現在位置: ホーム(1)講義録一覧(2) >尾崎行雄(尾崎咢堂)の生涯に学ぶ

WEBアクセシビリティ対応

ページの先頭です

ページの先頭です

平成23年10月14日 神田雑学大学定例講座NO571 

「尾崎行雄(尾崎咢堂)の生涯に学ぶ」講師 澤田外行(尾崎行雄を全国に発信する会)、画像は相模原市立尾崎咢堂記念館

 


メニューの先頭です 目次

画鋲
生まれ地は相模国又野村
上京し、やがて高崎、伊勢へ
政治家の志は、「民撰議院設立建白書」
慶應義塾から工学寮に転学
読書や英書翻訳に没頭
福澤の推薦で新潟新聞主筆に
統計院権少書記官に任官
明治14年の政変で下野
徴兵検査の出頭命令
英国議院政治論の翻訳続行
立憲改進党創立に参加
政党受難の時代に突入
東京府会議員となる
保安条例で東京退去に
大日本帝国憲法発布で恩赦
第1回衆議院議員総選挙で当選
初の政党内閣が実現、初入閣で文部大臣
「共和演説問題」で辞任
第2・3代の東京市長に就任
憲政二柱の神
日本議会史に残る大雄弁
続々と咢堂会が誕生
司法大臣として、議員買収事件処決
普通選挙と軍備縮小
即、普通選挙実施を唱える
軍縮論を提げて、全国遊説
普通選挙法が通過、治安維持法に猛反発
革新倶楽部を脱退
党議拘束は良心の自由を奪う
その前後の所属院内会派
遺書代わりに、『墓標に代へて』を執筆
憲政功労者として表彰
失意の底で湧いた言葉
『人生の本舞台』頒布
2.26事件と尾崎
軍部の政治支配が強くなって
翼賛選挙には非推薦で当選
不敬罪容疑で巣鴨拘置所に
敗戦後の日本を見通して
無限の理想「世界連邦建設」
尾崎が提唱した元号
正三位勲一等の返上
尾崎を総理に、の声幾度か
尾崎、最後の選挙結果
初の衆議院名誉議員になる



メニューに戻る(M)

生まれ地は相模国又野村
尾崎行雄は、安政5(1858)年11月20日に、相模国津久井県又野村で生れました。
「又野村という山村は、道志の山裾にかこまれた極めて辺鄙な所だ。」と、生れ故郷を自伝で紹介しています。又野村は中野町、津久井町を経て相模原市と合併し、現在は政令指定都市の神奈川県相模原市緑区になっています。「天正18(1590)年北条氏が滅びてから又野に移り、累世相続いて里長(さとおさ)となる。」と尾崎家が『新編相模国風土記稿』に記録されています。

尾崎行雄尾崎の祖先は尾崎掃部頭行永(ゆきなが)(掃部守、掃部介、掃部助とも)で、旧津久井郡牧野の山頂539mにあった伏馬田城(ふすまだじょう)がその居城だったと言われています。元和8(1622)年3月、行永の没後が九郎右衛門で、その後は代々彦四郎を名のっていました。ところで尾崎は、先に挙げた『咢堂自伝』(昭和12年2月)の尾崎家の祖先の項で、面白いことを書いていますので、そこを紹介しようと思います。「世間で謂ふ所の先祖については、私は大いに疑問を持ってゐる。

どこの家でも系図を見ると、先祖といふものが、麗々しく載ってゐるが、その先祖とても、もともと人間である以上、父母があり、祖父母があり、更にその先代もあった筈だ。それをたゞ中間の比較的重要な人を探し出して来て、これを先祖と云ふのは、まこと誠に勝手に可笑な習慣だと思ふ。」と述べて、先祖が何(例え猿の御親戚)であっても構わない流儀を示しています。

次に尾崎の両親ですが、父親は尾崎彦四郎行正と言いました。行正は神奈川県南多摩郡散田村(現、東京都八王子市)の士族・峯尾道正の次男で、嘉永4(1851)年9月、養子縁組によって峯尾家から尾崎家に入籍しています。八王子千人同心の組頭・植田孟縉(うえだもうしん)「武蔵名勝図会」で知られる)の孫に当たります。翌年、嘉永5年11月、養父であった彦四郎行直が亡くなり、行直・シゲの一人娘であった貞と結婚します。

安政3(1856)年11月のことでした。天保9(1838)年生まれの行正と天保13(1842)年生れの貞との、10代同士の幼い結婚でした。そして二人の間での最初の児が、安政5(1858)年に誕生した尾崎行雄(幼名は彦太郎)でした。続いて、弟の行隆、行武、行昌、妹の千代、はる、が生れています。父行正は勤王浪士と交わりが多く、諸国を奔走して留守勝ちだったようです。幼児期の尾崎は病弱で、母子だけの淋しい生活でしたが、母から教えられた「談笑死生間」(武士の子は微笑みながら死ね)を教訓にして、父の安否を気遣いながら日々過ごしていたと言われています。
メニューに戻る(M)

上京し、やがて高崎、伊勢へ
尾崎が又野村から勉学のために上京したのは、10歳が過ぎた明治2(1869)年のことでした。父行正は板垣退助が率いた断金隊を除隊して、会津戦争から凱旋しました。しかし帰郷することなく、明治新政府で弾正台(行政監察・司法警察)の役人になって、駿河台の土佐屋敷(安岡良亮邸)に住んでいたのです。駿河台、番町と移り住み、番町では平田篤胤(あつたね)の養子、鉄胤(かねたね)の平田塾に通って古典を学んでいます。

しかし父の転任で、高崎県(現、群馬県)、度会県山田(現、三重県)、と移ります。高崎で英学校に入り、伊勢でも山田の宮崎文庫英学校(郷学校→語学校→外国語学校に改称)に通っていました。漢学や国学から英語へと習い始めた尾崎少年は、「民撰議院設立建白書」に刺激を受けて遊学を志し、両親に東京行きを懇願するのでした。
メニューに戻る(M)

政治家の志は、「民撰議院設立建白書」
明治6年の政変で、征韓派5参議が下野します。板垣退助(土佐貫族士族)、後藤象二郎(土佐)、副島種臣(そえじまたねおみ)(肥前)、江藤新平(肥前)の4参議と、他4名の連署なる民撰議院設立の建白書を太政官の左院に提出しました。明治7年1月17日のことで、翌日その申し立て書全文が邦文新聞「日新真事誌(にっしんしんじし)(英国人ブラックが東京で創刊)に掲載されるや、大きな反響を呼んだのでした。

尾崎が後年口述した『日本憲政史を語る』を骨子として編纂された「咢堂自伝」で、当時のことが次のように書かれています。「私も山田の英学校で、この建白書を読んで、全身が電気にうたれたやうな感激をおぼえ、一生涯の進むべき方向が決められたやうな気がした。

私の政治家たらんとする志は、このときかたまつたのである。」(『尾崎咢堂全集』第11巻)
「臣等伏シテ方今政権ノ帰スル所ヲ察スルニ、上帝室(かみていしつ)ニ在(あ)ラス、下人民ニ在ラス、而シテ独リ有司(ゆうし)ニ帰ス。(中略)天下ノ公議ヲ張ルハ、民撰議院ヲ立ルニ在ル而巳(のみ)。(「民撰議院設立建白書」から)すなわち、その趣旨とするところは、官僚専制の弊害を述べて、民撰議会を設立して天下の公議を拡張する必要あり、と説いていますので、尾崎の立憲制度を確立し、藩閥政治を嫌う立憲政治家としての原点が、強く心を動かされたこの建白書に見られます。
メニューに戻る(M)

慶應義塾から工学寮に転学
念願叶って弟の行隆と慶應義塾に入学したのは、明治7(1874)年でした。慶應の入社帳(入学簿)には、その年の5月4日と記録されています。当時の慶應には、幼稚舎、童児局、大人(だいじん)寮とあって、尾崎は童児局に入り、後に中年局が設置されてそこに進んでいます。しかし在籍1年半で、慶應を退学します。役人になるような法律・政治・経済などの学問をやるのではなく、立派な染物屋になる決心をしたからでした。

染物屋になる勉強をするため、虎ノ門にあった工学寮(後の工部大学校で、東大工学部の前身)に転入学します。だが理化学系が苦手な尾崎は、すぐに嫌気がさして来ます。それに薬品の匂いにも、我慢できませんでした。工学寮では、本来の学科目とは関係がない論文を書いて新聞社に投稿していました。楠秀という筆名で、薩摩の勝手な振舞いを批判して書いた「討薩論」は、その時の一冊です。

熱心に話を聞いている受講生、部屋の様子

しかしここでも、1年足らずで退学となってしまいました。「当時、薩摩はほとんど独立国の状態であって、政府の命をきかない。西郷隆盛は私学校を建て、私兵を養って、勝手な振舞をしておつた。日本のなかでも、薩摩だけは特別扱ひで、政府も手が出なかつた。そのころの日本は、明治維新で階級制度を打破し、四民平等の大義を確立したはづであるが、事実は薩長が専横を極め、藩閥政治の世となつていた。子供心にも、私は藩閥政治が癪にさはつて、さてこそ討薩論を書いたのである。」(教室で論文の起草『尾崎咢堂全集』第11巻)

三田の恩師・福澤諭吉にこれを見せると、「そんなものを書くと縛られるぞ」と戒めを受けましたが、尾崎の性分として、薩長の勢力増大と明治政府を無視した薩摩の治外法権化に憤慨して、もう黙ってはおれなかったのです。藩閥を承知しない一途な思いが、議論を沸騰させたのでした。「討薩論」が曙新聞に掲載されたこの明治9(1876)年、時の藩閥政治に不満の武力的反抗が頻発しています。熊本の神風連の乱、福岡の秋月の乱、山口の萩の乱といった内乱の勃発でした。

そして、翌年明治10(1877)年2月には西南の役と続きます。熊本の乱で、県庁にいた尾崎の父・行正は危うくも難を逃れています。父の上司であった県令・安岡良亮は負傷し、殺されました。安岡の家来だった父の言い付けで、上京した尾崎が駿河台の安岡御殿で学僕(書生)として仕えたことがあった、その人物です。父はこの事件後、天草で家族と落ち合い熊本を去って、伊勢の山田に隠居することになります。
メニューに戻る(M)

読書や英書翻訳に没頭
 工学寮を退学してからの尾崎は、読書や英書の翻訳に明け暮れます。翻訳書では、『公会演説法』、『権理提要』(いずれも丸屋善七から出版)などを世に出し、一方では福澤諭吉の『民間雑誌』を復興して編集に携わっていました。慶應とともに三大義塾と言われた共勧義塾(本郷湯島)でも英国史の講義を持っていましたが、翻訳に比して授業は生徒には大変不評で、数回で打ち切られています。
メニューに戻る(M)

福澤の推薦で新潟新聞主筆に
明治12(1879)年になって、福澤諭吉から地域で勢力を振るっていた「新潟新聞」を勧められます。尾崎は二つ返事で承諾し、福澤の推薦でもって10月新潟新聞の主筆として赴任することになります。前年結婚した新妻・繁子も一緒でした。妻となった人は、長崎の勤王家の娘で、田中繁と言いました。新主筆を波止場に出迎えた新聞社や地元有力者たちは、若い青年と少女を書生と女中に間違えたとする、エピソードが残っています。

澤田外行講師尾崎が書いた社説は評判が良く、自ら「新潟新聞総理」と署名するほどの手腕を揮っていました。福澤が新聞社の社主宛に認めた「(尾崎は)見所のある奴がから、手足をのばさせてやってくれ」の一筆に、効き目があったようです。また、わずか二年足らずの新潟での生活で、尾崎は「一酔一吟社」という詩の結社を創っています。この時に迎えたのが阪口五峰(=坂口仁一郎さかぐちにいちろう)でした。

阪口の生まれは安政6年(1879)1月3日で、尾崎は、やはり安政時代の5年(1878)11月20日の産ですから、同年齢の人でありました。新潟米商会所の頭取代理を務める実業家であった阪口は、一方で詩と書においては大家の域にあったと、尾崎は彼の文才を讃えています。阪口は、尾崎が新潟を去った(明治14年7月)後のこと、明治24(1891)年に新潟新聞の社長になっています。この人物、阪口五峰については、石川 淳が「諸国畸人伝」(昭和32年10月、筑摩書房)で取り上げています。そして、五峰の子が『堕落論』で名をなしたあの坂口安吾なのです。
メニューに戻る(M)

統計院権少書記官に任官
新潟赴任から2年目の春、尾崎に1通の手紙が届けられます。差出人は慶應の先輩で、青年たちに仰ぎ慕われていた矢野文雄からでした。国会開設の前に、大隈参議が統計院を設けて総裁となり、次席が太政官大書記官の矢野でありました。矢野は尾崎の<国家の盛衰は尚武の気風によることを歴史上から論じた>『尚武論』(新潟新聞に連載、のち単行本で明治13年12月出版)が機縁になって、政府入りを勧めたのでした。統計院権少書記官としての勧誘には、犬養毅らの仲間も一緒に任官されました。しかし抜擢されて、統計院に出仕したのも束の間のことで、いわゆる明治14年の政変で、大隈一派が失脚します。
メニューに戻る(M)

明治14年の政変で下野
明治14年の政変(北海道開拓使官有物払下げ、参議・大蔵卿を罷免、国会開設の勅諭)で、国会開設の準備に勤しんでいた大隈参議らが排斥されます。大隈一派と目されていた矢野文雄を筆頭に、犬養毅や尾崎らにも連座して辞職に追い込まれてしまったのです。それゆえ尾崎が統計院権少書記官として在任した期間は、同年7月から10月までの数ヵ月でした。何よりも国会開設の詔書により、明治23(1890)年を期して選挙を行い、議員を召して国会を開くことが明確になったことは、大きな収穫でした。
メニューに戻る(M)

徴兵検査の出頭命令
明治13(1880)年、すでに満20歳で徴兵年齢に達していた尾崎ですが、病気を理由にして1年間徴兵検査を延期していました。新潟新聞社主筆時代のことです。翌年10月までは、統計院権少書記官でしたから、官吏ゆえに一時検査を免除されていました。それが、明治14年の政変で退官した尾崎に、すぐに出頭命令が届きました。その頃、明治6(1873)年に発布された徴兵令で、国民は皆兵でありました。

徴兵の免除は兵役にたえぬ者、官吏・官立学校生徒・洋行中の者などや、代人料二百七十円を納めた者に限られていましたが、一家の主人や家の跡継ぎ、独子独孫・養家に住む養子なども該当していて、1876(明治9)年時の徴兵免役率は、全国平均82%にも上っていました。

東京市庁に呼び出された小柄な尾崎に、検査官はまともな検査もしないで、「色白き方」、
「肥った方」と実際と異なる好い加減な診断書を書いて、身体が丈夫でもないこの男を、甲の上で合格させました。(尾崎の体型は、後のことだが80歳当時で身長5尺2寸=157cm、体重9貫目=34kg、もっと若い頃は12貫=45kgであったから、身長で基準5尺1寸を1寸だけ超えていた。)兵役不適格で免役されると思っていましたので、大いに困りました。

このままだと、兵役に就かなければならない。処置に困った尾崎は、結局三百円の代人料を納めて徴兵を免除されています。その彼を救った大金は、我が身を国士と任ずる男の一大事に同情して、友人たちが用立ててくれたものでした。代人料は、その後明治16(1883)年に廃止されています。
メニューに戻る(M)

英国議院政治論の翻訳続行
書記官在任中から尾崎は、アルフュース・トッド著『英国議院政治論』の翻訳の一部を受け持っていました。明治14(1881)年10月の政変で原書は返却しましたが、退任後も別に購入した書物で訳出を続けたといいます。トッドの著書を翻訳して、イギリス議会政治の実情を学んでいたのです。

そして運用の規範としていました。連日版を重ねた尾崎著『立憲勤王論』(文会堂書店 大正6年12月)の「政党内閣主張の由来」の章で、次のように述べています。「爾時偶(なんじときた)まトッド氏の英国議院政治論を読んで、始めて政党内閣の運用を知り、豁然として感悟する所あり、覚えず案を打て叫べり。曰く此の道以て能く藩閥の跋扈を制すべく、以て能く皇室の尊栄を保障すべしと。即ち直に其の翻訳に着手し、数年に亙りて漸次之を出版したり。」
メニューに戻る(M)

立憲改進党創立に参加
下野した同心一味の人々で、翌明治15(1882)年4月に立憲改進党(大隈重信が党首)が結成されます。同志は、「嚶鳴社(おうめいしゃ)」沼間守一(ぬまもりかず)、島田三郎、大岡育造、肥塚龍、角田真平など)、慶應義塾系の「東洋議政会」(犬養、尾崎など)、帝国大学系の「鴎渡会」(小野梓、高田早苗、天野為之、山田喜之助)の三派に、大隈配下の河野敏鎌、前島密、北畠治房、牟田口元学、矢野一派の藤田茂吉、箕浦勝人、その他が結集します。党の性格は、立憲君主制と議会政治の実現にありました。

その前年10月には、血気盛んな士族連中や豪農層を基盤に、急進的な自由主義を党是とする自由党(板垣退助が総理)が結成されていました。一方、改進党の活動にあたり郵便報知新聞を機関紙にして、矢野が社主。論説記者には藤田茂吉と箕浦勝人に、それに犬養、尾崎が入社してなり、紙面を受け持ちました。こうして尾崎は論説記者で筆を揮い、第一線での政治活動を始めたのでした。
メニューに戻る(M)

政党受難の時代に突入
明治15(1882)年6月には、集会条例改正で政党活動を拘束する規定が設けられ、政党受難の時代に突入しました。藩閥政治を支持した会派「吏党」に対し、自由民権運動の流れを汲む自由党や改進党など、藩閥政府に反対して民党(民権派各党の総称)と称しましたが、政府は在野党の撲滅作戦に出ます。政党員を謀反人扱いにし、民権論者を圧迫しました。明治16(1883)年4月には新聞紙条例が改正され、さらには同年6月に出版条例が改正されて、次々と厳しい言論圧迫が加わりました。御用新聞の拡張を援ける一方、反政府軍の政党紙を治安妨害の名目にして発行を停止させたりしました。尾崎が書いた論説で、半月や1ヵ月の停止に陥ることも度々でありました。
メニューに戻る(M)

東京府会議員となる
すでに論壇で名を馳せていた尾崎は、明治18(1885)年3月、名士たちに推薦され日本橋区選出の東京府会議員となりました。尾崎にとって地方議員は、国会に入る前の絶好の準備期間でもありました。同年、末廣鉄腸(重恭しげやす)に招かれた朝野新聞紙上、国会開設以前に整理すべき項目の中で、あるべき国会議員像を次ぎのように挙げています。(1)内外事情、行政に詳しい、(2)道徳を守る、(3)公共心を持つ、(4)権力に屈しない、(5)名誉欲、利権欲に囚われない、(6)自説を守る、(7)自分の意見を持つ、(8)物事は周到に考える、(9)穏当着実に、(10)演説の才能がある、と10ヵ条に示し、その拠り所には後の尾崎像を彷彿させるものがあります。
メニューに戻る(M)

保安条例で東京退去に
また明治20(1887)年の暮れに命ぜられた保安条例(全文7条で、「内乱を陰謀し」「治安を妨害する」虞ある者に厳しい罰則)は、尾崎にとってまたと無い議会政治を学ぶ絶好の機会となりました。明治20年10月、後藤象二郎と手を組んで大同団結運動を起こし、租税徴収軽減・言論集会自由・外交失策挽回を政府に要める三大建白運動を展開しました。後藤らと丁亥(ていがい)倶楽部を結成して、民権派は藩閥政治反対の気勢をあげるのですが、年末、勢い余って保安条例の罰則に触れて東京退去になってしまいます。

すなわち、「保安条例第4条に依り、来る31日午後3時を限り、3年間皇城を距る3里以外の地へ退去すべし」のお咎めを受けます。意外なことでビックリした尾崎は、それまでの学堂の雅号を、愕きの愕堂(のち咢堂)に改めています。ちなみに、この民権派弾圧の保安条例では、中江兆民ら要注意人物となった民権家たち、570名が追放されました。政治活動が出来ないのなら日本にいても仕方がないので、これを契機に翌年1月、横浜から初の欧米視察に出ることになります。
メニューに戻る(M)

大日本帝国憲法発布で恩赦
明治22(1889)年2月に大日本帝国憲法が発布されると、3月に大恩赦令通知が届き、英国滞在中だった尾崎の東京退去が解かれました。赦されて帰国を一時考えましたが、見聞を広めるためになお欧州大陸を巡っていました。同年10月になって、外務大臣大隈重信が暴漢に爆弾を投げつけられて、右足を負傷(切断)した旨の電報が入りました。旅の身支度を整えて帰国したのは、その年12月になってしまいました。
メニューに戻る(M)

第1回衆議院議員総選挙で当選
年が明けて、明治23(1890)年7月我が国で最初の衆議院議員総選挙がありました。選挙資格は、国税15円以上を納める25歳以上の男子に限られていました。選挙に出るにあたって神奈川には手蔓がないし、犬養が地元岡山の隣の選挙区から名乗り出せるようにしてくれたものの、尾崎は加藤政之助の世話で埼玉を予定していました。結局尾崎は、父行正のかっての任地で、父が隠居していた第二の故郷・伊勢の地(宮川河畔に、現在は尾崎咢堂記念館)、三重県第5区(2人区)から立候補することにして、有効投票数1,919票ある中で1,772票もの多数票を悠々と獲得して当選したのでした。

議会の様子、モノクロ写真

選挙前の地元新聞には、選挙結果後の組閣予想リストが発表されていて、改進党内閣が実現すれば、総理に大隈重信、枢密院議長に河野広中、内務大臣に嶋田三郎、外務大臣に加藤高秋、そして何故か陸軍大臣に尾崎行雄がその顔触れとなって出ているのだから、面白いと思います。その時以来、尾崎は連続25回、63年間にわたる前人未踏の議員在任記録を作るのです。この間、明治29(1896)年9月に松方正義と大隈の「松隈内閣」が成立して、大隈外相の下で外務参事官。

明治31(1898)年6月に大隈と板垣退助の「隈板内閣」で、文部大臣。大正3(1914)年4月の第2次大隈内閣で、司法大臣を歴任しています。大隈内閣時代、当初反対であった対華「21カ条の要求」(中国における権益拡大)に閣僚として賛成しています。この国家間の問題を生涯痛恨の極みと反省し、今後いかなる内閣にも入らない決意をして一介の衆議院議員に終始しています。

メニューに戻る(M)

初の政党内閣が実現、初入閣で文部大臣
明治31年6月、この第1次隈板内閣で憲政党総務委員全員(林逓相、松田蔵相、大東法相)が入閣し、尾崎は若き文部大臣となりました。天皇の命で留任した桂太郎陸軍大臣・西郷従道海軍大臣以外は全て政党政治家であるところの、我が国最初の政党内閣(明治31年6月30日~同年11月8日)が実現しました。

しかし山県の裏面工作で、陸海軍両相の奏薦に及ばなかったが、各省大臣の奏呈には躓きました。(27日:大隈・板垣に組閣大命、28日:参内し閣僚名簿奉呈、天皇は文相候補の尾崎に難色、29日:重信・退助再び参内し御下問に奏答、「正五位尾崎行雄特旨ニ依リ懲戒処分ヲ免ス」の勅裁があって、30日:隈板内閣成立。)前年11月、外務省参事官在任の身にして(松隈内閣)倒閣を策して、懲戒免官中だった尾崎行雄の名があったからであった。「偶々名簿中、尾崎行雄の名あり、直に大臣に奏薦する所以を質したまふ、」(『明治天皇紀』第9巻 昭和48年)
メニューに戻る(M)

「共和演説問題」で辞任
文部大臣に就任した明治31(1898)年の、夏の終わりのことでした。
帝国教育会主催による全国小学校教員講習会に招かれ、講演しました。その一節で、「アメリカが拝金主義の国でない証拠には、同国の歴代大統領は、金持ではなく、何れも中産以下の人々から選出されている。若し日本が共和国であって、大統領を選挙する政治組織であると仮定すれば、三井や三菱の代表者が、大統領に選出されるかも知れない」と述べ、拝金主義(金権政治)を戒め、アメリカはそういう国ではないと説きました。

ところが「共和国であって」という比喩が問題となって、まず藩閥が騒ぎ出し、「東京日々新聞」で世間も巻き込んで騒ぎ出します。尾崎は日本の将来を共和国と想定する共和主義者だ、不敬な奴だ怪しからん、と囂々たる非難が続いて排撃の的となって行くのでした。火の粉を浴びながらも、歪曲され心外だった尾崎は頑張ったのですが、「仏敵問題」も絡んで内務大臣・板垣退助が「尾崎と自分とは両立するわけにはゆかぬ」と上奏。

侍従職の岩倉具定から「先輩が両立出来ぬといふ以上は後輩が退いて内閣を完ふすべきものであろう」との陛下の御言葉を賜り、ついに(共和演説のためではなく)先輩・板垣のために、病気を理由に就任4ヵ月で退いたのでした。この辞任劇が端を発して、閣内、憲政党内、自由党派と進歩党派の内部抗争が絶えず、隅板内閣は崩壊してしまうのでした。
メニューに戻る(M)

第2・3代の東京市長に就任
衆議院議員と兼務(中央政府では「咢堂健在なりや」と囁かれる状態)しながらも、第2代・3代の東京市長になっていた時期がありました。尾崎が40代半ばに差しかかる頃からほぼ10年間、明治36(1903)年6月から大正に移る1ヵ月前の、明治45年6月までの間です。最初は就任を辞退したのですが、週に2~3度も参事会に顔を出してくれればよい、と懇願されて引き受けたのでした。

尾崎が思い出すままに述べている在任中の仕事については、市区改正(市街地の整備)、水道拡張(断水対策)と下水の改良(悪臭対策)、道路の改装(塵埃・泥濘対策)と植樹(路傍樹)、植樹と言えばワシントン名物の桜(ポトマック河畔)、電車の市有化と瓦斯会社合併などを挙げて、市政の近代化に多少の業績を残したと控え目に顧みています。市長時代にあって書き落とせないのは、共に辛苦辛労を凌いできた繁子夫人を明治37年9月に不治の病で失ったことです。尾崎には三男一女が残されたのでした。(翌38年10月、大隈の媒酌で尾崎テオドラと再婚)次に多摩川水源林調査に着手して、給水100年の計に立った水源林の確保も、業績に挙げなければなりません。
メニューに戻る(M)

憲政二柱の神
市長職から解放されるや、立憲政治家として公憤にかられる事態が進捗していました。外遊から帰国した翌々日に桂太郎が、内大臣兼侍従長に任じられ、宮中に入ったばかりの桂が、今度は宮中と府中の秩序を紊して総理大臣の座に飛びついたからです。桂内閣打倒が憲政擁護運動になって展開します。国民党の犬養毅と政友会の尾崎行雄、この両巨頭が国民大衆運動の陣頭に立ちました。「憲政擁護・藩閥打破」の各地集会や演説会で二人は、熱狂的な民衆の渇仰の的となって、「憲政二柱の神」と呼ばれたのでした。
メニューに戻る(M)

日本議会史に残る大雄弁(桂内閣弾劾演説)
議会の様子大正2(1913)年2月5日、内閣不信任案提出の議会で、名演説として残る尾崎の渾身を込めた大雄弁の一説は、次のとおりです。尾崎の弾劾演説で議会はそのまま停会となって、第3次桂内閣が50数日で瓦解するのです。これが大正政変です。

「彼等は常に口を開けば、直に忠愛を唱へ、恰も忠君愛国は自分の一手専売の如く唱へてありまするが、其の為すところを見れば、常に玉座の陰に隠れて、政敵を狙撃するが如き挙動を執って居るのである。(拍手起る)

彼等は玉座を以って胸壁となし、詔勅を以って弾丸に代へて、政敵を倒さんとするものではないか、」(「官報号外」帝国議会衆議院議事速記録)尾崎は、常に「虎(ここでは天皇)の威を借りる狐(桂首相)」を、あなたがた藩閥派は天皇の御座所を楯に、天皇の詔勅を弾丸にして、私たち政敵を倒そうとするとは何事か、と糾弾したのでした。

尾崎の考えでは、<理屈詰めに、真綿で首を締めるような演説をするつもり>でしたが、先に立った質問者に対し桂首相が愚弄の調子で応えたので、憤怒極まり、怒気を帯びて演壇に駆け登っていきました。ことに、詔勅に対してすら責任がないというような愚弄的な答弁を痛撃しています。演壇から前に進み出て、大臣席の首相本人を指差し、突くがごとくの迫力に桂は蒼ざめたといいます。
メニューに戻る(M)

続々と咢堂会が誕生
尾崎行雄の政治活動を担った地元組織に、咢堂会がありました。大正4(1915)年設立の三重県「南郡咢堂会」(咢堂尾崎行雄の高風清節を仰ぐ南牟婁郡18町村の有志集団)はその先駆けですが、大正13(1924)年12月になって、県内各地に結成されていた度会、志摩などの咢堂会を統合するかたちで、宇治山田を中心とした「咢堂(伊勢)会」が設立されています。選挙区以外でも、自発的に組織されて大正13年2月発足の「名古屋咢堂会」(東区富沢2丁目)、尾崎を敬慕する人々で集まった昭和14(1939)年10月の「銚子咢堂会」(本城町2ー183)がありました。

また、これらの以外の地でも続々と全国に咢堂会が誕生しています。例えば甲府咢堂会、川越、信越、東京、大阪関西本部、京都などです。なお、昭和21(1946)年6月には、「逗子町咢堂会本部」で、全国の咢堂会を網羅した機関誌を発行しようとする動きがあったり、昭和24(1949)年3月から4月にかけて「東京咢堂会」(同22年11月設立)が中心になって、全国各地に散在する咢堂会を連合する「咢堂会全国連合会結成」の呼びかけを行っていますが、いずれも実現していないようです。
メニューに戻る(M)

司法大臣として、議院買収事件処決
司法大臣時、大正4(1915)年の出来事で、同じ内閣の内務大臣が政府機密費で他党議員を買収したことが発覚。尾崎はこれを不問に付すことを潔しとせず、検事総長や司法次官と相談のうえ、同僚大臣を粛清したのでした。結局、前途有望であった当の大臣(島根・山口・熊本・宮城・各県で知事、警視総監、第1・2・3次桂内閣で各大臣の経歴)は辞表を提出し、政界を引退するに至りました。情のために、理を枉げられない尾崎の正義感が出ています。この事件で、大隈内閣はいったん総辞職を決意しますが、詔を拝して止まり改造内閣(尾崎は留任)を組織するのでした。
メニューに戻る(M)

普通選挙と軍備縮小
大正期で、尾崎の政治的な生き方として他に特記すべきことに、普通選挙と軍備縮小があります。大正7(1918)年11月、第1次世界大戦の休戦条約が成立します。翌大正8(1919)年3月、尾崎は四男の行輝を伴って大戦後の欧米視察に出ます。そしてその年12月末に帰国するのですが、この視察10ヵ月で尾崎の世界観に重大な転機をもたらします。戦争の悲惨さを見聞してから、国際平和に貢献しようと決意。硬派的な態度を一変させたのでした。「帰朝後は文化の向上、軍備の制限と改良及び国際平和等の為に微力を尽し、以て帝国に貢献しようと決心した。」と自伝で結んでいます。
メニューに戻る(M)

即、普通選挙実施を唱える
普通選挙については、時期尚早論から即実行に変わっています。大正7年、物価高騰と米価調整の失敗、米騒動と自らの健康問題で寺内内閣は9月に総辞職。寺内後は、政友会総裁・原敬が内閣を組織(大正7年9月29日~大正10年11月13日)。いわゆる平民宰相と称された、我が国、最初の本格的政党内閣の到来でありましたが、国民生活が物価難で脅かされ、労使間の対立が募り、厳しい局面を迎えていた情勢にありました。

労働団体の動きの中には、暴発しかねない危険な傾向もありました。尾崎は思案の末、普通選挙実施を唱えるようになります。元来の考え方は、普通選挙を叫んでいてもまだ慎重論に立ち、まず普選を求める人間を作ること、すなわち政治教育に力点をおいてきたのでした。それが、ここへ来て普選即行を訴えるに至ります。
メニューに戻る(M)

軍縮論を提げて、全国遊説
軍備については、欧州で言語に絶する惨状を見て、軍拡を否定する縮小論者となりました。従来の尾崎は、国家本位に考えて国家利益があれば主戦論、不利益なら非戦論の立場でした。憲政会を除名された後の尾崎は、数日して同じ第44議会に軍備制限に関する決議案を提出。憲政会時代に、党に諮り賛意を示されなかった軍備縮小問題でした。

大正10(1921)年2月10日、本会議で延々2時間余に及ぶ大熱弁を奮ったのですが、尾崎の古巣だった憲政会と政友会が反対、犬飼率いる国民党が賛成で、その投票結果は大差(可とする者38票、否とする者285票)で否決されました。尾崎はこの軍縮論を提げて、国民の意向を問うべく全国各地に遊説に出ます。主要都市での演説の結果、尾崎が唱えた軍縮案に賛成の支持者は、大多数でありました。
メニューに戻る(M)

普通選挙法が通過、治安維持法に猛反発
いわゆる護憲三派(立憲政友会・高橋是清、憲政会・加藤高明、革新倶楽部・犬養毅)の加藤高明内閣(大正13年6月11日~大正15年1月30日)になって、翌14(1925)年3月懸案の男子普通選挙法が通過しました。しかし、治安維持法と抱き合わせの成立でした。「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮(きんこ)ニ処ス。前項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス。」(治安維持法第一条)尾崎がいた革新倶楽部は、党議拘束の廃止を特徴としていました。

それゆえに第50議会では、この治安維持法案が倶楽部を賛成反対意見で二分することになりました。反発した尾崎らは、言論・思想・学問・出版・集会・結社などの政治的自由を侵害すること、思想そのものを犯罪と科す悪法であること、等々挙げて強硬に最後まで抵抗しました。
メニューに戻る(M)

革新倶楽部を脱退
それから大正14(1925)年5月、革新倶楽部が党勢事情で仇敵政友会と併合したため、かねて反対だった尾崎はこれに合流せず、同志8名と革新倶楽部を脱退、犬養と袂を分かちます。大正14年6月、脱退組は中正倶楽部や無所属の有志と新正倶楽部を組織。自由な政治倶楽部(創立宣言)だった革新倶楽部も、後の新正倶楽部何れも党議拘束からの自由を守ったのでした。党議拘束からの解放は尾崎にとって、自己信念に基づいた良心の証明でありました。小会派を歩いた大正の初期、大阪のある新聞紙上で次のように載せています。
メニューに戻る(M)

党議拘束は良心の自由を奪う
「一体政党と云ふものは、大目的に依つて集つて居るものである。その大目的に抵触しない限りは、党員の言動は自由でなければならぬ。大目的以外には党議は無い筈である。(中略)日本の政党は名ばかりの政党で、その実は軍隊組織の私党であるから、つまらぬ問題まで党議で拘束して、良心の自由を与へない。主義あり意見あり、特に良心ある者は、容易に政党に入る事、否、居る事が出来ない。」(「政戦余業」大阪毎日新聞、大正3年)と。
資料片手に熱弁をふるう澤田講師また憲政会を除名される前年にも、党議制廃止について次のような記述があります。「我国現在の政党には、幾多の弊習もあるが、党議を以て、其党員を束縛するのが、弊害中の最も大なるものである。

先づ此弊習を打破し、党議は総選挙の際、選挙人多数の賛成を得て自然に定まるべきもので、選挙後に、選挙人の意見をも問はず、議員だけで勝手に定むべきものでないことを普く世人に知らせねばならぬ。(中略)又政党の首領たり幹部たる者は、一日も早く封建的君主然たる態度を改め、其党員に向つて良心の自由を与へねばならぬ。

良心の自由を求むる者には、脱党を勧告し、聴かざれば、之を除名するが如きは、即ち縦に臣下を殺戮したる封建的遺習である。手討斬捨の封建思想を少しく変形して、政党の中に運用するのが今日の実状であつて、我が立憲政治の発達せざる一大原因は実に此所にある。(中略)我国の立憲政治は前途尚ほ遼遠なりと言はねばなるまい。」(尾崎行雄著『憲政の危機』横山出版部、大正9年11月)
メニューに戻る(M)

その前後の所属院内会派
昭和に入り、大正14(1925)年5月に公布された普通選挙法(25歳以上の男子が選挙人)による初の総選挙が、昭和3(1928)年2月にようやく実施となりました。その後の尾崎は、戦後に至ってもなお幾つかの院内会派(第一控室会、第一控室、無所属室、第二控室、第一議員倶楽部、衆議院議員倶楽部、同交会、無所属倶楽部、公正倶楽部など)に属していたものの、政治勢力とは無縁の無所属で暮らし議会政党には加わりませんでした。
メニューに戻る(M)

遺書代わりに、『墓標に代へて』を執筆
昭和6(1931)年8月、米国カーネギー財団に招かれて渡米します。次女・品江と三女・清香が同伴しています。同年9月半ば、竹久夢二に会って国政談議もしています。そして満州事変が勃発、その年暮れの帰国予定を変更して英国に渡りました。この時代、国家のために尾崎の胸中を打ち明ければ、殺されるかも知れない運命にあったからです。欧州視察中、政治研究に没頭しているところに、また悪い知らせが届きました。親友・犬養毅が暗殺されたのです。犬養の「話せばわかる」に青年将校は「問答無用」の銃弾で応えました。世でいう5・15事件(昭和7年5月15日)でした。

我友の殺されたるを夢として 聞かんと祈り真かと問ふ(大正7年)たのむべき国の柱の少なきに 親しき友の又も殺さる、と詠んでいます。そこで尾崎は、死の覚悟をもって遺書代わりに、『墓標に代へて』(雑誌「改造」に掲載)を執筆し始めます。帰路、船中でも書き続け、日本出発から1年半後の昭和8(1933)年2月に、この決死の論文とテオドラ夫人(昭和7年12月客死)の遺骨を抱いて帰国したのでした。
メニューに戻る(M)

憲政功労者として表彰
 昭和10(1935)年3月16日の第67帝国議会(浜田国松議長)で、尾崎は憲政功労者として表彰されました。朗読された表彰文案には、次のようにあります。「議員正三位勲一等尾崎行雄君帝国議会開設以来継続シテ議席ヲ衆議院ニ保チ当選十八回在職四十三年ニ及ヒ常ニ民意ヲ体シテ公論ノ暢達ニ努ム真ニ憲政ノ先覚タリ衆議院ハ君カ積年ノ功労ヲ多トシ特ニ院議ヲ以テ之ヲ顕彰ス」(官報号外「衆議院議事速記録」第28号より)

先に述べた犬養毅が、反乱将校に襲撃されて故人となっていますので、第1回からの継続議員は尾崎唯一人でした。発言を求められて登壇した尾崎は、挨拶の冒頭、「初期以来常に兄弟の如く共に議場にも働き議場外でも働いて居つたところの犬養毅君と共にこの喜びを頒つことの出来ないのは、実に私情として悲しみに堪へませぬ。」と語り、憲政の功労者は生き残った私だけではなく、先輩の大隈、板垣、伊藤博文など、生死を問わなければ院内外を含め幾らでもいる、と続けています。

そして健全に発達していない議会政治を憂い、「悔悟反省して、良くなる道を開くならば、私は及ばずながら何時でも死ぬまで縁の下の力持ちをする。」(『随想録』紀元社、昭和21年7月に収録)と、憲政の先覚者はお礼に代えて結んでいます。
メニューに戻る(M)

失意の底で湧いた言葉
尾崎の外遊中に衆議院の解散があり、昭和7(1932)年2月、第18回総選挙で不在にも関わらず当選しています。帰国後、尾崎は昭和8(1933)年10月に入ってからのことですが、三重県各地に講演に廻りました。尾崎の命が尽きるまでの努力は、憲政の樹立と政党の組織訓練にありました。しかしこれも失敗に終わり、民主主義的立憲政治とは程遠いものになってしまったのです。命懸けで信じてきたことが、全く無益な生涯になってしまった、と悲観して 六十年(むそとし)を心つくして国民に 仕えし跡のなどてさびしきと心を痛めて詠んでいます。

そして失意の底に沈み眠りに就いて、胸中に浮かんだのが、「昨日迄の仕事は、凡て今日以後の準備行為に過ぎない。人間たるものは、さう心得ねばならぬ。」という感想でした。「今までの失敗は、今後成功するための試練であり、準備である。」と気が付いたのです。過去に得た知識や経験を利用すれば、例え失策などあっても、それは将来の過失を減ずる結果になるから前途有望だ、との考えが湧いてきたのです。
メニューに戻る(M)

『人生の本舞台』頒布
人生の本舞台と題して尾崎が頒布したものは、『処世記(わが処世の跡と人生の本舞台』(千倉書房、昭和10年3月)で出版され、戦後になって咢堂叢書第1巻『人生を語る』(研文書院、昭和23年12月)に収録されました。これらの書物から、尾崎翁が伝えたかった人生観を見てみますと、<知識経験は、金銀財宝よりも貴い>こと、<知識経験は他人に譲ることが出来ないから、使用しなければならない>こと、そして、<知識経験は死の直前が、最も豊富な時である>ことから理詰めて、「人生の本領は未来に在り」、「昨日までは人生の序幕で、今日以後がその本舞台だ」と翁独自の見解を述べていることです。

ここで紹介した尾崎翁の処世訓は、「人生の本舞台は常に将来に在り」”On Life’s stage, always be prepared for the future” となって、憲政記念館(千代田区永田町)や披露山公園(逗子市)などで築かれた記念碑に刻まれています。また翁が遺したこの言葉を、座右の銘にしているのは政治家のみならず、一般の方々もいらっしゃいます。
メニューに戻る(M)

2.26事件と尾崎
昭和11(1936)年の2.26事件で、内大臣・斎藤 誠、蔵相・高橋是清、教育総監・渡辺錠太郎が武装蜂起した青年将校らに殺されました。軍部の政治介入が強まり、テロが続発した時代でした。2.26で岡田啓介首相も襲撃を受けましたが、奇跡的にも難を逃れます。殺されたのは、首相の義弟・松尾伝蔵陸軍大佐でありました。この不思議な出来事が実は尾崎にも関わりがあり、後年『咢堂自伝』で首相救出の経過について次のように書いています。

佐々木は岡田首相と懇意であったから、焼香だけでもしようと思って、事件のあった翌日か翌々日、自動車で官邸へ行った。官邸の門前に車を置いて邸内に入り、そこに設けられていた祭壇に向って焼香し、邸外に出ると、自分の自動車がない。誰かが乗って行ってしまったらしい。佐々木はブリブリしながら外へ出て、帰宅し、早速このことを清香に話した。すると清香は、「岡田さんはうちにいます」といふので、佐々木は夢かとばかり驚いた。(『尾崎咢堂全集』第11巻収録)

ここで登場する佐々木は、尾崎の長女・清香と結婚した佐々木久二でした。事件が起こった時、官邸の寝室にいた岡田首相は、台所から風呂場の浴室にと逃げ、機転を利かした二人の女中が彼女らの部屋に押し込んだのです。二人は秋本サクと府川 絹で、終始押入で首相を守ります。時機を伺って、決死的な脱出劇を担ったのは、福田秘書官と小坂曹長、青柳軍曹、小倉伍長の三憲兵でしたた。

事件の翌27日、戒厳令が布かれた中ではありましたが、首相にモーニングとオーバー姿の弔問客を装わせ、帽子に大きなマスクとメガネで顔を覆い、弔問のご老人が卒倒した事にして、「急病人だ!車を入れろ!と叫び」門前に横付けされた佐々木のフォード35年型自動車で、見事脱出に成功したのでした。その日は、一時本郷の東本願寺派真浄寺に避難。そして、淀橋区下落合の佐々木邸で匿っていたのです。この作戦を練った秘書・福田は、佐々木の推薦で、同郷福井の先輩・岡田首相の秘書官になっていた人だったのです。
メニューに戻る(M)

軍部の政治支配が強くなって
昭和11(1936)年、2・26事件で政治機能は麻痺し、軍部の政治支配が強くなってきます。翌年2月、議会壇上で2時間にわたる軍部の横暴を衝く批判演説を行いましたが、6月に近衛文麿内閣ができ7月には日中戦争が勃発します。尾崎が会長していた「大日本国民中学会」<本会ハ学校教育ヲ修ムル事ヲ得ザルモノ、為ニ講義録ニヨリ通信教授ヲナスヲ以テ目的トス>(明治35年開設)も継続できなくなって、昭和13年に解散しています。

本部は、東京市神田区駿河台(御茶の水電車通り)にありました。昭和15(1940)年10月、戦時体制を担う大政翼賛会が発足。翌年2月、またもや決死の覚悟で大政翼賛会に対する質問書「時局の変遷と政府の指導に関する質問主意書」を提出して、議会演説に臨もうとしますが阻止されます。そして12月、東条英機内閣になって太平洋戦争に突入するのです。
メニューに戻る(M)

翼賛選挙には非推薦で当選
昭和17(1942)年4月末日の戦時下唯一の官製選挙では、「翼協」による親政府的な翼賛推薦候補者が定数の466名、非推薦候補者が613名でありました。国策に協力する国家的人物を優遇し、尾崎ら非協力者を非国民として斬捨て御免する謀略選挙でした。結果は、翼賛推薦が381名、非推薦が85名当選となります。

議会主義を唱える同交会からは、信念に忠実な29名が非推薦で立候補して、うち尾崎ら9名(安藤正純、芦田均、尾崎行雄、川崎克、北昤吉、田中亮一、鳩山一郎、坂東幸太郎、星島二郎)が当選しました。戦後、首相となった片山哲、また衆議院議長となった林譲治、大野伴睦、尾崎が多年の同志と呼んだ田川大吉郎(東京3区=日本橋・京橋・浅草)らは、落選しました。
メニューに戻る(M)

不敬罪容疑で巣鴨拘置所に
田川大吉郎に登場願ったので、ここで尾崎と不敬罪について触れておきます。翼賛選挙となった昭和17年4月施行の総選挙に、非推薦候補で立った田川の応援演説で一声を放ちます。その中で尾崎は、「売家と唐様で書く三代目」という古い川柳を引いて、三代を回顧しながら立憲政治の本道を説きます。三代目とは暗に昭和天皇を指し、これが皇室を誹謗する言句(明治・大正・昭和の年号を天皇の名)だと故事付けられて、同月24日に不敬罪容疑で起訴された弾圧事件でした。選挙運動期間中、巣鴨拘置所に一晩放り込まれました。

人々は「神様も三代目にはしてやられ」と嘆いたといいます。第一審の東京高裁では、同年12月21日、懲役8ヵ月(執行猶予二年)の有罪判決。「私(尾崎)が不敬という大罪を犯したものとすれば刑がかる過ぎる。」として即上告(弁護人は鵜沢聡明と海野晋吉)の末、昭和19(1944)年6月27日になって大審院で被告人・尾崎は無罪となります。大審院(三宅正太郎裁判長)は、尾崎被告人を「明治大正昭和ノ三代ニ仕フル老臣ナリ。其ノ憲政上ニ於ケル功績ハ世人周知ノトコロ」と労っています。
メニューに戻る(M)

敗戦後の日本を見通して
裁判が終わってからの尾崎は、新潟県池の平「楽山荘」(娘婿の佐々木久二が所有)に身を寄せていました。楽山荘を「思慕の家」と称して、離れを「帰休亭」と命名、そこに戦時中起居していました。なお尾崎が移り住んだ楽山荘は、戦後白雲荘になり、咢堂庵に改称され、池の平山荘となりました。

(この山荘は東京YMCAが引き継ぎ、改築され、妙高高原ロッジになっています。)疎開先の山荘で、暗雲漂う情勢下にあって敗戦後の日本を見通し「休戦と新世界建設の構想」と
「平和的新世界建設の要件」からなる二論文を執筆していました。これらの論文が公開されることなく迎えた戦後、これをベースに尾崎は、全世界の平和を達成するために、国際連盟を一歩進めた「世界連邦建設に関する決議案」を昭和20(1945)年12月11日の第89臨時議会に提出するのでした。
メニューに戻る(M)

無限の理想「世界連邦建設」
臨時議会に「世界連邦建設に関する決議案」を提出するにあたり、支持した賛成者は、次の30名の議員たちでありました。本多市郎、小山 亮、牛塚虎太郎、岡本伝之助、鈴木正吾、浜野文平、森川仙太、岸井寿郎、真崎勝次、喜多壮一郎、中谷武世、安藤正純、寺田市正、川崎巳之太郎、鶴惣市、松尾三蔵、三木武吉、北 昤吉、牧野良三、星島二郎、今井喜幸、角 猪之助、斎藤正身、大蔵三郎、猪野毛利栄、西尾末広、松本治一郎、木下 郁、菊地養之輔、杉山元治郎

この時、決議された世界連邦建設の提唱について、尾崎は昭和26(1951)年9月に刊行した『わが遺言』(国民図書刊行会)に再録し、多くの読者を期待して、意中とするところを遺しています。尾崎はこう述べています。第一次大戦で降服したのが1918年、わずか20年ばかりで第二次大戦が1939年に始まるのである。そしてまた、5年半で戦争の危機に直面している。どうして、こんな事態になるのか。

戦争が起きる原因を政治家尾崎は、<国家主義と国家主義の衝突>に見て、<世界連邦建設という方式が、世界平和の実現のために最もよい方式である>と力説します。<大憲章(世界憲法)>を創り、国家間のもめ事は国際裁判で解決する。偏狭な国家至上主義を戒めているのです。

平和国家としての基盤は、<世界主義、国際主義、平和主義より他はない>。平和主義に徹することだ、とも述べています。<国家主義とか民族主義など>では、衝突が続く。道理が伴う<科学的合理主義の精神>が、今日必要なのだ、と説いています。世界を救うのは、バートランド・ラッセル卿の場合、英知という言葉でありましたが、尾崎は同じく<人間の智恵>である、との立場で表明しています。
メニューに戻る(M)

尾崎が提唱した元号
尾崎は、第二次世界大戦での敗戦の事実を踏まえて、改元を熱心に提唱しています。改元について、元々明治という元号を永久に通していきたいと主張していた論者でしたが、敗戦後すっかり感受性を失ってしまった全国民に、新たなる覚悟と決意を促すために、そうした結論に達したのでした。昭和20年(1945)12月29日、(昭和)天皇の招きにより直接陛下にお会いが実現した折り、「新たに年号を制定したらどうか」と提案しています。

「この敗戦を機会に心機一転、縁起の悪い(昭和)を止めにして、大いに将来の日本が世界に発展するよう(新日本)と年号を改めたらどんなものでしょうか、と提案したところ、陛下も大変共鳴してくださいました。」と語られています。(石田正一著『人間おザキゆキオ』公論社、昭和34年10月)その尾崎が発案した新時代に相応しい元号「新日本」は、諸々の反省を込めて、再出発しなければならぬ新生日本を意味する姿が体現している年号となっています。

翁自身、戦後個人的には昭和という年号を使わなくなって、実際「新日本」を使用している形跡が垣間見られます。『敗戦の反省』(岩波書店、昭和21年2月)には、同書序文の末尾に「新日本元年十二月十日」と記し、『咢堂清談』(昭和22年6月)の序に代えての末尾に「新日本三年五月 卒翁 尾崎行雄」となっています。また、先の石田正一が著した世界連邦思想の解説書である『原爆に挑む』(完稿出版、昭和28年)の序文にも「新日本九年二月 九十六翁咢堂居士」と認めているのです。翁が考案した決意を込めた元号は、他に「民主主義元年」、「興国元年」や降参した日本国を象徴して「降伏二年」など色々と妙案を出しています。
メニューに戻る(M)

正三位勲一等の返上
陛下から賜った勲章が、戦後になって返上が許される時代になり、尾崎は請願手続きによりお返ししました。昭和21年のことでした。「咢堂自伝―日本憲政史を語る」の中で、次のように語っています。(前略)また私は、むかし二度大臣を勤めたばかりに、正三位勲一等の肩書をもっていたが、終戦後その拝辞を申出たところ、5月4日、正式に許可があったので、一介の尾崎行雄となった。(『尾崎咢堂全集』第11巻に収録)

尾崎が帯勲していたのは、「勲一等旭日大綬章」でした。尾崎詣でが続くなか、面目なく返上した同年4月、徳富猪一郎(蘇峰)も「勲二等旭日重光章」(昭和18年4月29日に授けた)でしたが、生前刻ませた「百敗院泡沫頑蘇居士」として、文化勲章とともに返上しています。尾崎と蘇峰は80年来の交流があった間柄。両氏の父親は、熊本県の役人同士で、蘇峰は尾崎の弟・行隆と熊本洋学校で同級でした。なお一介の人間になった尾崎は、不敬罪で抑留されて以来、生やし続けていた髭をこの時に剃り落としています。そして一兵卒の齢(卒寿)となって、雅号を卒の簡略文字を用いた「卆翁」に改めたのでした。
メニューに戻る(M)

尾崎を総理に、の声幾度か
戦後2代目の幣原喜重郎内閣(昭和20年10月9日~21年5月22日)が、戦後初の総選挙(昭和21年4月10日)で敗北し、第1次吉田茂内閣が成立する前、尾崎行雄を首班に、幣原副総理で挙国一致内閣が目論まれたことがありました。こうした構想が出来ておれば、救民救国内閣の出現で戦後日本の進む道がどう導かれたか、興味あるところですが、尾崎は堅固に「内閣などは引き受けたくない」と応えたそうです。

続く戦後の混乱期、昭和22(1947)年4月実施の総選挙で日本社会党が第1党に躍り出ました。絶対多数を有していない社会党は、同年5月、民主党・国民協同党と連立して片山内閣を作るのですが、組閣前、「首相候補に尾崎を担ぎ上げたら」という声が上ったそうです。それを聞いたジャーナリストの室伏高信が、『戦争私書』(昭和41年8月、全貌社刊のち中公文庫)に収めた思い出「咢堂翁とわたし」で、次のように記しています。「社会党が新橋前のある会館で代議士会をひらいていた。

そこへ行って鈴木茂三郎と加藤勘十に会って、尾崎はどうだろう、わたしは率直にこう話した。二人とも異存はなかった。」と。そしてその後で、尾崎贔屓の室伏は逗子の風雲閣に駆け付けます。この間の経緯を伝え、尾崎に出馬を望んだのでした。しかし翁の返事は、「わしはもう九十です」でした。(なお1944年8月発行の米紙『Amerasia』に、戦後初の首相候補に尾崎が挙げられています。)
メニューに戻る(M)

尾崎、最後の選挙結果
最後の選挙となった第26回総選挙では、以下の模様でありました。選挙は昭和28(1953)年4月19日実施、三重県第二選挙区、定数4名に立候補者9名、投票数262,836票のうち10,3%の27,021票を獲得しましたが、当選者最低の33,042票に6,021票及ばず敗れたのでした。次点二人目の第6位でした。落選理由を尾崎は、私の不仁徳ということ以外にない、と語っています。

立候補の前年、すなわち昭和27(1952)年10月1日に行われた総選挙で、病床から立ちあがり議席を得ていましたが、翌年3月14日に内閣不信任案が可決(第4次吉田内閣の「バカヤロー」発言で首相懲戒動議成立)され、期を措かずして、繰り返された選挙戦いだったのです。こうして、憲政の先覚者たる尾崎行雄は、世界に類を見ない最長議員としての足跡を刻み、三代に渡る選挙民によって守られ続け、崇められてきた時代を終えるのでした。
メニューに戻る(M)

初の衆議院名誉議員になる
「前衆議院議員尾崎行雄君は、帝国議会開設以来継続して議席を衆議院に保ち、当選二十五回、在職実に六十年七ケ月に及び、其の間、常に民意を体して公論の暢達に努む、真に憲政の先覚たり、衆議院は君が積年の国家並びに憲政の為に尽されたる顕著なる功績を多とし、院議を以つて之を顕彰し、玆に衆議院名誉議員の称号を贈る。」(官報号外「衆議院会議録」第24号より)

落選後から3ヵ月後、昭和28年7月17日に開催された第16回国会(衆議院議長:堤康次郎)で、尾崎行雄に衆議院名誉議員の称号を贈り、その功労を顕彰する件が諮られ、議長一任の表彰文案について協議されて決定したのでした。昭和10年以来、衆議院では在職25年以上の議員には永年功労者として表彰してきましたが、尾崎の顕彰にあたり、50年以上在職議員で憲政に功績があった者に、衆議院名誉議員の称号を贈ることが決められました。尾崎は帝国議会が始まって以来、初の名誉ある議会政治家となったのでした。
終り。




講座企画・運営:吉田源司
文責:澤田外行
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:和田節子


本文はここまでです


このページの先頭へ(0)

現在位置: ホーム(1) 講義録一覧(2) >尾崎行雄(尾崎咢堂)の生涯に学ぶ




個人情報保護方針アクセシビリティ・ポリシィ著作権、掲載情報等の転載、リンクについて連絡先

Copyright (c) 1999-2011 kandazatsugaku Organization. All rights reserved.