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平成23年12月16日 神田雑学大学定例講座NO581 

わが神保町が育てた中原惇一、講師:山内功雄(神田神保町「ひまわり」代表)




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画鋲
1.私と中原惇一
2.中原惇一の戦前
3.戦後の活躍
4.テレビ、ファッションの世界での活躍
5.女優さん、男優さんの話
6.色彩への先見性
7.中原惇一の家族
8.質疑応答




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山内功雄講師
1.私と中原惇一

最初に私の簡単な略歴を申し上げますと、いま私は神田神保町2丁目に店舗を持っておりまして、それ以前は神田神保町3丁目3番地で生まれそこで育ちました。中原惇一は私の母の弟でした。戦後はずっと中原純一が親父のところにいたのです。ですから私はずっと一緒に生活をしており、そんな関係で今日お話しをすることになっています。

2.中原惇一の戦前

中原惇一は香川に生まれ、絵が好きで東京に出てきて、東京の美術学校、芸大ではなくて私立の美術学校に入りました。美術学校の先生は中原の最初の絵を見たときからもう「この生徒には絵を教えることがないので勝手に描いてよい」と言い本人も勝手にどんどん描いていたそうです。

そしてフランス人形を見て、人形つくりにも一時凝ったのです。その人形を上野の松坂屋かなんかに出してあるのを見た『少女の友』の編集者が「こんな人形を作る人は絵も描くだろう」ということで、『少女の友』のカット絵を依頼します。それが大変評判がよかったので、表紙も描くようになりまして、あのころ講談社から出ていた『少女の友』は非常に人気が出たのです。

その後中原は戦争に徴兵されまして、軍隊に入ったのですが、当時中原の絵は女々しいというか愛国的ではないということで、『少女の友』の表紙絵が禁止された時代であったにもかかわらず、軍隊の現場ではみな中原の絵を知っていましたから、上官とか連隊長とか師団長みたいなお偉方が、みんな自分のお嬢さんの写真とか奥さんの写真を持ってきて、
「これを絵に描いてくれ」というらしいのです。上官の命令ですから勿論描く。すると非常に喜ばれて、次から次へと頼まれて、とても軍事教練なんかしている暇がなくて、部屋を与えられて毎日毎日絵を描いていたそうです。ですから外地にも戦場にも行きませんでした。

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それいゆ1956年春号3.戦後の活躍

戦争が終わりまして、最初は目白の方に『ソレイユ』という雑誌を発行する会社を興しまして、それが少し発展した昭和23年に、私の親父を頼って、神保町に来まして、そこで会社を大きくやりました。それから『ひまわり』という雑誌を作ったのです。それが大ヒットしました。当時はまだ本の取次店がなかったので、全国の書店からリックサックを背負って買いにくるわけです。神保町の店には本を積み上げて、それを行列する人たちに売りました。

あのころは木製の机でしたが、その引き出しに100円札がぎっちりと詰まっていたのを覚えています。私はそれを見て「出版業ってもうかるんだ」と思ったことがあります。やがて神保町の店が手狭になったので、ビルを建てて1丁目に移り、やがて銀座の方に行ったのです。その頃は私は父の仕事を神保町で継ぎましたので、たまに銀座に行くというくらいになりましたが、中原は『ひまわり』をやめて『ジュリアソレイユ』という雑誌を出します。これも非常な売れ行きが会ったらしいです。

「ジュニアそれいゆ」1955年10月号と「ひまわり」

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4.テレビ、ファッションの世界での活躍

そんな風に順調でしたから中原は絵を描いたり雑誌の編集をしていればよかったのですが、ここにテレビが出てきたのです。あの頃テレビと言うのはラジオとか新聞よりも格下のメディアだという認識がありまして、事実大宅壮一なんかも電気紙芝居と言ったりして、内容的にもあまりレベルが高くなかったのです。ところが中原はテレビを見て、これが最終的なマスメディアだと思ったのです。それで夢中になります。

テレビ局の方も素人の集まりみたいなものですからどういうふうにやっていいかわからない。これはひとから聞いた話ですが、新聞社の窓際、ラジオ局のはみだし人間、劇団の人気がない人間、ほとんど既存の組織ではみ出していた人間の集まりだったそうです。人材がいませんから、中原惇一はひっぱりだこで、「中原先生、中原先生」。また中原も器用なものですから、舞台の絵を後ろに描く、女優さんの着物を決めてあげる、顔もメークしてあげる、なんでも出来るものですから、みんなに頼られました。

当時の中原の一日は、朝起きるとまず雑誌の編集部に行き編集の仕事をして、午後からインタビューに行ったり講演をしたりして、夕方からテレビ局に入るわけです。あのころはテレビは全部生放送ですから演出を手伝って、それで夜のゴールデンアワーが終わって、それから翌日、翌週の打ち合わせをして、家に帰ってくるのが殆ど午前様です。

それから惇一は寝るのかというと、絵を書き始めるのです。それがちょっと夢中になると夜がしらけてくる。殆ど睡眠時間がない状態で土日もない状態でずっと「やっていて、とうとう身体を壊してしまいます。倒れまして葉山の療養所に入れたのですが、それから少し良くなったのでまた雑誌を作ったのです。『女の部屋』という題名でやったのですが、そこでものめりこんで何号かでまた身体を壊して廃刊しました。

中原はフランスが世界のファッションの中心だと直感していましたから、あのころフランスに行って勉強して、それから帰ってきてファッション関係の仕事もだいぶやりました。いろいろ面白い逸話が残っていますが、ちょうど神保町で中原の店で会ったのです。アクセサリーや洋服なんかもありましたね。そのころうちの親父は鞄の製造を再開していましたが、表面がツルっとしていてエナメルと呼んでいたビニールの素材が出てきたのです。

それを見て惇一は「それ面白いなー」と言って、その生地を30cm幅で2mくらい切って、それを女性の腰にしわを付けて巻きつけると言うウェストバンドを作ったのです。ビニールはべたつきますから金具で留めなくてもくっつくのです。それを腹に巻いてこれが非常に流行って、色もカラフルにしてたくさん売りました。

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山内功雄講師5.女優さん、男優さんの話

あるとききれいな女性が来て、いろいろな色のバンドを何本も巻いて「ああやっぱりこれ中原先生の考案なの」と言って何本も買って帰った方がいましたが、それが高峰秀子さんだったのです。それから読売新聞に『緑はるかに』という小説に中原が挿絵を書いた時の話です。挿絵が可愛らしくて人気を呼び映画化の話が出て、日活でやることになり、主演の女優を一般募集することになりました。

中原も審査に加わったのですが、そこで選ばれた女優さんが浅丘ルリ子さんでした。浅丘さんはうちにも挨拶に来ましたが、あのころ私は10代の終わりころでしたが、まあ可愛らしい、こんな可愛い人がいるかというぐらい可愛らしいお嬢さんでした。女優さんの話が出ましたので、モデルの話もしますが、当時惇一がファッションの仕事をしていますと女性の美しいファッションモデルが当然出てきますが、その後ろに必ず男性のモデルを置いて写すのが普通だったそうです。

まあ女性ひとりをポツンと写すわけにはいかないからなんでしょうが、それがどうしたことがみな男性の後ろ姿、後ろ向きで写していたのだそうです。男は意味がないから女性だけきれいに撮れていればよいという考えなのでしょう。惇一は「それはおかしいよ。普通に並んで写っていてもおかしくない」と主張し、それから男性モデルが表に出るようになったと言われています。

当然モデルになるくらいですから顔もそれなりに良い方が多く、その頃中原は日活と親しかった関係で、紹介をし、モデルから日活の俳優になって方々が何人もいます。またモデルではありませんが、石原裕次郎が太陽の季節に端役で出た時もそれを中原が見て、この男を主役にしたら売れるよと言って推薦したという話が残っています。

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6.色彩への先見性

色のデザインに関しても中原は先端を歩いていたと思います。先ほどのカラフルなバンドの話がではないですが、戦前から女性のベルトは黒か茶、あるいは夏は白、靴もそうでした。日本鞄協会に惇一が講演してくれと頼まれたときに、私も聞きに行きましたが、靴業界、鞄業界の人がたくさん集まって、そこで惇一は「将来赤い靴、黄色い靴、金色の靴が出てきますよ」と言ったんです。

僕は靴業界の方に後で聞いていたのですが、「中原先生は何を言っているのか、靴は赤か茶か白にきまっている、信じられなかったがその後10年くらいして赤い靴や黄色い靴が本当に出てきた。やはり先生は先見の明があったんだなー」と言われた事があります。そんなことで大変忙しかったようです。『暮らしの手帳』という雑誌を創った花森安治という方はもう亡くなられたのですが、あの人は最初に中原の雑誌の編集部に来たのです。

講義中部屋の様子

それで半年くらいいたかな、あの方は生活雑誌を作りたいと言うはっきりとした目的を持っていましたから、そこで雑誌作りのノウハウを学んですぐ会社を離れたのです。そして『暮らしの手帳』と言う立派な雑誌を作りました。そのときの私の印象ですが花森安治は髪の毛をすごく長くしていたんです。あのころそういう男性はなかったのです。男性は刈り上げるのが当たり前でした。顔はいかつい顔なのに髪の毛が女みたいで、この人は何だろうと思った印象がありました。

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7.中原惇一の家族

中原は宝塚の男役のスターだった葦原邦子と結婚しまして、子供は長女、次女、長男,二男と4人生まれまして、この子たちは私は従兄ですからさんざん遊んだのですけれど、後から従兄たちから聞きますと「絵を描くとおやじがボロクソにけなす」と言うのです。絵に関してだけは子供と言えども妥協できなかったのでしょうか。従兄は当時絵を描くのが嫌になったと言っていましたね。

しかし長男の方はやはり絵を勉強して、惇一とは全然関係のない抽象画を描いていましたが、残念ながら40代で亡くなりました。二男はお母さんの血をひいたのでしょう、音楽の関係に進み、シャンソン歌手として出ましたが、レコードはずいぶん出しましたが、売れないままで歌手は引退しました。長女の方は、人工の花作りで有名ななんとかという方の一番弟子で、お花作りをしています。次女の方はやはり絵を描いていましたが、NHKで音楽をやっている方と結婚しておさまっています。

中原惇一の少女雑誌ひまわり「ひまわり展」私は神保町で親父の店を継いで卸専門の鞄屋をやっていて、雑誌とかの中原系統ぼ世界とは関係がなかったのですが、惇一が亡くなった後、今から26年くらい前、神保町の通りがきれいになったとき、小売店を開こう、それも皮革専門の店にしようというので、「皮の店ひまわり」という名前を考え、秀子おばさんと呼んでいる中原秀子、芸名葦原邦子のところに行って、名前を使わせてほしいとお願いしまして許可を頂きました。

7年前までは3丁目でやっていましたが、今は2丁目32番地で小さいながら営業をしています。千代田区の施設「ひまわり館」の隣です。「ひまわり」という名前は私たちの方が古いのですがね。

それできょうお配りした資料にありますように、昔神保町でやっていました「中原惇一の店」を引き継いで、「ソレイユ」というショップを麻布10番で営業しています。惇一グッズのお店です。これも是非お暇が出来ました説はお立ちより下さい。年中無休で11時半から8時までやっています。住所は渋谷区広尾、地下鉄は広尾駅から歩いて近くです。

ついでで恐縮ですが神保町の鞄屋「ひまわり」にも是非足をお運びください。10時から7時半まで営業してございます。拙い話でしたが、皆様の記憶の中にソレイユとかひまわりという言葉がありましたら、ぜひ記憶を新たのしていただきたいと思います。それから12月25日まで、根津の弥生美術館で「ひまわり展~焼跡に咲いた復興の花~」をやっております。これも是非見ていただければありがたいと思います。以上です。
(拍手)

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8.質疑応答

質問:今日弥生美術館で見てきました。女性が多かったですが、40名くらい入っていて一杯でした。展示もすごく充実していました。今日はどういうご縁で出講なさったのですか?
応答:神田雑学大学の吉田さんと知り合いまして、2回ほど講座を聞きに来ていました。その時に中原惇一の話を吉田さんにしまして、神田雑学大学の地元の歴史でもあるから是非話をしてほしいと頼まれ、人前で話すなんてことはしたことがなかったのですが、やらされるはめに至りました。




講座企画・運営:吉田源司
文責:臼井良雄
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:和田節子


本文はここまでです


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