルからサラリーマンやOLたちが怯えた表情で安全を求めて境内に集まり神社は、時ならぬ雑踏となりました。その後、神社も関係者と慎重に協議を重ねて、社会状況にあわせた数々の震災対応に終始し、なかでも苦汁の選択として、祭祀は厳修しつつも数億円規模の事業となる神幸祭と神輿渡御の中止が決定されました。

こうした中で、神社がはたすべき役割として、まず「避難の場所」、さらに「祈りの場所」・「希望の場所」・[記憶の場所]であると考えました。そして神社は、いま何が出来るのかを自問自答した結果「鎮守の社からの祈り、・日本神話と災害教訓に学ぶ夕べ」を急遽、中止になった神田祭期間中に開催する運びになりました。

神田・日本橋の絆を語り継ぐ宮司と参加者

神田明神の氏子である神田と日本橋は、災害の多い地域として知られています。
この150年間だけでも安政大地震・関東大震災・東京大空襲など3度にわたる壊滅的被害を受けてきました。その中で先人たちは、わが町を守るため身を挺し、さらに幾多の困難を克服して見事に復興を遂げ、現在の繁栄と安全を築いてきました。すべては先人たちが、この地で流してきた血と汗と努力の結晶と言っても過言ではありません。

どんな災害にも負けずに復興してきた江戸ッ子の心意気を皆様と再考したいと思います。こうした災害から得た教訓を次代に語り継ぐことは、現代を生きる私たちちに課せられた大きな責務でもあると思います。幸いなことに内閣府中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」有志皆様のご理解と、かたりの世界で活躍される平野啓子さまのご協力を賜り、この催しを実現することができました。

大震災を受けたいまこそ、町と人が結束してきた素晴らしい伝統を見直す必要がございます。また神話という文化も、日本人が伝承してきた美しいこころの物語です。どうかご参加くださいました皆様が、シンポジウムと語りによって災害教練を深く学ばれて、もう一度こころをひとつにして地域共同体における絆の大切さを見直していただきたいと思います。了


文責:得猪外明
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:和田節子


本文はここまでです


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