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平成23年11月4日 神田雑学大学定例講座NO574 

白秋余話PART3

講師 北原 邦雄

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北原邦雄講師司会 講師北原邦雄氏は北原白秋の五親等に当たる方で、白秋に関係する資料では多分、日本一のコレクターであります。第1回、第2回とも色々な切り口で、豊富な情報から興味ある話題を、一話完結のお話にして戴きました。

本講座も、SPレコードから採録した白秋の肉声や、白秋の詩に曲をつけた様々な歌手がCDで登場するはずです。お楽しみください。

はじめに
山田耕筰は白秋の詩に360曲ほど作曲しているのですが、その中でも一番はじめに白秋と出会ったときの歌を五曲聴いて戴きます。「かきつばた」を聴く

♪「かきつばた」

柳河の
古きながれのかきつばた
昼はONGOの手にかおり
夜は萎れて
三味線の
細い吐息に泣きあかす
(鳰のあたまに火が黠いた。
潜んだと思うたらちょいと消えた)♪



柳川の水郷を船で行く皆さん、白秋の故郷、柳川へ行ったことがありますか?綺麗な観光案内をご覧になってください。今日は、先ず白秋の自作和歌の朗読をお聞かせしましょう。

前半14首は、1937年(昭和12年)7月12日52歳、コロンビアレコードで吹きこんだもので、1~6が「桐の花」、7が「雲母(キララ)集」8・9・11が「雀の卵」10が「海阪(うみさか)」12から14が「白南風(しらはえ)」であります。

「短歌の朗詠については、梁(はり)に塵をも留めないといふ朗々たる巧みな声の持主も歌壇にあります。

併し、私の朗詠は日常、作歌しながら自ら声に出る程のもので、ありのままの形で、私の感情を声に現すに過ぎません。それだけに、お聴きになる方々は、私の部屋の中で、私の机の傍にくつろいで聴いておいでになる心持で、このレコードをおかけ下さい。

この、私のメロディの中には、何か明治時代の感情がそのままに残っていると思います。強いて曲折をつけようと思ってつけたものではありませぬ、唯、この曲調をもっと美声で朗詠できたら、本当によいとおもいますが、天は遺憾ながら、二物を与えては呉れませんでした。
白秋の短歌朗詠の声を3点聴く

初期の「桐の花」から、最近の「白南風」までの私の愛誦歌14首を選びました。」 後半の9首は1938年(昭13)8月4日、コロンビアにて吹きこんだもの。

前回、白秋の詩・童謡・民謡・各団体歌などに、どんな作曲家が係わったかについてお話しました。 また、特に黄金コンビといわれた山田耕筰は一位で、342曲ということをお話しました。

今日は、二位(155曲)の中山晋平をまず取り上げてみます。
中山は白秋の一つ年下で、長野県の代用教員から、島村抱月の書生となり、梁田貞らと東京音楽学校本科卒業、小学校の音楽教員を勤めながら作曲をしていました。

島村抱月が松井須磨子らと旗揚げした「芸術座」に参加。
1914年(大正3年)トルストイ「復活」公演の劇中歌「カチューシャの唄」を作曲、松井須磨子の歌で大流行となり、一躍有名になった。翌年公演したツルゲーネフ「その前夜」の劇中歌「ゴンドラの唱」も大人気でありました。

「芸術座日本歌曲コンサート」の「城が島の雨」の縁で、1917年(大正6年)白秋はトルストイ「生ける屍」の劇中歌を「さすらいの唄」「にくいあん畜生」「今度生まれたら」を作詞する。作曲は中山晋平。このうち「今度生まれたら」松井須磨子のレコードは風俗紊乱で発禁になった。レコード発禁の第一号。 ついで、1919年(大正8年)カルメンの劇中歌「酒場の唄」「煙草のめのめ」「別れの唄」「恋の鳥」「花園の恋」を作詞、同じく中山晋平の作曲である。カルメン上演中、1月5日未明、主演の松井須磨子が自殺、公演中止となりました。

今日は、このうちの「さすらいの唄」「煙草のめのめ」「酒場の唄」を藍川由美(ソプラノ)でお聞かせしましょう。 中山晋平は、白秋の詩に作曲した主なものは「砂山」「雨ふり」「里ごころ」「雀をどり」「あの頃」「汽車汽車走れ」などなどである。中でも、有名なのは「砂山」です。

受講生の机の前で資料を持ち話をしている

白秋は、この詩の創作動機を次のように述べています。
「大正11年6月半ば頃に、私は越後の新潟に行ってまいりました。私が行くと、新潟の子供たちは非常に喜んで、私のために童謡音楽会を開いてくれました。…九月ごろまたやってきますから、また童謡音楽会をやってほしいと私が頼むと、また喜んでくれました。

それでは何か、新潟の童謡を一つ作ってほしい。それを今度は歌いたいというのでした。それは嬉しい。そんなら一つ作って、それを置き土産にしょうと、私も話しました。…そうした新潟の童謡を作って、あの日の子供たちに送りました。それがこの「砂山」です。中山晋平さんが作曲してくださいました。」

このように、中山晋平の「砂山」は大正11年に作曲されています。それから4年のちに、山田耕筰の「砂山」ができています。 このふたつとも、有名です。 中山晋平のものは実に軽快で、子供が踊りだしたいほどのものですが、山田耕筰のものは荘重で夕暮れの越後の海を想起させるものです。大人むきといえるでしょう。ここで、この二曲をCDでお聞かせします。ダークダックスによる演奏です。勿論4人健在のものです。

山田耕筰の「砂山」一番を聞く
中山晋平の「砂山」一番を聞く

なお、記録によると成田為三、宮原禎次も作曲しています。1978(昭和53)年6月9日、日仏会館ホールの音楽会は、複数の作曲家たちによる白秋童謡の試みでありました。
「城ケ島の雨」は前回、すこしふれましたが、1913年(大正2年)10月28日に作られた。同年10月30日、島村抱月が主宰する芸術座で日本の歌曲の質を高めようと、第一回音楽会を数寄屋橋の有楽座で開催する計画を立て、作詞を白秋に依頼し、作曲を音楽学校で当時市立一中(現日比谷高校)の教師であった梁田貞に依頼することとしたのである。白秋は桐の花事件や実家の破産の影響で極貧生活を強いられており、志賀直哉の斡旋もあったらしい。

しかし、貧乏はともかく、精神状態が平常でなく、詩作など覚束ない。一日一日と日は足早に経過していくが、一向に構想が纏まらない。締め切り二日前、思いあぐねた白秋が自宅のある見桃寺から向ケ崎に出て対岸の城ケ島の遊ケ島の辺りをそこはかとなく、見ていると、木々の燻んだ緑に晩秋の雨が煙って、絶妙な色合いにみえる。まさにワビ、サビの極致とも見えた。<利休鼠みたいな色だなあ>その途端、<そうだ! 色々考えても仕方ない。利休鼠だ!今、一番身近な城ケ島を歌にすればいいのだ!>

かくして三崎の船唄「城ケ島の雨」は出来上がり、27日の夜、東京から催促に見桃寺を訪れた岩崎雅通に渡された。音楽会開催まであと二日しかない。岩崎氏から詩を渡された梁田貞も弱り果てた。切羽せまったギリギリの状態で能力を発揮、後世に残る名曲を作曲した。そして、30日有楽座で、梁田貞自身のテノールにより披露された。梁田貞・奥田良三両者の声をCDでお聞かせしましょう。他に山田耕筰も1923年(大正12)作曲しています。

それでは、梁田貞・山田耕筰の「城ケ島の雨」をダークダックスで聴いていただくことにします。
山田耕筰の「城ケ島の雨」一番を聞く

「からたちの花」に移ります。(1925年大正14年) 白秋は郷里柳川で自宅から矢留小学校まで毎日通った小道にからたちの垣根があり、白秋はこの垣根に格別の思いを持っていましたが、作曲の山田耕筰もまた、からたちにまつわる思い出を持っていました。しかも、それは苦い思い出でした。10才で父親が病死し、自営館という夜学校併設の印刷工場に入れられて苛酷な労働を強いられた耕筰は、空腹に耐えかねて酸っぱいからたちの実を食べ、工場の職工に蹴られて、からたちの垣根に逃げ込み、悔し涙を流したのでありました。

少年山田耕筰の心に深く刻み込まれたからたちへの思いが、童謡「からたちの花」の心にしみるメロディを生みだしたといえるのではなかろうか。耕筰は「自伝 若き日の狂詩曲」
(1951年講談社)のなかで次のように書いています。「からたちの、白い花、青い棘、そしてあのまろい金の実、それは自営館生活における私のノスタルジアだ。そのノスタルジアが白秋によって詩化され、あの歌となったのだ」。このように、詩と曲の作者がそれぞれにからたちへの特別な思いをもっていたというのは珍しいことですが、そうした二人の思いの不思議な出会いがこの名曲を生み出したのかも知れません。

さて、最近、耕筰の作品一覧に「からたちの花2」(1927年・昭和2年)を発見、いろいろ探しもとめた結果、藍川由美が歌ったCDを発見しました。今日は、彼女の「からたちの花」を聴いてもらいましょう。

藍川由美が歌った「からたちの花」を聴く

白秋と耕筰の仲の良さを物語るエピソードがあります。
ふたりはウマが合い、よく酒を飲みかわした。ある時、耕筰宅で飲んでいてすっかり酔ってしまった白秋は、やおら身を乗り出し、耕筰のはげ頭をペロペロなめ出した。耕筰はされるがまま、ニコニコしていたという。

「ペチカ」
北原白秋と山田耕筰に、旧満州在住の日本人児童へ満洲色の豊かな歌曲を与えたいという依頼があり、「待ちぼうけ」とともに制作、唱歌の教科書「満州唱歌集」(1924年(大正13年)・南満州教育会)に掲載された。日本国内での初出は白秋の童謡集「子どもの村」(1925年(大正14年)・アルス)で、「子供の冬」という総題のもとに収録。
同年3月1日に今のNHKラジオ第一であるJOAK(東京放送局)が試験放送を始め、その最初の日に「ペチカ」が山田耕筰のピアノ伴奏で歌われたそうです。

「ペチカとはロシヤ式暖炉のことです」という白秋の自注が付されている。耕筰の自筆曲譜では、タイトル・歌詞とも「ペティカ」と表記された。暖炉は他の作品に用例もあり、白秋好みの道具立てのひとつ。1920(大9)年、白秋が小田原に建てた自宅の洋館にも設置され、暖炉の前で客をもてなしたという。

ほかに今川節の曲があるが、白秋は「今川君のペチカが好きだ」と評したとも伝えられる。いま今川の故郷である福井県丸岡町では今川曲が時報として使用されている。また、地元の著名人で尊敬されている。(今川節 第13位タイ23曲)
また、かって「ペチカ燃えろよ」のタイトルでSPレコード(歌・東海林太郎)が発売されていた。

「ペチカ」今川節曲をメゾソプラノの小畑朱美のCD NO16を鑑賞
今日は、(1)耕筰曲をソプラノの鮫島有美子、(2)今川節曲をメゾソプラノの小畑朱美で鑑賞してください。 この今川節の方は、丸岡町図書館から特別に送られたものです。 前回、耕筰と白秋の結びつきは、童謡ではなく、第二詩集「思い出」の「柳川風俗詩」に属する「ノスカイ」「かきつばた」「AIYANの歌」「曼珠沙華」「きまぐれ」の五つの抒情詩の作曲に始まったとお話ししました。これを藍川由美さんのソプラノで聴いて頂き、その後、このうちのいくつかを多田武彦作曲の合唱曲を慶応ワグネルの演奏を聴いてもらいます。

多田武彦は第五位70曲すべて合唱曲です。
他に本職を持つ、いわゆる「日曜作曲家」として合唱の分野で最高の成功を収めた人、日本の合唱人で「タダタケ」の名前を知らぬ人は少ないと思います。

白板に説明を書き込む講師

彼に対する山田耕筰からの薫陶とは 「1953年某日、私が勤務先の銀行(富士)の平社員の頃、突然支店長に呼ばれ、山田耕筰先生へのご用を仰せつかった。用件は短時間で終わり退出しようとすると、「多田君の趣味は?」と尋ねられたので、「日曜作家のつもりで、男声合唱組曲を書いています」と答えると先生は「折角の機会だから、少し大切なことを話してあげよう」と言われ。その場から直々支店長に電話されて「最近の経済情勢を聴きたいので、一時間ほどこの行員を借りますよ」と了解を取って
下さり、・・・・・」歌曲をつくるに必要な定石のいくつかを伝授してもらいました。

大正9 年6 月、二番目の妻章子が白秋のもとから去って間もなく、小田原に住む美術評論家河野桐谷・喜久夫妻から、佐藤菊子との縁談が白秋に持ち込まれ、9 月に、菊子は桐谷夫妻に伴われて天神山の木莵の家に白秋を訪問、二人の交際がはじまりました。大分市出身の菊子は当時32 才。桐谷の妻喜久とは幼馴染で、小学校の同級生でもあった。大分第一高女を卒業、奈良女高師卒、東京家政学校で料理・裁縫を学んだ。
実家は、大分で、奈良屋という時計宝石商、いちはやく自転車を輸入、神戸にも支店をだしていた進歩的な商売人。

大正10 年2 月7 日の佐藤菊子あての手紙に白秋はこう記しています。
飛んでお出で、早くお出で、死にそうだ、私は、胃の腑もうえている。トマトソースに青豌豆、ビーフも買ってある。早く早く、夕飯々々。婆やも病気です。今夜はおとまりのつもりで、
飛んでお出で、お出で、けふ病床より
菊子様

なんと見事な白秋の口説き文句ではないでしょうか、こんなに巧妙に母性本能をくすぐられば菊子さんとて、居ても立ってもおられず、催眠術にかかったごとく我を忘れて白秋のもとへ駆けつけたのです。

大正10 年3 月21 日付け、「半那は今晩も自由芸術の原稿書きにてせはしく候。
お半さん、おやすみ。おとなしくおやすみ」と記したあとに、
ねんねんころころねんころよ半那はお半のお守役
ねんねのお国のねむりの木ゆすればおゆめがふりかかる。
ねんねやねんねやおねんねや。
半菊様半秋

同じ日の夜、またも記した長文の手紙には、「一日も早く半那が旦那様になるように、半菊さんがお菊夫人となるように・・・・・かはいい人」とあります。かくて二人は、4 月28 日に木莵の家で結婚式を挙げました。一年後、11 年3 月には長男隆太郎が生まれ、家庭は盤石の趣きになりました。小田原時代の白秋の文芸の新天地であった童謡創作に長男隆太郎の誕生は大きく関わっています。童謡の花園の中に生まれ、育ったのが隆太郎でした。
つぎの詩を見ても判ります。


二重虹

虹だ。虹だ。隆太郎よ。
ああ、あれはおまへのものだ。
父さんは手をあげる。
ああ、あれは二重の虹だ。
母さんも、あれ、手をあげている。
虹だ、虹だ、おまへの虹だ。
向こうの木まで手をあげてる。

「この『二重虹』は、私のところの坊やの隆太郎はまだ生まれて八カ月にしかなっていませんでした。・・・・・これらの童謡はたいがい赤ん坊の隆太郎へ話かけるかたちの謡(ウタ)になって居ます。・・・・・ですが赤ん坊にわかる筈はありませんでした。私はひとりで楽しんで歌い、赤ん坊のお母さんにも歌わせ、揺籠をゆすり、乳母車を押し、寝床でまで歌ってきかせました。・・・・・」

父となった白秋は、愛する吾が子に歌って聞かせる童謡を原点に、芸術雑誌「赤い鳥」を通じて世の子どもたちのために童謡の新時代を拓くのでした。小田原の山や海には、よく二重の虹が立つと白秋も書いています。それは綺麗な二重の虹で、朝夕ばかりでなく満月の晩などにも立つことがあったといいます。小田原の自然観察には驚くほどの注意を払った白秋でした。

大正12 年4 月、白秋夫妻は隆太郎を伴って信州の大屋へ旅をしています。義理の弟、山本鼎が苦労して建てた農民美術研究所の開所式に参列するのが目的だったのですが、結婚以来、夫婦揃ってのはじめての旅の喜びを分かち合っています。
(詩の中に思わず妻の名を織り込むほど、菊子への愛情が白秋をいっぱいにしていました。菊子との結婚生活が、如何に白秋にかってない平安と家庭的うるおいをもたらしたか。菊子こそ、白秋にとっては理想的な内助の家庭的な妻でありました。

この頃の白秋の詩文風の随筆には、しきりに、妻の作る料理のメニューが出てきます。「鯥(ムツ)の卵を煮、とりたての鯵の刺身をつくり、新筍の五目飯とか、小鯵の刺身に筍と鶏肉(かしわ)と、オオトミルに、ビフテキ」といったふうであります。

料理の好きで上手な菊子を得て、美食家になった白秋の喜びがよく伝わってきます。白秋はまた、孤独にひとりで仕事をするより、傍に常に誰かいて、出来た作品を上手にほめてくれる方が仕事に励みがつくともらしている。お茶だ果物だ、コーヒーだと、白秋の声がかかる前に、さっと菊子は白秋の欲しいものを書斎に運んできたのです)

熱心に話を聞く受講生

柳川市内、白秋の文学碑は20 カ所、(全国50 カ所)句碑はただひとつです。関東大震災大正12 年9 月1 日正午。小田原の被害は神奈川県でも最も激甚だった。歌人の尾山篤三郎は、震災見舞に訪れ、白秋宅の模様を「白秋の家半ばこはれたり、階下は扉も壁もなく風雨の吹きさらすにまかせ、打ち見る人の住めりとも思へず、やうやく階上に至る。硝子戸に紙など張りたるを見つけ訪ふに声だにせず、即ちしばし庭のあたりを宵遥す・・・・・」

大正十二年九月ついたち国ことごと震(しん)亨(とほれ)りと後世(のちよ)警(いまし)めこの大地震(おほなゐ)避くる術なしひれ伏して揺りのまにまに任せてぞ居る震災をテーマにした多くの俳句をつくっています。門弟の穂積忠(きよし)(積み木くずしの穂積由香里(ゆかり)のお祖父さん・俳優の穂積隆信)が大仁から大工やとび職を8 人も差し向けて、なんとか住めるようにしてくれました。

関東大震災は、「赤い鳥」も一時休刊を余儀なくされました。ここで、「赤い鳥」と白秋の関係をお話ししましょう。大正7 年(1918)鈴木三重吉の強い勧めで、その創刊から、童謡・児童詩欄を担当、優れた童謡作品を次々と発表し、作品に新生面を拓くのみならず、以降、口語的、歌謡的な詩風に強い影響を与えることになりました。

鈴木三重吉が「赤い鳥」を通して望んでいたことは芸術として高い価値を持つ童謡であり、白秋が中心となり、作曲者の成田為三、草川信、山田耕筰などの協力を得て、「赤い鳥童謡」の世界を構築しました。白秋が生涯に残した童謡は1200 篇を超えますが、「赤い鳥」に発表した300 篇以上の中に彼の代表作のほとんどが網羅されています。また白秋選の童謡の投稿欄の中には、金子みすずや岡本太郎、大岡昇平のように、作家や芸術家として将来活躍した人々を見つけることができます。

「赤い鳥」創刊当時西條八十は全く詩から離れ、出版業を営んでいました。無名の八十を突然訪ね、再び詩筆を握らせた三重吉の功績は大きい。自らの姿を重ね合わせた「かなりや」は八十再生の記念作であり、芸術童謡の代表作であります。処遇上の不満と、白秋との対立などから三年間で「赤い鳥」を去るのですが、八十の童謡の最盛期もこの三年間でありました。同時期、「金の船」(野口雨情ら)「童話」「おとぎの世界」などの児童雑誌が創刊され、各誌が競い合うことで日本の児童文学が一気に開花しまた。

三浦三崎で、魚の仲買を失敗した白秋の父と弟鉄雄でしたが、父は、その後、一切商売から手をひきました。鉄雄は、与謝野寛の紹介で、金尾文淵堂に入社、出版業を習得しました。金尾文淵堂での白秋著作は、「(4)詩集「真珠抄」「(5)詩集「白金之独楽」大正4 年4 月、白秋と鉄雄は、阿蘭陀書房を設立、白秋の詩集など数冊の文芸書を出版、雑誌「ARS」を創刊したが、その翌年には阿蘭陀書房をたたんで、大正6 年、鉄雄を社主に出版社「アルス」が誕生しました。
第三話終わり



菊美人
付録『菊美人』
菊美人酒造は1735年、江戸期創業。現在は八代目、屋号は薩摩屋。先々代社長、江崎喜三郎の妻、加代は柳川の詩人「北原白秋」の実姉にあたる。(北原酒造場北原長太郎の長女)昭和16年、白秋は妻子、門下の歌人等とともに西下、故郷の柳川及び瀬高町の清水山頂にて盛大な歌会を催し、「菊美人」の菰かぶりを飲み干した。

なお、白秋は「菊美人」を墨書し、三幅の扁額を遺した。爾来「菊美人」は白秋の命名と世人は伝える。菊美人酒造は別に「九州男児」銘柄で辛口の酒を出荷しています。




文責:北原邦雄
会場写真撮影:三上卓治
HTML制作:和田節子


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