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平成24年5月11日 神田雑学大学定例講座NO599 
(千代田区民講座)


「父、今日出海の仕事」講師 今 まど子(中央大学名誉教授)




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画鋲
講師紹介(吉田悦花理事長)
父・今日出海の仕事と人生
今日出海の書誌を作成
吉田悦花理事長




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講師紹介(吉田悦花理事長
講師の今まど子さんは、神奈川のご出身で、中央大学名誉教授でいらっしゃいます。まど子さんのお父さまの今日出海さんが、1984年7月30日、80歳で永眠されて、今年で25年になります。日出海さんは、1903年に北海道函館に生まれました。直木賞作家、評論家、コラムニストとして多くの著作をしるされる一方、1968年文化庁初代長官、1972年国際交流基金初代理事長、国立劇場会長、放送番組向上委員会委員長、日本アカデミー賞協会会長をつとめ、モナ・リザの日本初公開やパリの唐招提寺展を実現されるなど、実に多彩なお顔をお持ちでした。

昭和を代表する文人であり、芸術祭の生みの親ともいわれ、勲一等瑞宝章を受勲され、文化功労賞にも選ばれました。きょうは、娘であり、日本の図書館学の第一人者でもあるまど子さんに、「父、今日出海の仕事。」と題して存分に語っていただきたいと思います。

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今 まど子講師父・今日出海の仕事と人生
父は、3人兄弟でした。一番上の明治31年生まれの東光伯父は作家で、『お吟さま』で直木賞をいただきました。天台宗の坊さんで参議院議員にもなり、3足のわらじを履いていたようなもので、とても賑やかな人でした。作家として怖いことも書きましたが、とても優しい人でした。美味しいものを食べに連れて行ってくれるので、私は東光伯父が大好きでした。

2番目は、明治32年生まれの文武伯父です。兄弟の中では一人だけ変わっていて、東京・下馬の郵便局の局長でした。そして3番目が、私の父・日出海です。3兄弟の父で、私の祖父・武平は、日本郵船の船長でした。祖母は「あや」といって、祖父と祖母は弘前出身でした。祖父は外国航路の船長でしたので、とてもきれいな英語を話しましたが、日本語ではズーズー弁でした。

東光伯父と文武伯父は、横浜生まれでした。祖父の仕事の関係で、2、3年で各地を転々として、函館で、明治36年に父が生まれました。その後、家族は横浜に戻り、さらに神戸に転勤します。そこで父は諏訪山小学校に入学しました。中国文学の吉川幸次郎さんと同級生で、「今さん、学校へまいりましょう」と、毎日迎えに来てくださって、一緒に学校へ行っていたそうです。

中学校は、神戸一中に進みました。日本でダンディといえばこの人という白洲次郎さんと同級生でした。白洲さんは、その後、イギリスのケンブリッジに行かれました。父は、祖父が定年退職したのをきっかけに東京に移り、暁星中学校に転校しました。高校は浦和高校(浦高)に進学しました。浦高は入学試験をフランス語で受けることができたので、暁星中学でフランス語を学んだ父は第一期生として入学しました。

ここで、音楽に出合い、チェロを弾くことに夢中になり、室内楽のグループも結成しました。父は、作曲家の諸井三郎さんと親しくなりました。諸井さんは、秩父セメント(現・太平洋セメント)相談役であった諸井虔さんと、広島のエリザベス音楽大学などで教鞭をとられた作曲家の諸井誠さんのお父さまです。演出家・作詞家となった佐野碩さんとは、寮で同じ部屋でした。

父は、いまの東大、東京帝国大学仏文科に入学して、辰野隆先生や鈴木信太郎先生の薫陶を受けました。とてもおもしろい先生方で、わが家に何回も来てくださいました。大学で同級生になったのが、小林秀雄さんです。同級生で最初にお友だちになりました。シャツも黒、ズボンも黒、帽子も黒、真っ黒黒の姿をした小林秀雄さんとは研究室で出会ったそうです。国文科の舟橋聖一さん、英文科の阿部知二さん、そして仏文科の一級下の佐藤正彰さんといった方々とも一生の友だちになります。

大学生のとき、舟橋さんに誘われた父は演劇にはまり、「心座」という劇団の演出部に入って、いろいろな芝居の演出をしました。きょうは、『ハムレット』を上演したときの写真をお持ちしました。薄田研二という役者さん、かっこいいでしょう? 舟橋さんの『源氏物語』、川口松太郎さんの『皇女和宮』などが舞台にかかるときには、必ず父が演出をしました。どれくらい演出したのでしょう。大学時代に演劇にはまって以来、亡くなるまでの一生の仕事として、演出が一つの柱となりました。

もう一つの柱は、翻訳です。大学を出た頃から始めて、主にアンドレ・ジッドを翻訳しました。『田園交響楽』『イザベル・青春』『地の糧』などが、文庫本になっています。プロスペル・メリメなどの翻訳もあります。私は、父の著作目録を作るにあたり、いろいろな分類の仕方がありますが、演劇や翻訳を父の仕事の大きな柱と考え、それぞれ項目として立てました。

さらに父は、映画も撮りました。とにかく、いろいろなことをやりたい人だったんですね。昭和11年、崔承喜(さい・しょうき)という舞踏家を題材にして、「半島の舞姫」(1936、新興キネマ製作)という映画を撮っています。このフィルムは、どうしても見つかりません。たぶん、戦争で焼けてしまったのでしょうね。11年に祖父が亡くなりました。父は、この映画を撮ったのちフランスに行き、半年くらい遊んだそうで、“遊学”といっています。なにが「学」なのかは、わかりませんが。そこで、作家のアンドレ・モロー、画家のルシアン・クートーなどと知り合いになり、これらの縁も一生の宝となりました。

昭和16年11月に、徴用令状が来ました。赤紙は召集令ですが、徴用令は白いんです。これは軍人ではなく、報道班員(レポーター)としての動員でした。「2週間後、芝の増上寺に水筒と夏服を持って集まれ」という指令でした。集合場所へ行くと、大勢の作家・画家・漫画家・神父が集められていたそうです。「なんだろう」と思いながらも、陸軍からの徴用令ですから、従うほかありません。家族はもちろん、父自身も何も知りませんでした。集合した夜に汽車に乗せられ、どこかへ連れて行かれました。いってみれば拉致ですよね。陸軍のやることだから、拉致だなんていえませんけれど。

戦地へ行くには軍刀を持たなければならないと、短刀しか持っていなかった父は、広島で鞘だけ大きくして、また船に乗せられました。実は、刀を直した場所から私たち家族のもとへ、秘密の手紙が来たんです。「ご主人は、広島で刀を直して一泊し、南へ行かれました」と書かれていて、びっくりしました。そこから台湾に行って、さらに南に下ったところで、12月8日の開戦を迎えます。父たちは、フィリピンのマニラに、敵前上陸しました。軍人さんの後から上陸し、現地に映画館や音楽会を開かせたりして、1年後に帰ってきました。写真は、戦地でお風呂に入っているところです。ドラム缶の湯に浸かっている父に、当番兵がついているんですが、戦地にあっても、どこか平和な感じがして好きな写真です。

講義中の部屋の様子

昭和19年に、3番目の娘で、私の妹・榘子(のりこ)が生まれました。父は、娘が生まれたことで、家族で疎開することにしました。私たちが疎開したのは、母の実家の別荘があった逗子でした。当時、横須賀市逗子町だったので、「疎開するのに横須賀市に行くやつがあるか」と父は笑われたそうです。

昭和19年に、父に徴用令状が来ました。戦争に行くのは2度目です。昭和19年のクリスマス、父は、またマニラにいました。着いたとたん、部隊長から「撤退するところに、なぜ来た」と怒鳴られたそうです。びっくりして引き返そうと飛行場に戻ると、父が乗ってきた飛行機は米軍に焼かれてしまって、帰るに帰れない。しかたなく、撤退する軍人たちに付いて山に入りました。当時、私たち家族には父の置かれた状況は何もわかりませんでした。

食べるものもなくて、トカゲや雑草を食べて凌いでいたそうです。一緒に山に入った兵隊さんが、一冊の本を持っていて、夜になると声を出して読むそうです。それが、あまりに下手で、何を読んでいるかわからない。父は演出家ですから、「僕が読んであげましょう」と、声色まで変えて読んだところ、毎晩のように兵隊さんが「読んでくれ」と来るようになったそうです。2、3ページ読むと、お礼に食べ物をくれる。それで父は命がつながって、生き延びることができたといいます。この様子は『山中放浪』(1949 日比谷出版社)という本に書かれています。

半年後、「不時着した飛行機が直ったので、今さん、日本へ帰りなさい」と隊長さんにいわれ、マニラを飛び立って台湾に着きました。山の中から着の身着のままで来たので汚いし、お金も一銭もない。毎日新聞社に友だちがいたのを思い出してお金を借りようとしたんですが、だれだかわからないくらいほど粗末な身なりでした。「貸す金はない。かわりに小説を書いてくれ」といわれて、『サクラサク峠』という小説を書き始ました。

父は、マニラの「サラクサク峠」というところいたそうで、それをもじって、「サクラサク峠」としたそうです。半年も山中にいたのに、よく小説なんか書けましたよね。しばらくして、「飛行機が出るから、日本へ帰りなさい」といわれた。ところが、まだ小説を書き終わっていないから帰れない。それで、他の報道班の方に席を譲ったそうです。その方を乗せた飛行機が日本に向けて飛び立ったら、すぐアメリカ軍に撃ち落とされてしまった。父は、また命拾いしました。

大急ぎで小説をまとめ、次の便で、今度は無事に九州へ帰りました。昭和20年6月のことです。迎えた家族はみんな泣きました。けれども、真っ黒けで、熱帯性のオデキだらけ、痩せこけた汚い人が帰ってきたので驚きました。ちょうどその1週間前に、渋谷の家は焼けてしまいました。本もなにもかも、全部焼けてしまった。私たち家族の命は助かったものの、何もないという状況でした。

その年の暮に、文部省から「新しく芸術課を作るから、来ないか?」とお声がかかりました。父は、それから毎日、文部省に通いました。私たちは、お父さんは毎日家にいるものだと思っていたので、鞄とお弁当を持って出かけて行くんですから、変な感じでした。

翌年の秋、芸術祭を始めました。当時の主税局の責任者・池田隼人から「こんなときに芸術祭だなんて!」と反対され、「こんなときだからこそ、芸術祭をやるんだ」と大喧嘩をして、税金の免除はしてもらえなかったけれども、芸術祭を実現させました。そして、歌舞伎や文楽を上演したら、幕が下りると太夫が倒れたそうです。

近寄ったら、太夫が泣きながら、「まさか、また舞台で三味線を弾いて歌うことができるとは思わなかった」と感激している。それを見た父は「芸術祭をやってよかったと、あんなにも思ったことはない」といっていました。「こんな時期に芸術祭だなんて」と、だいぶいじめられたそうですが、未だに続いていることを考えると、父の判断は正しかったんだなと思います。

その後、父は芸術課長を辞め、作家に戻りました。小説のほか、映画の評論もずいぶん書きました。昭和28年には、小林秀雄さんと二人でヨーロッパ旅行に行きました。終戦後で、とても実りがあったと思います。父と小林さんは、9ヶ月間にわたって9か国を旅行して、一度も喧嘩しなかったそうです。友人と長期間旅行すると、お互いに憎まれ口を叩いたりするものですが、そういうこともなく、最後の最後まで仲良しでした。大学で出会って以来、会わない週はないというくらい頻繁に行き来していました。

1950年に『天皇の帽子』という中編で直木賞を受賞しました。その前年に教育改革が起き、6・3・3・4制になりました。私が高校1年になったときに男女共学になり、これから女も大学に行けるんだとうれしくて、「大学に行くわ!」と叫んでいました。「行きたい」ではなく、「行くわ!」です。ちょうど直木賞をとって懐があたたかくなっていた父が、「今なら月謝を出すから、大学に行け」といってくれました。そこでふと、大学へ行って私は何を勉強するんだろう、と考えました。当時の女子が学ぶのは、たいてい文学でした。けれども、わが家に来られる小林秀雄さん、林房雄さん、永井龍男さんなどを見ていると、とても文学はできそうにありません。

乙女心に悩みを抱えて迷っていた私に母が、慶應義塾大学に図書館のことをアメリカ風に学ぶ学科ができるそうだと教えてくれました。戦争が終わってまだ数年で、アメリカ式といわれても何のことだかわかりませんでしたが、私は「これだ!」とひらめいて、慶應義塾大学を目指して受験勉強を始めました。世の中には意地悪な人がいて、「あなた、落ちたらどうするの?」といわれたりもしました。

神奈川県の女子大も受けようかと思って調べたら、受験科目に理科と数学があるんです。鎌倉で東大生がやる夏期講習に行って数学と化学を勉強しましたが、何もわかりません。慶應の文学部は、理科も数学も必要ないですから、それ一本にして集中して懸命に勉強して、できたばかりの図書館学校(Japan Library School)に合格ました。そこから一生、図書館学をやることになりました。

父は、直木賞をとって以降、いろいろな仕事をしていました。『チョップ先生』などのユーモア小説を書いて、それが映画になったりしました。いろいろな審議委員をしていた関係で、テレビドラマに着目して、「これからは“茶の間ドラマ”が流行するんじゃないか」とテレビ局で意見を出したら、社長に「それなら、あなたが脚本を書いてください」といわれて、「幸福への起伏」(53.11.2~54.1.25、NHK)というドラマを書きました。13回にわたる日本初の連続ドラマだそうです。

1967年か68年ごろ、父は病気で目が見えなくなりました。網膜剥離で、何度手術しても剥がれて、9ヶ月間、入院しました。京都の病院にも行きましたが、とうとう片眼は失明して、本を読むことができなくなりました。長期間入院していたため、足腰も弱ってヨタヨタしていました。そんなところへ電話が来ました。私が電話に出たら、先方が「佐藤です」というので、父に取り次いだら、なんと、電話の主は佐藤栄作総理でした。

講義中の様子、熱心に話を聞く受講生

総理ご自身から電話が来るなんて思いもしませんから、家族みんなで電話に注目しました。「これからできる文化庁の長官になれ」というものでした。ちょうど片眼がダメになってしまったころ、父は文化庁長官になりました。そこでも初代です。芸術課長も初代でした。文部省と書かれた横に父が「文化庁」という看板を下げる姿が新聞に掲載され、父はサングラスをかけていたので、「役人なのに」と、さんざんいわれました。片眼で残っている眼も弱っていたので、父はサングラスをかけて役所に行っていました。

文化庁長官時代には、フランスからモナ・リザを借りてきてモナ・リザ展をやりました。そのときのフランスの文化相のアンドレ・マルローは、父の幼馴染だったので話が通じやすかったんですね。モナ・リザ展は、大行列となり、大きな成功をおさめました。お返しに日本から、鑑真和上像をフランスへ持って行き、これも大成功でした。

鑑真和上像は、木造ではなく、漆と和紙を張り重ねて作っています。鑑真和上像だけでなく、御影堂そのものをフランスに作りました。唐紙を貼って、東山魁夷さんに襖絵を書いてもらって、そのまんなかに鑑真和上を坐しました。すると、御影堂を建てていたフランス人の大工さんたちが、鑑真和上の前を通るときには素通りせず、ベレー帽を脱いでお辞儀をしてから通るんだそうです。尊さがフランス人にもわかるんですね。

父は、役人として働くだけではなく、新聞や雑誌にいろいろな評論を書いていました。晩年は、小説よりもエッセイや評論が多かった。なかでも東京新聞のコラム「放射線」は、17年間も毎週書いていました。私がパリで父に会ったときも仕事をしていました。そういうときも、フランスの事情などの評論を書いて日本に送っていたんだなと、あとになって思いました。

このような文化交流を経て、国際交流基金を設立して理事長になりました。その後、高橋誠一郎先生を継いで、国立劇場の2代目会長になりました。ずっと芝居の演出をしていた父ですから、国立劇場の会長になって亡くなったのは、本望であっただろうと思います。昭和49年には、勲一等瑞宝章をいただき、文化功労章もいただきました。

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今日出海の書誌を作成
お配りしたレジュメに、私が作った父の著作目録を載せてあります。『人物書誌 今日出海』という本をまとめたとき、私の友だちは、「この本、読むところがないじゃん」といいましたが、書誌というのは、著作目録、つまり本のリストのことですから、読むものではないんです。この本は、『人物書誌40』とあるように、日外アソシエーツが刊行した40番目の人物書誌でした。

目次は「図書」「雑誌記事」「新聞記事」「翻訳」「その他(演劇・映画・放送・ラジオ・テレビ)」「参考文献目録」となっています。父の講演や座談会は、とても多くて探しきれませんでしたが、見つかった分をリスト化しました。「参考文献目録」には、父自身について自分で書いているものも多く、自伝・他伝、なかには漫画入りというものも含まれています。それから「年譜」です。書名と人名索引をつけて、著作や記事3,000強を1冊にまとめました。

編纂に使用した二次資料として、国立国会図書館のオンライン目録(NDL-OPAC)を挙げています。みなさん、パソコンで「NDL-OPAC」と入れて検索すると、ご自分が書いたものが出てきます。父の名前で検索すると、非常に多くヒットします。雑誌の記事も出てきます。しかし、全部これで用が足りるわけではないんです。納本図書館である国立国会図書館ができたのは、1948年6月です。

そのため、1950年以降に出版された書籍はだいたい出てきますが、それ以前のものは、収蔵されていないものも多いのです。また、1冊の本になっているものは出てきますが、部分的な解説や序文、短編集に1篇だけ収録されているものなどは、検索してもほとんど出てきません。今日、お集まりの方は、こうした図書館のお話に関心がおありでしょうから、自分の好きなテーマで調べてみるとおもしろいですよ。でも、国会図書館だけで100%出てくるわけではないので、また別の調べ方もしなければならなりません。

雑誌記事の検索は、「NDL-OPC」以外に、国立情報学研究所のデータベース(Ci-Nii)も利用します。国会図書館はアカデミック志向なので、学術雑誌や大学・研究所の紀要が優先的に収蔵されています。父が書いていたのは大衆小説ですから、検索に引っかかってこないため、5分の1くらいしか探せませんでした。たとえば、文藝春秋社の「文藝春秋」は出てきますが、父が小説を書いていた「オール讀物」は出てきません。したがって、国会図書館で検索しても雑誌論文としては出てこない。こうしたデータベースの「癖」について悩みながら、『大宅壮一文庫雑誌記事索引目録 人名編』や『現代日本文芸総覧』も調べました。

新聞に関しては、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞には縮刷版があります。朝日新聞は、創刊時からの冊子の索引があり、データベースもあるので検索が楽になりました。しかし、産経新聞や、父が17年もの間、社会時評を書いていた東京新聞には索引も縮刷版もないんです。わが家には、父が書いた新聞記事の切り抜きがありましたが、同じものが2つあったり、抜けていたり、日付はあっても年がわからなかったり、あてになりません。そこで今度は、国会図書館へ行ってマイクロフィルムを調べて、父の書いた記事を一つひとつ確認せざるを得ませんでした。目が悪い私には苦痛でした。

日本では、こうした二次資料が非常に不備なんです。私が怒り狂ったのは、目次集が何十冊もあることです。父は、女性誌でも文章を書いているに違いないと調べましたら、1ヶ月分の雑誌の目次だけがずっと書いてある。3年分くらいをどんどんめくっていくと、父の名前がありました。1つ書いているなら、2つ3つと書いているものですから、毎日のように国会図書館に通って、さらに何年分も目次集のページをめくりました。「目次集ではなく、なぜ索引を作ってくれないの?」と、何度も胸の中で叫んだものです。せめて、著者名の索引があればいいのに。これは、二次資料の大きな欠陥だと思います。

そうなると、あとは図書館を巡るしかない。もともと司書である私は、10年以上前から、自宅にダンボール箱に残されていた父の書いた本や雑誌を少しずつカード化していました。20~30枚作った時点で、駒場の日本近代文学館に行って、文学館のカードと照合してみたら、すでに膨大な数が収められていて、私のカードは父の著作のごく一部にすぎないことがわかりました。

わが家にある本や雑誌記事をいくらリスト化しても意味はないのです。そこで、日本近代文学館を皮切りに、神奈川県立神奈川近代文学館、早稲田大学の演劇図書館、築地の松竹大谷図書館などを巡って、父の著作を集めました。インターネットで検索できるようになっても、それですべて網羅されているわけではありませんでした。

3年ほど前から、本気で著作目録作成に取り組みました。それは忍耐のいる仕事でした。日外アソシエート社の編集担当の方も、ずいぶんと歩いて検索してくださいました。私は頭が固くなって、固定観念があるんですね。父が台湾で書いた小説は、台湾にしかないと思っていたら、ちゃんと国会図書館にもあった。それを編集の方が見つけてくれました。

『人物書誌 今日出海』の編纂をするなかで、本当にいろいろなことがわかりました。父のこともわかりましたし、二次資料の欠陥もわかりました。私が作成を始めた頃よりも、データベースの収録範囲は広がりましたが、それでも、データベースがすべてではありません。それぞれのデータベースの持つ「癖」もあります。

父が携わったテレビドラマを一生懸命歩き回って探したのに、データベースで引いたら一気に出てきて、がっかりしたこともあります。いろいろな失敗を繰り返しながら、最終的に3,300くらいの著作や記事を集めることができました。掘り出すというのは、実におもしろい仕事です。みなさまもぜひ、お試しください。

索引はできるだけ網羅的であるほうが利用者の役に立つと私は信じているのですが、それには索引を裏付けるオリジナル資料(一次資料)の充実が不可欠です。この仕事を通して、わが国の出版にも、図書館にも、まだ問題があることがわかりました。ともあれ、父には全集がありませんので、この目録が、父の仕事の総まとめになればよいと思っております。

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吉田悦花理事長
今まど子さん、まことにありがとうございます。今日出海さんという人物が、一口ではとうてい語り尽くせない、スケールの大きな方だったということが、人間の器として伝わってまいりました。娘のまど子さんは、お父さまゆずりの行動力と探究心、そしてあたたかさを受け継いでおられるように思います。お父さまの足跡を図書館学という視点で、その著作を通してたんねんに辿るなかで、お父さまの書誌体系をついに1冊にまとめられ、3,300にも上るお仕事を発掘されたということ。実に感動的な物語であり、知的好奇心と示唆に富んだお話でした。




会場:日比谷図書文化館
講座企画・運営:吉田源司
文責・会場写真撮影:八幡有美
HTML制作:和田節子


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