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神田雑学大学 定例講座 平成24年3月23日No.593


講義名 プロレス黄金時代を懐古する

 講師 立石 一夫


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司会・吉田源司理事

1 昭和30年代 立石の思い出

●大相撲

●懐かしの縁日

●商店街の本屋

●小学校の火事

2 昭和のプロレス黄金時代




司会・吉田源司理事

立石一夫さんをNPO法人神田雑学大学の定例講座にお招きするのは、5年前の講座に続いて2回目になります。 実は、千代田区神田にあるNPO法人神田雑学大学を起点に、現在、王子、所沢、小金井、杉並など、いろいろな地域で、 生涯学習を担うべく「雑学大学」が建ちあがっております。 そのうちのひとつ、江戸川雑学大学世話人であった方が、かつて水道橋にある東洋高校の先生をしておられ、 その教え子のおひとりが立石一夫さんです。

 講師 立石 一夫さん 立石さんは、その江戸川雑学大学の講師としても活動され、私は、講師派遣のお手伝いを通じて5年ほど前に知り合いました。 江戸川雑学大学は、10年間にわたり活動していましたが、残念ながらあとを継がれる人がおられず、 廃校になってしまいました。

立石さんが生まれ育った東京都葛飾区立石には、地名の由来となった立石様という神様があります。 立石はいまやB級グルメの街としても有名で、人気の飲み屋や惣菜屋がたくさんあります。 昔は映画館が4つもあったそうです。 今日は、ヒーロー研究家の第一人者を自認される立石さんが愛してやまない映画やプロレスのお話など、 立石にまつわる思い出を語っていただきたいと思います。

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1 昭和30年代 立石の思い出

立石一夫というのはペンネームで、葛飾区立石に生まれ育って65年になります。「一夫」というのは、舟木一夫や長谷川一夫など、有名人にあやかりたいと思って自分でつけました。立石には、昔から仲見世にあるホルモン焼きの店が有名で、飲み屋の本には必ずといってよいほど紹介されています。そのほか、安くて旨い店がたくさんあります。

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●大 相 撲

昭和29年、立石に大相撲巡業がやって来ました。立石駅から徒歩6分のところにある渋江公園へ当時の横綱・東富士や初代若乃花、 そして胸毛で有名な朝潮が来ました。朝潮はのちに横綱になりましたが、当時はまだ関脇になるかならないかでした。 私の父が相撲好きで、切符を手に入れて家族で見に行きました。

当時、東富士は引退間近で、力も落ちていたかと思いますが、朝潮に稽古をつけていました。 朝潮が立派な胸毛を泥だらけにしていたのをよく覚えています。結びの一番は、東富士と若乃花の取り組みでした。 “ガチンコ”だったら若乃花の方が強かったのかもしれないですが、巡業なので、“花を持たせる”ということで、 あっさり東富士に寄り切られました。

渋江公園の前には銭湯があり、取り組みを終えた力士が次々入りに来ていました。 お湯の循環施設が設置されていない頃だったので、あとで聞くところでは、「力士が湯船に入るとお湯があふれてしまう」 と銭湯の経営者が困っていたそうです。現在は、すべての相撲部屋の力士が揃って巡業に行きますが、 当時は相撲人気が非常に高く、立石には高砂一門だけが来ていました。

私が通っていた本田小学校は、立石駅から4分のところにありました。そこへ女子プロレスが巡業に来たこともありました。なぜ学校で女子プロレスをやったのかわからない。友だちと一緒に、大きなテントに上半身をつっこんで中の様子を覗いていたら、係員に「こんなところからダメだ」と中に押し込まれたおかげで、ゆっくり観戦できました。

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●映画館

立石を語るうえで欠かせないのが映画館です。現在ではゼロになりましたが、当時は4つもありました。 私の『立石館で夢を見た』(鶴書院、2010)のタイトルにもなっている立石館は封切館でした。 当時の子どもたちは東映のチャンバラ映画が大好きで、私もよく通ったものです。

日本館では、松竹・大映・日活の3本立てを、封切りから2カ月遅れくらいで上映していました。 たしか子どもは30円、大人が70円だったと思います。金竜座は、新東宝の封切り館で、 「明治天皇と日露大戦争」という映画が大ヒットしていました。 当時は、どの映画館も土日になると大繁盛でした。ミリオン座では、少し遅れて洋画を上映していました。

封切館は、金竜座と立石館の二つでした。立石館では最新の映画を観ることができて、当時のスター、 片岡千恵蔵、市川右太衛門、大友柳太朗、大川橋蔵、中村錦之助(後の萬屋錦之介)もここで観ました。 悪役も充実していて、月形龍之介や山形勲などが、最後に必ず斬られていたものです。

いまはテレビ時代劇が衰退して、悪役も固定されてしまっています。 毒々しい、憎しみが心の底から湧き上がるような悪役はいませんね。子どもだったから余計に思ったのかもしれませんが、 当時の月形龍之介や山形勲は、「ほんとにこいつは斬られて死んだほうがいい」と思ったくらい、 迫真の演技をしていました。

金竜座では宇津井健主演の「スーパー・ジャイアンツ」が上映されました。私はこれが大好きで、何回も通いました。 朝日新聞記者であった川本三郎さんは、駆け出しの頃、映画館の取材で金竜座に来たそうです。 支配人のインタビューによると、「スーパー・ジャイアンツ」を上映中は、観客が押し寄せて入りきらないくらいで、 受け取った入館料をカウンター下に置いた箱に入れ、足で踏んで押さえたという逸話もあったようです。

その後、東宝の封切館になった金竜座では、クレージー・キャッツの無責任シリーズが大ヒットしました。 加山雄三の若大将シリーズなども上映していて、私は中・高生のときに通っていました。 そのあと、大蔵映画、俗にいうピンク映画を上映するようになりました。洋画を上映していたミリオン座も、 次第に日活ポルノを上映するようになりました。

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●懐かしの縁日

立石の縁日は、月に3回、7のつく日に開かれました。父に聞いたところでは、 初めは東京寄りの四ツ木駅にある木下川薬師の縁日を、立石のテキ屋が誘致したんだそうです。 縁日の全盛期は、中川に掛けられた奥戸橋から渋江公園まで、屋台がズラッと並んでいました。 中川の下流は荒川に合流して、東京湾へつながっています。

私は、立石の交番横の空き地にテキ屋が集まって、縁日当日、誰がどこに店を出すかを決める “ショバ割”をやっている様子を見るのが大好きでした。当日、だいたい3時頃から行われるので、 私は、学校が終わるとすっ飛んで行って見ていたものです。自分でも「よくテキ屋にならなかったな」と思うくらい、 テキ屋が好きでした。「男はつらいよ」の中で、寅さんがテキ屋をしていますが、 ショバ割のシーンが一度も出てこないのはとても残念です。

山田洋次監督は、“ショバ割り”を知っていたのかどうか、1作くらい、ショバ割のシーンを見せてほしかったと思います。 くわしい人に聞くと、遠くから来たテキ屋には良い場所をあてがっていたそうです。 寅さんは、暦を売っていましたが、そういったものを売るのは上級で、焼きそばや綿菓子など、 すぐに口に入れるものは格下が扱っていたそうです。私は少し変わった子どもで、 バナナ売りなどには興味がなくて、鉛筆売りに興味津々でした。

当時、トンボや三菱の鉛筆が1本15円くらいでしたが、この鉛筆売りが売っているのは、20本くらいで20〜30円でした。 品質が悪い鉛筆には折れ芯があるものですが、そうではないことを示すために、テキ屋が鉛筆を段ボールに刺して見せる。 しかし、家に帰って使ってみると、すぐ芯が折れてしまうという。半分はインチキというのが、夜店の特徴でした。

あと、固形クリームも覚えています。メンソレータムの箱くらいの大きさの薄い容器に入っていました。 テキ屋が、新品の靴をナイフで傷つけてから固形クリームを塗ってボロ布で拭くと、傷がキレイに見えなくなる。 私は買いませんでしたが、友だちが買いまして、家に帰ってから父親の靴で試したらしいんですが、 きっとテキ屋が持っていたのは、まったく別のものだったんでしょう、当然、父親の靴には傷がそのまま残ってしまい、 えらく怒られたなんていう話もありました。

雑誌の付録売りもいました。雑誌本体もほしいのですが、それ以上に付録に目がくらんで毎月のように雑誌を買っていた子どもが多かったんです。 子どもたちの要望に応えて付録専門の業者が、どこからか何ヶ月か遅れで付録を仕入れて売っていました。

縁日が開かれる日は、雨が降ることが多かったです。途中で急に雨が降り出すと、金魚すくいは大丈夫ですが、 濡れてはいけないものを売っているお店が慌てて商品をしまう様子をおもしろく眺めていました。 テキ屋同士の争いで事件があってから縁日が下火になりました。最後は、屋台が3、4軒しかなくなって、 非常に寂しい思いをしたものです。

仲見世通りと並行したアーケードもあって、昭和30年代の立石の商店街は、かなり斬新だったと思います。 カメラ店、本屋、プラモデル屋、そして食料品店など、昔は、本当にバラエティに富んでいました。 いまも商店街は健在ですが、その8割が食料品を扱っているお店で、おかず横町として人気があります。 昔を知る自分としては、もっとバラエティがあったほうが良いと思いますし、少し楽しみがなくなってしまいました。

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●商店街の本屋

本屋は、仲見世に2軒、アーケード街に1軒ありました。葛飾文庫、泉書店、弘文堂の3軒です。 弘文堂は、浅草に本店がある3軒の中では一番大きな書店でした。泉書店の次男は私の同級生でした。 ここで立ち読みをするとオヤジに追い払われるし、本には厳重に輪ゴムかビニールが掛けてあって、 立ち読みはできないようになっていました。本を買うときには、中を確認してから買える葛飾文庫と弘文堂の2軒で買うことが多かったんですが、 最初から買おうと決めているものは、本の管理が行き届いている泉書店で買ったものです。

一度だけ、弘文堂で本を万引きをしたことがあります。お金がなかったわけじゃなくて、ほんの出来心でした。 セーターの中に一冊入れて、慌てて帰ってきました。もう時効でしょうが、一生忘れられない。 いまや立石はすっかり様変わりしています。かつしかシンフォニーヒルズ・モーツアルトホールという立派な音楽ホールが建ち、 水戸街道にはマンションも建って街の人口は増えています。ところが、立石駅は、特急電車・快速電車が停まりません。 駅周辺の再開発計画もあるんですが、まだ本格化していない状況です。

数年前、駅を高架にするという話があったのですが、地元の商店街がこぞって反対しました。 それで京成電鉄と仲が悪くなってしまい、快速が止まらなくなってしまったといわれています。 通勤に不便な思いをしている人も多いので、なんとかならないかなと思っています。 立石駅の隣の青砥駅では、東京都の計画で、青砥・押上間の高架化が決まっています。 自分が、立石駅のそばで商売をしているとしたら、やはり再開発には反対するだろうとは思いますが、 いまは高架にして快速電車が停まるようになったほうがいいと、思います。

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●小学校の火事

昭和31年9月5日だったと思いますが、私が小学3年生のとき、通っていた本田(ほんでん)小学校が火事になったのも忘れられません。 小学校の横に街道があり、反対側には京成線の線路があります。小学校の前には7〜8軒の家があり、 私の自宅もその中にありました。国会図書館で朝日新聞の縮刷版を確認したところ、火事の原因は放火でした。

当時、小学校5年生の女子が放課後に遊んでいて用務員に叱られたのが面白くなくて、理科室に放火したそうです。 その火事のもらい火で、小学校脇の8軒が焼失ました。私の自宅もトイレ以外は丸焼けでした。 隣家には同級生が住んでいましたが、その母親がパニックで泣き出したのを見て「大人でも泣くんだなあ」 と思った記憶があります。

わが家が火災保険に入っていたかどうか、小学3年生だったのでわかりません。 とにかく、住むところがなくなって、普通ならばアパートを借りたり親戚の家に転がり込んだりすると思うのですが、 なぜか本田小学校の空き教室に家族そろって身を寄せました。よかったのは、遅刻がゼロで、 忘れ物をしてもすぐに取りに帰れたことです。

ただし、プライバシーはなくて、落ち着かなかった。 食事は、火事は学校の責任だということで、給食関係の食堂から天ぷらなんかを届けてくれました。 いま思えば、それほど美味しくなかったのかもしれませんが、母親がふだん作ってくれる食事とは違うので、 なんだか感動しました。

小学6年生のとき、同級生でチームを作って、校舎内を一周してから校庭へ出るという駅伝のようなレースを昼休みにやったんです。 一人の同級生と争って、私が少しリードしていたとき、さらに引き離そうとして階段の途中から飛び降りたら骨折して、 1ヶ月学校を休みました。怪我をした直後は、まさか骨折しているとは思わず、 トクホンを貼れば治るだろうなんて思っていたんですが、すぐに骨接ぎに連れて行かれました。

用務員さんの自転車に乗せられて連れられた記憶があります。1ヶ月で治るだろうといわれたのに、 治るまでに1カ月と1週間かかりました。安静にしていれば1カ月で治るのに、どうしても映画を観たくてウズウズして、 もう2、3日我慢すればいいところ、足を引きずって映画館に行ってしまったせいで、 1週間ほど治るのが遅れてしまったのです。

当時の学校では、たいしたいじめもありませんでした。給食は2日1回で、給食がない日は、 お弁当を持ってくる子もいましたが、たいていは近所のパン屋でパンを買って、 肉屋で買ったコロッケを挟んで食べていました。同級生のつかいっ走りに金をまとめて渡して、 コロッケを20、30個買いに行かせたこともあります。いま思うと悪いことをしたと思いますが、そんな小学生時代でした。

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2 昭和のプロレス黄金時代

立石さんが出版された本 「昭和のプロレス野郎」 本題の「プロレス黄金時代」のお話に入ります。力道山は、大相撲から転向してプロレスラーになりました。 戦前に、今でいう北朝鮮から日本に来て、二所ノ関部屋に入門したのです。彼が相撲をやめた理由は、諸説あります。 病気で相撲を休場した、また、日活映画「怒濤の男」に当時の親方と一緒に出ているんですが、 借金を巡って親方とぶつかったという説もあります。

弟子に良いものを食べさせたくて親方に借金を申し込んだ力道山に対し、 それは浪費だと考えた親方との対立が原因だという説もあります。 あるいは、人種問題説、つまり自分が出世しないのは出身地のためだと考えたという説など。 ただし、やめる直前の成績を見ると、大関に上がるような成績ではなかったので、引退は仕方がなかったなと、私は思います。

角界時代から力道山をかわいがった人に、明治座社長の新田新作という人物がいます。 彼は東富士の後援会長もしていました。相撲を引退した力道山は、本当は角界に戻りたかったのかもしれませんが、 新田新作の土建会社に入りました。収入はありましたが、「もう一花咲かせたい」という鬱憤がたまっていたようで、 飲みに行った先で喧嘩相手を探しては、勝って帰るという日々でした。

ある日、ハロルド坂田(別名トシ東郷)という日系アメリカ人レスラーに出くわして、「ただ者じゃない。骨のあるやつだ」 と喧嘩をふっかけるも負けたそうです。 のちに力道山は、再来日したハロルドと試合をしています。力道山は、彼との出会いでプロレスに注目し、 プロレス界に入った。アメリカに武者修行に出て260試合やって、タッグで2試合、シングルマッチで3試合負けた以外は、 あとはすべて勝ったか引分けだったそうです。そして、協力者を得て日本にプロレスを持ち込んだのです。

昭和29年2月、シャープ兄弟が来日しました。ベン・シャープとマイク・シャープという、実の兄弟です。 正統派レスラーを最初に呼んだことで、プロレスのおもしろさが日本人に広く認知されました。 テレビの普及もプロレス人気に大きく働きました。このときに戦った日本側のレスラーは、木村政彦や遠藤幸吉です。 「木村の前に木村なし、木村のあとに木村なし」といわれた木村政彦は、柔道の全日本選手権で3連覇したほど非常に 強い人だったんですが、少し体が小さかったこともあって力道山には勝てず、プロレスではあまり活躍できませんでした。

タッグマッチでは、木村が負けて力道山が助けにいくというパターンができあがっていました。 プロレスは、嘘とホントを混ぜこぜにしたものだと思います。嫌いな人にとっては100%八百長に見えるようですが、 決してそんなことはない、ガチンコ勝負もあります。セメントマッチなど、本気の試合もあります。

木村が「いつも“やられ役”じゃおもしろくない」と記者に話したのが力道山の耳に入り、 昭和29年に巌流島の決闘という大試合がありました。小学1年生だった私には、なかなか謎に包まれた試合でした。 お互い1回ずつ勝って、3回目はガチンコ勝負という仕組みだったんです。 興業ですから、3回試合をやればそれだけ儲かります。国技館に13,000人もの客を詰め込んで、 それでも入りきれない人が周りを取り囲むなど、大変な騒ぎだったようです。

力道山の急所に木村の足が当たったのをきっかけに、かなり激しい試合になりました。 本当は、1回目は本気でやる試合じゃなかったはずが、切れた力道山が本気になってしまって、 ダウンした木村を何度も攻めて、当時では珍しい流血の大試合になりました。『 木村政彦は力道山をなぜ殺さなかったのか』という本が新潮社から出て、かなり評判になっています。

昭和30年代に有名だったのは、メキシコのオルテガです。当時の新聞記者はねプロレスラーのニックネームをつけるのがうまかったですね。 この頃、東富士がプロレスに参入しました。 木村はすでに力道山とは袂を分かち、力道山は東富士とタッグを組みます。 先に東富士がさんざんやられ、力道山が出てきて対戦相手を叩きのめすというシナリオです。 オルテガにファイトマネー以外に特別にお金を渡して協力を得ていたという説もあります。 そのオルテガは、糖尿病で亡くなったそうです。レスラーの最期というのは哀れなものがあります。

新田新作は、元横綱の東富士を非常にかわいがっていて、プロレスに転向してからも元横綱と元関脇とでは格が違って見劣りがするということもあり、 力道山は東富士に対する嫉妬もあったかと思います。 正統派の試合の後に、ラフファイトを実施したことでプロレスのいろいろな魅力が引き出され、 人気は右肩上がりとなりました。

昭和31年には、“鉄人”をニックネームとする元世界チャンピオンのルー・テーズがアメリカから来日します。 とても強い人で、937戦無敗という記録を持っていました。 最後は反則負けで、相手はレオ・ノメリーニです。力道山がアメリカでの武者修行中に最初に戦ったのも、 レオ・ノメリーニでした。ルー・テーズは、東京と大阪で2回のタイトルマッチを行いました。 両方とも引き分けで、ルー・テーズは防衛してアメリカに帰ってしまいました。 それ以前に、アメリカで対戦したときには、力道山が脳天を打って失神し、フォール負けしたことがありました。 その雪辱戦だったのですが、今回も勝てなかったわけです。

そのほかにも、いろいろなレスラーが来ました。 昭和30年には、キングコングというすごいレスラーがアジア選手権大会に来日しました。 力道山は、決勝でキングコングを破って王者になりました。 タッグ戦では、力道山とハロルド坂田がタッグを組み、相手はキングコングとタイガー・ジョキンダーです。 キングコングは、ハンガリーの選手で、容貌はすごいが実は紳士だった。 ところが力道山の演出は巧妙で、わざと大きなカップで飲み物を飲ませたり、 鶏やジャガイモを豪快に食べさせたりして、この化け物見たさに観客が集まり、会場は超満員になりました。

昭和31年に来日したタム・ライスのあだ名は、赤いサソリです。 興奮すると体が真っ赤になるからです。力道山が3敗したうち1敗の相手がこの人でした。 昭和33年、力道山はアメリカに行ってルー・テーズとタイトルマッチで戦い、 2対1で勝ちました。これでNWA認定の世界チャンピオンを獲ったと思ったら、 外国遠征に出たルー・テーズが負けずに帰ってきたということで、インターナショナルという選手権を作って、 そのヘビー級チャンピオンの称号を力道山にあげました。

 < 「文藝春秋から出ている力道山の最後の試合映像を会場で視聴 >

プロレスが下火になってきたころ、力道山は起死回生を狙って、ワールドリーグ戦を創設しました。 昭和34年に第1回大会が開かれ、第14回まで実施されました。力道山はあちこちで借金しましたが、 第1回大会が大成功だったおかげで完済したそうです。ネーミングがよかった。当初、 力道山は「プロレスオリンピック」にしようとしたのですが、 日本プロレス協会の押山宣伝部長の発案でワールドリーグ戦にしたところ、大ヒットしました。 第1回大会に来日したのが、ミスター・アトミックです。当時、月光仮面がテレビで大ヒットしていましたが、 ミスター・アトミックの赤マスクが月光仮面人気と相乗効果を得て、これまた大人気となりました。

昭和35年、第2回大会に来日したのがレオ・ノメリーニです。 彼は、サンフランシスコ49ersというチームでアメリカンフットボールの選手でタックルが得意だった。 日本人レスラーの中では吉村道明が吹っ飛ばされて肋にヒビが入り、2試合目で欠場。 決勝戦はレオ・ノメリーニ vs. 力道山。力道山が勝ちました。

昭和36年の第3回大会で有名だったのがカール・グッチ。アントニオ猪木の師匠です。 また、ミスターXの正体は、ビル・ミラーという獣医師でした。覆面をかぶる理由は二つありまして、 素顔だと悪いことができないし、思いきり暴れられない。彼の場合、地元でドクターといわれているから、 本名では反則なんてできないんですね。

立石さんが出版された本「立石館で夢を見た」 同じく第3回大会に来日したグレート・アントニオは、木こりでした。 レスリングはあまりできないものの、非常に人気があって、本人も自分の人気でお客が来ると思いあがっていたところ、 ビル・ミラーことミスターXとカール・グッチの二人に、控室で叩きのめされ、 翌日、横浜から貨物船で帰ってしまいます。飛行機で帰ればよかったんでしょうけれど、なぜか船で帰って行きました。お金はもらっていたはずですが、費用を節約したかったんでしょうか。

第4回大会も盛況でした。ビデオにも出ていたグレート東郷は日系2世アメリカ人です。 韓国や中国の血が混ざっていたという説もありますが、当時、日系だと信じられていました。 彼は、トシ東郷(ハロルド坂田)とタッグを組んで、世界チャンピオンになりました。 プロレスには、実の兄弟のほかに営業用の兄弟というのがありまして、グレート東郷とトシ東郷の場合は、 営業用に他人とタッグを組んで兄弟を名乗っていたケースです。

昭和36年から46年のプロレスのことは本にも書きましたので、ぜひお読みください。 ちょうど私の青春時代に重なります。高校2年生になって、自分のお小遣いでプロレスを見に行くことができるようになりました。 やはりテレビで見るのと生で見るのとでは、迫力が違いました。 

力道山は、昭和38年に赤坂で刺されて亡くなりました。直接の死因は不明です。 快方に向かっていたところ、医者に「水分をとってはいけない」といわれていたのにも関わらず、 喉が渇いてサイダーを飲んでしまったのがいけなかったという説もあります。 力道山には2人の息子がいて、長男はリング・アナウンサー、次男はずっとレスラーをしていました。 親よりもひと回り小柄でした。

力道山が死んでから、ジャイアント馬場の全日本プロレスとアントニオ猪木の新日本プロレスに分かれ、 さらに吉原功が国際プロセスを作って、3団体の時代が続きました。今では全部で35団体くらいあるらしい。 昔、渋谷にリキパレスがありました。渋谷は繁華街だったので、父親が一人で行くのに反対したために、 私は行かせてもらえませんでした。高校2年生になって、 力道山が死んでから初めての第6回ワールドリーグ戦を蔵前国技館に観に行きました。 今は後楽園ホールでプロレスの試合を観ることができますが、 テレビ放映がなくなったので目にする機会はめっきり減りました。



講座企画・運営:吉田源司
文責・会場写真撮影:八幡有美
HTML制作:上野治子

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