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平成23年8月26日 神田雑学大学定例講座N0563


内田嘉吉文庫の魅力とこれから


目次
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メニューの先頭です 1.はじめに
2.内田嘉吉文庫の基礎
2-1.内田嘉吉文庫のなりたちと変遷

2-2.内田嘉吉文庫新たなる魅力の発見
2-3.ジャングル探検隊
3.内田嘉吉文庫の特別な魅力
3-1.今の時代と皮膚感覚の遠い逓信省、海外運営の拓夢局の仕事にかかわる蔵書
3-2.豊富な海外渡航、国際交流、世界とのふれあい
3-3.官僚としての戦争への関与、軍隊を持つ常識、日本の官僚的先駆者
3-4.後藤新平と内田嘉吉、台湾・満州・明治大正を生きる
3-5.グローバル化の先駆け
4.日比谷図書文化館の形成
4-1.マルチなゲートウェイ蔵書として活用
4-2.新たに開始されるジャングル探検隊
5.水谷剛講師 内田嘉吉文庫との出会い
6.内田嘉吉文庫の魅力
6-1.『日本百科大辞典』三省堂書店
6-2.愛用 歴史辞典(年表)
6-3.『群書類従」塙 保己一(1746-1821)
6-4.「異国叢書」駿南社 13巻
6-5.『米欧回覧日記』久米 邦武
6-6.『National Geographic Magazine』
7.臼井良雄 自己紹介と内田嘉吉文庫とのかかわり
8.私が見た内田嘉吉について
9.私が魅せられた内田嘉吉文庫中の本



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1.はじめに

司会千代田図書館企画幸田さん 私は千代田図書館で企画を担当しております幸田と申します。
千代田図書館では、永らく所蔵してきた内田嘉吉文庫が新たに発足する「日比谷図書文化館」に移管されるのを記念して、2011年8月26日、27日、すなわち今日明日の2日間ですが、特別企画展「内田嘉吉文庫 新たなる船出-千代田図書館から日比谷図書文化館へー」を開催しております。
そして神田雑学大学様と共催で関連講演「内田嘉吉文庫の魅力とこれから」を3人の講師の方にお願いして、ただいまから開催いたします。
まず最初に千代田図書館ゼネラルマネージャーの菅谷彰より内田嘉吉文庫の概要とこれまで、そしてこれからの利用法についてお話しさせていただきます。
その後内田嘉吉文庫に魅せられた水谷剛氏、臼井良雄氏のお二方から同文庫の魅力について熱い思いを語っていただきます。


千代田図書館ゼネラルマネージャー菅谷彰講師 千代田図書館のゼネネラルマネージャーの菅谷です。最初の30分、私が時間をいただきまして「冒険の内田文庫、新たな走り出しにむけて」というテーマでお話をさせていただきます。
私の話は(1)内田嘉吉文庫の基礎、次に(2)内田嘉吉文庫の特別な魅力、最後に(3)内田嘉吉文庫のこれから という構成になっています。
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2.内田嘉吉文庫の基礎
2-1.内田嘉吉文庫のなりたちと変遷

内田嘉吉文庫というのは内田嘉吉さんが昭和8年に亡くなった後で、当時の東京府立図書館に寄託された本です。
その時代の東京府立図書館というのは日比谷図書館が中央館、そのほか分館が3つありまして、京橋、深川、駿河台となっていました。
たまたま日比谷の中央図書館の書架が満杯だった結果、今の千代田図書館の前身である駿河台図書館に寄託されました。
千代田図書館閉架書庫内内田嘉吉文庫 約16,000冊の蔵書で内約12,000冊が洋書、4,000冊の和漢書という構成になっています。

内田嘉吉が亡くなった直後はかなり利用されていたのですが、戦争後は時代が変わり、このような戦前の本が皆様の目に触れることは少なくなりました。
東京オリンピック前後に、千代田図書館の管理係長で鈴木理生さんという方がいらっしゃいまして、その方がかなり研究して発掘なさいました。
この方は江戸・東京の歴史や地理で多数の著作があり、出版業界では有名な方です。
今回も当時の鈴木理生さんが作られた展示パネルをそのまま使った、「古地図による西洋から見た日本」の展示を再現して、会場の左側に並べておりますが、そうやって発掘に努力なさった鈴木理生さんが定年で図書館を辞められたあと、また内田嘉吉文庫は不遇な時代を迎え、20数年一般の人たちの目にほとんど触れることなく来たのです。
2007年に千代田図書館が旧庁舎からこちらの新庁舎に移転になったとき、民間運営になりましたが、その時にたまたま私どもの会社がそれを受託しまして、私もはじめて内田嘉吉文庫に触れたのです。
私はその蔵書の面白さの魅力ににとりつかれ、今まで書庫の奥深くしまわれていた歴史のわからない本についても、出来るだけ皆さんで研究しようという考え方に立ちました。
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2-2.内田嘉吉文庫新たなる魅力の発見

昭和8年当時の財・政界のそうそうたる顔ぶれが、内田嘉吉を称え、彼の旧蔵書を文庫化するための記念事業会の実行委員に名を連ねています。
内田嘉吉は台湾総督をやったり貴族院議員をやったりしていますから、その人脈があったのでしょう。
鈴木理生さんが執筆した『千代田図書館八十年史』にも内田嘉吉文庫の紹介がされています。
「世界的に貴重なコレクション」「東西交通関係の古刊本の豊富なこと」とありますが、今、東西交通関係の古刊本なんて言っても皆様には何が重要か分からないと思うのです。時代感覚が少し合わないので抑制された表現になっていました。

私が見たところ、もっと身近な魅力がありました。
例えば大航海時代の冒険書、探検記録を非常に多く集めていること。 マゼラン、コロンブス、ドレーク、クックなど有名な人以外にもたくさんの冒険者たちの記録があるのです。
また当時は日本が台湾を統治し、満州に進出をしていた時代ですから実際の台湾統治資料などを豊富に保有していることです。そのような資料というのは今ではそんなに目に触れるものではないのです。
それから第一次大戦前後の当時の世界の国家経営、政治情勢などが全方位的に見えること 。
この全方位ということは非常に大事だと思います。普通文献を漁りますと、右的な表現の資料がまとまっていたりしますが、後藤新平や内田嘉吉の時代は全方位を調べている。
ヨーロッパやアメリカについてもソビエトの革命についても民間の評論家の話も軍部の出した釈明書もあるという具合で極めて全方位的です。
内田嘉吉文庫の面白いのは内田が全方位に資料を集め、それを読んで自分の考えを固め、実際の行動をしていたというところです。
後藤新平と内田嘉吉は物事をなすにあたって調査を重視したことでも有名です。
満鉄調査部を作ったのも彼らですし、内田は洋行の度に、いろいろな調査機関やシンクタンクを訪問しています。
私は内田嘉吉文庫は内田の個人的調査機関としての役割をもっていたのだと思いました。
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2-3.ジャングル探検隊

これらのよくわからないけれど魅力がありそうな資料群の中身をなんとかより分かるようにしたいということで、千代田図書館ではジャングル探検隊という企画を3年前の夏休みに3日間やりました。 講演中の菅谷彰講師
方向性も解らなかったが、ひたすら好奇心旺盛な人が、それぞれ自分の世界で、面白さ発見という、極めて面白い世界が始まりました。
ひたすら道に迷い、でも多くの人が全く違う方面からものを眺めるという実にすばらしい集まりでした。当時は古い洋書の発行年すら読めません。まあすぐ読めるようになりましたが、例えばMDCCILなんて書いてあると、これは1749年という表記なのです。
はじめは20名くらい参加しましたが、みんな素人、一人考古学者の先生がいらしたので、いろいろ教えを受けながら調査に入りました。

ジャングル探検隊の活動はその後も続きました。
私たちは自分たちの知識がないことについては全く恥だと思っておりませんで、できるだけ多くの方に経験したこの面白さを伝えたいという大胆さを発揮し小冊子を発行しました。
国会図書館にも納本されています。参考文献も掲載されており、入門の手引として便利な本です。 また、探検隊員5人によるセミナー(神田雑学大学講演09年2月13日で神田雑学大学のホームページhttp://www.kanda-zatsugaku.com/090213/0213.htmlで閲覧が可能)も開き、着実に内田嘉吉文庫の内容が見えるようになってきました。しかし、それもほんの氷山の一角です。
このセミナーでは内田文庫の魅力を、明治大正から昭和初期を生きた政治家実業家の教養書群として捉えるという視点、息子から見た内田嘉吉という視点、本そのものの面白さ、貴重さという視点でいろいろ語られています。

80年の時を経て、蔵書全体の保存状態は良いが、しかし個別にみると劣化、破損も進んでいます。一部の補修を行い、リストも再整理、 貴重書のリストも再整理し、写真も撮り直し、今日までいろいろやってきました。
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3.内田嘉吉文庫の特別な魅力

内田嘉吉文庫には、歴史研究家が調べるような、歴史の真実を検証するような書簡等の一次資料はほとんどありません。
当時に発行されたり、流布した教科書的資料や探検記、調査報告書ばかりです。
しかし日本史、世界史の教科書に掲載されるような有名な書物はたくさんあります。
区立図書館が所蔵するには珍しい本ですが、専門の研究機関や国会図書館などでは所蔵されています。
直筆本などのようにこの世に1点しか存在しない特別な書物でもありません。
また、図書館の実用(利用・保存)に供するために、修理や装丁変更などが行われてきました。
そのため内田嘉吉文庫には、博物館が文化財を保存するような「そのままの形・状態で後世に伝える保存」は求められていません。
例えばペリーは皆さんご存知でしょうが、彼が日本に遠征したあとアメリカ国防総省は3冊の立派な報告書を出しています。
それがこの本です。これは横浜の開港資料館に行けばあります。
それはこういう装丁ではありません。当時の立派な古色蒼然の装丁本です。
そのかわりほとんどの方はその本をガラスケース越しにしか見ることが出来ません。
千代田図書館は本の中身を見ていただいていたので、装丁が痛むと装丁替えをしています。中身は昔のままですが、装丁は新しくなっています。
一方古書としての価値は半減しているわけです。

しかし、このコレクションの価値は、その当時の日本の逓信省という、その当時の日本のトップエリートの蔵書を見ることにより、彼らの頭脳に入っていた知識の集積が一目でわかることだと思います。
例えば、明治大正の偉大な政治家・後藤新平が震災復興の点から脚光を浴びるようになっており、その足跡は多くの資料により解説がなされていますが、その頭脳にあった知識の全貌は素人にはよく見えません。
大風呂敷と言われた膨大な復興計画を描いた背景になっている知識、ブレーンがいてその資料はあったはずなのです。
内田嘉吉文庫に所蔵されている都市研究会発行の雑誌バックナンバーや米国チャールズ・ユー・ビーアド博士の提案書などは、それらトップエリートの頭脳にあった知識の一端を垣間見させてくれます。
そういう意味では内田嘉吉文庫は、日本のトップエリートの知識・教養が本としてラインアップされている点で価値があると思います。
ではどんなジャンルのどんな魅力ある本があるのかを簡単にまとめてみましょう。
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3-1.今の時代と皮膚感覚の遠い逓信省、海外運営の拓務局の仕事にかかわる蔵書

逓信省は運輸省、電電公社を合せたようなものでしたが、台湾、朝鮮、満州を見るところでもありました。
内田嘉吉は若くして逓信省に入り、最後には逓信次官にまでなり、途中では満鉄の企画や台湾民政長官もやっています。そして貴族院議員になっている。そんな内田の活動を支えた知識の源である資料が揃っています。
その内容は逓信省の仕事の広さと比例して全方位的と言ってもいいくらいいろいろな分野、偏らない視点でのものです。
またその仕事の幅広さに比例した人脈の広さを伺わせる献呈本なども数多くあります。
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3-2.豊富な海外渡航、国際交流、世界とのふれあい

あの当時海外に行くのには船に乗って10日間、向こうについて一カ月滞在、こういう話です。
こういう中で海外で多くの書籍を購入し、また、外国政治家にもらった書籍も多いという話です。
当時の丸善から言えば、内田嘉吉は大得意様だったのです。
こういう環境の中で結果としてなかなか求めがたい貴重書のコレクションができています。
明治・大正・昭和の初期の世界を見るという意味でも面白い資料や本がそろっています。
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3-3.官僚としての戦争への関与、軍隊を持つ常識、日本の官僚的先駆者

今の政治家さんたちは戦争についての知見なんかないのでしょうが、当時の官僚になるということは自分の傘下に兵隊を持つということになるのです。
ちょうどこれからNHKテレビで放映される「坂の上の雲」の時代の官僚ですから、役人は軍隊運用も当然ながら業務の一部、知識として持っていなければなりませんでした。
ですから有名な戦争のための参考書、マハンの『海軍戦略』なども当然蔵書にあります。
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展示物説明風景

3-4.後藤新平と内田嘉吉、台湾・満州・明治大正を生きる

ちょっと脱線しますが、内田嘉吉を語るには後藤新平との関係を抜きにしては語れないため、二人の関係について少し話します。
後藤新平はカリスマの政治家と言われていまして、内務大臣、外務大臣、逓信大臣を経験し、総理大臣にあと一歩まで行った大人物でした。
官僚、あるいはテクノクラートとして優秀で、若い時から児玉源太郎に買われ、台湾民政長官や東京市長、関東大震災の復興院総裁なども務め、危機に登場するタイプの政治家でした。
私が後藤新平を偉いと思うのは震災の後、自分の階級から言うと2ランクくらい下の復興院総裁の職を引き受けているところで、これは日露戦争の時の児玉源太郎と同じです。
内田嘉吉は後藤新平の9つくらい年下になるのですが、後藤新平との関係では内田嘉吉のほうが満州鉄道経営の企画に先にかかわっていて、そのあと後藤新平が満鉄総裁になったり、台湾の民政長官を後藤新平は長くやっているわけですが、その後の民政長官を内田嘉吉がやったりしています。
役職でいえば部長と課長の関係みたいな役割を生涯やっています。
後藤新平の伝記を読んだ方は気付くと思うのですが、彼は非常に気難しい人で渋面顔ばかりしているのです。
それが唯一違うのが、晩年やったボーイスカウト運動の時の写真で、その時の写真は非常に幸せそうな顔をしています。
その時に内田嘉吉も副会長として後藤を助けボーイスカウト活動をやっていて、パリの世界ジャンボリーへ参加しています。
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3-5.グローバル化の先駆け

帝国大学の勉強は当時は外人講師が多く教科書は洋書主体という時代に内田は勉強しています
。翻訳本など無い時代に内田は、東京外国語学校と東京帝大を出ていますから、思考形態も国際感覚そのものです。
ですから彼が集めた12,000冊の洋書はただ集めたというのではなく読んでいたのではないかと思います。
その結果海外との交流も充分できたのです。
こんな言い方をするとまずいかもしれませんが、今の政治家たちとの勉強量の差を皮膚感覚で体験してもらいたい。
そのほか洋書の幅広さが圧倒的で、意図を持った歴史鳥瞰のもとに集められている。
たとえば台湾を統治することを頭に入れて300年前からの大航海時代の本を読み漁って、そのうえで植民地政策を組み立てていたのだろうと感じられます。
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4.日比谷図書文化館の形成

今までこういった本は千代田図書館の閉架書庫のなかにあって、一般の方にはほとんど利用されていません。
今度は日比谷図書文化館において、利用しやすい形で提供します。

都立日比谷図書館は千代田区立の日比谷図書文化館として11月初旬に衣替えしてオープンします。
その日比谷図書文化館の4階に特別研究室・書庫を設置して皆様方に蔵書を手にとって見ていただくことを計画しています。
こういう本はやはり身近で触ってみないとわからないのです。
ふつうはこの当時の本は、ほとんどガラスケースの中ということで、普通は触られないのですが、この特別研究室・書庫ではそれを可能とします。
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4-1.マルチなゲートウエイ蔵書として活用

例えばそこでは「坂の上の雲」を3倍から10倍楽しんでみようという人たちに、より深い情報を探して読む機会を提供できるのではないでしょうか。
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4-2.新たに開始されるジャングル探検

またこの特別研究室・書庫は新たに開始されるジャングル探検の場として、より新しい本の魅力を発見していただく場所になることを期待しています。
皆さんに知的冒険の機会をいかに提供できるか、その運営をしていかなくてはなりません。皆様ぜひご参加ください。
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5.水谷剛講師 内田文庫との出会い

私は、10年ほど前に、九段下の近くにオフィスがあったものですから、旧千代田図書館に週1,2回通っていました。
ある日玄関を入りましたら、内田文庫の図書の展示がしてありました。
水谷剛講師
そこで初めて内田嘉吉という名前を知りました。ジャングル探検隊の一員であり先ほどお話があったように迷い込んだら出られないという状態で魅力に取りつかれております。
内田嘉吉の魅力は何でしょうか?
人物を知るにはその人の書庫を眺めると分かると言いますが、内田嘉吉という人は私も書庫を見て初めてわかったのですが、すごい人です。
をの理由を下記に5点要約しました。 内田嘉吉とは
●読書人・教養人(博覧強記)
●歴史家的視点を持った実務家
●外国語の達人
●海外通(国際人):海外滞在14回、各期間1ヶ月から12ヶ月
●冒険探検好き、好奇心にあふれた人 ・・であり、

内田嘉吉の経歴は先ほども菅谷さんからお話がありましたが、いろいろな要職についています。
●高級官僚:逓信次官、台湾総督
●産業人:化学工業協会、日本産業協会、日本無線電信(株)
●教育者:東京商業学校、少年団日本連盟

人生では良き先輩に巡り合えるか否かが運命を分けることがあります。
内田嘉吉は菅谷さんが先ほど述べましたが、後藤新平と知り合いともに仕事をするようになって、大きな存在になった人だと思います。
渋沢栄一ともそういう関係にありました
。内田嘉吉文庫の中には二人との緊密な関係を物語る本が沢山あります。
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6.内田嘉吉文庫の魅力

いまからピンポイントで内田嘉吉が集めた本を紹介していきます。
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6-1.『日本百科大辞典』 三省堂書店

これは日本最初の百科事典です。1908(明治41年)~1919(大正9年)あしかけ13年かかって全巻出版されました。
三省堂はこの百科事典を出し始めてから一度倒産してしまいます。
日本最初の大百科事典
斉藤精輔という辞書編集者が三省堂の初代社長からスカウトされて、事業が開始されましたが、まず始め大隈重信を編集総裁として依頼、執筆者は巌谷小波(御伽話)、井上円了(怪異)、井上哲次郎(哲学)、池坊専正(華道)新渡戸稲造(拓殖)、本多光太郎(物理学)、嘉納治五郎(柔道)、幸田露伴(小説)高島嘉右衛門(易)、上野金太郎(大日本麦酒技師長:ビール)、島村抱月(英吉利文学)など、245名の豪華執筆陣に依頼しています。
日本で初めて随所にカラーの絵図頁を挿入して、眺めて楽しい百科事典になっています。
ところが、5巻まで刊行し、莫大な資金を要したため、三省堂が倒産しましたが、 その後大隈らが、この百科事典を完成させる運動を起し、大正9年に13年を要して無事に 全10巻刊行の偉業を達成しました。
ついでに、百科事典の起源を言いますと、日本では、1712年『和漢三才図会』寺島良安 、中国では、1607年『三才図会』、西洋では、975年前後『スーダ辞典』(東ローマ帝国)があります。
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6-2.愛用 歴史辞典(年表)

内田嘉吉は歴史家だったと先ほど言いましたが、こんな歴史年表をいつも座右に置いて見ていたようです。
●『掌中東西年表』(四海書房 岩井 大慧編 昭和6年5月30日)、本書は和(日本)・鮮(朝鮮)・漢(中国)・洋(西暦)の年号、帝王等を一列に配し一目で対照することができるものです。
●『日本読史年表』日本歴史地理研究会 日用書房・吉川弘文館明治36年
これは天皇、前皇、関白、太政大臣、左大臣、右大臣、管領、征夷大将軍、六波羅探題、京都所司代など主要役職赴任者の年毎の表記 をしたもので、なぜ歴史上の事件が起きたのかその背景を探る時の調査資料としていつも持っていたのでしょう。
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6-3.『群書類従』 塙 保己一(1746-1821)

塙保己一は今の埼玉県児玉町・保野木で生まれました。
この名前はその土地で一番という意味です。
群書類従
『群書類従』は、なんと総計1270種の和書666冊を編集し木版で印刷して刊行出版されたものです。
これは第一次『群書類従』と呼ばれるものです。そして第二次『群書類従』は2200種が、弟子たちによって保己一の死後出版されました。

塙保己一は7歳で失明しました。江戸の検校に弟子入りしたのですが、手が不器用で音曲にも向かず、按摩も下手、それで悩んで自殺しようと思い、この九段下の前にあるお堀、牛が淵で身を投げようとしました。
しかし死に切れず、両親が昔蔵書を読んでくれた経験を思い出し、まず世の中にはいろいろな書物があるが、その中で重要な和書を全部集めてみようと決心するのです。
本には「物の本」と「草紙」の2種類ありますが、「物の本」について全部集めて見ようと思ったのです。
当時このような本は大名とか公家が持っているだけでなかなか流通していませんでした。
それで按摩施療の機会を利用しては、そのお客様の本を読んでもらい、すべて記憶したのです。
有名なエピソードを紹介しましょう。
ある大名の奥方様に按摩治療をした後、施療代は要りませんからぜひ本を読んで頂けませんかとお願いしました。
それで夏でしたから奥さまは蚊帳の中で本を読んだそうです。保己一は蚊帳の外で手を縛って端然と座って聞いていたそうです。
なぜ手を縛っていたかというと蚊に食われたりして気を取られないように集中するためと言われています。
そのように言葉に尽くせない努力で、徳川幕府の紅葉山文庫にも自由に入っていいという許可まで貰って調べたのです。
盲人としての最高位である総検校(将軍にお目見得できる地位)となり、徳川幕府の許可を得て「和学講談所」を開設、史料の編纂が官からの委託事業として実現しました。
この組織は現在の東京大学史料編纂所に引き継がれています。34歳から始めて死ぬ2年前の74歳まで40年間もかけて彼はこの事業を民間事業としてやり続けたのです。
水谷剛講師講演風景『群書類従』の分類は今の日本十進分類法とは違って、25部門に分かれています。
たとえば鷹、飲食、この中には「包丁聞き書き」なんていう料理のレシピもあります。
また雑の分類の中には過去帳なんかの分類もあり研究者には大変有用な分類です。あらゆる分野に通暁していないと作れないものです。
これは木版印刷ですから、桜の木の板に文字を彫ったのですが、この木版の枚数が17244枚にもなりました。これは国の重要文化財になっています。
この木版は途中行方不明になり明治の後半に文部省の倉庫から発見されます。
その木版を使って、明治になって最初の刷り立てが行われました。
その第一回が明治44年(50名)、第二回が大正4年(156名)に刷って配布しますが、その第二回の顧客名簿の中に内田嘉吉の名前があります。
内田嘉吉文庫にはこのすべての666冊が入っています。
この第二回、大正4年の刷り立てを、昭和天皇が皇太子の時に初めて英国訪問したとき、土産として持参し、英国王室にっ献呈しています。
その同年の刷り立て冊には、「光栄記念」の朱印が押されているのです。 ですから内田嘉吉文庫の『群書類従』にはすべての表紙にこの朱印が押されています。このコピーを回覧します。
この英国王室に贈られた『群書類従』がいまどこにあるのか、温故学会(塙保己一の偉業顕彰目的で明治43年設立)の理事長から私が調査依頼を受けました。
昨日の講演でこの話をしましたら、会場で聴講されていた伊藤鉄也さんという国文学研究資料館教授がすぐメールでケンブリッジ大学の日本図書部門の部長の方に問い合わせて下さいましたらすぐの返事で、なんと「ケンブリッジ大学にあります。
光栄記念の朱印もおしてあります。
666冊全部が桐の箱に入っています」という返事だったそうです。伊藤先生の大変迅速な調査には、感謝します。
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6-4.「異国叢書」 駿南社 全13巻のうちの1、2巻

これは1929年(昭和4年)出版 されたもので、その初版本が『内田嘉吉文庫』にあります。
異国叢書
長崎出島に滞在した外国人の日本見聞録とキリスト教宣教師・東印度会社関係者の記録が主ですが、今日はその中から下記の3名の本を紹介します。
●ケンペル(江戸参府1691・1692) 綱吉(5代)
●ツンベルグ(江戸参府1775)     家治(10代)
●シーボルト(江戸参府1826)     家斉(11代)
この人たちはオランダ商館に医師として当時の長崎出島にきた人たちです。
昔は江戸参府旅行と言って阿蘭陀商館長と従者(医者等)が毎年将軍に挨拶する慣例があり、長崎からはるばる3カ月かけて江戸までの往復の旅をしていました。
江戸時代に全部で166回行われています。
この3人は医者であり動物学者であり植物学者であり地理学者でもあり、いろいろな多方面の知識を持っています。この3人の本の内容が最も面白いので一読をお勧めします。
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6-5.『米欧回覧実記』 久米 邦武

久米邦武は佐賀藩主の近習でしたが、有名な岩倉使節団の記録掛ということで明治4年12月~明治6年9月の期間 1年9ヶ月632日にわたる旅の記録を詳細にとっております。
米欧回覧実記初版
伊藤、木戸、大久保等明治政府のお歴々50名が行ったのですが、この中に中江兆民、長与専斎、金子堅太郎、団琢磨、 山川捨松12歳、津田梅8歳 などが含まれます。
米欧12カ国歴訪し帰国後明治11年博聞社で初版500部 を発行します。内田嘉吉文庫のものはその初版本です。その中には314枚の銅版画がありますので、絵を見ても楽しいです。
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6-6.「National Geographic magazine 」 

 

(画像をクリックすると大きな図が出ます)

アメリカワシントンに届いた関東大震災の地震波今は日本語版もあり有名ですが、この雑誌は歴史が古く、1883年創刊です。月刊ですが内田嘉吉文庫には1918年(大正2年)3月号から1931年6月号まで160冊が所蔵されています。
その中の1923年10月号 を見ると、大日本帝国特集号です。関東大震災が1923年の9月ですから、これはその直後の10月号です。
この中に急遽、大地震が起きたというのでその関東大地震の地震波が、アメリカのワシントンにあるジョージタウン大学の地震計に届いたときの写真が、掲載されています。
10月号ですから9月には印刷中だったはずですからすごい早技ですね。
今日はこんなところでお次に渡したいと思います。
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7.臼井良雄 自己紹介と内田文庫とのかかわり

   内田嘉吉の映像の前で講演する臼井良雄講師
私はリタイア後NPO法人神田雑学大学と言う生涯学習組織に入れていただき、毎週金曜日行われる無料講演会に参加して、色々な方々の講演を聞いて楽しんでいます。
その講座が千代田図書館と共催で行われる時もあり、そんな関係で、先程菅谷さんが述べた、千代田図書館のジャングル探検隊に参加しました。
私も書庫に入ったのはいいが何を見て良いのか分からず、立派な革装丁の地図とか切支丹本とかの挿絵を眺めているばかりでしたが、これではいかんと思いなおし、まずこの文庫を集めた内田嘉吉と云う人がどんな人なのか、この文庫のなりたちからから探ってみようと思いました。
その時の成果はこの黄色い小冊子にもまとめられていますが、以下簡単に、私がとらえた内田嘉吉像、そして内田嘉吉文庫にあった私が魅力を感じた本や資料について述べて見たいと思います。
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8.私が見た内田嘉吉について

いままで菅谷さんと水谷さんが述べていただいておりますのでここでは「内田嘉吉文庫」にある本の中で書かれている内田嘉吉について語ってみたいと思います。
まず息子の内田誠が残した著作『父』には
「書物は読みたいのであって、集めたいのではない」と常々言っていたとか、海外滞在中には「旅の空の夕暮れ、昼間のモーニングコートを着たままで散歩などをしたが、とある横町にふと古書でも目にとまると店に入りこんでなかなか動かぬばかりか、その翌日も会議などあり多忙であれば、昼食後のわずかな時間を利用してそこへ自動車を飛ばしたりすることも何度かあったのである」、また日本では、「この粗末な書斎の中で父は欣然として、丸善から届けられる茶色の紙包みをとき、外国の書店から送られた木箱の蓋をあけた。日々の業務を終え帰宅後、和服に着替えた父がそうしたことをしている様はさも安息になるようであった。」
と本好きの内田嘉吉を偲ばせるエピソードが述べられています。

また内田嘉吉の仕事ぶりについては、『内田嘉吉文庫稀覯書集覧』略伝中には
「君は資性剛健にして中正、胸中常に燃えるがごとき憂世愛国の精神を有し、その生涯は実に恪勤精励の一語に尽くと称するも敢て過言に非ざるべし。君は一面読書家にして博覧強記、尚判断の敏速、語学の練達を以って聞こえ、また海外事情の精通者として広く知れたり」
とあり、なかなか格調高く難しい表現ですが、この文章をもっと具体的に書いた本がありました。
内田嘉吉が台湾に行くまで夜間、先生をしており、帰国後も理事になり校長になって関わった『東京商業学校50年史』には当時学校で主事を務めた渋木直一が「今は亡い人」と題して内田嘉吉のことを書いています。
「学校の用件で私は折々台湾総督府出張所に伺った。また大森のお宅にも伺った・・・・。事務所でもお宅でも、平日は勿論日曜日でも、接客が前後して詰掛けて来る。私と対談中、刺を通ずるものがあると、時には『君の話しはゆっくりと聞くとしよう。これは簡単だから、一寸待ってくれたまえ』と後客を呼び入れられたこともあった。30分もする中に幾つもの用件が片付くのである。『その話しはこの前聞いた。忙しいからその先を話してくれたまえ。そう先から先の話をしても際限がない。今日はこれまでにしておこう。』という調子で、一週間も前か、ひと月も過ぎたこともあろうに、次から次と、種々異なった話しを良く記憶されていて、全く重要な部分を聞かれて、一つ一つ片付けられる、鮮やかさは敬服するばかりであった。・・・それからそれへと用談を順序的に、能率的に、しかも簡明直裁に処理せられる・・云々」
と書かれ、一方で庭を前にした日本間の座敷で「さあ、隆(孫)、おじいさんと相撲をとろう」というエピソードも書いています。

これらの本から浮かぶ内田嘉吉像は、付き合う人によって謹厳にも洒脱にも見えたかもしれないが、本質は、読書好きで物事の本質を見抜く鋭い知性とそれを受け入れることの出来るフレキシブルな精神、そして自分の正しいと信じたことを合理的に能率よく完遂していく行動力にあったのではなかったのでしょうか。

明治という時代には、西郷隆盛や大山巌に代表されるような自分は責任だけとって全て部下を信頼して大きな仕事をしたタイプの人材と、大久保利通に代表されるような、個人的能力が高く、自ら勉強し考え、周りをリードしていったタイプの人材がいました。
後者に山本権兵衛、児玉源太郎、後藤新平、渋沢栄一、明石元二郎、北里柴三郎などが入ると思いますが、まさに内田嘉吉は後者のタイプであったのだと思います。
前記渋木直一の「今は亡い人」に書いてある接客の風景はそれを彷彿とさせます。
このような合理精神を発揮して日本を引っ張っていた後者タイプのリーダーたちが昭和の初期にいっせいに亡くなって、マスコミもリーダー達も一挙に視野狭窄化に陥り、鬼畜米英のスローガンを真面目に叫び、急速に世界を相手に戦争する時代に入っていったような気がしてならないのは私だけでしょうか。
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9.私が魅せられた内田嘉吉文庫中の本

今回の展示はお配りしたパンフレットにあるように、内田嘉吉文庫をジャンル1からジャンル5までに分けて、さらにそのジャンルに入らない資料群をその他のジャンルとして、6つの群れに本を選び並べています。
ジャンル1や2では1600年代から1800年代にかけて、欧米で出版された豪華な貴重本が多く、言葉は読めなくても、素晴らしい銅版エッチング印刷の挿絵を眺めているだけで、時間のたつのを忘れます。
私は安土桃山時代や江戸時代の日本がこんなにも豊富に描かれた本を一度に見る機会は初めてだったのですが、有名なモンタナスの『日本遣使紀行』やシャルルボアの『日本誌』、家康や秀忠に会ったジョン・セリスの『ジョン・セリス航海記』などの貴重な原本に触れることが出来て感激しました。
フランスの有名な悲劇の探検家、ラ・ペルーズの『ラ・ペルーズ航海記』などは、まるで画集を見ているようで、太平洋各地で3人の画家によって書かれた挿絵には圧倒的な存在感があります。

(画像をクリックすると大きな図が出ます)

リンスホーテン制作の1600年前後の日本また私は、1500年代、1600年代に印刷された古地図を眺めるのが好きで、奇妙な形に描かれた日本の地図に書かれた地名をルーペで拡大して眺めています。
Meako Tonsa Bungoなどの宣教師たちによって早くから伝えられた名前の中に、現在では意味不明な地名も数多くあり、それ等がどこから来た名前なのか、実際の地名にあるのかなどを、「異国叢書」にある宣教師の手紙や現在の細かな地名の乗っている地図帳などと比較検討するのは定年後、沢山ある自由時間を楽しむ、格好の手段であると思います。

また同じように有り余る自由時間を使ってじっくり読みたい本に、ジャンル3の大正から昭和初期の時代を肌で感じさせてくれる、各種著作や講演集、調査資料があります。
これらは内田嘉吉の幅広い活動・人脈を反映して明治末期から大正そして昭和初期にかけての、日本で出版された種々の政治資料、講演資料、満蒙朝鮮関係の本、米国との関係についての本、植民地政策に関する資料・本、移民政策に関する資料・本、都市計画に関係する資料・本、化学工業振興に関する資料、合理化運動や安全運動に関する本や資料などです。

戦後になって、戦前の考え方は間違っているとされ、封印されてきたこれらの本は、内田嘉吉と云う一人の男の目によってスクリーニングされ集められ、その後震災にも遭わずに、現在に残っているのです。

●、619-234 『朝鮮統治問題に就いて先輩並に知友各位に訴ふ』  内田 良平
内田良平著『朝鮮統治問題に就いて先輩並に知友各位に訴ふ』
黒龍会の内田良平は日韓併合の黒幕だったと言われます。
「自分たちが韓国の同志たちと約束していたことを日本政府が結果的に裏切り、それによって今、韓国の同志たちは売国奴と言われ苦しんでいる、そして彼らは最も強力な反日勢力になろうとしている」
という怒りの書でどうして彼が日韓併合という策を韓国の改革派の人達と進めてきたのか、それが結果として彼らを裏切るような「結果」になっていることを、日韓両国の関係者の実名入りで詳しく述べられています。
今の歴史観の中では、右翼黒龍会の主催者内田良平は、完全な悪役ではありますが、その彼がこういう本を出しているのです。
一概に信じてはいけないかもしれませんが、こういう視点で見ていた人もいたと言うことは、参考になる本です。

また内田嘉吉文庫には内田嘉吉の幅広い人脈を反映して大正から昭和初期に行われた色々な講演会の資料が納められています。
それは貴族院で行われたものから、大学で学生たちを対象に行われたものまで各種たようにありますが、いずれも当時一級の学者や論壇人が、真剣に激動の時代をどう生きるべきかを語ったものです。
今回は下記のような資料が展示されています。

●600-4-1 貴族院定例午餐会講演集-1 貴族院事務局 1927年 
貴族院は定期的に午餐会を開き、広く世間の識者の話を講演会として聞いていました。
その演者、題目をみると、時局を憂い問題意識を持って、活動していたことが分かります。
内田嘉吉文庫には下記のような講演記録が残されています。
賀川豊彦「防貧策の科学的基礎に就いて」縫田榮四郎「ペルシャ視察談」森賢吾「外債成立の顛末ならびに欧米財政事情」丸山鶴吉「朝鮮事情」谷寿夫「インド政情及びアフガニスタンの近況」吉井幸蔵「豪州視察談」後藤朝太郎「支那国民性の半面につきて」嘉悦敏「支那最近の政情について」佐藤尚武「ソビエト露国の近況」小泉親彦「人間の能率に就いて」保科正昭「台湾及び南支那視察談」小畑大太郎「広東視察団」水谷光太郎「我邦の燃料問題に就いて」佐藤安之助「最近支那の情勢に就いて」河原田稼吉「英国の炭鉱争議に就いて」樺山愛輔、田中舘愛橘、水野錬太郎、田村新吉「第12回萬国議員商事会議に関する所感」田付七太「ブラジル事情」鎌田榮吉「南洋視察談」松村眞一「ソビエット連邦に関する雑話」徳川家正「最近における豪州事情に就いて」

●600-6  法政大学講演集   法政大学  1928年
法政大学は昭和2年5月より12月にわたり、財界の現状を主として学生に知らしめんために、財界第一流の読者にお願いして講演を仰いでいます。
当時の考えを知る分かりやすい資料だと思います。
日本綿花社長「喜多又造」三井合名会社常務理事「有賀長文」貴族院議員「添田壽一」東京市社会局長「御厨規三」貴族院議員「若槻礼次郎」三菱銀行取締役「山室文」不動貯金銀行頭取「牧野元次郎」評論家「長谷川如是閑」法政大学教授「小野武夫」法政大学教授「高木友三郎」法政大学教授「木村増太郎」など錚々のメンバーが国際貿易や経済動向、金融恐慌などの講演を学生たちにしています。

●600-7  講演(183号~203号)  東京講演会  1927年
昭和初期の非常にまじめな講演を当時の第1級の知識人たちが行っています。
日本のファッショ運動(永井亨)、日本の動向(中野正剛)、財政に関する所感(武藤山治)、満州建国第1年(駒井徳三)購買力補給案について(谷口吉彦)、日本モンロー主義と満州(金子賢太郎)、世界恐慌とその克服政策(阿倍勇)、誤られたるファッショーヒットラーとムッソリーニー(五来欣造)、日米関係について(関根郡平)、他沢山あります。関根の日米関係論は桂ーハリマン協定の分析が詳しく日米関係が今のようになった理由の根本に切り込んでいます。
これも当時の人の考え方に直接触れることができる本です。

また著作と言うよりは、資料と言うべきか雑誌と言うべきか、昭和3年前後から昭和8年にかけても毎月発行された調査資料協会編『内外調査資料』や文明協会編『文明協会ニュース』にも当時の色々な分野の人達の生の声が沢山書かれています。

600-1『内外調査資料』は1929年から1933年までの5年分60冊存在します。
色々な機関の調査が各個バラバラで一部の限定された人たちにしか目が留まらない現状をかんがみ、それらの調査資料を時局上重要と思われるものを網羅的に集め編集し、より多くの読者に実情を知らしめたいという趣旨によって新聞人や衆議院議員、貴族院議員など18名を発起人に、総理大臣田中義一をはじめ内田嘉吉など44名の賛助会員により設立された調査資料教会の編になる月刊誌です。
内田嘉吉は日本無線電信会社の社長として賛助会員になっています。

調査資料協会編『内外調査資料』


かなり使いこまれた様子で傷んでおり、内田嘉吉が政治活動をするための座右資料だったことをうかがわせてくれます。
現在でもこの当時のことを調査するには、貴重な資料であると思われます。

また内田嘉吉文庫には時代を反映し中国、満蒙、朝鮮問題を論じた本が沢山あります。
昭和の初期、満州問題で中国や国際連盟と軋轢を生じ、欧米の侵略を防ぐため朝鮮の近代化を願って始まったという日韓併合も実態は日本帝国主義の支配になり、関東軍は暴走し、これらの動きを是とする人も否とする人達も憂慮し、発言し、著作を数多く残しています。
内田嘉吉の人脈から言って内田嘉吉文庫には、これらの著作が数多く納められており、内田嘉吉がこの問題について強い関心をもっていたことが分かります。
興味深いものを下記に紹介しましょう。

●880-17 『舊緯国将校救助之件』  柳 錫泰 〔等〕1926年
99年前の1910年(明治43年)朝鮮を併合した日本政府は朝鮮総督府を設置し、陸軍の一体管理の一環で、1907年(明治40年)に韓国軍を解散させ、再編成させたが、そのとき数千の陸軍兵が路頭に迷うこととなり、その後、大正15年約300人の元将校たちが日本政府に対して俸給の復活を願い出たいきさつの記録です。
その後日本政府はこの願いに10の理由で却下したそうです。
朝鮮併合後の総督府による統治が、相次ぐ騒乱事件などもあり、うまくいかなかったことは、この願書の措置の仕方にも遠因の一部があると言われています。

●619-43 『日本植民政策一班』  後藤 新平  後藤新平の書いた植民政策論です。個性的な意見が述べられていて面白いです。

●626―242 『国際連盟に於ける日支問題』  宮元 利直 1929年
当時日本は国際連盟で活躍していました。国際連盟の事務次長をしていた新渡戸稲造と内田嘉吉は台湾で仕事を共にした仲間でした。
そんな関係でしょうか、これは一例ですが内田嘉吉文庫には国際連盟関係の資料が多々見られます。

また内田嘉吉文庫には陸軍省調査班発行の小冊子がかなりあります。海軍省の出したものも同様にあります。
昭和初期、上海や満州に出ていった邦人保護のために中国各地から撤兵できないという軍部の言い訳と、中国便衣隊による邦人虐殺の調査データなどが細かく載っている本が多くあります。
 支那事変拡大反対の国内世論を受けて、陸軍・海軍が国民にどう対応していたかが興味深い資料です。

(画像をクリックすると大きな図が出ます)

陸軍省調査班発行の小冊子●873-125 『満鉄付属地外出動部隊引揚の不可能なる所以に就て』  陸軍省調査班 編 1936年 
                       ●873-127『呼倫貝爾事件に就て 付呼倫貝爾の概況』 陸軍省調査班 編 1932年
●873-130 『満州事変に於ける昻々渓付近の戦闘に就て』 陸軍省調査班 編 1931年
●873-131 『哈爾濱付近の戦闘に就て』 陸軍省調査班 編 1932年
●873-133 『上海事件と陸軍派遣に至るまでの経緯』 陸軍省調査班 編 1932年
●873-134 『満州事変に於ける嫩江河畔の戦闘に就て』 陸軍省調査班 編 1931年
●618-60 『満州国成立の経緯と其国家機構に就て』 陸軍省調査班 編 1932年
●624-3 『連盟総会に直面して』  陸軍省調査班 編 1932年
●626-218 『全支排日運動の根源と其史的観察』  陸軍省調査班 編 1932年

また内田嘉吉文庫には米国との関係に危機感をもった著作が多いのも特徴でしょう。
内田嘉吉は米国訪問回数が多く、米国を尊敬し、米国の産業界を日本のめざす姿として考えていたことは、彼の米国産業界視察報告『南米視察談』などでも明らかです。
この中で内田嘉吉は多くの政財界人が私財を寄付して、学校や、各種の調査機関などを設立している行動を、日本人も見習わなくてはいけないと言っています。
また自動車産業の発達を見て、「日本人は国土の狭い日本にはあんなものは必要がないといっているが、それは違う、今に田植えをする機械がついて人手がかからず農業が出来るようになる可能性すらある」と言っています。
そんな内田嘉吉は日露戦争後だんだんに悪化して行く日米関係を強く憂慮し、渋沢栄一、金子堅太郎などと、日米関係の復旧に努力し、日米有志協議会をつくりその委員になります。
また日米の関係良好化にはコミュニケーションが大切という意見から、日米の懸け橋として、海底電線の敷設を計画し、国策会社日本無線を作り、そこの社長になったりもしています。
そんな内田嘉吉の人脈を表すように内田嘉吉文庫には日米関係についての大正、昭和の初期の著作が数多く見られます。
当時の人々が、色々努力しながら、結果として対米戦争に引き込まれていったことが分かる貴重な文献だと思います。

(画像をクリックすると大きな図が出ます)

日米関係の危機を論ずる本  
●619-212 『米国加州排日事情』 千葉 豊治 1921年
●626-119 『太平洋の諸問題』 沢柳 政太郎 編 1926年
●626-131 『太平洋問題』 井上 準之助 編 1927年
●626-150 『太平洋問題』(1929年京都会議) 新渡戸 稲造 編 1930年
●626-161 『ルーズヴエルト氏の日本観』 セオドル・ルーズヴエルト 1920年
●626-198 『日本モンロー主義と満州』 金子 堅太郎/啓明会 編 1932年
●626-211-1,2 『日支米三国関係の変遷』 関根 郡平/海軍々事普及部 編 1932年
●626-222 『日米有志協議会記録』 東京商工会議所 編 1925年
●641-51 『世界不景気と我国民の覚悟』 井上 準之助 1930年
●649-243-1,2,3 『米国の対支経済発展』 外務省通商局 1928~1929年

これらの日本で明治末期から大正そして昭和初期にかけて出版された本・資料はいずれも当時一級の官僚、民間人、軍人、学者や論壇人が、真剣に激動の時代をどう生きるべきかを語ったものです。
まだ読んではいませんが、同様の時代に欧米や中国の人によって書かれた政治関係の資料も沢山蔵書されています。
戦後も60年を過ぎ、大正の時代や昭和の時代の歴史が見直されている今、当時は当時なりに真剣に生きて考えていた人々の声が印刷されて残っているのです。
この時代を改めて自分の目で読んで、考えるための貴重な資料ではないでしょうか。

私も浅学ですが、歴史が好きで、なぜ日本が昭和になって国を挙げて視野狭窄症のようになり戦争への道を歩んでしまったのかを自分なりに知りたいと思い、昭和天皇について書かれた本や半藤一利さんの『昭和史』などを読んできました。
そしてこれからは、自分なりの考えを深めるために当時の人が書いたものに触れたいと思っています。
今後これ等の資料が日比谷図書文化館で気軽に読めるようになれば、毎日のように通って当時の雰囲気を感じ、あの時代を生きた人たちが何を考えていたのかを探ってみたいと思っています。
皆様とそこでお会いできれば嬉しいです。


文責:菅谷彰他講師一同
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:臼井良雄


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