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平成23年9月2日神田雑学大学定例講座NO564


    講義名 咸臨丸とその後の福沢諭吉と勝海舟


講師名 海事史研究家 佐藤 快和

 

咸臨丸の絵

咸臨丸と「サムライジャパン」物語

講師の佐藤快和さん 昨年の「横浜開港150周年」(函館も同様)に続いて今年は幕府軍艦「咸臨丸」が太平洋を横断して150年目にあたる記念すべき年である。黒船ペリーの来航は鎖国体制を揺るがし、様々な交渉の末「日米修好通商条約」を締結したのだが、その第14条にはワシントンに於いて批准書を交換することが明記されていたことから、幕府は条約批准のために遣米使節団を派遣することになったのである。

万延元年1月(正確には安政7年)幕府の命を受けた外国奉行の「新見豊前守」を使節団の正使とする77名のサムライ一行はアメリカの軍艦ポーハタン号で品川沖から出帆したのである。この時副使の村垣淡路守は「竹芝の浦波遠くこぎ出でて、世に珍しき舟出なりけり」とその時の感懐を詠み期待と不安が入り交じった複雑な気持ちで日本を後にしたのだった。

やがて一行はサンフランシスコを経てワシントンに赴き数々のエピソードを残しながら無事批准書交換の大役を果たしたのである。 ポーハタン号 これが世に言われる「正式」な「万延元年の遣米使節団」だがしかし幕府はもうひと組の「使節団」を用意していたのである。幕府の正使に万一の事が起きた場合に備え咸臨丸指揮官、兼使節団の副使に「軍艦奉行木村摂津守」(提督役)を、そして教授方頭取に「勝海舟」(艦長役)を任命し「ポーハタン」号に随伴させる事にしたのだった。

遣米副使という役割のほかにもこれまで長崎の海軍伝習所で培ってきた航海の腕前を試す絶好の機会でもあると考え咸臨丸を派遣したのである。軍艦奉行の木村摂津守は人格円満で高い志を持った裕福な文人旗本である。

彼は万一に備え家財を整理して3千両(何億にも相当する大金)を用意したのだが、それでも尚心配で(異国では何が起きても不思議ではない)幕府から500両を前借りして臨んだのである。やがてその自己資金はほとんど使い果たしたのに、幕府に借りたお金は1文たりとも使わず丸々返還したと言うから、稀にみる高潔な旗本だった事が分かる。

勝海舟は言うまでもなく幕末維新の立役者だが、たかだか艦長程度の待遇には我慢できずこれがいつも不平不満の種で、何かといえば温厚な木村提督にあたっては困らせていたようだ。そして通訳にはジョン万次郎、また木村の従者として福沢諭吉、そして長崎の海軍伝習所で学んだ多くの有能なサムライ達が乗船していたのである。

因みにこの諭吉が木村の従者として咸臨丸に乗船できたのも木村提督のおかげ。蘭学を学んでいた縁で紹介状を書いてもらい直接頼んだところ「従者」の身分であっさり許可されたのは諭吉に取って幸いだった。実際異国に渡ると言うだけで皆が尻込みをしていた時代にわざわざ連れていってくれと申し出たのだからまさに「渡りに船」ですぐさま決定となったのにはこんな事情があったのである。

さて咸臨丸は品川を出て浦賀に入港、水や食料の積みこみ等最後の点検を終え、いよいよ初の日本人による太平洋横断に踏みきるということで全員の士気はいやがおうにも高まっていた。しかしそんなところにおりから日本近海を測量中、難破したフェニモアクーパー号のブルック大尉以下11人が突然乗り込むことになったのである。さあ面白くない、せっかく日本人だけでやろうと思っていたのに我々を信頼していないのかと一時は険悪な空気が流れたのである。

これは木村提督が日本人だけではと危惧したすえに頼みこんだからだが、単に帰国のためにお客としてアメリカに送り届けるだけとの説明でしぶしぶ何とかおさまったのだった。結局日本人96名にアメリカ人一行11名の107名の大所帯で世界でも名だたる荒海に乗り出したのである。「安政七年一月十九日午後三時三十分浦賀港を出帆」と記録にはある。

聴講生の皆さん この年の太平洋は異常な荒れ方で咸臨丸は出航してすぐ全員が船酔いでダウン。大洋航海に慣れてなかったのだから無理もないのだが、とりわけ船に弱かった木村提督と勝艦長は自室にこもったまま出てこないありさまだったのである。

命令する者は誰もいなかったから船内の無秩序ぶりはひどく、破れたままの帆はあげっぱなし、ハッチも開けっ放しというまともな船乗りなら眼を覆いたくなる状況だったのである。嵐もさることながら乗員の部署や役割がはっきりしていなかった事が大きな原因だったが、こうした危機的状況を救ったのがブルック大尉以下11人のアメリカ人達だった。

彼は通訳として乗りこんだジョン万次郎(ベテランの捕鯨船乗り)と共に当直制を取り入れ少しずつながら船内の秩序と規律を取り戻していったのである。もし彼らがいなかったら太平洋は渡れなかったに違いない。この航海で“味噌”をつけたのが勝海舟だった。船酔いと船内の不和と日頃の不平不満が一挙にでて「俺はもうこれから帰るから、『バッテーラ』(ボート)をおろせ」と太平洋の真ん中で癇癪を起こしたエピソードは有名だ。

勝は他にもサンフランシスコ入港の際に打つ礼砲の事や、またマストに掲げる将官旗の件でも判断を誤り、顰蹙を買っているのである。後に西郷隆盛と対峙するなど、卓越した政治手腕を発揮した勝海舟らしさは咸臨丸船上にかぎっては発揮できなかったようで、何かと評判が悪いのだ。

一方、福沢諭吉は相当船に強い体質だったらしく「毎日毎夜大地震にあっている」ようだったと『福翁自伝』でそのときの荒れ様を述べているし、木村奉行も「独り福沢のみ平然として船に酔わず私の介抱」をしてくれたと書いている。諭吉はこの嵐を乗り切るために全力を尽くすアメリカ人たちから太平洋を渡るには「身分の上下や地位(船長も平水夫もない)」などなんの役にも立たない事を早くも学んでいたのである。

しかし彼は”この航海ではアメリカ人に助けてもらったことはなく、日本人だけでやり遂げたのは大いに誇っていい”(『福翁自伝』)とキッパリと書き、またあれほど活躍したジョン万次郎についても全くふれていないのは、時代背景(日清戦争など)があったにせよどうも頷けない。

やがて嵐も収まり浦賀を出てから38日目、咸臨丸はメインマストに日の丸を掲げ誇らかにサンフランシスコに入港したのである。これが正真正銘「サムライジャパン」の「亜米利加」到着第一号で、やがて10日ほど遅れてポーハタン号も入港、併せて200名近い「大外交団」はここで初めて合流したのである。これだけ多くの「サムライ」達が異国で一堂に会したのは空前絶後の事で、数多くのエピソードが生まれたのである。

米国人は初めて見るサムライ達の凛々しくも珍奇な装い、そして礼儀、作法、風俗、習慣、全てに衝撃を受け、一方日本の「サムライ達」も驚愕の異文化体験をする。グラスに浮く氷には感心したし、「口吸い」(キス)には閉口、ナイフとフォークとか言う「野蛮な箸」での食事はとまどうばかり。

講師の佐藤快和さん 「豚の仔の丸煮」が出て、これは「安達ヶ原」(伝説の鬼婆)と吃驚したし、妙な男女が座敷中を飛び回る踊りには呆れるばかり。何よりもこの国の「女尊男卑」はとうてい理解できないと語っている。 一方「頭からつま先まで貴人」と称賛された提督の木村はあちこちから招待され新聞社を訪問したさいには名刺を作ってもらった。
ADMIRAL
KIM−MOO−RAH−SET−TONO−KAMI
JapaneseSteamCorvetteCANDINMARRUH
日本外交史上有名な名刺として知られている。

やがて遣米使節団はワシントンにむけ出発、咸臨丸はそれを見届けた上で今度こそ日本人だけで(念のため5人のアメリカ人が乗船)初の太平洋横断と言う快挙を成し遂げて帰国したのである。 これが今から150年前の万延元年に咸臨丸で海を渡った「サムライ」たちの物語である。

彼らが帰ってきたときの日本は古い体制から新しい時代に移行するための言わば“陣痛の時代”だったといえるが、アメリカの近代文明に接し視野を広げた「サムライ達」は、そのときの経験と知識を活かしながら日本の近代化に大きく貢献したのである。

佐藤快和 「サムライジャパンと日米文化交流」より
参考文献「福翁自伝」「海舟座談」「幕末軍艦咸臨丸」他

講 演

「福沢諭吉と勝海舟」だけのタイトルでしたら、これだけの著名人ですから、私などよりもっと詳しい方もおられるとおもますが、表題の上にある「咸臨丸とその後の」がつくと、海事史研究家として、あまり知られていない事柄をこの講座でお話することが出来ると思います。今日お話するのは、幕末から明治にかけての千両役者「福沢諭吉と勝海舟」の間に、明治20年代に行った激しい論争を中心にした史実であります。このけんかは「痩せ我慢の説」という奇妙なタイトルの論文が新聞に掲載されたことに発します。

確執する両者

筆者は、あの『学問のすゝめ』で名高い啓蒙思想家の福沢諭吉であります。この論は一言でいえば、幕末から明治にかけて活躍した勝海舟と榎本武揚の行動を非難し、糾弾する内容であります。特に勝海舟は、高い地位にいながらいささかも抵抗をせず、ひたすら和を講じ、江戸城をあけ渡したのはいかがなものか。それによって江戸を戦火から守った功績は認めるが、それ以後引退もせず、新政府で再び高職についたのは納得できない。

福沢諭吉 武士には何よりも「瘠せ我慢の精神」が大切だから、勝氏は出処進退を明らかにし、「断然政府の寵遇を辞し官爵を捨てよ」(『瘠せ我慢の説』)と真っ向から切りつけたのであります。

教育界の大物福沢諭吉が、これまた幕末明治の千両役者でもある勝海舟や榎本武揚を、しかも名指しで追求したのだからただごとではありません。一体、諭吉は何故このような激越な文章を書いたのでしょうか。

そのきっかけになったのは、興津にある清見寺境内の「咸臨丸乗組員殉難碑」でした。幕府の海軍副総裁だった榎本武揚は、幕府の意地を示すべく8隻の艦隊を率いて北をめざしていました。いわゆる箱館戦争のことですが、その途中房総沖で嵐にあい、損傷を受けた咸臨丸は艦隊を離脱して清水港に避難したのであります。

しかし、やっと一息ついたのもつかの間で、修理していたところを官軍から攻撃され、多大な犠牲者をだしたのでした。やがて官軍は、砲撃で命を落とした咸臨丸の乗組員を無惨にも港内にうち捨てて去っていったが、その際“賊軍に加担するものは処罰する”のお触れがでていたので、港内に漂う浮遊死体を葬る者は誰もいない。そんな中、義侠心に富む地元の親分清水の次郎長は“死んだ仏に官軍も賊軍もない”と闇夜にこっそりと遺体(7体)を引き上げて丁重に弔ったのであります。

咸臨丸乗組員殉難碑 これが今も清水港の近くに祭られている「壮士墓」ですが、ある年の法要の際、墓所とは別に多くの人に咸臨丸の事績を伝える記念碑をとの話がもちあがり、明治20年に「骨枯松秀」の碑文と榎本武揚が揮毫した一節が刻まれた「咸臨丸乗組員殉難碑」が建立されたのであります。

さて、それから数年後の明治24年、たまたま家族とともにこのお寺を訪れたのが福沢諭吉だった。彼にとって咸臨丸はとても懐かしく、上機嫌で碑文を読んでいたのでしたが、そこに刻まれている「食人之食者死人之事 従二位榎本武揚 書」を見て激怒したのであります。これは史記にある一節で、直訳すれば「人の食を食む者はその人のために死ぬ」の意味ですが“徳川の禄を食んでいた者は徳川に殉じるべし”ともとれる。

多数の部下を失いながら責任をとらず、新政府に仕えて栄達の道を歩む榎本が「食人之食者」などと言う資格はない。ましてやその後、獄中にいた榎本の釈放では何かと力を貸した経緯もあったから、尚の事榎本が許せなかった。ついでながら、榎本は重罪犯人として入獄した時に、牢名主から罪状と名を名乗れと問われ“己は箱館戦争の榎本ぢゃ”と答えると一同たちまち平伏、榎本の肩をもむやら食事の世話をするなど、獄中では楽をしたと言う逸話が残されている。

榎本の勇名は轟き渡っていたことがこの話からも分かるのだが、それはともかくこの碑文を見た諭吉は、常々思っていた持論を『瘠我慢の説』にまとめあげようと決心したのであります。 そして、この草稿を公表するまえに勝と榎本に送り予め感想を求めたのだが、勝は「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張」いかようにもどうぞの返事、榎本は多忙につき「いずれそのうち」とかわしている。諭吉はこの草稿をしばらく手元に置いていたが、とうとう明治34年『時事新報』(福沢が創刊した新聞)紙上に公表したのであります。

この論文の反響は大きかった。はるかに下っ端だった勝が、いつのまにか徳川の代表として活躍したことを苦々しく思っていた上級の旗本や大名たちは、よくぞ言ってくれたと拍手喝采したし、現体制に不満を持つ多くの幕臣たちも手を叩いて喜んだのであります。なかでも小栗上野介とともに親仏路線を進めていた栗本鋤雲=(諭吉と親交があった)などは口を極めて「売国の姦臣、天下の罪人」と勝を罵ったのは良く知られています。

これに反論したのが徳富蘇峰で、彼は「瘠せ我慢は大切なり」としながらも「之を小処に用ふるは小人たり」と述べ、勝は“官軍と戦えばその間に外国の干渉を受ける”ことを心配したからだと擁護しました。これに対し福沢側も紙上で反論、一方西郷隆盛との英雄的な会見から、勝を崇拝する勢力もまた多かったから賛否両論、まさに天下を二分したのであります。

勝海舟胸像 その矢面に立たされた勝海舟は、薩長の回し者だとか、榎本の箱館戦争をそそのかした張本人、などあることないことあらゆる誹謗中傷をうけたのでしたが、彼には山ほどの難題が待ちかまえていたのでした。豪商大黒屋に3万両を拠出させて「徳川基金」を設けて幕臣たちの面倒をみたことや、ともすれば暴動を起こしかねない不平不満の幕臣たちを必死で押さえ、それらの重しとなる存在だったことを諭吉は理解しなかったのであります。

「みンな不平を漏らしに来るのだよ。たまったものじゃアありゃしない。皆政府が約束を破った末をこっちに持って来るのだもの」(『海舟座談』)と勝は慨嘆する。勝の「行蔵(出処進退)は我に存す」という言葉には裂帛の気魄が込められているように思う。幕末維新にかけて自分がいかに多くの難問を抱え、徳川家と幕臣の救済にどれだけつくして来たか、いつだって攘夷の嵐から逃げまくっていた評論家の貴公如きに分かってたまるか、と一刀のもとに切り捨てたのです。

勝を指弾したのですが、諭吉だってあまり大きな事は言えない。慶應3年(1867)のこと、アメリカに発注した軍艦引渡しの際に委員長の小野友五郎(咸臨丸の際は航海長をつとめ同乗したブルック大尉に称賛された逸材)に頼みこんで通訳として乗り込んだのはいいが、「お荷物随員福沢諭吉」のタイトルで何をやらせてもへまばかり、英語も「英和」はまだしも「和英」となるととうてい使い物にならなかった事が触れられています(『小野友五郎の生涯』)。それのみか、公私をわきまえずに洋書を買いあさったため、団長の小野から厳しく叱責され帰国後は「御用中不都合の次第あり」として謹慎を命じられたのでした。

ところが、ある福沢諭吉の伝記(沢山でているが)には「この二人(小野と松本副委員長)はほんの名ばかりで、実務は一切が諭吉の働きにより一応の任務を果たして帰ってきたのであった」と正反対のことが書かれています。彼自身が『福翁自伝』のなかで小野に不従順だったから「始終嫌われたのは尤も至極、少しも怨むところはない」と反省しているのですから、ある程度は事実と言ってもいいのに、諭吉を贔屓するあまりこんな書き方になったのではないでしょうか。

結局この件は幕府崩壊でうやむやになったのですが、後年「法螺を吹く沢、嘘を言う吉」などと揶揄されたのもこんな事から来ているのかもしれません。「諭吉カエ。エー十年ほど前に来たきり、来ません。大家になってしまいましたからネ」金儲けが好きな嫌なやつ、と吐き捨てるような言い方をしているのも勝がこうした諭吉の諸々の不始末を知っていたからに違いないでしょう。

咸臨丸模型 この二人の仲の悪さは一体どこから来たのだろうか、たどっていけばやはりそのルーツは万延元年の咸臨丸にさかのぼる。その咸臨丸で勝は艦長格として福沢は木村提督の従者として初めて顔をあわせたのですが、この航海での勝は何かと評判が悪い。船酔いと、船内の不和と、日頃の不平不満が一挙にでて、“俺はもうこれから帰るから、「バッテーラ」をおろせ”と太平洋の真ん中で癇癪を起こしたエピソードは有名ですが、他にもサンフランシスコ入港の際に打つ礼砲の事や、またマストに掲げる将官旗の件でも判断を誤り、顰蹙を買っているのであります。

『幕末軍艦咸臨丸』の著者文倉は「勝の性行忌憚なく言えば、細心で剛毅さを衒い名誉心に焦がれ、反対者を感服又は懐柔する手腕、筆に口に自己を宣伝するの癖あり」と分析していますが良く見ていると思う。また船内では諭吉の主人でもある木村提督になにかと食ってかかるのを、しばしば目撃していたから勝に対して不信感が芽生え、こうした悪感情が積もり積もって『瘠せ我慢の説』に繋がって行ったのだろう。もし少しでも勝に対して好意を持っていたならばあのような過激な文章は書かなかったように思う。

咸臨丸という「揺籃」(船酔いするほど良く揺れた“ゆりかご”ではあったが)で共に大きく育ったのだが、その名前の謂れである「咸臨=君臣互いに親しみ協力しあう事」はこの二人にはなかったのであります。ともかく“自己顕示欲”が強い勝と“ずばずばものを言う”諭吉とでは最後まで「ウマ」が合わなかったというほかはない。 幕末明治を代表する両巨人の喧嘩は満天下を沸かせました。双方の言い分には正論もあるけれど、言いがかり、やつあたり、うらみつらみ、の部分も多く、かくも偉大な歴史上の人物にもかかわらず「人間臭さ」が随所に出ていて興味はつきません。

諭吉の高弟である小泉信三は咸臨丸の遣米で「日本の近世史上大きな役目を務めた勝海舟と福沢諭吉という両人物を同船させたことは一つの奇縁として記憶すべきであろう」と述べてますが、大袈裟に言えばまさに時代がこの二人を呼び寄せたといってもいいほどの「大きな出会い」だったと思います。 今から丁度150年前「万延元年咸臨丸の日米修好通商条約」を巡るもう一つのエピソードでした。  終わり

参考文献  『福翁自伝』『海舟座談』『幕末軍艦咸臨丸』
◎10年11/12月号ラメール掲載


講座企画・運営:吉田源司
 文責:佐藤 快和・三上卓治
会場写真撮影:橋本 曜
 HTML制作:上野治子

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