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2013年8月2日神田雑学大学 定例講座No658

八重の桜
よみがえる川崎尚之助


           講師 あさくらゆう(歴史研究家)
           特別参加 川崎 修(出石藩川崎家子孫)



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 講師紹介 
 第一部 あさくら ゆう氏
 第二部 川崎 修氏


講師紹介 吉田源司(統括理事)講師紹介の写真
私が、本日の「八重の桜 よみがえる川崎尚之助」
という講座を企画するきっかけとなったのは、朝日新聞でひとつの記事を見つけたことでした。NHK大河ドラマ「八重の桜」に登場する八重の最初の夫である川崎尚之助の生涯が初めて明らかになった、という新聞記事を見て強く興味をひかれて、すぐ切り抜きました。

『川崎尚之助と八重』という単行本が出版されていることを知り、千代田区神田神保町にある版元の知道出版をさっそくお訪ねしたところ、社長さんからくわしい出版の経緯をうかがうことができました。

川崎尚之助は、但馬・出石藩から会津藩士となり、山本覚馬と出会い、八重と結婚します。やがて会津戦争となり、敗戦、離別。その後は苦難と悲劇の連続でした。「会津藩と八重のために、激しく、一途に生きた男が歴史の闇から蘇った」と記した『川崎尚之助と八重』の著者である「あさくらゆう」さんに、NPO法人神田雑学大学でお話していただくことになりました。さらに、川崎尚之助の子孫である川崎修さんも特別参加としてお出でいただきました。

私は、個人的に出石には浅からぬご縁がありまして、何度も足を運んでいます。私は「江戸ソバリエ」でもありますけれども、出石の方より、毎年、年末に出石そばを送っていただいております。そのおかげで、わが家の年越しそばは、出石そばなのです。その出石出身の川崎尚之助の講座を主催して、ご子孫をお迎えするというのは、とてもうれしく、不思議なご縁を感じます。

ということで、第1部はあさくらさん、第2部は川崎さんに、それぞれ語っていただきます。では、よろしくお願いいたします。

第1部 「八重の桜 よみがえる川崎尚之助」
第1部 あさくら ゆう氏
 講師プロフィール
 1 「八重の桜」の尚之助は大きくイメージアップした
 2 川崎尚之助とはどんな人物か
 3 会津戦争
 4 斗南藩(会津藩)と川崎尚之助の悲劇

講師プロフィールあさくら ゆう講師東京都台東区生まれ。おもに幕末維新期の人物史をテーマに研究・執筆。その成果が新聞各紙に掲載され、2004年に首相官邸に招聘される。おもな著書として、『新選組読本隊外伝』(玉造観光協会)『慶応四年新撰組近藤勇始末』『慶応四年新撰組隊士伝』(各崙書房)。執筆、及び編集協力の『新島八重を歩く』(潮書房光人社)『川崎尚之助と八重』(知道出版などがある
                        
1 「八重の桜」の尚之助は大きくイメージアップした
2011年6月、2013年の大河ドラマに「八重の桜」が決まりました。その時点では川崎尚之助の資料はありませんでした。

川崎尚之助といえば、1981年頃に日本テレビが制作したテレビドラマ「白虎隊」(年末時代劇スペシャル)です。元キャンディーズの田中好子さんが演じた山本八重子と田中健さんが演じた川崎尚之助の1シーンが思い出されます。

ちなみにこのとき、八重は八重子で川崎尚之助は「なおのすけ」と呼ばれていました。鶴ヶ城を包囲する新政府軍(薩摩軍)に対し、8月23日の夜、二人は忍者のような姿で夜襲をかけますが、いつまでもゲリラ戦で鉄砲を撃ちまくる八重を尚之助が、「そんなことをしても無駄なので止めなさいと」と諌めた時、「あなたは他藩の人だからそんなことがいえるのよ……出て行きなさい」と鉄砲を突き付けて、尚之助を追い出したシーンが印象付けられました。

このシーンのため、以後、尚之助は逃げた男という良くないイメージがついてしまいました。
何もなかったら、今回の「八重の桜」でも同じことになったでしょうが、NHKのシナリオは大きく変わりました。

その原因の一つは、川崎尚之助について、私の調査記事が新聞報道され、また知道出版で『川崎尚之助と八重』を出版してくれたおかげです。そしてもう一つは、豊岡市の圧力、プロデューサーに対する中貝市長じきじきの陳情、NHK「ステラ」への宣伝掲載と特別版の製作、そして、NHK出版の「八重の桜ストーリーブック」への広告などのおかげかと思います。おかげさまで、尚之助は逃げた男ではなく、『川崎尚之助と八重』の内容に沿ったものになりました。

「八重の桜」ですが、川崎尚之助の家紋について、NHKの美術部から豊岡市へ問い合わせがあり、最終的に私が回答しました。その家紋は結婚式の紋付にちゃんと描かれてありました。

9月1日の「八重の桜紀行」(この日に尚之助が死亡する。それに合わせて故郷の兵庫県豊岡市出石町が紹介される)の資料協力もいたしました。

2 川崎尚之助とはどんな人物か

川崎尚之助は1836年(天保7年)に出石藩士・川崎才兵衛の子として生まれました。天保時代は、文化文政の時代のあとで、天保13年頃からは奢侈(しゃし)禁止・質素倹約の時代になりました。
講演の写真
このころ、日本をとりまく情勢として1800年頃から外国船が日本に交易を求めるために何度も日本を訪れました。そのため、幕府・諸藩は国防から大砲の必要性を感じていました。

日本の大砲は和砲大砲で、弾は単なる鉄の玉です。当たらなければ何にも威力もありません。点火方法も、火皿に乗せてある火薬に火をつける方式で、雨が降っていると発射できません。西洋式の大砲は信管がついていて、破裂して威力を発揮しまる。マッチのように点火するので、雨が降っていても発射できます。

天保年間、日本の砲術は進化を続けました。1841年(天保12年)には、高島秋帆(しゅうはん)が武蔵国徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)で、日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行ないました。高島平の地名はここからきています。

さて、川崎家は1780年代から藩士扱いの家格でしたが、明治9年の出石大火で家も丸焼けになり、あまり史料が残っておりません。

この時代、出石藩は財政再建を巡って、産業奨励派と質素倹約派の両派が対立していました。
いわゆる仙石騒動の始まりです。当初は産業奨励派が主導権を握っていましたが、いろいろな事件があり、遂には将軍家の怒りを買って産業奨励派の家老が打ち首獄門になりました。    
川崎家は反対派閥の質素倹約派にいました。京都にネットワークを持っていたのです。しかし、その後、再び産業奨励派が盛り返し、質素倹約派に対する処分が始まりました。川崎家も処分され、優秀だった故に苗字も名乗れない足軽まで落とされました。そのため、以後、川崎家の名前は藩の記録から消えてしまいました。

その後、再度、質素倹約派閥が盛り返しましたが、川崎家はどういうわけか元の身分に復活できませんでした。考えられる理由は、家老になった人と折り合いが良くなかったことです。

川崎才兵衛(二代目)は有能でしたので、個人的に嫉妬をされたのかも知れません。こうして尚之助が8歳の時に才兵衛は強制隠居させられる。兄(三代目才兵衛)は家督を継ぎ、二男以下は京都に出し、それぞれ医者や、商売をさせました。藩士の二男以下は養子にいくか、仕官ができないかぎり、一生哀れな家住で終わってしまいます。

尚之助は特に頭が良かったので、砲術などを勉強して、どこかの藩に士官できたらとの考えで、嘉永7年(1854年)頃、江戸にやりました。江戸で尚之助は、坪井芳州の塾で学びました。坪井芳州は医者であり、後に薩摩藩に仕官して島津斉彬、篤姫のお父さん、斉彬の死亡診断書を書いたことで有名です。

坪井塾は蘭学の塾ですが、洋学(医学に限らずドイツ、イギリス、等から入ってくる砲術、語学等幅広い学問)の本もたくさんありました。尚之助はそこで勉強して、語学・砲術を極めたのではないか。

八重の桜では尚之助は佐久間象山の塾にいたことになっているが、そこにはいなかった。山本覚馬は佐久間象山の塾にいて、象山の塾が閉鎖された後、坪井塾に移ってきて、そこで尚之助に会っている。佐久間象山は黒船騒ぎの時、密航を企てた吉田松陰を支援したとして松代藩に幽閉され、塾生たちは放り出された。

安政4年(1857年)、再度覚馬は再度、江戸に出て、会津藩の蘭学所を作った。それまで会津藩は御三家のひとつ紀州藩の蘭方医・華岡青洲に、何人もの藩士を送り込んでいた。

安政6年には会津若松に蘭学所を作って、川崎尚之助を呼び寄せ、西洋砲術教師として4口棒で雇った。大変安い報酬であったが、山本家で食・住は足りていたので、生活には困らなかった。

和の砲術家など抵抗勢力が多く、万延元年(1860年)、蘭学所から砲術部門を分離したが、尚之助は放逐されずにそのまま残った。会津藩は房総・お台場で警備を請け負っていたため、西洋砲術の重要性は分かっていたし、川崎尚之助の人柄も良かったのであろう。尚之助は後に大砲方頭取に出世、八重と結婚して会津藩士となる。

3 会津戦争講演の写真文久2年(1862年)に会津藩は京都守護職になった。京都の治安は悪くなったが、京都町奉行も京都所司代も、力が低下し、もはや京都の治安を維持できなくなった。幕府は治安維持を図るため、会津藩主・松平容保を京都守護職に任命した。会津藩が選ばれたのは、京都守護職は5,000石以上の旗本が務める京都町奉行、譜代大名が務める京都所司代を上回る家格・御親藩(松平の姓)の雄藩であることが必要だったことと、同じ御親藩の雄藩の越前藩は、前藩主の松平春嶽がすでに政治総裁職になっていたため(両方をさせるわけにはいかない)であった。

元治元年(1864年)、会津藩は禁門の変で長州藩と戦い、砲撃も交えた激しい戦いの末、長州藩を破り朝廷を守った。

大砲を駆使する戦いが増加するため、大砲方頭取の川崎尚之助の上洛を要請する手紙を送ったが、尚之助は会津藩士ではないのでとの理由で実現しなかった。このこともあり、慶応元年(1865年)、尚之助と八重は結婚した。

慶応2年(1866年)、京都では、孝明天皇が崩御、次の天皇は反幕府側が擁立する後の明治天皇が即位、結果的に討幕派の急先鋒の長州藩が盛り返した。

慶応3年(1867年)、追い詰められた幕府・徳川慶喜は大政奉還をするが、慶応4年(1868年)、鳥羽伏見の戦いが勃発し、2、000人ながらも武器に優る薩摩・長州連合軍藩は12,000人の旧幕府軍を打ち破った。

特に、会津藩の佐川官兵衛は鉄砲よりも槍と刀を信奉する人で、結果的に大勢の藩士が戦死した。会津藩127人はたった27名になった。

錦の御旗も登場し、倒幕軍は新政府軍となり、徳川は賊軍とされ、徳川慶喜は内戦になったら外国につけこまれるとして、主戦派の会津藩や桑名藩主を無理やり江戸に連れて帰った。新政府軍は錦の御旗を押し立てて、東進して江戸へ入った。

会津藩は賊軍とされないよう嘆願したが、藩士の様々な抵抗が発覚し、新政府軍は会津討伐命令を出した。仙台藩に仲介を頼んだが、派遣された新政府軍参謀の世良修蔵が藩主をもばかにするような振る舞いをしたので、仙台藩士たちが暗殺してしまった。それを機に新政府軍との間で全面的な戦争が始まった。

西郷頼母が白河城を占領し、その後、奥羽越列藩同盟も成立したが、現実は戦える力はなかった。同盟軍は、人数は多くてもほとんどが旧式の武器で、最新式の武器を装備した新政府軍の敵ではなかった。1発撃つのに早くても30秒かかる火縄銃と7連発の戦いである。
火縄銃は弾込めの時に銃を立てなければならない、その時に狙われてしまう。

5月1日、白河口の戦いでは、同盟軍2,000人に対し新政府軍700の戦いであったが、同盟軍が700人の死者を出したのに対し、新政府軍の死者はたったの10人であった。

そして、二本松城も陥落、石筵(むしろ)口の戦い(母成峠の戦い)を制した新政府軍は会津若松に侵入した。

この間、川崎尚之助は会津城(鶴ヶ城)にいて、ゲベール銃(射程100m)やミニエー銃(射程300m)の砲術指導をしていた。

23日早朝の6時30分に敵が攻めてきた時に鳴らす早鐘がなり、会津軍は応戦しつつ会津城下に逃げ込んだが、雨のため火縄銃が使えず、大勢の人が死んだ。しかし、会津城に立てこもっての戦いでは、射程が100mしかないとはいえ、火縄銃が使えたので、新政府軍も容易に城に近づけなかった。城には初代会津藩主の蒲生氏郷が作った塀があり、雨をよける庇もあった。

新政府軍の大山弥助(後の大山巌元帥)は、大砲で攻撃すべく、狙うのに最適な距離(砲弾は山なりの軌跡を描く)・城まで500mのところで砲撃準備を始めた。

スペンサー銃(射程距離700m)をもった八重は、狙い撃ちして、大山の足に命中させた。おかげでその日は大砲の攻撃を受けなかった。500mもの距離だが、昔の人の視力は3.0くらいあったので十分狙えた。

八重の持っていた弾は100発しかなく、弾が切れたあとは、ゲベールで戦った。いろいろと危険なことをするので、その後、八重は飯炊きや介護の仕事に回された。

新政府軍は占領した小田山の陣地から鶴ヶ城を狙い撃ちした。9月14日、敵は総攻撃をかけてきた。敵に届く射程距離の大砲は1台しかない。残り弾が2発となった時、尚之助は自ら大砲を操作して小田山をめがけて発射した。見事命中! そして場所を変えて2発目を発射。これも見事命中!しばらくの間、敵の砲撃が止んだ。

大砲を発射すると敵に自分の位置を分からせてしまうので、発射するとすぐに移動しなければならず、また発射熱で砲身の状態も変わるので、1発撃つごとに狙う角度の計算のし直しをしなければならない。尚之助は数学の天才だった。しかし、もう戦える状況ではなかった。秋月悌次郎が米沢藩を通じて降伏を願い出た。

ドラマでは対応した新政府軍の土佐藩士に足蹴にされるシーンがあるが、実際は長州藩に願い出ている。当初、長州藩士足蹴にされるシナリオであったが、山口県からクレームが入ったので土佐藩に変えたようである。

会津藩は9月22日降伏し、藩士たちは9月24日、猪苗代へ連行された。女子供は喜多方に避難所へ移された。

4 斗南藩(会津藩)と川崎尚之助の悲劇
明治2年1月28日、藩士は謹慎のため東京へ連行された。

新政府はいつまでも藩士たちを養うわけにはいかないので、当初、北海道の開拓に行かせようとした。困難を顧みず北海道に移住した人は結果的に幸運だった。

次に、残った藩士たちは召し上げた南部藩領を斗南藩として移住させた。会津藩は重税を課していたので、地元民から憎まれていて会津にはあまり戻れなかった。斗南藩は南の五戸と
北の下北に分かれており、それぞれ移住して行った。五戸に行った人はまだ幸せだったが、下北に行った人は悲惨な状態になった。

斗南藩は必要だとして有能な川崎尚之助を斗南に一緒に連れて行った。尚之助は明治3年東京から会津若松に寄って、陸路で10月野辺地斗南に移動した。斗南(下北)は米など取れそうもない不毛の地であった。

斗南藩は尚之助を産物係として、藩士柴太一郎と共に函館に派遣した。尚之助は藩の人々の飢え死にを回避するために米の調達を決断し、豆と米の先物取引を計画した。斗南でも豆なら獲れるであろうとの算段であった。

デンマーク人デュースと取引は成立した。しかし期限になっても米が届かない。原因は
仲間と頼んだ米座が自分の借金の穴埋めに米を受け取る手形を持逃げしてしまったことであった。手形を取り戻すべく奔走したが、手形はまわりまわって外国人の手に渡ってしまった。

手形の期限が来た時に豆も渡せなかった(豆すらも出来なかった)デュースから明治4年の4月に詐欺罪で訴えられた。

その後手形を買った外国人との裁判で尚之助は勝って、米座も逮捕され、手形は戻ったが
換金しても、返済できるお金には程遠かった。米は古米になった上、明治4年は米が豊作であったため、換金しても返金すべきお金3000両の1/3しかならなかったのである。

斗南藩は尚之助たちに自分たちでやったことにしてくれと要請した。斗南藩がかかわったことになると、膨大な損害賠償金の支払いで破産してしまうのである。

明治5年の供述調書で尚之助は「飢餓傍観できず、自分一人の判断でやったこと」との供述をしている。また、先日発見した明治6年の供述調書では、私には全額払えないので残りは手形を返さなかったイギリス商人に払ってもらって下さいと記述している。そして、「この度尚之助申し上げ候。私儀。家族これなく独身にて……」と表しており、八重を川崎家の戸籍に入れていない。

八重は明治6年時点では、川崎尚之助の妻のつもりだった。覚馬は尚之助の事件を知っていたと思われる。行方不明なのであきらめろと八重を山本家に復籍をさせた。

東京での軟禁生活、尚之助は無禄になってしまっていたので、裁判所からのお金で最低限度の生活を送っていた。明治8年2月、体も弱って、東大病院に入院、3月20日に慢性肺炎で死亡した。

裁判は、尚之助は死亡したので不起訴、明治9年12月、太一郎禁固100日、米座は禁固2.5年、裁判は明治27年まで続いたが、デュースも亡くなったので全員死亡で裁判は終結した。

斗南藩は罪をかぶらなかったので、明治9年まで新政府からおかげで御救い米をもらうことができた。斗南藩は尚之助を見殺しにしたことを知られたくなかったので、尚之助のことは秘密とされてきた。

今回の調査で尚之助の真実が判明し、NHKもそのことをしっかり描いてくれた。入院した東大病院には尚之助を知る人がいたので、郷里に連絡され、実家が墓を建ててくれた。

尚之助はよみがえった。決して逃げた男ではない、斗南藩と八重のため、一途に生きた男であることが判明し、その名誉も回復されたと思う。吉田源司の写真
講演の写真


第2部 「八重の桜 よみがえる川崎尚之助」川崎 修(写真による解説)

 第二部 川崎 修氏 
 講師プロフィール  
 1 尚之助と私の関係
 2 川崎尚之助の発掘と皆さんに知っていただく活動
 3 生誕地出石(いずし)と生家跡
 4 会津若松
 5 斗南(となみ)藩
 6 川崎尚之助の墓跡の発掘
 7 八重の墓


講師プロフィール川崎 修講師の写真出石藩川崎家直系子孫、
1949年、兵庫県香美町生まれ、東芝電機サービス(株)勤務、
東京兵庫県人会常任幹事





1 尚之助と私の関係

(出石藩川崎家の家系)
  
川崎家の家系図2 川崎尚之助の発掘と皆さんに知っていただく活動
歴史の闇に眠っていた川崎尚之助はあさくらゆう氏によって発掘された。足と粘りで調べた結果は新聞各紙に報道され、その集大成として知道出版より『川崎尚之助と八重』が出版された。同書は同志社新島研究会から評価され、栄えある新島論文賞を受賞した。また、兵庫県但馬地方の伝統ある香住鶴より純米酒尚之助も発売された。
下の写真は、香住鶴が発売した純米酒「尚之助」、単行本『川崎尚之助と八重』、同志社でのあさくらゆう氏の受賞記念講演の模様である。
純米酒「尚之助」の写真 単行本『川崎尚之助と八重』 同志社でのあさくらゆう氏の受賞記念講演の写真      
3 生誕地出石(いずし)と生家跡
出石は、兵庫県豊岡市にあるしっとりした町である。川崎尚之助はここで出石藩士・川崎才兵衛の子として生まれた。生家は明治9年の出石大火で焼失。その後、才兵衛の長男・渉一が建替えた建物が残っている。

写真は出石城から望む出石城下、出石のシンボル振鼓楼(時計台)、尚之助の生家跡(建替た家)、下段は、内部、裏庭、そして川崎家の菩提寺願成寺と門前に建てられた川崎尚之助の供養の碑。
出石城から望む出石城下の写真振鼓楼(時計台)の写真 尚之助の生家跡(建替た家)の写真    生家跡(建替た家)の内部 生家跡(建替た家)の裏庭の写真 菩提寺願成寺の写真供養の碑の写真 

4 会津若松
尚之助は江戸で洋学修行し山本覚馬に懇請され、会津若松に赴く。
写真は、小田山から望む会津城下、日新館正門、下段は大龍寺にある山本家の墓
小田山から望む会津城下の写真日新館正門の写真供養の碑    
     
5 斗南(となみ)藩
会津戦争で敗北した会津藩は、江戸での謹慎後、再興を許され斗南藩として下北の地へ向かう。しかし斗南藩は米も取れない不毛の地、地獄の始まりの土地であった。
写真は、会津藩士たちが上陸した現在のむつ市の港、大間にいらっしゃる斗南藩の末裔との記念写真。
 
現在のむつ市の港の写真斗南藩の末裔との記念写真

6 川崎尚之助の墓跡の発掘
尚之助の遺品探しを目的として墓跡を掘った。
写真は、墓を掘った跡と、メンバーの皆さんそして、発掘された尚之助の印として埋葬された盃。
墓を掘った跡の写真発掘された尚之助の印として埋葬された盃の写真 

7 八重の墓
5月連休に、京都の南禅寺の裏山にある同志社墓地にお参りした。
写真は同志社のと山本八重の墓・
墓の入り口の写真 山本八重の墓の写真    


川崎 修氏講演中の写真川崎市講演中の写真

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 講座・企画運営  吉田源司
 テキスト製作  川崎 修
 会場写真撮影  川崎 修
 飯嶋重章
 HTML制作  飯嶋重章

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