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NPO法人神田雑学大学定例講座 2013年6月28日No653  


講義名 アメリカのオレンジ計画



講師の鈴木荘一さん
 
歴史研究家

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講師紹介

講師プロフィール

日本征服を狙った
アメリカの「オレンジ計画 

オレンジ計画の背景

露開戦の7年前にセオドア・ルーズベルト海軍次官が
「オレンジ計画」を策定

セオドア・ルーズベルトとマハンの実像

セオドア・ルーズベルトとマハンがアメリカ海軍強化を推進

「1906年版オレンジ計画」 日露戦争直後

サンフランシスコ日本人学童隔離問題

「1907年版オレンジ計画」とアメリカ艦隊の太平洋巡航

「1911年版オレンジ計画」第一次世界大戦の3年前

「1914年版オレンジ計画」日本人移民排斥運動と連結

「F.ルーズベルトが「1914年版オレンジ計画」を実戦的軍事計画へバージョン・アップ

オレンジ計画」は第一次世界大戦で最大の矛盾の直面

日本は第一次世界大戦で日英同盟に基づき英米陣営の参加

マハンが黄禍論(おうかろん)を梃子(てこ)に
日英同盟破棄を働きかけていた

1923年版オレンジ計画」オレンジ計画はほぼ完成

「オレンジ計画」のほぼ休眠
 1924年〜1933年

フランクリン・ルーズベルト大統領が
「1936年版オレンジ計画」を策定

「オレンジ計画」への懐疑 1937年〜1940年

合衆国艦隊司令長官リチャードソン大将は、
太平洋戦争を回避しようとした 

F.ルーズベルトが「オレンジ計画」を断行
1941年(昭和16年)





講師紹介(吉田源司 NPO法人神田雑学大学 統括理事)

本日、お招きしました鈴木荘一講師は、その著書『アメリカの「オレンジ計画」と大正天皇』で、アメリカは、太平洋制覇を狙って、 日露戦争の7年前、つまり太平洋戦争の44年も前に、軍事作戦として「オレンジ計画」を策定し、日本占領を狙っていたと述べています。

「オレンジ計画」とは、セオドア・ルーズベルト海軍次官が1897年に策定した日本征服計画で、 甥のフランクリン・ルーズベルト大統領が、ついに昭和16年に「オレンジ計画」を発動し、日米は太平洋戦争に突入したといいます。

この間、大正天皇の支持を得た大隈重信内閣が、日英同盟に基づいて、アメリカの友軍として第一次世界大戦に参戦、 「オレンジ計画」を空洞化させました。しかし、原敬内閣と高橋是清内閣が、日英同盟を破棄し、日本は国際的に孤立します。

鈴木講師は、この「オレンジ計画」は、決して過去のものではない、現在も進行中であり、平安で強固な国家をつくりあげるためにも、 早急に東京裁判史観から脱却を国民総意のもとで行なう必要がある、と強く訴えられています。

温故知新といいますけれど、旧きをたずねて新しきを知るということで、今日は、 アメリカの「オレンジ計画」とはいったいどういうものなのか? 明治期から日本を仮想敵国として、 周到に策を練ってきたアメリカの軍事計画ついて、じっくりお話をうかがいたいと思います。では、よろしくお願いいたします。

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講師の鈴木荘一さん

●講師プロフィール

昭和23年生まれ。昭和46年東京大学経済学部卒業。日本興業銀行入行。審査、産業調査、融資、資金業務などに携わる。とくに企業審査、経済・産業調査に詳しく、的確な分析力には定評がある。平成13年日本興業銀行退職。「幕末史を見直す会」代表。「現在は過去の歴史の延長線上にある」との立場から、現代政治経済と歴史の融合的な研究を進めている在野の歴史研究家。





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●日本征服を狙ったアメリカの「オレンジ計画

ただいまご紹介いただいたように、「オレンジ計画とは、セオドア・ルーズベルト海軍次官が1897年に策定した日本征服計画で、 フランクリン・ルーズベルト大統領が1941年に発動する。この間、大正天皇の支持を得た大隈重信内閣が、日英同盟に基づき、 アメリカの友軍として第一次世界大戦に参戦、「オレンジ計画を空洞化させた。しかし、原敬内閣・高橋是清内閣が日英同盟を破棄し、 日本は国際的孤立に陥る。大正天皇の英米協調主義・皇室民主化は、地下水脈となり、戦後に花開く。

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1 オレンジ計画の背景

戦死者88000人、戦傷者38万人という日露戦争の傷跡に苦しむ日本に対し、アメリカの新聞は「日系ハワイ移民排斥論」を、 ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世は「黄禍論」をそれぞれぶつけて、日本を圧迫した。

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2 日露開戦の7年前にセオドア・ルーズベルト海軍次官が
「オレンジ計画」を策定

「オレンジ計画」は、セオドア・ルーズベルト海軍次官が、ハワイ併合の前年に策定した 「太平洋制覇のための19世紀的日本征服計画」で、その後、海軍の研究スタッフよって、精度の高いものに増補・改訂され、 甥のフランクリン・ルーズベルト大統領が、「開戦の口実」を得て、1941年に発動した。

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3 セオドア・ルーズベルトとマハンの実像

セオドア・ルーズベルトの「表の顔」は、日本にあこがれた親日家だったが、「裏の顔」は、 日本を軍事征服するための「オレンジ計画」を策定した「アングロ・サクソン至上主義の帝国主義的侵略者」だった。

ルーズベルトの指南役として、「オレンジ計画」策定に強い影響力を及ぼした海軍大学二代校長フルフレッド・マハン海軍大佐は、 アメリカ海軍にとって「偉大なる栄光の人物」であり、日本にとっては「最悪の疫病神」というべき人物である。

セオドア・ルーズベルトの片腕、マハンは、「日本の実情を自分の目で見たい」と、軍艦「イロコイ号」で1987年12月に長崎へ来航する。 数ヶ月の滞在で見聞したものは、幕末の「ええじゃないか騒ぎ」と「神戸事件」と「堺事件」と「イギリス公使パークス暗殺未遂事件」という、 大混乱の日本の様子だった。そこで、マハン少佐は、「日本に対する軽蔑」と「イギリスに対する尊敬」を感じて、 「日本人排斥の黄禍論」と「アメリカの太平洋制覇」の強硬な主張者となる。このマハンとセオドア・ルーズベルト とF.ルーズベルトを私は「日本征服を狙ったアメリカの三人男」と呼んでいる。

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4 セオドア・ルーズベルトとマハンがアメリカ海軍強化を推進

1890年にマハン少佐が発表した『歴史に及ぼす海軍力の影響』は、セオドア・ルーズベルトをはじめ、 共和・民主両党の超党派的共感を呼び、「鋼鉄製・蒸気推進」の軍艦が建造されて、米西戦争(1898年)に勝ったのである。

アメリカ海軍は、1898年は世界第6位だったが、セオドア・ルーズベルト大統領の尽力により、1904年には、イギリスに次ぎ、世界第2位となった。

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5「1906年版オレンジ計画」 日露戦争直後

強大なロシア陸軍をアメリカは怖れていたが、そのロシア陸軍を、日本陸軍が、遼陽会戦・奉天会戦で打ち破ったことをセオドア・ルーズベルト大統領は、「喜びに堪えない」と率直な喜びを表明。日露講和を調停した。日露戦争が長引き、ロシアが大敗して、日本が「アジアの盟主」になっても困る、逆に日本が「補給面の弱さ」を露呈して敗北し、ロシアが日本列島を占領して太平洋へ進出すれば、アメリカの「太平洋制覇」の支障となるからである。

日露戦争後、日本陸軍は、ロシアからの復讐戦に備えて二十五個師団を要求。日本海軍はアメリカからの脅威に備え、八・八艦隊を要求。山県有朋は、陸海軍の協働を願い、両者の要求を「帝国国防方針」に併記。

熱心に聞き入る聴講生の皆さん


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6 サンフランシスコ日本人学童隔離問題

日露戦争終戦の翌翌年の1907年、アメリカ西海岸で、激しい排日運動が起きた。歴史家の間では、「日露戦争直後の、この日本人排斥運動が日米関係に影を落とし、太平洋戦争の遠因となった」とする有力な説がある。

セオドア・ルーズベルト大統領は、「根深い人種問題が露呈し排日運動」により、「日米戦争」が語られるほど、「日米間の感情的対立」が深まった緊迫した事態について、のちに、「排日移民問題は、大統領任期中に直面した最も厄介な事件だった」と述べている。

セオドア・ルーズベルト大統領は、このとき、排日問題を争点とする対日戦争は考えてはいなかった。「オレンジ計画」を推進するセオドア・ルーズベルトが、このとき、「対日戦争」を避けた理由は、「アメリカ海軍の準備が不十分で、不用意に日本と開戦すれば、アメリカ海軍が日本海軍に負ける」かもしれなかった、からである。

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7「1907年版オレンジ計画」とアメリカ艦隊の太平洋巡航

セオドア・ルーズベルト大統領のもとで改訂された「1907年版オレンジ計画」は、「かつてバルチック艦隊が、ハルト海から苦難の航海を続けた末、疲労困憊のまま、日本海海戦で敗れ去った事例は、アメリカ海軍の暗い前途を予感させた」と述べた。

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8「1911年版オレンジ計画」 第一次世界大戦の3年前

1911年といえば、日本は、産業振興・貿易立国を目指す平和国家として、自立の道を歩んでいる真っ最中だった。ところが、「1911年版オレンジ計画」は、対日戦争の大義名分として、「日本は、現在の緩やかな経済的進出から、最終的には公然たる侵略に移るだろう。そうなれば、(アメリカとしては)門戸開放を確保するため、対日戦争が必要となる」と「勝手に決め付けた対日戦争の大義名分」を作ったのである。

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9「1914年版オレンジ計画」 日本人移民排斥運動と連結

「1914年版オレンジ計画」は、日本の現状について、「1914年まで、日本は太平洋諸島に軍事的関心を抱いたことはなく、 日本がミクロネシアに求めたのは『平和な通商』だった」と正直に述べ、対日攻撃の「大義名分」がないことを率直に認めた。 しかし、それでは、「対日戦争」を発動することはできない。

そこで、アメリカは、『黄禍論』により、日本人を侮辱し激昂させ挑発したうえ、アメリカ海軍荘懐疑が、1914年、「日本は、アメリカを西太平洋から駆逐する意図を有する。 日本人は貪欲かつ好戦的で自負心が強く、アメリカの力を軽蔑しているので、開戦の確立が高い」とのシナリオを作って、 「オレンジ作戦」の研究を続行させたのである。

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10 F.ルーズベルトが「1914年版オレンジ計画」を
講演をされている鈴木荘一さん 実戦的軍事計画へバージョン・アップ

F.ルーズベルトは、海軍次官2年めの1914年に「オレンジ計画」増補・改訂。「1914年版オレンジ計画」を、日本征服を目指す実践的軍事計画へバージョン・アップした。1913年頃からアメリカで吹き荒れた『黄禍論』と連結。これは、「平和を希求し戦意のない日本人」を激昂させ、日米開戦に引きずり込むための挑発でもあった。

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11「オレンジ計画」は第一次世界大戦で最大の矛盾の直面

ピンチに追い込まれた日本は、第一次世界大戦に際し、連合国軍側に立って参戦することによってピンチを脱し、「オレンジ計画」を空洞化させた。

アメリカが、「オレンジ計画」を発動することは、第一次世界大戦で連合国側に参戦し、イギリスを支援するアメリカが、日英同盟によって連合国陣営に属し、「アメリカの友軍であるはずの日本」を攻撃するという、「矛盾」を孕んでいた。

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12 日本は第一次世界大戦で日英同盟に基づき英米陣営の参加

第二次大隈内閣は、利郡の師団増設と海軍の増強を容認するとともに、「統帥権」を内閣に取り込んだ。さらに、日英同盟に基づいて、第一次世界大戦に参戦。財政再建を達成し、「オレンジ計画」を空洞化させた。

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13 マハンが黄禍論(おうかろん)を梃子(てこ)に
日英同盟破棄を働きかけていた

マハンの夢は、アメリカが「オレンジ計画」により、日本を征服して「太平洋の覇権」を確立し、アメリカが「イギリスと並ぶ超大国」になることだった。

この構想のため、マハンは、かなり早い段階から、イギリスに「日英同盟破棄」を働き掛けていた。とくに日露戦争で、新興国日本が、大ロシア帝国を打ち負かし、日本が「予想外の強国」に成長していることが明らかになると、マハンは日英同盟解消に本腰を入れた。

1907年、日本人移民問題について、イギリス海軍クラーク大佐に、「私は日本人移民を排除すべきと考えます。日本人移民を認めるくらいなら、私は明日にでも『日本との戦争』を選びます。しかし、その場合、『日英同盟』があるので、アメリカは貴国イギリスと敵対関係になります。『日英同盟』は、英米アングロ・サクソンの協調にとって有害です」と書簡を送っていた。

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14「1923年版オレンジ計画」オレンジ計画はほぼ完成

受講をしている皆さん 「1923年版オレンジ計画」は、「1911年版オレンジ計画」で定めた「対日戦争行程表」の「第三段階作戦」を具体化し、 「アメリカ海軍は、太平洋の日本領諸島を残らず攻略して日本を孤立させ、日本を取り囲む全海域を制圧し、 日本を『海上封鎖』する。アメリカ艦隊は、迅速に進撃して日本艦隊を東シナ海から追い払い、日本と台湾を結ぶ通商路を断ち、 日本とインド洋・マレーシアなど資源地帯を結ぶ『大動脈=シーレーン』を破断する。

フィリピンの日本陸軍は、地上戦で一掃し、台湾は海軍力と空軍力で制圧する。『沖縄』では、勝敗を決する水陸両用作戦を展開し、 激しい抵抗を抑えて『沖縄を占領』する。追い詰められた日本は、温存していた主力艦の出撃を余儀なくされるが、 日本とフィリピンの間で行なわれる大海戦で、アメリカ艦隊は、日本艦隊を壊滅させる。最後に、『日本本土に空襲』を行い、 圧力を加える。

日米戦争の終盤では日本の激しい抵抗が予想され、長期戦となり、アメリカ軍将兵の死傷者は、うなぎ登り増えるが、 日本が完全に疲弊して講和を求めてくるまで、『仮借なき包囲』を続ける!」と定めた。 こうして「オレンジ計画」は、細部の詰めを残して、1923年、ほぼ完成した。

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15「オレンジ計画」のほぼ休眠 1924年〜1933年

その後、第30代大統領クーリッジ、第31代大統領フーバーとも「オレンジ計画」に興味を示さず、歴代の海軍作戦部長は、1924年から33年までの10年間、「オレンジ計画」に微調整を加えただけで、本格的な研究は沈滞した。

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16 フランクリン・ルーズベルト大統領が
「1936年版オレンジ計画」を策定

次にアメリカが、「オレンジ計画」に増補・改訂したのは、第32代大統領フランクリン・ルーズベルトの第一期目の1936年である。「オレンジ計画」の研究は、フランクリン・ルーズベルト大統領のもとで、再び活発に行なわれた。

フランクリン・ルーズベルトは、海軍次官としての立場から、「オレンジ計画」の本質が、「仮借なき包囲攻撃で日本を完膚なきまでに打ちのめし、日本に『無条件降伏』を強要して『アメリカの意志』を押し付ける、『19世紀的な古典的帝国主義』の実践」であることを十分に熟知していた。

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17「オレンジ計画」への懐疑 1937年〜1940年

1937年、アメリカ陸軍のなかでも、「オレンジ計画」に対する懐疑の念が生じた。そして、陸軍参謀本部次長エンピック准将は、フランクリン・ルーズベルト大統領に対し、「『オレンジ計画』は、アメリカの不幸を招く。『オレンジ計画』の極端な攻撃性は、アメリカの安全保障と両立せず、『アメリカ精神の真髄』に反する」と進言した。

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18 合衆国艦隊司令長官リチャードソン大将は、
太平洋戦争を回避しようとした

合衆国艦隊司令長官リチャードソン大将は、1940年10月、海軍作戦部長スターク大将に、「フランクリン・ルーズベルト大統領に対し、『対日戦争にはおびただしい負担が生じるが、得るべき利益は皆無だ』と、印象づけるよう」懇願。意を受けた海軍作戦部長スターク大将は、ルーズベルト大統領に、「対日戦争は限定的なものとすべき」と力説。大統領も一応了承した。

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19  F.ルーズベルトが「オレンジ計画」を断行 1941年(昭和16年)

「オレンジ計画」に消極的になったアメリカ海軍を叱咤し、「対日戦争=太平洋戦争」を積極的に推進したのは、 第32代大統領フランクリン・ルーズベルトである。フランクリン・ルーズベルトは、「アメリカ海軍の独裁者」であり、 表面は快活・磊落に振舞ったが、実際は逆で、「自分の考えを示さなくても、自分の希望を忖度して実現に働く者」を重用。 自分に諫言する者を許さず、酷薄で執念深かった。

太平洋戦争終結後、リチャードソンは、自伝『パール・ハーバーへの道』において、 「フランクリン・ルーズベルト大統領こそ、アメリカを太平洋戦争に誘い込んだ張本人である」 と厳しく告発している。

鈴木荘一さんの著書「アメリカのオレンジ計画と大正天皇」



講座・企画運営:吉田源司
テキスト製作:吉田悦花
会場写真撮影:飯嶋重章
HTML制作:上野治子

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