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平成24年4月27日 神田雑学大学定例講座NO598 

「江戸の出版事情」講師:橋口侯之介(誠心堂書店店主・成蹊大学文学部講師)





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画鋲
プロフィール
1.司会者あいさつ
2.和本とは
3.物之本(もののほん〉と草紙(そうし)
4.江戸の出版量
5.活字の導入と木版印刷への回帰
6.本屋の生命線 版木と出版権の確保
7.物之本屋と草紙屋の発達と出版の規制




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橋口侯之介講師
プロフィール

出版社勤務を経て、神田神保町の古書店・誠心堂書店二代目。漢籍や日本史などの硬い本を専門にするが、 大衆本も含めた和本全体が守備範囲。

著書に『和本入門―千年生きる書物の世界』(平凡社ライブラリー、2011年)、『江戸の本屋と本づくり―続和本入門』(平凡社ライブラリー、2011年)、『和本への招待』(角川選書、2011年)など。


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1.司会者あいさつ
千代田図書館で企画を担当しております幸田です。本日は、現在、千代田図書館の展示ウォールで開催中の勉誠出版さんとの連携展示「書物で知る出版文化の歴史―江戸から現代、そして未来―」に関連して開催いたします。みなさまの左後方の展示ケースでは、本日の講師・橋口侯之介さんのご協力で「和本で見る江戸時代の出版」という展示も開催しております。

この講座は、NPO法人神田雑学大学さんと提携して開催しております。この場をお借りしてお世話になりました方々に御礼申し上げます。
展示では江戸時代から現代までの出版史を扱っておりますが、橋口さんには「江戸の出版事情」ということに特化してお話いただきます。
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2.和本とは
ただいまご紹介のありました橋口です。要するに神田の古本屋のおやじです。どうそ気楽に聞いてください。和本を専門に扱って30数年たったものですから、和本には詳しくなりまして、その知識をできるだけいろいろな方に知っていただきたいと本を書きましたところ、思いがけず評判が良く、続編も書くことになって、大変ありがたい展開だったと思っております。今日も和本について、テーマを江戸時代に絞ってお話しいたします。

和本とは、有史以来明治初期まで日本で印刷されたか書かれた版本書物(版本・写本)の総称で、明治10年ごろに確立し、明治20年には切り変わった活版印刷で、紙が洋紙、装丁も洋装本になるまでの書物全体を和本と定義しています。図書館では和古書といういい方をしますし、古典籍といういい方もあるかもしれませんが、和本は本屋が使う用語です。
私たち古本屋の歴史は江戸時代からずっと続いている店も多いのですが、江戸時代の本屋はただ新刊の本を作るだけではなくて、古本も扱ったのです。貸し本もやったり、本に関するあらゆることをやっていたのが江戸時代の本屋です。その人たちの用語が和本だったのです。

この「和本」に対応する言葉は「唐本」といいまして、これも江戸時代からの用語ですが、中国から入ってきた輸入された本をいいます。それに対して内容は中国のものでも、日本で印刷して出版したものは和本であります。ですから漢籍といういい方をした場合、これは中国で執筆した本ですが、中国で印刷され輸入されたものは唐本、日本で出版したものが和本になるのです。

日本で版木を起こした漢籍には訓点が付けられています。これだけで立派な翻訳です。奈良時代から日本人は漢籍をずっと読んできたのですが、訓点をつけるということで難しい漢文も日本人はみな読めたわけです。ですから和本と言ってもおかしくないでしょう。
そういう意味で和本とは非常に幅の広い用語です。

実は中世以前にもいろいろな問題があるのですが、長い時間をかけて日本人の間に「書物観」みたいなものが熟成されて、それが花開いたのが江戸時代です。江戸時代には盛んに商業出版が開始されました。その拡がりを今日はお話したいと思います。
江戸時代も260年ありますからそれを90分で話すことはとても無理なので、今日はいくつかテーマを絞って話したいと思います。
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3.物之本(もののほん〉と草紙(そうし)
日本の書物はこのような三角形の形をしていまして上に行くほど難しい本、下の方に行くほど大衆本と思ってください。今でも学術書からマンガまでたくさん出ていますが、実はこのような構造は、平安時代からもあったのです。平安時代では上の方は仏教書とか経典です。それからお公家さんたちの歴史の本とか日記などがあって上の方の層を形成していました。しかし、源氏物語や枕草子などの物語はこの三角形の下の方だったのです。

三角形の図を指さして話をする講師

それが時代とともに本の数や種類も増えて三角形が大きくなってきます。中世以降になると源氏物語は上の方になってしまいます。つまり古典文学というジャンルが中世にはできるんです。江戸時代はこの三角形はもっと大きくなり、上の方は物之本といわれていたのです。知識を授ける本ということです。

それに対して、この下の大衆世界の本を草紙といっていました。この境界はあいまいできちんと決めるのは難しいように思いますが、実は江戸時代にはくっきりとクラス分けされていたのです。物之本を作る本屋さんと草紙を作る本屋さんは別でした。一部両方作る本屋さんもあったのですが、基本的に上と下という区別がありました。そのことをちょっと頭に入れてお聞きください。
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4.江戸の出版量
下のグラフは、私が作ったものですが、インターネットで『国書総目録』45万点の和本デーグラフタベース「日本古典籍総合目録」から成立年代の明確な10 万点を年代別に集計しグラフにしたものです。始めのうち百点にも満たなかったものが幕末には1000点を超えるようになっています。もちろん年によって増えたり減ったりしていますが、慣らすときれいな右肩上がりの線になるのです。

これを見て「江戸時代は出版が盛んになって出版物も増えて、本も増えて広がった」といって、それでお終いにしてしまうわけにはいかないんです。実はこの間にも質的な変化といいますか、いろいろな展開がなされているのです。その変化の具合をきちんと見て行かなくてはいけないと思っています。そういうことで今日は3つのテーマに絞ってみました。
ひとつは江戸時代の初期に活字印刷が日本に入って来まして、その活字印刷がいったんはかなり普及するのです。しかしながら、その時代は数10年で終わってしまって、またもとの木版印刷に戻ってしまうのです。

江戸時代の大半の印刷物はその木版印刷です。活版から木版に戻ったことは技術的な退化ではなくて、むしろ新しい出版活動を盛りたてる非常に重要な役割を果たしたということを第一のテーマに挙げたいと思います。2番目は、版木があることで、本屋はそれを持つことが本屋の財産になるわけです。版木を作るのはお金もかかりますし校正をしたりいろいろ大変です。その版木を持つということがさまざまな権利になって、進化するのです。ちょっと進化しすぎるところもあるのですけれど、そのことが非常に盛んな日本の出版界を作り上げて行ったということをお話したいと思います。

3番目は、先ほど申し上げた物之本屋さんと草紙屋が江戸時代どのように栄枯盛衰を経て成長したかです。江戸時代は普通本屋というと物之本屋のことだったのです。書林とか書物屋とかいわれました。これに対して草紙屋は、草紙屋あるいは江戸では地本屋といいました。一種の2重構造があったわけです。そのことをお話したいと思います。
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5.活字の導入と木版印刷への回帰
活字印刷で近世は始まりますが活字が導入された一番の原因は秀吉の朝鮮出兵です。朝鮮にわたった者たちが活字の印刷技術を持ってくるのです。実は朝鮮は活字印刷では大先輩でして、グーテンベルグなんかよりはるか昔から活字出版が行われていました。朝鮮は鋳型を作って金属を流し込んで型を作ったり物を作ったりする技術が昔から得意だったのです。そういうこともあり活字も銅活字を作っていました。

古活字版「孔子家語」それを日本でも取り入れ、豊臣秀頼・徳川家康をはじめ、 寺院などからも多くの活字版がつくられます。その堅い本の代表が、今日ミニ展示にある『孔子家語』という儒学の本ですが、その活字版も展示しています。あとでご覧になってください。活字はその朝鮮由来のもののほかにもう一つありまして、切支丹版というものがあります。

そのころ日本に布教に来ていた宣教師たちは「日本人は文字で読むことで物事を理解する能力が優れた民族だ」という判断をして、書物を作ることで布教活動をしようというふうに考えるのです。当時は1600年くらいで、ヨーロッパでは活字印刷がかなり盛んになっていた時期ですから、その技術を持ってきていろいろな本を出版します。最初はラテン語だったのが、だんだん日本語の本を出すようになります。


例えば平家物語を活字を使って出しています。
しかし、秀吉の晩年時代から日本は禁教政策を取りますので、技術そのものは広まらなかったのです。その頃の本も日本中の博物館や図書館にいくつか残っていますが、市場に出回ることはまずありません。数が非常に少なくて今出てきたら、それこそ何億円で取引されてもおかしくないと思います。朝鮮と切支丹と二つの活字が入ってきたところで江戸の出版文化の夜明けが始まるのです。

ここで重要なことは、中世までは三角形の上部を占める物之本は漢文で書かれたものだったのですが、それがこの古活字版の時代に初めてひらがなを使った活字も本になるのです。これは簡単なことではないかとお思いになるかもしれませんが、実はひらがなというのは崩し字のことなのです。ひらがなの文書ではその中で使う漢字も崩さなくてはいけないのです。漢字も草書体にしてひらがなを入れて、それが「仮名混じり文」なのです。

仮名混じり文

それに対して漢文は漢字だけですから、楷書のきっちりとした字を使いますし、それに訓読みをいれるにしてもカタカナを使っているのです。元来カタカナは漢文を読むための補助的な仮名として発達してきました。平仮名は草書体の読みものとして使われるのです。ですからこれを活字にするとなると簡単ではないのです。右に嵯峨本の『伊勢物語』を示しましたが、これも高価な本ですから私の店にはなくて、国会図書館にある本から挿絵を拝借しました。この平仮名の崩し字はみな活字です。我々の活字概念は1文字1活字ですが、この活字は何字かくっついた字が一つの活字で作られています。一行目に「をんな」という字の「をん」がくっついて続けて書かれていますね。

この場合は「をん」という活字を作っているのです。活字の大きさも皆同じではないのです。
漢字の場合はお経の時代から決まりがあって、1文字の大きさは例えば1行に17文字と決まっていますから活字に向いているのです。ですから仮名交じり文では、こういう組み合わせ活字(連綿活字)もたくさん作らなくてはなりませんし、変体仮名の活字も作らなければなりません。たんに50個の母型というわけにはいかなかったのです。それをこの嵯峨本では丁寧に作っています。その基になったのは本阿弥光悦のきれいな書体です。

そうやって非常にきれいな本ができたのです。嵯峨本は当時人気になりまして、作った本はあっというまに売り切れになってしまいます。売切れたらまた活字を組み直さなければ再販できません。昔の仮名交じり文活字版の欠点は、漢字もたくさんありますから、漢字何千字と平仮名も何百字も用意しなければいけません。それが何ページもあるので全体では厖大な活字の数になってしまうのです。当時はまず印刷部数を百部なら百部と決めて、まず1ページを版組し、それを100部刷ったら活字をいったんばらして次のページを組み直す。また100部刷って次のページの版組をするのです。

嵯峨本の場合、何ページ目のこの活字と何ページ目の活字が全く同じ、という分析をなさっている研究者もいて、先ほどのような印刷の過程が分かっています。ですから再版は大変な作業になるのです。最初から500部くらい刷っておけばいいではないかと思いますが、江戸初期では普通100部、多くても200部というのが常識で500部という発想はなかったろうといわれています。

嵯峨本の『伊勢物語』は、慶長13年に初版が出るんですが、その後4年くらいの間に6版から7版くらい活字を組み直して発行していることが分かってきています。それでも足りなくて最後は活字版を版下にして木版で刷り直したのです。木版というのは誰かがきれいに薄い和紙に清書したものを、ひっくり返して板に張り付けて、その黒いところを残して彫っていくわけです。

講義を熱心に聞く受講生

古い本をばらして木に張り付け、それを彫って木版を作る再版法もあったのです。それを普通私たちは「かぶせ彫り」といういい方をしています。みなさんでは区別がつかないだろうと思います。元の本を基に精密に彫るのですから形は全く同じなわけです。そしてそこで一つの発展がみられます。木版にすることで訓点も一緒に彫ることができるようになったのです。というのは活字で組んだ時は、活字ひとつで1cm四方くらいの文字を使うことが多いのですが、その間にこまかなカタカナで訓点を活字で入れていくというのは大変な作業で、さすがにそれはできなかったのです。

ですから古活字版でいろいろな本が出ていますが、ほとんどは訓点がなく、中国の本をそのまま刷っているものが多いのです。しかし、それでは読める人は限られてしまいますので、訓点を入れるということは読者層を広げることに繋がる非常に重要なことだったのです。今まで100人しか読めなかった本が、訓点が入ると300人、500人が読めるようになる。それで出版をするということが商売になるようになるのです。

古活字版は本屋らしく名前入りの本もあることはあるんですが、ほとんどは寺院ですとか、お金持ちの道楽のようなもので、商業出版として出されたものではないですね。そういう本でしたから拡がりがなかったのですが、寛永の時代1630年くらいを境にして、商業出版がどっと増えてきます。その代り活字印刷はパタッと止まってしまいます。というのは木版印刷にして訓点を入れたり、平仮名の本でも複雑な連綿の活字をいくつも用意しないでも、そのまま彫ればいいんですから、むしろ簡単にできて、平仮名本もどんどん出版されるようになりました。

活字活字という技術は、残念ながらそれを取り入れることはできなかったのですが、出版全般を見たときには、活字印刷を捨てることで商業印刷がスタートできたという皮肉な状況になったわけです。ヨーロッパで活字印刷がどんどん発達したのは、ともかくアルファベットの26文字あればいいからです。大文字や記号を入れても100もあったらなんとか本ができてしまうわけですから、活字の方が向いていたのです。

それからもう一つは先ほど申し上げた、一度組んだ活字をばらしてしまうということ、当時は技術がそれ以上なかったのです。近代以降は再度活版印刷に入っていきますけれど、それがうまく行ったのは、一つは紙型をとるという技術が入ってきたからです。実は紙型を持ってきました。活字で組んだら、その上に高温で熱するとドロドロになっている紙の素を流し込むのです。それで急激に冷やすとへこんだ面にきれいに活字が写る。これで保存しておけばいいんです。

印刷屋さんはこの紙型で取っておいて、出版社から再版してくださいといってきたら、これを出してきて、これにまた鉛を流して製版をすればまた印刷ができるわけです。つまり近代以降の活字印刷が発達したのには、ひとつはこういう技術があって、いくらでも再版ができて大量出版に耐えることになり、収益があがることで発達したのです。この技術は江戸時代にはなかったのです。

木版を採用してからは細かい字や再版対応だけでなく、挿絵を入れた本も容易にできるようになりました。江戸時代の商業出版の始まりを象徴するのは、平仮名混じりの楽しい物語、「仮名草紙」です。いろいろ面白い仮名草子を書く人が出てきて、結構ヒットしたのです。ミニ展示の中に『竹斎』という本を入れておきましたのでご覧ください。「竹斎」というのは今でも下手なお医者さんのことをやぶ医者といいますが、やぶ医者のことです。

「竹斉」富山道冶作

この竹斎がでたらめな治療をしながら、京都から名古屋、江戸と転々と旅をする話です。が、非常に面白いので当時ヒットしまして、後にそれをパロディにした本がたくさんできたほどでした。重要なことはそれが書きおろしだったことです。それまでは平仮名本も印刷されるようになっていたのですが、やっぱり『源氏』とか『伊勢』とかの古典だったのです。
しかしながら、仮名草子は書き下ろしですから、その時代の作者が読者が喜ぶようなことを出版社と協力して本を作ったわけで、古典やおとぎ話より面白いのです。そうなりますとたくさんの読者が増えますのでそれで出版文化を拡大していく形になります。そして作られた版木は出版元の貴重な財産として保存され、再版に供されていったのです。
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6.本屋の生命線 版木と出版権の確保
版木の説明をする橋口講師これから江戸時代ももう少し進んだ時代の話です。版木が財産になったという話をしましたが、版木を彫るというのは高い技術力と労働力が必要で、専門の職人が必要です。

出版が盛んになると、そういう職人たちに手当が払われて、職人も増えていくのです。江戸時代1600年代の後半は大工さんの日当は1日銀5文匁と決まっていました。今でいうと10,000円近いでしょう。それが職人の賃金の目安になるのです。ですから彫り師もいい腕なら当然それくらい取ることになります。

それに材料費を加えて銀8文匁が版木の1丁分でした。江戸時代は2ページで一丁といいます。全部で50丁ある本を8文匁ですると全部で400文匁です。銀60文匁が金1両ですから、金7両くらいになるわけです。版木を彫るだけでこれくらいの金額になります。当時1両あれば何カ月も生活できたという時代です。それだけ版木にはコストがかかったのです。ですから本屋さんとしては彫った版木を大事に保管するわけです。

版木というのは何百年でも持つのです。しかし、刷る部数によりますが、4000部から5000部くらい刷りますとさすがに擦り切れて駄目になるといわれています。実はそれは資料がありまして、『都名所図絵』という京都の名所を書いた本があるのですが、これは非常によく売れて、4500刷ったところで版木が擦り切れたので彫り直して改版をしたという記事が残っています。

当時の和本で4000部も売るというのは大変なことでして、普通は1000部売ったら1000部ぶるまいという言葉があって、店のものはみんなに御祝いをふるまったのです。江戸時代の人の本の考え方、特に物之本側の考え方は、「本というのは腐らない」というものです。逆に草紙側は「その年1年間売れればいい」くらいの考え方です。物之本は100年とか200年という単位で物を考えます。200年後にも読める本ということを意識して作ります。

ですから17世紀の初めに作った本が江戸時代の末期になって、まだ同じ版木を使って刷られていた例はいくらでもあります。30部とか50部とか刷ったのだと思います。そういう意味で版木を持っていることにまつわる権利が非常に重要になってきます。実は版木を持っている権利が当時、株になっていたのです。今の証券化するという考えに近いのです。

ですから版木を売ってその株を売ることもできたのです。つまりAという本屋さんが作った本を20年後にはBという本屋に版木が売られ、その本屋も一渡り刷って売ったら次はCの本屋に売る。江戸の本屋から大阪の本屋にわたって次に京都の本屋に行くということがしょっちゅうありました。それくらい版木はよく売買されました。版木を彫るということは相当な初期投資なんですが、しばらくしたら売れますから、本を売る利益と合わせて利益を得る源泉でもあったのです。

東海道名所図絵もうひとつは大きな一つの本を作るのに、ページも絵もたくさんあり、執筆調査などにもお金がかかって大変ですから、一軒の本屋さんだけではなかなか初期投資ができないのです。ですから複数の本屋さんに声をかけて一緒にやりませんかとやるんです。右に揚げた
『東海道名所図絵』という本の奥付けを見ますと、京都の本屋さんが寛政7年に作っているのですが、京都の本屋さんが7軒並んでいます。

東都というのは江戸です。浪花は大阪です。この江戸と大坂の本屋はそれぞれ江戸と大坂の出版代理人というか取次をするのです。京都の7軒はこれを相合版(あいあいはん)というのですが、みんなで初期投資を分担している本屋です。7軒ですからみんなで七分の一お金を出し合い、売り上げも七分の一に相当するものを配当として渡すのです。

実はこんなことって江戸時代しかないんです。明治以降にはまずないです。岩波書店と平凡社が一緒に本を作る話は聞かないでしょう。それは中国でもヨーロッパでもそうです。ということで江戸時代独自の仕組みなんです。この7軒の本屋さんは、ふだんからたぶん親しい関係にあって、なんやかや融通し合ったり関係を結んでいた本屋さんだと思います。

当時、京都には200件くらい本屋がありましたから、そのうちの7軒が組んだのです。田中庄兵衛さんは七分の一の権利を持っているんですが、この人だけが勝手にその権利を別の本屋さんに売ることもできたんです。あるいは大きな本屋さんが3人分をまとめて買って七分の三を自分がもらいたいとやってもよかったのです。

この仕組みは本屋「仲間」という組織がありまして、今でいう組合みたいなものですが、その組合が「この本については今誰と誰とが権利を持っている」ということを帳面につけて原簿として持っているのです。田中庄兵衛さんが権利を売るとそれを買った人が組合に来て、この権利を田中庄兵衛から買いましたと届けると、「仲間」の原簿にその人の名前が書き込まれ、保障されるのです。

これだけ苦労して大事にしている権利を、勝手に他の本屋さんが版木を作ったら損害ですよね。それを重版といいました。私たちはいま、再版と重版の言葉の区別もつけないのですが、江戸時代は重版というのは犯罪でした。つまり海賊版です。そっくり作った場合は重版ですが、類版という言葉もありました。これは一部を真似たとき、あるいは中身は同じなのに題名だけ変えてあるとかいろいろでした。海賊対策は本屋「仲間」にとって非常に重要な役割になっていきます。

本屋「仲間」は元禄になって組織化が進みます。本当の意味での「仲間」というのは、享保年間1720年に幕府が公式に認めるのはその時なのですが、京都と大阪に関しては先行して町奉行が認めるのです。「重版とか類版は犯罪である。もし犯したら町奉行所に訴える」ということです。実際に訴えられた例はそんなにないようですが、そういう一種の脅かしが効くことで、そんなことをすれば自分の首を絞めるという意識が本屋に広がり重版、類版は減ってきます。それが18世紀の出版の形です。そんなことになったので版木の権利はますます進化して変わってきます。それは江戸末期まで続きます。今までの話は主に物之本屋さんたちの世界で起こったことです。
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橋口講師7.物之本屋と草紙屋の発達と出版の規制
一方、草紙屋の仕事ぶりを見てみますと、ここにはあまり規範というものがないのです。俺たちは何をしてもいいというところはあるのですが、草紙屋が物之本屋側の領域を侵すことはしないんです。草紙屋が物之本の海賊版を出したりはさすがにしていません。そういう分をわきまえるというところはちゃんとあったのです。よく本の出版に関して江戸時代は町奉行が干渉してうるさく統制したんではないかと思われがちですが意外と少ないのです。
寛政の改革とか天保の改革の時だけ厳しくなりますけれど、その時代以外はそんなにないんです。

手続き上は物之本を出す時には組合である「仲間」に「今度こういう本を出します」といって原稿を提出するのです。それを受けた役員はそれが重版か類版に当たらないかを調べてOKならば許可を出す。怪しいということになったらその原稿を関係する本屋に配ってこれで問題ないかと聞くのです。そうやって「仲間」でOKが出ると、一応町奉行に届けは出しますが、町奉行はほとんど見もせずに判を押すだけでした。それくらい「仲間」がきちんと機能していたので、もともと町奉行に通らないようなものは自主規制で留めてしまうのです。特に切支丹物は出せませんでした。

切支丹でなくてもオランダの翻訳書は「仲間」がこれは駄目なんじゃないかといったりするので、蘭学の本なんかは出版屋を通さないで、今でいう自主出版の形で出したのです。その場合の版木代は著者が負担するのです。そうやってなんとなく広まります。江戸時代の本屋は新刊を売るだけではありませんで、一度お客さんの手に渡って読まれた古本も売りますから、そういう自主出版の本を古本として買い取ってそれを売ることはできたわけです。そうしているうちにこの本は売れそうだということも分かってきますし、どうやら奉行所も大丈夫だとなると、「これはうちから出版したい」といって「仲間」に申請して出すことも多いのです。

草紙屋の方はこういう体制がありません。奉行所も草紙屋はたいして影響がないと高をくくっていたのです。草紙屋の本の多くは歌舞伎だとか浄瑠璃とか演劇と結びついています。その場合はお芝居側の人たちは町奉行に届けて上演許可を取っているのです。その段階で許可されたものを草紙屋が本にするだけですから、二重に許可する必要はないということで町奉行は全く草紙に関しては干渉しなかったのです。

ところが寛政の改革が1790年代にありました。その前に天明の大飢饉がありまして、日本中が非常に経済的に疲弊するのです。その時代は田沼意次の時代で賄賂が横行して贅沢三昧の政権だったと批判されるのですが、松平定信はその反対で質素、贅沢の禁止でした。その時に草紙も物之本と同じように奉行所に届けろということになるんです。もう一つは寛政異学の禁です。

『仕懸文庫(しかかり文庫)』
朱子学以外の学問を禁じたと学生時代習ったと思いますが、これは少しオーバーに伝わっていて、実際は全ての場所で行われた禁令ではないのです。幕府直営の昌平坂学問所で行う学問は朱子学だけにしなさいというのが寛政異学の禁なのです。ですから当時、出版されている本を見るとそれほどきついものではありません。寛政の改革で本屋に影響があったのが、贅沢禁止と好色本の禁止です。

好色本は今でいう猥褻な本という意味ではないんです。猥雑な本を出してはいけないということは以前からもちろんあるんですが、ここで松平定信が規制した好色本とは洒落本だったのです。洒落本とは持ってきましたがこんなに小さな本です。山東京伝の蔦屋重三郎から出した『仕懸文庫(しかかり文庫)』という本です。右図を見てください。この大きさは普通の本よりも小さいサイズで我々の世界では「小本」というのですがこれは当時のこんにゃくの大きさと同じだったそうです。

講義中の橋口講師それで別名これを「こんにゃく本」というのです。もうひとつ内容が軟らかいという意味も含むのでしょう。寛政の改革でやり玉に挙がった本の一つがこれだったのです。これは発禁処分になりました。当時の発禁処分のやり方は、本屋の店先にある物は回収、版木は没収して焼いてしまう、同時に出版者の財産は半分没収、これを書いた山東京伝は50日間の手鎖でした。手鎖というのは手に手錠みたいなものをはめられるのですが、牢屋に入るのではなく家に帰ってもいいのです。ただ50日間外してはいけない決まりです。まあそんなにきつい刑ではないんです。

これは内容的には吉原の遊郭で遊ぶ時の粋な遊び方をちょっとお話風にして描いたもので登場人物が何人かいて、掛け合いをしながら、「こんなことはしてはいけないとか、こんなことは面白い」という内容です。それが洒落本なんです。これは今は活字で本になっていますから一度読んでみてください。決して猥褻な本ではありません。寛政の改革でこの本が処分されたのは見せしめだったのです。当時、蔦屋重三郎というのは草紙屋のもうけ頭です。他にもいろいろな本を出して、それがみんなヒットしていました。それから絵師も育てました。歌麿、写楽を育てた優れた編集者でもあったのですが、その本屋を罰することで他の本屋への牽制をしたのです。その意味からは明治以降の検閲とは似て非なるものがあります。

先ほど発禁になった本は小本でしたが、それよりも一回り大きい中本というサイズがありこれが草紙屋の出す本の基本の大きさです。一方、物之本屋はきちんとした本を出していますが、中でも比較的大衆的な本は半紙本という小ぶりなものがありますが、それは俳諧とかちょっと軟らかめの堅い本です。物之本の一般サイズは今のB5版くらいですが、半紙本は今のA5版くらいのサイズです。

寛政の頃を境にしまして、それまで鱗形屋とか蔦屋が有力な草紙屋だったのですが、さすがに取り締まりが響いて、蔦屋重三郎も何年か後には死んでしまって、しかも後継ぎがいなかったものですから蔦屋はお終いになってしまうのです。代わって出てきた本屋さんがあります。今までのやり方がだめならこれで、という風にどんどん湧いてくるように出てきます。そのひとつに古くからあった鶴屋紀衛門という本屋さんがあったのですが、中本の大きさの人情本を出します。

人情本というのは今でいうと恋愛小説です。男女の悲恋ものです。最初の口絵に色の入った絵が入って、中は文章です。文字は江戸時代の変体仮名です。これは今の私たちは読めませんが、江戸時代の子供たちは読めたんです。寺子屋がたくさんできまして彼らにこの字を教えたわけです。ですから草紙屋さんが流行った一つの社会的背景は、寺子屋教育の発達があったといえましょう。

寛政の改革以降またもとに戻って規制は緩やかになります。特に文化文政時代は出版が非常に盛んになる時期になります。黄表紙という寛政の少し前から大衆向けでは中心になった、今でいうと大人向きのマンガ本みたいなものがすたれて、それをもう少し通編にした
「合巻」というのができて来るのです。これもミニ展示に出してありますので見てください。

この「合巻」で非常にヒットしたのが『偐紫田舎源氏』です。これも展示してあります。これは柳亭種彦という人が書いたのですが、おそらく万単位で売れたのではないかと思います。この頃、貸本屋の仕組みが整ってきて、草紙屋は貸本屋と組むのです。貸本屋は、新刊ならば本の定価の六分の一、ちょっと古くなった本は十分の一という値段をつけて本を貸すのです。

西暦1800年前後、文化の時代の資料がありますが、江戸中に600軒くらいの貸本屋があったという名簿があります。貸本屋は最低100人、200人のお客を持っていますから、貸本屋に本が売れれば実際に売れた本の冊数の10倍くらいの読者がいたことになります。ですから当時1万部売れたということは今でいう10万部のベストセラーというくらいの意味があります。

ところが出る杭は打たれます。打ったのは天保の改革の水野忠邦です。この時も天候不順で大飢饉に見舞われ、東北地方は冷害で悲惨でした。そうなるとまた改革者が出てきて、贅沢はやめろ質素にやれという時代が繰り返されるのです。そのやり玉に挙がったのがこの人情本の『梅ごよみ』と先ほどの『偐紫田舎源氏』です。下記に挙げた『梅ごよみ』は為永春水という作者です。春水の人情本、種彦の『偐紫田舎源氏』は出版禁止ということになりました。

出版禁止になった本

そうはいいますが、ミニ展示にも置いてあるように、発禁されたといいながらいくらでも古本の市場に出て来るのです。ですから実際の処分はその時は厳しかったかもしれませんが天保の改革も数年で水野忠邦が失脚してしまうので、すぐもとに戻っているのです。出版に対する江戸時代の厳しい時代はこうして終わりました。前の時代に禁止されても、人気のある本はまた彫りなおせばいいのですから、再版本だろうと思われます。

本屋、特に草紙屋の活動はエネルギーに満ちていました。新しいジャンルや作家の発掘などにもどんどん挑戦しています。それに対して物之本屋側は守りに傾きがちでありました。
しかし、物之本屋側も草紙屋のアイデアを取り入れた本を出すようになります。 読本というジャンルは、歴史などを題材にしたエンターテインメント性の高い読み物ですが、これは物之本屋側の出版です。

こうした上からと、下からの熱気が江戸時代の後期には非常に高い出版文化を築き上げたのです。そこに近世日本の特徴があるのではないかと私は思っています。
このように、江戸時代の初めから終わりまで出版は伸びて来るのですが、その伸びも単純に伸びたのではなくて、紆余曲折ががあって伸びて来たということ、それをご理解いただけたでしょうか。

参考文献として私の著書を3つ挙げさせていただきました。こういうことにみなさまがご興味を持ってご覧いただければ幸いです。

参考文献
 橋口侯之介著
  
  『和本入門―千年生きる書物の世界』
  (2005、平凡社、2011年9月「平凡社ライブラリー」再版)

  『続和本入門―江戸の本屋と本づくり』
  (2007、平凡社、2011年10月「平凡社ライブラリー」再版)

  『和本への招待―日本人と書物の歴史』 (2011、 角川選書)





文責・会場写真撮影:臼井良雄
HTML制作:和田節子


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