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2012年 神田雑学大学 定例講座 平成24年4月13日No.596


講義名高田栄一の多彩な道


 講師:高田 詩乃

講師 高田 詩乃



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父・高田栄一

1.父の書斎に見る心の風景

2.ヘビに秘められた夢幻と無限

3.生命の探検

4.豊かな好縁

5.父の美学

6.家族の絆


父・高田栄一は、NPO法人神田雑学大学とのご縁も深く、生前、何回もお話をさせていただきました。 私もヘビ使いとして同行させていただいたことがございます。 父についてこの場でお話をさせていただくことが、父をずっと支えてきた母、兄と弟、そして父を慕ってくださった方々への恩返しになればいいなと思っております。

まず、自己紹介として、私の名前の由来をご説明します。 以前、父が「詩乃という娘」というエッセイの中で、こう述べております。 親が最初に子に贈るプレゼントが“名”である。最高の喜びでもあるし、 将来、何ほどのことをしてやれるであろうかという、親のせめてもの償いでもある。 名前とはそういうものだ。

私の父は、爬虫類研究家である以前から、歌人であり、文学の世界に生きた人でした。 最初、詩人の「詩」に野原の「野」という名前をつけたのですが、「野」の字が重過ぎるということで、 乃木坂の「乃」という字に変えて、「詩乃」という名前が誕生しました。 凛とした美しい雰囲気を感じて、私はとても好きです。この名前にふさわしくなれるようにと思っております。

文学の世界に生きていた父は、いつも優しく私たち兄弟を見てくれていました。 父は「親が子どもに与えられるものなんて、名前と教養くらいではないか」 「教養というのは学歴とかのことではなく、感受性のことだよ」と語っていました。 感受性というのは、もちろん、きれいなモノを見て美しいと思う気持ちや優しい心のことでもあります。 けれども、父の作品や日頃の父を見ていて思うのは、豊かな感受性というのは、 人の心や動物の心を瞬時にとらえるということではないかと思っています。

当時の私たち家族は、祖父と祖母、父と母、兄と弟、それ以外に爬虫類研究所で働く叔父もおりましたし、 多くのスタッフに囲まれた暮らしでした。 絶えることのない撮影や取材の日々で、多くのお客さまがいる環境に生まれ育ちましたが、 そうした中でも、父が私たちの感受性をそれぞれ大切に育ててくれたおかげで、 私たちは家族の絆を強く持つことができたのではないかと思っています。 私たち兄弟は、今でも三人で力を合わせて生きています。

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1.父の書斎に見る心の風景

私が子どもの頃、すでに父は爬虫類研究家として、テレビ・ラジオ・執筆・展示会などで、 日本や海外を飛び回っておりました。華やかで多忙な生活ではありましたが、 テレビで見る父の姿や父の著作よりも、父の書斎に、父の心の風景があったと思っております。

書斎には、父の少年の頃からの思いが、詰まっておりました。 父は、物心ついた頃から、あらゆる生物が好きだったそうです。 そして、虫や蛇を“汚い”とか“気持ち悪い”と思う人間の不毛な感情や偏見や誤解について、嫌な思いを抱いていたようです。 だからこそ父は、自分がそういう生物を守ってあげたいという気持ちを抱いて、あらゆる生物に対して優しさを持ち、 観察すること、密着して生きることを覚えたようです。

父は、子どものときから、犬・猫・兎・蛙・おたまじゃくし・かたつむり・トカゲ・ミミズ・モルモット・蟹・ナメクジなどに 触れ、家の中で飼っていたそうです。それと同時に、父は文学の世界にも非常に傾いておりました。 おそらく、ほかのお子さんとは違った感覚を持ち、孤独感も深かったのだろうと思います。 とても感覚的で人間的な短歌を小学校の頃から書いていたそうです。

書斎には、そんな幼い頃の父の面影が溢れていました。 父は、少年のころの感情やみずみずしい気持ちをずっと忘れずにいた人でした。 いくつになっても、虫の抜け殻を見つけて拾ってきたり、家の中で蛇が脱皮するとその皮を書斎の机に置いたりしていました。 国内外の本、書道の道具、原稿用紙、ペン、消しゴム、そういったすべてが、 書斎の中にあふれていて、私はその空間がとても好きでした。

父は、多くの芸術家や作家・詩人などとの交流がありました。そういう方々からいただくお手紙を見ますと、 豊かな反応をお互いに伝え合っています。それを見るのもまた、私の書斎での楽しみになっていました。 父の仕事は爬虫類の研究でした。ラジオやテレビに出演することで、動物の中でも偏見の対象になりやすい爬虫類について、 その偏見を拭うことを望んでいました。

けれども、テレビやラジオの限られた時間で上手に伝えられなかったり、 共演者の質問で話が中断することもあったりして、偏見を消すことに繋がらなかったという悩みもありました。 父自身たんなる変わった人のようにとらえられたり、逆に父の話に感銘を受けた方がいても、 父が望んだのとは違う意味での爬虫類ブームを引き起こしてしまったりしました。

全国で展示会も行っていました。お子さんがいらっしゃる方はご覧になったこともあるかもしれません。 全国のデパートへ出張しては、爬虫類に対する偏見を払拭する努力をして、海外へ行くこともありました。 とにかく多忙な日々を過ごしておりました。 書斎の中におりますと、そういった父の苦悩を感じることも、 多忙を極める中で動物に密着している時間が少なくなっていった父の寂しさも感じることもありました。

けれども、そうした中でも父は、動物に対する子どもの頃の感覚を、ぶれずに持ち続けていました。ぶれない感覚を持って、 常に書き続けました。さまざまなところから頼まれる原稿を書いておりました。 どんなに忙しくとも、寝る時間がなくとも、書き続けることで、爬虫類と触れ合っていたのです。 それが、書斎から見える父の心の風景です。

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2.ヘビに秘められた夢幻と無限

父は、ヘビ博士として知られています。高田爬虫類研究所をつくる前は、「綺亀喜亀窓」という庵を持っておりました。 綺麗な亀、喜びの亀、窓という名前です。ここで、亀を300匹ほど飼っていました。 石亀や草亀など日本古来の亀のほかにも、ワニやヘビを飼っておりました。 ヘビより先に亀を飼っていたのですが、マスコミの方は、亀とヘビだと、ヘビのほうをクローズアップするんですね。 そうして、ヘビ博士という呼び名が定着していったようです。

父が初めてヘビに合って感動したのは、3歳のときでした。父親に連れられて行った動物園で、ニシキヘビに出合ったそうで、 そのときのことを父は次のように述べています。 動物園の温室で、ニシキヘビと対面したのである。温室というものは、どれもそうであるが、 ガラスの天井から降ってくる薄明かりが下の方に沈んでいて、曖昧とした空気が漂っているものだ。

怪しい、無限の空間なのである。その空間の底に、でかくて鈍い輝きを放った粘っこい塊が幾重にも盛りあがって、 子どもの私の目を占領したのだ。嘘のように巨大な、ヘビではないようなヘビが、目の前に出現したのであった。 この世の中に、こんなことがあってよいのか。もうそれは驚きというより、衝撃である。 体の芯を突き抜けていく、あの、眩暈のようなときめき。

父は、それ以来、何十年ものあいだ、ニシキヘビを飼って、その巨大な胴体の上に寝転びたいと願いながら育ったそうです。 そして、ヘビ博士といわれて爬虫類研究家として世に出るようになってから、ヘビのことをこのように語っております。 自分にとってヘビは、原動力でもあり、救世主でもあり、自分の精神でもあり、美学でもあり、哲学でもあり、祈りでもある。

父は、蛇に対して常に圧倒され、畏怖し、驚嘆し、その生命を確認させられていました、 父は、ヘビがいることによって「自分とはなんなのだろうか」と見つめるきっかけを得て、 「自分自身、もしかしたらヘビであって、ヘビが私なのだ」というところに気持ちが行きついていったそうです。

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3.生命の探検

ヘビ博士と呼ばれるようになった父は、テレビなどを通じて爬虫類のことを伝えることができるようになりました。 ヘビブームのようなものも起きましたが、それほどマスコミの力は大きかったようです。 父のような目立つ人間がいないと世界は広がっていきませんので、全国で展示会を開いたり、 テレビに出たりすることによって、少しずつですが、爬虫類というものがみなさんの心に浸透していったのだと思います。

その父に、ヘビは無限のパワーをもたらしました。 その一つは、父を探検に連れて行ってくれたことです。父は、日本人専門家として初めてコモド島に行きました。 コモド島には、コモドドラゴンという世界一大きなトカゲがいます。 その当時、海外の専門家は何人か上陸していましたが、日本人は全く踏み入れたことがない島で、 コモドドラゴンについても資料がない時代でした。当時、日本から行くのは大変だったようです。

長い間船に揺られてコモド島にようやく上陸すると、原住民が暮らしていたそうです。 その中で、コモドドラゴンを探し、いろいろな仕掛けをして、ようやくコモドドラゴンの映像を捉えることができました。 父と一緒に、音楽家の團伊玖磨さんもコモド島に行かれました。團さんは、爬虫類や動物に大きな関心を持っていました。 息子・紀彦さんが非常にヘビを好きだったということもあり、父とは長くヘビでつながる関係が続いていました。

そのほか、ボアという名前の大蛇とカメレオンの生態をつかむためにマダガスカルにも上陸しました。 ヘビはなかなか人前には出てきません。父はそのときも、ヘビの気持ちになって、ボアがどこにいるのか探したそうです。 肌寒い日だったので、「自分がヘビだったらきっと岩の下に潜るだろう」と考え、岩の下を探ったところ、 ボアが2頭現れたそうです。これを生け捕りにして、生態の研究のために爬虫類研究所に連れ帰り、その後、一緒に暮らしました。

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4.豊かな好縁

ヘビによってもたらされたのは、さまざまな方々との交流です。文京区根津に近い、本郷・弥生町にある自宅には、 多くの方がいらっしゃいました。 團伊玖磨さんは、爬虫類研究所でキングコブラをご覧になりました。いまでは建築家としてご活躍の息子の紀彦さんは、 当時小学校4年生でしたが、世界中のヘビに詳しく、父からヘビやトカゲを贈られて、飼い続けたそうです。

バイオリニストの小林武史さんは、團さんと一緒に演奏旅行に行っておられた縁で、ヘビなどの爬虫類に興味をお持ちになり、 家でも飼っておられたそうです。 動物作家の戸川幸夫さんは、父とマダガスカルに一緒に行かれました。特にイリオモテヤマネコに詳しい方でしたが、 父とは動物を通じたおつきあいが長く続いていました。

上野動物園と多摩動物園、そして最後はズーラシアにいらした増井光子園長は、 昨年、イギリスで乗馬中に落馬して天国に召されました。 増井園長が上野動物園にいらした当時、まだ動物園では爬虫類をあまり扱っていませんでした。 「爬虫類のことを知りたければ、高田先生のところに行くように」といわれて、当時飼育員だった増井園長が、 研究所の父のところへヘビの指南を仰いだのがきっかけで、父が亡くなったときには、 追悼文を寄せてくださいました。

父が増井園長に大きなヘビを見せようとして、ヘビのハウスを開けたとたん、ヘビが父の顔にガブッと噛みつきました。 増井園長は腰が抜けんばかりに驚いたそうですが、父は落ち着いていました。 ヘビは牙が折れたら生きていけませんから、牙が折れないように、上顎と下顎をゆっくり外して、優しく扱ったということです。

畑正憲さんことムツゴロウさんとは、北海道でクマを飼い始める前、お茶の水・山の上ホテルでよく会っていたようです。 父の本に畑さんが登場したり、畑さんの本に父が登場したりということがありました。 父が爬虫類の研究をしているときからの長い知り合いで、「南の島に一緒に行って、動物を飼おう」という話をしていたのに、 父が忙しくなってお会いする機会がなくなっている間に、ムツゴロウさんは北海道に行ってしまったそうです。 ヘビが北海道にすむのは難しいので、父は「北海道は嫌だ」という話になったようです。

ジャズシンガーの小田陽子さんはヘビが好きで、わが家にもいらして、父と対談を何回もしています。 團さんと父と三人で対談をなさった日の写真が残っています。 『狐狸庵閑話』で有名な遠藤周作さんは、父にも会いにいらっしゃいました。 狐狸庵閑話の中にも、“快人物”、怪しい人物ではなくて快い人物として、父が登場しています。 狐狸庵先生はヘビに慄いたようですが、きっとヘビの美しい質感を感じてくださったと思います。

俳優の小沢正一さんは、雑誌の取材でわが家を訪れました。 淡谷のり子さんも、テレビやラジオで共演した関係で、その後、お手紙や写真を送っていただいています。 中村メイコさんと神津善行さんと知り合ったのも、ラジオもしくはテレビのご縁だったと思います。 浜木綿子さんは、息子の香川照之さんがまだお子さんだったころに知り合いました。

父は、椎名誠さんの『新橋烏森口青春篇』という著書の中に、ヘビ専務として登場しています。 父が友人と一緒に起こした会社に椎名さんが入社なさったという経緯があります。 ドラマ化されたときに、父の役を伊東四郎さんが演じたのですが、ヘビをポケットに入れている役で、 その演技指導を父が行いました。

片岡鶴太郎さんと美保純さんは、ぶらり街角を歩く旅の番組で、わが家にいらっしゃいました。 なかにし礼さんも、やはりテレビ番組で、根津界隈を歩く途中、わが家に立ち寄られました。 根津界隈の話題になりますと、わが家に寄ってくださる方が多かったのです。 楠田枝里子さんとも父はテレビでご一緒しました。 水森亜土さんは、父の大学時代の友人の弟さんが亜土さんとご結婚されたというご縁もあります。 歌手であった亜土さんが歌われるとき、ご招待されました。

桐谷逸夫さんはペン画で有名な方で、下町も描いていらっしゃいます。画家の山下清さんとは、 椎名誠さんも働いていた会社で立ち上げた「ストアーズ」という業界紙で、さまざまな特集を設けて、 多くの著名な方にお会いしていた時期にお目にかかりました。 エム・ナマエさんは、盲目の画家です。父の本に挿絵を書いていただいたこともあります。

 熱心に聞き入る聴講生の皆さん こうした方々との交流を、ヘビによってもたらされた「好縁」だと、父は語っておりました。 日本で初めて爬虫類の展示会を行ったのが、父です。銀座松屋で行ったときの写真があります。 大変な人だかりで、父が、ヘビを持ってお子さんたちに話をしている写真です。 当時の雑誌には、ウォータードラゴン(ミズオオトカゲ)を抱いた写真も載っております。 本来は獰猛な彼らも、父にかかれば、とても楽しそうに抱っこされています。 ニシキヘビと写真を撮ったり、さまざまな動物を飼っておりましたので、その動物たちの写真も残っています。

ヘビにも故郷があります。故郷には、そこに生息している動物たちがおります。 父は、ヘビ以外にもさまざまな動物を輸入して、生態の研究をしておりました。 かつてわが家の庭には、たくさんの亀がおりました。亀の背中には番号をふっておりました。 亀の甲羅は成長とともに大きくなるので、消えるたびに書かなければならず、大変な騒ぎだったようです。 南米にはストアナコンダというヘビが有名ですが、父は、その地域に生息している動物たちも研究対象にして、 一緒に暮らしていました。

父は、ボアに顔を近づけるとボアの悲しい気持ちが分かる、と言っていました。 父は動物がとても好きでしたけれども、動物を生け捕りにして自宅に住まわせるというのは、 ふるさとから遠く離してしまうことですから、そのことを忘れないで飼うことが基本だと、いつも申しておりました。 ミズオオトカゲを抱く父の写真もあります。動物が好きな方たちによると、 なかなか、こんなふうに抱っこしたりはできないそうです。 動物に嫌な思いをさせず、お互いに知恵があれば、このように触れることができるのだと、父は言っていました。

先ほどマダガスカルの話に出たカメレオン、そしてイグアナも、父の手からご飯を食べています。 亀も父から手渡しで餌を受け取っています。オオアリクイやマレーバクも飼っていました。 バクは、子どものときにはイノシシのウリ坊のような模様をしていますが、育つと白黒に変わります。 ライオンは、一時預かってくれといわれて預かっていたものです。

このように、父は、ヘビの世界で名を知られたことによって、さまざまな方々の豊かなご縁、 そして自分自身がたくさんの動物と触れ合う機会をもらえたと言っています。 その意味で、ヘビから無限のパワーをもらえたわけです。

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5.父の美学

父は、詩やヘビ以外にも、独特な世界を持っていました。ファッションです。父は、とてもおしゃれな人でした。 着るスーツの色は、緑や茶色というジャングル・カラーでしたし、ネクタイは、 ジャングルに咲く花のような赤や黄色を好んで着ておりました。

かつて「ストアーズ」というデパートの業界紙を作っていた関係で、デパートとのご縁もありました。 紳士服売り場の方も、父が好むような生地がなかなかなくて大変だったようですが、若いころから体型が変わらないので、 いったんスーツを作ると、50年以上も同じスーツを着続けていました。

あるとき、紳士服売り場の方に、新たな提案をしました。ワイシャツの襟に、ヘビとトカゲと亀の刺繍をしてほしいという、 なかなか難しい提案でした。わが家に残っているものを見ると、非常に上手にできています。 見えるか見えないかというおしゃれを楽しんでいました。

父は、食べることにも、とても興味がありました。例えば、ずいぶん昔からオリーブオイルをわが家に持ち込んでおりましたし、 南国で食べられるニガウリも、古くから食卓に並んでおりました。食べるだけではなく料理をすることも、とても好きで、 父のこだわりがあふれていました。私は、そうした点で父と通い合うことが多く、料理の講師もつとめました。

父は、ファッションや食をはじめとする、さまざまな生活スタイルに自分のこだわりを持って、 生きることを楽しんでいたように感じます。そんな父の文学の道、さまざまな人とのご縁、 経営者としての一面は、とても華やかではありましたが、とても険しい道でもありました。 世の中の景気が変わることによって、研究所の景気が傾いた時期もありました。 けれども、そんな中で、私たち家族は常に父の道を支えるという思いで動いてまいりました。

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6.家族の絆

2003年、父は体の不調を訴えて入院しました。大腸が破裂しており、大きな手術が必要でしたが、 無事に私たちのもとへ戻ってきてくれました。その後、何度も入退院を繰り返しながらも、二つの専門学校で講師をつとめ、 取材やテレビ出演など、常に仕事をこなしておりました。私たち兄弟は、大病をしながらも働き続ける父のことが心配で、 それぞれ自分の仕事が休みのときには父を手伝ったり、講演のお供をしたりして、アシストをしてまいりました。

2009年10月、父は病院で亡くなりました。入院中も連載は続けており、ベッドの上でも書き続けていました。 経過が良く、連休明けには退院できるのではないかというお話をお医者さまから頂いていた矢先、 信じられないことに父は天国に旅立ってしまいました。 いつも必ず退院して自宅に戻ってきてくれたのに、このときは、帰って来てくれることはありませんでした。

父は、入退院を繰り返し、私たちは入院中も退院後も父を支えてきました。 父が退院してくれるだけで、私たちの疲れは吹き飛んでしまっていたのですが、 父が戻ってこなかったあのとき以来、私たちの疲れは取れない気がいたします。 あまりにも信じられない出来事に、私たち家族のこころはとても痛みました。 けれども、父が亡くなったあと、さまざま資料や本の整理に追われ、 父のもとを訪れてくださるみなさまにそうしたものをお分けする日々が続きました。

また、取材もあり、母はその対応に追われていました。あるとき、3、4年前でしょうか。 父が私に言った言葉を思い出します。「地球に足跡を残すだなんて大それたことは言わないけれど、 せめて爪跡ぐらい残せたらいいな」と。そう言って、食卓の上に一歩踏み出すトカゲのように爪をおろしたことがありました。 父のこれまでの人生を、ずっと私たちは見てまいりましたし、没後にも父を慕ってきてくださる方々を見ておりますと、 父が生きた道は、爪跡でも、足跡でも、ヘビのようにじっくりと這った跡だったのではないかと感じています。

父が残してくれたものは数多くありますので、父が歩んだ道をいつでも辿れることが、私たちにとっての幸せでございます。 これからも母を守って、父の生きてきた道、生きざまを私たちが守って、伝えていけたらと思っております。

ラットスネーク 今日は、ラットスネークの一種を連れてきました。白化状態です。アルビノの場合は目が真っ赤になりますが、 白化状態の中にはアルビノ以外にもいろいろありまして、この子は目が黒いんです。岩国に祀られている白蛇は、 おそらくアオダイショウの白化した白蛇だと思いますが、アオダイショウの白蛇には、黄色い模様が出ます。 この子は、真っ白です。

なぜ突然変異で白蛇が出たのかは、謎です。人間でも白い皮膚をお持ちの方がいらっしゃるのと同じで、 何らかの突然変異が最初だったと思います。けれども、その後、ブリーダーさんが掛け合わせて白い蛇を作っているという事実があります。 この子はアメリカのラットスネークで、日本に本来生息している種ではありませんから、 ブリーダーさんに作られたものだろうと思います。ネズミを食べる、ネズミヘビの仲間です。

この子は、父が亡くなった翌年の6月に、迷子として渋谷警察署から届きました。 父が亡くなった後、初めて届いた子で、父が帰って来てくれたような気がしました。 それ以来、私が一緒に過ごしております。まだ幼蛇の部類に入ります。来たときはもっと小さかったのですが、 2年たってようやくこのサイズになりました。巳年の巳と書いて「ミーちゃん」と呼んでおります。 嫌なことをしなければ大丈夫ですから、どうぞみなさん触ってみてください。人間同士でも同じですよね。 嫌なことを言われたら、攻撃的にもなります。

ヘビは長生きです。30年以上生きます。いまは、おなかは空いていません。ヘビは、消化がゆっくりです。 先週、ごはんをあげて、いまゆっくり消化しています。そろそろ、また来週あたりにあげようかなというところです。 いま、舌を出していますね。ヘビは、舌で匂いを感じています。先が2本に分かれていますが、これで、 余計に匂いを感知しやすくなるんです。もともと、地中に暮らしていたトカゲがヘビになったので、目はほとんど見えません。 いま、この会場の匂いを一生懸命に嗅いでいます。ヘビの目はとても弱く、匂いで生きていますが、 白化状のヘビは特に目が弱いのです。ヘビは暗いところが好きで、夜行性です。

ラットスネーク 父は子どもの頃、虫やヘビや馬や犬や猫などの動物の瞳の中に自分の姿が写っているのを見て、 動物たちが自分をどう見ているのだろうかと考えていたようです。父は、毒のあるヘビも飼っておりました。 ヘビに咬まれることは死を意味していましたから、わが家には、常に血清がありました。 危険をよく分かったうえで、かわいさを感じていました。

兄と私と弟、私たち兄弟はみんなヘビが好きでした。 兄も弟もヘビがいる暮らし、ほかの動物がいる暮らしがあたりまえでしたので、好きも嫌いもないです。 蠅がいれば生け捕りにして、カメレオンやトカゲにあげていました。

母は、高田家のDNAは持ち合わせておりませんので、正直なところ、そうした動物たちが、あまり得意ではないようです。 けれども不思議なことに、動物は人を見ます。動物たちは、母を好むのですね。複雑な家庭にお嫁に来て、 懸命に父を支えた母の、母性の深さを感じているのでしょう。たんに好き嫌いだけではなく、 人間性を見分けるんだろうと思います。

爬虫類研究所では、暖房費やエサ代が大変でした。展示会を盛んにやっておりましたので、どうにか稼働できました。 動物を扱うには人手が必要です。展示会を開く際も、スタッフを何名かつけなければならないという決まりがありましたので、 仕事としては、非常に大変だったと思います。私が子どものときは盛んに展示会をやっていましたが、 私たちが大人になるにつれて、爬虫類などをインターネットで見ることができるようになって、 珍しいものではなくなって来ました。また、景気が落ち込んでイベントごとが行われなくなったこともあって、 動物は沖縄の施設に送るようにして、東京には置かないようにしてまいりました。

父は、よく自分の腕に蚊がとまると、「見てごらん」と言って、蚊が血を吸ってお腹が膨れていくところを観察していました。 動物は、近寄って見るとどれも懸命に生きていて、とてもかわいいんです。みなさんもぜひ、子どもの頃に戻って、 どこか土のあるところで、しゃがんでみてください。蟻が一生懸命ものを運んだり、蠅が手を擦っていたり、 蚊の口の細さなど、かわいいところを見ていただきたいと思います。

食物連鎖については、幼いころの衝撃的な思い出があります。私は、誰もいない研究所の温室を見に行くのが好きでした。 ヘビのハウスでは、大蛇が食べきれなかった、かわいいヒヨコが鳴いているんです。 この鳴き声が、せつなく感じられるのです。けれども、ヒヨコを取り出してやろうかと思った瞬間、 当時、幼稚園くらいだった私は、自分たち人間が“命”を食べていることに気づかされたんです。 ヒヨコをかわいそうと思うのであれば、朝食でいただいたシラスは、一口でどれほどの数の命だっただろう、と考えたわけです。

ヘビが生きたものを食べることを残酷だというのであれば、人間は、もっと残酷です。 サバンナで暮らすわけでもなく動物に襲われるわけでもないのに、私たち人間は、たくさんの命を食べて生きています。 だからこそ、食べるものに感謝したいと思いましたし、味わうことを大事にしたいと思うんです。 お肉やお魚を食べるとき、それを育てる方、獲る方、屠殺する方々への感謝が必要だということを、 私は幼稚園のときに学びました。

自分の気持ちを相手に押しつけたり、植えつけたりしないということも、生きていくうえで大事なことだと思います。 たとえばゴキブリが出たときに、親が「気持ち悪い」と言ったら、子どもは同じように思います。 気持ち悪いと思っても、大人はそれを口に出さず、子どもがそれをどう受け取るかを大事にすることが、 感受性を育てることだと父は申しておりました。



講座企画・運営:吉田源司
文責・会場写真撮影:八幡有美
HTML制作:上野治子

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