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NPO法人 神田雑学大学 定例講座 2013年3月8日 No638 


講義名 東京大空襲と中国・重慶爆撃
〜同じ空の下の被害者たちを追って



講師 澤田 猛

(中央大学法学部兼任講師、元毎日新聞記者)





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司会 吉田悦花理事長

眼差しを欠いた戦争

なぜ、重慶爆撃に関心を持ったのか

重慶爆撃の被害者たちの声

東京大空襲の被害者たちの声

重慶爆撃に加わった日本軍爆撃機の
元操縦員の回想

被害と加害を越えて



講師を紹介している吉田悦花理事長

講師紹介 (吉田悦花理事長)

NPO法人神田雑学大学では、毎年、3月と8月は、戦争にちなんだテーマの講座を企画しております。昨年の3月9日には、 『「東京大空襲」あれから67年!』と題して、きょう会場にお見えになっている浅見洋子さんと戦争孤児となった渡辺紘子さんにお話いただきました。
http://www.kanda-zatsugaku.com/120309/0309.html

本日の定例講座は、「東京大空襲と中国・重慶爆撃」、サブタイトルは「同じ空の下の被害者たちを追って」です。 日中戦争のとき、日本軍が中国奥地の重慶を中心に行った重慶爆撃は、東京大空襲がそうであったように、無差別爆撃でした。 けれども、東京裁判では不問に付され、一般にはほとんど知られていません。 東京大空襲の被害者とともに、この知られざる重慶爆撃の実態と被害者の訴えについて、新たな視点から澤田猛さんに報告していただきます。


講師の澤田 猛さん
澤田猛さんは、1948(昭和23)年、東京に生まれ、1975年に毎日新聞社に入社されました。 東京本社社会部編集委員をさいごに退職され、現在は、中央大学法学部兼任講師をつとめられております。 著書に『空襲に追われた被害者たちの戦後  東京と重慶 消えない記憶』『ルソン島 戦場の記録 たたかいと飢えの中を生きて』 (岩波ブックレット)、 『くにざかい・糸に生きる 青崩峠を越えた女たち』(影書房)、 『石の肺  ある鉱山労働者たちの叫び』(技術と人間)などがあります。なかでも、 『黒い肺  旧産炭地からの報告』(未來社)は、私も会員の日本ジャーナリスト会議のJCJ奨励賞を受賞されております。 では、よろしくお願いいたします。



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●「眼差しを欠いた戦争」

配布したレジュメの内容に則して話をしていきたいと思いますが、まず、「重慶爆撃に加わった日本軍爆撃機の元操縦員の回想」について話をすることにします。 これは、私の書いた岩波ブックレットの中では触れることができませんでした。 すでに90歳を超え、当時、九六式陸上攻撃機のパイロットに、実はコンタクトするまでに長時間をかけながら、 最終的に取材拒否をされました。ただし、ご本人には2回お会いしています。戦後は、海上自衛隊に入隊しています。

その方は重慶爆撃が初陣で、その後の戦闘、例えば、マレー沖海戦では英国の東洋艦隊の重巡洋艦・レパルスに命中弾を落とした飛行中隊に加わっています。 戦闘記録を記した実に丁寧な日記を付けていました。歴戦の勇士だったようです。 重慶爆撃に参加したときの日記も見せてもらいました。重慶市のある地区に爆弾を落としたときの記述には、 正直言って驚きました。全弾が命中し、そのときの感動が手短に記されているからです。

その方は、戦後50年のとき、重慶を訪ねています。いわば贖罪の旅だったようです。 重慶市内を歩いたとき、あのときの爆撃で地上では何が起こっていたかを想像し、爆撃の恐怖を初めて実感できたと言っていました。 軍事評論家の前田哲男さんが、空爆による戦争は、「眼差しを欠いた戦争」ということをよくおっしゃいますが、 元パイロットの回想は、前田さんの話と重なり合ってくるものがありました。そういう前置きをして、本題に入ります。

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●なぜ、重慶爆撃に関心を持ったのか

今から四半世紀前、私は毎日新聞西部本社に在勤していました。西部本社とは九州にある本社のことです。 そのとき、前田哲男さんの『戦略爆撃の思想』という単行本が出版されました。 私は、たまたまこれを読み、東京大空襲などに先立ち、日本軍による重慶爆撃、その爆撃が無差別爆撃であったことに衝撃を受けました。 衝撃を受けた一つがですね、無差別爆撃の立案者が井上成美だったことです。

井上成美というと、最後の海軍大将でリベラル派というイメージが強烈でした。この井上は、重慶爆撃当時、支那方面艦隊参謀長。 この重慶爆撃で無差別爆撃の象徴とされるのが、百一号作戦。その立案者が井上であったことを前田さんの本で初めて知りました。 前田さんの本の中にこんなくだりがあります。

「百一号作戦は日露戦争における、日本海海戦にも匹敵する」。これは井上の言葉だそうです。 井上は、海軍兵学校の校長をしていたころ、敵性言語である英語を授業から外さなかったことに、私はそれまで共感を持っていました。 作家の阿川弘之は『井上成美』という本の中で、開明派としての井上を書いていますが、前田さんの本を通じて、井上のもう一つの顔を知りました。 井上には、実は物差しが二つあって、欧米人に対しては、彼らの人権を認めつつも、中国人をはじめとするアジアの人間に対しては蔑む態度で臨むという物差しです。 前田さんの本から重慶爆撃とは何だったのかを知り、大きな刺激を受けました。

私は、重慶大爆撃訴訟など、戦後補償裁判をテーマに追いかけてきた記者ではありません。 記者としての経歴を話すと、1975年に入社し、5年前に定年退社しました。 33年間、新聞社に勤務し、さまざまな職場を歩きましたが、最後の職場が社会部でした。

初任地は静岡でした。そこで最も関心を持っていたのが、死刑囚再審の島田事件でした。 任地を離れても島田事件が再審無罪になるまで追っていました。職業病・じん肺の集団訴訟も、 初任地でこの裁判に出合ったことが縁で、西部本社に転勤後、旧炭鉱地帯の元炭鉱労働者たちが初めて起こした長崎県の北松じん肺訴訟も最高裁判決、 さらに福岡高裁に差し戻されてからも追い続けました。

以上のように、戦後補償裁判には関心を持ってはいましが、テーマとして追っていたわけではありませんでした。 しかし、最後の職場・社会部ではビキニ水爆実験から50年の節目にあたる2004年、現地のマーシャル諸島を訪ね、 被曝島民から取材しました。

ベトナム戦争終結30年の2005年にはベトナムを訪ね、米軍がばらまいた枯れ葉剤の後遺症にいまなお苦しむベトナム人の現状を目の当たりにしました。 その後、戦後補償裁判とは直接結びつきませんが、赤道直下のニューギニアにも行きました。ジャングルの中に戦後60年以上もたつというのに、 日本兵の白骨遺体が大量に放置されたままになっている現状に、戦後はまだ終わっていないとの認識を深め、 遅まきながら自分なりに何かやらなくちゃならないなと思うようになりました。

重慶大爆撃訴訟の提訴の動きは、新聞の紙面で初めて知りました。「なぜ、今ごろになって」というのが最初の読後感でした。 しかし、これは一度現場に足を運ばねばと思いました。そこで休暇を利用して、 日本側の弁護団と重慶大爆撃訴訟を支援する市民団体が募集する重慶スタディ・ツアーに自費で参加しました。 2006年12月のことでした。

成都、楽山、自貢、重慶の各市を訪ね、原告団の話も直接聞きました。 以後4回足を運んでいます。スタディー・ツアーに参加したころというのは、重慶大爆撃訴訟がその年3月に提訴されていて、 東京大空襲訴訟がこの年の翌年3月に提訴されるという時期にあたっていました。

本日の定例講座のために、吉田源司統括理事が作成した重慶爆撃当時の新聞のコピーを見ていただきたい。 まず、1938年2月19日付の東京日日新聞。東京日日新聞とは、現在の毎日新聞の前身です。 重慶爆撃が行なわれた当時の全国紙といえば、朝日新聞と毎日新聞しかなく、読売新聞はまだ東京地方のローカル紙でした。 同日付の東京日日新聞の4段見出し「長驅、重慶初空襲」。これは重慶初空襲の報道です。 その後も重慶爆撃は大きく報道されていましたが、1941年12月8日に太平洋戦争が始まると、重慶爆撃の報道量はかなり減っていきました。

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●重慶爆撃の被害者たちの声

私がお会いした被害者たちは全部で二十数人になりますが、本日、話すのはその中の一部の人たちに声です。 私がお会いしたとき、重慶市内に住む68歳の男性の場合、重慶爆撃当時は1歳だったそうです。父親は、地元では有名なお菓子屋さんで、 店舗兼住宅は清朝末期に建てられたものだったと言っていました。 その父が爆撃で亡くなったとき、母親は28歳。4人の子供を抱え、母親は大変苦労した。 その母について一番印象に残っている話を聞かせてくれました。

写真を見せながら説明をされている澤田 猛さん 「おまえの家は、お父さんがいないではないか」。小さいとき、子供同士の遊びの中でそう言われたそうです。 帰ってきてから、「なんで僕にはお父さんがいないの」と聞いたとき、母はわっと泣き崩れた。 そのとき初めて、父が日本軍の爆撃機で死んだことを聞いたそうです。そのことが強烈な印象として残っていると話してくれました。

父の死後、家族は悲惨な生活を強いられた。子供たちはみんな進学できなくて、彼だけが兄たちの生活支援を受け、 大学に進学。卒業後、工業デザイナーの道を歩むことができたと言っていました。その方もその後、心筋梗塞で亡くなりました。 原告たちは裁判闘争だけでなく、自らの高齢化とも闘わなくてはならない現状にあります。

もう一人の男性は、世界遺産で有名な四川省の峨眉山市にいまは住んでいますが、爆撃当時は7歳、同じ省内の楽山市に住んでいました。 爆撃で母と兄を亡くし、彼と祖父が後に残されました。祖父は、昔の中国にあった官吏登用試験の科挙に合格し、地元では名士だったそうです。 彼の話で胸にこたえたものがありました。母の遺体は、下半身だけだったそうです。 決め手になったのが、母の履いていた靴下の色でした。それは黄色い靴下でしたと言ったとき、彼は嗚咽をこらえきれなくなっていました。 その後、彼は頼みの祖父にも先立たれ、苦難の人生を歩みました。

世界遺産・楽山大仏で有名な楽山市に住んでいる男性にも話を聞きました。爆撃を受けたのは2歳のときでした。 父は爆死しています。母は当時38歳。残されたのは7人の子供たちでした。 一番下の姉(三女)は、童養娘(トンヤンシー)に出されました。

童養娘というのは中国にあった慣習で、いわゆる口減らしです。 童養?に出されると、その出された先の家の息子とやがては一緒になるのですが、結婚するまではその家の下女として働かされるのです。 母としてはつらい選択だったと思います。彼は何度か来日し、元気な様子でしたが、その後、ガンで亡くなりました。

重慶爆撃の被害者の中で、一番印象に残る女性被害者がいます。爆撃当時は9歳で、自宅は全焼しました。 いまも障害が残り、左耳もよく聞こえません。右頬は爆撃の破片を浴びて、ざっくり頬がへこんでいます。 この方の場合、中国人の同僚からは“半面美人”と陰口をたたかれ、その言葉に耐えて生きてきました。 半面というのは、右頬がざっくりえぐれていることに由来します。小さいころに日本軍の爆撃の破片を浴び、以後70年間、 この深い傷が彼女を苦しめてきました。

この女性に話を聞くとき、私はご自宅にお邪魔して話を聞きました。帰るとき、彼女に姓名と住所を書いてもらおうとボールペンと紙を渡しても、 なかなか書いてくれません。通訳に理由を尋ねると、自分の名は書けるが、住所は書けないという返事でした。 あとで分かったことですが、9歳のときに受けた爆撃で一家の生活は崩壊、日々の生活に追われ、 学校で教育を受ける機会を逸してしまったことが背景にあることがわかりました。

戦禍とは、ほんとうに罪深いことを普通に生きてきた人たちに強いるものだと痛感しました。 彼女の話に代表されるように、被害者の訴えと戦後の歩みを聞いていると、東京大空襲訴訟の原告の訴えと戦後の歩みが似ていること、 共通点のあることに気付くようになりました。

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講演をされている澤田 猛さん

●東京大空襲の被害者たちの声

レジュメに、「東京大空襲訴訟と重慶大爆撃訴訟はコインにたとえれば表と裏、密接不可分の関係にある」と書きました。 コインと言わなくとも、合わせ鏡のような感じが強まってきたのですが、被害者の声の同質性というか、 両訴訟の原告はいわば共同の被害者ではないのかということです。

大空襲訴訟の原告の中から数人の声を紹介したいと思います。大空襲訴訟について少しお話します。 大空襲訴訟とは、第1次原告が112人、57歳から88歳までで、国に対して1人当たり1100万円の損害賠償を請求しました。 重慶大爆撃訴訟の一人当たりの請求金額よりちょっと高いですね。

それで、2007年に、重慶大爆撃訴訟の提訴の翌年の3月9日に東京地裁に提訴しました。 法廷は重慶大爆撃訴訟と同じ103号法廷でした。日本政府を相手取った裁判が同時進行で争われた裁判でした。 第2次提訴もあり、これは原告20人。原告総数は131人にのぼりました。

地裁判決で敗訴、高裁判決でも敗訴し、現在最高裁に上告中ですが、楽観は許されない状況にあります。 大空襲訴訟も大爆撃訴訟も国を相手にしていますから、大爆撃訴訟がそうであるように、 大空襲訴訟でも国側は原告の主張に対し事実の認否をせず、証拠調べも一切不要だとしてきました。 そういう点では両訴訟に対する国の姿勢はまったく一致しています。

大空襲訴訟で最大の争点は、このへんが大爆撃訴訟と異なる点ですけれども、受忍論の壁です。 最高裁が、国家賠償請求訴訟で1987年6月に示した判断は、「空襲の被害を受けた民間人は等しく我慢せよ」というのが受忍論です。 この受忍論の壁をどう打ち破っていくのかというのが、原告側にとっての最大の課題です。 当初、受忍論とは要するに空襲を受けた民間人の被害者はみんな我慢しなさいということなのです。

沖縄戦を例にとっても、沖縄県の住民は、日本軍に武器や弾薬を運んだりする手伝いをしました。 日本政府は、ある時期からそういう人たちを準戦闘員としてみなすというふうに解釈し直して補償措置を講じるようになりました。 ところが、無差別爆撃を受けた民間人は地上では1億総特攻と言ってですね、そういう時代の中を生きていて、 爆撃を受けて家族が亡くなったりしているわけですから、その遺族たちが自分たちも等しく、 戦後補償を受ける権利があるのではないのか。これが原告側の主張です。

受忍論の根拠となっているのは、いまお話した1987年6月、名古屋市の女性2人が国家賠償を求めた訴訟で、 最高裁が示した「戦争は非常事態であり、戦争や損害は国民が等しく受忍しなければならなかった」という判断内容でした。 これを上告審でどう乗り越えいくのか。そこに難しさがあるわけです。

そんな前置きをして、大空襲訴訟の被害者たちの声を伝えていきたいと思います。 原告団の女性副団長の場合、大空襲当時は9歳でした。学童疎開をしていて難を逃れましたが、 母と姉と妹の3人を一度に失って、戦災孤児になりました。 大空襲訴訟の場合、戦災孤児だった原告がすごく多いのです。 彼女のその後の人生は親戚の間をタライ回しにされ、成長してからは親戚宅を飛び出して、ホステスとか、 今は差別用語になっている女中さんなどをしながら自活の道を開き、その生活を25歳で結婚するまで続け、非常に苦労されました。

男性副団長の場合、父と母、それに弟の3人を同時に失いました。当時12歳だったそうです。 幸いにも学童疎開先にいたため彼は難を逃れましたが戦災孤児になりました。 親戚に引き取られてイジメに遭うなど辛い日々を送って生きてきました。 先ほどお話した重慶大爆撃訴訟の女性原告ではないですけれども、空爆で受けた傷というのは、 それがたとえ直接的な被害ではなくても、現在まで癒えることなくその苦しみが続いている例を大空襲訴訟の2人の副団長に見る思いがしました。

もう一人、男性原告を紹介します。彼の場合、母に姉、妹2人に弟の5人を同時に失っています。 ご自宅の仏壇の中に置かれた位牌には、5人の戒名が並んでいました。彼自身は、 地上に落ちてくる焼夷弾の筒を肩に受け右手首に重症を負いました。 彼の戦後は、キャンデー売りとか、仕事は何でもやったと言っていました。

右手が不自由なため、屋台でラーメンが作れるわけではないので、屋台を後ろから押して手間賃を得る、 そういう仕事もして戦後を生きてきました。 そして、80歳を超えた今も週2回、働いています。国民年金ではとても夫婦2人が生きていけないと訴えていました。 彼の戦後は顔に受けた傷を背負って生きてきた重慶の女性原告と不思議に重なってきました。

重慶大爆撃撃の被害者の声と東京大空襲の被害者の声を聞いていると、日中という国の壁を越えて、被害者の傷や痛みの同質性というか、 そういうものをひしひしと感じたものでした。日本的な表現を使えば、犠牲を強いられるのは、いつも庶民ではないのか。 それは、中国にしても日本にしても同じようなことが言えるのではないのか。日中双方の被害者の声を聞くにつけ、 そんな思いを私はだんだん強くしていきました。

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●重慶爆撃に加わった日本軍爆撃機の元操縦員の回想

重慶爆撃に加わった日本軍爆撃機の元操縦員については、冒頭に、ちょっと話をしましたが、 この方は、重慶爆撃に九六式陸上攻撃機の副操縦士として初めて実戦に参加しました。 その後、飛行兵曹長になりましたから、准士官で敗戦を迎えています。劣勢になった航空作戦の中を生き抜いてきた方でした。 1937年に海軍に入隊して航空兵となり、第51期操縦練習生の卒業生56人のうち、生きているのは私1人だと言っていました。

この方の場合、重慶爆撃に副操縦士として初の戦闘に加わり、それ以降、南西方面、ソロモン方面などを転戦、敗戦を日本国内で迎えています。この方は、戦闘行動を丁寧に日記に記しています。重慶爆撃に参加したある日の日記を読み上げてみます。1941年7月のある日にこんな記述がありました。 「重慶上空 天候極めて不良 積乱雲多し 高度四000 重慶を右に見て磁器口へ 白市駅を見つつ旋回 目標へ進入 全弾命中  工場より白煙物凄く上り真紅の焔が立つ様は実に云い様もなく嬉し」

熱心に受講されている皆さん 実に淡々とした叙述です。爆弾投下で、地上がどんな地獄絵図になっているかをうかがわせる記述は、どこにも見当たりません。 ちなみに、重慶市郊外の磁器口は、重慶大爆撃訴訟の被害女性の住んでいる所だけに、日記を読んでいて思わずドキリとしました。 日記にある最後の記述は、当時の爆撃搭乗員からすれば“やった”という感覚ではなかったろうかと思います。 この方は、戦後、海上自衛隊に入りましたけれども、戦後50年に当たる1995年の夏に、重慶に2泊3日の旅行をしています。 いわば贖罪の旅でした。

この方が語ったことで、一番印象に残っているのが、「重慶に行って初めて地上で被害を受けた人たちの苦しみや辛さが分かるような気がした、 何千メートルという上空からでは何もわかりません」という言葉でした。 前田哲男さんはこれを「眼差しを欠いた戦争の恐ろしさ」という言い方をしています。現代の戦争でハイテク機による空爆は、 とりもなおさず眼差しを欠いたもので、上空からでは、戦争の持つ恐ろしさも被害を受ける人たちの苦しみもわからないということだと思います。

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●被害と加害を越えて

レジュメの「被害と加害を越えて」で、本日の講座を締めくくりたいと思いますが、これは便宜上そうしているだけで、 締めくくりとしてはちょっと格好が良すぎますね。 作家の早乙女勝元さんとお会いしたとき、早乙女さんも重慶爆撃の実態を前田さんの本で知り、すぐに現地に足を運んで被害者の話を聞いてきた、 と話してくれました。私は早乙女さんに、その重慶爆撃をどう思いますかと聞きました。

「自分が東京大空襲の被害者で、その被害体験の傷の深さに目を奪われ、かつて日本軍が、 私たちが受けたのと同じような爆撃を重慶の人たちに行っていたことに衝撃を受けました。 戦争を語り継いでいくには加害の問題を含めた取り組みの必要性を感じています」と話していました。

中国の原告団の方々は、来日すると、大空襲訴訟の原告団との交流会がほとんど毎回あります。 ある年の年末、5回目の交流会に私が参加したときのことです。原告団楽山支部の秘書長(日本の事務局長に相当する)は、 あいさつの中で、「両裁判の原告には同じ被害者としての共通点があります。 被害者同士の交流は中日友好にもつながります」とはっきり言っていました。この言葉に私は感動しました。

非常に和やかな交流会でしたが、秘書長が発した言葉の背後には長い道のりがあったことがうかがえました。 被害と加害を越えていくときの双方のキーワードのように思えました。 そして、秘書長は大空襲訴訟の原告団長に絆(きずな)の証しとして掛け軸用の書を贈りました。 掛け軸には「海内存知己天涯若比隣」と書かれていました。この広い世界に知己がいれば、 天の涯(はて)でも隣にいるかのようだという内容でした。 私は、今後も二つの裁判に関心を持って見守りながら、私なりに関わりを今後も持ち続けていくことになるだろうと思っています。



講座企画・運営:吉田源司
テキスト製作:澤田 猛
会場写真撮影:飯嶋重章
HTML制作:上野治子

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