現在位置: ホーム(1)講義録一覧(2) >今も論争が続く南京事件の真実は?  

WEBアクセシビリティ対応

ページの先頭です

2012年10月19日 NPO法人神田雑学大学定例講座 No621 


講義名 今も論争が続く南京事件の真実は?


講師 永井  元


(クリックをすれば該当の項へ進みます。
ブラザの「戻る」ボタンで目次に戻ります。)

講師紹介(吉田悦花理事長)

和解

南京事件の事実は確定している

上海事変の拡大

拡大派と不拡大派

事変と戦争

天皇の意思

勅語と全面戦争

南京爆撃

南京への戦争拡大

天皇の攻撃命令

南京突入

南京で起きた多くの事件

強姦と慰安所

毒ガスの使用

占領後の麻薬問題

ハーグ条約

中支那派遣軍の問題

南京事件の期間は

南京の地理的範囲

国際安全区と南京安全区国際委員会

南京の人口は

便衣兵は殺害してよいのか

死者は戦闘で死んだのか

日本政府や国民は知らなかったか

国民政府は知らなかったか

中国共産党は知らなかったか

国際連盟は知らなかったか

東京裁判とパル判事

東京裁判の判決




永井講師と吉田悦花理事長

講師紹介(吉田悦花理事長)

本日、お招きしました永井元さんとは、私はすでに20年のおつきあいで、いつも「ゲンさん」なんて気軽に呼ばせていただいております。 会社経営のかたわら、私生活ではドラマーとして浅草のライブに出演されるなど、趣味人という印象が強いのですけれど、 一方で、日本の戦争に関するさまざまな史料を掘り起こして、真正面からさまざまな問題に取り組み、 その研究成果を惜しみなく、私たちに提供してくださる、そうした活動をライフワークにされています。

講座のタイトルにもありますように、ご存知のように「南京事件」については、今でもさまざまな考え方や意見があります。 永井さんによると、それは、戦後の日本では、国家も私たち自身も自国の歴史にきちんと向かい合うことを避けてきたためだ、ということです。 その結果、戦争の被害者としてのつらい思い出だけが残り、加害者としての記憶は消え去ろうとしているのではないか?と。

では、事実はどうであったのか?  永井さんは、今回の講義に際して、できるだけ正確な資料を多数準備され、「あったなかったという不毛な論争を避けるためにも、 確実な資料を検討して真相に迫ろうと思います」と意気込みを語ってくださいました。 私たち1人ひとりが、日本の歴史に向き合い、そこで起こった事実を重く受け止め 未来に向けて、いったいなにができるのか、なにをすべきなのか。 きょうの講座が、その一歩を踏み出すきっかけになれば、と願っております。では、よろしくお願いいたします。

永井 元講師 ただいまご紹介いただきました永井です。子どもの頃から、「ゲン」と言われてきたので、「ナガイハジメ」でも「ナガイゲン」でもどちらでも結構です。 お配りしたレジュメには、肩書きとして「永井機械株式会社代表取締役」となっています。どんなことをやっている会社かと申しますと、 前のテ−ブルに、サンプルを置いてありますように、お菓子などの紙の箱、その箱を作る機械を作っています。 それでは、さっそく本題に入りたいと思います。






メニューに戻る(M)

●和 解●

黒板に「和解」という文字を書きました。最近の外交問題、特に、中国や韓国とのギクシャクした関係を見ていると、 どうも日本は周辺の国々と和解ができていないのじゃないかという気がします。先の戦争で日本がアジアの国々に迷惑を掛けた件でです。 ドイツやイタリアは和解ができています。じゃあ和解とは何なのだろうか・・・・・そのあたりから考えてみようと思います。 日常生活でも交通事故やケンカがあります。レストランの食中毒、エレベーター事故、 今回の東電の原発事故もあります。そのような時にどのようなステップで和解になるのか?

*調査
まずどんな事件だったのか自ら調査、検証をしますね。原発事故でも東電・政府・国会・民間と4つの事故調査委員会があります。 もちろん、他人の手に委ねることが正確なのかもしれませんが、自らが「どこに問題があって、どこにミスがあったのか」を検証することは大事なことです。 それが第一歩です。

*責任者処罰
問題を起こした責任者が誰なのか? これを明らかにすることも大切です。会社だったら責任者のクビか格下げ、 犯罪なら刑務所・・・・いろいろな処罰が行なわれます。

*謝罪
よく調査をしました。そして責任者を処罰し二度と繰り返しません。大変申し訳ありませんでした。 なんとか許してください・・・・・これが謝罪です。これは迷惑を掛けた相手に対してきちんとなされなければなりません。 これをしないと誠意がないとみなされます。

*償い・賠償
ですからこれだけ迷惑料をお支払いします。誠意を形で示すということです。交通事故の保険、離婚の慰謝料、 原発事故の賠償金・・・・・皆そうですね。 これらのことができて初めて和解へと進むことができるのです。 そして二度とこのようなことを繰り返さないために改善して次の世代に申し送りします、という作業があります。

*祈念施設
記憶を構成に残すため、事実や資料を展示する施設を作ります。靖国神社や原爆ド−ム、たくさんあります。

*教育 次の世代に正しい歴史を伝えるようにきちんと教科書に記載し、教育に生かします。 これらのことが、すべてできた時に初めて和解です。さて、日本はきちんを和解の条件を満たしているでしょうか?  上記のことを一つひとつ考えるとどれもきちんとしていません。戦勝国が、勝手に東京裁判を開いたという人がいますが、 そのとおりです。そのとおりですが、結局は、私たちや国家は自らがなにもしていないということです。

ですから、戦後育ちの人たちは何も知らないで民主主義の中で育ちました。それは素晴らしいことなのですが、 周辺諸国の国々と和解ができていないのだということも知らないで育ったのです。何も知らないという歴史観の中で、 中国や韓国の現在の揉めごとを考えると、どうしてもギクシャクしてしまいます。

何も知らないため、戦後の平和運動や平和教育は「日本は被害者」である、 ということが中心で「原爆を落とされた」「空襲はひどかった」「暮らしが大変だった」、だから二度と戦争はイヤだとということになります。 そこには「日本は加害者だった」という視点が抜けているのです。

前置きが長くなりました。戦後の日本人の間でよく真相が知られていないことのひとつに南京事件があります。 よく事件のことを南京大虐殺といいますが、虐殺だけではなく、多くの忌まわしい事件を含みますので、私は南京事件と呼んでいます。 いまだに南京事件があったのかなかったのか、という論争があります。

メニューに戻る(M)

●南京事件の事実は確定している●

学問的には、南京事件の事実は確定したことです。どんなに確定したことでも、なかったと主張している人が数人いる。 ただそれだけです。しかし、その数人の声が大きくて、本屋さんに本が並ぶので、ついそうなのかなあと思ってしまうのです。 学者でいえば、秦郁彦先生という方、私から見ると、かなり右よりな研究者ですが、約2万人の殺害があったことを認めています。 研究者では一番少ない数字でしょう。

また、旧日本陸軍の将校クラブ、偕行社といいます。今でもあります。皆かなりご高齢なので、たしか資料を靖国神社の資料室に移したと思います。 世間で南京大虐殺と騒ぐので、そこの機関紙「偕行」で、南京事件に関するアンケート調査をしています。会員向けの調査と雑誌連載です。 対象は旧陸軍の将校ですから一番正確ですね。

「証言による南京戦史」という連載は、1984年4月号〜85年2月号まで連載されました。ところが、当初の目的とは逆に、 虐殺の証言がどんどん出てきてしまったのでした。その結果、連載終了翌月の3月号で書くはずだった責任者畝本氏の総括は中止になり、 編集者が代わりに総括を書いています。

*総括的考察・・・・・中国人民には深く詫びるしかない。まことに相すまぬ、むごいことであった・・・・・そして虐殺の人数を3000人〜6000人(畝本氏)、 13000人(板倉由明氏)として機関紙の連載は終了しました。 政府レベルでも、2006年に日中間で歴史共同研究がスタ-トしました。当時の安倍晋三総理と胡錦濤国家主席の合意でスタートしたのです。 日本側の座長は北岡伸一東大教授。中国側座長は歩兵社会科学院近代史研究所長です。研究会は2010年1月31日に共同研究報告書を発表しました。 その日本側論文です。

*日中歴史共同研究・・・・・昭和12年12月10日、日本軍は南京総攻撃を開始し、最初の部隊は12日から城壁を突破して城内に進入した。 翌13日、南京を占領した。・・・・・中支那方面軍は、上海戦以来の不軍紀行為の頻発から、 南京陥落後における城内侵入部隊を想定して「軍紀風紀を特に厳密にし」という厳格な規制策(南京攻略要領)を通達していた。

しかし日本軍による捕虜、敗残兵、便衣兵、市民に対して集団的、個別的な虐殺事件が発生し、強姦、掠奪や放火も頻発した。 日本軍による虐殺行為の犠牲者は、極東国際軍事裁判における判決では20万人以上(松井石根司令官に対する判決文では10万人以上)、 1947年の南京戦犯裁判軍事法廷では30万人以上とされ、中国の見解は後者の判決に依拠している。

一方、日本側の研究では20万人を上限として、4万人、2万人などさまざまな推計がなされている。 犠牲者数に諸説がある背景には「虐殺の定義、対象とする地域・期間・埋葬記録・人口統計など資料に対する検証の相違が存在している。

宣戦布告がなされず「事変」にとどまっていたため、日本側に、俘虜の取り扱いに関する指針や占領後の住民保護を含む軍政計画が欠けており、 また軍紀を取り締まる憲兵の数が少なかった点、食料や物資補給を無視して南京攻略を敢行した結果、略奪行為が生起し、 軍紀弛緩をもたらし不法行為を誘発した点などが指摘されている。

これらを考えると、南京事件があったということは日本国家の正式な見解といって良いでしょう。 国家がきちんと認めたことを公の地位にある人が否定することはおかしいです。 ドイツでは犯罪になります。まあ、友人と一杯飲みながら自説を展開するのは良いでしょうがね!

メニューに戻る(M)

●上海事変の拡大●

次は、南京事件というものは、どのようにして起きてきたのかについてお話します。 実は、南京事件は第二次上海事変が拡大していったものです。 1937年8月9日上海で、日本海軍陸戦隊の大山勇夫中尉が、中国保安隊員に射殺されたことから、 中国軍と日本海軍陸戦隊が衝突しました。当時、上海にいた日本軍は海軍特別陸戦隊が5000人で、これに対して中国軍は5万人以上といわれ、 在留邦人を守るために日本は大量の陸軍を派遣することになりました。その後の経緯を時間を追って整理してみましょう。

*8月12日、国民党中央執行委員会は戦争状態に突入することを秘密決定しました。

*8月13日、朝9時からの閣議では派兵に消極的だった石原作戦部長の意見は抑えられ、内地から2個師団の派兵が決定されました。

*8月13日、夕方、中国軍は、先制攻撃を開始し、中国空軍も第3艦隊旗艦「出雲」や陸戦隊本部を攻撃しました。

*8月14日、消極的だった米内光政海相も「出雲」を攻撃されたことから、 臨時閣議では強硬な意見へと変わり、「不拡大方針」の放棄を主張し、南京占領の提言を始めました。

*8月15日、近衛内閣は政府声明を発表し、杉山陸相の意見で「不拡大方針」はそのままで、「暴戻支那軍」を「膺懲」するという 「南京政府断固膺懲声明」、いわゆる暴支膺懲声明を発表しました。これが上海事変の始まりです。 注:暴戻 ぼうれい、ぼうるい 残酷で人道に外れていること 膺懲 打ち懲らしめること

*8月15日 上海派遣軍が編成され、予備役の松井石根大将を指揮官として、その任務の範囲は、 「海軍と協力して上海付近の敵を掃滅し上海並びにその北方地区の要線を占領し帝国臣民を保護すべし」という限定されたものでした。

*8月17日 日本は閣議で従来からの「不拡大方針」を放棄する事を決定しました。 このようにして第二次上海事変は始まったのです。この時に軍部に追従した近衛首相の様子を批判している外交官がいました。日記を見てみます。

*外交官石射猪太郎 外務省東亜局長の日記から
8月31日 近衛首相の議会草稿を見る。軍部に強いられた案であるに相違ない。支那を膺懲とある。 排日抗日をやめさせるには最後までブッたたかねばならぬとある。彼は日本をどこへ持って行くというのか。アキレはてた非常時首相だ。

彼はダメダ余談になりますが、避難する在南京の日本大使館館員や日本人居留民を保護する中国政府に関する資料があります。 それによると、引き上げる日本人に対して、中国人から危害が加えられないようにと国民政府は特別列車を用意し、 40名の護衛用の憲兵や2人の外交部の係官まで随行させて丁重に扱っています。青島に着くまでの停車駅でも厳重な保護を与えています(注:もし立場が逆で、日本だったら、また、その後の南京での日本軍の暴行を考えると、国民党政府がきちんとした紳士的な政権だったことがわかります)。

*庄司得二「南京日本居留民誌」から
1940年 停車場構内の柵外には黒山のような人集まり、列車をさして何事か語り合いおるもホ−ム内には人影なし。停車すると同時に護衛の憲兵ただちに列車の外側に並列し柵内を警戒しおる巡捕にて二重の警戒線を張り、列車付近に一人として群集を寄せつけず、厳重警戒をしおれり。その後停車のたびごとに注意しおりたるに、いかなる小駅にても同様にて、実に行き届きあれり……

メニューに戻る(M)

●拡大派と不拡大派●

当然ですが、陸軍内部では第二次上海事変を拡大するか拡大しないかと論争が続いていました。 拡大派としては、杉山元陸相、田中新一軍事課長、武藤章作戦課長、永野佐比重支那課長等が中心で、 中国軍の実力を軽視し、断固として一撃を加えれば早く終わる、と主張していました。司令官に任命された松井石根大将は拡大派で、 南京まで戦争を拡大したかったようです。彼は南京まで行くつもりだったので、8月18日の送別会で不満を表明し、参謀本部から注意されています。  

*参謀本部総務部長中島鉄蔵少将から上海派遣軍飯沼守少将への注意 (飯沼守日記から)
作戦命令も勅語も手続きは同様にて、作戦命令も勅語と同様のものにて、これを批判するごときは不謹慎なれば、 よく言うておいてくれそれでも松井はその後も不満を漏らしています。

*参謀本部首脳との会合での発言
国民政府存在する限り解決できず・・・・・蒋介石下野、国民政府没落せざるべからず・・・・・結末をどこにすべきやの議論あるも、 だいたい南京を目標としてこのさい断固として敢行すべし、その方法はだいたい5〜6師団とし、宣戦布告して堂々とやるを可とす・・・・・ 不拡大派は石原莞爾作戦部長が中心で「対ソ連を目標にした軍備拡張のため、中国とはあまり深入りしないほうが良い」と主張していました。

*石原莞爾中将回応答録から
・・・・・然るに責任者の中には満州事変があっさり推移したのと同様、 支那事変も片付け得るという通念をもつものもいました。・・・・・事変がはじまると間もなく傍受電により孔祥肌煕は数千万ドルの武器注文を どしどしやるのを見て、私は益々支那の抵抗、決意の容易ならざるを察知いたしました。即ちこの際、戦争になれば、 私は之は行くところまで行くと考えたので、極力戦争を避けたいと思い、又向こうも避けたい考えであったようです。 さらに今日のようになったのは真に残念であり、又非常なる責任を感ずる次第であります。

*同じく石原莞爾中将回応答録から
今次の上海出兵は海軍が引きずって行ったものといっても差し支えないと思う・・・・・私は上海に絶対に出兵したくなかったが 実は前に海軍と出兵する協定がある・・・・・(1937年7月11日の北支作戦に関する陸海軍協定)

メニューに戻る(M)

●事変と戦争●

このようにして少しずつ第二次上海事変は拡大していくのですが、ここで戦争と事変の説明をします。 日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、皆戦争です。ところが、満州事変、支那事変、上海事変等は、 事変と呼びます。戦争まで大規模にならない小競り合いを事変といい、大本営は作られません。それと大事なことは、 戦争だと戦争に関する国際法規を守らなければなりません。逆にいえば事変だと、国際法に縛られないで何でもできることになるのです。 当然のことですが、、日本軍では戦争とするか事変とするかで相談が行なわれています。結論からいうと事変にしたのですが、 その理由は次のことが考えられます。

・ 簡単に中国軍にを打撃を与えて早く終わると思っていた

・正式に宣戦布告をする大義名分がなかった

・ 石油、鉄をはじめ多くの物資をアメリカから輸入していたため、小競り合いだという名目にしておきたかった

・ ハ−グの陸戦に関する条約を逃れるため
ハーグ条約に関することは陸軍の資料にもあります
* 8月5日の陸軍次官通牒「陸支密第198号 交戦法規の適用に関する件」(原文カナ)
現下の情勢に於いて帝国は対支全面戦争を為しあらざるを以って「陸戦の法規慣例に関する 条約其の他交戦法規に関する諸条約」の具体的事項を悉く適用して行動することは適当なら ず →注:都合が悪いからハ−グ条約を適用しないことにする

メニューに戻る(M)

●天皇の意思●

その時点で、天皇はどのように考えていたのでしょうか? 天皇は青島にも不穏な動きがあることから、 戦線を拡大しないで、上海、青島を重点的に打撃を与えて早く終わらせたかったようです。

*天皇の「御下問」 8月18日 軍令部総長、参謀総長(閑院宮)宛て(原文カナ) 戦局漸次拡大し上海の事態も重大となれるが青島も不穏の形勢に在る由 斯くの如くにして諸方に兵を用ふとも戦局は永引くのみなり  重点に兵を集め大打撃を加えたる上にて我の公明なる態度を以て和平に導き速に時局を収拾するの方策なきや  即ち支那をして反省せしむるの方途なきや

メニューに戻る(M)

●勅語と全面戦争●

宣戦布告はしないが、一応それに変わる勅語を出すことが、8月25日の首相・陸相・海相・外相の4相会議でが決定され、9月4日、 第72臨時議会開院式勅語で「中華民国の反省を促す」戦争目的が発表されました。事変でありながら全面戦争であると公言したのです。

*9月4日の杉山陸軍大臣訓示(現代文に要約)
・・・・・今回の事変はその原因は南京政府の従来からの国策から生じたものである。 すなわち抗日排日がこのところ顕著になりそれに容共政策が加わって激成したものである。 これは過去我が帝国が経験したこととは全く異なるものである。 すでに全面戦争に移行したことを深く覚悟しなければならない・・・・・

メニューに戻る(M)

●南京爆撃●

陸軍の動きを話しましたが、その時海軍ではどうしていたのか。海軍では1937年8月15日、在南京の日本人たちが 避難してから数時間後日本海軍の大爆撃が始まりました。海軍木更津航空隊所属で前年に完成した世界的な新鋭機96式陸上攻撃機20機が、 長崎の大村基地から約600キロを4時間で飛んで渡洋爆撃をしたのです。海軍省では「世界航空戦史上未曾有の 大空襲」を宣伝しましたが、この空襲は国際法違反でした。

*開戦に関する条約1907年ハ−グで締結 日本は1912年に批准
締約国は、理由を付したる開戦宣言の形式または条件つき開戦宣言をふくむ最後通牒の形式を有する明瞭かつ事前の通告なくして、 その相互間に、戦争を開始すべからざること

*陸戦の法規慣例に関する条約1907年ハ−グで締結  日本は1912年に批准 _
防守せざる都市、村落、住宅または建物はいかなる手段によるも、これを攻撃または砲撃することを得ず当然ながら違法な爆撃に対する抗議が出ました。

*8月29日には南京に駐在する欧米5ケ国の代表が出した抗議書
いかなる国の政治的首都、とりわけ戦争状態にある国の首都にたいする爆撃にたいして、 人間性と国際的礼譲についての配慮を必要とするような抑制について、日本側当局は適当な配慮を促すべきである。
   (中略)
爆撃は、かかげられた軍事目標にかかわらず、現実的には教育や財産の無差別の破壊、および民間人の死傷、苦痛に満ちた死につながる。

*9月28日 国際連盟総会において「日本の中国都市爆撃非難決議」が全会一致で可決
諮問委員会は、日本航空機による支那における無防備都市の空中爆撃の問題を緊急考慮し、 かかる爆撃の結果として多数の子女を含む無辜の人民にあたえられたる生命の損害にたいし、深甚なる弔意を表し、 世界を通じて恐怖と義憤との念を生じせしめたるかかる行動にたいしては、何らの弁明の余地なきことを宣言し、 ここに右行動を厳粛に非難す

*政府内にも批判  外務省東亜局長 石射猪太郎の日記から
10月4日  日本の新聞はもう駄目だ
7日  世界は今や日本に向ってあらゆる言葉をもって非難をあびせている。 それは決して驚くことではないが、憂うべきは日本自体の無反省だ
南京爆撃では日本海軍は誤爆(無差別爆撃)を許可する通達を出しています。

*南京空襲部隊制空隊の戦闘要領に関し希望事項  海軍第13航空隊戦闘詳報から
爆撃はかならずしも目標に直撃するを要せず、敵の人心に恐怖を惹起せしむるを主眼とするをもって、 敵の防空砲火を考慮し、投下点を高度2千ないし3千メ−トル付近に選定し、かつ一航過にて投下を完了するごとく努められたし・・・・・ 注:目標に当たらなくても良い、爆弾は全て投下するとは、無差別の許可です。

日本の海軍省の記録では、8月15日の渡洋爆撃から始まって、12月13日の南京占領にいたるまで、海軍の南京爆撃は50数回におよび、 延べ参加機は900余機、投下爆弾は160余トンにおよんだとされています。 

メニューに戻る(M)

●南京への戦争拡大●

上海戦では中国側の防衛力が強大で日本側はかなりの死傷者を出しました。 当初の松井石根率いる上海派遣軍に対して大本営はどんどん兵力を増強し、 さらに柳川平助中将率いる第10軍が組織され広州湾から上陸しました。

その結果形勢は逆転し中国軍は撤退しました。 その時日本軍は最初の計画通り上海だけで戦争をやめるべきかどうか、 或いはそのまま戦争を続行してあわよくば南京まで進撃するのか議論が分かれました。 軍中央では拡大を防ぐため制令線を決めてその線より先に進撃しないように命令しましたが、 結果として第10軍の暴走をきっかけとして南京への進撃が始まってしまったのです。その経緯を資料を交えて整理します。

*軍内部の不一致 陸軍省軍事課長の田中新一の手記
南京攻略に関し、陸軍省首脳部は慎重論、軍務課長柴山謙四郎大佐のごときは南京攻略は地形上不可能の理由をもって南京作戦阻止を大臣・ 次官に意見具申す。参謀本部作戦課は積極的なり・・・・

*軍中央の方針は拡大を防ぐため中支那方面軍の任務は上海付近の敵の掃討とし、拡大しないように進出制令線(作戦範囲)を決めました。 参謀総長指示  中支那方面軍の作戦地域は概ね蘇州、嘉興を連する線以東とする

*11月9〜13日 中国軍の退却が始まる
*退却した中国軍を追撃して日本軍は制令線を無視して追撃を始めた
*11日15日 現地の第10軍は独断で南京に追撃する事を決定。
*19日 第10軍は傘下各師団に追撃命令を出した事を参謀本部に報告
*20日 参謀本部は第10軍の独断決定に驚き、「第10軍の南京追撃は臨命第600号指示(作戦地区)の範囲を逸脱している」 直ちに中止、制令線から撤退せよと命令を出した。
*24日 中支那方面軍から「事変解決を速やかならしむるため、現在の敵の頽勢に乗じ「南京を攻略するを要す」 との意見書が参謀本部に届く。大本営は制令線の撤廃を指示した。
*25日 方面軍は体制を整えるために、無錫、湖州の線で爾後の作戦を準備せよと命じた。しかし、第一線部隊はこの命令も無視した。

メニューに戻る(M)

●天皇の攻撃命令●

大本営の命令は天皇からの命令と同じですから、現地軍は天皇の命令を無視して独断で南京に進撃して行ったのです。 現地軍の暴走を止められなかった天皇は仕方なく追認してしまったのです。

*12月1日、大本営は大陸命第7号で戦闘序列を発令し、さらに「中支那方面軍は海軍と協同して敵国首都南京を攻略すべし」 という大陸命第8号を下しました。すでに南京に向けて進撃していた日本軍は命令後3ルートに分かれて南京城に進攻しました。 注:戦闘序列とは軍の臨時編成ですが、実際には作戦命令です。天皇が中国を敵国と断定しました。初めてのことです。

メニューに戻る(M)

●南京突入●

正式に天皇から攻撃命令が出たのですから、今度は南京城突入の一番争いが始まりました。 現地軍は12月8日の4時頃飛行機で日本語と中国語の「投降勧告文」を城内に投下しました。

*勧告文
日軍百万すでに江南を席巻せり。南京城は正に包囲の中にあり、戦局の大勢よりみれば、今後の交戦はただ百害あって一利なし・・・・・日軍は抵抗者にたいしてはきわめて峻烈にして寛怨せざるも、 無辜の民衆および敵意なき中国軍隊にたいしては寛大をもってし、これを犯さず・・・・・しかして貴軍交戦を継続せんとするならば、 南京はいきおい必ずや戦禍を免れ難し。

しかして千載の文化を灰燼に帰し、十年の経営はまったく泡沫とならん。よって本司令官は日本軍を代表し貴軍に勧告す。 すなわち南京城を和平裡に開放し、しかして左記の処置に出でよ。  
大日本陸軍総司令官  松井石根

この勧告文が守られれば良かったのですが、その後、一切守られる事はなく南京事件といわれる忌まわしいことが起きてしまったのです。 12月13日に南京は陥落し一応戦争は終結しました。天皇は司令官松井石根に対して「ご苦労であった、将兵を慰労せよ」と告げました。 天皇の命令を無視して暴走をしていたのに、結果として「お褒めの言葉」を賜ったのですから、司令官は感激してすぐ、 正式な南京城入城式を行うと決めました。

戦闘終了直後で治安が悪いため、多くの幹部は反対しましたが、入城式は強行されました。 実は副司令官は皇室の朝香宮だったため、万が一のことがあると困ります。そこで入城式の前に南京をきれいに片付けることが決められました。 そして、数万の捕虜が殺害されたのです。つまり、この殺害は、戦争終了後の殺害ということになりますね。

メニューに戻る(M)

●南京で起きた多くの事件●

南京事件では虐殺について多く語られます。いろいろな論争も主に虐殺についてだけです。しかし、 実際には虐殺以外にも多くの事件が起きているのです。簡単な項目だけあげて見ます。

・無差別大空襲
海軍の空襲に関してはさっき述べました

・放火と掠奪
今回は時間の関係で説明を省略しします

・強姦と慰安所
1ケ月で2万人を越えるといるレイプ事件がありました。このため「レイプ・オブ・南京」と言われるほどです。次に説明します。
・毒ガスの使用
あとで別項目にします
・占領後の麻薬問題 これも、あとで別項目にします

メニューに戻る(M)

●強姦と慰安所●

南京では、あまりにもレイプ事件が多く発生したため、現地軍は困っていました。そして、慰安所の設置が急がれたのです。資料を見ていただきます。
慰安所の設置
*1937年12月11日 飯沼守上海派遣軍参謀長 日記
・・・・・慰安所の件方面軍より書類来り実施を取計ふ・・・・・
*12月19日  同上日記・・・・・迅速に女郎屋を設ける件に就き長中佐に依頼す・・・・・

*12月28日  上村利道上海派遣軍参謀副長 日記・・・・・軍隊の非違愈々多きが如し。(参謀部)第二課をして各隊将校会報を招集し参謀長より 厳戒する如く手続きをなさしむ・・・・・南京慰安所の開設に就いて第二課案を審議す・・・・・中支那派遣軍の最後の総司令官だった岡村寧次大将が戦後、 講演した内容にも強姦のことが出てきます。

*1954年4月18日 偕行社での講演
・・・・・軍司令官着任後まず某師団長を訪問したところ、同師団長は「私の師団の将兵は戦闘第一主義に徹し、 勇剛絶倫なるも掠奪、強姦等の非行を軽視し、団結心強きも排他心も強い。 南京事件は前師団長時代のことであるが相当暴行をしたことは確実である云々」と、公平率直に報告した。・・・・・当時各師団は数十名の慰安婦を同行していた。兵站の重要なる一機関になっているが、 強姦予防のために上司も黙認という有様であったのである。

日露戦争時代には慰安婦の同行は無かったが強姦も無かったのである。 我が陸軍では、昭和7年春第一次上海事変の際、海軍に倣って、公然慰安婦を設けたのが最初である。 その当時極めて少数であったが、この慰安婦同行を始めてからは、全くこの犯罪が無くなったのを記憶している。 然るに昭和12年の今日慰安婦を同行しても、なお多くの強姦する者を続出するのである。・・・・・ 注:この講演は、従軍慰安婦が軍の関与であるとはっきり認めている内容です。 

メニューに戻る(M)

●毒ガスの使用●

説明の必要はないので資料を見てください。
*南京攻略に関する意見送付の件、丁集団参謀長発次官あて  
昭和12年11月30日付

(丁集団とは第10軍のこと 原文かな)
) 南京を急襲により奪取し得えざる場合の攻略案
この場合に於いても正攻法の要領に力攻することを避け左記の要領に依り攻略す 急襲案と同一要領により先ず南京に急迫して包囲態勢を完了し主として南京市街に対し徹底的に空爆特に「イペリット」 及び焼夷弾を以ってする爆撃を約一週間連続的に実行し南京市街を廃墟たらしむ ・・・・・本攻撃に於いては徹底的に毒瓦斯使用を使用すること極めて肝要にして此際毒瓦斯使用を躊躇して再び上海戦の如き多大の犠牲を払う如きは 忍び得ざるところなり
注:上海上陸の際、毒ガスを使用して日本軍にも被害が出ました

メニューに戻る(M)

●占領後の麻薬問題●

阿片に関しては、日本人里見甫が関係していたことです。里見は陸軍特務機関に命じられ中国の裏社会を傘下に置き阿片の販売を仕切っていました。

*アメリカ人のベイツ(M.S.Bates金陵大学歴史学教授)「報告書」1938年1月25日
1..形勢の急激な悪化
いまの世代の人は、アヘンが南京で大量に供給され消費されるとはついぞ知らなかったし、 それが臣民と浮浪者を惹きつける方式で大っぴらに売り出されるとも知らなかった。とりわけこれまで5年間、 政府が長期にわたって真剣にこの種の貿易を禁止し続けたのと、加うるに過去30年教育に努力したのとで、 アヘンは使用量がごく僅かであり、ヘロインは全く知られていなかった。……今や市政当局ないしは庇護を受けた人々が、 誰はばかることなくアヘンを販売している。

万をもって数えられる民衆が病みつきとなり、児童と多くの青年男女も含まれている。数千人がこの種の商売に従事している。 統治者当局の圧力の下で、麻薬吸引に耽溺する新しい世代の人たちが出現した。・・・・・公然たる吸引家庭の登録が、 街に広告として貼り出され、彼らの産物が吸引者に健康と活力とを増進させる、ホラを吹き;政府側のある新聞が、 市民を吸引所へと誘いをかけている。

2.貿易の性質
 A.アヘン

3.私的な交易、アヘン供給の出どころ。価格、営業量。
アヘン
政府の保存資料で調べたならば、南京では土膏行75軒だけ(今では200軒)がアヘンを販売していると人々は見なすかもしれない。 けれども忘れてならないのは、まだ数としては非常に多くの、色々な名称の様々な規模の旅館や妓楼があり、加うるに個人の家庭に置かれている 吸引用ランプで、免許証のあるのもないのも、いずれもが売買の仕事をしている。

私の家に近い小さな地区には、市区の人口稠密な所ではないのに、あからさまな交易と販売のセンタ−が14ケ所ある。 過去何日かの間に、日本人慰安婦と朝鮮人慰安婦がいるある一軒がアヘンを80箱買い込んだ。 組織系列の販売人が言うには、2週間前に日本の代理店がイランのアヘンを200箱余り運んできたが、 その船荷はアヘン管理局と何らかの関係があったらしく、そのため留め置かれずに済んだ。

アヘンは主として大連から上海を経て南京に供給されていて、それを示す証拠が充分にある。 つながりある官吏が抑えている下での毎日の販売は原則として6,000オンスに制限されている。 少なからざる販売が付近の村で行われていて、実際の販売総額は必然的に原則を上回っている。 それでも6,000オンスとしても、毎日の卸価格は6.6万元、毎月220万元となる。    
注:日本の代理店とは三井物産だと思われる。

*ヘロイン アヘンの取引と同様にヘロインにも恐るべき破壊性がある。ヘロインの営業総額の新たな伸びも、邪悪の世界に立ち込めていて、 アヘンの金額と大体同じであろうし、それと関わっていいる人数もそれ以上かも知れなし。 ヘロインは吸引がずっと簡便で、しかもごく少量で効き目が生じる。時価で言うと、麻薬中毒患者一人で廉価なアヘンなら 毎日5角から1元吸わなければ駄目だが、ヘロインなら3〜4角で済むと思われている。 ある推定では、大体5万人がヘロインを吸っていて、南京の人口の1/8に相当するが、それよりずっと高い推定もされている。

ヘロインの取引は全くの私営で、小売商、露天商、行商人と広汎に分散し、代理店の親友関係とおして掌握している。 ある友人は販売するところを72ケ所知っている。一般的に言われているのでは、 日本軍の情報部門がヘロインの半ば組織的な取引に密接に関係していて保護を与えている。 かなりの地位のある代理店が言うには情報部門に記録があり、南京を中心にした取引額は毎月300万元という。 この手の取引の殆どが日本の会社の経営に帰し、それらの会社が表面では缶詰などの食料品や医薬品をやっていて、 背後でヘロインを売りさばいている資料が充分にある。

メニューに戻る(M)

●ハーグ条約●

先ほどのお話の中で事変と戦争の違いを説明しました。戦争するのに法規があることも妙な話ですが、 戦争法であるハ−グ条約の条文を資料で見ます。下線を引いたところを見ると、日本軍はことごとく違反しています。 ですから、戦争にしないで事変にしたのです。

*「陸戦の法規慣例に関する規則」 抜粋(原文カナ)
前文
・・・・・一層完備したる戦争法規に関する法典の制定せらるるに至るまでは、締約国は、その採用したる条規に含まさる場合においても、 人民及び交戦者の文明国の間に存立する慣習、人道の法規及び公共良心の要求より生ずる国際法の原則の保護及び支配のもとに立つことを 確認するをもって適当と認とむ・・・・・

第1款
第1章 交戦者の資格
第1条[民兵と義勇兵]

戦闘の法規及び権利義務は独りこれを軍に適用するのみならず次の条件を具する所の民兵及義勇兵団にもまたこれを適用す (注:便衣兵やゲリラもそうです)
第1.部下の為に責任を負う者その頭にあること
第2.遠方より看別し得べき固著の徽章を有すること
第3.公然と武器を携帯すること
第4.その動作に於いて戦闘の法規慣例を尊守こと
民兵又は義勇兵団をもって軍の全部又は一部を組織する国においては之を軍の名目中に包含す

第2条[群民兵]
いまだ占領せらぜらる地方の人民にして敵の接近するに方り第一条に遵て編成するの逞なく自然武器を操りて侵入軍隊に抗敵する者にして 戦闘の法規慣例を遵守する者は者と看做すべし(自然発生のゲリラ)

第3条[兵力の構成員] 
交戦国の兵力は戦闘員及び非戦闘員を以て之を編成することを得、敵に捕獲せられたる場合には二者均しく俘虜の取扱を受ける権利を有す

第3章 俘虜
第4条[俘虜] 
俘虜は敵の政府の権内に属し、これを捕らえたる個人又は軍団の権内に属することなし 俘虜は人道をもって取り扱わるべし俘虜の一身に属するものは、兵器、馬匹及び軍用書類を除くの外依然その所有たるべし

第7条[給食]
政府(注:日本政府)は、その権内にある捕虜を給養すべき義務を有す 交戦者間に特別の協定なき場合においては、俘虜は糧食、寝具及び被服に関しこれを捕らえたる政府の軍隊と対等の取扱を受くべし  

第2款 戦闘
第1章 害敵手段、攻囲及砲撃
第22条 [害敵手段の制限] 交戦者は、害敵手段の選択につき、無制限の権利を有するものに非ず  (注:勝ったから何をやっても良いというのではない)

第23条 [禁止事項] 
特別の条約をもって定めたる禁止の外、特に禁止するものは以下の如し
イ.毒又は毒を施したる兵器を使用すること
ロ.敵国又は敵軍に属するものを背信の行為をもって殺傷すること
ハ.兵器を捨て又は自衛の手段尽きて降を乞える敵を殺傷すること
注:毒ガス、細菌禁止ですし・・・・・点許すと騙して殺してもいけない・・・・・兵器を捨てた敗残兵は殺していけないということです。 日本軍は総てに違反しました。

第25条 [防守されない都市の攻撃]
防守せざる都市、村落、住宅又は建物は、如何なる手段によるも、これを攻撃又は砲撃することを得ず 注:無防備都市を攻撃してはいけないということです。日本の南京・重慶爆撃も違反、アメリカの空襲も原爆も違反、イラク攻撃も違反です。
第3款
第43条 [占領地の法律の尊重]
国の権力が事実上占領者の手に移りたる上は、占領者は絶対的の支障なき限り、占領地の現行法律を尊重して、 なるべく公共の秩序を回復確保する為施し得べき一切の手段を尽くすべし

第46条 [私権の尊重] 
家の名誉及び権利、個人の生命、私有財産並びに宗教の信仰及び遵行は、之を尊重すべし。私有財産は、これを没収することを得ず。

第47条 [掠奪の禁止] 
掠奪は、之を禁止す。          

第52条 [徴発と課役] 
現品徴発及び課役は、占領軍の需要の為にするに非ざれば、市区町村又は住民に対して之を要求することを得ず。 (中略)上記徴発及び課役は、占領地方における指揮官の許可を得るに非ざれば、之を要求することを得ず。 現品の供給に対しては、なるべく即金にて支払い、然らざれば領収書を以てこれを証明すべく、かつなるべく速やかに之に 対する金額の支払を履行すべきものとす

メニューに戻る(M)

●中支那派遣軍の問題●

次の話にいく前に、なぜ、この時期の日本軍は多くの問題を起こしたのか、その話をします。 いろいろな原因が考えられますが、根底にあるのは中国人蔑視でしょう。現在でも中国人蔑視や敵視する人が いるのですから当時も同じことだったのでしょう。

1.後方からの補給準備がまったく欠けていたので、南京に殺到した各部隊は民間人からの徴発に食料を依存し、略奪暴行の原因になった

2.中支那方面軍には外交や渉外の機能がなかった。また国際法を熟知した法務顧問もいなかった。 そのため日本の公使館や領事館との連携も取らず外交官は軍の暴行をとめる事ができなかった。

3.軍は軍規風紀維持について関心がなかった。方面軍には元々直属の憲兵がいなく、個々の派遣 軍や第10軍所属の憲兵しかいなかった。20万の日本軍に100人前後の憲兵では取り締まる方法がなかった。 特に12月17日の入城式時点では南京城内にはわずか17名の憲兵しかいなかったため、兵士の非行を止めることができなかった。

4.軍中央にはもともと南京攻略までするつもりがなかったため、何故南京を攻略するのか、占領後南京をどのようにするのか、基本方針がなかった。 南京事件の細かい内容は省いて、次に進めましょう。今でも南京事件はなかったと主張する人がいます。そんなに人数はいません。 恐らく10人くらいかと思います。それでも次々と本を出版し声高に主張しますから世間を混乱させてしまいます。 受け売りで主張する人は、たくさんいますね。某市長もそうだと思います。次からは、 なかったと主張する人たちが話題にすることを中心に説明と事実を述べます。

メニューに戻る(M)

●南京事件の期間は●

熱心に聞き入る聴講生の皆さん 南京戦はいつ始まっていつ終わったのか? この期間を長くすれば被害が増え、短くすると被害が少なくなるのは当然のことです。時期を整理すると
・1937年11月6日 中国軍の撤退を受けて日本軍は上海から南京へ追撃を始めた
・12月1日 天皇の南京攻撃命令
・12月4日 日本軍が中国軍の防衛線を突破
・12月10日 日本軍総攻撃開始
・12月13日 南京陥落 戦闘終了
・1938年2月28日 日本の傀儡政権「中華民国維新政府」樹立
多くの研究者は、1937年11月6日から1938年2月28日までを事件の期間として調査をしています。当然のことだと思います。

メニューに戻る(M)

●南京の地理的範囲●

これも同じことで、場所を狭く限定すると被害は少なく、広くすると被害は増えます。 上海から南京まで全部を含めると広大な広さになりますので、南京に限定するべきかと思います。では南京の広さはどのくらいあるのでしょうか? 中国の行政区では、市の下に県があります。実際には、行政区としての南京市は南京城内(南京特別市) 近郊6県(六合県・江浦県・江寧県・ ?水県・句容県・高淳県)がありました。その6県にもそれぞれ県城と農村部があります。 全部合わせた地域を行政区の南京と呼び、その面積は東京・埼玉・神奈川を合わせたくらいのかなり広い面積です。

私たちは、南京戦というと南京城区のことだけをとり上げてしまいますが、中国軍は、南京城を防衛するために郊外に陣地を作りましたから、 戦闘や虐殺も郊外が多くなっています。 小さな南京城区の、さらにその中の1/8くらいの場所に在南京の欧米人たちが国際安全区を作りました。

メニューに戻る(M)

●国際安全区と南京安全区国際委員会●

安全区の委員はどのようなメンバ-だったのでしょうか?
1.アメリカ人のキリスト教関係で宗教的或いは人道的信念に基づいて南京にとどまった人。職種は大学講師・医師・看護婦・宣教師などです
2.南京のアメリカ大使館メンバ−で上記のアメリカ人の保護のために残りました
3.南京のドイツ大使館やドイツ商社員
4.外国人ジャ−ナリスト 5.日本人の牧師も1人いました
国際委員会は、1937年11月22日に市民の安全を守るための声明を発表し、 アメリカ大使館を通じて中国と日本に難民区の安全の保障をするように申し入れました。

*声明文の内容
デンマ−ク人、ドイツ人、イギリス人、アメリカ人より構成される国際委員会は、南京およびその近郊において、 不幸にも戦闘が行われた際の避難場所として、安全区を設置することを日中両国の当局へ提起したい。国際委員会は、 設定される安全区に関して、以下のような特別な条件を認めさせることを保証する。

すなわち、同区内に軍事施設および通信所を含む事務所を置くことはできない、また同目的に使用することもできない。 市民警察がピストルを携帯する以外は誰も武器を持つことはできない。何らかの戦闘能力を有する兵士および将校が、 同区を通行することは許されない、など。

国際委員会は、これらの約束事項が十分満足に履行されるように、 安全区を検閲・監視するつもりである。国際委員会は、民間の避難民の面倒をみるのに便利で適当な場所として、 以下に示す地域の指定をしたい。

(中略:細かく地区を定めています)

国際委員会は、安全区の境界を関係者に分かりやすく示すために、白旗か他の了解を得られた標識をもちいてはっきりと表示するつもりである。 国際委員会は、両国の当局に提出した通告に対する双方の了解が得られた日をもって、安全区の効力が生ずることとしたい。国際委員会は、 上記の条件がみたされた場合には、日本当局は人道的理由から、この安全区の民間的性格を尊重してくれるよう切に希望する。

委員会は両国の責任ある当局が市民のために慈悲深い配慮を示すことが、双方に名誉をもたらすものと信じるものである。 中国当局との必要な交渉を可能な限り短期的に達成するために、また難民を保護するための適切な準備がなされるために、 委員会はこの提案に対する日本当局の即答を、喪心よりお願い申し上げる。            

国際委員会は本アピ−ルにたいして、好意ある理解が得られるものと確信している。以上謹んで提案する。 できるだけ早急に日本大使に伝えていただきたい。そして、当該の委員会に対する回答・文書を私宛に送ってください。 この申し入れに対しての返事ですが、中国当局からは、委員会の提起した条件を全面的に遵守するという回答がアメリカ大使館に寄せられました。 日本からは12月4日に上海の日本領事館を通して次のような回答がアメリカ大使館に出されました。

* 日本の回答(長いので要約します)
1.提案された地域が、南京城壁の内側にあってかつ広大であること、安全区の周囲に効果的に外界との交通を遮断する自然の地形や建物がないことを考慮すると、安全計画地域を維持する側に十分強力な人員(列強諸国)が備わっていなければ無理であると思われる。

2.提起された地域内や周辺には中国軍の施設や用地があって、中国軍がそれを利用しないということは考えられない。

3.2.と重複するため 省略

4.日本当局は、安全区の発起人たちの高邁な動機には敬意を表するが、同区を爆撃しないとか、砲撃しないとかの約束を与えられる立場にはない

5.しかしながら、そこが中国軍によって軍事目的に使用されない限りにおいて、また、中国軍が防衛施設を建設せず、 さらに中国部隊を配置しない限りにおいて、日本軍はそのような場所を攻撃する意図をいささかも有しないのは、当然と思われてよい・・・・・ このように安全区を設定したのですが、日本軍は約束を守らず暴虐の限りを尽くしたのです。

メニューに戻る(M)

●南京の人口は●

南京の人口は、20〜25万人だから、30万人も殺せるわけはないといいます。 みなさんよく考えてみてください。大きな中国の首都南京、しかも国際都市で世界中から人が集まっていた都市が 20〜30万人の人口があるでしょうか? 大まかですが、いろいろな機関で調査されています。

・日本軍南京特務機関の南京市政概要から
1937年3月末1,019,667人200,810戸 首都警察庁調べ  南京城区の人口 38年2月末 200,000人  南京市自治委員会と特務機関が推計 安全区の人口 39年9月 戦前は100万そのうち、25万は漢口に、25万は上海に、5万は香港に 現在は4〜50万どまりなり

・政機関の調査
38年10月末329,488人 82,195戸  南京市自治委員会調べ
39年10月末552,228人 132,403戸  南京特別市調べ
41年3月末619,406人 140,439戸  南京市政府調べ

・金陵大学社会学教授 ルイス・スマイスの当時の調査
戦争勃発前の南京城区 100万人
37年11月初旬(陥落の直前) 50万人
近郊4県半 120〜135万人 
*南京城区100万人と近郊150万人を合わせると、南京全体としては250万以上がすんでいたと思われます。

・ジョン・H・D・ラ−ベ報告書・・・・・南京の人口は、私が7月に出発したときには、約135万人でした。限定された調査ですから、 実際には周辺も合わせて300万人くらいの人口がいたと考えられます。 それならば、20〜25万人という数字はどこから出てきたのでしょうか?  実は、国際安全区に逃げ込んだ人数なのです。安全区委員長のドイツ人ラーベの書いたものに出てくる数字を読み違えたものと思われます (意図的かもしれませんが)。

メニューに戻る(M)

●便衣兵は殺害してよいのか●

民間人も捕虜も殺害していない、殺害したのは、すべて便衣兵だ。便衣兵の処分は国際法で認められている、という人がいます。 しかし、それが間違いである事は先ほどの資料「ハーグ条約の第1条」で明らかです。

メニューに戻る(M)

●死者は戦闘で死んだのか●

戦闘中だから死亡しても仕方がない、という人もいます。しかし、先ほど述べたように、戦闘が終わって入城式の前に殺害したのがわかっているだけで 数万人いますから、この説明も間違えていることがわかるでしょう。 日本政府や国民は知らなかったし、国民政府や中国共産党や国際連盟は、何もいわなかったのだから、 実は南京事件はなかったのだという主張があります。事実はどうなのかを説明しましょう。

メニューに戻る(M)

●日本政府や国民は知らなかったか●

メディアの言論が統制されていましたから、日本国民が知らなかったのは当然のことです。日本政府は、 現地の外交官から報告を受けて全部知っていました。国際安全区の委員長ラ−ベは毎日のように報告書を日本大使館に提出し、 大使館では本国の外務省に打電しています。ただ政府は、軍部の暴走を止めることができなかったのです。

*ラーベの報告書 
報告書はNO.426まであり、最後は翌年2月5日です。最後に書いてある名前はラーベに訴えた人の名前です。      
154 1937年12月26日午後4時、13歳の少女が陳家巷6号で、3名の日本兵に強姦された。(王) 

158 12月27日夜11時〜12時の間、3人の日本兵が司令部から検査に派遣されたと称して、自動車に乗って大学の正門から入ってきた。 門衛は脅かされて警報を出すことができなかった。また女性を捜すのに無理やりつきあわされた。 3人の娘がこの兵隊たちに強姦された(その中の1人は11歳になったばかりである)。その中の1人は拉致された。(ベイツ)

159 12月26日、この日は3、4人一組の兵隊が数組、のべ7度も宣教師資格訓練学校に押し入ってきた。 数え切れない略奪でわずかに残っていた衣服、食品と現金も奪われてしまった。彼らは6名の女性と12歳の少女を強姦した。 夜、12〜14人で組んだたくさんの兵隊が4度も押し入り、20人の女性を強姦した。

177 1月2日15時、シュペ−リングとフィッチ先生が呼ばれて寧海路13号の家へ向った。4人の日本兵がそこへ 押し入って略奪と強姦を行おうとしていた。日本兵たちはシュペ−リング先生が黒い卍の腕章を着けているのを見ると“ドイツ人だ、ドイツ人だ” と叫びながら逃げ去った。(シュペ−リング)

178 1月3日、現在、大学病院に入院している1人の女性が次のように報告している。1937年12月30日、彼女は他の5人の女性と一緒に銅銀巷 6号の家から、日本の軍官の衣服を洗って欲しいと騙されて連れ出された。日本兵は彼女たちを西の郊外の建物に連れて行った。

彼女らは状況からみて日本軍の病院だろうと判断した。ここで、たしかに昼間は衣服の洗濯をさせられたが、 毎晩、彼女たちすべてに強姦が繰り返された。年齢の高い女性では1晩に10回〜20回、若くてきれいな女性は40回の多きにのぼった。

1月2日、2人の日本兵が、この女性患者をへんぴな校舎のところへ連れ出し、銃剣で10回彼女突き刺した。 4回は彼女の頚で頚肉は刺されて脊髄に達するほどに切れている。1回は手の関節を、1回は顔を、4回は背中を突き刺している。 この女性はおそらく回復できるであろうが、しかし、頚は曲がらなくなってしまった。2人の日本兵は彼女が死んだものと思って彼女を放置した。 別の日本人が見つけ、あまりにひどい彼女の様子をみて中国の友人たちのもとへ送り届けた。 これらの中国たちがその後、病院へ送り届けたのである。(ウイルソン医師)

185 1月9日朝、クレーガーとハーツは、1人の中国平民が1人の日本軍将校と1人の日本兵に引き立てられて、 安全区の中にある山西路のそばの池で処刑される情景を見た。クレーガーとハーツが、そこへ着いたとき、 この男性は、薄氷を割った池の中に腰まで浸かってよろよろと立っていたが、将校の命令に従って、日本兵は1つの砂袋のうしろに腹ばいになって 射撃を開始した。第1発は、男性の肩に当たり、第2発は外れ、第3発で彼は射殺された。(クレーガー、ハイツ)

われわれは、日本軍隊の合法的な処刑に対して抗議する権利は当然持っていない。しかし、 上で見たような処刑方式は疑いもなく不当であり、残酷である。またこの機会にもう一度、日本大使館の先生方と個人的な 談話でいつも取り上げている問題について述べておきたい。死体によって池が汚染されるため、安全区内の水源は大々的に減少した。 あるいは破壊されたといえる。長期にわたって水が不足する時期には、こういう状態がきわめて危険であることをとりわけ指摘しておきたい。 特に市の水道管はほとんど回復していないのだから。

190 1月14日、難民一家が、大学付属中学から自分の家に戻った。途中で登録証をもらい、自分の家の門に貼った。 これがあれば日本兵の騒動を受けなくてすむと言われている。しかし、家に戻って1時間もしないうちに、5人の兵隊が彼らの住居に、 男を追い出し数名の女子を強姦した。1月15日この家の人は再び中学に戻って住むようになった。 (ベイツ)

210 1月21日の夜間、高家酒館44号で2名の日本軍兵士が女性を探し求めていたが、幸いにもこの家の女性たちは一昨日、 金陵大学付属中学に行ってしまっていた。この2名の兵士は人から煙草と金銭をゆすった。 この家のひとは大変貧しかったので、彼らは隣の家に入った。そこで、彼らは2名の女性を見つけ、なんと夫の目の前で彼女たちを強姦した。 1月22日、この2名の兵士は、さらに2名の仲間を連れてこの家の前でにやにやしながら立っていた。(ゾーン)

211 1月25日の午後、鼓楼病院は1人の女性を収容した。彼女は、夫と安全区の宣教師訓練学校付近の藁葺き小屋に住んでいた。 12月13日、日本兵は彼女の夫を拉致した。彼女も城南の某所に連れて行かれ、そこで拘禁され、 毎日7〜10回も強姦された。夜になって少しばかり休ませるだけであった。

彼女はすでに病気に罹り、状態が非常に悪くなっていたので、5日前になってようやく釈放された。 彼女はすでに3つの性病(梅毒、淋病、下疳)に罹っている。非常に悪質で、すぐに伝染する病気である。 彼女は短期間中にこの病気に罹ってしまった。彼女は解放されるとすぐに安全区に戻ってきた。(ウイルソン)

この若い女性は、安全区の茅葺小屋から日本兵に拉致され、城南に38日間も閉じこまれた。 その間、毎日7〜10回も輪姦された。そのため、彼女は3種類のもっとも悪質な性病にかかってしまっただけではなく、 陰部の大部分がひどくただれてしまったので、日本兵はようやく彼女を釈放した。 というのは、彼女はもはや彼らの性欲のはけ口としては役に立たなくなったからである。

彼女は1938年1月26日に教会病院(鼓楼病院)に送られてきた。 この写真はそれから数週間後に撮ったものである。(注:原書には写真がある)彼女が日本兵に拉致されたその日に、 彼女の夫(警察官である)も日本軍に連れて行かれたが、その後は杳として行方が知れない。 その他、連れて行かれた数千人と同じようにすでに殺されたと断定できる。

メニューに戻る(M)

●国民政府は知らなかったか●

中国でも報道されなかったという主張も誤りです。
・蒋介石は南京が日本軍に占領された直後の12月24日にアメリカのル−ズベルト大統領に窮状を 訴える手紙を出しています。長文ですが全文です。

ワシントンD・C  
アメリカ合衆国大統領ル−ズベルト閣下
「中国は有史以来、現在進行しているような容易ならぬ機機に直面した事はかってありませんでしたし、 極東の平和が今日のように破滅的危機にさらされたこともありませんでした。この5ケ月の間、中国は日本を相手に生死をかけて戦ってまいりました。 最新鋭の武器で武装しながら、中世の野蛮さの特徴であるような残酷さを発揮した日本軍は、中国に上陸して以降、 陸・海・空軍でもって次々に都市を攻略し、この間、少なからぬ外国人を含めて、無数の非戦闘員を虐殺し、 莫大な施設・財産・及び宗教寺院、慈善施設さえも容赦することなく破壊してきました。

日本軍は、中華民国の首都を含めて、南京―上海鉄道沿線の都市や町を不法に占領したうえに、 いまや華北の大部分を不当に占領しています。日本軍国主義者によって「中華民国臨時政府」と称する傀儡政権が 北平(注:北京のこと)につくられました。 日本軍はさらに侵略の矛先を四方八方にいっそう拡大しています。 現在の見通しでは、日本軍は江蘇省北部、山東、長江流域及び華南への侵攻を企てていると思われます。

われわれは持てる軍隊をすべて動員し、最善をつくし日本軍の襲撃と戦ってきました。わが国家の尊厳を守ろうという固い意思のもとに、 われわれは多大な犠牲、すなわち人的資源、商業・産業を犠牲にしてきました。わが国家が 平和と尊厳のうちに生存せうることを願ってわれわれは血を流しているのです。

われわれは通常の意味でいう戦争を戦っているのではなく、わが領土に対する非道な侵略に抵抗し、苛烈な攻撃に反撃しているのです。 われわれは、中国国家の自由のために、そして人類の共通の脅威に対して戦っているのです。 われわれは、われわれ自身を守るとともに、条約の精神の尊厳を守るために、とりわけ9ケ国条約にうたわれた中国の主権と独立および領土的・ 行政的一体性が、日本および他の調印国によって尊重されるために戦っているのです。

われわれは野蛮な日本軍に降伏などいたしません。日本政府がその侵略政策をあきらめるまで、 中国の国政がわれわれの手にもどるまで、そして国際条約における領土不可侵の理念が守られるまで、 われわれは抵抗しつづける覚悟です。

中国国民は、戦争を通してアメリが中国を道義的に支援してくれていることを知り感謝しています。 大統領閣下のすぐれた指導のもとにアメリカ政府が、固有の正義心と、極東の領土保全をとなえる伝統的な政策に基いて、 すべての法と条約に定められた権利を尊重し、国際関係における平和を持続するするのに必要な法と秩序を維持するために 最善をつくされることをわれわれは知っています。

世界平和の大義と連帯とがなるべく早い時期に成功をおさめるための戦いを可能とするような効果的な対中国援助をアメリカ国民が与えてくれるように、 閣下に対し、ならびに閣下を通じて、この危機に際して中国国民に代わり私が緊急に訴えるという非礼をお許しください。 大統領閣下がそのためにはらわれる努力のすべてに対して、中国国民は永遠に感謝することを忘れないものと私は確信するものです。
1937年12月24日    蒋介石

・ さらに蒋介石は、1938年7月7日に「全国の軍隊と国民に告げる書」「世界の友邦に告げる書」「日本国民に告げる書」という 3つの文章を発表しています。その中の「日本国民に告げる書」にどう書かれているか引用します。 ・・・・・貴国の出征将兵は、すでに世界で最も野蛮、最も残酷な破壊力になっていることを諸君は知っているだろうか。 貴国がいつも誇っている『大和魂』と『武士道』はすでに地を払い消滅してしまった。毒ガス弾ははばかることなく使用され、 麻薬販売は公然とおこなわれ、すべての国際条約と人類の正義は貴国の中国侵略軍によって乱暴に踏みにじられてしまった。

その上一地区が占領されるごとに放火・略奪の後、遠くに避難できないわが無辜の人民および負傷兵に対し、 そのつど大規模な虐殺をおこなった。……とりわけ私が口にするのも耐えられないが、言わざるを得ない一事は、 すなわちわが婦女同胞に対する暴行である。10歳前後の少女から5〜60歳の老女までひとたび毒手にあえば、一族すべて逃れがたい。

ある場合は数人で次々に辱め、被害者は逃げるまもなく呻吟して命を落とし、 ある場合は母と娘、妹と兄嫁など数十人の女性を裸にして一堂に並べ強姦してから惨殺した。 ・・・・・このような軍隊は日本の恥であるだけではなく、人類に汚点を留めるものである。・・・・・

メニューに戻る(M)

●中国共産党は知らなかったか●

日本軍と戦っていた中国共産党が何もいわなかった。これもよくいわれることです。実際の資料を見てみましょう。

・中国共産党の論文  週刊誌「群像」1938年1月1日(武漢で発行されていた)
敵軍の暴行は最近開始されたものではなく、「9.18」以前にすでに各種の残虐事件がひきおこされ、 わが民衆が虐殺された。「9.18」に敵軍がわが東北・華北ではたらいた残虐な行為は、すでに世の共に知るところとなっている。しかし、 南京・上海沿線、とりわけ南京市の大虐殺は、人類有史以来空前未曾有の血なまぐさい残虐な獣行記録をつくることとなった。 これは中国の全民族に対する宣戦にとどまらず、全人類に対する宣戦でもある。敵の凶悪な残忍さは、人道と正義を血で洗い、 全世界・全人類の憤怒と憎悪をよびおこした。

メニューに戻る(M)

●国際連盟は知らなかったか●

それでは国際連盟はどうだったのでしょうか?これも、次の資料を見ていただければ、わかります。

* 国際連盟理事会決議文
1938年2月1日付 
 「内容―中国政府の提訴にもとづく決議案」
理事会は、極東情勢を考慮し、前回の理事会以降も、紛争が継続し、さらに激化している事実を遺憾の意とともに銘記し、 中国国民政府が中国の政治的経済的再建に注いだ努力と成果にかんがみて、いっそうの事態の悪化を憂慮し、 国際連盟総会が1937年10月6日の決議によって、中国に対する道義的支援を表明し、あわせて、

連盟加盟国は中国の抵抗力を弱体化させ、現下の紛争における中国の困難を助成しかねないいかなる行動も慎み、 それぞれが中国支援拡大の可能性を検討すべきであると勧告したことを想起し、国際連盟加盟国にたいして上記の決議に最大限の注意を喚起し、 東アジア紛争に特別な利害を有する理事会加盟国が、同様の利害関係国との協議を通じて、極東紛争の公正な解決に寄与するため、 今後のあらゆる手段の可能性を検討するいかなる機会も逃さないことを確信する。

添付書類 国際連盟理事会第6会議議事録
1938年2月1日付 「内容―中国政府の声明」
ただいま読み上げられました決議案を拝聴しました。本決議案に関する中国政府の見解を表明する前に、 最近数ヶ月間に起った出来事を述べ、現下で連盟理事会が何をなし得るか、わが国の切実な要求は何か、 についての中国政府の見解を申し述べたいと思います。

第18回連盟総会が、昨年10月6日、日本の中国侵略にたいする中国政府の抗議に関連して決議を採択した後も、 日本軍は中国領土への無慈悲な侵略を続け、これをいっそう激化させています。 華北の日本軍は黄河を渡り、聖なる山東省の都であり、孔子の生地でもある済南を占領しました。 華中では11月、中国抵抗軍が、陸海空が一体となった日本軍の激烈な攻撃に対して3か月に及ぶ抵抗をおこなった末、 上海地方からの撤退を余儀なくされました。

南京に脅威が迫ったため、中国政府は首都を南京から1000マイル離れた重慶に移すことを強いられました。 日本軍が漢口と南京にたいして加えた執拗な攻撃の結果、12月には、 この2つの重要な都市と最も肥沃で人口の多い長江流域が日本軍占領下に入りました。

メニューに戻る(M)

●東京裁判とパル判事●

東京裁判でインド代表のダラビノッド・パル判事が判決に反対したことから、南京事件を否定する人は裁判が不当だったと主張しています。 パル判事は法に厳正で、どんな圧力を受けても自分の信念を曲げない立派な法律家です。実はパル判事は南京の事件を全面的に認めています。 その上でそのすべての刑事責任を松井一人に負わせることに反対したのです。

・パル判事の発言  東京裁判資料  洞富雄編「南京大虐殺事件資料集」から 
本件に「おいて提出された証拠に対し言い得るすべてのことを念頭に置いて、宣伝と誇張をでき得る限り斟酌しても、 なお残虐行為は日本軍そのものが占領した或る地域の一般民衆、はたまた戦時俘虜に対し犯したるものであるという証拠は圧倒的である。問題は被告 (松井石根)に、かかる行為に関し、どの程度まで刑事責任を負わせるかにある
・同上
本官がすでに考察したように、証拠に対して悪く言うことのできる事柄をすべて考慮に入れても、南京における日本兵の行動は凶暴であり、 かつベイツ博士が証言したように、残虐はほとんど3週間にわたって惨烈なものであり、合計6間にわたって、続いて深刻であったことは疑いない。 事態に顕著な改善が見えたのは、ようやく2月6日あるいは7日過ぎてからである。弁護団は、 南京において残虐行為が行なわれたとの事実を否定しなかった。

彼らは単に誇張されていることを訴えているのであり、 かつ退却中の中国兵が、相当数残虐を犯したことを暗示したのである。 そして、その上で松井無罪を主張した理由をこう述べています
・本官は松井大将としては本件に関連し、法的責任を故意かつ不法に無視したとみなすことは出きない ・・・・・彼としては当然、両軍の司令官ならびに軍紀風紀を維持し処罰を加える任務を帯びている他の高級将校に依存しうるのであった ・・・・本官の判断では、市民に関して南京で発生したことに対し、同人を刑事上責任ある者とするような不作為が同人に あったことを証拠は示していない

メニューに戻る(M)

東京裁判の判決●

最後に、東京裁判のお話です。東京裁判は、勝者による一方的な裁判だから納得できない、という人がいます。 しかし、天皇も日本政府も東京裁判の判決を受け入れました。 そして、その結果講和条約(サンフランシスコ条約)が結ばれて、戦後の日本は平和国家として繁栄してきたのです。 東京裁判を否定することは、戦後の日本を否定することです。

1948年11月に判決が下されました。判決文は膨大なので南京事件に関するものを資料とします。
判決文  第八章 通例の戦争犯罪 11月11日 朗読

1937年12月の初めに、松井の指揮する中支那派遣軍が南京市に接近すると、100万の住民の半分以上と、 国際安全地帯を組織するために残留した少数のものを除いた中立国人のぜんぶとは、この市から避難した。中国軍は、この市を防衛するために、 約5万の兵を残して撤退した。1937年12月12日の夜に、日本軍が南門に殺到するに至って、残留軍5万の大部分は、市の「北門と西門から撤退した。

中国兵のほとんど全部は、市を撤退するか、武器と軍服を捨てて国際安全地帯に避難したので、 1937年12月13日の朝、日本軍が市に入ったときには、抵抗は一切なくなっていた。 日本兵は市内に群がってさまざまな残虐行為を犯した。目撃者の一人によると、日本兵は市内を荒らし汚すために、 まるで野蛮人の一団のように放たれたのであった。

目撃者達によって、市内は捕らえられた獲物のように日本人の手中に帰したこと、同市は、たんに組織的な戦闘で占領されただけではなかったこと、 戦いに勝った日本軍は、その獲物に飛びかかって、際限のない暴力を犯したことが語られた。

兵隊は個々に、または2〜3人の小さい集団で、全市内を歩きまわり、殺人・強姦・略奪・放火を行なった。 そこには、なんの規律もなかった。多くの兵は酔っていた。それらしい徴発も口実もないのに、中国人の男女子供を無差別に殺しながら、 兵は町を歩きまわり、ついには、所によって大通りや裏通りに被害者の死体が散乱したほどであった。

他の1人の証人によると、中国人は兎のように狩りたてられ、動くところを見られたものは誰でも射撃された。 これらの無差別の殺人によって、日本側が市を占領した最初の2、3日の間に、少なくとも1万2000人の非戦闘員である中国人男女子供が死亡した。 多くの強姦事件があった。犠牲者なり、それを護ろうとした家族なりが少しでも反抗すると、その罰としてしばしば殺されてしまった。

幼い少女と老女さえも、市内で多数に強姦された。そして、これらの強姦に関連して、変態的な嗜虐的な行為の事例が多数あった。 多数の婦女は、強姦されたのちに殺されその死体は切断された。占領後の最初の1ケ月に、約2万の強姦事件が市内に発生した。

日本兵は、欲しいものは何でも、住民から奪った。兵が道路で武器を持たない一般人を呼び止め、体を調べ、価値のあるものが何も見つからないと、 これを射殺することが目撃された。非常に多くの住宅や商店が侵入され、掠奪された。掠奪された物資は、トラックで運び去られた。

日本兵は、店舗や倉庫を掠奪した後、これらに放火したことがたびたびあった。最も重要な商店街である太平路が火事で焼かれ、 さらに市の商業区域が一劃々々とあいついで焼き払われた。なんら理由らしいものもないのに、一般人の住宅を兵は焼き払った。 このような放火は、数日後になると、一貫した計画に従っているように思われ、6週間も続いた。こうして、市内の約1/3が破壊された。 
   中略
後日の見積もりによれば、日本軍が占領してから最初の6週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、 20万以上であったことが示されている。これらの見積もりが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が 15万5000人に及んだ事実によって証明されている。 

これらの団体はまた、死体の大多数が後ろ手に縛られていたことを報じている。これらの数字は、日本軍によって、 死体を焼き棄てられたり、揚子江に投げ込まれたり、またはその他の方法で処分されたりした人々を計算に入れていないのである。
    後略     
まだまだお話しすることがたくさんありますし、中途半端かもしれませんが、時間となりましたので、今日はこれで終わりとしたいと思います。



会場:九段生涯学習館
講座企画・運営:吉田源司
文責:永井 元
写真撮影:河野成夫
HTML制作:上野治子

本文はここまでです

このページの先頭へ(0)


現在位置: ホーム(1) 講義録一覧(2) >今も論争が続く南京事件の真実は?


個人情報保護方針アクセシビリティ・ポリシィ著作権、掲載情報等の転載、リンクについて連絡先

Copyright (c) 1999-2012 kandazatsugaku Organization.All rights reserved.