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2011年12月2日 神田雑学大学定例講座No.578

ヴィヴァルディをご存知ですか? 講師 中野 重夫



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   はじめに
  1.「四季」の発見 ヴィヴァルディの復活
  2.ヴィヴァルディって誰? 巨大なジグソー・パズルへの挑戦
  3.巨人、姿を現す 蘇った大作曲家ヴィヴァルディ 
   (1)作品  膨大かつ多彩な作品群
   (2)生涯  栄光と失意の人生
  4.ヴィヴァルディの素顔
   (1)二つの肖像画 
   (2)“異端の庶子”の運命 ヴィヴァルディとヴェネツィア

はじめに

伝ヴィヴァルディ肖像 世界中の音楽ファンにジャンルを超えて愛され続ける超有名曲「四季」。しかし、その作曲者であるヴィヴァルディの全体像は未だによく知られていません。今回は、爛熟期のヴェネツィアを本拠地として活躍し、全ヨーロッパに名を轟かせながら、異郷ウィーンの貧民墓地に埋葬されたバロック音楽の巨人の人と音楽についてお話しします。


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1.「四季」の発見 ヴィヴァルディの復活

アントニオ・ヴィヴァルディ(1678〜1741)は、バッハ、ヘンデルらと並ぶバロック音楽後期を代表する大作曲家です。何よりも、クラシック音楽の枠を超えた超有名曲「四季」の作曲者として、その名は世界に知れわたっています。しかし、実は死後、急速に忘れ去られてしまい、200年以上過ぎた20世紀半ばに、ある契機によって劇的な復活を遂げたのです。

もちろん、これまでにも「復活」した大作曲家の例はないことはありません。古くはバッハ、現代ではマーラーなどがその代表例といえるでしょう。しかし、ヴィヴァルディの復活とは異なり、むしろ死後、不当に等閑に付されていた状況からの「再評価」による浮上、とでもいうべきものでした。西洋音楽の長い歴史を眺めても、ヴィヴァルディに比肩しうるほどの作曲家が、かくも長い忘却を経て、一気に復活を遂げたといった例はほかにないのではないでしょうか。

初代イムジチによる初の「四季」ステレオ録音盤 その「復活」の大きな契機となったのは、ここに掲げた古い1枚のアナログ・レコードです。1959年にフィリップス社(当時)より発売されたイタリアのバロック・アンサンブル「イ・ムジチ」による「四季」の初のステレオ録音版で、これがクラシック・レコード史上空前の世界的大ヒット作となり、それまで一般の音楽愛好家はほとんど耳にしたことのなかった「四季」という作品、そして一般には無名に等しかったヴィヴァルディという作曲家の名が一躍世界に轟き、脚光を浴びることとなったのです。長く忘却の淵に沈んでいたヴィヴァルディは、このようにして死後200年後に見事復活を果たしたのでした。

100万枚以上売れたレコードやCDをミリオン・セラーといいますね。ビッグ・ヒットのステータスとなる呼称で、例えばビートルズが累計で13億枚を売り、AKB48でさえデヴューわずか数年の売上げが1000万枚に迫るといったポピュラー音楽の世界では、これまでに星の数ほどのミリオン・セラーが出現しています。

一方、新進・中堅演奏家の新譜なら5000枚も売れれば上々とされるようなクラシック音楽の市場では、アルバム単独で100万枚も売れれば大事件です。オペラ歌手のエンリコ・カルーソーやフョードル・イワノヴィッチ・シャリアピンといった伝説的な大歌手の機械式録音から始まった100年のクラシック・レコード・ビジネスの歴史において、ミリオン・セラー・アルバムは、これまで世界に25枚しか存在しないのです。

そんななかで、イ・ムジチの「四季」は、なんと950万枚を売上げ、史上第3位となる大ヒットを記録しました。帝王と呼ばれたカラヤンは、生涯2億枚のLP・CDを売上げたといわれますが、そのなかでミリオン・セラーとなったアルバムは、1962年に発売されたベートーヴェンの第九交響曲1枚だけで、その売上は150万枚。大カラヤンにしてこのような状況ですから、ローマの音楽大学を出たばかりの若い奏者からなる、当時ほとんど無名のアンサンブル、初代「イ・ムジチ」による、これまた耳慣れない作曲家の無名曲のレコードが、世界で爆発的にヒットするなどということは、前代未聞の事件でした。

さらに、これがヴィヴァルディ復活の一大契機となり、かつその後の世界的なバロック音楽ブームの招来・隆盛に大きく貢献したことを考えると、その出現は社会・文化史上のひとコマとして記録されるべき出来事だったといえるでしょう。いったいなぜ、そのようなことが起きたのか、という問題は、たいへん興味深いテーマなのですが、ひとまず措くとして、本題に進ませてください。

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2.ヴィヴァルディって誰?  巨大なジグソー・パズルへの挑戦

このように、めでたく現代に蘇ったヴィヴァルディですが、その時点で人々が「ヴィヴァルディって、いったい誰?」と問うたとき、手にし得る情報はとてもわずかで不確かなものでした。空白の200年を経て、作品の散逸は甚だしく、その生涯も靄の彼方にあって、生没年すら未確定といったありさまだったのです。

レコードやCDには、ライナー・ノートと呼ばれる、研究者や音楽評論家の手になる解説がつきものですが、当初、ヴィヴァルディのレコードの解説執筆の担当者はそこに書けることがあまりにも少なくて、さぞかし苦労しただろうと思います。実は、お見せした「四季」のレコード写真は1959年のオリジナル盤ではなく、私が所有する1960年代半ばの国内再プレス盤なのですが、「復活」からすでに数年が経過した時点でさえ、ライナー・ノート中の作曲者ヴィヴァルディに関する記述はないに等しいほどで、しかも不正確なものでした。例えば、最も基本的な情報である、生没年すら「?」マークで記載されていて、今からするとその生年は完全に間違っているのです。

ジグソー・パズルというお馴染のゲームがありますね。バラバラにされたたくさんのピースを相互に関連づけて嵌め合わせてゆき、一つのイメージを完成させるという、連想力と辛抱強さが求められるゲームです。思うに、忘れられた作曲家ヴィヴァルディの実像探索の試みは、結果として世界中の研究者が参加しての壮大な「ジグソー・パズル・プロジェクト」のようなものだったといえるのではないでしょうか。それが大変な労力と時間を要する、困難な作業だったことは、私にも容易に想像がつきます。最終の完成イメージもはっきりしないまま、材料のピース集めから始めなければならなかったわけですから。

このイタリアの作曲家について、当初から知られていたことをごく大掴みにいうと、17世紀後半にヴェネツィアで生まれたこと、「赤毛の司祭」というニックネームで呼ばれた聖職者で、故郷ヴェネツィアの慈善施設(“ピエタ”という名の孤児養育院)における音楽活動に長く携わったこと、ヴァイオリンの名手として知られ、多数の協奏曲を書き、生前は全欧に名を馳せていたこと、しかし、なぜか晩年ヴェネツィアを去り、18世紀半ばに異郷ウィーンで窮死したこと、といった程度でした。

そうした基本情報を出発点として、各国に人知れず埋もれていた多量の作品の発掘と整理はもとより、教会や市役所などに残された出生(受洗)、婚姻、死亡(埋葬)、訴訟等の記録、劇場の上演記録、古い図書館や公文書館に残された関連資料、各地の旧家、名家の古文書の中から発見された本人や関係者の手紙、当時の刊行物に散見する直接・間接の記述など、あらゆる断片情報を探索・蒐集し、これらを関連づけながら少しずつその生涯と作品の空白を埋めてゆくという努力が続けられていったのです。

余談ですが、今回のお話に備え、これまでに出たヴィヴァルディの主だったレコードやCDのライナー・ノートを発売年代順にピック・アップして改めて眺めてみたのですが、そこには、年代を追うごとに知見が拡大・充実し、“知られざる作曲家ヴィヴァルディ”の全貌が次第に明らかとなってゆく過程が端的に映し出されていて、興味の尽きないものがありました。

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3.巨人、姿を現す 蘇った大作曲家ヴィヴァルディ

こうした一大“ジグソー・パズル・プロジェクト”の結果、明らかとされた「赤毛の司祭」ヴィヴァルディの実像とは、いかなるものだったのでしょうか?

一言でいうと、そこに現われたのは、あの「四季」の作曲者ということで、当初、大多数の人々が漠然と思い描いていた、愛すべき、しかし同時代のバッハやヘンデルとくらべると、ずっと小ぶりな軽量級の作曲家といったイメージをはるかに超える巨大な姿でした。それは、音楽史上で“バロック音楽”と総称される偉大な音楽の精髄を見事に体現した堂々たる大作曲家の姿だったのです。一方、現在、明らかにされたその生涯は、“聖職者”という公的な身分とは裏腹に世俗的な成功を追い求め、赫々たる名声を手中にしながらも晩年に凋落し、異郷で窮死して忘れ去られるという浮沈の激しい人生でした。

お配りした資料は、現時点で解明されているその生涯と作品の概要を一覧表に整理したものです(参考資料「アントニオ・ヴィヴァルディ 生涯と作品」。文末に掲載)。この表をご参照頂きながら、いくつかの要点をお話したいと思います。
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(1)作品 膨大・多彩な作品群

まず、一覧表の右側、ヴィヴァルディの残した作品の概要を眺めてみましょう。現時点で、ソナタ・協奏曲約600曲、オペラ約50曲、宗教曲を主体とする声楽曲約100曲と、その生涯で合わせて800曲にもおよぶ作品を書いたことが明らかとなりました。作品総数そのものも、同時代のバッハやヘンデルと肩を並べる膨大なものですが、特筆すべきはその見事な陣容です。

すなわち、当初、バロック協奏曲に特化した作曲家として復活したヴィヴァルディが、実は、これら協奏曲を中核とした世俗的な器楽曲に加えて、オペラ、そして宗教的な大規模合唱曲に代表される声楽作品という、バロック音楽の柱をなす三大ジャンルのすべてにわたって多数の作品をものしたオール・ラウンドの大家であることが判明したことでした。

例えば、バッハは1000曲余りの作品を残しましたが、バロック音楽を特徴づける最も本来的なジャンルともいえるオペラは1曲も書いていません。一方、同様に多作だったヘンデルの場合は、晩年にオラトリオ作家に転身するまでの創作の中心はあくまでオペラにあり、合奏協奏曲、オルガン協奏曲といった彼の高名な器楽曲の多くは、実は自作のオペラ上演の際の幕間の余興に供するために作曲されたものでした。

これらと比べてみたとき、ヴィヴァルディが残した作品群の網羅的でバランスのとれたライン・アップに改めて感銘を覚えます。ヴィヴァルディは、そうした意味において、まさしくバロック音楽の全体像を見事に体現してみせた大作曲家だったといえるからです。

こうした観点から、ここでわれわれが、ふだんあまり耳にすることのない宗教曲の一例を聴いてみましょう。日頃、おなじみの彼の軽快・優美な協奏曲とはがらりと趣を異にする敬虔な宗教感情に満ちた音楽で、作曲家ヴィヴァルディの多面性と多様性をよく窺わせる佳曲です。
 
CD演奏: 《グロリア ニ長調》から第二曲“地には平和を”
ヴィットリオ・ネグリ指揮 ジョン・オールディス合唱団/イギリス室内管弦楽団
次に、約50曲のオペラです。「赤毛の司祭」と呼ばれた聖職者であったヴィヴァルディが、今、聴いて頂いたような宗教曲を多数残したことはうなずけますが、それと同時に、オペラというその対極にある世俗的なジャンルの音楽作品を数多く残したということは驚きです。一言で50曲といいますが、これは作曲家人生の大半をオペラに費やしたヘンデルが残した作品数に匹敵する数です。しかも、これは現存する楽譜や劇場に残された上演記録などからたしかに作曲されたことが現時点で確認されている数字で、「自分はこれまでに90曲を超えるオペラを書いた」と記した作曲家自身の手紙が見つかっているほどですから、実数はこれよりかなり多いのではないかとも想像されます。いずれにせよ、死後まったく忘れ去られてしまったこれらのオペラが、協奏曲と並んでヴィヴァルディの創作活動の中核を占めていたことが明らかとされたのでした。

ここで、オペラ作曲家としてのヴィヴァルディの卓越した力量を窺わせる一例を聞いてみましょう。1726年に初演されたと伝えられる《ファルナーチェ》というオペラのアリアです。

CD演奏: オペラ《ファルナーチェ》第二幕六場のアリア“凍りついたようにあらゆる血管を” チェチーリア・バルトリ(メゾ・ソプラノ)、(管弦楽:イル・ジャルディーノ・アルモニコ、指揮:ジョヴァンニ・アントニーニ)

いかがでしたか? 協奏曲「四季」の天真爛漫で愛らしい作曲家ヴィヴァルディは、一方で、先ほどのような深い情趣を湛えた宗教曲の作曲家であり、さらにこのように力強く、劇的に人間感情を描き尽くしてみせるオペラの大家でもありました。それが、200年の忘却の後に復活した作曲家ヴィヴァルディの真の姿だったのです。
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(2)生涯 栄光と失意の人生

ヴェネツィアの守護教会聖マルコ大聖堂正面 次に、このような作品を残したヴィヴァルディの生涯について、お手もとの表をご覧頂きながら概観してみたいと思います。

ヴィヴァルディは、1678年3月4日、ヴェネツィアに生まれました。父親はもともと理髪師で、音楽もよくし、のちに地元ヴェネツィアの聖マルコ大聖堂付きオーケストラのヴァイオリン奏者となりました。ヴィヴァルディも父親の手ほどきを受けて、早くから楽才を現し、10代初めで父と同じように大聖堂でヴァイオリンを弾くようになったといわれていますが、15歳のときに剃髪し、聖職者となる道を選びます。 そして10年後、25歳で司祭の資格を得、同時に“オスピダーレ・デッラ・ピエタ”(以下“ピエタ”と表記)という名の孤児養育院に雇われ、付属の音楽学校でヴァイオリン教師の職に就きました。

ピエタ孤児養育院 ピエタは生まれたばかりの孤児を引き取って独り立ちするまで養育する慈善施設ですが、特に孤児のうち才能のある女子を早くから選別して高度な音楽教育を施し、合唱・合奏隊を組織して付属教会の音楽活動にあたらせていました。当時、ヴェネツィアには、同様の慈善施設がピエタを含めて4つあり、いずれも運営資金調達のため、毎週日曜日に施設内でこのような女子による有料の公開演奏会を開いて多くの聴衆を集めていたのです。

その中でも、ピエタの演奏会は、その抜きん出た演奏で大変な評判を呼び、ヴィヴァルディの時代には、これを目当てに国外からも多くの人々が押し寄せ、ヴェネツィア屈指の観光名所となっていました。ヴィヴァルディは、こうした楽団員の教育者・指揮者、また演奏曲目の作曲者・独奏者として、これを主導し、その隆盛に大きく貢献した立役者だったのです。そして、先ほど確認した膨大な数の協奏曲や宗教曲の大半は、ピエタの演奏会のために作曲されたものでした。
ピエタ内での当時の公開演奏会風景
このように、ヴィヴァルディは、ピエタの音楽活動から出発し、やがてそこで当代屈指のヴァイオリンの名手として、斬新な魅力に溢れた数々の協奏曲の作曲家として大きな成功を収めます。ピエタの演奏会を訪れた国内外の観光客を通じて、その声望は、イタリア全土からアルプスを越えて中央ヨーロッパにまでおよび、作品は次々に出版されて広く流布しました。

特に、1711年、33歳のとき、当時、楽譜出版の中心地だったアムステルダムの権威ある出版社から刊行した協奏曲集(作品3、《調和の霊感》)は大きな反響を呼び、全欧に名を馳せるに至ります。まだ20歳代だった若きバッハはさっそくこれを入手して熱心に研究し、全12曲中6曲をオルガン用そのほかに編曲して多くを学び取りました。死後あっという間に忘れ去られたヴィヴァルディですが、生前は、人生半ばにして、すでに時代の寵児ともいえる国際的な流行作曲家となって活躍していたのです。

ヴェネツィアオペラ劇場内部 そうした成功に加え、ヴィヴァルディは、さらに30代後半からオペラの世界に進出し、作曲のみならず興行者としても精力的に活動し、さらなる名声と富を手にします。イタリアが生み育てたオペラという新芸術こそバロック音楽最大の創造物です。この時代の作曲家にとって、オペラでの成功が一流の証明であり、同時に大きな富と名声を約束するものでした。

まして、当時のヴェネツィアは、狭い島内に16のオペラ劇場がひしめいて、上演を競い合うオペラ興業の国際的な一大中心地でしたから、協奏曲の分野で成功を収めたヴィヴァルディが、オペラに進出したのは才能と野心に溢れた作曲家として、当然の成り行きだったといえるでしょう。精力的に自作オペラの上演に励み、その活動範囲は、ヴェネツィアのみならず、イタリア各地の主要都市から国外にまでおよびます。ほどなくオペラの分野でも、当代一、二の流行作家として絶大な人気を博するようになるのです。

同時に、ローマ教皇やオーストリア皇帝をはじめとする有力者と積極的に接触を重ねて、知遇や支援を取りつけてゆきます。1723年の謝肉祭シーズンにローマに滞在した折には、教皇のヴァチカンの私邸に2度にわたって招かれ、ヴァイオリンを御前演奏しつつ長時間歓談した、という記録が残されています。このとき、ヴィヴァルディ45歳。ちょうどこのあたりが“流行作曲家”ヴィヴァルディの全盛期だったといえるのではないでしょうか。ちなみに、あの「四季」を含む12曲からなるヴァイオリン協奏曲集(作品8、《和声と創意への試み》)も、この時期(1725年)にアムステルダムで出版されたものです。

しかし、50歳を過ぎたころから、その人気にかげりが差し始め、以降、晩年の窮迫と死に至る下り坂の人生が待ち受けていました。バロック音楽の時代がいよいよ終章を迎え、人々の嗜好が固定的な様式に則った従来の重厚長大な正統イタリア・オペラ(オペラ・セリア)から、より軽妙洒脱な喜劇仕立ての新興オペラ(オペラ・ブッファ)へと大きく移り変わる転換期が訪れたことがその主因の一つであることは間違いありません。

事実、ロンドンで長らく自作のオペラ・セリアによる興行ビジネスを続けていたヘンデルの劇場経営を破綻させ、ついにはオペラ創作を断念させるまでに追い込んだのも、抗うことのできない時代の趨勢でした。しかし、ヘンデルは、その後、《メサイア》に代表されるオラトリオの作曲家として見事転身を果たし、死に際して、国葬級の葬儀が執り行われ、イギリス歴代の国王・偉人の墓所であるウェストミンスター寺院に埋葬されました。これに比べると、ヴィヴァルディの晩年を見舞った運命は、あまりに不運で過酷なものだったというほかありません。

次第に行き詰まっていったヴィヴァルディは、各地にオペラ興業の場所と機会を求めて奔走するものの、その衰勢はとどめがたいものがありました。そんななか、60歳を間近に控えた1737年、最後の大きな期待をかけて古都フェラーラでのオペラ興行に臨みます。しかし、ある問題(女性関係のスキャンダル疑惑) から、当地を管轄する司教によってフェラーラ立ち入りを禁じられ、心ならずも人任せにせざるを得なかった興行は、大失敗に終わります。面目の失墜に加えて大きな借財を抱え、ヴェネツィアにもいられなくなり、ついには虎の子の自筆楽譜を二束三文で売り払い、夜逃げ同然でウィーンに向けて旅立つのです。すでに62歳、ヴィヴァルディ最晩年の1740年秋のことでした。

なぜウィーンかというと、そこにオーストリア皇帝カール六世がいたからです。皇帝には1727年に拝謁し、たいへん気に入られて報奨金や称号などを賜った間柄でした。その知遇に起死回生の最後の望みを託したわけですが、不運は重なるもので、ウィーン到着後まもなく、その頼みの綱の皇帝が急逝してしまうのです。そして娘のマリア・テレジアが王位を継承したことを不当として列強国が介入し、オーストリア継承戦争(1740〜48)が始まると、宮廷はもうヴィヴァルディどころではありません。いよいよ万策尽きたところで病に倒れ、1741年7月28日、粗末な下宿屋で63年の波乱の生涯を閉じました。遺体は、市当局の手で貧民墓地に葬られ、その名はあっという間に忘れ去られてしまったのです。
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4.ヴィヴァルディの素顔
(1)二つの肖像画

肖像1、1725年に作られた銅板画 肖像2、L.P.ゲッツイによるカリカチュア

バッハやヘンデルには、当時一流の画家の筆になる立派な肖像画をはじめ、生前の姿をよく伝えるおびただしい数の視覚資料が残されています。一方、ヴィヴァルディの場合、確実に生前の作曲家を描いたものとして残されているのは、ここに掲げたわずか2枚の絵のみで、それも“肖像画”と呼ぶのはためらわれるような、いずれもまことにささやかなものです。まさに“忘れられた作曲家”ゆえの寂しさというべきでしょうか。描かれた時期は、ともに1720年代半ば、ヴィヴァルディ40代の絶頂期の肖像ですが、その風貌はまったく別人のように異なっていて、いったいどちらが作曲家の真の姿に近いのだろうかと戸惑いを禁じ得ません。

「肖像−1」は、あるオランダ人画家の製作といわれており、大量に刷ることが可能な銅版画であることから、おそらく先述したアムステルダムの出版社から作品を刊行する際、そのプロモーション用に描かせたものと思われます。鬘をかぶり、楽譜とペンをあしらうといった、いかにも“それらしさ”を意図したステレオ・タイプの代物で、そこにはヴィヴァルディという傑出した人物の個性や内面を窺わせるものは、ほとんどありません。

一方、「肖像−2」は、今に名を残す同時代の画家ピエール・ゲッツイ(1674〜1755)が、1723年にローマで描いたカリカチュア(戯画)で、その時期と場所からして、ヴィヴァルディがローマ教皇に拝謁した機会に描かれたものに違いないでしょう。「肖像−1」の薄弱な印象に比べて強いインパクトがあり、何やら異様な雰囲気すら漂わせるものです。特に、今まで清朗で天真爛漫な「四季」のヴィヴァルディに親しんできた方は、思い描いていた作曲家のイメージとの落差に驚くのではないでしょうか。

ゲッツイは、本業の油絵のほか、優れたカリカチュアの描き手としても名を馳せた人で、ここでも彼の眼が捉えたヴィヴァルディという人物の本質が戯画本来の意図的誇張を交えて、仮借なく描き出されているように思われます。なによりも、対象の横顔を選択したところにゲッツイの意図がよく現れているでしょう。詰襟の僧服と頭頂部の円形の剃髪がはっきりと描かれ、この人物の公的な身分が聖職者であることが強調されています。世俗的な欲望の象徴のような異様に巨大な鉤鼻、半開きになった放恣な唇、上方に投げられた不遜と驕りさえ漂う視線など、およそ聖職者のいでたちには不似合いな、俗臭ふんぷんたる相貌を描いているのです。つまりゲッツイは、絶頂期にあったヴィヴァルディを、聖職者を標榜しながら世俗の名声や栄達を飽くことなく追い求める鼻持ちならない男として、極めて辛辣に描いたのでした。

もちろん、これはゲッツイが理解したヴィヴァルディの人物像であり、その当否は今では誰も判定できません。しかし、このカリカチュアが意図したような人物批判は、実はヴィヴァルディの生涯に常につきまとい、結果としてさまざまな問題の火種となったのです。先ほどから見てきたように、「赤毛の司祭」ヴィヴァルディは、キリスト教的慈善精神を体現した宗教施設であるピエタと、世俗の歓楽の牙城だったオペラ劇場という、ヴェネツィアの聖と俗を象徴する対照的な2つの場所で生きた人でした。そのため、聖・俗双方の世界から、ことあるごとにその二面性を批判されることになったのです。

一方、今に残されたわずかな伝記情報からは、そうした批判勢力に対するヴィヴァルディの意外な反骨精神をうかがうことができるように思われます。ヴィヴァルディは、こうした局面で唯々諾々と批判を受け入れたり、恭順や改悛の姿勢で事態の打開をはかるよりも、あえて反抗と対立の道を選択したようにさえ見えるのです。それは、ある意味で、のちのフランス革命へと繋がってゆく自由で批判的な西欧の市民精神の先駆けを思わせないでもありません。そして、ヴィヴァルディの新しい精神のあり方が、彼の人生の悲運の一因となったようにも思われます。

そのあたりを加味しながら、以下に、独断的な推量を交えつつヴィヴァルディの波乱の生涯を総括してお話を終えたいと思います。それは、ヴィヴァルディとヴェネツィアの因縁を巡るお話となるでしょう。
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(2)“異端の庶子”の運命 ヴィヴァルディとヴェネツィア

当時のヴェネツィアの祝祭の賑わい ヴィヴァルディが生まれ、活動したヴェネツィアは、現在のようなイタリアの一都市としてのヴェネツィアではありません。7世紀末の建国以来、少数の貴族集団による独自の共和制を維持しつつ力を蓄え、やがて地中海に覇を唱えるまでに発展した特異な都市国家ヴェネツィアでした。

ヴィヴァルディが生きたのは、1000年の栄光の歴史を刻んだ共和国ヴェネツィアが、いよいよ最終章を迎えて衰微・没落してゆく時代、そして国力の衰退と反比例するかのように芸術文化が隆盛し、爛熟した時代だったのです。作曲家ヴィヴァルディは、このようなヴェネツィアが生み育て、その才能を十二分に享受し利用し、そして最後に無情に捨て去った人でした。因縁の糸で結ばれた両者の関係は、ときに愛憎相半ばする親子を思わせるようです。

“ヴェネツィアの子”ヴィヴァルディは、その正統に連なる祝福された嫡子ではありませんでした。そもそも、共和制とはいいながら、人口の数%に過ぎない世襲貴族が支配するヴェネツィアで、理髪師のせがれに生まれたという出自自体がそれを物語っているでしょう。しかし、ヴィヴァルディの場合には、もう少し込み入った事情があったように推察されるのです。

そのあだ名のように、彼は赤毛でした。おそらく生粋のヴェネツィアっ子には見られなかったその特異な髪の色は、突然変異によるものではなく、実は彼の父親譲りだったことが知られています。ヴィヴァルディは、父親以前の代にヴェネツィアに移り住んだ異郷の人の子弟(子孫)だった可能性が高いのです。

父親は、なかなか山っ気のある人だったようで、やがて仲間とヴェネツィアのオペラ・ビジネスに乗り出します。その手法は、それまで貴族階級が独占的な担い手だった事業に入場料の価格破壊をしかけて進出を図るといったようなかなり過激なもので、当然、両者の間に大きな軋轢と対立を生みました。後年、ピエタで名をなした息子のヴィヴァルディも父の後を追ってオペラ興業に進出し、こうした貴族と平民(ヴェネツィアの新・旧両勢力)の対立の構図のなかで、精力的に活動して大きな成功を獲得するのです。

このようにして見ると、ヴィヴァルディの代名詞となった一見愛らしい「赤毛の司祭」という呼称には、“他郷から来た人騒がせな異形の者”といった、当時のヴェネツィアの“筋目”の人々からの辛辣な皮肉が籠められているような気がします。既存の支配勢力にとって、“ヴェネツィアの子”ヴィヴァルディは、彼らの秩序を乱す異端児だったのではないでしょうか。今に残る記録や関連情報の中に、そのあたりを映し出すと思われるエピソードを探してみましょう。

奇書「当世流行劇場」 まず、オペラの世界です。1720年、ここに掲げた「当世流行劇場」という著者匿名の小冊子がヴェネツィアで出版され、話題となりました。それは当時、島内に16もの劇場が並び、互いに激しく鎬を削っていた全欧屈指のオペラの都ヴェネツィアにおけるオペラ興業の内情を描いた一種の暴露本で、作品の良心的な上演よりも金儲けや野心や売名などの私的欲望が優先するビジネス実態を、劇場経営者・作曲家・台本作者・歌手はもとより、スター歌手のパトロンから、場内の物売りに至るあらゆる劇場関係者を俎上に載せて辛辣に活写したものです。バロック・オペラの上演事情の記録として、われわれにとってもたいへん貴重な資料なのですが、著者の真の意図はそうしたこととはまったく別のところにありました。

のちに明らかとされた著者は、ヴィヴァルディと同時代の高名な作曲家ベネディット・マルチェッロ(1686〜1739)です。ヴェネツィアの名門貴族の出身で、若くして共和国政府の要職を歴任するなど、平民ヴィヴァルディの対極にある体制側のエリートでした。そのマルチェッロが、この小冊子を公にしたのは、ちょうどヴィヴァルディが、父親も運営に関与する劇場を拠点とした自作オペラの興行で絶大な人気を博していた時期にあたります。マルチェッロの意図は、そのようなヴィヴァルディをこの“奇書”によって痛烈に批判・誹謗することにあったのです。

マルチェッロの意図は、ここに掲げた小冊子の表紙に、当時のヴェネツィアの人々なら即座に理解するような形で示されています。まず詞書です。「本書はオペラの世界で要領良く立ち回って成功する方法を述べたもの」とあり、「表紙絵に描かれた作曲家アルディヴィーヴァに献呈する」、と記されています。

そしてこの奇妙なイラスト版画です。そこにこめられたさまざまな寓意はよくわからないのですが、要は一種の宝船で、阿漕な経営でたっぷり貯め込んだお宝を船に積んだ劇場支配人たちが、意気揚々と引き揚げて行く様を描いたものでしょう。そしてその艫で、聖職者の帽子を被り、浮かれた身振りでヴァイオリンを弾いている男が、彼らの「守護天使」、作曲家のアルディヴィーヴァというわけです。“アルディヴィーヴァ”が、ヴィヴァルディのアナグラムであることはいうまでもありません。ここでも「聖職者にあるまじき不埒な所業」というヴィヴァルディ批判の際におなじみのパターンが効果的に用いられているのが見てとれます。

つまり、長年の熾烈な競合の末、ついにオペラ興業の主導権を奪われた“貴族派”のエリートから、“平民派”の代表格ヴィヴァルディに狙いを定めた意趣返しといえますが、その激しい敵意の背景には、マルチェッロ家が所有する劇場敷地の貸借問題を巡るヴィヴァルディの父親との積年の確執といった私的怨念もあったようです。いずれにせよ、あまりフェアとはいえない体制側の有力者からの誹謗で大いに面目を失い、名声を傷つけられた平民ヴィヴァルディには、これに対抗する有力な手立てはなく、彼の泣き寝入りに終わりました。マルチェッロ一派は、首尾よくその目的を遂げたといってよいでしょう。

次に、ピエタです。1735年、すでに人気が衰え、晩年の苦境の中にあったヴィヴァルディは、生涯深く関わり続けたピエタと最後の雇用契約を結びます。そのときピエタ側から提示され、彼が受け入れた再契約の条件は、なんと32年前、25歳のときに交わした初契約とまったく同じ給与と身分(平のヴァイオリン教師)という屈辱的なものでした。

その後、いよいよウィーンに逃れる直前のヴィヴァルディからピエタが、彼の自筆譜を足もとを見透かしたように買い叩いたエピソードについては、すでにお話しした通りです。これらは、どう考えても、老いて窮迫した長年の功労者に対するあまりに酷薄な仕打ちというしかありません。こうしたいきさつの背後には、いったいどんな事情があったのでしょうか?

ピエタに残された記録から、ヴィヴァルディの雇用の履歴を辿ると、25歳で奉職してから60歳でピエタを去るまでの35年間に、何度も解任、離職、再任を繰り返しているのが見てとれます。これは明らかに、ヴィヴァルディとピエタ、正確にはピエタを運営する理事会との間に長期にわたる確執が存在したことを示唆するものと思われます。

ピエタは、基本的に貴族や富裕な上流市民の篤志が支える民間の慈善施設で、その理事会もこうした正統の既存勢力(体制側の守旧勢力)を代表する有力な人々の集まりだったでしょう。そうした理事会のお歴々にとって、聖職者の身でありながらオペラ劇場のような世俗の“悪所”(当時のオペラ劇場は、観劇にとどまらず、飲食の場、賭博の場、さらに壁面にぐるりと設えられたバルコン席という私的スペースは男女のアヴァンチュールの場でもあるという、極めて逸楽的な世俗の祝祭空間でした)で、名声と富を追う赤毛の司祭の振舞は許容し難いものだったはずです。 br>
そのうち、晩年の彼の凋落の引き金となった先述の“女性問題”(自作のオペラに重用したある女性歌手との関係疑惑)さえも噂されるようになります。まさに聖職者にあるまじき醜聞でした。一方で、ヴィヴァルディは、その演奏活動によりピエタに全欧に轟く名声と大きな収益を齎した最大の功労者でもありました。有志の寄付に頼るピエタの財政にとって、教会演奏会の収入は大きく、全盛期のヴィヴァルディは、その表看板としてまさに欠くべからざる存在だったはずです。

事実、彼が国内外を忙しく飛び回って不在がちだった時代には、月に2曲の協奏曲を書き、提出は旅先からの郵送も可、あとはヴェネツィア滞在中にリハーサルを指導すればよいという破格の条件を提示して再契約を結んでいるのです。あたかもそうしたことを見透かしたかのような彼の奔放な振る舞いが理事会メンバーの神経をいっそう逆撫でし、両者の間に最後まで消えることのなかった根深い確執を醸成したのではないでしょうか。

日頃、われわれがクラシック音楽と呼び習わしている西洋古典音楽の歴史を貫くものは、聖(教会)から俗へ、特権階級から大衆へという絶え間ない二つの大きな流れです。特にヴィヴァルディらが活躍したバロック音楽の時代は、この二つの潮流が、同時かつ急速に勢いを増し、音楽のあり方を大きく変えた転換期でした。そして、この激変を最も端的に象徴的に反映するものが、この時代にイタリアで生まれ、瞬く間に発展して隆盛を極めるに至ったオペラという新芸術でした。

この極めて世俗的な音楽劇は、教会の支配や束縛を断ち切りつつ、やがてそのパトロンである王侯貴族の専有物から広く一般市民が享受する娯楽へと大きく変容を遂げてゆくのです。そうした流れの中で、ヴェネツィアは、1653年に入場料制に基づく史上初の公開オペラ劇場を開き、以降、オペラ興業の国際的な一大中心拠点へと発展して、ヴィヴァルディらの時代に全盛期を迎えたのでした。

いうまでもなく、こうした音楽の世界の新潮流は、フランス革命に象徴される新時代の到来を前にして新・旧両勢力がせめぎ合う当時の西欧社会を反映するものでした。黄昏と爛熟のヴェネツィアで聖・俗の旧勢力との軋轢を繰り返しながら生きたヴィヴァルディの波乱の人生は、歴史状況を反映したひとつのドラマだったともいえるのではないでしょうか。

すでにお話ししたように、晩年、起死回生を図ったフェラーラでのオペラ興業に失敗し、尾羽打ち枯らして戻ったヴェネツィアに、もうヴィヴァルディの居場所はありませんでした。国際的な文化・芸術の都ヴェネツィアの繁栄と名声に大きく貢献したかつての功労者は、その翌年、追われるようにして故国を去り、1年後に異郷で窮死します。異端の庶子ヴィヴァルディが、その強大な父親に対して試みた反抗は、結局、彼の敗北で終わりました。

18世紀のサンマルコ広場の絵 一方、ヴィヴァルディを“放逐”したヴェネツィアも、それから半世紀後の1797年、侵攻したナポレオンの軍隊に蹂躙され、ハプスブルク家のオーストリアに売り飛ばされて1000年の歴史の幕を閉じました。

市民革命の嵐の中で各国の旧体制が次々に内部崩壊してゆく時代、この史上稀有な都市国家は、建国以来のさまざまな試練によって鍛え上げられた貴族共和制という“旧体制”のまま大往生を遂げたのです。“アドリア海の真珠”と讃えられた偉大な父親にふさわしい最後だったというべきかもしれません。

参考資料・表
アントニオ・ヴィヴァルディ 生涯と作品

アントニオ・ヴィヴァルディの生涯と作品

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文責:中野重夫
HTML制作:大野 令治

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