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2013年5月10日 神田雑学大学定例講座NO646 

三国志の虚像と実像1

三国志の英雄たち


正史「三国志」

講師:塩崎哲也


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 講師紹介
 A 三国志
 B 三国志の名場面
 C 人物評価
 D 英雄たちの人気度
 E 関帝廟の謂れ
  F 英雄たちの陵墓

塩崎哲也講師
講師紹介 (吉田源司 統括理事)本日の塩崎哲也さんは、神田雑学大学の講師としておなじみの方です。技術者であった塩崎さんは、定年退職後、それまでのご経験を買われて中国の日系企業の技術指導をまかされ<
1998年から2007年まで中国に滞在されました。
変わりゆく中国経済や政治の実態、人々の生活習慣など、中国事情にとてもおくわしい、まさに中国通として、これまでに10回も中国をテーマにした講座をされています。

「2012年中国情勢」
http://www.kanda-zatsugaku.com/120330/0330.html
「中国の若者 婚活、結婚、そして離婚」
http://www.kanda-zatsugaku.com/110729/0729.html
「中国人家庭の炊事・洗濯」
http://www.kanda-zatsugaku.com/110617/0617.html
「冷凍餃子事件の意外な結末」
http://www.kanda-zatsugaku.com/100702/0702.html
「チベット・ウィグル暴動とその背景」
http://www.kanda-zatsugaku.com/091218/1218.html
「返還後の香港、マカオ」
http://www.kanda-zatsugaku.com/090925/0925.html
「中国、偽物天国と一般商品の品質」
http://www.kanda-zatsugaku.com/090703/0703.html
「中国、食の文化」
http://www.kanda-zatsugaku.com/090508/0508.html
「中国の人々の縁起かつぎ」
http://www.kanda-zatsugaku.com/090424/0424.html
「生の中国を語る・・中国世相アラカルト」
http://www.kanda-zatsugaku.com/080620/0620.html

今回は、現在も非常に人気の高い「三国志」をとりあげます。その虚と実について語っていただくシリーズの第1回めです。では、よろしくお願いいたします。
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A 三国志
1三国時代とは
 3世紀の中国で魏・蜀・呉の三国が鼎立していた時代を三国時代という。
 統一帝国として400の命脈を保った漢の瓦解によって生まれた時代で、その後の魏晋南北朝の分裂時代が始まる。政治上のみならず、社会・経済や思想・文化のうえでも画期となる時代であり、東アジア全体から言えば、日本を含めた非漢民族の小国家が中国周辺で生まれる時期でもあった。

2 三国時代の概略
 184年の黄巾の乱は、全国に軍閥を興起させる契機となった。外戚の干ばつによる大凶作で農民が流民化何進は、首都洛陽の警備のため、八校尉をおいた。やがて自立して群雄となる袁紹と曹操も、そのひとりである。何進はまた、山西方面の軍団長である董卓に入朝を要請した。董卓は、洛陽に入り朝政を握ると、皇帝を廃立したため、群雄は、袁紹を盟主に董卓討滅の軍を起した。呉の始祖である孫堅もこのとき袁紹の弟袁術の配下として活躍した。董卓は、献帝を擁して長安に拠ったが、部下の呂布らに殺され、関中地方も混乱に陥った。

184年三国時代勢力図2

 一方、華北東部には、公孫瓚、袁紹(冀州)らが割拠し、黄河以南では曹操が兗州(えんしゅう)、後豫州を拠点に勢力を伸ばしていた。袁術は南陽を中心に荊州北部を領有し、孫堅の子・孫策は長江の下流に拠った。これら群雄間の激しい交戦の結果、呂布は曹操に敗れ、公孫瓚は袁紹に滅ぼされた。一時、帝号を称した袁術も曹操に敗北した。勝ち残った袁紹と曹操の決戦は、200年の官渡の戦いで曹操の勝利に帰した。
三国時代勢力図3三国時代勢力図4
 
曹操は、献帝を擁して鄴に移り、華北東部を制覇した。やがて、長江中流域への進出を企てたが、劉備と孫権が立ちはだかる。劉備は、群雄間を転々としたのち、荊州牧劉表に帰属していた。曹操は、劉表の死に乗じて南下したが、劉備は、諸葛亮の策によって孫権との同盟をはかる。孫権側でも対曹操主戦論が優勢となり、呉の大都督・周瑜は火攻めにより曹操軍を赤壁の戦いに大敗させた(208年)。
三国時代勢力図5 曹操の江南への野心が阻まれたことは、諸葛亮のいわゆる「天下三分の計」が緒についたことを意味する。
 一方、曹操は関中へ勢力を伸ばして華北全土を手中に収め、益州(蜀)を脅かした。益州牧劉璋が劉備に援助を請うと、劉備は、劉璋を攻めてこれを降し、益州を本拠とした。ここで、孫権と劉備の間で長江中流域の要衝である荊州の帰属問題が表面化した。孫権は、曹操と結び、武将呂蒙を遣わして荊州の守将関羽を襲い、この地を奪取させた。ここに三国の境域はほぼ画定した(219)。翌年、曹操が病死し、子の曹丕が漢を簒って、魏を建て、三国鼎立が定まるのである。

3 三国歴史書
 1)正史「三国志」正史「三国志」の本正史「三国志」とは、魏・呉・蜀の三国が争覇した、三国時代の歴史を述べた歴史書で、撰者は西晋の陳寿(233~297年)。
「三国志」では、三国の内の魏を正統として扱っているが、陳寿は三国を対等に扱い、本文も「魏書(30巻)」「呉書(20巻)」「蜀書(15巻)」と三国を分けて扱っている。
「正史三国志」で、陳寿は、信頼性の乏しい情報を極力排して簡朴明解な記述を行ったため、「質直さにおいて前漢の偉大な文章家・司馬相如を超える」、「人物評価に見るべきものがあり、記事は公正・正確」などと歴代王朝の歴史家などの高い評価を受けている。
陳寿の記述は、簡約を旨としたため、南朝宋の裴松之(372~451)が200種余の資料を精査し、史実を補ない、注釈を加えている。現在の三国志の正当性は、この裴松之の「三国志注表」であると言われている
後世、歴史書は「正史三国志」を基としているが、唐・宋・元の時代に、これら三国時代の三国の争覇を基とした説話が出回り、その説話を踏まえて、明朝初期に羅貫中が、民衆の一般受けを盛込み完成したのが「三国志演義」である。正史「三国志」
後世の三国志の世界は、「三国志演義」を基として発展を続け、世界中に広まったものである。
 また、「三国志演義」は小説である以上、フィクションが含まれ、世にいう「三分の虚構」はやむを得ぬ仕儀であろう。関羽や孔明の奮戦にもかかわらず滅びていく、その「滅び」の美学を描いたのが「三国志演義」で、中国のみならず、判官贔屓の日本にも大きく受けたのである。
 なお、日本古代史で有名な卑弥呼伝説は前記「魏志」
の中に記述がある
三国演義魏志 倭人伝講演スナップ

2)「正史三国志」と「三国志演義」の違い
たんに「三国志」と言う場合、本来は陳寿の史書を指す。対して、「三国志演義」は、明代の白話小説(口語小説)であり、「三国志」を基としながらも、説話本や雑劇から取り込まれた逸話や、作者自身の思い入れ、贔屓(特に孔明、関羽)による創作が多く含まれている。
登場する地名・官職名・武器防具などは三国時代の時代考証からみて不正確なものが多い。
明朝時代、「小説」とは「くだらない読み物」の意味である、伝統中国の儒教的歴史観において、小説は歴史学に比べて低俗なものと位置づけられていた。羅貫中は、儒教的歴史的観に基づきながら物語を史実に近づけて、何とか「小説」の地位を高めようとしたのである。そのため「三国志演義」は、「七分事実、三分虚構」と言われるほどに歴史的事実に近い「小説」となったのである。
「三国志演義」は、手軽に手に入り読むことができ、また戦略の成功・失敗例が明解に描かれているため、いわば「素人向け兵法書」としても重宝された。張献忠・李自成・洪秀全らが農民反乱を起こした際、軍事の素人である彼らは「三国志演義」を「唯一の秘書」としたと言われている。桃園結義
3)羅貫中の思い入れ
羅貫中は「演義」で、冒頭に桃園の誓いを配し、劉備、関羽、張飛の3人を「義」、「信」で結ばれた英雄とした。なかでも「演義」120章中、97章に関羽を登場させ、不世出のヒーローとして扱った。関羽をヒーローとした背景に、当時の作者は自分で執筆、印刷・出版、販売するほどの力はなく、皆スポンサーに頼るのが普通であった。羅貫中は山西人であったため、山西商人がスポンサーとなった。
関羽の故郷は山西省・運城市、関羽像郊外に解池(塩湖)があり、そこで採れる塩は宋・元時、全中国の需要量の70%超を賄っていた。
唐朝以前は、塩は国家の専売であったが、宋朝が山西商人に独占権を与え、山西商人が全国への輸送ルート、販売網を築いた。この専売システムは元の時代にも引き継がれ、ますます繁盛していった。
山西商人は「義」・「信」を重んじ、知らない土地での絆として関帝廟を建て、情報交換の場とした。そこでは人形劇で故郷の英雄・関羽を演じ、関羽を「義」・「信」のシンボルとしていた。
解池(塩湖)三西商人城







4)日本における三国志の受容と流行
「三国志」の伝来時期は、正確には判明していない。天平4年(760年)、『藤氏家伝』に、蘇我入鹿の政を「董卓の暴に國に行なわれる」と批判する記述があり、すでに董卓の奸臣としてのイメージが形成されていた事が窺われる。
同じく天平宝字4年、淳仁天皇は舎人6人を大宰府に遣わして吉備真備の下で「諸葛亮八陳」、「孫子九地」といった陣法を修得させているとの記述が日本紀巻23にある。
「三国志演義」の伝来時期は確定されていないが、林羅山は慶長9年(1604年)までに「通俗演義三国志」絵本通俗三国志を読了した。また、元和2年(1616年)に徳川家康の遺志により駿府の文庫から水戸藩・尾張藩へ移された書籍の内に「演義」があった。
元禄時代の「通俗三国志」、天保年間、北斎の門人・葛飾戴斗の挿絵入り「絵本通俗三国志」は、江戸市民の人気を得たが、これらは三国演義の翻訳ものである
戦後の三国志ブームの礎となったのが吉川英治氏の新聞小説「三国志」(台湾日日新報)である。戦闘シーンなどの冗長な描写を省き、人物像にも独自の解釈を取り入れた格調吉川英治「三国志」高い歴史文学として評価されている。それまで、たんなる悪役扱いだった曹操を、人間味あふれる乱世の風雲児として鮮やかに描いているのが特徴である。
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B 三国志の名場面
1 桃園の誓い
桃園の誓い 「桃園の誓い」は、「桃園結義」とも称され、「三国志演義」などの序盤に登場する劉備・関羽・張飛の3人が、宴会にて義兄弟(長兄・劉備、次兄・関羽、弟・張飛)となる誓いを結び、生死を共にする宣言を行ったという逸話のことである。
「我ら三人、生まれし日、時は違えども兄弟の契りを結びしからは、心を同じくして助け合い、困窮する者たちを救わん。上は国家に報い、下は民を安んずることを誓う。同年、同月、同日に生まれることを得ずとも、同年、同月、同日に死せん事を願わん」。
これは、正史「三国志」にない逸話であって創作上の話である。正史「三国志」では、当時の劉備は遊侠人であると、あるとき、中山の馬の大商人が、劉備を見て、これを異とし、金財を与え、徒衆を集めさせた(馬の運搬の用心棒)。一方、関羽について、河東解の人なり。亡命して涿県に奔る。先主、郷里において徒衆と合わす。而して羽は張飛とともに之(劉備)がためにぎょ侮となるとある。
陳舜臣氏の解釈;関羽は塩の密売人の用心棒で、漢の取締役人に追われ、涿県に逃げ、そこで劉備の馬商人の護衛の1員に雇われた。その後、劉備は護衛の若者たちを引連れ、黄巾賊討伐に参加した。

2 赤壁の戦い
「赤壁の戦い」赤壁「三国志演義」では、赤壁の戦いが最大のハイライトになっており、レッドクリフなど三国志を扱った多くの映画でも赤壁の戦いは一大スペクタクルとして描かれている。
赤壁で魏軍、呉軍が戦い、魏軍が敗退したことは確かであるが、その勝因として「演義」では「孔明の立案による“火攻め”であるとしているが、事実は魏軍陣地に疫病(風土病)が蔓延したためである(詳しくは次回の講座にて)。
もちろん孔明の“十万本の矢”、“風乞い”の祈祷などは「演義」の創作である。赤壁の戦い
*火攻め“火攻め”自体はあったが、魏軍に壊滅的な損害を与えたほどの大作戦ではなかった。
魏軍の船陣地は5層の船列で、その幅が1,500mもあり、そこに油を注いだ枯草、柴を積込んだ小船20艘を突っ込ませた程度では敵船隊に大火災は望めない、ましてその夜は大雨であった。
三顧の礼
3 三顧の礼 三顧の礼は、故事成語のひとつ。目上の人が格下の者に対して三度も出向いてお願いをすることであり、中国で劉備が諸葛亮を迎える際に三度たずねたとする故事に由来する
 この「三顧の礼」については正史「三国志」にも記述があるし、また、孔明が書いたと言う「出師の表」に“三顧臣草廬之中(臣を草廬の中に三たび顧み)”とあり、劉三顧堂備が諸葛亮を三度訪ねたことは確かであろう。このエピソードは、後世の日本にも影響を与えており、木下藤吉郎が竹中重治を配下に加えるくだりで使われているし、2011年の菅改造内閣において与謝野馨を経済財政政策担当大臣に起用したときにもこの言葉が新聞紙上に躍った。

4 一騎打ち
関羽・華雄一騎打ち「演義」では、魏や呉の武将が蜀の関羽、張飛、趙雲などの武将に討ちとられるシーンが数多くある。しかし、それらの多くは蜀に華を持たせるための創作である。
 例としては、前半におけるフィクションの一つとして反董卓連合軍の一兵卒である関羽が華雄将軍の首級をあげる場面がある。実際には華雄は孫堅軍との戦闘中に討ちとられており、関羽が討ちとった訳ではない。
 これが関羽の勇猛さと伝統や身分に囚われず有能な人材を使う曹操関羽・華雄を討取るという印象を読者に与えている。
また、呉の朱然は、夷陵の戦いで趙雲に討たれているが、正史「三国志」では呉の重鎮として夷陵の戦いの後も生き、天寿をまっとうしている。
 他にも、定軍山で黄忠に討たれた夏侯淵や、白馬、延津で関羽に討たれた顔良、文醜(董卓軍の華雄も)などはいずれも彼らに斬られたという記述はなく、正史「三国志」では、ただ戦死したと書かれているのみ。張飛・馬超一騎打ち史実上、確かにあったとされる一騎打ちは、太史慈と孫策の一騎打ちで、引き分けに終わっている。
中国の伝統的な戦闘法は集団による戦闘で、武器もそれに適したものとなっている。雑兵による一騎打ち志願を総司令官が許す訳がない。

5 「死せる孔明、生ける仲達を走らす」234年、魏の名将・仲達との五丈原における数ヶ月に及ぶ対陣中,孔明は倒れる。そして死せる孔明、生ける中達を走らす,整然と退却するように言い残して,この不世出の軍師は,この世を去った。
 しかし,その退却の整然とした有様から,孔明の策略を畏れた仲達は,これを追うことをしなかった。これが,「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の故事となる。もちろん、孔明の木像を見て、追撃を止めたと言うのは「演義」の創作である。
 蜀軍が退却したのち、仲達はその陣跡を見、「諸葛亮は天下の奇才だ」と漏らしたという。ある将が仲達にこの「死せる孔明・・・」の話を報告すると、仲達は「生者を相手にすることはできるが、死者を相手にするのは苦手だ」と笑ったという。
「三国志演義」では司馬懿は典型的な悪役のやられ役のような人物になっている。正史にでは、司馬懿は、五度も北伐を敢行する蜀軍の食糧事情が苦しいことを知っていて、孔明死す待っていれば退却すると思い、戦わず、自軍の兵力を保持することを最善とした。むしろ、焦っていたのは孔明で、司馬懿を何度も挑発するが、司馬懿は戦うことなく、孔明は五丈原にて陣没し、蜀軍は遺命により退却する。司馬懿は牽制の意味で退却する蜀軍を追撃するが、蜀軍の反撃が思ったより厳しいので、司馬懿は軍を退いたとある。正史を見る限り、真の天才軍師は司馬懿仲達であると言わざるを得ない。

6 美人連環の計美女連環の計美女連環の計は、王允が董卓を暗殺するために行った計略。史実にある呂布が董卓を殺害した事件を、「演義」の中で脚色されたために出来上がったエピソードである。
貂蝉とは、架空の人物であるが、「演義」では後漢の臣王允の養女となっている。楊貴妃・西施 ・王昭君と並び、古代中国四大美人の一人に数えられる。
正史「三国志」には貂蝉の名はないが、「美女連環の計」の基となった記述があり、モデルと思われ美女連環の計る人物がいるので、「演義」では貂蝉を登場させ、連環の主人公とした。
正史「三国志」に残る話は;呂布が董卓の侍女と密通したが、発覚をおそれて王允に相談した。すると董卓打倒を考えていた王允は、この際呂布に董卓を討たせようと考え、殺すように進言した。呂布は従前からちょっとしたことで董卓と確執が生まれていたので、王允の言うとおり実行した。これが美女連環の計の創作の元となったと言われる史実。すなわち貂蝉のモデルはこの「董卓の侍女」。
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C 人物評価曹操1 曹操*外観
曹操の外見は「形陋」「姿貌短小」とあり、小男であったことが記述されている。これは「三国志」における人物の多くが、背が高い、見目麗しい、髭が立派など、優れた外見を記述されているのと対照的である。
呂布が捕われ、曹操の前に引かれてきたとき、呂布は曹操に;「公、何ぞ痩せたる」と揶揄したのに対し、曹操は言下に「靖乱反正。わが痩は国事のためなり」と痩を誇っている。

*人物・性格
「三国志」によれば、曹操は厳しい性格で、職務で誤りを犯した属官を治世の能臣 乱世の姦雄しばしば杖で殴っていた。曹操が司空だった時、彼の属官は、常に毒薬を所持し、杖で叩かれたら毒薬を飲む覚悟で職務に当たっていた。
曹操がまだ洛陽で一邏卒であったころ、彼を一見した子将が「君の相は、治世の能臣、乱世の奸雄である」と喝破した。それを聞いて曹操は「それは本懐です」と答えた。薄給弱冠の一小吏ではあるが、そのころから天下の乱雲を仰いで、独り固く期したものを胸に秘めていた。
曹操像文武両面に非凡な才能を見せた曹操を陳寿は「非常の人、超世の傑」(類稀なる才の持ち主であり、時代を超えた英雄である)と評している。日本でも、吉川英治氏は「書いているうちに曹操が魅力的に感じた」と後書きで告白している。
 
*政治家として
  • 政策変更:政策に柔軟性あり、方法を変更しても、目的はぶれない
  • 税制を改革:調を新設し、租・調制を定着させた。税はこれまで銅銭で納めていたが、現物納付をOKとしたその後、隋時代に庸が加わり、租庸調が確立した
  • 屯田制:他の群雄達が兵糧確保の為に農民から略奪をしていた当時、曹操は屯田制と呼ばれる農政を行った。屯田とは、戦乱のために耕すものがいなくなった農地を官の兵士が農民を護衛して耕させる、自らも農耕する制度である。これによって潤沢な食料を抱えることになった曹操は、各地の民衆を大量に集めることができるようになった。この先進的な屯田制が、当時の群雄割拠の中で曹操が勝ち残る理由の一つとなった。

  • 曹操は領地の境界付近に住む農民を勢力圏のより内側に住まわせた。これは戦争時にこれらの人々が敵に呼応したりしないようにするためであり、敵に戦争で負けて領地を奪われても住民を奪われないようにするためでもある。後漢末・三国時代は相次ぐ戦乱などにより戸籍人口が激減しており、農民、労働者は非常に貴重だった。
  • 人材登用:家柄や品行によらず、才能ある人材を積極的に登用した。建安15年(210年)に布告した「求賢令」では、「才能を重視し、家柄や過去にこだわらず、当時身分の低かった専門職の人々も厚く用いる」という登用姿勢を打ち立てている。この方針は同時代ではかなり異例、異質なものであった。
    具体例として、曹操は司空府・ジョウショウフ(*1)において、尚書令のジュンイク(*2)、中軍師の荀攸らを中心に参謀集団を構成し、政策・戦略決定に関与させた。曹操を支えた軍帥たちこれは制度化された本格的な軍師(参謀)官職としては、世界初の事例ともいわれる。
    袁紹・劉備・孫権ら同時代の他の群雄は、客将・名士層や豪族を抱きかかえる程度であったのに対し、曹操はより積極的に軍師・参謀を組織的な軍事・政治顧問として用いた
    曹操は適材適所もわきまえており、『魏書』には「任された将兵は立場をよく理解し、自らの武と奇策をもって難に向かった」との記述が残る。ジュンイク(*2)によれば、曹操機種依存文字の説明軍の軍法軍令は明白で、賞罰も的確に行われていた。朝廷内の意思を統一するため三公を廃止しジョウショウ(*3)と御史大夫の復活による権限の一元化はかり、軍閥の抑制を目的に地方分権型から中央集権型軍隊への移行、州の区分けを再編することを目的とした合併独立などである。
  • 教育:彼は夜は経書を読み、朝には詩を詠んだ。わけて群書を博覧し、郷党のために学業の精舎を建て、府内には大文庫を設け、古今の兵書を蒐蔵し、自分でも著わすなど、彼は決して一介の武人ではなかった。

    *兵法家、将軍として
    兵書『孫子』を現在残る13篇に編纂したのは曹操である。また、『隋書』によると、曹操には『孫子』の他にも、『続孫子兵法』、『太公陰謀』、『兵書接要』、『兵書論要』などの兵法書を著している。
    『李衛公問対』によれば、曹操は騎兵の運用法に優れ、唐の名将・李靖も崇拝していた
    一方、実戦においても優れた戦略家・軍略家であった。当初は董卓・劉焉・袁紹らのような有力な勢力ではなかったが、その後群雄の一人として連戦連勝を重ねてのし上がり、最終的には中国北部全域を支配するまでに勢力を拡大している。特に匈奴・烏桓・羌などの遊牧騎馬民族との戦いでは無類の強さを発揮している。また、奇襲・伏兵を用いた戦いを得意とし、袁術・呂布との戦いでは水攻めを用いて勝利している。謀略に長じ、軍の統率にも大いに長け、また兵書を編纂し評論できるほどの確かな戦術理論を持っていた。曹操と仲達曹操がこと戦役において、袁紹ら他の群雄と比べ瞭然として勝っていた部分は、部下の進言・献策を的確に見極めて取捨選択し、利己心無しに受け入れる能力と言える。多くの重要な戦役においては、それらによって曹操が一時不利な状況から勝利を収めた例が少なくない。
     果断即決は、曹操の持っていいた天性の特質中でも大きな長所の一つである。彼には兵家の将として絶対に必要な「勘」の鋭さがあった。他人には容易に帰結の計りがたい冒険にも、彼の鋭敏な「勘」は一瞬にその目的が成るか成らないか、最終の結果を悟るに早いものであった。

    *悪役のイメージ
    劉備と曹操清朝時代、人形劇で曹操が敗れる場面では民衆が喝采するほど、悪役のイメージが定着していた。曹操の悪役としてのエピソードのほとんどは伝聞である。
    苛烈ともいえる行為が正史にも記録されている。時代が下るにつれ、この苛烈な処置が強調され、悪役となった。
    「演義」でいう悪役行為についての現代の評価
     ・曹操は、皇帝である献帝を蔑ろにし、権力を握っていた。
     ・伯父・呂伯奢を惨殺した。
     ・最大の功臣・ジュンイク(*2)に自殺を命じた。
     ・名医と言われた華佗を獄死させた。

    (1)ジュンイク(*2)の粛清ジュンイク最期「演義」で、ジュンイク(*2)は曹操が魏公になるのを諌め、ために曹操の不興を買う。ジュンイク(*2)は病と称し、朝廷に出ず、また曹操の呼出にも応じなかった。ついに使者が来、「魏公からのお見舞いである」として、食物の入っている一器を彼に贈った。器の上には「曹操親から之を封す」という紙がかけてあった。蓋を開けてみると、器の中は何も入ってなかった。これをみてジュンイク(*2)は「お気持はわかった、ああ……」。その晩、ジュンイク(*2)は毒を飲んだ。
     もちろん、魏王諌止の不興をあろうが、本質は後嗣・ソウヒ(*4)時代での不協和音の排除であった。ジュンイク(*2)も静かに従ったのである。曹操亡き後の魏国の安泰を考えればやむをえない処置であろう。歴史上、漢の劉邦の例もあり、日本でも鎌倉初期、室町初期、江戸初期など、王朝初期の基礎がために欠かせない一里塚であった。

    (2)呂伯奢一家の惨殺
    「三国演義」では、曹操の悪役ぶりの極めつきとして、伯父・呂伯奢一家の惨殺を挙げている。
    呂伯奢一家惨殺
    曹操は董卓の暗殺に失敗し、逃亡の途中、呂伯奢の家に泊まった。夜、刃物を研ぐ音に目覚め、殺されると誤解し、伯父一家を惨殺した
    正史にはこれについての記述はない
    王沈の「魏書」には「知人の呂伯奢は留守で、その家の子と食客たちが曹操の馬と荷物を強奪しようとしたので、これを切り殺した」とある。

    (3)華佗獄死
    華佗は曹操の典医となり、曹操の持病・頭痛や目眩の治療に当たっていた。しかし、華佗は自分が士大夫として待遇されず、名医としてしか見られないことを残念に思っていた(当時、医者の社会的地位が低かった)。
    華佗、曹操を診る
    そこで、帰郷の念が募って、医書を取りに行くといって故郷に戻って、その後は妻の病気を理由に二度と曹操の下に戻ろうとしなかった。
    曹操は、妻の病気は偽りと知り、これに怒って華佗を投獄し、獄死させた。
     名医が獄死したことは残念であるが、時の絶対権力者に逆らったことは、当然の帰結と考えるべきであろう。
    劉備
    2 劉備
    *容貌
    劉備は背丈が七尺五寸(約180センチ)、腕が膝に届くまであり、耳が非常に大きく自分の耳を見ることができたと言う。
    また、現在残されている肖像画には立派なひげを蓄えた容貌が描かれているが、「蜀書」には張裕に「潞涿君」(ひげの薄い人の意)とあげつらわれたとある。
    劉備
    *遺言
    劉備の遺言劉備は、孔明と二人の息子を呼び寄せ、孔明に、「君の才能は魏の曹丕に十倍する。必ずや国に安定をもたらし、統一を果たしてくれると信じている。わが子、劉禅が帝君としての素質を備えているようであれば、これを補佐してくれ。だが、もし劉禅が補佐するに足りない凡器だと思ったのなら、君がとって代わって皇帝として国家を統率してくれ」
    明末の学者・王夫之は劉備の遺言について、君主として出してはいけない「乱命」であるとしている。簒奪を警戒する劉備が、諸葛亮および他の臣下に対し釘を刺したのではないか、そして、その結果が、簒奪を警戒されないようにと北伐の際の諸葛亮の行動を縛る事になったという見解に基づくものである。

    *後世の人物評価
    陳寿は、好機を得るための機知や、行動の根幹をなす戦略では、魏武(曹操)に及ばなかったため、勢力の基盤となる領土も、その才能の差に準じて狭かった。しかし、挫折して人に屈しても諦めることなく、最終的には誰の下にも居らず独立したのは、彼の器量を考えた時、自分を何時までも許容・擁護し続けてくれるような人間ではいないと見、自分にふりかかった災難を避け、殺されないようにするためだったと言えよう(『蜀書』「先主伝」)とほめている。
    一方で、陳寿は劉備の能力について、曹操が部下に尋ね、その返答で「劉備は一地方を治めるだけの能力はあるが、天下を治めるとなると役不足だと思う」と。
    ・吉川英治氏は、正史では「劉備はしたたかで、逃げ足の早い、平気で人を見捨てる権謀術数に長けた人物」と。
    ・陳舜臣氏の「秘本三国志」でも、劉備たち義兄弟はチンピラのように書かれている。劉備の悪党ぶりは、劉璋が支配する益州に入り、劉璋を倒して益州の主になる段階で遺憾なく発揮されている。
    劉備が赤碧の戦いまでに組した相手は;
    公孫瓚 ⇒ 陶謙 ⇒ 呂布 ⇒ 曹操 ⇒ 袁紹 ⇒ 劉表 ⇒ 孫権image041
    【反覆常ない、したたかな人物】
    また、曹操に身を寄せていた一時期、献帝の密
    勅で、曹操を撃とうとするが失敗。
    劉備のこの行為を「演義」では漢王朝に対する忠義としているが、実際は曹操の地盤を簒奪するのが狙いであったと辛辣な評価をしている。

    *統率力
    曹操、孫権にくらべ、複数の重要な部下に裏切られている。
    ・魏延:孔明亡き後、その後継を狙い反乱
    ・張飛の乱暴に耐えかね、張達と范彊は、張飛の首を手土産に、孫権へ投降した。
    ・関羽の援けを見殺しにした孟達と糜芳は劉備の報復を恐れ、曹軍に寝返った。

    *兵法家、将軍として 劉備は、戦が下手というイメージがある。曹操に負けてばかりで、最後は大軍を引きながら陸遜に大敗している。実際の彼は、優れた戦術家である。曹操には負けているが、部下の夏候惇、于禁、夏候淵、張洪などを破っている。漢中攻防戦では曹操をも破っている。
     演義では、孔明が活躍しているが、劉備は、孔明をほとんどの戦に連れて行っていない。軍事はほとんど劉備が中心であった。孔明の役目は、常に後方支援であった。劉備が蜀を敢然制覇し、漢中を手に入れるまでの幾多の戦いの勝利は、劉備、法正、黄権の指揮によるものである。

    3 孫権孫権*容貌
    演義の記述によれば「孫権生得方頤大口、碧眼紫髯。(孫権は生まれつきあごが角張っていて、口が大きく、青い目をしていて、ひげは紫色だった。)」となっており、彼は中国人でありながら「青い目」を持っていた。
     陳寿の正史三国志の裴松之の注によれば、孫権の風貌の特徴を記す箇所に「方頤大口、目有精光(目にはキラキラとした光が有った)」と書いてあるに過ぎない。

    *人物評価孫権像
    時勢を読んだ外交を始めとして思慮深さを見せる人物であったが、一方で、感情のままに行動をとり、部下から諌められた逸話が複数残っている。正史三国志の著者の陳寿は、呉主伝の中で「身を屈して、恥を忍び、計を重んじ、勾践の奇英あり 人の傑なり(屈身忍辱、任才尚計、有勾踐之奇、英人之傑矣)」と褒める一方、「然れども性は嫌忌多く、殺戮に果なり(然性多嫌忌、果於殺戮。性格は人を忌み嫌うことが多く、刑罰によって人を殺すのに果敢であった)」と批判している。

    *孫権の周瑜人気
    孫権は、劉備や曹操に比べるとはるかに人気がない。呉の武将でも人気があるのは周瑜や孫策、陸遜である。
    人気がない理由として
     1.劉備と、曹操両方と同盟を結んだこと 
     2.積極的に外征をしなかったこと呉三代 3.孔明の北伐で呼応したとき、あっさり引き上げていること
     人気ない理由は、兄である孫策の存在が大きい。孫策は、ほとんど裸一貫で領土を広げている。それを次いだのが孫権。劉備や曹操は、自分の代で国を作っているが孫、権は違う。その点で大いに損をしている。

    ・人間的欠点
    孫権にはひとつ欠点があった。それは酒乱だということ。酔って家臣の家に火をつけたり、飲めない家臣に水をかけたり、無理難題な命令をしたりする。
    孫権が呉王になった祝宴が開かれ、酒好きの孫権は、自ら酒を勧めて回っていたが、虞翻が酔い潰れたふりをしてやり過ごそうとした。このことが孫権の逆鱗に触れ、虞翻を斬り殺そうとした。のちに反省した孫権は側近に対し、「酒に酔ったときの自分の命令は聞かないように」と依頼した(『虞翻伝』)。陸機が著述した『弁亡論』にも「劉基の議論を高く評価して、酒を3杯以上呑んだ上での自分の命令には効力が無いと宣言した」と同様の記述がある。
    酒癖が悪いというと張飛を思い浮かべがちだが、実は張飛の酒の失敗はフィクションで
    ある。
    諸葛亮
    4 孔明
    正史では、孔明の扱いは、途中から劉備陣営に加わった文士であり、赤壁の戦いでも外交面以外の活躍はない。法正が没するまでは文臣トップですらなく、軍権を握ったのは劉備の死後のことと。
    政治家としては、本質をわきまえた傑物で、古の管仲(斉・桓公の名宰相)や蕭何(漢・劉邦の名宰相)にも劣らない大政治家である。
    北伐に当たって、補給や兵士の調練などを含め、国力の増強に尽力した。木牛流馬や兵器など様々な発明し、屯田兵制度を導入し、兵士の訓練にも力を入れ国力を増強していった。こういう事は地味だが国家戦略上は非常に重要であり後方兵站が充実し、兵の練度も高い蜀軍が北伐を敢行するたびに魏は多大な出費と大軍の遠征を余儀なくさせたのである。
    残念ながら5次にわたり遠征を試みたが、ついに目的を達成できなかったが、これは孔明が臨機応変の才に乏しく、引き際がへただったなめと陳寿は見ている。
    民間においては、孔明の軍略を讃え、神秘化している。唐代以降、寺院での俗講で、蜀の軍事行動はすべて孔明に結びつけ、軍師としてだけでなく、その知謀を際立たせるために神秘化させた。
    孔明を「聖漢の忠臣」として評価したのは、南宋の朱熹である。劉備に息子・劉禅を托されたことで、劉禅を主君として奉り、不倶戴天の敵である魏を攻め続けたことは、忠義を尽くした行為として絶賛した。
    「演義」では司馬仲達が孔明に翻弄されているが、実際は軍事では孔明が仲達を凌駕していたのではなく、仲達は戦略的見地から孔明の挑発に乗っていない。その点で仲建の方が上である。

    *孔明の欠点
    孔明病をおして北伐出兵孔明の最大の欠点は、忙しすぎること、後事を託すべき人材に恵まれなかった。というより、後進を育てなかったことである。
    後の歴史家が孔明を称して、「いやしくも一国の宰相でありながら、夜は更けて寝ね、朝は夙に起きいで、事務軍政を見、その上細かい人事の賞罰までにいちいち心を労い過ぎているのは、真の大器量ではないし、蜀にも忠に似て、かえって忠にあらざるものである」と。

    5 関羽
    *容貌
    関羽 関羽の風貌と言うと、長身の偉丈夫で立派な髯をたくわえ、赤ら顔であると相場が決まっている。
    長身というイメージも演義の影響であるが、正史「三国志」に珍しく身長の記載がある。それによると、趙雲の8尺(約184cm)より、1~2寸(3~5cm)高いとある。
    髯について、「演義」では関羽が後漢最後の皇帝献帝に目通りした際、帝曰「真の美髯公也り!」因って、人皆此れを為ねて美髯公と呼ぶ、という場面がある。
     赤ら顔:関羽といえば、赤ら顔で「熟した棗のごとし」と形容さる。これも正史には記載はない。赤い顔についてはいろいろ伝説があり、若関羽の髭い頃お尋ね者になって逃亡の最中に、色が白くて目立つので、土地の長老だったかが、これではすぐ見つかるというので、顔を殴って鼻血を出させて、それを拭ったら顔が赤くなった。更に髪の毛を毟り取って、唾で口の周りに貼り付けて、立派な髭を付けて変装させたところ、追っ手から逃れることができたという話が、野史(言い伝えの一種)にある。

    *人物
    「正史」と「演義」で最も落差の大きい人物は、孔明と関羽であろう。
    孔明の場合:評判ほどの軍事的天才ではなく、ために宿願の魏の征服を果たせなかった。
    関羽:蜀滅亡の遠因を作ったと、罪の大きさを指摘している
    性格面の特徴としては、自尊心が非常に高い事が挙げられる。関羽には「自信過剰な上に、部下には優しいが同格の士大夫を見下す」という悪癖があった。
    黄忠が後将軍に任じられた際、「あんな老いぼれと同格か」と不満を表し、前将軍への就任を拒否しようとして、使者である費詩にたしなめられたり、馬超が帰順してきた際、彼の人物について問い合わせ、関羽の性格を知っていた孔明から「張飛と張り合える程勇猛だが、髭どの(関羽)の武勇にはやはり及ばない」と煽てられ、その手紙を大喜びで来客に見せびらかしたりした。
    陳寿は、関羽・張飛二人の人物評をこう書いている。
    「関羽・張飛の二人は、一騎で万の敵に対する武勇がある」と賞賛する一方、両者並んで国士の気風があるが、然し、関羽は剛情で自信を持ち過ぎ、張飛は乱暴で情を持たず、両者共その短所により身の破滅を招いたとこきおろしている。関羽、張飛を引止める「演義」では、関羽は、智では劉備の良き相談相手となり,武では虎将・張飛にも劣らぬ羅刹ぶりを見せ、文武両道に抜きん出た人物像で描かれている。
     張飛がキレて怒り出すのを、それを横で関羽がたしなめるシーンが三国志にはたびたび見られる。猪突猛進の張飛と冷静沈着な関羽という対照的な描かれ方をしている。
     しかし、それはあくまで張飛の尺度であり、他の一流武将と比べると、関羽も立派な「瞬間湯沸かし器」である。

    *評価
    関羽の最大の失点は、外交的に呉と決裂させ、荊州を失った地図ことであろう。この悲劇を招いた原因は、関羽の傲慢ともいえる自尊心の強さである。
    一連の経緯を吉川三国志を借りて記すと、
    荊州を預かる漢羽に孫劉同盟を強固にするため、呉の諸葛瑾が孫権の嫡男に漢羽の娘をとの縁談を持ち込んだ。これに対し、漢羽は、「犬ころの子に、虎の娘を誰がやるか」と吐き出すようにいった。これが孫劉同盟破たんのきっかけである。
    漢羽の拒絶後、孫権は荊州を撃つことを決め、曹操と魏呉不可侵条約、ならびに軍事同盟を締結する。
    内政面では、江陵の糜芳や傅士仁は常々関羽に軽んじられ、不満をもっていた。関羽の出兵に際して、彼らは積極的に協力しなかった。これに対して関羽は、「還らば当に之を荊州故城治めん(凱旋してから処罰してやる)」と捨て台詞を残している。呉が江陵を攻めると糜芳や傅士仁は簡単に寝返った
     荊州は、もろくも崩れたその因は、関羽はあまりにも後方を軽んじすぎた。戦場のみに充血して、内政と防御の点に手抜かりがあった。何よりも孫劉同盟を破綻させ、呉の実力を軽視しすぎた。

    *荊州を失ったことについて、吉川三国志は、
     「後世の史家は、蜀の大不幸は荊州から起こった。荊州の喪失である。これを劉備の幸運と順調が招いた油断であるといい、また王佐の任にある孔明の一大失態であると論じている。
     陳寿は、「羽は卒伍に善く待し、而して士大夫に驕なりき、飛は君子を敬愛し、而して小人を憐れまざりき」。張飛は部下に厳しく、過ちがあるとすぐに殺し、毎日のように鞭打ちの刑にかけた。二人の死を「短を以て敗を取れり(短所によって命を落とした)」と。
    さらに、陳舜臣氏は、「関羽と張飛は最後まで用心棒集団の時の習性が抜けなかった」と。

    D 英雄たちの人気度
     インターネット調査で、「上司」「父親」「飲み友」にしたい英雄は?との問いで、現代人の人気度を調べているが、どの部門でも孔明の人気が高い。

    1 上司にしたい英雄
    上司にしたい英雄では、最も人気が高いのは孔明。次いで、上司にしたい三国志の英雄劉備であった。意外にも「演義」で悪役となっている曹操が3位に入った。
    ・孔明:知的であることや策謀に長けているこ
    と、「非常に優秀で、企業を赤字経営に
    することはない」、「英知にあふれ、人
    を知り、信賞必罰、部下から崇拝され
    そうだから」。
    ・劉備:部下を愛する心、人柄そのものに惹かれる。孔明を招聘した「三顧の礼」を例に取って、人材を大切にすることも大きなポイントとなっている。
    ・曹操:「人材を惜しみ、策略に長け、強い指導力があるから」、「部下の能力をしっかりと見極めている」など、マネジメント能力、指導力がキーワードとなっている。
    父親にしたい三国志の英雄
    2 父親にしたい英雄父親にしたいでは、トップは孔明で、他に大差をつけている。孔明を選んだ理由は、知的なイメージからの連想で、家庭教育の充実を期待する声が多い。「知っていることが多く、いろいろと教えてくれそう」、「機知に富み、聡明で、いろいろ学べるから」。「私の将来を指し示してくれそう」、「大事な時に方向を示してくれそう」など。

    3 一緒に飲みたい英雄
    一緒にお酒を飲みたい英雄は、ダントツで「張飛」。次いで「諸葛亮」、「関羽」と続いた
    「張飛」は、豪胆、豪放との回答が多く、「演義」で酒豪としても描かれていて、そのイメージが強いようだ。
    「豪快かつさわやかで、一緒にお酒を飲めれば必ず楽しい」、「細かいことにこだわらなさそうで、痛飲できそう」、「生きていても酒、死んでいても酒、酒で劉備とも結ばれたから」など。
    張飛の酒一緒に飲みたい三国志の英雄








    E 関帝廟の謂れ
    1 「万能の神」として祀られる課程山西省塩湖(1) 財神
    関羽は、塩湖で知られた山西省解県の出身。塩の密売人の護衛で、塩商人たちに義に厚い男との信用を得ていた。三国時代、信義を通した郷土の豪傑として崇められ、塩商人たちから「信義に厚い英雄、武神」として尊敬を集め、隋時代に故郷解州に関帝廟が建てられた。
    解池(塩湖)で採れる塩は、宋代、全中国の需要量の70%超を賄っていた。宋朝は山西(解州)商人に独占権を与え、山西商
    山西省運城塩湖人が全国への輸送ルート、販売網を構築した。この専売システムは、元、明へと引継がれ、さらなる繁盛をみた。
    山西商人は、知らない土地での自分たちの絆を深め、情報交換の場として、その地に関帝廟を建てた。
    「義」、「信」が商売の基本と考えていた山西商人は、関帝廟で人形劇を演じ、関羽の徳を庶民に広めた。こうして関羽は、商人の間で「財神」の地位を確立した。

    山西商人城山西人以外の商人は、商売の成功は、関帝のおかげと思いこみ、関帝信仰が広まった。





    (2) 武神
    関羽が戦死した荊州の玉泉寺・チギ禅師の元に関羽の霊が現れて、仏法に帰依したいと請うたので、禅師が僧坊を提供し、煬帝に奏して、関羽を「伽藍菩薩」に封じた。中国解州関帝廟現在では「関帝菩薩」とも呼ばれている。
    北宋時代、宋朝は常に北方民族・金の侵食に悩まされており、国家を守護する「23軍神」を建て、劉備、孔明と並んで関羽を軍神の1人とした。
    乱世の中、特定の個人に対して忠誠を尽くした関羽は、為政者から見ると賞賛すべき人物であった。そのため、北宋の徽宗皇帝は、彼に「忠恵公」、後に「武安王」に封じた。ここに国家としての「武神」の地位をも確立した。

    (3) 文神
    儒教では、五文昌の一人「文衡聖帝」とされ、ここでは「武」より「文」の面が強調されており、台湾などでは受験の際に礼拝さている。
    春秋楼関羽は学問の神様でもある

    2 関帝廟の広まり左から周倉、関帝、関平明代「三国演義」により中国全土で関帝の名声が確固たるものになり、さらに、華僑が世界に広めた。現在、世界108ヶ国に関帝廟がある。
    関帝廟は、関帝(関羽・関帝聖君)を祀る廟で、孔子を祀る孔子廟(文廟)に対比させて、「武廟」とも呼ぶ。
    関帝廟の本殿は中央に関羽を祭り、右側に養子の関平(史実では実子)、左側に配下の武将周倉の二神をそれぞれ祭っている。

    3 世界各地の関帝廟蘇州関帝廟(1) 中国本土

    関羽の出身地である河東・解県にある解州関帝廟は、中国でも規模の最も大きな関帝廟として知られる。また、2010年には61m余の関羽像も建立されている




    関羽像広州関帝廟

    (2) 日本
    神戸 関帝廟横浜 関帝廟

    日本では、横浜中華街と神戸南京町の関帝廟が著名である。
    函館市、立川市、横浜市、和歌山県(那智勝浦町)、京都(福知山市)、神戸市、大阪市、北天神、長崎市崇福寺、長崎市興福寺、沖縄(那覇市)。
    横浜の関帝廟は4代目。3代目が火事で消失し、再建に当って、国家間の不仲を問題にせず、大陸、台湾系の華僑が協力し再建した。義を重んじ、絆を大切にする関羽の精神が見事に花開いたのが横浜関帝廟である。

    F 英雄たちの陵墓
    1 曹操
    「演義」で曹操が死ぬ前に、墓が暴かれるのを恐れて、「72の偽廟を作るよう。曹操の陵墓陵墓は山地で、地上にそれらしき盛土、碑などは必要ない」と遺言を残したとある。
    永年、曹操の陵墓が発見されなかったが、2009年、河南省安陽県で、魏の曹操の陵墓「高陵」が確認された。
    墓の総面積は740平方メートル。前後に2つの大きな墓室と4つの副室があり、金や銀の器、鉄剣、水晶珠など約250点の副葬品があり、曹操の遺骨のほか、2人の女性の遺骨も見つかった
    「正史三国志」では、遺言で、「天下はなお未だ安定していない。いまはふだんの時ではない。古来のしきたりに従う必要はない。葬儀が終ったら、みな直ちに喪服を脱げ。兵をひきいて軍務に服している者は、持場を離れてはならぬ。役人はおのおのその職務をつづけよ」と。「納棺には平服をもってし、金玉珍宝を副葬してはならぬ」と。
    たしかに250点の副葬品は身の回りの物が主体で、なかでも琴、木製の机が含まれていることは、曹操の生前の質素な生活を表すものと、関係者は賞賛している

    2 劉備
    劉備の陵墓劉備は、夷陵の戦いで惨敗し、白帝城に後退して守勢をとった後、翌年亡くなった。
    霊枢は224年、成都の南・恵陵(忠烈墓)(武侯祠内の正殿の西側)に埋葬された。恵陵は、円形の古いれんがの壁に囲まれ、丘陵は12mの土が盛られている
    現在では、孔明の方が有名になってしまったため、武候祠(孔明を祀った廟)と通称されてしまっている。敷地内には二人の皇后も同葬されている。
    孫権の陵墓の孫権像
    3 孫権
    孫権の墓は、建業(南京)にあるが、朱元璋(明の洪武帝)が自分の墓を作る際に移転・縮小させてしまい、その門前に移された。
    現在は、朱元璋の墓とともに史跡として保護されているが、正確な位置はわらなくなってしまっている
    講演スナップ

    4 孔明
    武侯墓漢中の定軍山には、孔明の墓および霊廟があり、現在は人気の観光地となっている。
    西暦234年「五丈原」で、死を悟った孔明は遺言で、「遺体は漢中の定軍山に埋めよ」と指定した。遺言にもとづき、定軍山の麓に埋められた。建物内には孔明ゆかりの様々な武将の塑像も陳列されている。
    孔明を祀った武侯祠は、中国国内に何ヶ所かあるが、墓は唯一ここ定軍山だけである

    5 関羽
    関羽の墓は2ヶ所ある。関羽の首をもって曹操が弔ったのが洛陽の「関林」、戦死地に胴体をもって葬ったのが湖北省当陽県の「関陵」である。
    「演義」で、麦城で敗れた関羽と関平は首をはねられるが、孫権は劉備の怒りを逸らすため、関羽の首を洛陽の曹操に送った。曹操は、孫権の意図を見抜ぬき、関羽の首に木製の胴体をつけ、曹操出席の下、盛大に葬儀を行った。
    洛陽「関林」湖北省の関陵
    講演スナップ

 講座・企画運営  吉田源司
 文責  塩崎哲也
 会場写真撮影  飯嶋重章
 HTML制作  飯嶋重章


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