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平成23年9月9日 神田雑学大学定例講座NO565 

ロシア慰霊鎮魂の旅と
東日本大震災ボランティア、講師 稲田 善樹

 


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画鋲
1.はじめに

2.ロシアへの鎮魂の旅

3.東日本大震災被災地へ



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稲田善樹 講師1.はじめに
神田雑学大学の方々は知的好奇心が旺盛な方々で、そのような方々の前で講演できることを光栄に思います。この神田とういう地域は知的好奇心を刺激してくれる世界に誇れる街だと思っています。ロシアへ9月1日に飛び立ったのですが、名古屋の空港に7時半にどうやっても間に合わない。私は貧乏絵かきなのでホテルに泊まるお金もない。だから深夜バスと電車を乗り継いで行きました。

深夜バス出発まで時間があるので、岩波ホールで「おじいさんと草原の小学校」という映画を見ました。これはおすすめです。ケニア独立後小学校が無料になって、84歳のおじいさんが入学の申し込みをするのです。断られてしまうのですが、毎日毎日通って入学を申し込むのです。受け入れられなくて成人学校に通うのですが、勉強をする環境ではない。やはり小学校に通いたいと再び小学校に入学申し込みに行くのです。この熱意にほだされておじいさんは小学校に入学できるのです。このおじいさんは実在の人で、国連で教育の重要性について演説しているそうです。教育は人間をかえていきます。学ぶことの喜びが伝わって来る映画でした。
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2.ロシアへの鎮魂の旅
ロシア・アムール州慰霊と友好の旅は今年で6回目となりました。2005年が戦後60年。ここを節目に、今まではどうだったのか、これからはどうするべきなのかを考えなければならない。絵描きとしてこれを表現しなければならないと思ったのです。だから、フィリピン・ニューギニア・韓国・モンゴル・ロシア・広島・長崎を歩いてきたのです。その中の一つがロシアです。ロシアでは60万人が抑留されたと言われています。その一割の人が亡くなったそうです。私自身も満州の生まれですので、遠い話ではないと感じたのです。その後、抑留された人たちはどのような体験をしたのか、どんな所で亡くなったのかそれを知るためにロシアへと向かったのです。はじめが2004年でした。一度行ったら足を洗えなくなり、それ以来続けてきました。

抑留者はシベリアのマイナス40℃にもなるような地に連れて行かれるわけです。訪問したアムール州のブラゴベシチェンスクは、人口20万人で面積は日本と同じくらいの場所です。レーニン像がまだあったりとまだまだ保守的な街です。この旅で中心となっているのは岐阜のお坊さんなんです。この方、抑留体験者で87歳。20回以上も慰霊の旅を続けている、素晴らしい信念の人です。私たちを受け入れてくれる現地の人は、平和基金と言われる団体の人たちです。この方々が向こうでの色々な手配をしてくださいます。

私達が行く村にイワノフカという村があるのですが、1919年3月22日にシベリア出兵の日本兵が257名の村人を焼き殺してしまった村なのです。抑留者の一人が、山形県出身の斉藤六郎さんという方なんですが、私財を投げうって、抑留で亡くなられた方々の墓地を巡って歩いた方がいました。この方がイワノフカ村に調査に来て村長と対談をしています。その中で村長に、日本兵が村人を虐殺したことを知っているかと聞かれて、知らなかったと答えています。斉藤六郎さんは申し訳ないことをしたなと思って、帰ってきて関係各所に連絡をして、この事件に関する問い合わせをしたそうです。詳細を知って、周りに資金を呼びかけこの村に慰霊碑を立てました。それ以来毎年お参りをしています。

抑留者の墓地や慰霊碑の前で毎年お坊さんが読経をしています。それぞれ門徒に共通したお経をあげるように配慮をしているそうです。最後は「ふるさと」を歌って締めくくります。ロシアの人々もそれぞれの流儀にしたがってお参りをします。イワノフカ村の虐殺村の焼き討ちにして男性を皆殺し、女性を辱め、子供も殺されてしまいました。去年、生き残った女性の子供さんだった方がいらっしゃって話を聞かせてくれました。

千羽鶴を持つ司祭「母が語ってくれた残酷な話を忘れることはできない」、と語ってくれました。今年はイワノフカ村で犠牲になった257名と東日本大震災で犠牲になった2万名近い人の思いを込めて、私の住んでいる稲城市の子供たちが折ってくれた千羽鶴をもって唯一焼き討ちから難をのがれた教会に飾って欲しいとお願いしました。

そして、願い事を書くところにロシアの子供たちに願い事を書いて欲しいと司祭さんにお願いしました。その司祭さんは、「よく行く学校に行くので子供たちに願い事を書いてもらいます。そして教会に飾って村の人達の目に届く所に飾ります」と言ってくれました。

私たちがお参りする日本人墓地はロシアの方々が草刈りし管理していただいています。今回お参りした墓地に戦前のベルリン五輪サッカーの大会で活躍した竹内悌三さんが眠っています。これはNHKからの問い合わせで調べてわかりました。このお墓はロシアの村の個人の人が作ってくれたお墓です。竹内梯三さん達は、ロシアで農作業に従事して村の人々とも交流があっていい印象をもってもらえていたそうです。

地域に流れるアムール川、世界で8番目に大きな川です。生き物がたくさんいて、遠くから見ると綺麗、水量の豊かな大河。ロシアには、どんな小さな村に行っても博物館があります。博物館にはその村の歴史や特色が展示されているんです。村のこども達の教材にもなっています。ロシアの人たちは歴史にとても詳しいんです。

ロシアの人たちは第二次世界大戦で2000万人の人が犠牲になりました。ロシアではこの戦争を大祖国戦争と呼んでいます。これだけ多くの犠牲が出た戦争でスターリンへの批判もでています。ドイツに捕虜として捕まった人がロシアに帰還したときにまともに暮らせないんです。シベリアに流刑された人も多かったと言われています。えらい差別を受けてしまったんです。悲しい歴史ですね。

熱心に話を聞く受講生

日本でも同じことがありました。ロシアに抑留されてやっとの思いで帰国した人達は、アカのレッテルを貼られて就職もままならなかったと多くの人が体験を語っています。
ロシアに滞在中は暇さえあれば折り鶴を折っていました。折り鶴の羽に漢字で平和と書いて現地の人にあげると大変喜ばれるんですよ。昨年市役所に勤めている女性に折り鶴を渡した時、「私たちに子供たちが折った折り鶴を渡していただけたら、広島へ折り鶴を届けますよ。」と伝えたところ、折り鶴を準備してくれました。ロシアの学校から佐々木貞子が通っていた広島の小学校に折り鶴を送ることを思いついたのです。ただ私がもらって帰るよりも、日本とロシアの子供たちの平和への思いが強くなると考えたからです。

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3.東日本大震災被災地へ
4月18日から延べ十日間、大船渡市・陸前高田市・石巻市に行って来ました。なぜ行ったのかといいますと、新潟県の十日町市に10年間いたことがあるのです。そこの小屋をアトリエにして、絵の制作をしたり農作業をしたり過疎問題をテーマにして土地の人達と酒を飲んだりしていました。そこで、中越地震にあうのです。震度6強を体験して、2週間テント暮らしの避難所生活を強いられました。その時に、ボランティアというものがどういうものかということを身をもって知りました。

以前から国際緊急支援組織「JEN」と関わりあっていたこともあってボランティアをしてもらったのではなく、私もしたんですね。「JEN」は国際緊急支援組織ですが国内の非常事態にも対応して十日町、川口町に直ぐに入って来ました。十日町は、過疎地帯です。そのような場所で地震が起こるとさらに過疎が進みます。新潟・十日町市池谷・入山をPCで検索して見て下さい。高齢者8世帯あった集落が6世帯に減ったなかで、震災復興から立ち上がろうとしている様子がわかります。私はこの集落の入山に唯一人居ましたので、深く関わりあってきました。

東日本大震災の被災地も多くの地域が過疎地帯です。そういうことを忘れずに見てもらいたいと思います。十日町での体験から、東北に行って自分の目で被害を確かめなきゃいけない、そういう気持ちになったのです。新潟・十日町市池谷・入山の人達も支援に行っています。

被災地の様子 夜行バスで大船渡市に最初に行きました。崎浜という大船渡から自動車で40分くらい山の中に進んだところにある釣宿民宿に泊まってボランティアを始めました。崎浜には昨年できたばかりの幹線道路がありました。北里大学海洋生命科学部が設置されているので、そこに通う学生達によい環境を提供しようとして税金で作った道路だそうです。完成したばかりの立派な道路は津波で木っ端みじんになってしまいました。

私たちが言ったときは、北里大学海洋生命科学部は閉鎖されていて、学部の閉鎖の噂が出ていました。しかし、それでは地域に若者がいなくなって、地域社会が潤わなくなってしまう。そんな大人気ない話はないと思って北里大学に閉鎖しないでほしいというメールを送りました。返事はないのですが、気持ちは届いたかなと思っています。

毎朝、バスに乗って大船渡へボランティアに出かけます。出かける前に5時ぐらいに起きて周りを散歩するんです。同じように地域の人も散歩していて、毎朝会うので親しくなりました。そこで色々な話を聞くことができました。一人の男性の話が特におもしろかったですね。その方には演歌歌手の弟がいるんですけど、名前が「大船渡(おおふなと わたる)」と言うそうです。インターネットで調べたら本当にいました。この方は、瓦礫の中で探しものをしているんですね。写真だったり表彰状だったり。人のものでも大事に拾ってその持ち主に戻しているそうです。私が会った日にも表彰状を拾っていました。

この方は丘に上がった漁師さんです。由緒ありそうな大きな家があり訪ねて聞いてみたくなって思い切って訪ねました。地震当日の体験を語ってくれました。明神別当の宮司?さん。由緒ある人らしいのですが話がのみこめませんでした。家の構えが別格で雰囲気が周りの民家と明らかに異なっていました。奥のほうに掛け軸が転がっていて、それを見ると天井まで波が来たことがわかります。弟に家を譲って自分はこの土地からおさらばするのだと言ってました。

朝の散歩で馴染みなった人が別れる朝宿まで来てバスを見送ってくれました。涙を流して、「この村がどのようになるのか落ち着いたらまた見に来てくれ。ここは海産物がたくさん獲れる宝の山だから、絶対に復興する。自分ら頑張るから応援してくれ。」と言っていました。もう一人、朝の散歩で船で作業していた生き残った漁師さんに聞きました。地震が来てすぐに津波が来ると直感したそうです。すぐに船を沖にだして、ぐんぐんぐんぐん水が引いていく海と競争で進んでいったそうです。

次に押し波になり大きな津波を真正面から受けて死ぬかと思ったそうですが、間一髪波に乗れて助かったそうです。命も船も無傷で過ごせたそうです。港に帰って来れなくて、沖合で一日過ごして帰って来た。と語ってくれました。貴重な体験を聞くことができ、私は涙が出そうになるのをこらえながら興奮気味に「漁師さん!応援します。頑張ってください」と言って写真を撮りました。後日また来たいと強く思いました。

防波堤に水門が3つあるんです。門の厚さは20センチ以上あります。それが、もげて蝶番が吹っ飛んでいってしまっているんです。地震が来たら消防団の人が大急ぎで水門を閉めに行くんです。電気仕掛ではないので手で閉めなければならない。閉め終えたのかわからないけれど、全部壊れてしまってます。宿の人がビデオを撮っていて、津波が押し寄せるのを見せてもらいました。黒い渦が巻いてましたね。電柱にものが引っかかってしまってますね。9メートルにも及びそうですね。それほどの強さの津波だったのです。

子供たちは素晴らしいですね。崎浜の小学校の少ししかいない子供たちだけで大きな看板を作りました。大人の助言なしにです。「一歩ずつ前へ、崎浜!」という看板です。新聞やテレビでも取材されたそうです。これを見て大人たちが励まされたんです。

積み上げられた支援物資私たちボランティアは、全国から送られてきた支援物資の仕分けをしました。綺麗に仕分けして送ってくれた支援物資もありますが、お構いなしに突っ込んである支援物資もあるんですね。すぐに物資を渡したくてもこんな状態の物資では渡せないんです。

これを体育館で仕分けしていました。遠くの行政から来た人に指示をとってもらって膨大な量の仕分けを進めました。自衛隊の人たちは支援物資の運び入れをしていました。自衛隊と私たちは共同作業でした。自衛隊の人たちはとても生き生きしていました。私は人助けをしているから生き生きしているのだと思いました。軍事活動をしているときなんて目が引きつってるではないでしょうか。だから、人助けをしている自衛隊の人たちに親しみを覚えました。そこでちょっと自衛隊の人にインタビューしてみたんです。

そこでどうやって自衛隊の人を呼べばいいのか困ってしまったんですね。兵隊さんとも呼べないし自衛隊さんとも呼べないし。誤魔化して話しかけてみました。その人は広報担当らしくたくさん写真を撮っていました。どういう活動をしたのかを残しておくのが仕事だそうです。一回で何百人分ものご飯と味噌汁を作れる機械があったり、おおきな移動お風呂があったり。本当に自衛隊はすごかったです。自衛隊は災害支援のプロフェッショナルだと感じましたね。だから自衛隊が軍事活動でなくて国際災害緊急救助隊になればどんなにか生き甲斐を感じて任務につけるでしょうね。そいう時代ではないでしょうか。
 
私は大船渡小学校で物資の仕分けをしていました。休憩時間に校長先生の面会を求め、。稲城市の子供たちからメッセージと絵本を預かってきたのでそれを渡しました。すごく喜んでもらえました。先生は全員こども達をいち早く高台に避難させ間一髪間に合ったと熱心に状況を話していただきました。アメリカからもメッセージが届いたそうです。私も今回カナダのこども達からの手紙をことづかっていましたので手渡しました。後日こども達からお礼の手紙が送られてきました。遠いカナダの子供たちが自分たちのことをとても心配してくれていることに感動したそうです。

すぐに返事をカナダに転送しました。子供たちの描いた「元気の出るおおきな絵」また今度は、稲城の子供たちとが横幅4メートル高さ2メートル近い大きさのダンボールに絵とメッセージを書きました。10月29、30日の日程でダンボールの絵『げんきのでる大きな絵』を手渡しながら大船渡市立小中学校と陸前高田市立小中学校37校の学校図書館へ本を寄贈に行きます。こういった行動から、大船渡の子供たちは絆をすごく感じているそうです。大船渡小学校の校長先生がとても喜んで「待っています」と言っておられるので楽しみです。

絆というのは、糸偏に半と書きます。一本の糸を半分半分で2人でもつ。だから、絆なんです。この話はロシアに今回行ったおり同行された住職さんのスピーチの請け売りです。この絆を確かめあう、広める、そのために私はロシアに行ったり絵を描いたりしているのだろうと思いました。被災地に行ってたくさんの人との出会いもまた絆を求めてなのかも知れません。非常時には特に絆の大切さが見にしみます。だからこそ今、絆を大切にしたいですね。この絆を大切にするような社会を、日本を復興させていきましょう。シベリア墓参、被災地支援活動の体験を語る機会と、場を提供していただいたスタッフのみなさんにも感謝いたします。ご清聴ありがとうございました。



文責:稲田善樹・荒井美里
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:荒井美里


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