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平成23年8月19日 神田雑学大学定例講座NO562 

小栗上野介の日本改造

―幕府の運命、日本の運命―

本4冊を一枚の画像(小栗上野介、小栗忠順、他)

講師:小栗上野介陰棲埋骨の寺
曹洞宗東善寺住職

村上泰賢たいけん

 


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画鋲
明治政府が抹殺した小栗上野介
咸臨丸で隠した遣米使節の業績
アメリカの日本人
帰国後の八年
パナマ鉄道はコムペニー
兵庫商社
ワシントン海軍造船所見学
ネジ釘
鉄の国アメリカ
横須賀製鉄所から日本の産業革命
幕府の運命、日本の運命
富岡製糸場は横須賀製鉄所の妹
東郷平八郎の感謝



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村上講師明治政府が抹殺した小栗上野介
はじめに二つ申し上げておきます。

一つは、小栗上野介は群馬県人ではないということで、小栗上野介は江戸神田で旗本小栗家に生まれました。旗本は徳川家の旗の元を護る親衛隊ということですから、いま神田駿河台の明治大学の前にYWCAがあり、そのあたり一帯が小栗家の屋敷跡、「上野介」と言っても江戸で生まれ育った江戸っ子ということになります。

もう一つは、これから小栗上野介の業績をお話しますと「そんなに大事な業績を残した人を、なぜ学校で教えないのか」という話になります。明治維新で幕府が解散となり、知行地の上州権田村へ農業を考えて移住した小栗上野介主従を殺したのは、西から来た西軍です。「官軍」という人もいますが、悪い言葉ですから私は使いません。

そして西軍が作ったのが明治政府。その明治政府が明治五、六年に始めたのが現在につながる学校制度です。明治政府は学校を始めておいて、歴史を教える時に「小栗上野介は実は偉かった・・・」と教えると、では誰が殺したの?という話になりますから、学校では教えない。小栗の名前を出す時はむしろ逆賊扱いでした。ですから戦前に小栗上野介を正面から研究する学者はいなかったし、いまでもその流れは続いています。
 
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咸臨丸で隠した遣米使節の業績
ペリーが一八五三年に日本にやってきて開国を要求し、幕府が開国に踏み切ったことはご存知の通りです。その七年後、一八六〇年に遣米使節(目付)として小栗上野介は三十四歳でアメリカへ渡ります。正使新見(しんみ)豊前守正興、副使村垣淡路守範正、そして小栗豊後守忠順と三人の使節に大勢のお供が付いて全部で七十七人が出かけます。サンフランシスコで一人が病気で残りましたから、ワシントンへは七十六人で行きました。

アメリカの軍艦ポウハタン号(二四〇〇トン)が迎えに来てくれてこの船で太平洋を渡り、ハワイ―サンフランシスコ―パナマへ行き、パナマ運河はまだなかったので汽車で大西洋側へ出て、待っていた軍艦ロアノウク号(三四〇〇トン)でワシントンへ行きます。ワシントンで公式な用事がすむと今度は汽車でボルチモア―フィラデルフィアと移動し、ニューヨークから軍艦ナイアガラ号(四八〇〇トン)で大西洋を渡り、アフリカ―インド洋―インドネシア―香港―日本と世界一周をして帰国しました。世界一周といってもヨーロッパには行ってません。日本人初の世界一周と言えますが、この歴史を学校では教えていません。

ナイアガラ号は当時最新鋭の軍艦で、この画像は当時のアメリカの新聞の絵ですが、遣米使節が品川沖で船から降りているところです。まわりに和船が迎えに来ていて、マストの横棒(ヤード)に大勢の船員が上がって、大声で「ごきげんよう」と三度叫んで大事なお客を見送る儀式をしているところです。マストの向こうに富士山が見えます。

咸臨丸では有名な咸臨丸はどうしたのか、じつは咸臨丸(二九二トン)は遣米使節の乗ったポウハタン号の随行船としてアメリカへ行きました。コースは遣米使節より三日前に浦賀を出て―サンフランシスコへ。ここで使節と別れハワイ―浦賀、と帰ってきました。太平洋を往復しただけです。相撲でいえば横綱はワシントンへ行った遣米使節たち、咸臨丸の勝海舟らは太刀持ち、露払いです。ところが明治以来の学校では太刀持ちや露払いで横綱を隠した教育を行なっています。

咸臨丸には虚構が二つついています。一つは「日本人初の太平洋横断」、これは間違いです。咸臨丸・勝海舟より二五〇年前の慶長十五年(一六一〇)に田中勝介が家康の命令で・慶長十八年(一六一三)に伊達政宗の命令で支倉(はせくら)常(つね)長(なが)がすでに太平洋を横断してメキシコへ渡っています。

二つめは「日本人だけで航海した」という虚構です。咸臨丸には航海を心配した海軍奉行木村摂津守喜(よし)毅(たけ)の依頼でアメリカの測量船長ブルック大尉が部下十人を率いて同乗していました。ほとんどの日本人は反対しますが出航して見ると、大嵐のためにほとんどの日本人は船酔いで動けず、ほとんどアメリカ人が操船して嵐を乗り切ってくれました。「動けた日本人は二、三人」と日記(「遣米使節史料集成」)に書かれています。

「勝海舟は寝ている」「今日も寝ている」(ブルック大尉の日記)と航海中ほとんど寝たきりでした。明治以来の歴史教育は、江戸幕府の政治を低く評価する教育を基本としてきて、今もそれは続いていますから、「咸臨丸で遣米使節の歴史を隠している」と私は見ております。そういうことを隠して、咸臨丸を持ち上げた歴史を教えてきていますから、私は教科書に載せるべきは咸臨丸の絵ではなくて、もっと日本に大事なものをもたらした遣米使節の写真を載せるべきだと思っています。その写真はあとでご覧いただきますが、ホームページの「東善寺」をご覧いただくと、いくつかのページに「咸臨丸を教科書からどかす会」が作ってあり、そのページを見た方は自動的に会員になることになっております(笑)。
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アメリカの日本人
使節一行はワシントンに上陸しました。アメリカの新聞は写真を印刷する技術はなかったので、銅版画にして報道していました。ここでご覧いただいている絵はほとんど、古本屋から永年かけて買い込んだ百五十一年前の古新聞の挿し絵です。船を下りる一行の絵に説明があって、「日本人は行列を作って歩ける、これは文化が高い」と書かれていました(笑)。皆さん外国へ行ったら気をつけましょう(笑)。上陸すると大勢のアメリカ人が出迎え、その中を歩いて下りてくる。たくさんの人が出て歓迎し、建物の屋根にまで上って見ている。日の丸の旗が見えます。

地図

日の丸はそれまで日本では幕末に日本の船印(ふねじるし)と決めて使っていました。「今度アメリカへ行くについて、アメリカの船に日本の代表も乗っているという意味で日本国の印の旗を掲げたい。ついてはあの船印の日の丸をそのまま国印(くにじるし)(国旗)として使いたいがいかがでしょう」という上申書が使節の連名で残っています。それに許可が出て、その情報が先にワシントンへ送られ、日の丸をたくさん作って歓迎してくれたことがわかります。

ワシントンに到着して数日後、いよいよ大統領に会うためホワイトハウスへ向かいます。馬車に乗った使節を家来が囲み、その周囲を軍隊や警官隊が取り囲んで、そのまま一緒に移動します。馬車の前に立っている棒は毛(け)槍(やり)で、一万石の大名の格式で派遣されたことを表しています。この先頭に軍楽隊がついてブンチャカと演奏しながら行進します。沿道はもう黒山の人だかりで、「ジャパニーズエイリアンが来た」(笑)と、歓迎と見物をしていました。

そしてホワイトハウスで大統領に会います。この百五十一年前の新聞の絵は、古本屋から買ったのですが、最初コピーが届いたけれどこの絵は値が高いし、有名過ぎるからいらないと思いました。すると古本屋さんは「大きい絵ですよ」というので見に行ったら、新聞の左右両ページ見開きで一枚の絵、という大きなものでした。日本人がホワイトハウスに入ったぞと、この大きさで報道していたのです。この大きさだけで価値があると感激し、無理して買いこんで見ていただいております。

本(小栗忠順のすべて)正使副使が並び、目付の小栗忠順がいて、後ろに外国奉行支配組頭成瀬善四郎正典がいて、通訳の名村五八郎が大統領と使節の間に入っている。左が十五代大統領ブキャナンで、このあと使節が帰国して大統領選挙があって十六代大統領に決まったのがリンカーン、そしてアメリカは南北戦争になるわけですから、使節は大嵐の前のアメリカを旅してきたことになります。日本人はこういう公式の場に女性がいる、ということで驚いています。

フィラデルフィアを経てニューヨークへやってくると、もう大変な人々が歓迎してくれました。目抜き通りのブロードウェーを行進してメトロポリタンホテルに到着するとその熱狂ぶりは頂点に達します。日本人はもうこれで帰ってしまうということで、八〇万人の人が集まったと言われています。数日後、歓迎大舞踏会がホテルの劇場で開かれました。歓迎会だというから使節が行ってみると、たくさんの人が集まってダンスをしています。

日本人たちは壇上に置かれた椅子でそれを見るわけですが、言い換えれば高い所に上げられて「見世物扱い」、とも言えます(笑)。何しろこのダンスパーティーは招待客七千人、用意された食事は一万人分、みんな高いパーティー券を買って入ってきていますから、下のフロアに日本人を入れたら、人ごみにまぎれて見えません。

あとで日本人を見かけなかったと苦情がきますから、壇上に上げたのでしょう。食事はそこにあるから勝手に取って食えと言うし、おまけに日本人には馴れない立ち食いになります。招いたアメリカ人達は勝手にくるくる踊りまわるだけで、見ていて少しも面白くない。ありがた迷惑な歓迎会だということで、早々に使節たちは部屋へ戻ります。そのあと若い従者たちはフロアに下りて楽しんだようですが―。

熱心に話を聞く受講生

こういう中で日本人についてどう報道しているか、新聞記事にこう書いてあります。
「彼ら(日本人)は財布をはたいて、あらゆる種類の反物、金物、火器(銃)、宝石類、ガラス器、光学機器そのほかわれわれの創意と工夫を示す無数のものを買う。我が国と日本との通商の道が十分に開放されれば、これらの物品はそっくりまねされ改良されて、わが国に戻ってくるに違いない」(ニューヨークタイムズ一八六〇年六月三十日)

工業技術が十分に発達していない日本人だが、持っている刀やキセル一つでも素晴らしい工芸品である。着物の布地も素晴らしい。しかも好奇心が旺盛で常に腰から筆をとりだしてメモを取り、スケッチしている。この国がわが国のような工業技術を持ち、通商の道が開かれれば、将来わが国の工業製品を追い越すに違いない、と記者たちは百年先を見通したような記事を書いています。

じつは私はこの感想はNYタイムズ記者のオリジナルではないと見ています。七年前にペリーが来航して帰国後に、『日本遠征記』という本を出版し、ベストセラーになります。その中に、やはり同じような記述がありますから、NYタイムズ記者も半信半疑でそれを読んでいて、実際に目の前に展開する日本人一行のふるまいや旺盛な好奇心、工芸品ともいえる持ち物などを確認して、納得したから書いた記事ではないかと思われます。
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帰国後の八年
こうして日本に帰国した後、小栗忠順はその見聞を活かして日本の近代化に取り組みます。殺されるまでわずか八年間の業績ですが全部を説明する時間はありませんから、以下に箇条書きしておきます。

1、横須賀造船所建設(フランスの技術指導)
2、洋式陸軍制度の採用、訓練(フランス人教官の指導)
3、フランス語学校設立(横浜)
4、鉄鉱山の開発 中小坂鉄山(下仁田町)など
5、日本最初の株式会社組織を設立「兵庫商社」「船会社」「築地ホテル」
6、滝野川大砲製造所開設
7、ガス灯・郵便・電信制度設置、鉄道の開設、新聞発行の提唱
8、中央銀行・商工会議所設立、金札発行など金融経済の立て直し提唱
9、郡県制度の提唱
10、森林保護の提唱    

この業績を見て小栗上野介をフランス派という学者がいますが、初めからフランスびいきということではありません。造船所の建設などアメリカに頼みたかったのですが、アメリカは間もなく南北戦争に入って国を二分する戦争状態ですから、とても日本の造船所建設を手伝う余力はありません。イギリスはインド、中国で手を汚して日本へ来ていますから危なくてとても頼めない、古い付き合いのオランダは国力が落ちて、手伝ってくれるゆとりがない。

ロシアは個人的には人柄は朴訥(ぼくとつ)だが、欲しいとなるといきなり熊のように爪を出してくる。そこへ行くとフランスは紳士的なところもあって、消去法で残ったフランスがいくらかマシ、というのが小栗上野介の評価で、フランスに頼もうと決めています。

またフランス式陸軍制度も取り入れます。当時ヨーロッパで一番強いのはフランス陸軍、ということでフランスから教官を招いて訓練をすることになります。そうなるとフランス語がわからないと話にならないから、横浜に日本最初のフランス語学校を開設します。これから鉄がたくさん必要になる。国内で生産できる鉱山を探せということで、見つけたのが群馬県下仁田町の中小坂鉄山です。そこを掘る段取りをすべてつけた段階で幕府解散で、小栗上野介は勘定奉行などを免職になります。その後明治政府に引き継がれ、なんと、かつて下仁田町には溶鉱炉もありまして、鉄が生産されました。結局生産量が少なくて、いまはたくさん穴のあいた山が残っています。

新聞発行は福沢諭吉にやらせようとして帰国後に幕府に提議しましたが、幕府首脳の理解が得られず取り上げになりませんで、却下の知らせを聞いた小栗上野介は「年寄りどもは、話せない」と舌打ちをしたと、記録が残っています。 いま当り前のことになっている郡県制度を提案したのも小栗上野介です。また、当時の蒸気船は船体が鉄ではなくて木造船でした。

鉄の船は試験的に造られ始めた時代で、まだ「鉄が海に浮かぶか!」という認識がふつうでしたから、ポウハタン号一隻で民家六〇軒分くらいのたくさんの材木を使います。たくさんの材木を使うと日本の森林資源が枯渇(こかつ)するから、いまから計画的に育成保護する手立てをすべき、という提案書が出ています。そういったさまざまなことを実行し、提案したのが帰国後八年間の業績となります。
 
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パナマ鉄道はコムペニー
さて話は戻って、パナマで大西洋側に出る時に乗ったこの汽車の絵は、私どもの上州権田村の名主佐藤藤七が五十四歳で小栗忠順の従者九人の一人として随行し、世界一周をして帰ってからまとめた日記「渡海日記」の中のパナマ鉄道の絵です。この絵で日本人がたしかに乗っている証拠がわかりますか、・・・そうです、機関車の先に日の丸の旗が立っていますね。

よく気が付きましたね、「ハタと気がついた」(笑)。日本人を歓迎して走った絵です。漂流してアメリカへ行ったジョン万次郎たちも乗っているでしょうが、公式にアメリカを訪れて汽車に乗った最初の日本人といえます。日記を見ると「早い!道端の草木が流れて、縞になって見分けがつかない」と書いてあります(笑)。

「音がうるさい。隣と話ができない」ともあります。当時の汽車は上等席が後ろ、その他大勢は前の車両です。前は機関車のそばだから煙くて、臭くて、うるさい。後部車輛の幹部クラスの日記を見ていてオヤ、と思ったのは何人かが日記に同じことを書いています。ふつうこれはあり得ないことです。よく見ると、誰かが鉄道について質問したらしい。それに対するアメリカ側の説明がメモされたのだと思われます。

質問を推測で復元すると次の二つです。
(1)五年前に完成したこの鉄道は、建設費がいくらかかったのか。
(2)その建設費はどうやって工面したか。

こういう質問をするのは幹部クラスの中で小栗忠順であろうと思います。そしてアメリカ側の説明は「建設費は全部で七百万ドル、お金はアメリカ政府が出したのではなく、民間の裕福な商人がお金を出し合って鉄道組合を造り、鉄道を建設し、出来上がると利用賃をとって経営し、利益が出ると資本を出した人に分配するやり方です」。

当時こういうやり方を日本に入った新しい言葉で「コムペニー」と言っていました。いまのカンパニー、株式会社の方式で鉄道が建設され、経営されていたのです。これを聞いた小栗忠順はこう思ったらしい。「幕府はいつもお金がないとばかり言っているけれど、町の商人でお金持ちはいっぱいいるのだから、彼らに資金を出させてこの方式でやれば、こういう事業も起こせる。無理に幕府がやらなくてもできる」。そして帰国後にチャンスをうかがっていて、幕末に提案して設立したのが日本で最初の株式会社です。
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兵庫商社
「こんど兵庫の港(神戸港)を開いて外国人との貿易が出来るようになる。ついては提案します。これまで長崎、横浜の港で日本の商人が外国人と貿易を行っているが、日本の商人のやり方は誠によろしくない」と書類にあります。

「日本の商人は個人商人だ。薄(うす)元手(もとで)(小資本)の個人商人が個々バラバラに外国の商人にぶつかると、外国の商人は元手(もとで)厚(あつ)(大資本)の商社組合(コムペニー・株式会社)でやっているから、いいように操られて日本人同士が競争させられ、結局利益はみんな外国商社にもっていかれている。放っておくと、いずれ商人だけの損得では終わらない、国の損得にかかわってくるからもうやめさせた方がいい。こんど兵庫の港を開くにあたっては、大坂の商人二十人ほどを選び、商社組合を造って仮に『兵庫商社』と名づけ、誰でも一株いくらで入れるようにして、そこを窓口として貿易をすれば、対等の貿易となって利益が入ってくる」というものでした。

それだけではなく続けて
「それに政府にも関税利益が入ってくる。売っても買っても入ってくるその利益も大きい。兵庫商社の活動が軌道に乗ったら、その利益と合わせて、次の事業を始めたい」という提案が含まれていまして、それはまずガス灯の設置をしたいというもの。 アメリカの大きな街やホテルにはすでにガス灯があって、夜も明るい。仕事も勉強もはかどるだけでなく、何より安全が図れる。日本の夜は暗いので、危険が多い。特にご存知のように幕末から明治の初め一〇年間くらいは日本はテロが横行する国でした。

テロリストは攘夷(じょうい)を叫んで、外国人を殺す、小間使いの中国人や日本人を殺す、外国人と貿易をしている商人を売国奴と言って殺す、開国派だと言って学者を殺すということがしきりに起きていました。後の明治政府の元勲と呼ばれる人の中に元テロリストが何人もおります。

例を挙げると、伊藤博文。塙(はなわ)保己一(ほきいち)の息子塙次郎は我々の主義に反することを研究しているそうだ、と伊藤博文は仲間と二人で殺してしまった
(文久二年十二月二十二日)。あとであれは誤解だった、とわかりましたがそののちに作った政府は自分たちの明治政府だから「あの時は仕方がなかった」とうやむやにしてしまいました。

前島密 次に、郵便(書信館・ポストオフィシー)・電信制度を立ち上げたいというもの。郵便は前島密(ひそか)が明治五年に明治政府が始めたと学校で教えていますから、もう少し説明します。小栗が提案したころ前島は高田藩の武士で何も知りません。

小栗夫人は小栗が殺される三日前に権田村を逃れ出て、長野原の奥の六合(くに)村(中之条町)の野(の)反(ぞり)湖を越え、山を越えて秋山郷へ出て、それから新潟―会津へ入り、会津戦争のさなかに女の子を出産し、そのまま会津戦争のあと会津で冬を越して、翌年春に東京へ出て女の子を育てます。

その時保護したのが三井の大番頭の三野村利左衛門、そのあと大隈重信が保護します。大隈綾子夫人は小栗上野介の従兄妹です。そして明治二十年に大隈夫妻が遺児にお婿さん矢野貞雄を見つけ、結婚する時仲人をつとめたのが前島密です。次は鉄道です。横浜―江戸の間に鉄道を敷こう、という提案でした。渋沢栄一の記録に出てきます。

そういった提案も含んだ兵庫商社が認められて設立されました。役員も定款もそろった日本最初の株式会社です。ところが大坂の中之島に事務所を置いて半年足らず活動したところで、明治維新で幕府が解散すると、兵庫商社もまだ不慣れで一緒に解散してしまいました。

もうないのかと思っていると、今度は小布施町(長野県)に見つかりました。小布施町教育委員会にこういう書類が残っています。「勘定奉行小栗上州公と話をしていろいろ示唆(しさ)を得たので提案します。幕府が持っている蒸気船を一隻貸してもらえそうなので、新潟の港に商人の資本で船会社を開き、地域の物産を運んで外国人に売れば利益になる。

売れるからと言っていっぺんに買い付けると品薄から地域の物価高騰(こうとう)を招くから、注意しながら買いつけたい。その利益は資本を出した商人だけでなく、生産者である農民職人にまで利益が行くようにして〈国民利福〉の道につながると思うから設立したい」

日本で初期の株式会社を立ち上げようと松代藩に出した申請書に、〈国民利福=国民が利益を得て幸せになる〉ために、という理念が打ち出されていたのです。近年いくつもの会社がテレビで「ごまかしてすみません」と謝罪会見をして、中にはつぶれた会社もあるのは、この理念の〈国民〉を〈社長〉や〈幹部〉や〈会社〉と入れ替えて経営したからでしょう。大小の差はあれ、〈国民利福〉を忘れた会社はいずれ腐ってくるということです。

この申請書を出したのは町の豪商・豪農の高井鴻山(こうざん)で、小栗上野介と親しい交際がありました。この理念は高井鴻山一人の考えではなく、兵庫商社を立ち上げた小栗上野介の理念であって、そこに共鳴したから高井鴻山も申請に及んだと考えられます。残念ながらこの船会社は立ち上がる前に幕府解散、小栗は免職となって、鴻山は非常に落胆したということが町の資料でわかります。

もうないかと思っていたら、今度は江戸にできた築地ホテルが見つかりました。これは『平野彌十郎日記』(北海道大学出版会)にこうあります。「小栗様が町人に提案してきた。今度江戸に外国人が住むようになる。ついては、外国人向けのホテルが必要だ。幕府には金がないから、土地をタダで貸すから町人の資本を集めてホテル組合を造り、ホテルを建てるものがいれば、出来上がったホテルの利益は皆で分配してよい。誰か建てるものはいないか」

錦絵風に描かれたホテルの全景

これに応じて手を挙げたのが現在の清水建設の二代目清水喜助です。すぐ許可が出て、喜助は慶応三年八月に着工し、一年後の慶応四年八月に完成しました。この年は九月から明治元年ですから、上野の山で彰義隊の戦もあった動乱の時に、喜助はホテルを建設していたことになります。場所は銀座を東へ行った勝鬨(かちどき)橋の右袂(たもと)で、いま駐車場ビルがある所。その手前を入ると築地の魚市場。波除(なみよけ)稲荷(いなり)の後ろです。

設計はブリジェンスというアメリカ人で幕末から明治の初めに新橋・横浜駅や横浜税関などたくさんの西洋建築を手がけています。建物の規模は二階建に三層の展望台が付いて、部屋数一〇二室、なんと水洗トイレ付きでシャワー、バー、ビリヤード室もあった。建物もいい、景色もいい、料理もなかなかおいしい、「江戸にもうこんなホテルができたのか」と外国人に評判となった。もっと驚いたのが江戸ッ子やお上(のぼ)りさん。見せてくれ、と大勢詰めかけるので、喜助は門番を雇って木戸銭をとって見せた(笑)。ディズニーシー並みです
(笑)。残念ながらこのホテルは明治五年に「銀座の大火」で一緒に燃えてしまった。残っていれば文化財ですね。
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ワシントン海軍造船所見学
アメリカでたくさんの物を見学しました、その中で最も大事な見学がこの海軍造船所の見学だと思います。先ほど咸臨丸の絵を教科書から外すべき、と申しました。そのあとに入れるべき写真がこれです。造船所というと船を造る場所、と思うでしょうが今日はその概念を変えていただきたい話をします。造船所へ行ってみるとまず案内されたのは大きな工場です。そこでは鉄の塊を運んで来て溶かすと、たくさんの鉄の部品を造っていました。


船で使う蒸気エンジンのボイラー、湯を沸かす窯、蒸気や水や湯を運ぶパイプ、歯車、シャフトなどあらゆる鉄製品を造っていました。向こうでは大砲やライフルの部品を造り、組み立てている。大砲の弾がいっぺんに百発出来る、と日本人は驚いています。船室のドアノブまで作っていました。

次に案内されたのは木工所。当時の船はまだ木造船ですからたくさんの木材を運んできて板に挽(ひ)き、船体、船室、階段、手すり、天井、床などを造っている。また蒸気船といってもふだんは石炭を節約して風で走っているから、帆布の工場やロープ工場もある。それらを見た後さらに向こうへ行くと、部品を集めて「船も」造っていました。造船所は船だけ造るのではない、総合工場だったのです。それを見学した後の記念写真がこれです。

見学者達の集合写真、日本時人は、チョンマゲ頭、羽織袴姿、刀を差してる

この時小栗忠順はこう考えたらしい。「日本はアメリカに比べるとはるかに遅れている。近代化を国際レースとすれば、欧米諸国はもう既にスタートして背中が見えないほど先を走っている。日本はまだスタートラインに立つ支度が出来ていない。何を準備したらスタートラインに立てるのか。ないものだらけの日本はまず何を準備すべきだろうかと思案していたら、この造船所の見学で準備すべきはこれではないかとわかった。こういう総合工場を設ければ、いろいろな部品を補い合って製品を造ることが出来る」

しかし、そうはいっても「では、どこに、どうやって、誰の指導を受けて、予算いくらでこういう造船所が出来るのか・・・」わからないことだらけです。見学を終えてそれを考え始めている時の小栗忠順の顔がこれです。この見学と着想が、帰国後に横須賀造船所という日本初の総合工場を生み出したのです。
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ネジ釘
この時のお土産と思われるネジ釘が東善寺に一本残っています。ネジ釘は種子島(たねがしま)の鉄砲とともに渡来し、鉄砲鍛冶が作っていましたが、それは一本ずつヤスリをかけてつくる「ネジみたいなもの」です。造船所で同じ規格のネジをどんどん造っているのをみて、日本もこういうものをどんどん造れる国にしたいと思ってお土産にしたうちの一本です。もらった人は使ったでしょうか? 使えませんでした。まだどこの家にもドライバーがなかった時代です(笑)。このネジ釘は、昨年春、遣米使節一五〇年記念の展示会がニューヨーク市立博物館であって、貸してほしいということでニューヨークへ里帰りして展示され、秋に戻ってきました。
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鉄の国アメリカ
もう少し日本とアメリカの違いをお話します。ワシントンで泊ったウィラードホテルで、日記に「外の柵はすべて鉄の棒を並べてある」と書いています。日本なら竹か板を並べて塀にするところが、鉄の棒だった。川に鉄の橋が架かっていて、欄干も鉄で、そういう橋があと四つ見える。ゴミ捨て場には使われなくなった鉄製品が捨ててあって、誰も拾ってゆかない。まさに鉄が余っている国でした。

フィラデルフィアの近くで汽車が止まった。見ると大きなサスケハナ河があって橋が架かっていない。船に乗り換えるのだろう、と下りる支度を始めると係官が「まだ乗っていてください」という。汽車ごとそっくり船に乗せて川を渡り、向う岸に着くとレールをつないでまた走りだした。画像の煙突は船の煙突で、いま走っているから煙がモクモク出ている。汽車はいまエンジン停止だから煙が薄く描かれていて、リアルです。「汽車の中で眠っていた奴は、河を渡ったことに気づかなかったろう」と日記に書いています(笑)。

モクモク煙を出しながら走る船

昨年このフェリーを調べに行って、「メリーランド号」と名前がわかりました。こういうものを経験して、日本との差を極端に見せつけられたことと思います。とにかくこの国は鉄が余っている国、日本は木の国、紙の国。何とかして日本を鉄の国にして欧米諸国に追いつかなければならないことを痛感させられて帰国します。
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横須賀製鉄所から日本の産業革命
こうして帰国した小栗上野介は終始造船所建設を主張していて、帰国四年目にそれが認められ、五年目に着工にこぎつけたのが横須賀造船所になります。JR横須賀駅の先のヴェルニー公園の対岸には、日本で最初のドックがあります。今でもこの施設はそっくり残って使われています。ただし、現在は米軍横須賀基地で、簡単には入れません。ここははじめ製鉄所と言っていました。

日本で最初のドグ

製鉄所といってもこのころは「鉄製品を製する所」で現在の意味と違います。明治の初めに名前が造船所と変わり、製鉄所は「鉄鉱石から鉄を製する所」という現在の意味になった。これは要注意の言葉です。そして造船所から海軍工廠となり、いまは米海軍横須賀基地です。対岸のヴェルニー公園の真ん中に小栗上野介とフランス人技師長ヴェルニーの胸像が据えられ、ドックの方を見ています。

十字架のお墓はバスチャンここがワシントン海軍造船所と同じ総合工場だというお話をします。
たとえばここに長い工場がある。「製綱所」と書かれています。よく見ると「金へん」ではなく
「糸へん」です。これは間違いではない、ここが「綱を製する所=ロープ工場」とわかります。日本で最初のロープ工場です。だから建物が長い。そのうちに民間でもまねして作りはじめ、しだいに民間の技術が上がって、もう買ってくれば間に合う、となると明治二十二年にここは操業を停止して建物は取り壊されました。

向こうには帆布を造る製(せい)帆(はん)所もあります。また鉄製品はこの鋳造所・旋盤所のあたりで造っていました。大きな煙突はここに一本ありますが製鉄はしていないから溶鉱炉ではありません。製鉄をする溶鉱炉は鉄山の近くに置かないと無駄な石を運ぶことになる。横須賀に鉄山はありません。こういう史料を見ないで小栗上野介を非難する学者が「小栗上野介は、・・・・・・横須賀に軍需工場を作って軍艦を造るという構想を持っていた。

そうして、徳川の新しい政権を作ろうというわけだが、これは実にぞっとする構想である。結局はフランスの属国のようになる・・・」「・・・横須賀に大きな溶鉱炉かなんか建てる・・・」(谷沢永一・渡部昇一『封印の近現代史』ビジネス社)と書いているのは全くの見当違いで、小栗を逆賊とする明治以来の歴史観でみている学者とわかります。

最近出版した平凡社新書『小栗上野介』に書いておきましたが、この横須賀造船所を定義づけると、「本格的に蒸気機関を原動力とした日本最初の総合工場」と言えます。幕末になって佐賀藩、薩摩藩、水戸藩、幕府などが近代化、工業化を手掛けましたが、いずれも充分なものになれなかったのは、原動力が蒸気機関でなくて水力に頼っていたことによります。水力では大砲の筒をくり抜くのに、丸一昼夜かかってやっと三〇センチでした。横須賀には大きな川はありません。はじめから蒸気機関を原動力とする設計で建設されています。まさに日本に産業革命をもたらした工場、と言えます。

造船所建設の計画段階では幕府内外に多くの反対がありました。勝海舟は「造船所を造って船を造り、艦隊を造っても、操船する人材がまともでないと艦隊は動かせない。日本が欧米に追い付くには五〇〇年かかるから、人材教育を先にした方がいい」とハッタリを言って反対しました。その勝海舟が明治になると「海軍の父」と呼ばれているのはおかしなことです。船を造り修理できなければ海軍は成り立ちません。
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幕府の運命、日本の運命 
そういう多くの反対の中で、ある人が「幕府の運命もなかなか難しい。これから大金をかけて造船所を造っても、出来上がる頃には幕府はどうなっているかわからない」と遠回しの反対論を語りました。それに対して小栗上野介が居ずまいを正して言った次の言葉を、近年その出典が確認できたのでご紹介します。

「幕府の運命に限りがあるとも、日本の運命に限りはない。私は幕府の臣であるから幕府のためにつくす身分ではあるけれども、結局日本の為であって、幕府のしたことが長く日本のためとなって徳川のした仕事が成功したのだと後に言われれば、徳川家の名誉ではないか。国の利益ではないか。同じ売り据え(売家)にしても土蔵付売据の方がよい。あとは野となれ山となれと言って退散するのはよろしくない」 (島田三郎「懐舊(かいきゅう)談」・
『同方会報告』明治二十九年六月・第一号)

盟友であった栗本鋤雲は「小栗は、これが出来上がれば、土蔵付き売家の栄誉が残せる、と笑った」(栗本鋤雲『匏(ほう)庵(あん)遺稿(いこう)』)と書いています。「土蔵付売家」とは母屋(日本国の政権)は家主の徳川家の所帯(しょたい)廻しが古くて、もう間もなく売りに出る(家主は出てゆく)。売家に門や塀が付いていれば価値がある。横須賀造船所という土蔵をつけてやれば、新しい家主(新政権)が役立てるだろう、という意味ですね。江戸っ子のシャレです。

似たような言葉でこうも言っています。
「親の病気が重くて、もう治る見込みがないからといって、薬を与えないのは親孝行ではない」(東洋文庫『幕末政治家』 福地源一郎著・平凡社)親とは徳川家ですね。自分は旗本として長いこと仕えてきたからもう治る見込みがないことはわかっていても最後まで、永らえるよう手を尽くすのが務めだ。さらに続けてこう言っています。「たとえ国が滅びても、この身が倒れるまで公事に尽くすのが、真の武士である」(同書)まさに小栗上野介は真の武士であろうとしたことがおわかりいただけると思います。
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富岡製糸場は横須賀製鉄所の妹
この製綱所の建物をよく見ると、富岡製糸場によく似ていることがわかります。実は富岡製糸工場の建物は横須賀製鉄所の建設指導をしていたフランス人建築技師たちの書いた設計図で作られ、建設には横須賀から派遣されたバスチャンという建築技師が指導して出来上がっています。

建物だけではなく、横須賀でフランス人技師とのプロジェクトチームの進め方はすべておさらいが出来ていましたから、それがそっくり応用されて富岡製糸もうまく運営できた。富岡製糸場もやはり蒸気機関を原動力としていて、横須賀がお兄ちゃん、富岡は妹、と見ることができます。そういう歴史の継続性を教えないで、明治政府が明治五年に始めた、と突然変異でうまくいったように教えているのは、おかしなことです。

ちなみに、富岡でバスチャンは富岡製糸場の建物を造ったと尊敬されていますが、横須賀のフランス人技師の給料表を見ると建築部門の三番目くらいの人とわかります。設計図はみんなで書いた。建築工事はお前でいいだろう、と富岡に派遣されたことがわかります。

司馬遼太郎は「横須賀はかつて日本近代工学のいっさいの源泉であった」(『三浦半島記』)と書いています。まさにその通りで、ここから日本中に近代工学の種がまかれています。
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東郷平八郎の感謝
明治四十五年に小栗上野介の遺族を自宅に招いてお礼を言ったのが東郷平八郎です。東郷は「先頃の日本海海戦においてロシアのバルチック艦隊を完全に破ることができたのは、小栗さんが横須賀造船所を造っておいてくれたおかげです」とお礼を言いました。ただし、話だけだと作り話ではないか、と思われますが、東郷はご馳走をした後、記念にと書を揮毫(きごう)して贈りました。それがこの書額で、これが残ったのでその話は本当だという証拠になります。十五年前、毎年小栗まつりを行いたいと計画し小栗家の子孫に案内を出したら「行けないが、この書額を家に置いても仕方がないから、皆さんに見てもらってほしい」と東善寺に寄贈されました。

東郷平八郎の書

「仁義禮智信」と書いてあります。孔子(こうし)の教えで「五常(ごじょう)」とも言います。この中の「義」とは、人間として見過ごすことのできない場面では、手を出す、品物を提供する、お金を出す、力を出す、そういう行為を「義」と言い、「義の人」と言います。近年は若い人に「義」と言ってもピンとこないので、ボランティアと言い換えて紹介しています。ボランティアというとゆとりのある人がちょっと手伝う、というイメージがありますがそうではない、正確に訳すと「義勇兵・志願兵」となりますから、命がけのボランティアになるのです。仏教では布施と言います。布施にも命がけの布施があります。

先ほど小栗道子夫人は会津へ逃れたと言いましたが、その時母堂の邦子と、養女で養子又一の婚約者鉞子(よきこ)も同行しています。江戸育ちの女性だけでそんな大旅行はできません。権田の村人が護衛隊を作ってみんなで守って行きました。険しい山や川を越えて、ちょうど今頃の季節に、雨の中風の中を行ったわけです。会津に着くと大勢ではお金がかかりますから、何人か、帰そうとします。農民は帰らないでそのまま会津軍に加わって会津戦争を戦い、会津で二人の若者が戦死しています。いま喜多方市の二ヶ所に佐藤銀十郎、塚越冨五郎のお墓と慰霊碑があります。

そして明治二年に会津を出て、東京から静岡まで送り届けて村人は帰りましたが、帰ってきていくら御礼をもらったか。御礼をすべき人は殺されてしまい、家財道具・財産はすべて西軍が没収して売り払い、軍資金にして持ち去りましたから、一銭の御礼ももらっていません。まさにボランティア・布施でした。

かつて私は、小栗上野介が偉かったから村人からお布施をいただけたのだ、と解釈していました。近年になってそれだけではない、と気が付きました。もし途中で村人たちが、この先どうなるかわからない、危ないから帰ろう、と夜中に山の中に置き去りにして村へ帰って、親が、子供が病気だったから・・・、田んぼが心配だったから・・・、と言い訳してもその時は「仕方がないね」で済んだことでしょう。しかし言い訳は一四〇年保(も)ちません。

のちにこの土地に小栗上野介の事績を訪ねてきた人に、「村の人は途中の山中に小栗夫人たちを置き去りにしてきたので、その後どうなったかわからないのだそうですね」と言われる村になっていたら、今頃は胸を張って小栗上野介を語れない地域になっていたことと思います。そうするとこのお布施は小栗家だけではなくて、後世の私たちまでもいただいていたのだ、と気が付きました。ぜひ皆さんも、若い人に日本人の誇るべき行いとして語り伝えていただきたいと思います。
ご静聴ありがとうございました。(拍手)
                     

付録
画像をクリックすると8月末に訪問したブータンのページに飛びます。
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ブータンの聖地・タクツアン僧院



「追伸」

8月19日の講演の様子が、取材したファスニングジャーナルに掲載されています。
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http://www.nejinews.co.jp/news/business/archive/eid4009.html




文責:村上泰賢・三上卓治
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:和田節子


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