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平成23年10月7日 神田雑学大学定例講座NO570 

「夢ありき」講師:重森政(まさし)、重森和子


 


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画鋲
*まえがき
*現在の状況
*バークレーでの受け入れの概要
はじめに(第一部 茂森 政)
夢とは何か
威風堂々と
優勝するための10の条件
夢とはチャレンジ
ナレーション
運命のドラマが始まるまで(第二部 茂森和子)
重症仮死状態の子
絶対歩かせて見せる!
私は、変りました
この子のやる気はスゴイ
リハビリの難しさ
普通小学校の就学受験
入学許可
スケート
普通中学校へ
ワンゲル部に
英語の授業
高校へ
障害に感謝
自分を変える
アメリカ留学
神に全托



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夢ありき。の現状について

茂森 政
*まえがき
長男、勇は重度の脳性小児麻痺でしたが、本人の強い意思と希望で、日本の大学では障害を理由に受け入れてもらえなかったコンピューターを勉強すべく、米国へ渡りました。いろいろの難関を乗り越えUCバークレーのコンピューターサイエンス学科を卒業し、そのまま米国サンマイクロ社に就職し、自立の道を歩みだしました。 その間多くの人達と障害者に対する優れた仕組みに助けられ過ごしてきました。 このバークレー市は世界で始めて障害者を自立させる活動を確立した街で、障害者自立のメッカとも言うべきところです。 

爽快にスカイダイビングを楽しんでる勇さん

その後この運動が日本を始め多くの国へ広がっていきました。
私達夫婦は、この勇の体験の中から、定年後の第二の人生は、勇と同じような障害の人にこの街での生活を体験してもらい、ここで自立のための勉強を希望される方には、手助けをしたいと考える様になりました。 これが私達夫婦の実現すべき夢です。
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*現在の状況
私は10年前に日野自動車を定年となり、それ以降この夢の実現に向けて歩み始めました。最初の2年間は会社の顧問を続けながらも、現地調査と英語学校での勉強を3ヶ月づつ2回行い、計画を練る事に費やしました。その後、永続的な資金確保のため夫婦でネットワークビジネスに携わり8年が過ぎました。 収入も目標の月300万円の半分までに来ました。もうひとつの収入源と活動の中心となるNPO法人「ハローバークレー」を4年前に設立しました、これで夢実現の基盤を作りました。

*バークレーでの受け入れの概要
当初は現地に寮を作り受け入れる事を考えていましが、日本人だけが寄り集まるのでは自立の障害となる事に気づき、現在は勇が体験したように、別々のアパートに部屋を予約し入っていただく方法にして、極力自分で生活し、どうしても必要な事だけ手助けするということを考えています。勇が日本に帰ってきて、障害者の会に出たとき、皆さんが障害の程度を見て、良くこれで一人でそれもアメリカで自立していけるねと驚いておられました。 

自立するためには、自分がどれだけの夢を持ち、それを絶対実現するとの強い意志が必要です。このような方を応援しようと云うのが趣旨です。 おおよその費用は一人月25万円位を考えています。アテンダントについては有料のアメリカ人、日本人留学生、日本からの短期訪米のボランテアを考えています。 
 

最後に、私は本年74歳、家内の和子も67歳になりました。今まで私の人生で何かを実現するのに10年が一つの区切でした。75歳にはバークレーでボランティアをスタートさせると決断しました、そのために本年末までに月収300万円以上安定した資金確保が出来るよう、夫婦でやりぬきます。

東京都八王子市石川町2080ー3  
電話:042ー642ー9346
メール:masashishigemori@hotmail.com


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講演
第一部 茂森 政

茂森まさし講師はじめに

茂森 政と申します。
今日は、家内と二人で「夢ありき」をお話いたします。私の話より家内の話の方が「夢ありき」に相応しいと思いますが、「夢を目指して」というテーマでは合致いたします。実は、私の会社(日野自動車)では、トラック・バスのハイブリット車を世界で初めて開発しました。バスは客が一杯乗っている時と、乗っていない場合があり、停留所で止まってまた信号で止まるという場合も多く、エネルギーのロスが多い自動車です。

止まるということは、今まで走っていたのを、ブレーキをかけて無理やり止めるわけですから、エネルギーを捨てるといことです。このロスは何とかならないかということは、日野自動車のエンジニアの夢でありました。走るためのエネルギーをブレーキにではなく、バッテリーに電気に置き換える。スタートの時は、その電気で走る。エンジンと電気モーターと発電機とを使い合わせる。それがハイブリット(組み合わせ・あいの子)です。そんな夢を日野自動車で一所懸命やってきましたが、そのことを簡単にご紹介したあと、もう一つ家族のこと、脳性小児麻痺の長男の自立に至った20年について触れたいと思います。

夢とは何か
高度経済成長時代には、大型のバスやトラックの技術者には、乗用車のような派手さがなく、バブルの時代は、大学の工学部卒業者も、銀行、証券会社に入社する傾向があり、多くののエンジニアも3K職場をやめて、格好いい会社に転職していきました。
その時代の日野自動車のエンジニアに夢を持たせたいと思いました。
それば「パリ・ダカールラリーに出て勝つこと」でありました。

ここで、世界一苛酷なレースといわれるパリ・ダカールレースのビデオを上映します。19回目を迎えた1997年、日野パリ・ダカールレンジャーはスタートしました。アフリカ・セネガルの首都、ダカールをスタート地点とし、アフリカ大陸のほぼ中央、ニジエールのアガデスまで大陸を横断し、そこからダカールへ折り返すというコースで、全行程は約8000km。16日間のレース環境は、日本では想像もできないほど、過酷なものです。
悪路との戦いに車は故障する。バックアップ部隊がそれを徹夜で修理する。その光景は、感動的でありました。私はその光景をまのあたりに見て、日野が優勝することを確信しました。
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威風堂々と
日野自動車チームは一丸となってレース展開し、二日目には2号車が果敢にタイムアタックして総合3位に躍進。さらに3号車6位、1号車7位と上位に食い込み、猛烈に追い上げた結果、3日目には総合第一位となりました。最終ステージの名物、カヤール海岸をビクトリーランで走ってきた三台の日野自動車は、いよいよ、ラリーの先頭を切ってゴールに近づいてきます。

1、2、3フィニッシュの夢がついに実現したのであります。
ビデオのバックミュージックはエルガーの行進曲「威風堂々」!
私はこのとき、人生で夢を描き、実現のプロセスを一つひとつ具体化して進んでいけば、必ずその夢は達成できるということを実感しました。

私が日野自動車チームの監督をしたのは、7年目でした。日野自動車はトラックやバスのメーカーですが、年間の売上げは6,000億円、利益が30~40億円程度の規模の会社でした。レースに1回出ると5億円くらいはかかる。30億円の利益の中から5億円も使ったら道楽もいいところです。時期もバブルが弾けそうな気配がありました。それまでは課長クラスが監督をやっていましたが、私が取締役になってから、平成8年、社長からは、そろそろ金もないぞ、これが最後という言葉とともにラリーの監督を拝命しました。

ラリーは16日間で約1万kmを走ります。朝6時にスタートして、帰ってくるのは夜中の午前2時あたり。悪路のために車が壊れる、すると徹夜で修理しているうちに夜が明ける。砂漠の中でビバーグしてまた出発ということの繰りかえしです。私は丁度60歳でした。身の回りのことは全て自分がやらなければならない。荷物は水・着替え・その日の食糧で大体30kgになります。16日目の優勝が見えてきたときの写真がこれです。
結果として1位、2位、3位となるという画期的な成果を上げ、涙が止まらない瞬間でした。

私はラリーの監督を命ぜられてから、半年弱で、絶対に優勝する車とチームを作り上げることを決意しました。その為にどうあるべきか。そのとき、優勝するための条件を書き出しましたが、私たちは日本を発つ前に、メンバー全員でその条件を達成しました。「優勝」という夢は、戦わずして半ば手にしていたと考えたのも、それゆえでした。
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優勝するための10の条件
ラリーの監督として考え、学んだことを、10項目に纏めてみました。
1、まず夢ありき(夢を持って素晴らしい人生を)。
2、夢やビジョンなど、あるべき姿を確実なものにするためには、そのプロセスを科学的、計画的に進める(攻めの具体化、共有化)。
3、目標、目的、やろうとしていることの何が本質なのかを、常にしっかり念頭において行動する(しがらみを切り捨てる)。
4、リスクがあっても、ベストを尽くしながらチャレンジ(チャレンジと無謀の差)。
5、1人ひとりが持分を明確にし、持てる力を最高に発揮したとき、お互いの信頼感が生まれ、最高のチームワークができる(単なる和づくり、仲良しクラブはダメ)。
6、スピード・集中・現地現物。
7、一日、一日をやり切る。
8、自分を大きく変える。変えないなら答えも変らない。
9、人は理屈では動かない(感動の共有)。
10、「勝ちたい、勝とう」より「勝てる」の発想(チーム全員、出発前から優勝を確信)。
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夢とはチャレンジ
夢の達成にはラッキーもありますが、同時に落とし穴もあります。ラリーでは、トップを走るために、とにかく悪路でも滅茶苦茶に走る。車同士でぶつかったり、崖に落ちそうになったり、車が壊れそうなことが色々起こる。無謀と、チャレンジをどう使いわけていくか、の判断が必要になります。5番目の一人ひとりが持てる力を最高に発揮したとき、お互いの信頼感が生まれ、最高のチームワークができる・・・・。私が監督でしたから、常に「監督とは何をやるのか」が常に念頭にあり、達した結論はやはり「チームワーク」でした。

私は7回目の監督でしたが、過去には優勝できなかったり、トラブルが起きたりしていたのですね。その原因を探るとチームワークがしっかりできなかったに尽きるのです。チーム構成は、車3台に対して4カ国人の連合体でした。ドライバーはベルギー人、ナビゲーションはフランス人、オ-ストリー人、スタッフは日本人という混成でした。最初、北海道にあるテストコースで全員の合宿訓練をしました。夜になると、帯広のカラオケ屋で歌ったり、みんな仲良しにはなりました。

しかし、ツーカーにはなりましたが、それでチームワークができた訳ではありません。仲良しクラブになっただけです。整備をする人、運転する人、ナビをやる人、バックアップするスタッフ。夫々が最高の力を発揮して信頼関係が生まれたときに「最高のチームワーク」が生まれることを実感しました。

朝、6時。レースに参加しているトラックが約50台、乗用車が200台、バイクが200台という大集団がアフリカの砂漠に突進します。遅い夜になって帰ってきた車を、翌朝、6時にスタートさせるためには、砂漠の砂の上で、徹夜で修理する。これは大変な作業です。「お前、こんなに壊して来やがって!」と本気で思う。5時にドライバーたちが起きてくる。その男たちも、一緒になって車の下に潜りこんで、油まみれの修理作業をする。そんなことからチームの信頼感が生まれていく。

6番目の「集中・スピード・現地現物」
私の夢は色々あり、やりたいことが山積して、視野が広がり過ぎるのですが、レース中はメインの目的に集中しなければなりません。これは大事なことですが、実際には中々できません。しかし、このレースは出発前から優勝できると思っていたから、集中できたとも言えます。なにが何でもスピード、集中。理屈ではなく現地・現物!この三拍子が揃って優勝できたと思います。

レースの本番のときは、朝6時に車がスタートするのですから、何がなんでも車が走れるようにしておかなければなりません。ドライバーも1日1千kmも走ってきている訳ですから、疲れきっている。それでも朝5時にはちゃんと起きてくる。整備する方も、朝6時にはすべてをスタートできるようにしておく。現地では、やらなければならないことが、明確にあるから、それが出来る。その他の夢についても、その日決めたことを完全にやり切る。という気構えでやってきました。

監督の課題として8番目の「自分を大きく変える。変えないなら答えも変らない」を実践しました。私は会社の役員として「研究開発部門」の長でしたが、こういうレースの監督は初体験でした。アフリカの砂漠も生まれて初めて行きました。自分がそこで何ができるかを考えたときに、「優勝するために」今までの自分を変えなくていけないと思って、最初全員集まってミーティングをしました。そのとき、私の今までの人生で中々言えなかった言葉があります。

スクリーンに映し出された画面を観ながら講義を受けている受講生

「私は、皆さんを心から信頼している。信頼している最高の人たちが集まったのだから、各々最高の実力を発揮してください。何か問題が起きたら、すべて私が責任を取ります。私は皆さんを、いつも愛と感謝の気持ちで見守っています」そして付け加えたことは
「もし、優勝してパリに戻ってきたら、パリの大きなレストランを借り切って、祝勝会をやろうではありませんか」

「人は理屈では動かない」
私は管理者として長い経験を積みましたが、いくら理屈を言っても、砂漠の中では車の運転は出来ない。相当のベテランでもレース出場の重心の高い車の運転は出来ない。その車でレース中は時速150km出して競走するのですから。アフリカは怖いところで、ゲリラもいれば強盗もいる。一個中隊の軍隊が、ビバーグ地を警備したくらいです。アフリカの砂漠は有名なサハラ砂漠です。

見渡す限り何も見えない。それなのに何処からともなく人が湧いてくる。小さい子供がタバコ1箱を持って売りにきたり、油まみれ襤褸切れを欲しがる女の子がいたり、ぼろぼろになった古タイヤをくれという男がきたり、色々です。これ等の環境の中では、今までの私の、理屈でこなそうとする方法論は通用しません。「感動の共有」が、ここではチームワークの力を最高に発揮できるのです。

「勝ちたい、勝とう」より「勝てる」の発想
日本を出発する前に、新聞社との会見がありました。驚いたことに、全員が「勝ってきます」「優勝します」と言い切っているのです。行く前の半年の間に、競争相手の情報も全て調べて、絶対に勝てると皆で確信していましたから、あとはチームワーク次第だったのです。夢を実現するために、先ず確信することでした。私は、「夢・愛・感謝」の気持ちを持ち続けました。著書「夢ありき」の表紙の裏に次のように書き残しました。

夢がなければ、生きていく意味がない。
愛がなければ、生きている意味がない。
感謝がなければ、生きてきた意味がない。

これで、私の話は終わります。ご静聴有難うございました。

ビデオ上映 ABC放送より
ナレーション
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サンフランシスコから車で1時間ほど離れたクリカット州に、1人の日本人大学生がいます。茂森 勇さんは重度の脳性麻痺で理系の大学を希望したものの、大学側が障害を理由に受け入れを拒否されたので、アメリカの大学に入りました。茂森さんのような重度の障害者でも学生生活が送れるのは、障害学生に対するサービスが充実しているからです。

このセクションでは障害学生のカウンセリングや手話通訳者、理系学生に対する実験の際にヘルパーをつけるなどのサービスを受けることができます。この大学では字を書くのが遅い障害学生には、時間を延長して試験を受けさせることもできます・・・・・・・・・。
この大学では設備が整っているだけでなく、障害者が健常者と同じように学ぶためのあらゆる工夫が施されています。
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笑顔でマイク片手の茂森和子講師第二部
茂森 和子
運命のドラマが始まるまで

主人の話、如何でしたか?
実は昨日、私たちの結婚記念日だったのです。45年二人で何とかやってきました。主人は我慢してくれているのか、置いて貰っております。

昨日、息子(勇君)からメールがきました。
「45回目の結婚記念日オメデトウございます。この世に生まれたことを、愛深く育ててくれたこと、言葉にできないくらい感謝しています」(拍手)

私は、兄が六人。七番目の女の子として生まれました。家は酪農を営む農家でした。農家育ちですから、朝早く起きて草むしりなどは得意ですが、このようにお話するのはむしろ苦手です。

さて、主人と出会って不思議なことが、一日の間に起こりました。「女性自身」という週刊誌がかってありましたが、今月の運勢という欄に、「6月生まれ(私の生まれ月)の人に、断っても30回以上寄ってくる男性は心変わりしない」とありました。その頃、会社の中は独身の男性ばかりでした。言ってくる男性は主人も含めて、全部断っていました。それを見た日に4番目の兄の所へ行きましたら、テーブルの上に「家庭画報」が置いてありました。それを拡げたら、
そこに「七つ違いは泣いても添え」という見出しがありました。それから実家に帰ったら、一番上の兄が、そんなに言ってくる人は滅多にいないよ、お付き合いして見たらと言うのです。
そんなことがきっかけで、七つ違いの主人と結婚したのでした。
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重症仮死状態の子
これまでを振返って、色々なことがありました。上り坂や下り坂、まさかという坂まであったりするのですね。結婚したころ、主人が帰ってくる時間には、着物に着替えて玄関で迎えたものでした。1年8ヶ月経って、子供が生まれることになったのですが、それが「臍帯巻絡」
(さいたいけんらく=臍の緒が胎児の首に捲きつく)という難産で、胎児は仮死状態で生まれました。赤子はまったく泣きもしません。

赤ちゃんには、早生児処置をして戴いて助かったのですが、障害が残りました。ご近所にも同じくらいに出産した子がいましたが、なんともないと時期が来たら寝返りするし、オムツ替えされるし、それが当たり前ですが、その子たちと較べて寝返りも出来ないし、首も据わらないし、乳児検診に行くのもイヤでたまらない毎日でした。

絶対歩かせて見せる!
結婚して、何の苦労もなくここまで来たのですが、壁にぶつかると私は弱い。
壁を乗り越えるとか、抜けて通るとかの才覚もなく、明かりもつけない暗闇の中で、主人の帰りを待つ毎日でした。その頃、私は死ぬことばかりを考えていました。家の外にガスボンベが置いてありましたが、主人は会社から帰ってくると、ボンベの元栓を締めてから入ってきたようです。

主人は、死ぬ方法ばかり考えている私に、冷ややかにこう言いました。「死ぬんだったら、自分だけ死になさい!子供には、何の責任もない」なんて、冷たい人だろうと、思ったこともあります。そんな暗い日々を送っていたある時、「死んだと思ったら何でも出来る!」と翻然と悟りました。そう、死んだと思ったら何でもできるのだ。
「私は、この子を絶対歩かせて見せる!」
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私は、変りました
朝、早く起き、エプロン姿となり、部屋の掃除をする。障子にはたきをかける。お医者さんは、「この子を治す薬はありません。訓練だけです」と言われたので、子供(勇=イサム)の脚を持って、寝返りをさせる。左に10回、右に10回。訓練!訓練!また訓練。普通は当たり前にできることが、何故出来ないのか。

「当たり前ということは素晴らしいことなのだ」と気づく。寝返りが出来なくて、ハイハイが出来なくて、お座りが出来なくて、歩ける筈がない。元気な子がやる過程を、全部やらなければ駄目なのです。人が立つには、立つための装具があるのです。その装具をつけて立つ練習をするのです。立てるようになったら、上から順に外していくのです。その他、言語障害はあるし、出来ないことだらけ。訓練・訓練。毎日訓練。

この子のやる気はスゴイ
勇が2歳のとき、母子入園というのがありました。その際訓練の様子をAテレビ会社が取材にきており、モデルになったことがあります。取材中にデレクターが「お母さん。この子のやる気はすごいですね」といいました。「この子のやる気を消さないように育てたら、将来障害者の先頭に立って進むような人になりますよ」うれしい激励の言葉でしたが、「やる気を消さないように」するには、どうしたらいいのかしら。やる気にさせるのは、勇の努力を認めて、褒めてあげることでないか。少しでも、変化を感じたら「ワーッ。すごい。頑張ったわね」と褒める。
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リハビリの難しさ
実は、寝返りというのは、勇にとっては難しい作業でした。ハイハイも難しいのですが、畳の上に勇の好きな桃の缶詰置いて、缶詰に手が届いたら、開けて食べようねと、ペットの調教みたいでイヤでしたが、やってみました。畳の目三つを前進の目標にしました。それでも中々出来ない。でも、ある時、出来たのです。「ワー!すごいわね」と、すかざず褒めてから、缶詰の桃を食べさせる。

そんなことをしながら、やってきましたが、だんだん学齢に近くなってきます。勇の身体障害は「四肢体幹機能障害のアテトーゼ型」で不随意運動が特徴です。四肢の、中でも手の不随意運動に端的に現れます。思うように手が動かないことが多い、指が使えない勇にとっては、このことがいちばん辛かったのではないでしょうか。右手が使いない人は、神経が近いとこところにあるから、言語中枢にも影響があり、言葉がスムーズに出ない。

瞬きするのも運動、目玉を動かすのも運動。モノを飲み込むのも運動です。それらの機能が全部ダメで、勇にもその徴候がありました。本を読むときには、結構飛ばして読んでいたみたいです。小児科の先生には、三歳で歩けなかったら五歳か六歳。これが出来なかったら歩くのは難しいといわれましたが、六歳のときに何とか歩けるようになりました。

普通小学校の就学受験
養護学校へ主人と一緒に見学行きました。学校を出て、帰るときです。雪がちらちら降ってきました。勇を車に乗せようとしたら、「この学校じゃいやだ。家の近くの学校へ行きたい」と目に涙をいっぱいためて、訴えるのです。「色々言われるよ。どうしてちゃんと歩けないのとか」「でも、ボクは平気だ。脳性麻痺だと言えばいいじゃない」子供って、親の考え方を超えているのですね。

そんなことで、普通小学校の就学受験を決断しました。入学児検診を受ける、その2時間前でした。近所の小学校の先生をしている方から、「お名前を書けるようにしたらいいわ」というアドバイスがありました。お名前と言われても、指は歪んで鉛筆ももてない勇です。私は教育ママに早変り。しかし、不随意運動が現れて、字の止めるところで止まらない。伸ばすところが横に突き出る。お手本を書いて、子供の指に鉛筆を挟んで、頑張らせましたが、それでも書けない。

「自分の名前も書けないのに、学校へ入れて下さいとはママ言えないわ」と言ったら、勇は狂ったように泣き出しました。「先生に何か聞かれたら、一生懸命に答えるのよ。お名前を書きなさいと言われたら、一生懸命に書きなさい」あの頃、私も若かったのです、29歳。うちの子は5歳でした。5歳の子でも一心というのは、すごいです。小学校へ一緒に行きました。

色々聞かれたことに答えていました。もっと訊いて欲しいという感じで答えていました。
「お名前は?」と言われた勇は、私が抑えている紙に、七文字を一生懸命に書きました。机の椅子から落ちないように、私は勇の体を支えました。勇もこれが書けなかったら、入れて貰いないと判っていたのでしょう、集中して遂に名前を書き上げました。
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入学許可
そのあと、校長室に呼ばれ、相談の形で話し合いの席が設けられました。その時、私が口を開く前に勇は座ったと同時に、「一生懸命頑張りますから、学校へ入れてください」と、頭をテーブルにつけてお願いしたのです。校長先生もびっくりして、「そう。ボク頑張るんだ。じゃ先生も努力して見ますから」そのあと、知能テストがあって、御茶ノ水女子大へ行きました。

そして、お母さんが毎日介助することが条件でしたが、入学が許可されました。我が家は、その時期は4ヶ月の赤ん坊がいて、その上が2歳4ヶ月でした。4ヶ月の子は朝ベビーホームに預け、次は保育園へ預け、勇は8時15分頃には学校に入りました。私は、高学年分の給食費を払って勇の介助をしました。皆さんにお尋ねします。小・中・高・大に2回ずつ行った方はおられますか?私は、大学は行っていませんでしたが、授業についてくださいと言われたら、必ず付き添っていました。

スケート
勇には「やる」言ったことは、全部やらせました。普通学級でやっている訳ですから、色々なことがあります。ストローで吸うだけでも何ヶ月もかかるのです。困難なことが多々ありました。勇はスケートをやりたいと言い出したのです。平坦な道を普通に歩ける人でも、スケートはちょっと厳しい。でも連れて行きました。

お母さんがスケートリンクの手摺りに掴まっている状態は教えることも出来ませんから、練習に行きました。12回ほど通って、バックが出来、アイスダンスが出来るレベルになってから、勇と一緒にスケートリンクに行きました。貸し靴を勇にはかせてから、私は勇を介助しながら一緒にリンクを回わりました。すると勇は、何と言ったと思います?
「これは、ボクには合ってない」無理とか、出来ないとは言わないのです。
「スキーの方がいいみたい」
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普通中学校へ
私は、勇が望むなら何でもやらせる方針でした。なぜなら次のチャレンジに繋がるからです。中学へ進学するときも、アサヒグラフに取材を受けて紹介されたのですが、なかなか、許可されなく、今度は小学校の先生方が中学校に押しかけ交渉をしていただき、やっと入学することが出来ました。入学した途端に勇はワンゲル部に入ると言い出したのです。普通以上に足腰の丈夫な方が入る運動部です。担任の先生が、ワンゲル部の担当だったこともあったでしょう。

そして、大自然のすばらしさを話してくれるので、勇はそれを聞いてワンゲル部に入りたいという想いが強くなったのでしょう。私は、担任の先生に相談に行きました。帰ってくると勇は「先生は何といっていた」と結果を待っているのです。「先生は、会議で時間が取れなかったの」と誤魔化して、しまいました。

ワンゲル部に
意を決して、翌日先生に相談しました。「エリアマップで、地図の上で山登りするのでも結構ですから、一応部に入れて頂いて、あとはトレーニングするときは訓練と思って私がなんとかします。お願い致します」先生は、即答しませんでしたが、後日返事を戴きました。「では、いいでしょう」勇はこうしてワンゲル部に入りました。

一ヶ月経ちますと、勇は裸足で階段を登る練習をしたりしています。先生からお声がかかりました。「お母さん。晒(さらし)でおぶり紐を作ってください。お母さんと私が交替で負ぶっていけば、山に連れて行くことが出来るでしょう」お蔭様で、高いところは富士山に登るより難しい北岳とか八ヶ岳、奥多摩の山々は、ほとんど登りました。勇がやりたいと思うことは、柔道でも剣道でも全部やらせました。

英語の授業
英語の授業のときに、先生が生徒に順に当てていきます。ところが、勇のところに来ると飛ばして、次の生徒を指名します。勇を見ると目に涙をためていました。自分が無視されたような気がして、屈辱感を覚えたのでしょう。すると、何回目かの飛ばしを見ていた女子生徒が「先生、どうして茂森君を指さないのですか?」と質問しました。

「いやあ、ちょっと。何言っているか判らないから・・・・。それと時間がかかるから」と先生は答えました。すると、女子生徒は「先生。時間がかかってもいいじゃないですか。指してやって下さい」と言い返しました。その後、指してくれるようになりましたが、今は勇の方が、英語は先生より達者になっています。そんなことを経験しながら、高校へ進みました。
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高校へ
高校では、数学の時間、先生の説明が間違っていることもあります。私には判りませんが、勇は小声で、「先生間違っているよ」と私に囁きます。「違っていても、いいじゃない」と私が言うと、「みんな間違って覚えたら、拙いじゃないか」
「あなたが判っていたらいいの」
「でも、みんなあれが正しいと思ったら具合が悪いよ」
「そんなら、先生にいいなさい」

試験前になると、色んな生徒が勇の席へ「教えて」とやってきます。勇が判り易く教えると
「あ、判った」と自分の席に戻るのです。「お母さん。教えることは、学ぶことです」と、こっそり言うのです。そいうことが結構ありました。大学になると、送り迎えだけで済みました。大学の方でも、気を使ってくれて、好きな講座はなんでも受けてください、と言ってくれました。江崎玲於奈先生とか遠藤周作先生とか、すばらしい特別授業は聞かせていただきました。

障害に感謝
私は、勇が20歳になったら、全て自分でやらせようと決めていましたから、20歳と15日でアパートに移りました。私は、そこへ1週間にいっぺんだけ訪問することにしました。それ以外は、何があっても行かないのです。理工関係に進むためにアメリカ留学をするので、向うへ行ってからのひとり暮らしのための訓練です。ある日、そのアパートで、こんなことがありました。

夜中の2時ごろでした。疲れていた私は眠くてたまりません。「皆のお弁当も作らなければいえないので、もう帰るわ」というと、勇が紅茶を入れてくれ。「これ飲んで、目を覚まして帰って頂戴」そして、膝歩きで出て来て、私にこう言ったのです。

「不自由な体で生まれたことに、心から感謝します」勇は、床に頭をつけていました。
「えっ。かっこいいことを言っちゃって。手は効かないし、思うように歩けないし、どうしてそれで感謝なの?」「僕は、出来なかったことが、出来るようになる喜びを、一つひとつ味わうことができます。何でもチャレンジさせて貰えるから、僕は不自由な体で生まれて良かったです」
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自分を変える
私は、毎日勇に同行して学校へ行きます。勇の机の横に座ります。先生も毎日父兄同伴で、やり難い授業だったに違いないでしょう。勇は、その様に言ってくれましたが、私にはどうしてこのような障害児を授かったのだろう。学校で不愉快な思いをしたときには、何でこんな思いをしなければならないのか、と思うこともありました。

しかし、「もしかしたら、この子は私を教育するために、生まれてきたのかも知れない。むしろ、障害児でよかったのかも・・・・」そのように思っていたら、数ヶ月後に勇からあのような言葉を聞いたのでした。そう、相手を変えることは難しいことだが、自分を変える方が易しいのです。

アメリカ留学
大学では3年で、4年間の単位を全部取っていました。そして卒業後に留学は、計画通りに進行しました。

キリッとした勇さんのUCB卒業風景

同時に、アメリカでの1人暮らしのアパート生活が始まったのですが、親としては、やはり心配でした。主人と二人で留学先の大学や、アパートを訪問しました。道を間違いたり、色々失敗もしました。英語は私より勇の方が達者ですが、発表する言葉に言語障害があって、相手には通じ難い。

勇さん、USB卒業風景

「お母さん。折角アメリカに来ているのだから、アダルトスクールへ行ったらいいよ。僕が案内するよ」と勇に奨められて、英語圏でない国から来た留学生のためのアダルトスクールに入学しました。どっちが親だかわからりませんね。勇が大学へ言っている時間帯には、私がアダルトスクールへ行くという生活でしたが、日本の英会話学校で習うより、遥かに効率的に英会話が出来るようになりました。

サンフランシスコは霧の町と言われていますが、朝深い霧であっても、日中は抜けるような青い空になります。近くのバークレーはとにかく、気候のよいところです。お花は綺麗で、庭に植えるとドンドン増えるのです。しかし、日本人は生活の中で、人目を気にしながら服装を選びます。バークレーの街を歩いている人は、寒かったら厚手の上着を着るし、暑かったら脱げばいいという生活をします。

街には、ノースリーブの人もいれば、裸同然の人もいるし、中には毛皮のコートを着ている人もいます。みんな好きなように生活をしているのです。知らない人同士でも、ハーイなど声を出して、挨拶を交わしています。私も日本に帰ったら、そんな生活をしようと思いました。しかし、本当に日本に帰ってきたら、山に登った時を除いて、まったくそうは行かないのですね。
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神に全托
アメリカでは4ヶ月だけ一緒にいて、勇一人をアメリカに置いて日本に帰るとき、勇気がいることでした。靴下だって一人では はけないのですから・・・・。勇にあてた長―い手紙を書きました。「何か事故があった場合でも、あなたが一生懸命対処していたら、きっと手を差し伸べてくれ誰かが現れるでしょう」。飛行機が離陸して、街の時計台などが見えるのですが、その時私は祈りました。「神様、苦しい時の神頼みですが、どうか、あの子の前途が開けて行きますように。すべて神様に全托いたします」。

そんなエピソードを数多く持ちながらも、勇は頑張っております。私も、勇を見ていると、言語障害があっても、私がアメリカへ行くと「お母さんも、英語の言語障害がひどいね」なんていうのです。たった一度の人生ですから、色んな人にあって、色んな体験をして、障害があろうと、無かろうと、終わりに臨んで「やった!」と言えるようにしたいものです。あっと言う間の45年でした。拍手また 拍手
終わり



文責:三上卓治
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:和田節子


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