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平成24年3月9日 神田雑学大学定例講座NO591 

3月10日「東京大空襲」あれから67年! ~心をこわされたこどもたち~ 講師:浅見洋子(詩人)


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画鋲
司会 吉田悦花理事長
プロフィール
1.戦争を経験していない“私”にとっての東京大空襲
2.心の傷を負って生きる
3.傷害を背負って生きる
4.戦争孤児となって生きる
5.渡辺紘子さんのお話
6.参加者の感想より





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司会 吉田悦花理事長
3月は東日本大震災があった月として、人々に記憶されていますけれども、NPO¬法人神田雑学大学では、3月10日の東京大空襲を風化させないため、毎年、10日前後の講座で、さまざまな方に東京大空襲のお話をうかがっております。

本日の講師、浅見洋子さんの詩集『独りぽっちの人生(せいかつ) 東京大空襲により心をこわされた子たち』(コールサック社、2011)には、戦災孤児となって厳しい戦後を生き抜いてこられたみなさんの声が詩となって収められています。東京大空襲が訴訟になっているということは、あまり知られていないかもしれませんけれども、浅見さんは、この国家賠償請求の裁判の賛同者のおひとりでもあります。呼びかけ人で、『東京大空襲』(岩波新書)で知られる早乙女勝元さんには、NPO¬法人神田雑学大学でお話ししていただいたこともあり、ご縁を感じて今回、浅見さんをお招きいたしました。

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浅見ようこ講師プロフィール
1949年 東京生まれ 和洋女子大学卒業

<<著書>>
詩集「歩道橋」(けやき書房)
詩集「交差点」(けやき書房)
詩集「隅田川の堤」(けやき書房)
詩集「母さんの海」(世論時評社)
詩集「マサヒロ兄さん」(けやき書房)
詩集「もぎ取られた青春」(花伝社)
詩集「独りぽっちの人生(せいかつ)」
東京大空襲により心をこわされた子たち (コールサック社)

「大空襲310人詩集」「鎮魂詩404人集」に参加(コールサック社)
◇ニッポン放送テレホン人生相談回答者
◇全国空襲被害者連絡協議会の運動に携わっている。

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1.戦争を経験していない“私”にとっての東京大空襲
私は、戦争を体験しておりません。その私が、みなさんに戦争についてお話をさせていただくというのは、とても不思議かもしれません。私は東京都荒川区に生まれました。恥ずかしながら、日本で初めて空襲を受けたのが、1942年4月18日の荒川区尾久であったということを知りませんでした。

「尾久初空襲を忘れないコンサート」のチラシを見せながらにこやかに話をする浅見講師

東京大空襲というと3月10日だけだと思っておりました。これまで、4月18日の前後に地域の婦人たちが中心となって、さまざまな活動をしてきましたが、1000人という画期的な規模で、「第4回 尾久初空襲を忘れない コンサート」の開催に向けて動いています。荒川で生まれ育った私も、演出家助手として、このコンサートのお手伝いをさせていただいています。二度と戦争を起こさないため、地域の歴史を語り継ぐことをさらに進めていきたい、と思います。少年少女の歌や話を織り交ぜた「第4回 尾久初空襲を忘れない コンサート」にぜひお運びいただけたら幸せです。

尾久空襲について勉強して感じるのは、アメリカは当時、すでに日本のいろんなことを研究し尽くしていたということです。日本はとても無謀な戦争をしたというのが、私の素直な気持ちです。無謀な戦争に人生を振り回されてしまった人たちが、夫が代理人をしております「東京大空襲裁判」の原告として立ち上がられたのです。原告の方々との交流を通じて、私にとっての東京大空襲について少しずつ考えてまいりました。私の詩から、「今でも戦後は来ていない」という生の声を感じてください。

●朗読 「幸一の戦後」(『独りぽっちの人生(せいかつ) 東京大空襲により心をこわされた子たち』第2章「こわれた心 一歳の幸一」p36~39より)「幸一の六三の人生/彼は 彼の人生にいまだ/戦後が 来ていないことを/確信した」とありますが、これは幸一さんだけでなく、原告団として裁判にのぞんでおられるみなさんに共通する心だと確信しております。東京大空襲裁判を契機に私は、東京・名古屋・大阪で、いろいろな方との出会いをいただきました。過去から現在へ、みなさんが、この戦争経験を経てどういうかたちで生きておられるかということをお話ししたいと思います。

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2.心の傷を負って生きる
全国戦争障害者連絡会・杉山千佐子さんの場合

なぜ、杉山千佐子さんは、人生を賭け、96歳の体にムチ打って訴え続けているのか。東京大空襲訴訟高等裁判所の最終弁論の資料において、杉浦ひとみ弁護士が、その原動力について記した一文を読み上げます。

被災当時29歳。名古屋大学医学部で仕事をしていた。当時の国の状況については、一般庶民の立場でもっとも正確に理解していたものの一人だったはずある。当時、国民は戦況を詳しく知らされないまま、隣組などの地域の繋がりを利用して、国から「逃げるのは許されない、最後まで戦って消せ」といわれ、「それがみんなにしみ込んでる。しみこんでいるも何も、それだけでした」というほどだった。国民全員が何も考えないで、「必ず勝つ、何が何でも勝つまではがんばる。銃後も戦地だ」と教え込まれてきた。それが、国がとった国民への施策だった。

心身ともに大きな傷を負った千佐子さんは、不自由なからだで単身、1973年に全国戦争被害者連絡会を発足させ、国会に「戦争災害援護法」の制定を求める活動をはじめました。民間の戦争被害者を放置し続ける国のやり方はおかしいと考える議員たちによって14回も法案が提出されました。しかし、14回ともにすべて廃案になっています。

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3.傷害を背負って生きる
大阪空襲訴訟原告団代表・安野輝子さんの場合

大阪空襲訴訟は、2011年12月7日、残念ながら敗訴しました。私もその場にいましたが、控訴することになりました。原告団のおひとり安野輝子さんは、6歳のとき爆撃を受け、左足を失いました。彼女は、「トカゲのしっぽのように、また足が生えてくると素直に信じていた。だから、足がなくても、またいつか足が生えてきて、ふつうの人と同じようになれるんだと信じて生きてきた」と言っています。

失った足はもう二度と取り戻せないと自覚したとき、輝子さんの傷害を背負った人生が始まったのです。2012年2月11~19日、東京大空襲訴訟と大阪空襲訴訟の支援者は、ドレスデンに赴き、人間の鎖に参加しました。そのとき、安野さんが、ハンブルグのニコライ堂でされたお話の一部を紹介することで、彼女にとっての「戦後」の厳しさをお伝えしたいと思います。
 
空襲で傷を負わされた者にとって、戦後は、生きるための新たな戦いの始まりでした。足の断面の傷は、6カ月経って治ってきましたが、当時は杖も義足も車イスもなく、外に一歩も出ることができませんでした。終戦の翌日、疎開地で、松葉杖をつき、刺すような視線の中、小学校へ入学しました。遠足も運動会も参加できず、いじめられては学校を休み、勉強についていけませんでした。

いつも傍観者でした。雨が降っては休み、いじめられては休み、いつも孤独の中で「私、あのとき、助からなくてよかったのに」と思うようになっていきました。結局、義務教育の中学校を中退し、私の短い学校生活が終わりました。私が洋裁を習得して独り立ちするまで支えてくれたのは、戦争で夫を失った、母でした。弟も、甘いものの味を知らないままに、戦後の食糧難の中で、息を引き取りました。

こうしたお話をうかがうと、当時の忘れていたことが思い出されるという方もおられるのではないでしょうか。いま、平和な時代だからこそ、ぜひ思い出して、同じ過ちが繰り返されないよう、子どもや孫に伝えてください。あるとき、輝子さんは「お母さん、なぜ戦争に反対してくれなかったの?」と、母親に食ってかかったことがありましたが、母親は、ないも言わず、うつむいていたそうです。「二度と戦争が起こってはいけない」と、輝子さんは、松葉杖を友に、呼ばれればどこにでも行って、自分の素直な心、赤裸々な体験を語ってくれます。チャンスがありましたら、杉山千佐子さん、安野輝子さんのお話を聞いていただきたいと思います。

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4.戦争孤児となって生きる
(1)石川千恵子さんの場合

私の詩集ができる前に、『大空襲三一〇人詩集』(コールサック社、2009年)が出版されました。ある方のご紹介で、私は、コールサック社代表の鈴木比佐雄さんと出会いました。戦争を体験していない私が、なぜ戦争の詩を書いたのかと言いますと、そこには13歳年上の兄の存在がありました。マサヒロ兄さんとして、私の詩集にも登場しています。兄はアルコール依存症で亡くなりました。私たち家族も、また違うかたちで戦後の苦しい時代を生きてまいりました。兄の人生に関する疑問を家族史という形でまとめた詩を『大空襲三一〇人詩集』に投稿しました。さらに私は、多くの戦争に関する詩を書くことになりました。


講義中の部屋の様子

これから読ませていただく詩は、東京大空襲訴訟団のおひとりで、証人尋問に立たれることになった石川智恵子さんを、夫の原田敬三が証人尋問をするために自宅にお呼びした際、夫から同席を求められた私もお茶を入れながらお話をうかがいました。当時、6歳だった智恵子さんは、1945年3月10日を境に、大きくねじ曲げられた人生を背負いました。大きな不安と孤独と生活苦を抱えた智恵子さんに「戦後」は来てはいませんでした。「これが戦争なのだ!」と思い知らされた私は、どうにもならない思いに駆られて、智恵子さんの人生を詩にしました。

その後、智恵子さんは、亡くなられました。詩を読んでくれた墨田区文花中学校の生徒たちが、「智恵子さん、大変だったんだね」と素直な感想を寄せてくれます。その生徒たちの声を智恵子さんに伝えたかった。60歳を過ぎて、ようやく孤独から解放された智恵子さんの冥福をお祈りしながら朗読いたします。
●朗読 「夕日」(p10‐15)、「子守」(p16‐17)(第1章「独りぽっちの人生(せいかつ) 6歳の智恵子」より)

(2)吉田由美子さんの場合
同じ東京大空襲の経験でも、年齢や環境によって、受けとめ方は大きく違います。石川智恵子さんと同じように証人尋問に立たれた吉田由美子さんは、当時3歳でした。由美子さんは、ずっと人の顔色をうかがって生きてきたそうです。それは、彼女が幼いときに両親を失い、まわりに遠慮しながら生きてきたため、観察力は優れているけれども、表現力が未熟になってしまったのではないか、と私は思いました。そのことを私はご本人に率直に申し上げました。「まわりからなんと言われてもいいじゃない。思ったことを口にしましょうよ。感じたことを言葉にしましょうよ」と。そうした思いから、3歳の由美子さんを詩に書きました。
●朗読 「叔母の背」(第3章「うばわれた魂-3歳の由美子」より p42-43)
●朗読 「伯母の家で」(p44-47)、「声」(p51-52)、「二行の命」(p53-56)(第3章「うばわれた魂 3歳の由美子」より) 朗読を聞

由美子さんは、生まれ育った東京都江東区の小学校に呼ばれてお話をなさったそうです。その経験を通じて話すことの大切さを知った彼女は、さらに、全校生徒と保護者の前でも実体験をお話したそうです。人間って、いくつになっても事実と向き合うことによって成長するのだと、由美子さんを見ていて思いました。

(3)渡辺紘子さんの場合
今日、こちらへお越しいただいている渡辺紘子さんに体験をお話していただく前に、2編の詩を朗読させていただきます。
●朗読 「涼ちゃん!ごめんね」(p106-112)、「沈黙をすて」(p118-121)(第5章「沈黙をすて12歳の紘子」より) 戦争を体験された方もそうでない方も、紘子さんのお話を聞くことで、また新たな戦争への思い、自分の人生への思いというものを振り返ることができるのではないでしょうか。この平和が続けられるようにと祈るとともに、今回、貴重なお時間をいただいたことに感謝いたします。 朗読を聞く

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東京大空襲訴訟原告 渡辺紘子さん5.渡辺紘子さんのお話
終わらない戦後 大空襲の夜

長いあいだ、東京大空襲の経験をお話したことはありませんでした。私の母は、亡くなるまで空襲の話を一切しない人でしたので、私も空襲について親子で話すことをためらっておりました。

私がよかったと思っていることは、東京大空襲訴訟の原告になったのをきっかけに、妹や弟の話をできるようになったことです。まだあどけない妹や弟が死んでいった姿を思うと、原告となって空襲の悲惨さを訴えることができて、ほんとうによかったと思っております。いまだに3月10日になると、赤ん坊の弟を背負っているような気がするんです。父の遺骨はどこにあるかわかりません。寒々とした慰霊堂に置かれた、たくさんの骨壺の中のどれかに父のお骨が入っているのではと思って、3月10日には、慰霊堂に行って手を合わせています。

大空襲の夜、行方不明になった父は、42歳でした。母は38歳、長女の私は小学校6年生、すぐ下の弟がひとつ違い、その下に涼子という妹、さらにその下に生まれたばかりの茂雄という弟がいました。空襲のあった夜、弟と妹と母は1階に、私と父は2階に寝ていました。小学校を卒業して女学校の試験を受けることになっていた私に、父は、「おまえはそそっかしいから、落ち着いて大きな声ではっきり答えなさい」と言い聞かせながら寝ました。

すると、「空襲だ」という父に揺り起こされ、私はすぐに階下へ降りました。体が震えました。外を見ると明るい。上から焼夷弾が振ってきて、地響きがする。2、3軒先に墜ちて、とても怖かった。前から言われていたとおり、弟を私がおんぶして、母が涼子をおんぶして逃げ出しました。父は男ですから、家族と一緒に逃げずに、みんなの家を守るために残りました。

あとから聞いたのですが、空襲の夜、私たちが逃げる支度をして家を出ようというときになって、父が母の手に通帳と印鑑を握らせたそうです。父は自らの死を予感していたのでしょうか。母はそれをズボンの中にしまって、私の手を握って逃げました。

私たちは、東駒形に住んでおりましたが、祖父母が錦糸町に住んでいるので、そこまで逃げようということになりました。でも、錦糸町がどちらなのか、人波で道がふさがれてわからない。火というのは、風を呼ぶ。うわーって火が巻きあがって、火の粉が飛んでくる。熱風で息が苦しくなりました。母が、防火用水の水を私の頭からかぶせたんですが、夢中だったせいか、冷たいとは思いませんでした。水をかぶっていたから火傷もしないですんだのだと思います。

母に手を取られて逃げ惑いながら、小学校の校庭の扉のない防空壕へ逃げ込みました。すでに防空壕はいっぱいでしたが、「子ども連れなので入れてください」と親子4人で無理に入ろうとしました。ちょうど「ここはもう危ないから逃げろ」と、中にいた人たちが逃げ出したため、なんとか入れました。防空壕の奥で息をひそめていましたが、蒸し暑くて、髪の毛が燃えるかと思うくらいでした。母は、外に逃げて行った方が置いていったお位牌を手にして防空壕の入口に並べ、「南妙法蓮華経、南妙法蓮華経、子どもたちを助けてください。南妙法蓮華経、南妙法蓮華経」と一心不乱に大声でお題目を唱えていました。

どのくらい時間が経ったのでしょう、外が静かになったから壕から出て、家に帰ることになりました。母は空襲の火で目をやられてしまっていました。私は母の手を引いて、一面焼野原の町を「東駒形へはどう行ったらいいでしょう」と人に尋ねながら歩きました。すると母が、「この奥にお寺さんがあるだろう、そこにお父ちゃんがいないか、調べてきてくれ」と言う。

私は、そんなところに父がいるわけがないと思ったので、ちょこちょこっと行くと、「お父ちゃんはいないよ、早く家に帰ろうよ」と言いました。私は生きている父を探していたのですが、母は、すでに父が死んで、遺体になっているのではと思っていたのでしょう。ようやく家にたどりついたものの、やはり父はおりませんでした。しばらして、千葉の寒川という漁師町へ移りました。母の弟が兵隊に行ったあとの空家に身を寄せて、父が帰ってくるのを待つことにしたんです。東京大空襲を逃れ、私と母と妹の涼子と生後4ヵ月の弟・茂雄とともに寒川に疎開しました。 渡辺紘子さんのお話を聞く

千葉県寒川市へ疎開 再びB29の爆撃
夕方になると妹が、「お父ちゃん、いつ帰ってくるの?」と母に聞く。母は、もう父は駄目だと思っていたでしょう。私も父はどうしているんだろうと不安に思っていました。寂しくなると、母は海で歌を歌って、「むかし、むかし、そのむかし」という歌を私に教えてくれました。私は、もともとひょうきんな性格なので、妹と手を合わせて踊ったり歌ったりしていました。

7月7日、千葉が空襲されました。またしても夜中、機銃掃射で千葉神社が攻撃されました。寒川の漁師町にも、東京大空襲で町が火の海になったという情報が伝わっていたので、「海の水をかぶっていれば生きていられるから、海岸に逃げろ」と言われて逃げました。私が弟を母が妹をおぶって、おしめと粉ミルクも持って。海岸に逃げたら、あたりがパーッと明るくなったんです。照明弾でしょう。それから機銃掃射が始まりました。

私は、母に手を引っ張られ、荷物を降ろしちゃいけないと思いながら、背中の茂雄のことも考えながらなので、うまく走れない。そのうち、ビッと手に痛みを感じました。てのひらの手首側から指先にかけて弾丸が抜けたようで、血がダラダラ流れている。「痛い! 母ちゃん、痛い!」と騒ぎました。びっくりした母があたりを見渡して、「すみませんこの子がけがをしているので助けてください」と叫ぶと、兵隊さんがすっ飛んで来て、「娘さんに子どもさんをおぶわせて逃げるのは無理だから、置いて逃げなさい」と言う。なんだろうと思って、茂雄を降ろしたら、私の背中で死んでいた。頭に機銃掃射の直撃を受けたのでしょう、泣き声ひとつ上げることなく、ありったけの血を流して、顔も頭もわからなくなっていました。母は、茂雄を砂浜におろし、隣に荷物を置いて逃げました。

けれども、海岸ですから、どこも隠れるところがない。B29は、逃げ惑う私たちを繰り返しダダダダダダダと狙い撃ちした。私は、「お母ちゃん、怖い。死ぬんだったら、おうちに帰ってみんなでいっしょに死のうよ」と泣きました。母の手を握って、走りに走って家に戻ったら、家は燃えていない。家に着くなり、母が背中の涼子をおろしたら、弾丸が腹を貫通し、その顔は真っ白でした。母は、「これから茂雄ちゃんを連れてくるから、涼子ちゃんの手を握って『涼子ちゃん、涼子ちゃん』と声をかけなさい」と言って家を出ました。私はもう自分の右手の痛みはなんともなくなって、涼子の手をしっかり握って、「頑張れ、頑張れ」と声をかけ続けました。

裸足のまま飛び出して行った母が、しばらくして、砂のついた茂雄の遺体を抱えて帰ってきました。どこに置いてきたのか、私はさっぱりわかりませんでしたが、母はすごいなと思いました。茂雄を置いた母が、「涼子、涼子」と呼びかけながら涼子の顔を覗き込むと、もう駄目かと思っていた涼子が、母を見て「ちゃあちゃん、ぽんぽ、痛いよ!」と呻くにように言った。3歳の涼子は、母にそう訴えて、こときれました。2,3日経って、兵隊さんがトラックで妹と弟の遺体を引き取りに来ました。母が泣きながら「この子たちは、下の方に置くとつぶされちゃうから、一番上に乗せてください」と兵隊さんたちにお願いしていたのを私は忘れられません。

弟を背中に感じて生きてきた「戦後」
大空襲で、妹と弟が死んだことは事実ですが、遺骨はありません。どこで燃やされたのか、いまだにわかりません。父の遺骨のありかもわからないけれど、慰霊塔の中に納まっているのではないかと思って、3月10日になるたび、お参りをしてきました。東京大空襲訴訟の原告になったとき、父の戸籍謄本を取り寄せたら、父が源光寺で焼死したことを知りました。家からあまり遠くには逃げられなかったようです。母と私、すぐ下の弟、赤ちゃんの弟、それから妹の4人の子どもを残して、42歳の男盛りだった父が、どんなにか悔しい思いで死んだのかと思います。私だけではなく、大空襲で亡くなった方や怪我をなさった方たちは、どれほど辛い思いを抱えいらしたか。なんとしても、裁判に訴えて聞き取っていただきたい。ですから、原告になってよかったと思いました。

戦争の話をするのは、最初は嫌でしたが、戦争はこんなにも残酷で、一生、死ぬまで忘れることができないということをこれからも訴えていけたらと思います。私の背中には、何十年経っても弟が乗っている。背中が空っぽになったことはありません。弟があどけない顔をして、私の背中にいたことを思い出すと涙が出ます。

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6.参加者の感想より
吉田源司理事

私は、月刊文化情報誌「本の街」に連載している「嗚呼・仁尽」というエッセイ欄で、毎年3月になると、東京大空襲について執筆しております。最新号でも東京大空襲について記しました。私は実兄を戦争で失くしておりますし、実家の一軒おいたお宅は、防空壕に入った一家7人が焼夷弾で全滅しました。

それだけに空襲のお話をうかがうたび、感慨深いものがあります。東京大空襲のような無差別で非人道的な大きな被害は、なんとしても語り継がなければと思います。





講座企画・運営:吉田源司
文責:八幡有美
会場写真撮影:久保和江
HTML制作:和田節子


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