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平成24年2月10日 神田雑学大学定例講座NO587


講義名神田明神・平将門と神々


講師の光田憲雄さん


「神田」という地名は全国にある。昔は、諸国から新稲を伊勢神宮へ奉納する習わしがあり、 神宮へ納める稲を植える「稲田を神田(かんだ)」、「神田(とみしろ)」あるいは「御田(みた)」と呼んでいたからである。 東京の神田もまた同じ由来を持つ。そんな稲田の五穀豊穣を願うために大己貴命(おおなむちのみこと大国主命)を祀ったのが、 「神田明神」である。 江戸城拡張に伴い、現在地へ移る以前は、柴崎村と呼ばれていた神田橋の内側、 一ツ橋家の屋敷地内にあった(下の切絵図および現代図 参照)。

                  神田明神のあった絵図

だから、隔年九月十五日に開催される祭礼の神輿を、江戸城内に入れることが許されたのは、 神田明神の祭神(=大己貴尊)を発祥地へ帰すためである。 『江戸名所図会(巻之一、巻之六)』(1834〜36)も次のように述べる。 (神田明神は)神田橋の内、一橋御館(徳川宗尹邸)のうちにありて、御手洗などいまなほ存すとなり(隔年九月十五日、 祭礼の時は神輿をここに渡し奉りて、奉幣の式あり。 この辺り、旧名を柴崎村といふ。(『江戸名所図会』巻之一)

また、別当寺であった浅草の日輪寺についても次のようにいう。 その昔は、浅草の日輪寺も柴崎道場といひて、このところにありしなり(『江戸名所図会』巻之一)往古よりの由緒によりて、 いまも隔年九月十五日、神田明神祭礼執行のときは、当寺(日輪寺)より上人以下衆僧等社頭に至りて、 誦経(じゅきょう)・念仏等種々の修法ありて後、神輿を渡してたてまつるを恒例とすること、いまに至りてしかり。 (『江戸名所図会』巻之六)

つまり、「神田明神」は、五穀豊穣の神である「大己貴命(大国主命)」を祀り、 柴崎道場(日輪寺)を別当寺としていた。 だから、祭礼の際は日輪寺の僧侶が(諸願成就を祈る)誦経や念仏を唱えた後に、 神輿を出すことを恒例にしていたのである。

いずれにしても、祭神は大己貴命(大国主命)だけであり、平将門は未だ祀られていない。ところが、 『江戸名所図会』より前に書かれた『江戸名所記』(伝浅井了意著・1662)は、 「此の社(神田明神)は将門の霊なり」と、将門しか載せていない。 また『江戸名所図会 巻之五』が載せる{神田明神社伝}は、 もともとの祭神・大己貴命に平将門を追祀し、二坐制にした由来を載せる。 すなわち、「柴崎道場・日輪寺」を開山した真教坊(1237〜1319)が、荒廃した神田明神を再興したときであるとしている。

●(神田明神)祭神大己貴命・平親王将門(?〜940)の霊、二坐  社伝に曰く、人皇四十五代聖武天皇の御宇天平二年(730)の鎮座にして、そのはじめ柴崎村に(その旧地、神田橋御門の内にあり)ありし頃、 中古荒廃しすでに神灯絶えなんとせしを、遊行上人第二世真教坊当国遊化のみぎりここに至り、 将門の霊を合はせて二坐とし、社の傍らに一宇の草庵を結び柴崎道場と号す(いまの浅草日輪寺これなり)。 (『江戸名所図会 巻之五』) そのうえで、隔年九月十五日に行われる神田明神の祭礼については、「練物・車楽等、善尽くし美を尽くし町中を引き渡す」とだけ記す。 神田祭は天下祭りとして城内に入ったことを誇っていたはずだが、実際には入らなかったようである。反面、境内末社である祇園三社のうち、南伝馬町を本籍地とする素戔嗚尊(大政所=牛頭天王)社は城内に入っている。

●(神田明神)祭礼隔年九月十五日。(江府神社の祭礼は、永田馬場山王を第一とし、当社これに次ぐ。 いづれも公よりの沙汰として、練物・車楽等、善尽くし美を尽くし町中を引き渡す。これ一時の壮観なり。 この日都下の貴賤、桟敷をかけて見物す)。
      (中略)
●祇園三社(本社の西に並ぶ。当社地主の神なり。毎歳六月祇園会あり)。
祭神 五男三女(八王子と称す。六月五日大伝馬町旅所へ神幸、同八日に帰輿あり)
素戔嗚尊(大政所と称す。六月七日南伝馬町旅所へ神幸、同十四日に帰輿あり)
奇稲田姫(本御前と称す。六月十日小舟町旅所へ神幸あり。同十三日帰輿)
社家の説に、大政所と称して南伝馬町の旅所へ神幸あるものは、すなはち『風土記』にいはゆる江戸の神社なりとぞ。 ゆゑに祭祀のみぎり、旧例によって御城内大手の橋上にて奉幣の式あるも、その旧地なるによれりとぞ。

『風土記』に曰く。
豊島郡江戸神社 大宝二年壬寅(七〇二)、祭るところ素戔嗚尊なり。神貢百束三字田、云々。(以下略)
(『江戸名所図会』巻之五)

              江戸名所図会

『江戸名所図会 巻之五』の特徴は、現在地・湯島に遷(うつ)ったことと、祭神に「将門の霊」を加え二坐としたことである。 その時期については、遊行上人(一遍)第二世・真教坊が立ち寄った際(十三世紀頃)としているが、 「巻之一」及び{巻之六とも将門については、まったく触れていない。 湯島に遷った元和二年(1616)以降に新しく作られた伝説であろう。

将門伝説だけを載せる『江戸名所記』が刊行されたのも、神田明神が現在地・湯島へ遷ってから四十年以上経った寛文二年(1662)である。 新しく作られた伝説を広めるために、あえて将門しか載せなかったとも考えられる。 のちには天下祭りとして、山車を城内へ入れることを誇った祭礼についても、 練物や車楽(=山車)等を市中に引き廻すだけであったのは、「江戸総鎮守」となる以前の神田明神の姿を彷彿させる。

反面、本社の西に並ぶ末社・祇園三社=地主神のうち、 『風土記』がいう「江戸神社」(=「素戔嗚尊(大政所)」)は城内に入っている。 旧地である城内大手(=現将門塚附近?)の橋上で奉幣を行うためとされた。 たとえそうであっても、本社より末社の方が優遇されるとは、考えてみればおかしな話である。 元来、大己貴尊より上位にあった神=祇園神であると考えるのが自然である。

祇園とは祇園精舎のことであり、古代インドにあった天竺五精舎(=伽藍、寺院)の一つである。 天竺五精舎は天竺五山ともいわれ、竹林精舎・祇園精舎・菴羅樹園精舎・大林精舎・霊鷲精舎を指す。 日本の鎌倉五山、京都五山はこの制を取り入れたものである。 また祇園精舎の守護神を牛頭天王というが、尊皇思想が蔓延(はびこ)るにつれ、素戔嗚尊に置き換えられた。 とりわけ平田篤胤の『牛頭天王暦神弁』(1823 文政六著)が発表されると、その傾向はより顕著となる。

直後の天保五〜七年(1834〜36)にかけて刊行された『江戸名所図会』は、著者が町名主だけに反応が早い。 早速、祇園三社の神々を素戔嗚尊一家に変更した。ただし、挿絵を描いた長谷川雪旦(1778〜1848)・雪堤(1813〜82)親子は 町絵師であったため、もとの「牛頭天王三社」のまま変更していない。 素戔嗚尊一家を元の牛頭天王一家に復元すると下記のとおりである。

素戔嗚尊(すさのおのみこと)=牛頭天王。奇稲田姫(くしなだひめ)=頗梨采女(はりさいじょ 妻)。 五男三女=八王子(子)。 また、『江戸名所図会』刊行直後に書かれた風俗百科事典『守貞漫稿(もりさだまんこう)』(天保八=1837年以降著作)も、 「江戸牛頭天王祭」(「巻之廿七」)の項を設け、その当時江戸で行われていた牛頭天王祭を紹介している。 その中に神田明神の祇園三社も含まれている。含まれているどころではない。説明の大半を神田明神の祇園三社の紹介に費やしている。

明治以降「神田神社」が正式名称となっても、一般には「神田明神」であるように、なお祇園は牛頭天王の代名詞であったからである。 ところが、幕末維新期、尊皇思想が狂信的に高まると、牛頭天王は「テンノウ」という響きが災いし、 名指しで非難され、抹殺されることとなった。 正式には「帝」、通常は「ごっさん(御所さん)」と呼ばれていた人を「天皇」と呼ぶことになったため、 「牛頭天王は天皇の名を僭称(せんしょう)する不逞の輩」とみなされるようになったからである。

神祇官事務局達  慶応四年(1868)三月二十八日
一、中古以来、某権現或ハ牛頭天王之類、其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候、何レモ其神社之由緒委細に書付、 早早可申出候事、但勅祭之神社 御宸翰 勅額等有之候向ハ、是又可伺出、其上ニテ、御沙汰可有之候、其余之社ハ、裁判(註一)、 鎮台(註二)、領主、支配頭等ヘ可申出候事

一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事 附、本地抔と唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、 仏具等之類差置候分ハ、早々取除キ可申事右之通被仰出候事

(註一)裁判(宰判)……(広辞苑)物事を治め管理すること。また民政を管理すること。長州藩では、 藩内を「宰判」(=郡の近い)に分け、それぞれ「宰判所」(=役所)を置いて管理した。この制度を取り入れたもの。 (註二)鎮台……(広辞苑)1、一地方の鎮守たる軍隊。2、明治前期の陸軍の軍隊。

上記の通達によって、例えば、讃岐の金毘羅権現(こんぴらごんげん)は金刀比羅宮(こんぴらぐう)へ改組された。 元来、真言宗寺院の象頭山松尾寺金光院であり、神仏習合で象頭山金毘羅大権現と呼ばれていた。 神仏分離でこれを廃寺とし、新たに大物主I(おおものぬし)を祭神とする神社へ改組したのが、 現在の金刀比羅宮である。ただし、大物主などという神様のなど誰も知らず、今でも金毘羅さんと呼ばれる。

牛頭天王を祀る祇園社、天王社は総て廃滅させられ、スサノオを祭神とする神社へ改組された。 代表的な祇園社・京都の「感神院祇園社(かんじんいんぎおんしゃ)」も、「祇園社」部分は所在地・愛宕郡八坂郷の名を取り、 「八坂神社」と改称させられた。本尊牛頭天王も素戔嗚尊へ置き換えられたことはいうまでもない。 その上で、本体の「感神院」は跡形もなく廃滅させられた。その蹟地に作られたのが、 祇園の枝垂れ桜で有名な「円山公園」である。もう一つの天王本社、愛知県の津島天王社も、 本尊「牛頭天王像」は外へ移され、改めて「スサノオ」を祭神とする「津島神社」に変更された。

江戸にも北の天王(現品川神社)、南の天王(現荏原神社)を始め、牛頭天王を祭神とする神社はたくさんあったが、 すべてスサノオに変更された。今では牛頭天王が祭神であった事実を知る人は少ない。 わずかな痕跡が、例えば荏原神社の祭礼「天王祭(いんのうさい)」に名を留める(最近知ったが、 世田谷区喜多見の須賀神社<旧別当・知行院>の祭礼も<天王祭>と呼ぶ)。

神田明神も今は神田神社が正しい呼び名である。ここは大己貴命が主神だったから、神社と改称するだけで済んだ。 目の上のたん瘤、別当寺・日輪寺から解放されたのは、神社にとっては都合のいいことであった。 唯一困ったことは将門を祀ってあることである。

明治七年(1874)、明治天皇が行幸することが決まった際は、逆臣・平将門を祀るなどということはあってはならないこととされ、 急遽、祭神から外し、わざわざ茨城県大洗磯前神社から少彦名命を勧請して据えた。 しかし、平将門を捨てるわけにもいかなかったから、境内摂社として祀った。これが本社へ復帰するのは、 ちょうど百年後の昭和五十九年(1984)である。以来、神田神社の祭神は三坐制となり、今日に至っているのである。

本社の西に並んでいた「祇園三社」は「三天王」と名前を変えたが、現在も健在である。 ただし、祭神はなぜかすべてスサノオに変更されている。 「祇園」も「天王」も牛頭天王の象徴である。 妻子(=祭神)をスサノオに換えたのなら「須佐之男三社」とでもればいいと思うが、そこまで換えるのは忍びなかったのだろうか。 何とも歯切れの悪い変更である。 いずれにしても、スサノオを牛頭天王に言い換える歴史は大変古く、 平田篤胤は著作『牛頭天王暦神弁』で吉備真備がいい出したと述べている。

須佐之男尊を牛頭天王と為したるは吉備公の所為なること著名なり(中略)牛頭天王の号は天竺の神の名にて、 祇園精舎の守護神なり。素戔嗚尊を牛頭天王と号せる故に、其の在所をも祇園と号す。天竺の祇園を表せるなり(『牛頭天王暦神弁』) 吉備真備かどうかはともかく、牛頭天王をスサノオと同一神とする例は、 『備後国風土記』逸文以来連綿と続いているが、詳細については今後の課題として、主要史料を示す。

「牛頭天王=素戔嗚尊」と記した主要史料(武塔(天)神=スサノオ=牛頭天王)
・七一〇(和銅三)〜 『備後国風土記逸文』(釈日本紀が載す) 武塔神=速須佐の雄
・一二七四〜一三七一『釈日本紀』(備後国風土記を載す)武塔神=速須佐の雄
・十四世紀(室町期) 『十巻本 伊呂波字類抄』牛頭天王=武答天神
・一四六九(文明元年)『二十二社註式』牛頭天王=大政所=進雄命
・一七〇四(宝永元年)『牛頭天王弁』牛頭天王=武塔天神=素戔嗚尊=天道神
・一七一六〜(享保年間頃)『播磨鑑』素戔嗚尊=新羅国明神=牛頭天王

また、神田明神境内に鎮座する「祇園三社」の変遷を示すと下記のとおりである。

神田明神境内鎮座祇園三社の変遷(現在は三天王と改称)
祇園祭神 江戸名所図会祭神
(祇園三社)
旅 所現在祭神名
(三天王)
境内末社名
旅 所
備 考
祭 礼
牛頭天王 素戔嗚尊(大政所)
(牛頭天王)
南伝馬町建速須佐之雄命
(元素戔嗚尊)
江戸神社
南伝馬町
現在中止
頗梨采女 頗梨采女奇稲田姫(本御前)
(頗梨采女)
小舟町 建速須佐之雄命
(元奇稲田姫)
小舟町八雲神社
小舟町
現在も継承
八王子 八王子五男三女(八王子)
(八人の子供)
大伝馬町建速須佐之雄命
(元五男三女)
大伝馬町八雲神社
大伝馬町
現在中止

三天王(祭神はいずれも建速須佐之男命)
江戸神社(元大政所) 慶長八年(一六〇三)江戸城拡張時神田明神境内に遷座 大伝馬町八雲神社(元八王子…史料により名前が少々異なる)
小舟町八雲神社(元本御前)

祇園三社が神田明神境内を出て旅所へ行く風習が始まったのは、『武江年表』が、 《(慶長十八=1613年6月7日)神田社地(駿河台)より南伝馬町へ始めて御旅出あり》と載す。 南伝馬町旅所へ行くのは祇園三社の中でも大政所=素戔嗚尊=牛頭天王であり、 かつては「江戸神社」と呼ばれた江戸最古の神社である。 社伝によると、大宝二年(702)、武蔵国豊島郡江戸の地(現皇居内)、に創建された江戸最古の地主神とされる。 「江戸大明神」、「牛頭天王」と称せられた。

鎌倉時代は江戸氏の氏神として、江戸氏が多摩郡喜多見村に移転後もしばらく同地へ止まったが(喜多見には現在も牛頭天王を祀る <現在は素盞鳴尊へ変更済み>「須賀神社」)、慶長八年(1603)、江戸城拡張に伴い、 神田明神とともに駿河台に移り、元和二年(1616)、さらに現在地へ移った。明治元年(1868)、 須賀神社と改称、明治十八年(1885)に江戸神社と復称された。

いずれにしても、神田明神の祭礼は、隔年の九月十五日だけなのに、境内末社に過ぎない「祇園三社」の祭礼は、 六月五日の大伝馬町旅所へ向かうのを皮切りに、大政所が伝馬町旅所から還ってくる十四日まで十日間も続けられた。 また、「神田祭」と隔年で交互に行われる「日吉山王社(現日枝神社)」の「山王祭」では、 神田明神の祇園三社旅所を置く町は、一番山車(大伝馬町)、二番山車(南伝馬町)、五番山車(小舟町)を受け持っていた。 だからだろう。今でも六月初旬から十日間にわたって繰り広げられる「山王祭」の初日は、 日枝神社の境内末社である「八坂神社(旧祇園社)」の例祭・祇園祭で始まる。

ちなみに現在の神田祭は、五月中旬に行われる。 こうしてみると、神田祭の実際は「祇園三社祭」であり、江戸城へ入れたのも「祇園三社」であって、 「神田」の方は「町中を引き渡す」だけであった(「巻之一」には、九月十五日に旧地である神田橋内に入るとあるが)。 山王祭も、一番、二番、五番と、上席部分を祇園町が占めていた。維新政府の新たな支配者となった「ごっさん(御所さん)」が、 「(牛頭)天王」を排斥・抹殺したかったのも宜なるかな、である。

これまでのところ、「平将門首塚」に触れたものは一つもない。どうやらこれも、のちに作られた都市伝説のようである。 検証してみる。私見の限りだが、大手町の「将門首塚」について書かれたものは、大正十五年(1926)に刊行された『江戸伝説』(佐藤隆三著)に載せられた 「将門首塚」と題した一文が最初である。

(以下原文のまま)
大蔵省の門を這入って、左手の内務相に接した処に五段の石垣があって、その壇上に、高さ三尺巾九寸許りの古びた碑石と、 そしてその傍に築山様の小高い塚がある。それが将門の首塚である。 この塚のほとりに将門の首洗ひの井戸と、北手に約三百坪程の御手洗池と唱へる古池もあったが、 大震災後大蔵省の仮庁舎建設の為め、邪魔になると云ふので撤去し、且つ塚の形を改めたのは、 古蹟保存の上から甚だ遺憾に思はれる。

此の地はもと神田明神の発祥地で、 いまの明神の社は昔し此の処に在ったのである。 神田明神は大己貴命を祭神とし、夫れに将門を合祀したものであるが、明治の御代となって、 将門を合殿に祀るのは、天朝に憚るといふ意から出たものか、明治七年祀典を正して将門の霊を摂社に下し、 新たに少彦名命を迎へて大己貴命と二柱の神となし、神田神社と改め府社に列せられた。 将門の霊はいま本社の左隣に社を建てて別にして終った。 江戸ッ子が逆賊将門を崇拝すると云ふので、笑ふ人もあるが、将門を逆賊扱ひするのは当を得たるものではないと思ふ。 (『江戸伝説』)

巨大ビルに囲まれた現在の「将門首塚」からは想像もできないが、大正時代の写真と文章を読むかぎり、 塚は古墳である。井戸や御手洗池は古墳を取り囲む濠の跡であろう。 関東大震災で相当、環境が変わったようだが、現在からみれば、はるかに当初の面影をとどめている。 古墳の墳丘頂部を利用した祠なら全国にある。何らかの社が建っていたと考えるのが自然である。伝承も痕跡も残さない将門よりも、 大政所牛頭天王を祀った「江戸神社」こそ相応しい。 『江戸名所図会 巻之五』が載せる天王際の由来や『風土記』の云う「江戸神社」の発祥地にも合致する。

社家の説に、大政所と称して南伝馬町の旅所へ神幸あるものは、すなはち『風土記』にいはゆる江戸の神社なりとぞ。 ゆゑに祭祀のみぎり、旧例によって御城内大手の橋上にて奉幣の式あるも、その旧地なるによれりとぞ。 『風土記』に曰く。
 豊島郡江戸神社 大宝二年壬寅(七〇二)、祭るところ素戔嗚尊なり。神貢百束三字田、云々。(以下略)(『江戸名所図会』巻之五)

明治維新以降現在までの神田明神と日輪寺、将門首塚

4、神田神社(明治以降「神田明神」の正式名称)
・祭神 大己貴命(一ノ宮)・少彦名命(二ノ宮)・平将門神(三ノ宮)
・社伝によると、天平二年(730)に出雲氏族で大己貴命の子孫・真神田臣により武蔵国豊島郡芝崎村(=千代田区大手町・将門塚周辺)に創建された。
・延慶二年(1309)、天慶の乱で敗死した平将門を相殿神として祭る
・明治七年(1874)、明治天皇行幸に際し、逆臣平将門が祀られているのはあるまじきこととされ、 平将門は祭神から外し、少彦名命を茨城県大洗磯前神社から勧請。 平将門神霊は境内摂社に遷座。昭和五十九年(1984)本社祭神に復帰

5、日輪寺
もと芝崎村(現在の千代田区)にあった天台宗寺院。徳治年間(1303〜08)この地を訪れた他阿真教が、 疫病が流行し平将門の首塚の祟りだと怯える村人を見て塚を修復し、供養をしたところ疫病が治まり、 村人の勧めもあって日輪寺を時宗に改め念仏道場としたという。

一五九〇年(天正一八)以降寺地を転々とし、一六〇一年(慶長六)柳原へ移った。 一六五七年(明暦三)の大火(いわゆる明暦の大火)で焼失し、浅草の地へ移った。江戸時代は時宗の触頭であり、 堀田氏の菩提寺であった。 日輪寺がある浅草三丁目はかつて浅草柴崎町だったが、これは日輪寺が柴崎道場と呼ばれていたことに由来する。
(フリー百科事典「ウィキペディア」より)

現在の首塚
巨大ビルに囲まれた現在の「将門首塚」は、周りの環境も塚の姿も大正時代とはまるで異なる。 現在の形に整えられる以前、震災後の発掘調査で石室が出たようだから、塚は古墳で、 御手洗は取り囲む濠の跡であったとも考えられる。 関東大震災で相当環境が変わったようだが、写真や絵に描き残していない限り、 もとの姿を知ることは不可能であるが、古墳を利用して祠が建っていた可能性は高い。 「ウィキペディア」は、あとから作られた下記の伝説を載す。

将門塚の歴史
この地はかつて武蔵国豊嶋郡芝崎村と呼ばれた。住民は長らく将門の怨霊に苦しめられてきたという。 諸国を遊行回国中であった遊行二祖他阿真教が徳治二年(一三〇七)、 将門に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈って首塚の上に自らが揮毫した板碑を建立し、 かたわらの天台宗寺院日輪寺を時宗芝崎道場に改宗したという。 日輪寺は、将門の「体」が訛って「神田」になったという神田明神の別当として将門信仰を伝えてきた。 その後、江戸時代になって、日輪寺は、浅草に移転させられるが、今なお神田明神とともに首塚を護持している。 時宗における怨霊済度の好例である。

首塚そのものは、関東大震災によって損壊した。その後、周辺跡地に大蔵省が建てられることとなり、 石室など首塚の大規模な発掘調査が行われた。昭和二年(一九二六)に将門鎮魂碑が建立され、 神田明神の宮司が祭主となって盛大な将門鎮魂祭が執り行われる。 この将門鎮魂碑には日輪寺にある他阿真教上人の直筆の石版から「南無阿弥陀仏」が拓本された。 (フリー百科事典「ウィキペディア」より)

●神田神社の祭神 二坐→三坐
・明治七年、将門に換え少彦名を祭神とす。(昭和五九年、将門復帰、三祭神制となる)

●日輪寺伝説の完成
・首塚伝説の始まり。

●将門首塚伝説の完成
・「(首)塚のほとりに将門の首洗ひの井戸と、北手に約三百坪程の御手洗池と唱へる古池もあったが、 大震災後大蔵省の仮庁舎建設の為め、邪魔になると云ふので撤去し、且つ塚の形を改めたのは、 古蹟保存の上から甚だ遺憾に思はれる

●結論 首塚は元来、古墳であり、古池は周りを囲む濠の一部であったと思う。古墳を利用して祠を建てることはよくある。何かが祀ってあったとすれば、将門よりも牛頭天王を祭神とする江戸神社であった可能性が高い。

参考
『江戸名所記』(伝浅井了意著・一六六二年刊)
「神田明神」
此の社は将門の霊なり。(中略)天慶三年(九四〇)庚子に国香が子平貞盛、大将軍の宣を被りかうふり、 藤原の忠文朝臣、俵藤太秀郷副将軍としてはせむかふ。秀郷はかりごとをもって、将門を打けるところに、 その首とんで空にあがり、雲に入りしが、此所におちとどまりしを、都にのぼせて獄門の木にかけられしに、 その首更に死なずして、ただもりをなし、この首を見る人、たちまちにみなわずらひけるゆへに、 さまざま御きたうありしかども、しるしなし。

ある人この首のほとりに来りて、 まさかとは米かみよりそきられける、たはら藤太がはかりごとにて とよみければ、此の首からからとわらひて、それより目をふさぎ、たたりをなさざりけり。かくて此所にをけり。 けだし御たくせんの事によりて社をたていはひしづめ奉りければ、霊験あらたにおはしませり。 地はやふる神田の宮井年ふれど、いのるしるしは猶あらたなり



講座企画・運営:吉田源司
文 責:光田憲雄
HTML制作:上野治子

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