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2013年6月14日神田雑学大学 定例講座No651
三国志の虚像と実像2
ハイライトシーンの虚構

講師 塩崎哲也



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 A 赤壁の戦い
 B 五丈原の戦い

塩崎哲也講師

講演の写真1







赤壁の戦い概略地図

三国志で天下分け目の戦いとは、曹操が袁紹を破り、中原の覇者の地位を確立した「官渡の戦い」、勢いに乗った曹操が南征し、呉を滅ぼさんとするが、孫・劉連合に破れ、三国分立の基となった「赤壁の戦い」、劉備亡き後、諸葛孔明が5度に亘り中原への侵攻を試みるが、想いを果たせなかった「五丈原の戦い」を指す。そのうち、「火攻め」、「死せる孔明、生きる仲達を走らす」などで日本でもよく知られた「赤壁の戦い」「五丈原の戦い」の虚像と実像について解説する。

A 赤壁の戦い

「三国志演義」では、赤壁の戦いが最大のハイライト孔明、東南の風を祈るのTV写真になっており、「レッドクリフ」など三国志を扱った多くの映画でも赤壁の戦いは一大スペクタクルとして描かれている。 「演義」では、孫権配下の周瑜が、劉備配下の諸葛亮に「曹操の兵は八十三万、私たちの兵は五、六万……」と語っているように兵力の差は歴然。それをいかにして打ち破るか。連合軍が採った策は火攻めであった。ここで「演義」は、諸葛亮を神化させ、風を起こさせて、火攻めに都合のよい舞台を作り出している。諸葛亮の「風乞い」の祈祷は成功した。連合軍は諸葛亮が吹かせた風に乗赤壁の戦いのTV写真じて、火をつけた船を曹操軍の船団に突入させる。その結果、曹操軍は敗退した。 果たして赤壁の戦いは、「演義」が述べているような大会戦であったのか? 「十万本の矢」「苦肉の計」「連環の計」などの逸話は本当にあったのか?



1 激突場所
現在、一大観光地となっている赤壁(武漢の上流)ではなく、赤壁の対岸で、もう少し上流の烏林港である

赤壁の戦い両軍進路のイメージ図赤壁の写真
鳥林の写真曹操の塚の写真
赤壁の川幅の写真
2 川幅
「呉志・黄蓋伝」具体的に数字を挙げている。火攻めに使った
船艦数は20艘。中江で“降伏”と叫び、さらに進んで、北岸から2里余の地点で火をつけた船を発進させた。 この場合の1里とは、「魏・西晋の短里(1里=78m)」で、点火地点の2里余は約180mで、中江は約250mとなり、川幅は約500mとなる。(現代の川幅は4〜500m)。

3 季節、時刻
時期については「演義」では208年冬とあり、赤壁の戦いの写真「吉川三国志」では11月21日(旧暦)と具体日が記してある。 具体的な時刻についてはどの資料にも記されていないが、「火攻め」などの奇計は、常識的には夜中に決行するものと考えるし、各映画でも真っ暗闇で魏軍の艦船が燃え盛る様が描かれている その日の天候については、「演義」、「吉川三国志」ではやや強い北西の風で、空は鉛色の雲に覆われていたとあり、これが諸葛孔明の風呼びの祈祷により、夕刻から東南の風に変わったとある。 天候について、「演義」、「吉川三国志」では、「魏軍が水上戦で壊滅的な損害を受け、曹操は数十騎とともに華容道を北に逃げる。昨夜来の大雨で道路がぬかるみ、退軍に苦労する」と書かれている故、その夜は雨、しかも大雨であったようである。

4 両軍の兵力
「演義」では、呉の周瑜が、劉備配下の諸葛孔明に呉水軍基地の写真「曹操の兵は八十三万、私たちの兵は五六万……」と語っている。正史三国志の「蜀志」で呉軍の兵力は3万、「呉志」では2万と記されている。然るに、魏軍についての兵力の具体的な数値はない。 Wikipediaでは、呉軍2〜3万、劉備軍0.2〜1万、劉キ軍1万、魏軍14〜24万となっている(出典不明)。 「演義」の84万の根拠は、「江表伝」にある、曹操が孫権に出した降伏脅迫文中の数字を拝借したものであろう。 水軍について、「呉志」に呉軍(水軍)2万とあるし、兵船数については「吉川三国志」に、荊州が曹操に降るに際し、荊州の将・蔡瑁が曹操に荊州の兵力を報告してい呉軍の写真るが、それには「騎兵8万、歩卒20万、水軍10万、兵船7千余艘。金銀兵
糧の大半は江陵城に蓄え、その他各地の城にも約1年分余の軍需を常備している」とある。また呉軍・周瑜の陣割として、「韓当、黄蓋を先鋒として、大小の兵船500余艘、三江の岸へさして進み、陣地を構築せよ。蒋欽、周泰は第2陣として続け、凌統、?璋は第3陣たるべし、第4陣、太慈史、呂蒙、第5陣陸遜、董襲とする」。1〜5陣まであり、それぞれ500艘とすると、呉軍は2,500艘となる。 曹操が使った水軍は赤壁の戦いの前年(207年)、荊州を収め、手に入れた水軍であるが、蔡瑁の報告の兵船7,000艘は、話九層倍(?)であろう。呉・孫家は荊州・劉表と何度も交戦し、勝利してきたことから考えると、荊州水軍の兵力・実力は呉水軍より劣ることは間違いないと思われ、2〜3,000艘というところか。

5 前哨戦・孔明の活躍 三顧堂の写真5−1 三顧の礼と孔明の業績 「演義」では、諸葛亮(孔明)が207年、劉備の軍師となってから、208年の「赤壁の戦い」でも縦横無尽に計略を駆使する活躍が描かれているが、実際の諸葛亮は小説ほど派手な活躍をしたわけではない。正史「三国志」に、「臨機応変の軍略は、得意ではなかった」と評している。 孔明は劉備から「三顧の礼」をもって軍師に迎えられたことは、正史「三国志」に記載があるし、のちに孔明が記した「出師の表」に出ていることからも事実に違いないが、「赤壁の戦い」当時は劉備軍の中にあって三顧の礼のTV写真それほど重用されていたわけではなかった。 従って、赤壁の戦いで「十万本の矢の計」を指揮したり、火攻め作戦に関わったという史実はない 劉備在世中、諸葛亮は主に行政と戦争の後方支援を担当しました。221年、劉備が蜀を建国して帝位につくと丞相(宰相)に任じられ、それ以降の孔明の業績に対して、正史「三国志」で行政官としての高い評価を与えている。劉備の死後は、その子の劉禅に変わらぬ忠誠を尽くし、劉備の遺志である漢の復興を果たすため、魏への北伐を繰り返した。234年、北伐中に陣没す正史三国志・蜀書の写真る。享年54歳でした




5-2 孔明「赤壁の戦い」での業績
(1)孫劉同盟銅雀台の写真 赤壁の戦い直前に、劉備の外交官として呉・孫権のもとに派遣され、孫劉同盟の交渉を成功させている。 「演義」では、孔明が呉大都督・周瑜の説得の際、「曹操は好色で、銅雀台に大喬(孫策未亡人)、小喬(戦いを決意させたことになっている。夫人)を侍らしてみたいと曹操が『銅雀台の賦』で詠んでいる」と周瑜の怒りを煽り、周瑜に戦いを決意させたことになっている。 史実は、魏の宮殿「銅雀台」は208年に建設が開始され、210年に完成で、曹操が詠んだという『銅雀台の賦』は210年10月の完成写真式典の宴で曹操の次男・曹植が詠んだものである。したがって、208年11月の「赤壁の戦い」の頃には「銅雀台」はなく、また『銅雀台の賦』も存在していなかった。 「演義」で孔明のいう詩は、晩唐の詩人・杜牧の「東風、周郎が与(ために)便せずんば、銅雀、春深くして二喬を鎖(とざ)さん」を借用したものである。



十万本の矢のTV写真
(2)十万本の矢 「演義」では、「十万本の矢を調達してほしい」との周瑜 の頼みに、諸葛孔明はあっさりと引き請ける。 孔明の作戦は、霧の夜に船を出し太鼓を叩いて魏軍をけしかけた。霧がひどいため魏軍は孔明の作戦とは知らずに矢を射掛けて上陸を阻止する戦法に出、頃合を見はかり帰還した諸葛孔明は船に突き刺さったおびただしい数の矢を持ち帰ったとなっている。 この話のモデルは、裴松之が引用した『魏略』である。しか十万本の矢のTV写真も、矢の借主は孫権である。赤壁の戦いの5年後(213年)、濡須江において、孫権が敵陣を視察した際、敵陣から激しい矢攻撃を受け、船の側面に無数の矢を受けて船が傾いた。孫権は船を反対向きにさせ、矢を受けて平衡を保った、という記述がある。



6 三国時代の軍船
 艦or楼船の写真6−1 艦or楼船( ろうせん)
周囲に板を立て並べて、矢石を防ぐように作られた大型船。その形が監獄に似ていることから、この名前がつけられた。 また、多層の船体を持つことから楼船とも呼ばれた。 長さ20m前後、艪の数は片舷20前後。三国時代後期には外洋へ出るための大型海洋船にまでなった。 三国時代後期、孫権が東南アジアに使者を使わせたときの船は、7枚の帆を張り600〜700人の乗員を乗せていた。

露橈 (ろとう) 船の写真6−2 露橈 (ろとう)
船の側面に櫂が長く突き出した手漕ぎ船。漕ぎ手は板で保護され、櫂のみが出ていたのでこう呼ばれた。長さ15m前後、艪の数は片舷8前後。




艨衝 (もうしょう)の写真6−3 艨衝 (もうしょう)
頑丈な船首を持つ細長い快速船。 猛スピードで突入し敵船を破壊する。現代の魚雷に似た働きをした。長さ10m前後、艪の数は片舷5前後。




先登の写真6−4 先登( せんとう)
先陣をきる小型の軍船。 多くの水兵が乗り組み、すばやく敵船団に突入し敵の陣形を乱し、機先を制する働きをした。そのために、敵船に乗り移るための梯子や投げ縄を搭載していた。長さ7m前後、艪の数は片舷2-3前後。



斥候の写真6−5 斥候 (せっこう)
積載量五百斛(約10トン)程度の屋形船。高い櫓が立てられ、敵の数や陣形などを窺うのに使用された。 戦闘時には戦局を見て、味方に正確な状況と指示を伝える役を担った。




 艇の写真6−6 艇 (てい)
積載量二百斛(約4トン)以下の小型の船。2人ほどで操り巡視艇の役目をした。赤壁の戦で黄蓋が使った走舸がこれにあたる。





赤馬 の写真6−7 赤馬 (せきば)
馬のように速く進む小舟。 船体が赤く塗られていたために赤馬と呼ばれた。長さ7m前後、艪の数は片舷2-3前後。 ちなみに、赤壁資料館に展示されている周瑜が座乗した旗艦(下左)は楼船で、兵卒船は露橈、あるいは艨衝であろう。



赤壁資料館の写真赤壁資料館の写真

魏水軍旗艦の写真7 船隊
当時の軍船は大砲を備えているわけではなく(まだ発明されていない)、軍船同士・船戦し、相手の兵船を沈める役目はない。兵卒を長江の目的地まで輸送するのが大きな任務である。したがって、前記楼船の如き大型船は指揮艦であり、船隊の主力は露橈、艨衝であったはず。映画に出てくる楼船の堂々たる船隊はなかったと考える。下右の写真のようであったと思う。
呉水軍の写真呉軍船隊

気象のイメージ図8 火攻め成功の鍵
火攻めで大損害を与えられる条件として、天候が晴れで風が強く・風向きが敵兵船の方向であること、敵兵船が密集していること、火をつける奇襲船が敵船の間際まで近づけることなどであろう。
8−1 天候、風向き、風の強さ
*天候
三国時代にはまだ火薬が発明されておらず、火攻めの火器としては、柴、枯れ草に油(特殊な場合硫黄)を注ぐ程度で、雨が大敵である。当夜の天候については、鉛色の空とあるだけで、雨との記述はない。戦後(翌日)曹操が敗退・逃走するときの記述とし孔明の風乞いの写真て夜来の大雨で道がぬかるみとあり、火攻めが成功したかどうかは疑わしい天候であった。
*風向き、強さ
中国気象台の専門家の研究では、この地方の気象データによると、旧暦11、12月は、普通は北西の風であるが、時により熱帯性低気圧が発生し、雷雨を伴った強い南東の風が吹くことがあるという。その気象条件は、長江の南の地方に4,5日晴天・暖気が続くと、長江の北から吹く冷たい風とぶつかり、写真のごとき南方からの風に変わるという。現在でも見られる自然現象であるという。少なくとも諸葛孔明の風乞いはフィクションであり、上述の大雨をも考えると熱帯性低気圧が遭遇したのであろう。
8−2 連環の計
「連環の計」とは、中国古代兵法36計の一つで、火攻連環の計の写真めを行いやすくするために船同士縦・横を鎖で緊密に結びつけることである。他の歴史書には記述はないが、「演義」には、在野の軍師・?統が諸葛亮の命を受けて魏軍をこの計に嵌めるために、曹操のもとを訪れ、兵士の船酔い対策として、船同士を鎖でつなげて陸のごとくにする策を進言し、曹操はこれを採用したとある。 一介の在野の軍師が20数万の大軍の総司令・曹操に気安く会えるとは考え難いし、この時の水軍の将は元荊州軍の蔡瑁であり、彼に進言するのが筋であり、よしんば曹操に会い、進言できたとしても、兵法に通じた曹操ほどの将軍が水軍の陣の敷き方を知らぬはずがなく、百歩譲っても蔡瑁には魏水軍の写真意見を求めるはずである。 「周瑜伝」には、黄蓋が「敵の陣営を見、魏軍の船艦は、互いに船首と船尾とがくっつき合った状態であり、焼き打ちをかければ、敗走させる事ができる」と周瑜進言して下り、これが実情ではなかろうか。
8−3 苦肉の計
火攻めを成功させるためには火攻め船を敵船隊に突入できることが大前提であるが、そのためには偽装投降という策があった。周瑜配下の黄蓋はこの劣勢を苦肉の計のTV写真前に有力な対抗案を出せないとして司令官である周瑜を罵倒、これを咎めた周瑜は兵卒の面前で彼を鞭打ちの刑に処した。これにより重傷を負った黄蓋は、敵である曹操軍に投降を申し出る。偽装投降に成功した黄蓋は曹操軍に放火することに成功し、曹操軍は壊滅するという筋道である。



9 火攻め 曹操軍本陣の図
9−1 魏軍船団
兵船数2,500艘、船長10m、幅3m、5段備えとすると、1段500艘で、隣同士舷を接するほどに並べても1,500mほどになる。河岸から最先端まで50〜60mとなる。「吉川三国志」魏軍の陣地の模様を、「荊州の降将・蔡瑁が指揮し、小船はすべて内において交通、連絡の便とし、大船は塞に船列を布かせた一大船陣を常備に張った。その船陣の幅約300里わたる堂々たるものであった」と記している。300里は2,300mで、これは少しオーバーにしても1,500〜2,000mくらいはあったであろう。


9−2 突撃船
走舸数(快速船)として、「江表伝」では20艘と具体的に数字を挙げている。仮に魏軍の船艦配置が図のごとく、5段、1段500艘とすると、走舸1艘あ魏軍・火攻めを傍観のTV写真たり、25艘が目標となり、爆薬を積んだ体当たり戦法ではないのであるから、せいぜい3、4艘に損害を与えられる程度ではなかろうか、川の中のことであり、消火水は十分であり、兵士の必死の消火を考えると3段、4段目まで延焼させるのは難しい。ましてや大雨であったとすると、火を付けるのも困難ではなかろうか。 また、河の中央で黄蓋軍が叫んだとあるが、200mも離れていて、叫び声が聞こえたのであろうか(強風にのって聞こえたのかも知れない)。その叫びを聞いて、魏軍の兵士が皆立ち上がり、状況を眺めていたと「演義」にあるが、その日は雨で月がなく、あったとしても旧暦21日は半月である。当時の夜の暗さから考えると、200m先のものは見て取れるとは考えられない。

10 呉軍の勝因
『正史』では、「武帝紀(曹操の伝記)」に「疫病が大流行し、講演スナップ多くの死者を出したため、曹操は兵を率いて帰還した。」とあり、「先主伝(劉備の伝記)」には「また当時、疫病が流行し、死者が後を絶たなかったので、曹操は撤退せざるを得なかった。」と記され、「呉主伝(孫権の伝記)」には「曹操軍は飢えと疫病で兵士の大半が死んだ。」と、全て同じような記述になっている。曹操が撤退せざるを得なかった最大の原因は「疫病」だったようだ。 長江沿岸の風土病に、「佳血吸虫病」というものがある。この病気は寄生虫によるもので、下痢をともない肝硬変を併発。抵抗力のない者はそのまま死んでしまうという厄介ないものだった。この「佳血吸虫病」が曹操軍を襲ったのである。地元の人間はともかく、曹操軍のように遠征軍で、しかも抵抗力がない集団では、どうにもならなかったであろう。「周瑜伝」によると、「孫権・劉備連合軍が赤壁で曹操と対峙したとき、既に曹操軍の陣中では疫病が発生しており、その為に曹操は一度応戦しただけで退却した。」とある。『演義』にあるような大会戦はなかったのではなかろうか。

白骨場の写真11 赤壁での魏軍の損害
両軍の損害については、史書には具体的な数字はない。曹操は退却に当たり、自分の肉親・曹仁、曹洪らを留めて江陵城を守らせ、自らはまっすぐ北方へ戻ったとある。 「演義」では、水上戦で壊滅的な損害を受け、曹操は数十騎とともに華容道を北に逃げる。途中、関羽軍の待伏せに会い捕虜となるが、関羽の恩返しで逃がしてもらい、ほうほうの体で許都に逃げ帰ることになっている。 観光地・赤壁には魏軍兵士の首塚があるし、華容古道の碑もある。 Wikipediaには出典を明らかにしていないが、華容古道の写真魏軍の死者数を14万人と記している元々の兵力数は24万としており、その内の死者14万人であるから、呉側の完全勝利で、魏はこの戦いで致命的な損害を受け、再起不能のように受取れる。前述のように、調達した兵船数は2〜3千艘であり、兵士を目一杯載せての輸送中ではなく、大雨の夜半の停船中のことで、兵船に乗り組んでいた兵数はごく1部、しかも船扱いに慣れた元荊州兵が主体であり、火攻めも効果も限定的と考えると、戦死兵士数は数千、多くとも1、2万と考えるのが妥当であろう。 荊州南郡から襄陽、合肥の2城を連ねた地方は、曹操にとって、今は重要な国防の外郭線である。都にかえるに際し、曹操は曹仁に、南郡城を死守せよ、また、襄陽城の守備には夏侯 惇を当て、合肥地方には張遼を赤壁の戦い概要図守りに入れた、さらに楽進、李典の2名を副将に添えた。 *呉軍はその後、南郡と夷城を攻めるが、南郡の曹仁、夷城の曹浩に阻まれ、激戦。 また、どの史実にも、指揮官クラスの曹操軍・武将の戦死・戦傷の名が皆無であることからも、損害は大きくないことの証明であろう。その後の曹操が莫大な費用をかけて銅雀台の建設を進めていることを考えると、少なくとも魏にとって致命的な損害はいえない。しかし、この戦いの結果、曹操の南下政策が頓挫したのは事実である。

12 赤壁のモデル
「赤壁大戦」と「?陽湖の戦い」
三國志演義』の作者・羅貫中は元末期の農民決起軍に参加。この農民決起は、世直しが名分の反乱で、同志の目印に紅い巾を用い、「紅巾軍」と呼ばれた。世直しを目的とした農民の元末期 朱元璋軍・陳友諒軍の地図決起という点で、非常に黄巾賊と類似している。 この後、紅巾軍から独立した張士誠、陳友諒、朱元璋により、3勢力が独立し争うという状態が続く。 1363年、朱元璋軍は陳友諒軍と?陽湖で激突した。両軍の形勢としては、陳友諒軍が六十万の大軍で、朱元璋軍は二十万の軍を擁していた。また、水上戦にあたって、陳友諒軍は高く・大きな船で布陣し、長さは十数里にも及んだ。それに対して朱元璋軍は小さな船が全てであった。軍の威容からして陳友諒軍に軍配が上がった。戦闘は三日間に及び、戦況は終始陳友諒優勢で、朱元璋の旗色は悪くなる一方である。自軍が劣勢と見た朱元璋は、この戦いでもっと朱元璋の小船作戦のTV写真も重要な戦術の工作をはじめたのであった。まず周辺の漁船を集め、それに枯葉を積み、火薬を仕込ませる。次に護衛船には火砲、火銃、火箭、火?などのあらゆる火器を揃えた。そして東北の風がきたるや、枯葉と火薬を仕込ませた船に火をつけて陳友諒の船団に突入させた。風下の陳友諒の船団は炎に包まれる。陳友諒の船団は大型の戦艦で構成されているため、小回りが利なかった。火攻めによって、壊滅的な打撃を受けてしまったのであった。朱元璋は好機を逃さない。すぐに短兵を投入して総攻撃をかけた。この戦いは朱元璋の逆転勝利で幕を閉じたのであった。 「三国志演義」の作者・羅貫中は紅巾軍に属していて、この[?陽湖の戦い]を十分承知していて、これを『赤壁の戦い』に応用したのであろう。
朱元璋 火攻めのTV写真朱元璋 火攻めのTV写真 その2

B 五丈原の戦い

1 関羽、張飛の弔い合戦・夷陵の戦い
関羽最期のシーンのTV写真桃園の契り以来の義弟・関羽、張飛の訃報を聞いた劉備は嘆き悲しみ、そして怒り狂い、呉への復讐を誓った。 当初、蜀軍は勝ち進むが、夷城での陸遜の火攻めで大敗をこうむる。劉備は救援の趙雲・馬忠らに助けられ辛うじて白帝城に逃げ込んだ。蜀軍の被害は著しく、数万人が戦死した。これにより蜀漢は荊州を完全に失陥した。 戦場となったのは白帝城から夷道までの三峡全域であるが、「演義」での決戦場に因んで「夷陵の戦い」と称される。 また、「演義」では、劉備の呉への出兵に趙雲を始めとした多くの群臣が反対したが、孔明は反対しな劉備、夷城で敗北のシーンのTV写真かったとあるが、その記述は正史には無い。時期について「演義」では、陸遜は秋から冬の乾燥した時期を待って火攻めを敢行し勝利した、とあるが、実際には夏(6月)である。 劉備の率いる蜀軍の兵力は75万となっているが、この当時の蜀漢の戸籍人口が94万(後主伝)であることを考慮すると、この75万という数字も現実味に乏しい。

天下三分の計の真の意味
孔明が劉備に献策した天下三分の計のとは、つまるところ『ニ正面作戦』劉備の遺言の図にほかならない。孔明は劉備亡き後はこの基本方針に副って、呉の野心を巧みな外交で抑えつつ魏と対決する方針を貫くが、果たして他の劉備・関羽・張飛らが、この二正面作戦が重要な要であり、呉の野心を抑えるという基本戦略を理解していたのかどうかは疑わしい。結局この関羽のポカと劉備の身贔屓が最期まで尾を引き、蜀の滅亡へと繋がる。

2 劉備、孔明に後事を託す
「演義」で、劉備が永安宮(白帝城)で死去に際し、後事を孔明に託す一段では、劉備の「劉禅が補佐するに値する人物ならば、補佐してやってくれ、能力がないと見たならば、お前自身がその地位に就き中原を恢復しろ」との遺詔に対して、「臣は股肱の力を尽くし、忠貞の節を致し、死を以てお仕え致します」と、孔明に語らせている。この孔明の言葉が、後の世の孔明人気の基となっている。 永安宮には、蝋人形で劉備最期のシーン・長男劉禅に遺言する場面はあるが、史実ではこの時劉禅は成都の護りについており、劉備の最期には駆けつけていない。
3 殖産興業
兵力は人口に依存の資料 劉備没後,孔明は,獅子奮迅の働きをする。呉との同盟を強化し,南方の蛮族を討伐。そして,殖産の振興を図り,蜀の国力の増大に努めた。 三国時代は、人口=国力であった。右写真は晋が魏と蜀を亡ばした際の、また呉を亡ばした際の三国の人口である。また、別の資料として孔明が北伐を敢行した227年の人口比として魏・呉・蜀=27:5:2という数字もある。ようするに、三国鼎立と言いながら、圧倒的なまでの一強二弱であったのである。   孔明が、まず取組まねばならなかったのは国力の増強策である。孔明の「蜀科(法・刑罰)の制定」や殖産興業の功績は「演義」では述べられていないが、孔明の大政治家たる所以はこれら「蜀科」、「殖産興業」、「南征」の成果であろう。
*農業振興
蜀の孔明は、本来肥沃な四川の土地を手に入れたのであるが、水利施設がほとんど整備されていなかった。孔明が手掛けた記録に残る水利施設としては、都江堰の修復・整備、運河を縦横に掘った。
都江堰の写真九里堰の写真

*殖産新興蜀錦の作業風景の写真蜀の 孔明は、人口の半分を占める婦女子の活用法として、蜀全土に勧めたのが養蚕と絹織物である。うち「蜀錦」の名で今も残る絹織物は素晴らしく、敵国・魏、呉にも大いに輸出された。




*南征
225年、建寧太守・雍?と南蛮王・孟獲が反乱を起こしたため、孔明 孟獲を七度許すの図諸葛亮は南征に出るが、反乱を治めるには武力ではなく、徳を以ってすべしとの考え方で、孟獲を七度捕らえ、七度放ち、孟獲を心服させ、蜀に対して二度と反乱を起こさないことを誓わせたと「演義」にあるが、これは孔明のしたことではなく、張嶷の功績である(後述)。 孔明は南征に拘った目的を整理してみると、
1.反乱を鎮める、2.南蛮を配下にし、兵士・資源を確保する、3.夷陵の戦いで大敗したあと、新しく編成した軍の実地訓練、4.諸葛亮は軍を率いても強い、というイメージ作り、5. 南方シルクロードの確保・活用、となる。 1.については誰でもよいが、孔明の南征のTV写真2.を成功させるには軍の指揮のみでなく政治にも長けた人物でなくてはならない。さらに、北伐の総大将に諸葛亮がなるためには、4.も必要である。実際に諸葛亮が兵を率いるのはこの南征の時が最初であった。つまり、戦場で兵の信頼を得る為、自分の指揮に自信を持つためにも、諸葛亮自身が兵を率いて、指揮をとる必要があったのだ。まとめて言ってしまうと、「北伐の準備行動」が、南征の目的だったのである。2.に関連して、南方は、金・銀・丹漆・耕牛・軍馬が豊富であった。ローマ、アラブとの交易は、北伐の財源上、喉から手が出るほどの政策であった。事実、その後、南方シルクロードが栄え、成都にもローマのサーカス団が来たことが史跡に残っている
南方シルクロードの経路雑技観舞
「七縦七擒」とは、三国志演義では南蛮の王、孟獲が蜀に対し反乱を起こし、孔明がその平定に向かい、孟獲を七度捕らえ、七度放ち、孟獲を心服させ、蜀に対して二度と反乱を起こさないことを誓ったとあり、孔明が反乱を平定し、蜀の国都、成都へ戻ろうとした時に、孟獲は孔明を数十里先までついていって、別れを惜しんだとある。 孟獲が孔明に服するTVシーンしかし、「七縦七擒」の故事は「十八史略」、正史「三国志」には出てこない。史実では、孔明の南征は、半年程度のもので、225年春に出征し、同年秋に平定したとある。さらに、孔明の軍が帰還した後、南蛮は再び反乱を起こし、蜀の将軍、李恢が反乱を鎮めたとあり、また、232年に蛮族が反乱を起こしたが、蜀将張嶷が徳をもって蛮族の反乱に接したために、蛮族のほとんどは降伏し、張嶷に心服したとあり、張嶷が蛮地での任を終え成都に帰ろうとした時に、蛮族達は、涙を流して別れを惜しんだとある。つまり、「七縦七擒」に近い事は孔明がしたことのではなく、張嶷がしたのであり、孔明がしたと言うのは「演義」の創作である。

出師の表4 北伐
227年、孔明は,天下統一の最後の賭に出た。座して滅びを待つよりは打って出よう……彼は「出師の表」を皇帝・劉禅に贈り,北伐の軍を発したのである。「出師表」は名文として有名であり、「これを読んで泣かない者は不忠の人である」と称賛された 三国鼎立、それは国力の比から見れば、三国による覇権争いではない。それは、地の利を生かして呉・蜀が、大国魏の隙を狙う姿ですらない。そこに見えるのは、統一を回復しつつある大中国を前に、二つの小軍閥が、秦嶺山脈と長江の険阻のみを頼りに、避けられ得ぬ滅亡の時機を引き延ばそうと、必死にもがく姿なのである。 兵力について、「演義」では蜀軍30万、魏軍100万と出ているが、実際の兵力について、史実の記録はない。国力(人口)から推定して、輜重隊などの後方支援人員を含めて、呉が20万人、蜀が10万人と、魏は90万人である考えられる。 「演義」では、孔明の作戦指導で、いづれの戦闘でも勝利しているように描かれているが、それは部分的な戦闘勝利であり、戦略的な勝利ではなかった。魏の基本的な戦略は彼我の兵力、戦備の補充から考え、長期戦に持込めば、蜀軍は自然に撤退せざるを得ないとの、観方に立ち、徹底した守りの戦法であった。これが後に「空城の計」、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」など現在の日本でも知られる魏軍が孔明を恐れる姿として伝わっている。 焦りの蜀軍・孔明と余裕の魏軍・司馬仲達の裏返しの描写なのである。 諸葛亮自ら軍を率いて出兵した魏侵攻が5度行われた。
泰嶺山脈の写真4−1 北伐ルート五本の道
漢中から長安に抜けるにはその間に3,000mを超える泰嶺山脈が連なり、行く手を阻む。山間を抜ける道には5つの道があった。
(1)子牛道
漢中と長安を結ぶ最短ルートで山脈の最も西を通りながら、長安の南方に出る道
(2)駱谷道
子牛道と並行しながらその東を通り、少し迂回して最後に子牛道と合流する道
(3)褒斜道(第5次北伐ルート)
山脈の真ん中を褒水に沿って通り、関中平 原を抜けた、五丈原に出る道 北伐ルート五本の道のイラスト地図
(4)故道(第2次北伐ルート)
褒斜道のさらに西を走り、散関を経て関中西の要衝である陳倉へ通じる道
(5)関山道(第1次、3次、4次北伐ルート)
山脈の最も北東を避けるように遠回りして天水郡に抜ける最も平坦な道

第1次北伐:228年、兵力:蜀軍5万〜6万 魏軍7万〜8万最初のうちは、うまくいっていたが、孔明の指示に背いた先鋒の馬謖が張?に撃破され、蜀軍は撤退する(街亭の戦い)。このルートは道が最もへいたんで。街亭は守りに適した土地で、孔明は街亭に長安・洛陽進撃の拠点としようとした。
1〜5次北伐示意図
第2次北伐:228年冬。兵力:蜀軍4万〜5万 魏軍1000人〜2000人。攻めあぐねているうちに食糧不足により撤退した。撤退時に追撃してきた王双を討ち取っている(陳倉の戦い)。

第3次北伐:229年春の第三次北伐、兵力:蜀軍4万〜5万 魏軍1万〜2万。陳式が武都・陰平を攻め、孔明が魏の郭淮を防ぎ、武都・陰平の両郡を平定した。

第4次北伐:231年春2月、兵力:蜀軍6万〜7万 魏軍8万〜10万。祁山を包囲し、援軍に来た張?・司馬懿を撃退するが、同年夏6月に食料不足により撤退する。撤退時に追撃してきた張?を討ち取っている。

孔明が病をおして北伐出兵のTV写真第5次北伐:234年春2月、兵力:蜀軍7万〜8万 魏軍10万〜15万。第五次北伐は屯田を行い長期戦に持ち込むが、同年秋8月に諸葛亮は陣中で病没した(五丈原の戦い)。 この頃、積年の過労から、病に冒されていたが、最期の決戦に出る。 前準備として、険しい山越えのルートであるため、連綿と続く崖に桟道を作り、物資輸送の効率を図るため木牛流馬を考案し、五丈原には屯田兵を配置し、食料の自給を目指した。


蜀の桟道跡の写真桟道復元の写真
桟道復元の写真
孔明の発明品を書いた蜀書の写真木牛流馬で食糧運搬するTV写真
五丈原麓の開墾の様子のTV写真諸葛田の写真

4−2 孔明の奇策
「演義」で孔明は、6年間・5次にわたる北伐で、いろいろな奇策を用い、魏軍を破るが、それらは「演義」の創作で、戦況を左右したものではなかった。 孔明の用いたという奇策のうち、日本でもよく知られている「空城の計」と「死せる孔明、生ける仲達を走らす」に触れる。

空城の計準備のTV写真*空城の計
「演義」で、街亭の戦いで敗れ、撤退するに際し、孔明の司令部を護る兵員が寡兵で、魏軍の攻撃に耐えられそうになかった。そこで孔明は一計を案じ、城に引きこもって城内を掃き清め、城門を開け放ち、兵士たちを隠して自らは一人楼台に上って琴を奏でて魏軍を招き入れるかのような仕草をした。魏の仲達は孔明の奇策を恐れてあえて兵士に城内に踏み込ませなかったという(正史では、漢中争奪戦の際、蜀の将軍・趙雲が空城計を使って曹操を撤退させた)。 正史「三国志」の孔明評による空城の計のTV写真と、孔明は「演義」の話とは逆に奇策を殆ど用いない人で、仲達との対戦において「空城の計」は用いていない。この「空城の計」は正史では、漢中争奪戦の際、蜀の将軍・趙雲が空城計を使って曹操を撤退させたとある。孔明の作戦に関する「演義」の創作の典型的な例であろう。 ただし、「空城の計」自体は必ずしも非現実的で荒唐無稽な作戦ではない。徳川家康が三方ヶ原の戦いで武田信玄の軍と戦った際に「空城の計」を使ったという記録がある。

*五丈原からの撤退
234年、魏の名将・仲達との五丈原における数ヶ月に及ぶ対陣中,孔明は倒れる。そして,整然と退却するように言い残して,この不世出の軍師は,この世を去った。しかし,その退却の整然とした有様から,孔明の策略を畏れた仲達は,これを追うことをしなかった。これを「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の故事となる。 蜀漢軍が退却したのち、司馬懿はその陣跡を見、「諸葛亮は天下の奇才だ」と漏らしたという。ある将が仲達にこの「死せる孔明」の話を報告すると、仲達は「生者を相手にすることはできるが、死者を相手にするのは苦手だ」と笑ったという。

5 巨星落つ
「演義」では、病状が悪化した孔明は幕内に祭壇を築いて寿命を延ばす祈祷を行うが、唐突に幕内に入ってきた魏延がこの祭壇を壊してしまったために祈祷に失敗し、死去するとあり、孔明の死の時に大きな流星があり、司馬懿はこれを見て諸葛亮の死んだ事を悟る。 孔明:享年54歳。
孔明の死を告げる流星のTV写真孔明死すのTV写真
五丈原武候祠の写真武候墓の写真
6 孔明の評価
孔明は天才政治家、軍師であった。夷陵の戦いで、蜀は瀕死の状態であったが、孔明は塩鉄専売制や蜀錦などの殖産興業を行い、まず、経済から建て直し、次に呉との外交関係を修復した(二正面攻撃の復活)。 正史「三国志」の著者・陳寿は、「臨機応変の軍略は得意でなかったのではないか」と疑問を投げかけているが、孔明が数で圧倒的に勝る魏軍を相手に、さしたる損害もなく「勝てずとも負けない戦い」を数年にわたって展開し(北伐最大の損害は馬謖の出した3,000前後の損害であり、大将級が討ち取られたこともない)、退却時にも王双や対蜀戦線のナンバーツーの名将・張?を討っている。電光石火の急襲を得意とする司馬仲達ですら、守りに徹する戦術を余儀なくさせている(敵の司馬仲達からも「天下の奇才」と最大限に評価されている)。

7 蜀の泣所
劉備・孔明は蜀にとってよそ者(侵略者)ということもあるが、劉備の後を嗣いだ劉禅は凡庸な人物であり、その上国を治めるべき人材、国を護る武将が少なかった。魏、呉に比べて後嗣、人材において死後の後継者を訪ねるTV写真極端に見劣りする。蜀においては人材が育たなかった、このことは孔明の最大の欠点というべきであろう。 永年、早朝から深夜まで政務を見,鞭打ち20以上の刑はすべて目を通し,食事はほんの少量しか喉に通らなかったという。 孔明の危篤を聞き、成都の劉禅が見舞いをよこすが、見舞いの使者が「孔明亡き後誰を丞相とすべきか」、孔明「○○」、「○○が死んだらその後は誰に」、「△△」、「△△」のあとは・・・」などと果てしなくつづいたと「演義」にある。 孔明には意外と人事という最重要任務において失策が目立つ。それは、1、街亭の戦いでの馬謖の起用、2、魏延の軽視、3、魏延と楊儀との不仲の仲裁をしなかった、4、李厳の扱い方の失敗、などなどである。 かつて劉備は孔明に折に触れ、1、魏延を能力を高く評価しており、魏延を重視するように、2、逆に馬謖を軽視しており、馬謖には重要な任務を任せないように、している。

馬謖の育成のTV写真 8 孔明最大の人事錯誤
第一次北伐で、孔明の奇襲ともいうべき攻撃により、安定・南安・天水の三郡を落とし、長安までも望める状況を得た。しかし、先鋒の馬謖の失敗により、この最大のチャンスは潰えてしまった。 三郡の平定の事態を危惧した魏帝・曹叡は、張?を派遣し、三郡の奪回を命じた。これに対し、孔明は参軍の馬謖を抜擢して、蜀の進軍の拠点となる街亭の守備に任命し、魏の襲撃に備えさせた。 馬謖は軍を率いて街亭に布陣したが、諸葛亮の指示に背き、行動は妥当性を欠いていた。さらに馬謖が命に背くの図馬謖は副将王平の再三の諌めを聞かず、水路を捨てて山上に陣を構えた。 街亭に到着した張?は、まず蜀軍の水をくむ道を断ち、水を断たれた蜀軍の士気が下がると攻撃をしかけ、これを大いに打ち破った。蜀軍の大半は潰走した。 孔明は街亭の敗戦により進軍の拠点を失ったことを知ると、即時全軍を撤退させた。 関中に撤退した孔明は軍議で馬謖に死刑を宣告する。これが「泣いて馬謖を斬る」の故事である。


馬謖山上に陣を敷くの図水不足を招くの図
馬謖処断の図泣いて馬謖を切るの図

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