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2012年7月27日 神田雑学大学定例講座NO610 
(千代田区民講座)


「終戦から67年、戦争はまだ終わっていない」1970年代生まれが捉えた過去の戦争、講師:NPO法人ブリッジ・フォー・ピース代表理事、神 直子(じん・なおこ)




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画鋲
講師紹介(吉田悦花理事長)
1.はじめに
2.なぜ戦後生まれの私が戦争に関心を持ったのか
3.ブリッジ・フォー・ピース
4.元日本軍兵士の心の澱




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吉田悦花理事長講師紹介(吉田悦花理事長)
NPO法人神田雑学大学では、毎夏、戦争を語り継ぎ、平和を考えるための講座を開催しております。今年も、きょうの「終戦から67年、戦争はまだ終わっていない」をはじめ、「ドイツ兵が見た『NARASHINO』」「証言映像で辿る戦争の記憶」と、連続して講座を主催いたします。

本日の講師の神直子じんなおこ さんは、1978年大阪生まれ、2000年青山学院大学在学中に雨宮剛現青山学院大学名誉教授の主宰するスタディツアーに参加、フィリピンを訪問しました。その際、いまだ戦争の傷が癒されないたくさんの人々と出会い、「戦争はまだ終わっていない」と実感されました。一般企業に就職したのち、2004年にブリッジ・フォー・ピース を立ち上げ、代表理事をつとめていらっしゃいます。

共著に『私たちが戦後の責任を受けとめる30の視点』(合同出版)、『未来の入会(いりあい)コミュニティ・コモン―市民がつくる地域力拠点 街を元気にする事例』(NPOメディアネットワーク)があります。きょうは、神直子さんに、「1970年代生まれが捉えた過去の戦争」ということで、貴重な証言映像をまじえて語っていただきたいと思います。

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神 直子講師1.はじめに
私は、今年5月に愛知県に引越ました。実家が関東ですから、これまでブリッジ・フォー・ピースの活動をずっと関東で広めてきたのですが、身内の介護もあり愛知県に移動することで、また新しい繋がりを作っているところです。岡崎市に引っ越して、山の上の古民家に住んでいます。標高370mでクーラーいらずのとても涼しい生活をしていたので、今日は久しぶりに大汗をかいて東京に来ましたが、この暑い中、お集まりいただきましてありがとうございます。

もともとNPO法人神田雑学大学は、私がこの活動をはじめた当初に目を留めてくださり、定例講座でお話をさせていただいたというご縁があります。その頃の私は、こうしてみなさまの前でお話をさせていただくことになるとは、まったく思わずに活動していました。みなさまが今日、講座に参加された理由をお聞きしてみたいと思うのですが、おそらく、1970年代生まれの私がなぜ戦争に関心を持つようになったのか、そういう疑問が一番おありになるのではないかと想像しております。

私は、歴史が大嫌いでした。とくに日本史の勉強で年号の暗記がすごく苦手で、なかなか歴史が実感として入ってきませんでした。過去のことについて、私自身がNPO法人を立ち上げ、こうしてライフワークとして活動するようになるとは予想もしていませんでした。私の両親は戦後生まれで、祖父母とも離れて暮らしていましたので、今まで家庭で戦争の話をすることはありませんでした。そんな私が、この活動になぜ夢中になったのかというお話を聞いていただきます。

そして、正面の画面に「元日本軍兵士の心の澱」というタイトルが出ていますが、私たちが足で集めた元日本軍兵士たちの証言ビデオ映像を間にはさみたいと思います。終戦時20歳だった兵士の方々は、2012年現在87歳になります。終戦時25歳だった方はもう92歳になっておられます。その方々が今どんな思いで、あの戦争を振り返っておられるのかをご覧いただきたいと思います。


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2.なぜ戦後生まれの私が戦争に関心を持ったのか

資料を見せながら話を進める神講師私が戦争に関心を持ったのは、小学校時代、おそらく『はだしのゲン』や『アンネの日記』といった本を読んだのがはじめです。関心を持つというよりも、漠然と「戦争は嫌だな」と感じた記憶があります。高校生になった時、同じ年のドイツ人の女の子とお友だちになりました。

仲良くなって話をしている時、「私、ドイツ人だって思われたくない」と突然、彼女が言いだしたんです。私はさっぱり意味がわからないので聞きますと、「昔、ナチスドイツがしたことを思うと恥ずかしくて、ドイツ人だと知られたくない」と言うのです。

私はそれを聞いて、すごくびっくりして、学校で歴史は学んでいたけれども、自分のこととして考えたことがなかったことに気づかされたのです。それから、自分の国の歴史がどんなものなのかを自分なりに知りたいと思うようになりました。大学に入りましたら、たまたま「戦争の傷跡を知る」というテーマでフィリッピンへのツアーを企画している先生がいまして、これに参加して過去の歴史を身近に感じてみようと思って申し込みました。そのツアーは、12年前の2000年に行われ、7人の学生が参加した3週間の旅でした。

涙ながらに神さんに話をするご夫人右の写真は、その時のものです。今でも忘れません、2000年3月2日、この会場くらいの大きさの部屋にフィリッピンの方が集まってくださって、その中にこの写真の女性もいました。
日本の学生7人が、なぜフィリッピンに来て、何を学びたいのかを自己紹介をしながら話す、そんな交流会がありました。この女性は、それまではずっと発言していなかったのですが、突然立ち上がって、私たちに向かって訴え始めたのです。現地語ですし英語もやっとの私たちは、何を言っているかはわからなかったのですが、身振り手振りと流している涙で、なんとなく想像はつきました。

通訳の方を介して聞いた話によると、「1942年、このバーバラ・ダッドさんは、結婚してとても幸せな新婚生活を送っていたが、1943年、日本軍が自分たちの村にやってきた。そしてご主人がスパイ容疑で連行されてしまった。その後戻っても来ない。何があったかわからないし、遺骨もないので、ずっとそのことが心のトゲになって引っかかっていた」と、そういう体験をされた女性だったのです。

そのツアーは2000年でしたから、当時でも戦後53年経っていましたけれど、彼女の話を聞いて、フィリッピンの方の心に日本との戦争が、いまだ深い深い傷として残っているという現実を突きつけられた、そういう瞬間でした。彼女は、戦後一度も日本人と話したことはないと言っていました。自分の村に日本人が来ても避けていた。ただ、日本の大学生が過去の戦争のことを知りたいと日本から来るという話を聞いて参加したそうです。私たちは、その場では返す言葉がありませんでした。なんと答えればいいのか、どうしたらいいのかもわからず黙っていました。ただ、彼女とは住所を交換をして、日本に帰ったらお手紙を書きますと言って別れました。

このことが私の心の中に大きく残りました。そして、その後大学を卒業して、一般の企業に就職しても、フィリッピンで聞いたことが忘れられず、何かできることはないか思い続けていました。ですが、なかなかその答えは見いだせずにいました。そして2003年に偶然、あるお寺の住職さんと話す機会があって、檀家さんから亡くなる寸前に聞いたという話をしてくださいました。その方は元日本兵だった方で、戦時中に自分がしたこと悔んで泣きながら亡くなったというのです。

神 直子講師

その時、私は、フィリッピンのおばあさんの事を思い出し、日本にも戦後60年近くたっても心に大きな傷を負っている人がいるということ感じ、ものすごく大きなショックを受けて、「ああ、戦争はまだ終わっていないんだ」ということを強く感じました。そして私は、その住職さんが聞いたように、いろいろな思いを抱えているだろう元日本兵の方が日本国内にたくさんいらっしゃるのではないかと初めて思うようになったのです。そうした元日本兵の心の傷を、フィリッピンの方々に聞いてもらいたいと考えたのがこの活動を始めたきっかけです。

過去ときちんと向き合うことが、戦争のない未来を作る一歩となる

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3.ブリッジ・フォー・ピース
お配りした「ブリッジ・フォー・ピース」(BFP)のパンフレットをご覧ください。「過去ときちんと向き合うことが、戦争のない未来をつくる一歩になる」という文章があります。

「ブリッジ・フォー・ピース」パンフレットの文章

ここに、日本とフィリッピンの国旗をビデオメッセージでつなぐブリッジ・フォー・ピースのイメージを掲げました。日本兵の方々の思いをメッセージビデオとしてフィリッピンの方々に届けるということから、この活動は具体化しました。

ビデオメッセージ

2004年から始めましたが、最初は大変でした。元日本兵の思いを聞こうと思っても、元日本兵の知り合いはゼロです。誰に話を聞いていいのか、まったくわからない状態でした。友人知人に紹介してと声をかけたのですが、なかなかそういう方には巡り合えませんでした。とくに最初は、フィリッピンに派兵された日本兵の方を探していましたので、巡り合えませんでした。

いろいろな資料やつてをたどって、ようやくこの人に話を聞けるかもしれないと思って、お電話をします。ところが、相手の方には、私が何者なのかわからない。なんでこんなことを知りたいのか、なんでそんなことをするのか、なかなか理解していただけなくて、「家族以外にそんな話は話せない」と電話をガシャンと切られたこともありました。また、お手紙をお送りして、こういう趣旨でお話を聞かせてほしいとお願しましたら、娘さんと思われる方から、
「父は余生を静かにゆったり過ごしているので、戦争のことを思い出させてくれるな」というお返事をいただいたこともありました。

でも、私は何とかフィリッピンの方に伝える生の話を収録したいと思い、あきらめないで何度もお願いして、だんだんですが少しずつ話を聞けるようになりました。ある時、家族以外には話せないからと、かたくなに断っていた方が、あまり私がしつこく電話したので、「いいよ」とおっしゃってお会いすることができました。当時92歳くらいだったと思いますが、玄関の前にネクタイを締めて、その元日本兵の方は待っていてくださったのです。お宅にあげていただくと、お菓子などもたくさん用意して、話もいろいろ聞かせてくださいました。

熱心に講義を聞いている受講生

私が、「最初はあんなに断られていたのに、どうして話を聞かせてくださったんですか?」と聞きますと、「やっぱり誰かに話しておきたい。そんなふうに思った。今日は話せてとてもすっきりした」と言ってくださいました。その方も亡くなってしまったんですが、そういういろいろな出会いから、これまでに130名くらいの元日本軍兵士の方の話を聞いて、その映像をフィリッピンの方たちに届けるという活動をやってきました。

フィリッピンの方の反応はといいますと、まず第一にすごく吃驚されます。「日本は経済大国になって、もう戦争のことなんか忘れてしまっていると思っていた。しかし、ビデオの中の元日本兵の方々には、いろいろな思いがまだあるんですね」とみなさんおっしゃってくださいました。今日は、時間の関係でフィリッピンの方たちの映像はご覧いただけないんですが、インターネットをお使いの方は、ホームページからそれを見ることができますhttp://bridgeforpeace.jp

私は実は、フィリッピンへビデオ映像を届けるのは、一回で終わりにしようと思っていたのですけれど、一度上映会をすると、毎年でもこういう日本兵の方の思いのビデオを見たいと現地の方がおっしゃいまして、続けるようになりました。というのも、フィリッピンには日本から遺骨収集や戦友の弔いということで元兵士の方が来るらしいのですが、現地の方とは心のうちを話すような機会はないのだそうです。ある日本兵の方は、フィリッピンで自分がしたことは自分が一番わかっているから、怖くてフィリッピンの方の前では離せないと言っておられました。

フィリッピンの人もいろいろな思いが強いだけに、日本兵の方に質問をするようなことはためらってしまうと言っておられます。ですから、まず、映像を通して日本兵の方が、当時のことをどう振り返っているのか、それを見ていただくことで、フィリッピンの方にも新しい気づきがあると思って続けています。そして現在は、BFPのミッションをさらに広げて、「過去の戦争を知り、未来のかたちを考えるきっかけをつくる」という目標を掲げ、NPO法人として運営しています。私たちのNPOは、多世代交流の集いが特徴です。下に、去年の忘年会の写真を紹介します。1列目が元日本兵の方々、その右側の赤い服を着た女子と前の男子は大学生です。いろいろな世代の方が集まってくれています。

忘年会の集合写真

最初は、フィリッピンの方に日本兵の声を届けるということで始めた活動だったのですが、フィリッピンだけでなく、日本国内でも上映してほしいという声をいただき、日本でも上映をする活動も広がっています。私たちは、「戦争体験者のメッセージ記録とワークショップ」をキーワードにして活動をしていますが、これまでにワークショップを165回、8000人以上の方を対象にやらせていただいています。また、これは日本国内だけですが、学校教育現場、高校や大学で過去の戦争を日本兵の方々の話を聞くことによって知ってもらうという活動を行っています。

今の子供たちは、60年前には普通に使われていた言葉がわからないんです。例えば「千人針」、あれを見た子供たちは、ただの手ぬぐいだと思うのです。また、「赤子」と書いて「せきし」と読みますが、「赤ちゃんのことですとか?」「少年兵のことですか?」なという答えが返ってきます。「天皇の子供という意味で、戦時中は国民全部が赤子だった」というとみんな驚いて聞いています。また、「徴兵検査というのがありましたが、何歳になされたのでしょうか?」と聞いても答えはばらばらです。子供たちや学生たちには、まずこんなQ&Aをして、事前にいろいろな背景を知ってもらってから映像を見てもらい、そのあとで考えてもらう、そんなワークショップの授業をやっています。

ワークショップの場で、日本兵の方々は、「当時の自分たちは洗脳されていた」という言い方をなさる方が多い、と伝えています。「今は自分の意見をきちんと発信できるんだから、自分の頭で考えて、自分の意見を言いなさい」と証言してくださった方もいます。これから映像を見ていただきますが、これがすべてだとか、これが正しいというのではなくて、「これを踏まえてどのように考えますか?」ということを伝えたいと思っています。戦争がテーマですから、いろんな難しいことがあるんですが、まず、映像を見ていただくのがいいと思います。

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4.元日本軍兵士の心の澱
今日用意した映像は、1年ぐらい前にでき上がったのですが、残念なことに証言をされた半分くらいの方が他界されてしまいました。兵士の方たちは、映像を撮らせていただいたとき、多くの方は、「映像に残してもらえれば、自分が死んでも自分の思いが伝わっていくような気がしてうれしい」とおっしゃいます。

130人以上の兵士の方の取材ビデオがありますが、そういう世代の方々がいなくなってしまったとき、映像を使って何ができるのか、そんな模索もこれから考えて行こうと思っているところです。

証言1(人間性を抹殺することが軍隊教育なんです)ビデオ上映
「日本の軍隊教育は、徹底的ないじめです。何が何でも上官の命令には絶対に従えということです。それを犯したらひどい制裁を与える。一日でも早く入った兵隊、少しでも上の階級の兵隊、これには無抵抗で殴られる。人間性を抹殺することが軍隊教育なんです。人間性を持っていたら戦争に勝てんという教育です。野獣になった方が強い。人間を鬼にする、これが日本の軍隊教育です。

そのために捕虜を柱に縛り付けて、それを殺す訓練をする。ともかく人を一人二人と殺さんことには使いものにならない、というのが日本の軍隊の精神です。略奪、強盗、強姦を奨励してやらせるんです。女性を犯して、その後ぶち殺すんです。なぜか? あとでばれると憲兵に捕まったり、軍法会議にかけられるからです(後略)」
 
証言2(そういう自分があったという事は思い出したくもないし、言いたくもないと)「私自身は、侵略的な行為をやったことはないんです。他国の人々を痛めつけることも、直接手を下したことはない。しかし、私自身が侵略戦争の軍事力の一員だったことは間違いありません。それを認めるということが、自分の青春を否定することになる。青春は美しいものであってほしい。間違った思い出は、軍隊に引きずられてやったことと思いたい。自分の意思ではなくて、だまされたと思いたい。

でも、それをしっかりと認めるところから、これからどうするかという人生があると、そういうふうに思うようになるのに10年かかりました。戦争で人を殺したということ、外国の人を人間にあるまじき扱いをした自分がいたということは思い出したくもないし、言いたくもない、それは、人間としての心が残っているから、そういう思いになるんでしょう。直接殺したり強姦をしていなくても、同じような残虐なことをしたことは事実なんです。

それを家族にも話せなかった。家族の自分への思いを消すことになってしまいますから。話せないまま死んでいく人は結構いると思います。あと一、二年したら自分も死ぬでしょう。こんな話を墓場まで持っていくべきではないと、思いきって恥をかいても話をしようと。悲しいことであっても、恥ずかしいことであっても、若い人に言い残しておかなくてはいけないと思います(後略)」

証言3(私は死ぬまで、こういう事は話さない方がいいなと思っていたんです)「これまで、死ぬまで話さないほうがいいなと思っていたんです。あそこの家のだれそれさんは捕虜を刺したなんて、後ろ指をさされる心配があった。だから家族にも話さない。でも、年をとっていくうちに、誰かに話しておいたほうがいいかなと思うようになってきた。兄貴にはあんなこと言うんじゃねえって怒られましたが、俺の話がみなさんに伝わって、戦争は絶対しちゃいけないということ、これからは平和が一番だということ、それが私の言いたいことなんですと言いましたら、兄貴にもわかってもらえて、気持ちが晴れた気がしました(後略)」

「大正生まれの人間は、自分のことをよう言えんのです。下手です。戦地では、他人に話せないつらい思い出があります。上官の命令のもと、両手を合わせている人を見て見ぬふりをして斬るつらさ、何度も何度も心の中で「すまない」と思った。上官の命令とはいえ、人を殺すのです。

これは、行動をしたものでなければ知ることはできません(後略)」

「亡くなった戦友は、ものが言えません。ものを言わずに死んでいったから。だから、あの戦争を語ることが、残された自分の大きな責任のように感じています」

元日本兵の方々が共通しておっしゃることは、「同じ経験を二度と誰にもしてほしくない」ということでした。私は、そのことを若い世代にもっと伝えてくださいと申し上げるのですが、「戦後世代に言っても、わからないのではないか」と。お孫さんに戦争の話をしたら、「おじいちゃん。そんな化石みたいな話はしないで」とたしなめられたこともあるそうです。

終戦時20才だった元日本兵も、20011年現在、86才、直接話を聞く時間はかぎられています、戦争体験者がいなくなってしまったら語り継ぐのは戦争を知らない「私たち」です。

元日本兵のご自身、戦争の話をするのは、かなり辛いことだと思うのですが、聞く側にも聞く姿勢がないと話が展開しません。しかし、残念ながら若い世代も、おじいちゃん、おばあちゃんから戦争の話を伝え聞いたという話題は、ほとんどないのが現状です。この活動をしているなかで、いろいろな世代との出会いがあるのですが、元日本兵を祖父や父に持つ方々には、自分の祖父や父は、戦地で何をしてきたのかという思いがあって、受け入れたいのだが、つい批判的に見てしまうと述懐する人もあります。しかし私は、それらの行為を追及するつもりはなく、率直にいま、どういう気持ちでいるかを聞かせていただいているのです。戦争というものはこういうものだ、そこへ向かわないように何をしたらよいか、問いかけをしているのです。

戦争は、時に人間を狂わせるから、日本兵が我が家を焼き払ってしまったので、一家で逃げました、いつもいつも空きっ腹でした、食べ物がなかったのです、1944年に、私の夫は、日本兵に捕まって殺されました。遺体は見つかっていません。

。 元日本兵の方々には、話をされたあと、「こんなに戦時中のことを話したのは久しぶりだ。学生時代に戻った気分ですっきりした」と言われる方もいます。戦後世代の若い人が聞きに行ったほうが、話やすいのかも知れません。戦後世代ができることは、できる限りあの戦争を語り継いでいくことだと考えます。戦争体験者がいなくなってしまったら、語り継ぐのは戦争を知らない私たちです。また、被害を受けた国々の方に対して気持ちを表すひとつの方法は、あの戦争のありのままを一般常識として、戦後世代がしっかりと受けとめていくことだと考えています。

そのためにも、学校教育現場において、映像化した「戦争体験者の生の声」を教材にしたワークショップ授業を広めるべく、これからも奮闘してまいりたいと思います。今後とも、ご支援を宜しくお願い申し上げます。




会場:日比谷図書文化館
講座企画・運営:吉田源司
文責:臼井良雄
会場写真撮影:臼井良雄、河野成夫
HTML制作:和田節子


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