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2011年11月18日 神田雑学大学定例講座No.576

明治期の出版広告と地方の読書 講師 木戸 雄一



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講師プロフィール
1.司会者より
2.はじめに
3.「立身出世」の時代と書籍の収集
4.尾鷲 中村山土井家文庫の事例
5.北海道檜山郡江差町の事例―明治の初めの事例−
6.弘前 自他楽会の事例(明治中期〜大正期)
7.まとめ
8.質疑応答


講師プロフィール

木戸雄一講師の写真 1969年生まれ。新潟県出身。
1998年筑波大学大学院文芸・言語研究科単位取得満期退学。日本近代文学専攻。
人間文化研究機構国文学研究資料館助教を経て現職。
19世紀後半の日本文学を中心に研究。現在は啓蒙期の言説に興味を持ち、書誌学や歴史文書による読者研究の知見なども絡めながら、19世紀後半の日本における言語活動を総合的に探求している。
論文に「明治初期の江差町における書物の流通」「博覧会から議論へ」など。


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1.司会者より

木戸講師を紹介する河合さんの写真 本日の千代田図書館トークイベントにご参加いただきましてありがとうございます。私は千代田図書館で企画を担当しております河合と申します。
本日の講演会は、現在展示コーナーで展示中の、「書物と読者をつないだ明治期の販売目録」に関連して開催いたしました。
この展示は大妻女子大学さんとの連携によって開催されました。この展示では大妻女子大学草稿テキスト研究所ご所蔵の貴重な資料と千代田図書館所蔵の古書販売目録コレクションを展示し、大妻女子大学の木戸雄一先生が解説を書いてくださいました。
本日の講演では、展示の内容からさらに踏み込んで、明治期に地方の読者はどのように書物を入手していたのか、具体的な事例に基づいて先生にお話しを伺います。それでは木戸先生、よろしくお願い致します。

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2.はじめに

だんだん寒くなってきました。今日お話しするところも寒いところのお話です。今日御配りしましたプリントの2ページ目に地図をあげました。ここが本日の話の舞台です。一つ目は北海道の南の方にある江差、もう一つは青森県の弘前での書物と読書会の話をしようと思います。
お話しすると言いましても、実は資料から読書の経験を探るというのはなかなか難しい話でありまして、正直申しまして分からないところが沢山ございます。ですから今日はなかば体験談を語るということで、こんなこともあります、ここは分かりませんというようなお話をするしかないかなと思っています。
これから私がお話するのは、幕末から明治にかけての時代の話です。明治維新が起こり、日本人の置かれた環境ががらりと変わった時代です。

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3.「立身出世」の時代と書籍の収集

この時代はどういう時代だったのでしょうか、私はそれは「立身出世」の時代と言えると思うのです。
志を立て、世に出て、経済的に上昇していく、そういうことが可能になった時代でありました。
江戸時代までの身分制度が崩壊して、人々の住む場所の移動が自由になりました。
江戸時代までは多くの人々は土地に縛られ、自分の生まれた土地でそのまま死んでいく、代々の身分や職業に縛られ、自分の分にあった環境の中で生きることを余儀なくされていたのです。

この時代のベストセラーになった本に、福沢諭吉の『学問のすすめ』という本があります。冒頭のところはみなさんよくご存じだと思うのですが「天は人の上に人を作らず・・・」という言葉で始まっています。これは平等を謳った宣言なのですが、続きがありまして、「職業には貴賤がある。つまり世の中には優れた人がつく仕事とそうでない人がつく仕事がある」ということが書かれています。そして「優れた仕事につくためにはどうすればいいか」というと、それは「学問をすることだ」というものです。

講演会場風景

つまり『学問のすすめ』は自由競争社会の到来を高らかに宣言した本なのです。自由競争社会では、「黙って手をこまねいていると、どんどん没落してしまいますよ」ということです。

そのような社会になって、より高い地位や高収入を得るにはどうすればよいか?
まずは移動をすることです。大都市に人が集まるようになり、そこで切磋琢磨する、それが学校という新しい訓練の場だったわけです。
まさに千代田区の神田、神保町あたりには、当時公立から私立、小さな塾のようなものまで沢山出来て、全国から集まった書生たちがひしめいていた時代だったのです。
そうやって頭角を現したものは、故郷に帰って「錦を飾る」ということになるのです。ところが実際問題としては故郷に戻ってくる人はそう沢山はいなかったわけで、結局東京に残った人が多かったわけです。

明治の初めでは、実際に地方で暮らしていた人たちにはそんな大きな流れは分かりませんから、彼らはその地域が時代に取り残されないために、どうすればよいかを考えていました。そして地域で学問をし、そこで人材を育成しようとしたのです。

木戸雄一講師の写真2 各地域にはリーダーたる有力者がいまして、彼らはまず学問をするための本を集めたのです。 全国津々浦々にそういう経緯で集められた古い図書が残っている図書館や資料館は沢山ありまして、調査に歩き回っているとある傾向が見えてきます。
私は3種類の段階があると思っています。

一つは本を収集しているということです。本を沢山集め蓄積しています。これはいわば学問の前提ですね。
ところがこれだけで終わっているケースが多いのです。つまり集めた本を人々に公開する場所の用意、あるいはどうやってその集めた本を読むかの仕組みが出来ているケースは非常に少ないのです。
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4.尾鷲 中村山土井家文庫の事例

ひとつその失敗例といいましょうか、資料としては大変ありがたい例を挙げますと、尾鷲市中央公民館に所蔵されております中村山土井家文庫という文庫があります。
これは土井家という三重県の南の尾鷲という地域の山林地主が、明治維新以降買い集めた文庫で、それが今も残っているのですが、実にきれいな状態で残っています。
つまり読まれていないのです。りんご箱みたいな箱に入っていて、それがタイムカプセルみたいになっていて、当時の地方の有力者が、いったいどういうルートで何を見て本を買ったのかということが、分かるのです。なぜなら本は買われた状態で開かれずに保存されていますから、本に挟んである広告だとか、チラシだとかも全部のこっているからです。

その文庫に『新説 八十日間世界一周』という、ジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』の日本の初訳があります。この本は慶応義塾出版社から出された本で、小説と言うよりは新しい世界の知識を知るための啓蒙書として出されたもののようです。この本のページを開くと一枚の印刷された紙が入っていました。
(http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0000203KDS&C_CODE=OWND-00022&IMG_NO=4)
これは国文学研究資料館の近代書誌画像データベースから引いたものですが、慶応義塾出版社の発売書目です。中には『学問のすすめ』も載っていますね。

こういう本に挟まっていた広告のようなものはなかなか残らないのです。これは、本屋はこんな本を他にも出していますよということでお客をつなぐことを狙ったものです。このような一枚もののチラシの他に、本の後ろの方に広告という形で閉じ込みで入っているものも沢山ありまして、特に明治期の本はそれ自体が出版の販売目録を兼ねているのです。

同じようなチラシがあります。大きなもので40cm角くらいのものですが、これは『文海堂書籍略表』とありまして大阪の松村九兵衛という本屋さんのチラシです。
(http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0000203KDS&C_CODE=OWND-00034&IMG_NO=9)

ここから尾鷲の土井家は大阪からも本を仕入れていたことが分かるのです。これはご覧の通り「非売品」と書いてありますので本屋が配ったものでしょう。この下の方に箇条書きで書いてある様々な注意は、これらの本を注文するにはどうすればよいかということをこまごまと書いたものです。それ以外は出版物の題名リストと価格です。

  このように広告が残っており、これはお得意さんのところには無料で送られていたようですが、では当時、地元の本屋さんを通して本を買えるのかというと、そういう地域は実は非常に少ないのです。 明治初頭の地方ではこういう地域の有力者が本を中継し、売ったりしています。 当時の売捌書肆なんかを見ると明らかに地元の庄屋とみられるような家の名前が書いてあるケースが多いのです。ですから書物の小売店という形が全国津々浦々にあるという状態ではなかったのです。
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5.北海道檜山郡江差町の事例―明治の初めの事例−

江差は江差線というローカル線に乗って函館から行きますと、山を越えて日本海側に抜けていきます。このルートは戊辰戦争で官軍が攻め登ったルートです。江差にはかもめ島と言いましてカモメが羽を広げた形をした大きな岩と言いますか島がありまして、そこが湾になっています。そこが江戸時代の北前船の基地になっていました。ここは浅い入り江でありまして明治になって近代船が停泊できないということで、港としては寂れてしまいました。

そこに檜山郡役所が復元されて残っていまして、その中に江差町郷土資料館があり、そこに書庫があります。
そのなかに「関川家文書」という歴史学の世界では有名な文書があります。
当時北前船の船主だった関川家という家が、江差を牛耳っていたようですが、その関川家が持っていたさまざまな取引文書であるとか、俳諧の文書であるとか、とにかくものすごい量の文書があって、いまだに整理中であります。

講演中の講師 この関川家は地域の振興に大きな関心を持っていました。それは思想的な背景もあります。幕末のころから関川家の当主は国学に傾倒していたのです。これは国民思想の祖形のようなものだと思うのですが、「天皇家を中心にして日本という統一した国を考える」という、当時としては近代的な思想だったのです。それまでの幕藩体制のなかでは過激な思想だったとも言えましょう。
江差の中心に姥神大神宮という大きな神社がありまして、そこを中心に町の知識人が集まって国学の勉強をしていたのです。 そこで集まった主な人を言いますと、当時の関川家の当主の関川平四郎。この人は俳人としても名が知られていました。 息子に与左衛門という方がいまして、この人はのちに名前を変えまして、常澄といいます。そして後二人いたのですが、二人とも洋学を修めた医者でした。

一人は本多正幸という人物でして、緒方洪庵の適塾で学んだという話が残っています。ただ適塾の名簿には載っておりませんので、なにか教えを受ける機会があったのだと思いますが、正式に学んだかどうかは定かではありません。 もう一人は古郡真直という人で、この人も長崎に遊学して西洋医学を学んでいます。
西洋の学問と国学とは折り合いが悪そうですが、両方とも人々を啓蒙し新しい日本を作るという点で地域によっては協力し合える関係だったようです。

江差は特に関川家の力が非常に強かったですから、関川家がよしと言えばなんでもOKだったようで、仏教勢力とも温和な関係を保っていたようです。

まず明治3年ごろ、関川家を中心に皇学舎という学校を作ります。これは磯部敦さんと言う奈良女子大の方が調査に行って明らかにされたものです。
皇学舎はまず本を集めて、それからその本を使って人々に教育をもたらすことを目的にしたものでした。

資料1、皇学会規則
関川家文書の中に「皇学会規則」という資料がのこっています。その最初の行に「文庫建築の方法は速成を要するにつき、左の方法を設く」とあって、お金を出し合う方法が書かれています。
これによりまず本を集め文庫を作ろうとしたことが分かります。

それ以前にもいろいろ本を持ち寄ったり集めたりしていたのですが、火事になって一度燃えてしまったようです。この規則はその後に出来たもので、それは明治6年ごろだと言われています。

その結果どういうものを彼らが作ったかと言いますと、これが「書籍縦覧所」と言って早い時期の図書館に当たるものでした。
ここで彼らは、本を集めると同時に、それを閲覧出来る場所を作ることを考えたのです。関川家文書の中の「関川平四郎日記」(『江差町史第4巻』)から、縦覧所が出来る経緯、本が集められる経緯を読み取ることが出来ます。

まず明治7年2月24日、「新聞見読所願立之事 倅与左衛門へ内談ス」とあります。これが縦覧所建設にふれた最初の記事です。
そして縦覧所経営を実施するにあたっての責任者を設けていまして、それが「森省吾」と言う人でした。
明治7年3月6日のところに「森氏来ル」とあります。

資料2、関川平四郎日記


森省吾は関川平四郎とほぼ同世代の人で、国学を勉強し幕末から平四郎とともに行動していた人です。
その下の3月9日に「縦読所拝借地願書本多恒斎を以て出張所へ差し遣す」とあり発起人の一人の本多恒斎(正幸)が出てきます。
ここに本の名前が出ていまして、「西国立意論十一冊・・・」とあります。これは『西国立志編』というスマイルズの『セルフ・ヘルプ』という本の翻訳で、明治のベストセラーのひとつです。立身出世のための事例集のような本です。
その隣が「自由之理六冊」とありますが、これはジョン・スチュワート・ミルの『自由論』の翻訳です。これも先ほど申しました自由競争主義のバイブルと言われる本です。

では北海道の江差という遠隔地でこういう本の存在をどうやって知ったのでしょうか?
これが甚だ良く分からないのです。この時期に出版広告のようなものが江差にもたらされたとは考えにくいし出版広告自体が関川家文書に見当たらないのです。

この時期の関川家周辺のネットワークを考えてみると、いくつか可能性があります。一つは手紙です。関川家の俳諧の仲間の拠点は江戸にありまして、江戸に鳥越等栽(とうさい)という人がいるのですが、そこが中心です。
明治9年1月13日の日記に「東京行佳峯園(かほうえん)云々」とありますが、この佳峯園というのは鳥越等栽のグループの名前です。この俳諧グループは地方の有力者のネットワークでした。先ほど土井家文庫の話をしましたが、土井家に土井淇水(きすい)という号をもった当主がいましたが、彼もこの同人の一人でありました。

ちょっと時代は下りますが明治10年代、こういう人達のために『俳諧友雅新報』という雑誌が出ていますが、それはどういう雑誌かというと、当然俳諧のことは載っていますが、その他いろいろな地域の有力者が地方でどういう地域振興策をしているかという情報が載っていて、一種の情報誌のような性格があります。どこそこで縦覧所を開いたとか、そういう情報が沢山載っていて、実は俳諧のネットワークは地域を啓蒙する啓蒙者たちのネットワークでもあったことが分かるのです。

ですから俳諧雑誌と言っても単なる文学の雑誌ではないことに注意すべきだと思います。
ちなみにこの佳峯園は明治7年に教林盟社という組織を作って、地方の啓蒙活動に従事するという宣言を出しています。
「俳諧も、これから人々の役に立つことをしなくてはならない」ということを書いていまして、そのためには「地方に新しい思想を植え付ける指導者を俳諧師の中から育てなくてはならない」ということを書いています。関川家文書の中からそういう文書が大量に出てきますので、関川家もそういう運動に賛同していたものと思われます。

さて話を縦覧所に戻します。
「関川平四郎日記」の明治7年4月2日、「山与印へ注文書…増補新令字解二冊…」とあります。
当時新しい法令がどんどん出てそれが読めないものですから、そういう法令を読むための辞書が出たのですが、そのうちの一つです。
「山与印」というのは山崎与五衛門という雑貨商を営んでいた人です。この地域でいろいろな雑貨、金物などこまごましたものを扱っていた商人が仲立ちとなって本を入手していたことが分かります。
「関川平四郎日記」を見ていますと、間に立って本を東京から入手してくれる商人は時によってまちまちでありまして、東京に行く人がいるとついでに頼むということが行われていたようです。

先ほど触れました俳諧関係の人たちは非常に頻繁に手紙のやりとりをしていまして、その中で本の情報を把握したり、あるいは、実際に本のやり取りもしていますので、そのルートで入ってくる可能性はあったと思います。

もうひとつは、挟み込みの広告です。 資料3、本の広告
右図を見ていただきたいのですが、これは縦覧所に残っていた本に挟み込まれて残っていたものです。
これは大阪の本屋「岡田茂兵衛」の本の広告です。なんで大阪の本があるのかというと、本は東京から仕入れるものと大阪から仕入れるものと両方あったからです。
大阪から仕入れた本は縦覧所の本の一部をなしていて、例えば森省吾がこの時期だけなんですが、注文を盛んに出している記事が出てきます。
その中で明治7年の12月13日の記事があります。
ここに「利宝丸文治郎へ注文書あいしたたむ 森省吾分なり」とあります。
この利宝丸と言うのは関川家の持っていた北前船です。これは日本海側の航路を通りますから、大阪まで行くわけです。
この船が帰ってきて明治8年の5月4日に「森省吾注文の荷物、切解之事」とありまして、その下に明治8年5月5日「森省吾来る 荷解」とあります。

そうかと思うともうひとつ明治8年の9月4日の方は「東京下り荷物解森省吾売り渡す事」とあって、これは東京から来た荷物です。

この森省吾が関係している北前船の荷物が縦覧所関係の本ではないかと思われるのですが、それを裏付ける資料が実際にありました。
関川家文書には縦覧所関係の書物と思われる一群の書物があります。新品同様で、おそらく縦覧所に置かれたけれど、読まれてなかったんじゃないかと思われます。
本屋が「自分の本屋で扱ったよ」ということを示すしるしを付ける印(仕入印)がありますが、その本が全部大阪の本屋の仕入印が押してあるのです。それも全て明治6,7年に刊行された書物ばかりです。
この中には展示してある岡島真七という大阪の本屋の印も含まれています。
ですから北前船で持ってきたとおぼしい縦覧所の本があるのです。その中には広告がはさんであったり、また本の後ろに広告がとじこまれている場合も多いです。
こういうものを見てまた入手を考えたということは恐らくあったであろうと思われます。

あともう一つは新聞の広告です。新聞に出版広告を頻繁に載せるようになったのは明治5年くらいからです。
例えば東京日日新聞、これが出たのが明治5年くらいですが、その第4面に出版広告がいっぱい載っています。最初のうちは本文記事と同じ大きさの活字で印刷されているのですが、明治8年くらいになりますとかなり派手な広告になって、字も形や大きさを変え、目立つようになっています。
こういう出版広告と言うのは明治期の新聞にはかなりの部分を占めているのです。
関川家は東京から新聞を定期的に入手しています。

明治の8年、9年あたりになりますと、息子の与左衛門が東京に出張することになります。 資料5、関川平四郎行旅日記
彼は東京で芝居ばかり見ていて仕事をしているのか?と心配なくらいですが、その与左衛門が郵便報知新聞という新聞を何日かづつまとめて、江差へ送っている記事が『関川与左衛門行旅日誌』に残っています。明治9年くらいになりますと江差に送るものはほとんど新聞ばかりになっています。

江差で受け取った方の父親の日記を見ますと、明治9年6月8日に「縦覧所へ報知新聞四月二十五日より五月二十日まで都合十九枚相渡す事」とありまして、この新聞がまとまって東京から送られてきて、それが縦覧所で閲覧に供された新聞であったことが分かります。
この新聞におそらく沢山の出版広告が書いてあったと思われ、それを見て注文をしただろうことも予想されます。 ところがやっぱり良く分からないところがあって、例えば、その下の関川与左衛門の日記には、明治9年5月15日にいろいろ注文の手紙が来たという記事があります。

その中に例えば「系図本二冊 前便の分」、とか「開化問答後篇」とかが、父上よりの注文として書かれていますが、その次に本多氏注文として「袖珍薬説増補の分」という本があります。これは薬学の本です。本多正幸は医者ですからこの本を注文しているのです。
この「袖珍薬説増補の分」が出た日が明治9年の5月7日なんです。江差からの手紙は15日に届いています。当時は江差から東京へ手紙を出すと一週間くらいかかります。

本多が新聞でこの本が出版されたことを知ってこの注文書を出したのかと思ったのですが、先ほどの関川平四郎の日記では、明治9年6月7日に「東京より報知新聞四月二十五日より五月二十日まで都合十九枚・・・到来ス」とあり、実は一カ月遅れで新聞を手に入れていることが分かります。
ですから江差の本多が新聞を見て本を注文するということはありえないので、そうなると別ルートで情報があったと考えるしかないのです。それがどこから来たのか全く見当がつかないのです。どうも複数の情報源を持っていて、使い分けていたのではないかと思われます。
関川家の文書はあまりにも膨大で、特に近代以降のものは殆ど未整理なので、その中にひよっとしたら取引の文書だとかはがきとかが出てくるかもしれません。
これは明治の初めの事例です。出版目録というものがまだ完備されていない時代、有力者が出来る限りのネットワークを使っていろいろな本を入手しようとした時代です。
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6.弘前 自他楽会の事例(明治中期〜大正期)

少し時代が下りまして、明治22年の弘前でのお話です。
弘前市はものすごく大きな市立の図書館がありまして大変な数の本があります。総じて東北地方は本の蓄積が非常に大きい。特に近代以降に蓄めた本の量が多いのです。
これには理由があります。戊辰戦争で負けたからです。
勝った西の方の地域では、地方の有力者が東京に出てきてしまったため、本が地元に蓄積されていないケースが多いのです。それと温かい地方は本に虫がわいて喰ってしまいます。西の方の古書は虫くいが多いですが、北の地域では虫が死んでしまいますので、本の保存状態はいいのです。
そして戊辰戦争で負けたので立身出世しようにも伝手もなく、なかなか東京に出られない、しかし見返してやりたい、というわけで地域の中で学問をしようという意識が強かったのです。

私が調査に行って書庫を見てびっくりしたのは弘前と八戸と会津若松です。会津には物凄い量の本があります。そしてそれが全て市民の寄付による本です。
弘前は本を非常に計画的に蓄積していました。弘前市の図書館に貴重な資料が残されています。それが明治の中期から大正期にかけて、実際に運営されていた「自他楽会(じたらくかい)」という読書会の資料で、それがまるまる残っています。
この自他楽会がどういう組織だったのかを見てみたいと思います。
資料4、自他楽会規約
自他楽会は明治22年に創設されるのですが、この会は弘前の和徳小学校の小学教員が作った読書会なのです。彼らには一つの遠大な目的がありました。それが残されている自他楽会規約に述べられています。

その第一章第一条に「本会は各自所有の書籍を交換し、更に新著訳書、雑誌を購読して、知識の発達を計り、後来書籍館を設立するを以て目的とす」とありまして、つまりこの読書会で集めた本は将来図書館を開くために使うのだということを明記しているのです。
つまりこの自他楽会は江差の皇学舎と同じように、まず本を集めて図書館を開くことを目的としていました。 ただ皇学舎との大きな違いはこれが読書会だったことです。
つまり読むという行為をそこに付けくわえているのです。

江差の話に少し戻りますが、江差の縦覧所がどれくらい利用されたのかということを考えますと、実はよくわからない。むしろほとんど利用されていなかったのではないかと思わせる資料が多いのです。 
先ほど言いましたように本が無傷のままきれいに残っているからです。江差では縦覧所は作ったが、それを読む人々の養成が出来なかったといえます。

それに対して弘前では、集めた本を読む会を作ったのです。それも子供たちの面倒をみる小学校の教員たちの有志がそれを作ったのです。
第2条に「本会は同志20名を限りて組織す」とあり20名に限っています。何で20名に限ったのか? これは理由があるのです。
本を毎回一定数買うことを前提に、何日で読み終わるということを計算して、本を買って何カ月の間にそれを読みきる限界人数が20人ということで算出したのです。ですからこの人数は後年まで厳格に守られています。

組織は例えば第8条を見ますと「本会員を第一第二の二部に分かち適宜に回覧せしむ」とあり、20名を10名10名に分け、それぞれのチームで本を回していったのです。
また「その日数は理事これを定む」とありまして、だいたい一日何ページを読むという目安が決められていたようで、厚い本ならば5日とか、薄い本ならば3日とか理事が決めていたようです。
同時にこの本は、回覧が終わった後は和徳小学校に蓄積されまして、借りたいときにまた借りることが出来るようになっていました。それは10条で定められています。

実際にどのように運営されていたのかという記事も書き残されていまして、「書籍回覧の度数を算するにおよそ四十一、二回あり、これは一人にて一年中に於いて四十五、六冊の書籍を回覧するものとせば、その益するところ果たして多かりしならん」と書いてあり、一年にだいたい45,6冊が回ってきていたことが分かります。ですから週に一冊くらいのペースで回覧されてきたのでしょうね。
どの本を買うかということは、会議で決めています。
更にこの会は交流会も兼ねていまして、「本会は書籍閲覧の利益のみならずして、更に交友間の親密なることは却って益するが如し」とあり、本を買った人たちの交友機関の役目も担っていたことが分かります。
ですから自他楽会の仲間は非常に強いつながりがあります。また彼らが転勤などをしても、それぞれの場所で新たな読書会が作られています。それら各地に広がった読書会の本がいま弘前市の市立図書館に集められておりまして、例えば「二九会」という読書会の印が押された本がたくさん所蔵されています。

で彼らはどうやって本を買っていたのかということになるのですが、下図を見て下さい。
自他楽会購求書籍および物品目録というのがあります。これは明治22年に自他楽会が買った本のリストで値段が書いてあります。
この地方でこれ等の本がどのくらいの値段で売られていたのかが分かる、とてもありがたい記録です。このころは流通ルートが定まっていないため、定価というものはあってなきがごとしであったと言われているのですが、この表を見る限りではかなり定価に近い値段で買っていることが分かります。

自他楽会購求書籍及物品目録(一部抜粋)

資料6、自他楽会購求書籍及物品目録(一部抜粋)


資料7
例えば(28)『新著百種』 12銭とありますがこれは定価通りです。
どの本屋から買ったのかもこのリストには書かれていて、□の中に三とあるものやカドに九と書いてあるのがそれです。□の中に三は分からないのですが、カドの九とあるのは野崎九兵衛というお店です。
このお店は本屋ではありませんで、小間物商です。野崎九兵衛の受け取りも残っています。
明治22年6月11日 「和洋小間物筆墨紙書籍洋服宇治銘茶 卸商野崎九兵衛」とあります。要するにこれが地方で本を扱う店の大方の実態だったものと思われます。
展示コーナーに展示してありますが、甲府に柳正堂という本屋があって目録が出ていますが、あそこも文房具とか紙とか印刷とかも一緒にやっていて、こういう店が地域の文化活動をすべて扱っていたことが分かります。

                       (右図)野崎九兵衛からの受取

ちなみに野崎九兵衛という人は面白い人でありまして、やはり俳諧をやっています。地域の中では文化人の一人で自由民権運動にも手を染めていたようです。
こういう本屋は、都市の出版社の出していた目録を手に入れていたはずでして、その情報が自他楽会に入って、注文をしていたのではないでしょうか。
ずらっと本の名前が入った目録で最初のページには注文書がある目録などもありますし、本の後ろにとじこまれた広告もあります。          
資料8
時代とともに、こういう野崎九兵衛のような小間物商的な本屋さんが本を取り扱うことは、大きな都市ではだんだん無くなっていきます。
弘前に関して言えば明治26年ころの書物購入の記録が残っていますが、書名の下に購入価格と購入日、そしてどこから買ったかが書かれています。ここにはカド九と書いた野崎九兵衛の名前がありますが、そのほかに今泉とか近松という本屋からの購入が書かれています。
この今泉と近松は今でいう専門の小売書店です。こういう小売専門店が明治20年代半ばくらいには続々と大都市に生まれるようになりまして、弘前にも3軒くらい出来ます。自他楽会もそちらに注文することが多くなり、野崎はいつの間にか消えてしまいます。
この時代書籍の小売店が他の小売りからどんどん分化していった様子が分かります。

もうひとつ、この自他楽会が本を集めるにあたって大きな力になったものがあります。それは雑誌です。
自他楽会は継続的にある雑誌を購入しています。これは出版月評という日本で最初の書評雑誌です。
博聞社(月評社は博聞社内にあり)という法律書を専門にしている本屋で出しているのですがこれには書評が載っているばかりではなく、内務省が本を検閲して公表したリストが巻末に必ず載っているのです。
そのリストを見ると今どんな本が出ているか、値段は幾らなのか、全部分かるのです。ですから本屋の広告の他に内務省の網羅的な情報が出版月評を見ると得られたのです。

資料9
この出版月評を自他楽会で購入している記録が、明治23年11月17日「出版月評購読料」の領収書として残っています。
これは郵便為替で支払いをしていますから、本屋経由ではなく出版社に直接注文しているものと思われます。
郵便制度の充実にともない郵便為替を使って直接東京の本屋から買うこともできるようになったのですね。

この自他楽会の本の内容の特徴は、ほかの読書会に比べると非常に軟らかい本が多いことです。文芸書が多いのです。

普通啓蒙を目的に作られた読書会ではあまりないことです。そういう所はお堅い本ばかりあるのが普通で、そういう読書会は長続きしないのですが、この自他楽会は大変長続きして大正7年まで記録があります。
当時の小学校の教員が、どんな本に興味を持って読んでいたのかがとてもよくわかる興味深い資料です。明治の20,30年代は硯友社の尾崎紅葉とかを読んでいます。その後になると漱石の『吾輩は猫である』なんかも入ってきますが、総じてもう少し大衆的なものが選ばれ、大正期になると、谷崎や志賀などのいわゆる純文学は少なく、もっと講談的な本とか通俗小説が多いです。
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7.まとめ

ということで甚だまとまらない話なのですが、大きな流れを最後に申し上げるならば、「立身出世のために学問というものが力になる」ということが当時コンセンサスとしてあったわけです。
それで、「ではどうやって学問の力を付ければいいのか」ということを考えたとき、地域で出来ることで真っ先に考えたことは本を集めることだったのです。
しかし、ただ本を集めるだけでは学問は身につかない。そこからが知恵の出しどころで、縦覧所と言う形で本を閲覧する場所を作った。
そしてその次の段階として、その本を読む人材を育てなくてはならないということになり、読書会を組織するようになった。そんな形で発展して来たのだと思います。

ちなみに江差では、縦覧所はある意味で失敗に終わったわけです。
その本はどこに行ったかと言うと白樹学校という小学校に移るのです。つまり小学校でのリテラシー教育のためにそれらの本が移され読まれていく。学校教育制度の中に取り込まれていったのです。
それらの資料は残念ながら燃えてしまいました。江差の縦覧所の本で残っているものは極くわずかでありまして小学校に移されたものはすべて煙滅して残っていません。
このように地方を回って調べると当時の読書の営みというものが分かるのですが、同時に失われたものも大変なもので、調査はいろいろ状況証拠などを探して埋めていくしかないことも多いのです。
今日はなかば体験談と言うことで、私が見てきたものをお話しするという形で聞いていただきました。ありがとうございました。(拍手)
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8.質疑応答

質問:江差や弘前に類似の縦覧所のようなものは、他の地域でも沢山あったのですか?
答え:縦覧所は全国に沢山ありますし、それを作ったという記録が当時の新聞を見ていますと、出てきます。
かなり規模の小さな村の庄屋クラスが作ったものとかもありますし、雑誌にも「自分たちも縦覧所を作りたいんだが、どうやって本を集めたらいいか」というような問い合わせが載ったりしているのを見ます。
また新聞には一種の美談として、「文明開化のために私財をなげうってこのような縦覧所を開いた」なんて出ているわけです。
そういうものに触発されてますます縦覧所が増えていったという側面もあったと思います。

質問:明治の人材育成では、当時なくなっていた藩が藩校や藩主の肝いりでいろいろな教育の便宜を図っているようですが、そこら辺と今回の話のつながりはないのでしょうか?
答え:たしか八戸がかなり早い時期に書籍縦覧所を作っています。その本の母体になったのは、八戸は南部藩の支藩なのですが、南部藩が集めた文庫が元になっています。
八戸は弘前とまた違っていまして、藩内の思想的な対立が非常に強いところだったのです。ある時期から八戸青年会というところが縦覧所を牛耳るのですが、そこは非常に厳しいルールがあって、青年会の掟に従わないものは全部破門してしまうのです。それで結局あまり人が利用しなくなってしまいました。その結果、明治の半ば以降弘前に抜かれてしまうのです。
八戸青年会のものも調べに行きましたが、ここは弘前と違って軟らかい本が全然ありませんでした。

質問:神田雑学大学の三上です。私は奇しくも旧制弘前中学の出身で、大変懐かしくお話を聞きました。
先ほど先生があげられた今泉書店、私が中学に通っていたころはこの店が弘前の本屋ではナンバーワンでした。ところがごく最近行ってみたら、もう消滅していて、世の中の移り変わりを感じました。
私は図書館の前を毎日のように歩いて通っていたのですが、恐れ多くて一度も足を踏み入れたことがなかったです。
答え:今は文化財扱いになっていて非常に立派な洋館ですね。ドームが二つありまして、ちょっと教会のように見える立派な図書館ですね。
図書館を建てるのにも弘前の市民は非常に熱心でお金を出していたようです。弘前の自他楽会には三上さんと言う方が何人かいらっしゃいました。(笑い)

質問:勉強をすると自分でも本を作りたくなると思うのですが、出版の方も手もつけたということはあるのでしょうか?
答え:読書会が出版に力を注いだ例は把握していません。ただ小さな出版物はどこも出しています。文集の類です。
だいたい地方では本の取次が印刷所を兼ねているところが多く、そんな関係で読書会として冊子を出すことは多かったようです。

質問:学問を振興するということは良いことだと思うのですが、当局から見ると、危険な思想が広まるという恐れを感じて、干渉があったというようなことはあったのでしょうか?
答え:内務省の検閲済みのものが回覧されており、また教員とか、地域の有力者が中心でしたから、あまりそういう問題は聞いていません。まあ危険な思想の本や風俗紊乱の本などは、こっそり回されるでしょうから、知られていないということもあるのかもしれません。

質問:どのくらい会員たちはお金を年間で払ったのですか?
答え:すみません。いま即答はできないのですが、毎月幾らと決まっていたという資料はあります。滞納している人もいるという資料があります。年間で1円くらいだったような覚えがあります。

質問:自他楽会はどこに事務所や本を置いていたのですか?
答え:これは和徳小学校にありました。学校の中央に塔があるのです。その塔の中が本を置く場所だったと言われています。
一番最初から和徳小学校にあったかどうかは分からないんですが、かなり早い時期から塔の中に納められたことが分かっています。

質問:本を集めるときいろいろなジャンルのものを集めたと思うのですが、分類はされているのですか?
答え:弘前の場合は最初の段階から集めた本の目録を作っていまして、それに分類を記入しています。分類は帝国図書館などの分類にほぼ従っています。
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文責:木戸 雄一・臼井 良雄
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:大野 令治

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